Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

CHICAGO SYMPHONY ORCHESTRA (Sun, Jan 31, 2010)

2010-01-31 | 演奏会・リサイタル
今日は久々に連れと一緒にカーネギー・ホールです。
昨年聴いたシカゴ交響楽団(以下CSO)の演奏会で彼らをすっかり気に入ってしまった私は、
それ以来、ずっとうるさく、”来年、彼らがNYに来る時には、絶対一緒に観に行くのでよろしく。”と言い続けて、
チケットが発売されるやいなや、勝手に2枚購入し、
半年前くらいから、この日は絶対に開けておくように!との通達を出しておいたのが、とうとう実現することになりました。

私はオペラを好きになったことから芋づる式に交響曲系のオケも時々聴くようになっていったという経緯を辿っているので、
年数にしても、公演の数にしても、いわゆるクラシックのコンサートというものを、
そんなにたくさん鑑賞して来たわけではないのです。
逆に連れの方は私とルートが逆で、”ずっと”若かった頃(と、”ずっと”を付けないと、
今が若くないみたいではないか!と叱られる。)、
それこそ70年代くらいから、ヨーロッパ、そして、アメリカのオケの演奏会に通っていた時期ががあったようです。
そんな彼も、最近では、オケの演奏のクオリティの問題(上手い下手ではなく、わくわくさせられるかどうか、、という)
も含めたいくつかの理由から、私がこのように強制連行する時以外は興味を失っている状態なんですが、
今日のCSOの演奏会に強制連行したのは、ショルティ時代のCSOを生で聴いたことのある彼が、
今のCSOのサウンドをどのように感じるか、すごく興味があったからでもあります。

私の連れは日常生活では私の数万倍穏やかで優しい人なんですが、
こと音楽の話になると豹変する時があって(ここでのアラーニャへのコメント等)、
その彼が開演前にプレイビルを見ながら座席で浮かない顔をしているので、”どうしたの?”と聞くと、
”指揮がブーレーズだ、、、、。”



あれ?言っといたと思うんですけどね。半年前に。

”彼の指揮は音楽性に欠けるからやだ。”

(笑)あらららら、、、。
でも、『死者の家から』の予習のために見たDVDでの、マーラー室内管を率いた時の指揮は悪くなかったよ、と言うと、
”彼は昔、変てこりんな音楽を作っては、それが世界を席巻するだろう、と豪語してた。
「オペラ・ハウスを破壊せよ。」なんてことまで言ってた時期があったなあ。”
再び彼が繰り返す、そのブーレーズが言ったという、
"Destroy the opera house!"(もちろん、オリジナルはフランス語だったんでしょうけど、、。)のフレーズに、
パンクじゃあるまいし、、とつい笑ってしまう私なのでした。
ブーレーズの若気の至りの頃、、。

でも、既述の『死者の家から』では、それから年月が流れて、すっかり歳を食ったブーレーズ(2007年公演当時、82歳!)が、
そんな年齢を感じさせない、いや、もしかしたら、年齢を経たことでより研ぎ澄まされたのかもしれないテンションの高さと、
非常に細かいところに目線の届いた指揮を見せていて、
CSOは十分その二つを受けて立ってくれそうなオケなので、
連れの心配をよそに、私は、問題は、プログラムの一番初め、ブーレーズ自身作の『弦楽のための本』とやらを、
いかにサバイブするかだな、、とそちらに注意が向かってしまっていました。

そして、案の定、この作品、私にはとても辛かった。
You Tubeに、ブーレーズの指揮のもとで、ウィーン・フィルがこの作品を演奏している映像がありますが、




ウィーン・フィルくらいの音色そのものの美しさと、一人一人の技量があって、
ようやく、私には何とか興味を持って聴ける作品で、
そんな力のあるウィーン・フィルの奏者ですら浮かべている、眉間に皺のよった表情を見ているだけで、
こちらも同じ表情になって来ます。
それにたった10分そこらの作品ですが、多分、これより5秒長くなったら、
ウィーン・フィルが演奏するものでも痺れを切らしてしまうかもしれない私です。

それにしても、ブーレーズ、今回、CSOとは細かいところまでつめる時間がなかったか何かなんでしょうか?
音はきちんと鳴っているんですが、この曲の精神が上手く奏者に伝わっていなくて、
ウィーン・フィルの映像では音が空気の色をさっと変えるように感じる瞬間があるのに比べ、
CSOの演奏は、”鳴っているだけ”という感じを持ちます。
不思議なのは、昨年の演奏会であれほど魅力的に聴こえた弦セクションが、音色そのものまで精彩を欠いて聴こえる点です。

普段から、こういう曲って実際に演奏会で選択の余地なく聴かされるか、
もしくはそんな演奏会の予習として聴く以外に、わざわざ、
”今日はこれをCDで聴きたい。”なんてのりで、好んで聴く人なんているんでしょうか?と疑問を呈している私ですが、
上で紹介したYou Tubeのコメント欄を見るに、いるんですね。そういう人がやっぱり。

今日、ブーレーズとCSOの演奏を聴いていて、私がこの手の作品が苦手なのには、
人前で演奏され、聴いてもらうことの価値が何より先に来ているからなんじゃないかと思いました。
もちろん、どんな作曲家の作品だって、聴衆に聴いてもらうために書かれているんですが、
聴いてもらうことの前に、何か表現したいことがあって、それがきちんと伝わってくる作品だってたくさんあります。

その点、ブーレーズのこの作品は一言で言えば、私にはアカデミック過ぎるんだと思います。
簡単で、もしくは、欠陥があっても、観客の心をどきどきさせる音楽よりも、
”高度な音楽”として感心してもらうことの方に関心が向いているような印象を持ちます。
心でなく、頭で書いた音楽、というか、、、。
それと呼応するものを、今日のブーレーズの指揮する様子にも感じました。
音楽家というより、大学の先生が滔々と学術論を述べているような、そういう雰囲気の指揮なんです。
上で紹介したウィーン・フィルの演奏が成功しているのは、ブーレーズでなく、
一人一人の奏者が、学術論を音楽にする、という作業を成し遂げているからだと思います。
それは、裏を返すと、もしかしたら、CSOはそういうことが苦手で、
指揮者が指示するとおりにしか動けない、ということにもなるのかもしれませんが。

私の我慢が限界に達しそうになった時、その音楽は終了し、ほっとしました。
私の隣にすわっていたクラおたみたいなおじさんは、この作品が好きなのか(もしや、You Tubeにコメントしたのと同じ人?)、
大興奮で立ち上がって腕もちぎれんばかりの勢いで拍手していましたが、
その間に、私と私の連れが、”究極のマスターベーション(自己満足)音楽”と断罪していたと知ったら、
髪の毛をつかまれ、場外に放り出されていただろうことは間違いないと思います。

次のバルトークの作品もこんなかしら?と憂鬱になって、連れに聴いてみると、比べちゃいかん!という調子で、
”いや。バルトークはいい作曲家だし、『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』は、
上手く指揮・演奏されると、エモーショナルでもある作品だ。”とのこと。

そういえば、前日(土曜)の演奏会では、同じバルトークのオペラ、『青ひげ公の城』が取り上げられて、
本当はそちらに行きたかったのですが、スケジュールが上手く合わずにあきらめたのでした。
舞台で楽器のセッティングの変更が行われている間に、そのことを連れに話した後、
”で、この『2台のピアノと~』には、何かストーリーみたいなものがあるの?”と聞くと、
連れがわが意得たり、の表情で、力強く、”うん、ある。”
”あるところに侯爵だか、なんだか、金持ちの男がいてね、
この男が結婚するたびに相手の女性が姿を消し、彼は次々結婚していくんだよ。
何人かそんなことがあった後に、彼と新しく結婚した女性が先妻たちが殺されてとじこめられている部屋を見つけるんだ。”

『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』と銘打ちながら、そんなてんこ盛りで具体的なストーリーが、、、。
でも、ちょっと待てよ?それ、どっかで聞いたことのあるストーリーなんだけど、、。
あれ?それって『青ひげ』じゃないですか?

”そう。青ひげだよ。”

違うよー!!私は『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』にストーリーがあるか聞いているのよー!!!
ああ、もう本当に危なかった。
私が子供の頃、母に買ってもらった絵本で、青ひげの話を読んでいなかったら(あの絵本、こわかったなあ。)、
青ひげのストーリーを思い浮かべながら、『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』を聴いて、
?????となっているところでした。

その『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』ですが、今日のCSOの演奏にはいくつか問題点があったと思います。

まず、ソリストの問題。
ピアノはピエール・ローラン・エマールとタマラ・ステファノヴィッチ、
打楽器はシンシア・イエとヴァディム・カルピノスという、
それぞれの楽器でたまたま男性と女性というコンビネーションになっていて、
打楽器の2人はCSOの正団員で、イエは首席です。

私は、男性が女性を見下すのはもちろん、行き過ぎたフェミニズムも大嫌いで、
最もセクシストから離れた位置にいる人間だという自負がありますので、
これはたまたまな結果であることを強調しつつ言いますが、
今日のソリストは、両方の楽器で、女性の奏者に不満がありました。

まず、ピアノのステファノヴィッチですが、今日の彼女の演奏がとても退屈だったので、
CSOはソリストで経費をけちったのかと思いましたが、経歴を見ると優秀なオケと共演もたくさんしているようですし、
訳がわかりません。(別に色んなオケと共演をしているからといって、優れたピアニストとは限りませんが。)
逆に男性のピアニスト、エマールの方が、全体の作品を見渡しながら、音の受け渡しにも神経を配っていて、
音作りに余裕があり、ずっと好感を持ちました。

打楽器のイエ、彼女は遠目に見ている限り、かなり若そうなアジア系の女性で、
この人は音だけ聴いていたらいいのかもしれませんが、
自分が演奏した音の後、定位置に戻る時の動作に
きゃぴっとでも吹きだしをつけたくなるような変な癖があって、
これを見て私が何を思いだしたかというと、レヴァインのマスター・クラスで、”ます”を歌っていた彼女です。
レヴァインが、あの女の子に”かわいこぶらなくていいんです。”という言葉を放ったときは、
”きついなあ、、、、。”と思ったものですが、それは私の方に、
彼女はまだ勉強中の学生なんだし、、という割引する気持ちがあったからで、
イエのように、もう一人前の、それもCSOの首席奏者である奏者に対しては、
容赦なく同じ気持ちが湧いて来て、それであの時のレヴァインの気持ちがわかったというものです。

特に目の前でもう一人の奏者(カルピノス)が無心に音楽に打ち込んで、その結果としていい演奏をしているのを見ると、
もうちょっとなりふり構わなくなってほしい、、と思うのです。
何というのでしょう、、優秀な奏者かもしれませんが、まだ演奏に殻があるように感じます。

それから二つめの問題は、またブーレーズの指揮です。
連れは、”上手く指揮・演奏されると、エモーショナルですらある作品”と言ったけれど、私はもう退屈で退屈で、
斜め前の座席の女の子が音楽専攻なのか、この作品のスコアを持ち込んで鑑賞しているのに途中で気付いたのですが、
もうそろそろ終わりかと思っていたのに、まだスコアの半分あたりのページを彼女がめくっているのを見た時は、
気を失いそうになりました。

演奏が終わった後、連れが、”やっぱりブーレーズはブーレーズだったね、、。
この作品は本当はもっと面白い作品なのになあ、、。”と残念そうでした。
最後の『火の鳥』こそは頑張ってもらわないと。
連れも、『火の鳥』なら、作品自体に備わっている性格のおかげで、
ブーレーズでも何とかなるかも、、、と今や神頼みに入ってます。

開演前に連れが今日の演奏会は割りと短いね、というので、
なんでだろう、、?演奏予定時間は2時間なんだけどな、、と思っていたのですが、
彼の感覚ではこれを短いというのだろうか、、と勝手に解釈して、適当に相槌を打っておきました。

すると、演奏が始まってすぐ、連れが”え!全曲版!?”と叫びながら呆然としてました。
そう、どうやら、彼は勝手に組曲の方だと思いこんでいて、それで短い演奏会だと早合点していたようです。
連れよ、すまない。もう少し付き合ってやっておくれ、ブーレーズの指揮に!

しかし、、、、本当に、この作品でもこんなに熱くなく指揮できるなんて、ある種の才能かもしれないと思います。
彼の指揮からは本当に楽譜以上の何も感じない。
その淡々と物理的な意味での曲だけを演奏していく様子に、
アカデミー賞の受賞式のバックで演奏しているオケじゃないんだから、、、と不満の一言でも言ってしまいたくなります。
これはCSOで、曲はストラヴィンスキーなんだから、もうちょっと何かを引き出してくれよ、、と。
そんな彼が名誉指揮者、、、これでいいんですか、CSO?
来シーズンからは、ムーティが音楽監督をつとめることになっていますが、
何と来年のカーネギー・ホールでの演奏会には演奏会形式の『オテッロ』を持って来てくれるそうなので、
これは激楽しみなんですが、まだ聴いたことのない指揮者とのコンビネーションについては語ることができません。
私は去年聴いたハイティンクとのコンビネーションはすごくいい、
(少なくともこのブーレーズとよりは全然!)と思ったので、ムーティが就任することで、
ますますNYではハイティンクとのコンビが聴けなくなりそうなのが残念です。
(ただし、ムーティが就任後も首席指揮者として残るそうですので、シカゴまで行けばいいだけの話かもしれませんが、、。)
ハイティンクは割とストイックな感じがするので、オケ側が鬱陶しく感じるんでしょうか?
今日観たブーレーズのコンビの方が和やかな雰囲気だったかもしれませんが、
でも、オケ側が窮屈に感じても、オケのいいところをちゃんと引き出してくれているのは
ハイティンクの方だと思うんですけどね、、。

私が昨年の演奏会でCSOがすごいな、と思った点の一つは、弦セクションの優秀さもさることながら、
彼らの金管セクションの音で、特にトロンボーンの首席、ジェイ・フリードマンに関しては、
あの痩せて禿げた冴えない親父風の風貌のどこからこんな音が出てくるんだろう?とびっくりした覚えがあります。
彼の音はしかもパワーで押すだけでなく、きちんとリリカルで節度のある知的なところもあって、素晴らしい奏者だと思いました。
金管セクションは他にも優秀な奏者が多く、なので、今日は連れに、”金管要注目!”と豪語していて、
今日のプログラムでは、何と言ってもその金管を一番堪能できるのは『火の鳥』のはずでした。

ところが、作品の頭の方で、ホルンの首席が”?”と思うようなスカ音をかましました。
シカゴ響の演奏会でこれはちょっとお粗末だなあ、、、と思いましたが、
オケの奏者も人間、ミスをすることだってあります!
この後の演奏の内容が良ければOK、と思って軽く流そうとしたのですが、
またホルンのフレーズでミス。、、そして、また!!
奏者が”おっかしーな?今日は楽器がおかしいのかな?”とベルを覗き込むようなジェスチャーをするので、
”楽器じゃねーんだよ!あんたの吹き方なんだよ!”と叫びそうになりました。
それでも、この首席、楽器がおかしいのかな?というジェスチャーはしても、
まずい、自分のミスのせいで全体の演奏に傷がついている!と気にしている様子も、
恥ずかしそうにしている様子も、一向に感じられず、かなりいけしゃあしゃあとした態度なのです。
思わず曲の中盤で、連れに”何これ!”という表情を向けると、彼も同じ表情でこちらを向いてました。
その後も、この首席、ほとんど音を出す度ごとにミスをしまくり、
(というか、まともな音で一つのフレーズを吹ききることができない)、
この作品で最も印象的な最後のホルンのフレーズまで外した時には、
私、ほとんど彼を撃ち殺したい衝動にかられました。

演奏が終わって、私が憤懣やる方なし!といった調子で、”なんなの、あのホルン!”と言うと、
連れがしみじみと言いました。
”彼はデイル・クレヴェンジャーと言ってね、今CSOに残っているなかでは、
最もキャリアの長いメンバーの一人じゃないかな。
今は歳をとってしまってああだけど、彼の全盛期の頃と言ったら、
それはもう神のように信じられないくらい上手いホルン奏者だったんだよ。
僕も当時の彼をCSOの演奏会で聴いているけど、本当、すごかった。
今オケで吹いている彼より若い世代のホルン奏者で、かつての彼に敵うような人はまずいないと思う。
だけど、こんなになるまでしがみついて、、、本当、悲しいね。
彼が演奏している時の、まわりの金管奏者の様子、見たかい?
みんな、床をじっと見詰めて、何か聴いてはいけないようなものを聴いているような態度だっただろう?
かつて素晴らしかった奏者が、まずい演奏をする時、あれが仲間の奏者が見せる典型的なリアクションなんだよ。”

そうだったんだ、、。
それにしても、音楽に携わる人は、楽器であれ、歌であれ、本当に引き際って難しいです。
でも、かつて、どんなに素晴らしい奏者であったとしても、
こんな風にオケ全体の演奏をぶち壊すような結果しか出せなくなったら、潔く身を引くしかないのかも、、。
彼は今回、NYタイムズの批評でも、敬意をこめながらも名指しでその辺りを指摘されましたので、
もしかしたら来年のNY公演ではもう姿がないかもしれないな、と思います。
特にムーティが音楽監督に就任したら、容赦なくそういう事態を回収しにかかるでしょうから、、。

それでも、最後に連れが、
”でも、面白いね。
思ったより、全然オケとしての音色が昔と変わってなかった。
もしかすると、他のどのオケと比べても、70年代頃からのサウンドがそのまま残っている感じがするのがCSOかもしれないな、と思ったよ。
ある意味、その点では、ベルリン・フィル以上に。
まあ、それはクレヴェンジャーみたいなメンバーが残っているからかも知れないけれど、
サウンドのカラーがきちんと引き継がれているのは素晴らしいことだね。”

この意見が聞けただけでも、2人で行った価値があったというものです。

(冒頭の写真は前日土曜の演奏会のもの。)

PIERRE BOULEZ Livre pour cordes
BARTÓK Concerto for Two Pianos, Percussion, and Orchestra
STRAVINSKY The Firebird (complete)

Chicago Symphony Orchestra
Pierre Boulez, Conductor Emeritus
Pierre-Laurent Aimard, Piano
Tamara Stefanovich, Piano

Center Balcony G Mid
Carnegie Hall Stern Auditorium

*** シカゴ交響楽団 Chicago Symphony Orchestra ***

STIFFELIO (Sat Mtn, Jan 30, 2010)

2010-01-30 | メトロポリタン・オペラ
彼だけは本当によくわからない、、。

先日、両親の代からオペラ漬け、メト漬け一家、という方と知り合う機会を得ました。
(ご本人も65を超える年齢と思われる。)
そもそも、その方と話が盛り上がることになった経緯は、、
共にカウフマンが好き、ということがひょんなことから割れ、、ということだったんですが、
そこから、歴代の、そして、最近の歌手では誰がいいと思うか、という、壮大な話になって行きました。
こういう話題になると、話が終わらなくなるんじゃないかといつも怖くなるのですけれども。

そこで、永遠のアイドルがコレッリであるという点まで同じなことが判明し、大いに盛り上がったのですが、
その会話の中で、ホセ・クーラの名前が挙がって、面白いことに、クーラについては、その方と私の意見は全く同じで、
”彼って、なんだかよくわからない不思議な歌手ですよね。”ということで一致を見ました。
というのは、彼は、ある時には素晴らしい歌唱を繰り出してくることもあれば、
違う時には、とても同じ歌手とは思えないような歌を歌うときがあるからです。

その方は『サムソンとデリラ』でのクーラの歌唱を聴いて大感激し、終演後に楽屋まで押しかけて行ったことがあるそうです。
私は昨シーズン、彼の『カヴ・パグ』、特に『道化師』の方でやっぱり大感激して、楽屋に押しかけこそしませんでしたが、
それはもうカニオ役については、マリオ・デル・モナコの後継者は彼である!位の勢いで感想を書いたわけです。



今シーズンのメトは密かにちょっとしたヴェルディ祭になっていて、
『アイーダ』、『椿姫』といった毎年舞台にあがっている”どメジャー”演目から、
『シモン・ボッカネグラ』のような超メジャーでも超マイナーでもない作品、
そして、『アッティラ』や今日の『スティッフェリオ』のような、そう頻繁には見れない作品まで、幅広くカバーしてます。

『スティッフェリオ』は予習するにも、なかなか適当なCDがなくて、
普段は予習にはDVDよりもCDを愛用する私が(DVD用に簡略化された字幕より、CDのリブレットの方がより正確なのと、
通勤時間などを予習に利用するため、iPodなど、音だけの方が身軽で便利なためという実際的な理由で、、。)、
仕方なくメトのDVDに頼るしかありませんでした。

このメトのDVDというのが、1993/4年シーズンの公演を収録したもので、
スティッフェリオ役を歌っているのがドミンゴなのですが、
それから16年経った今シーズンは、同じジャンカルロ・デル・モナコの演出でクーラが主役を歌い、
ドミンゴが指揮をするということで、メトは話題作りを図ったようなんですが、
DVDでの指揮がレヴァインだったということを、まさか忘れてたんじゃ、、、。
(下は『スティッフェリオ』のリハーサル中、オケピのドミンゴ。)



というのも、テンポの設定、ビートのクリアさ、歌手へのサポート、
どれをとっても、レヴァインと比べると、辛いものがあるんです。
前奏曲からして、またり~ん、だらり~んとしていて、これはこの演目だけでなく、
ドミンゴがメトで指揮をする時に、どの演目にも共通している特徴であるように感じます。
多分、私と同じく、他に選択肢がないという理由で予習にメトのDVDを選んでいる人が少なからずいると思うのですが、
おそらくそのほとんどの人が、レヴァインの指揮と比べて、ありゃりゃ、、と思ったことでしょう。

話は前後しますが、今日は同演目の最終公演日ながら、全国ネットにのる土曜マチネのラジオ放送の日だったので、
予定通りに全ての歌手が歌うかと思っていたら、プレイビルに告知の紙すら入っていない、サプライズがあり、
開演の直前に舞台に現れたアシスタント・マネージャーから、
スティッフェリオの妻リーナ役のソンドラ姉さん・ラドヴァノフスキーが、風邪のためにキャンセル、代役に、
ジュリアーナ・ディジャコモが入る旨がアナウンスされました。
ディジャコモはニューヨーク・シティ・オペラの舞台によく登場するのと、メトにも脇役で登場したことがあるので、
NYのヘッズなら知らない人は少ないと思うのですが、
今日の観客はソンドラ姉さんが歌うのを楽しみにして来たか、
もしくはNYの外からいらして、あまりディジャコモの名前に馴染みがないからか、
アナウンスがあった時も、”ふーん、、、。”といった感じで、そのリアクションの少ないこと、、。



私は、リーナ役ではラドヴァノフスキーの評判が割と良いので聴いてみたい気持ちもありましたが、
一般的に言うと、私は彼女のでか過ぎる声と、そのためにコントロールが荒れる装飾技巧の部分が苦手なので、
ディジャコモの歌の内容次第では、この交代は歓迎かも、、というのが第1の感想でした。
ここまで大きい役で彼女の歌を聴くのも初めてなので、それも結構楽しみだったりします。
なので、しらけまくる周囲の中、”がんばれよー!”と一人大きく拍手をするMadokakip。
(ちなみに、残念ながら、この日の公演の写真はないので、
写真はすべて、リーナ役がラドヴァノフスキーの時のものです。)



で、純粋な歌唱に限って言うと、私はラドヴァノフスキーより、全然ディジャコモの方が好みです。
ラドヴァノフスキーのような派手さはないし、大舞台なこともあって、
高音にあげるオプションをとらずに、低い音でしめるなど、安全策に流れた部分もありますが、
一つ一つの音をおろそかにしないできちんと歌っていて、最初こそ少し硬かったですが、
二幕以降、非常に綺麗に鳴っていた高音もあったし、フレージングもしなやかで、
歌の内容としては、全然期待していなかった観客すら、不満を言わせないものだったと思います。
ただ、彼女の泣き所は役作りとして全体を観た時のインパクトと、
また、彼女個人の歌手としてのカリスマ性が不足している点、
それから何と言っても演技があまりに表面的で、ドラマ性がない、この辺りにあるように思います。
これではせっかくいい内容の歌を歌っていても、お客さんに愛してもらうことができない。
もったいないです、本当に。



このオペラでは、伯爵家に見込まれ、拾われ、牧師になったスティッフェリオが伯爵家の娘リーナと結婚、
幸せだったはずの2人ですが、スティッフェリオが布教の旅に出ている間に、
ラファエレという男の誘惑にまんまとのってしまったリーナが不倫の道に走っていることを、
帰って来たスティッフェリオが感づき、宗教人として、また、夫として、彼女を許すべきか否かの葛藤に苦しむ様子が描かれます。
また、スティッフェリオが不倫の全貌を知る前に、自らの良心の呵責に耐えかね、
全てを打ち明けてしまおうとナイーブに考えるリーナを押しとどめて、
家と世間体のために奔走するリーナ父(スタンカー伯爵)と、
皮肉にもそのおかげで、スティッフェリオがどういう人間かをもう一度深く知るチャンスを得るリーナ、、、
この3人のそれぞれの苦悩が描かれる作品です。



この作品がbore(退屈)と考えられている理由として私が考えるに、

1) メジャー作品のように、とびきり印象的で何度も聴きたくなるアリアがない。
2)リーナがラファエレに対して持っていた気持ちは一体何だったのか?
しばらくは本気で好きだったような雰囲気もありながら、なぜか後にはスティッフェリオに、
”彼が誘惑して来たのよ!”と言い訳するリーナ。
そんなリーナの人間性ってどうよ?と問いたくなる中途半端さがリブレットにある。
それとも、女のずるさをも描こうとしたのか?だとしたら、荷が重すぎて成功していない。
3)どんな歌手、歌でもある程度ドラマが成立するほどには、
リブレットと音楽が深く登場人物たちの葛藤の軌跡を描ききれておらず、唐突な感じを覚える場面が一つや二つではない。
(その点、やはり『オテッロ』、『アイーダ』、『椿姫』といった作品はすごいのだな、と思う。)

といった点があげられるのですが、これを引っくり返そうと思ったら、
その弱さを補う演技と歌唱を歌手が見せ・聴かせなければいけない。
ですから、ディジャコモは、二幕でラファエレに自分と別れてほしい、と言う時、
どんな気持ちでリーナはその言葉を発するのか、彼女なりに筋の通った解釈をした上で、
それに沿って演技をし、歌わなければ、観客に伝わってくるものは何もないわけで、
今日のように、型どおりの演技をしていては駄目です。



このブログをしばらく読んで下さっている方は、そんなリーナを誘惑する悪い男、ラファエレ役に、
あの『The Audition』の曲者コンテスタント、マイケル・ファビアーノがキャスティングされていると聞くと、
ひっくり返られるかもしれません。私はひっくり返りました。
だって、そんな色男に見えない、、、。

この作品でのラファエレ役は、プロットを進行させるための駒的役割で、
はっきり言って、彼のリーナへの気持ちは作品の中でどうでもよい位置づけなため、
ファビアーノ君の表現がどうの、、と議論できるような役ではないのですが、
まずはしっかり舞台をつとめていたと言えると思います。



ただ、あの『The Audition』の参加者の中では最も完成度の高い歌唱を聴かせていましたし、
キャラクターが立っている点では一、二を争う彼でしたが、
メトの舞台に立てば、そんなことは吹っ飛ぶというか、歌も存在感も、どちらかというと地味な部類に入るかもしれません。
当たり前のことですが、ドキュメンタリーで立つキャラクターと
メトの舞台に立ったときに後光のように射すオーラというものは全く別物だなあ、と感じます。
また、声は十分メトで歌っていけるサイズがあると思いますが、
予想していた以上に飛びぬけた個性とかカラーに欠ける声かも、とも感じました。



家と体面を守ろうとする小者的部分とスティッフェリオを我が子のように可愛がり、
娘と義理の息子の幸せのためには娘の不倫相手も刺し殺す子思い(?)な部分を併せ持つスタンカー伯爵を歌ったのは、
二年前の『アイーダ』ですぐ背中に追っ手が迫っているのに全然急いで逃げてくれないアモナズロを演じ、
以来、”のろまなドバー”と呼ばれているドバーです。

彼は気持ちで勝ったり負けたりするタイプなのか、随分と歌う役(全幕)やアリア(ガラ)によって、
歌の内容や結果が違うバリトンなんですが、今日のこのスタンカー伯爵役は、”自信のあるほう”のレパートリーみたいです。
彼の歌唱については、割と受けが良くて、三幕のアリアなんか、もしかすると、今日一番拍手をもらっていたのは
彼かもしれないな、、と思うくらいなんですが、
私は彼の声にも歌唱にも全然魅力を感じません。
特にヴェルディのバリトン・ロール、それも父キャラを歌うには何か決定的なものが欠けているというか、
声自体に父性を感じないのです。
また出てくる音が空気で漂う位置が高くて(音のピッチではなく、音が出てくるときのポジションというか、、)、、
サウンドそのものは割と重く聴こえるのですが、その一方でテクスチャーが軽く、
今ひとつ、本当のどしーっとした安定感、腰の重さといったものを感じません。
そういう意味では、好調な時のルチーチを思い出すに、スタンカー役に向いていると思うのですが、
そのルチーチが最近、特に全幕でぴりっとしないので、困ったもんです、、。



いつものようにインターミッションで一人お茶をしていると、同世代と思われる男性が、
”ここよろしいですか?”と相席でも良いか、と聞きます。
”どうぞ。”と言うと、その後も”ビスコッティ、いかがですか?”とか、
プレイビルを読んでいても、何かれとなく話しかけてくるので、
メトでは男性というと爺さんにしか話しかけられることがないので
(そもそもほとんどの比較的若い世代の男性は女性同伴で来ることが多い。)
珍しいことがあるものだけど、オペラに一人で来て、女性に話しかけてくる男なんて気持ち悪いから関わらないでおこう、
(前半に関しては自分もそうだけど、、。)と思って適当に受け答えをしていたら、
彼が必殺の質問を出して来ました。
”で、今日の公演、どう思いましたか?”
ああ、だめだ、、、関わらないでおこうと思ったのに、その質問をされたら我慢できない、、、。
リーナがラファエレにおとされたのもこんな質問だったのだろうか、、?
ぱたっ、とプレイビルを閉じ、”えっとですね。”と言った後、
気がついたら、すんごい勢いで自分の感想をまくしたててました。
インターミッション中に熟成して発酵した感想、一気に噴射!
すると彼も嬉しそうに自分の感想を怒涛のように語った後、
”いやー、いつもここでお見かけするので、
どんな感想をお持ちになってご覧になっているのかな、一度お話したいな、と思っていたんですよ。”
いつも、、、、って、そうやって改めて指摘されると、ちょっと我ながら怖い。
けど、それを知ってるあなたもかなりの重症ね、と思う。



お互いに年齢も近くて、オペラを見始めた時期もちょうど同じなのもあって、話は盛り上がる、盛り上がる!
ただし、歌や歌手の趣味は我々正反対で、彼はラドヴァノフスキーが大好きで、
ヨーロッパまで週末に追っかたりしたこともあるそう。
なので、今日の彼女の降板はめちゃくちゃこたえていたみたいです。
よって、彼女についてどう思うか聞かれた時は困りました。
”個性的ですよね。すごい声量ですよね。私にはちょっとでか過ぎますけど(あ、つい、本音が、、。)
ああいう声でこういうレパートリーを歌う人はあまりいないですよね。実にユニークですよね。”
物はいいようとはこういうことを言うんだろうな。
しかも、彼は、今日はドバーの歌唱だけがいい、と言っていました、、、。私にはわからない、、。
クーラについてだけは似た意見だったので、先に内容を譲るとして、
ドミンゴの指揮に話が及ぶと、突然、彼が火のように燃え上がり、
”僕は中途半端なものが許せません!だから、ドミンゴの指揮は許せないっ!”
、、、、なんかいつの間にか彼の方がヒート・アップして来てます。

気がつけば、開演間もなく、を合図する鉄琴の音が。
いやー、ヘッド(ズ)と話すのは楽しくて、時間が経つのが早い!
また、どうせ、このいつもの場所で彼とはまたお話する機会もあるでしょう。



最後にクーラなんですが、以前に私が彼の歌唱で嫌いな部分は強引な感じのするところ、と書きました。
でも、今日の歌唱を聴くと、その強引なことが出来たこと自体、彼も若かったんだな、と思う。
というのは、同じ歌い方だと、今の彼の喉はもうその強引さを支えられるようなものではないので、
特に高音域で、芯のない、支えを失ったような情けない音になってしまうことがわかりました。
高音が一瞬アタックして終わるようなものなら、その欠点は目立ちにくいのですが、
このスティッフェリオ役のように、同じ音域の(それも割と高めの音域の)中で音が続く時に、
非常に顕著になるように思います。

後、今回の公演に関しては、舞台ディレクションがお粗末で、
一体、オリジナルの演出の時のメモが紛失でもしたのか、と思うほど、全キャストの演技がぎこちなく、
またそれぞれの役がどういう考えに基づいて行動するのか、といった分析が全く欠けているように思います。
表現や演技力において、そう力がないわけではないクーラが不思議なくらいにこの公演では精彩を欠いていて、
もっとはっきり言えば、どう役を表現していいか、迷ったままの状態のように見えました。
ただ、そんな状態でも、やはり、先にファビアーノ君についてのところで書いた”カリスマ性””オーラ”の話をすると、
他の共演者の誰よりもそれが抜きん出ているのはクーラであることもまた事実です。

上の最後の写真は、この作品のクライマックスである、
スティッフェリオが信徒の前で説教をする場面なんですが、
この台にあがるまで、まだ自分の心を決めきれていないスティッフェリオが、
説教のテーマのために、あてずっぽうで開いた聖書のページに、
イエスが姦婦を許すエピソードを見つけ、つまりは神の啓示を受けてリーナを許し、
それを説教を通してリーナに伝えるという、感動的なシーンであるはずなんですが、
どうして、のろまなドバーはこんなばったのような格好でつっぷしているんでしょう?
私はこの演技にどんな意図があるのか?ということが気になって、すっかり話の本筋から気がそがれてしまいました。

歌・演技共にどこかよそよそしく、ぎくしゃくした感じの舞台で、共演者同士のケミストリーみたいなものも欠けていて、
これじゃ、元々リブレットが弱い作品を上演するのに、障害が大きすぎます。
音楽自体は、重くなった『椿姫』と軽くなった『トロヴァトーレ』の合いの子みたいで、それなりに楽しめるんですが、、。

そしてクーラは、、、やっぱりどう判断していいかわからないまま、置き去りにされてしまいました。


José Cura (Stiffelio)
Juliana DiGiacomo replacing Sondra Radvanovsky (Lina)
Andrzej Dobber (Stankar)
Phillip Ens (Jorg)
Michael Fabiano (Raffaele)
Jennifer Check (Dorotea)
Diego Torre (Federico)
Conductor: Plácido Domingo
Production: Giancarlo Del Monaco
Set & Costume design: Michael Scott
Lighting design: Gil Wechsler
Stage direction: David Kneuss
Dr Circ Row A Odd
OFF

*** ヴェルディ スティッフェリオ Verdi Stiffelio ***

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Jan 24, 2010)

2010-01-24 | 演奏会・リサイタル
今シーズンのメト・オケ演奏会、第二弾です。

シューベルトの『未完成』とベートーベンの第五番にはさまって、
ディアナ・ダムラウが、『ナクソス島のアリアドネ』の"偉大なる王女さま Grossmächtige Prinzessin"を含む、
R.シュトラウス作品攻撃をしかけてくるという、まさに、これぞ、私にとっては捨て曲のない、夢のようなプログラム!

一昨日の『シモン・ボッカネグラ』でのレヴァインとオケには一抹の不安を感じましたが、今日は、、?

演奏が始まってすぐに思ったのは、
”今日のために、一昨日の『シモン・ボッカネグラ』が犠牲になったのね、、。”ということ。
今日のこの演奏会への相当な力の入りようを見るに、
おそらく演奏会のためのリハーサルでエネルギーと神経を使い果たして、
『シモン・ボッカネグラ』は”燃焼後”状態だったということが大いに考えられます。
来るHDの2/6の公演は、もうその余計なストレスから解放され、
『シモン・ボッカネグラ』に全パワーを注げるわけですから、レヴァインとオケが生まれ変わることもあるでしょう。
というか、生まれ変わってもらわねば。

では、なぜ、そんな風に、今日の演奏会に力が入っているかというと、
一つには、プログラムの内容のせいもあると思うのですが、もう一つには、
テレビ番組の企画なのか、メトのギルドの企画なのか、よく趣旨はわからないのですが、
現在レヴァインが主役のドキュメンタリーを作成しているそうで、
今日も、舞台上のマイクはもちろん、テレビカメラが設置されているボックス席まであるからです。
疲れた姿を映像には残せん!という気合からか、
あのマスター・クラスの時に、もしや半寝なのかと思わせるような、微妙な瞬間があったのに対し、
今日は最初から全開モードのレヴァイン。アクセルふかしすぎて、途中から疲れなきゃいいんですけれども。

一曲目、シューベルトの『未完成』は、その気合とオケの演奏の丁寧さには好感が持てるのですが、
マイクロ・マネジメント的な演奏というか、この曲を縛り付けてしまったような感じがあります。
もう少し音楽が自由に息をしている感じ、それを感じれるスペースが欲しいかな、という風に感じました。
おもしろいのは、オペラの全幕公演の場合でも、レヴァインが指揮するうち、
特に、ハイ・プロフィールな公演日(オープニング・ナイトやHDなど)には、ややそれと似た傾向があって、
成功させたい、失敗すまい、という気持ちが、つい細かいところまでがちがちに固めたくさせるのかもしれません。
レヴァインの指揮をつまらないと言う人がいますが、こういう事が一因なのかもしれないな、と思います。
その、少ししゃちほこばった感じがする点をのぞけば、しかし、非常に真摯で、私は嫌いなタイプの演奏でなないんですが、
他のオーディエンスはそう感じなかったか、もしくは続きのプログラムに比べて、
もともとあまり期待する演目ではなかったからか、非常にしけた拍手だったのが悲しかったです。
そこまでつまらない演奏じゃなかっただろう!と、鼻から湯気を出して、自らの拍手の量を倍化させておきました。
多すぎても、少なすぎても、演奏の内容に見合わない拍手や歓声は私は大嫌いなゆえ。

オーディエンスがオケへの拍手もそぞろに、すっかり心を移しているのは、この後に続く、ダムラウとのコラボ。
インターミッションの前までに歌うのは全てR. シュトラウスによる歌曲群で、
”小川”、”花束を作ろうと”、”万霊節”、”献呈”、”あした”、”セレナーデ”、”子守唄”、”愛の神”という内容。

彼女が舞台に登場して観客から”待ってました!”とばかりの大きな拍手。
、、、ん、拍手はいいんですけど、何ですか、この衣装は?一体。
お母さんが趣味で作ったパッチワークのブランケットが家に転がっているのを、
体に巻いて出て来たのかと思いました。
若々しい彼女にはフィットしていて(体にもキャラクターにも)、
ファッション・ショーにでも出るのであれば、決して悪い選択のドレスではないと思うのですが、
カーネギー・ホールにこの衣装はないよな、、。
しかも、『アリアドネ島のナクソス』からのアリアはともかく、歌曲群の雰囲気ともマッチしてないし、、。
なんでこんな今時のトウィーンズが選ぶようなドレスを選んだんだろう、、と不思議に思っていたすぐ次の月曜に、
バーンズ&ノーブルにCDを買いに行って謎がとけました。
今月発売の注目の新譜たちのコーナーをブラウズしていると、見覚えのあるドレスが目に飛び込んで来ました!



ダムラウのアリア集!タイトルは『COLORatulaS』(コロラトゥーラたち)。
しかも、”色”という言葉とかけたCOLORSについては大文字でよろしく、です。
そうか、、アリア集のジャケ写で着たドレスをプロモーションに着て歌ったのですね。納得。
これを知らなかったなら、衣装のセンスの悪いソプラノ、で終わってしまうところでした、危ない、危ない。

そして、当然のことながら、パッチワークのドレスを着たダムラウが一人、私のお買い物かごの中へ直行。
それにしても、本当にすごいドレスですな、、、、見れば見るほど。



ダムラウについて、私のこれまでの印象を言うと、テクニカルな面では文句のつけようがなく上手いのに、
なぜか歌から感情が伝わって来にくい、というか、
特に、イタリアもの+悲劇的な話のコンビネーションでそれが顕著なような気がします。
なので、私は彼女のルチアとかジルダがあまり好きでない。
イタリアもの+悲劇のコンビネーションに関して言うと、テクニカルな面でも、
そうできる能力は絶対にあるのに、こういう風に歌えばもっと色気(セクシーという意味でなく、
歌の内容と感情がもっとダイレクトに伝わってくる、という意味で)のある歌になるのにな、と私には思える部分を
そういう風に歌わない個所があるんです。結局、センスの問題、いえ、正確に言うと、
彼女と私の間でのセンスの相違、ということになるのかもしれませんが。

例えば、この購入したばかりのアリア集に、
『リゴレット』からジルダのアリア”慕わしい人の名は Caro nome"が収録されているんですが、
彼女の場合、まずジルダ(それからルチアでも)にしてはちょっと”音色が強い”感じがあって、
それに加えて繰り返しのcaro nome, tuo saraのnomeなんかに顕著に現れているように、
表現をつける時に、強い方に寄る傾向があるように思います。
私はこういうところは逆に引いた方が、つまり、音を絞って柔らかく歌う方が効果的だと思うのです。
実際、テクニカルにも引く方が難しいと思うのですが、
彼女の歌を聞くと、決してその能力がないわけでもないだろうに、どうしていつも、音を強く出すことで
色づけしようとするのかな、というのが、前から疑問としてありました。

アリア集の一曲目のグノーの『ロメオとジュリエット』の”私は恋に生きたい Ah! je veux vivre"に至っては、
もう全曲に渡って力いっぱい!という感じで、この曲が持つ良さを構成している要素の一つである軽さが全く感じられません。

生で聴いた彼女の歌でこれまででいいな、と思ったのは、アリア単位ですが、
タッカー・ガラで聴いた『キャンディード』からの”着飾って、きらびやかに Glitter and be Gay"がぴか一で、
この曲での彼女は最高でした。
なので、今日は、『アリアドネ』からのアリアは多分すごくいいものが聴けるのではないか、という予感があるのですが、
前半に歌う歌曲群、これはどうかな?というのが想像つかない部分であり、楽しみな部分であったわけです。

歌曲で始まるプログラムというのは一曲目がウォーム・アップ曲になってしまう、ということがままあるように思うのですが、
今日の彼女は一曲目の一声目から、コンディションを最高のところに持って行っているのが素晴らしい。
だし、これまで聴いたどの彼女と比べても、歌のテクニックの安定度が増し(まだこれ以上増すというのが驚きですが。)、
表現が一回り大きくなったような感じを受けます。
最近のオペラの世界の問題の一つは何事もあまりにペースが速くて、
自分がしっかりとした意志を持ってレパートリーを厳選するのでもない限り、
新しいレパートリーに追いつくのが精一杯、という歌手が多く、
表現力とか歌唱力が成長している、と感じさせるようなケースになかなかめぐり合えないのが現実なんですが、
(最近見た、”Callas Assoluta"というマリア・カラスについてのドキュメンタリー映画で、
カラスがブレイク・ダウンした最大の理由を、オナシスとの恋愛ではなく、その点に見ていたのはユニークだと思いました。)
今日の彼女にはそれを感じて、すごく嬉しかったです。
特に音を繊細に操り、響かせる能力、これを彼女はやはり十分すぎるほど持っているということがはっきりわかりました。
一つには、彼女の母国語で歌えている、というのも大きいのかもしれませんが。

”献呈”なんかは、ジョージ・ロンドン・ファンデーションのリサイタルで聴いた、
モリスの押して押しての歌唱とは違って、しなやかさのある歌唱で、
男性女性いずれが歌っても、雰囲気は全く異なり、よって想像する背景の物語も変わってくるのですが、
いずれも私は好きです。

しかし、今日の歌曲の中での白眉は、何といっても、”あした”でした。
この曲に入る前に、レヴァインがダムラウの顔を一分近く見つめたままになった場面があって、
NYタイムスのレビューには、レヴァインがダムラウに何か指示を出していた、と書いてありましたが、
私のいる場所から見えた限り、言葉を交わしたのは二言、三言といった感じで、
その後は、ただひたすらレヴァインがダムラウの顔を穴を空くほど見つめていただけのように思えました。
あまりにその時間が長いので、またレヴァインが危ない人化しているか、
座ったまま寝ているか、あるいは呼吸が止まっているのではないか、と心配し、
心なしか、ダムラウからも戸惑いを感じ始めた頃、やっと、レヴァインの指揮棒が動いて、
ヴァイオリンのソロ(曲の途中で再び現れるソロは息が出来なくなるかと思うほど素晴らしかった!)が始まりました。
実際に呼吸が止まっていたかどうか、真相はわかりませんが、この異様な間が素晴らしい効果をもたらし、
直前の”献呈”から、全く違う曲想であるこの曲に、空気を変える手助けとなり、
見事にオケとダムラウが曲に入っていったのがわかります。
もし、あのまますぐに演奏に入っていたら、これほどまでの集中力を引き出せたかどうか、、。

この曲での彼女の表現力は、嗚呼!!!!
こんな力があるのに、どうして、ルチアやジルダはああなるのか?というのは疑問ですけれども。
この曲の場合、曲になかば強制されている部分が幸いして、全編、抑えて抑えて歌う中から、
えも言われぬ美しさが漂って来ます。
音楽だけ聴くと、死をも感じさせる曲なんですが、歌詞は、恋人とまたあしたも会える喜びを歌ったもので、
このダムラウのような歌で聴くと、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』にも通じる、
恋愛の昂揚感と死の強い結びつきを感じます。
また、マーラー5番のアダージェットと雰囲気が似ているのですが、
シュトラウスが”あした”を作曲したのは1894年で、5番より先なので、
私はマーラーの方がばくったのだ、と勝手に信じてます。
さっきも書いたように、途中でダムラウのヴォーカル・ラインと受け渡しする
ソロのヴァイオリンがこれまた素晴らしく、息苦しいほどのテンションの高さで、
それこそ私まで彼岸に行ったような気がした、至福の数分でした。

シュトラウス歌曲プロの部分の最後の曲は”愛の神”でしたが、その一つ前の、
”子守唄”で終わっても良かったのではないのかな、と思う位、
今回の彼女はゆっくりした曲での表現力が素晴らしかったです。
歌曲でこんなにいい歌を聴かせる歌手だとは予想してなかった、、。
それには、レヴァインが指揮したオケとの相乗効果もあったように思われ、
彼女は良い指揮者やオケに恵まれれば、まだまだ開いていく部分を持った歌手だと感じます。
これからがさらに楽しみ!

インターミッションをはさんでは、いよいよ、『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタのアリア。
このアリアに必要な楽器の奏者だけが彼女の周りを囲んで演奏するという形にしたため、
フル・オケがついていた前半の歌曲プログラムとはまた違った、室内楽団との演奏のような緊密な感じが素敵。
全幕の公演では当然のことながらオケはピットに入っているので、この雰囲気は演奏会ならでは、です。

それにしても、ダムラウも人が悪いです。
というのも、『ナクソス島のアリアドネ』は今シーズンのメトのレパートリーの一つで、2/4がシーズン初日。
その全幕の公演では、あの『ホフマン物語』のキャスリーン・キムがツェルビネッタ役を歌う事になっているんですが、
いやー、こんな歌を初日前にNYのオーディエンスに披露された日には、キムさん、ちょっと可哀想、、。
ダムラウのツェルビネッタは、ただ一言、すごいです。
彼女のいいところが全部凝縮されているような歌唱なんですから。
ダムラウの最大の強みは、テクニックの確かさと高音域での音色の強さにあると思います。
キムはダムラウより温かみのある声で、ダムラウとはまた違った種類の美声で、
純粋に声から快さを感じるという意味では、私はキムの方が好きなくらいですが、
それでも、この2点において、キムがダムラウより分が悪いのは否定しようがありません。
キムは、このあたりのレパートリーをダムラウのような歌手と競って歌って行くには、
テクニックは習得出来たとしても、超高音域の響きの弱さが足かせになるかもしれません。
というわけで、私はキムは、超高音域で勝負しなければならないレパートリーよりも、
本当はもう少しキャラクターや表現で勝負できるようなレパートリーの方が、
向いているのではないかと思っているのですが、、。

話をダムラウに戻すと、彼女のこの曲の歌唱での完成度の高さはちょっと驚くくらいで、
1回目、彼女の歌と絡むソロのチェロが音を狂わせてしまったのが惜しい!と思っていたら、
アンコールで、その部分を含む、技巧満載の後半部分だけをもう一度歌ってくれたのですが、
1回目でもすごいと思ったのに、2回目もミスがなく技巧が安定しまくっているのはもちろん、
音の輝かしさが増して、もっといい結果になっているんですから、全くもって恐ろしい人です。
2回目はチェロとの掛け合いもばっちりでした。

それにこの曲、ダムラウの素のキャラクターともマッチしていて、
お茶目でコケティッシュなツェルビネッタが物知り顔で、辛気臭くて青臭いアリアドネに、
”あなた、恋っていうものはね、、”と一説ぶっている様子が本当にチャーミングです。
こんなアリアを聴かされたら、彼女のツェルビネッタで『ナクソス島のアリアドネ』を観たい、と思うのが人情ですが、
(ただし、すでに彼女は前回この演目がメトで上演された時に、
グラハムの作曲家、ウルマナのアリアドネを相手に、同役を歌っています。)
彼女は今年は同時期に上演される『連隊の娘』のマリー役にキャスティングされています(相手役はフローレス)。

喜ぶべきは、上でふれたCDにこの”偉大なる王女さま”が収録されていること。
そして、奇遇なことには、『キャンディード』の”着飾ってきらびやかに”も収録されていて、
この二曲がやはりディスクのハイライトとなっています。
ただ、一言付け加えるなら、今日の演奏会での彼女の歌唱は、
このCDの”偉大なる王女さま”のスリルがもっとグレード・アップした感じ、
つまり、彼女のこのアリアの生は、録音よりもっといい、ということです。

そうそう、このディスク、指揮はクラおた的容貌から突然イケ面指揮者仲間入りを図ったイメ・チェンが衝撃的な、
ダン・エッティンガー
が担当しています。(オケはミュンヘン放送管弦楽団。)

彼女の素晴らしい歌に、最近歌手が小粒化して不満がたまっているであろうレヴァインも大感激したか、
アンコール後に両手で彼女の頬を包み、おでこに祝福のキス!
ダムラウが固まっているように見えたのは、私の気のせいだけではあるまい、、、。

今日のもう一つのメイン、ベートーベン5番は、ある意味、一週間前に聴いたウィーン・フィルの演奏と全く対照的な演奏でした。
最終楽章の一番肝心な部分で、ティンパニーが他の楽器よりも先に暴走した時には歯軋りしそうになり、
こんなことはウィーン・フィルでは絶対にありえないことなんでしょうが、
また、一方で、ウィーン・フィルと違って、失う物は何もない、のメンタリティのもと、
(どうせ何をどう演奏したって、特に交響曲の場合、
ウィーン・フィルよりも良い演奏だ、なんて一般的に言ってもらえることはまずないんですから。)
体当たりで演奏したメト・オケの演奏の方が、熱気があって、私はこの曲にふさわしいスピリットを感じました。
ウィーン・フィルの演奏は上手かったかもしれませんが、
いつも結果を出さなければならないオケゆえの窮屈さのようなものを感じてしまいます。
第1楽章の出だしも、メト・オケの演奏は、今の基準から言うと全然スマートじゃない、やや大げさな昔風な部分があるんですが、
私は音楽も男性もスマートすぎて気取っているものが嫌いなので、こっちがいいです。

1回の演奏会で、これだけお腹一杯な気分になったのは久しぶり。
こんなてんこ盛りで、最後にまだレヴァインが息をしていたのはよかった、よかった。


The MET Orchestra
James Levine, Music Director and Conductor
Diana Damrau, Soprano


SCHUBERT Symphony No.8 in B Minor, D. 759, "Unfinished"

R. STRAUSS "Das Bächlein," Op. 88, No. 1
R. STRAUSS "Ich wollt’ ein Sträusslein binden," Op. 68, No. 2
R. STRAUSS "Allerseelen," Op. 10, No. 8
R. STRAUSS "Zueignung," Op. 10, No. 1
R. STRAUSS "Morgen," Op. 27, No. 4
R. STRAUSS "Ständchen," Op. 17, No. 2
R. STRAUSS "Wiegenlied," Op. 41, No. 1
R. STRAUSS "Amor," Op. 68, No. 5
R. STRAUSS "Grossmächtige Prinzessin" from Ariadne auf Naxos
Encore:
R. STRAUSS "als ein Gott kam jeder gegangen" from "Grossmächtige Prinzessin" from Ariadne auf Naxos

BEETHOVEN Symphony No. 5 in C Minor, Op. 67

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
ON/ON up to Amor/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ ディアナ・ダムラウ
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Diana Damrau ***

SIMON BOCCANEGRA (Fri, Jan 22, 2010)

2010-01-22 | メトロポリタン・オペラ
クイズです。『ランメルモールのルチア』と『シモン・ボッカネグラ』の共通点は何でしょう?
ただし、”どちらもイタリア・オペラである”という答えは除きます。

ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の上映(もしくは日本の場合、収録)の日というのは、
シーズン初日から何公演か経過し、歌や芝居がこなれ、指揮者やオケとの息が合ってくる(はずの)
一連の上演スケジュールの真ん中以降に予定されることが多いです。
このため、HD前に同演目を一公演見て、それからHDの日にもう一度オペラハウスで観る、
というパターンが結構な確率であるのですが、
1回目に観る公演は、とても大雑把なレベルで、HDの演奏水準を知る手がかりになります。
もちろん、いつも書いている通り、公演の出来、内容、雰囲気、エネルギーは公演ごとに違うので、
全く一緒にすることは厳禁ですが、そのまた一方で、片方で滅茶苦茶演奏水準が高かった公演が、
もう一方で信じられないくらいがたがた、もしくはその逆というのは、
キャストがどちらかで風邪でもひいて舞台に立っているのでない限り、あまりないのが現実です。



さて、これまでで、一番HDが不安になった演目はどれかというと、
それはもうぶっちぎりで、昨2008-2009年シーズンのネトレプコの『ルチア』です。
HD前に観た1月29日の公演では、私は座席で憤死するかと思いましたから。
しかし、この『ルチア』は、上で説明した、信じられない位がたがただった公演が、
それなりにHDで持ち直してしまった、という、ごく稀なケースとして、一応、なんとか事なきをえました。
いや、本当に、大おまけでの”一応”ですけれども。

ここまで言うと推測がつかれるでしょうが、クイズの答えは、
”HD前に観た公演によって、HDへの不安がかきたてられた演目”です。

しかし、ネトレプコのような爆弾ファクターを抱えた『ルチア』ではなく『シモン・ボッカネグラ』で、
よりにもよって、ドミンゴ様(この日から、当ブログでは、ドミンゴではなく、ドミンゴ様となった。)
がタイトル・ロールのこの公演で?!そんな馬鹿な。



詳しく説明すると、同じ”不安”と言っても、その種類には二つの間で決定的な違いがあります。
『ルチア』の場合は、年齢的には歌い盛りのはずの、当初キャスティングされていたヴィラゾン&ネトレプコの2人が、
ヴィラゾンは喉の不調で降板して、ベチャーラがぶっつけ本番でカバーに入ったり、
(同じシーズンの前半にダムラウとの共演で同じ演出で歌ってはいますが、
ネトレプコを相手にこの演出で歌うのは、本舞台ではあのHDの日が初めてでした。)、
そして、ネトレプコは産後で全く準備らしい準備をしないまま、Bキャスト初日から舞台に立っていて、
いつになったら役に対する責任感と自覚に目を覚ますのか!という怒りと、
どれ位ひどい歌が飛び出てくるのか、という、どきどきが入り混じった不安でした。

かわって『シモン・ボッカネグラ』の方はといえば、公演にかかわっている5人には本来実力があって
(しかも、うち3人はオペラの後世に名前が残って行ってもおかしくないクラスの。)、
それぞれが、役や公演への準備を怠らないタイプであるにもかかわらず、
そのうちの4人がすでにキャリアのプライムを過ぎ”すぎて”しまっているために、
怒りやどきどきとは全く違う種類の、彼らの一番いい頃の力をもってすれば、
もっともっと素晴らしい演奏になっただろうに、、という、
一抹の寂しさといたたまれなさが混じり合ったような、何とも言えない気持ちに近いです。



まず、何と言ってもこの公演で話題は、テノールとしてこれ以上望みようのないようほどの
キャリアを築いて来たドミンゴが、バリトンのためにかかれたタイトル・ロールを演じる点です。
私は、まずは『特別な歌手』の部類に入ると言ってよい歌手をつかまえて、
年齢が高くなって最盛期のような歌をもはや歌えないからといって、ボロクソに言うようなことは抵抗があります。
それは別に心理的なことだけが理由でなく、実際的な面においても、
プライムで観客に『特別な歌手』と印象づけるだけの力のある歌手というのは、
年をとっても、やはり歌に特別な何かがあることが多く、逆に年をとっているからこそ、
それが一層驚異だったりして、感銘が増す、ということもあるくらいです。

ただし、それは、やはり本人が、居心地よく感じながら歌える役でしか、成り立たないのでは、と感じていて、
昨シーズンの『アドリアーナ・ルクヴルール』で、やっぱりドミンゴは年とった、と多くのヘッズに言われても、
私が”そんなことないでしょ?なぜこの凄さがわからない?”と思えた理由はひとえにそこにあるのだと思います。
それに125周記念ガラでのオテッロのすさまじかったこと!!!
つまり、テノールの役を歌っている時の彼には、役や歌唱をスリリングに感じさせる何かがあるのです。
しかし、残念ながら、このシモン役でのドミンゴは、音楽に関するテクニカルな面では問題なく歌えていますが、
彼の演技力をもってしても補いきれないほどに、役が平べったく感じます。
そこには、やはり、役を膨らませるという点において、
バリトンの声域だけにしか出来ないことがあるんではないかな、という風に感じるのです。
また、もっと単純な話で、例えば、カラオケなんかに行って、女性が男性歌手の持ち歌を歌ったら、
曲の良さが引き出されなくて、盛り下がった、なんていう経験、ありませんか?私はあります。
それに近い感じもあって、やはり、どんなに音色として昔の輝きが失せたとしても、
やはり、ドミンゴの声、歌が活きるのは、テノールの役なんだ、と実感しました。



それから、今回、少し驚いたのは、ドミンゴにしては役の準備が完全でない点で、
かなり頻繁にプロンプター・ボックスから次の言葉のキューが出ているのが聴こえましたし、
(一体、HDではどうするつもりなんだろう、、。)
また初日の公演では、音の入りを間違った個所もあったそうです。
今まで彼がこんな状態になっているのを見た事がないし、
いまさら役への取り組みの姿勢にそれほど劇的な変化があるとも思えず、
また、このシモンは、ドミンゴがバリトン・ロールに初挑戦、かつ、作品自体も、やや地味ながらも名作ということで、
そんな作品を貶めることのないよう、全力投球で来ているはずなんですが、
もしかすると、お歳が記憶力の方に影響を与え始めているのかもしれません。
まあ、70歳近いんですもの、無理もないです。
その半分強の年齢でしかない私ですら、ざるのように、日々、物を忘れるんですから。

それでも、ドミンゴの場合は、周りが彼をしっかりと彼を固めていたなら、
十分それなりの良い公演になりうるレベルの歌唱と演技を披露しているんですが、問題はその周りの方かもしれません。



まず、フィエスコ(aka アンドレア)のジェームズ・モリス。
声の衰えを感じる、という点では、ドミンゴよりもさらに症状が重い最近のモリスなので、
ドミンゴについて書いたことは、もっと強い度合いで彼にも当てはまります。
昨年の『ワルキューレ』で彼のヴォータンが素晴らしかったのは、ヴォータンが彼のシグネチャー・ロールであるために、
声の衰えに負けない役の掌握力というものがあり、それが歌に反映されていたからなのでしょう。
また、その人生最大の当り役でメトの舞台に立つのはおそらく最後になるであろう、という、
”機会”の要素が後押しした部分もあったかもしれません。
一ヶ月ほど前のリサイタルで聴いた彼の歌唱から推測すると、
テクニカルな面のみで言うと、彼はかなり厳しいところに来ているように思います。
まずある音量から下になると、音をコントロールすることが出来ない(弱音でのコントロールがきかない)、
これは、細かい心理描写が必要なヴェルディの作品はもちろん、
全てのオペラ作品を歌うにあたって致命的なことだと思います。
声量自体はまだまだしっかりしているんですが。
あの、”悲しい胸の思い出は Il lacerato spirito"(プロローグ)で、
観客からしらけた拍手しか出ないというのは、かなり辛いものがあります。

この公演で得た教訓は、”プライムを大幅に過ぎた歌手を大事な役に配するのは
1名限定で!”ということではないでしょうか?
2人以上そのような歌手を配するということは、ものすごいハイ・リスクで、
”くたびれた公演”という印象を観客に与えうる、ということを、オペラハウス側は覚悟する必要があると思います。



では、中堅どころは頑張っているかというと、それもそうではないのが、この公演の泣き所です。
ガブリエーレを歌っているのはマルチェッロ・ジョルダーニ。
『トゥーランドット』のカラフで”低音がない”と言われるだけでは飽き足らなかったようで、
またメトの舞台に帰って来てしまいました。
彼は多分、声がきちんと五体満足で手元に残っていたなら、
いい歌唱になったであろう、そのポテンシャルはあったと思います。
問題は彼の声が五体満足ではない点です。
数年前から感じられた荒れた感じの音色はいよいよ悪化していて、
数年前までは高音を楽々こなしていたという彼が、今や中音域よりちょっと高い音になると、
音をすくいあげるような変な癖がついてしまっているために、
すぐ音の最初から正しいピッチで入らないで、”うわーあ うわーあ”と常に少し低い音が本来の音の頭に混じるので、
彼の歌う場面が続くと、気持ち悪くて、なんだか車酔いに似た症状を起こしてしまいました。
もう、マルチェッロ、うるさいよ、みたいな。



そんな中、声楽的にまともな、健康な声で気を吐いていたのは、エイドリアンヌ・ピエチョンカのアメーリアです。
ただ、最近、ヴェルディのソプラノ・ロールを歌う歌手については、少なくともメトで聴く限り、
それにふさわしい声を持っておらずへなちょこになってしまうアンダーパワー系か、
このピエチョエンカのように力で押しすぎて、元々持っている声の美しさを活かさないで、
なめらかさや柔軟さを欠いてしまうオーバーパワー系、このどちらかになってしまっているように思います。
このアメーリア役は、みずみずしさ、しなやかさ、こういったものを持って歌わなければならないと思うのですが、
最近、そういった意味でヴェルディのソプラノ・ロールに向いていると感じる歌手がほとんどいないのが現実です。

それを言えば、実は数年前にハンプソンのシモンを相手にアメーリアを歌っていたゲオルギューは悪くなく、
彼女と125周年記念ガラで組んで、父と娘であることに2人が気付く
二重唱(”Orfanella il tetto umile ~Figlia! A tal nome palpito")の部分の抜粋を歌ったドミンゴも、
今回のピエチョンカ相手より、ゲオルギューとの方が、ずっとエモーショナルな、
良い歌唱を披露していたように思います。
ゲオルギューは美人ですが、ピエチョンカはちょっと顔に、男性が女装しているような逞しい雰囲気があるんですよね。
やだ!ドミンゴ様ってば何気に正直。

ピエチョンカは、たまにものすごく綺麗でなめらかな音を聴かせることがあって、
高音域にそれが入るとかなり魅力的なんですが、彼女には、その音を毎回再生できるほどの安定性が、
少なくとも今日の公演だけからは感じられなかったのが残念です。
彼女は押さなくても、十分メトでも通る声をしているので、
もう少し肩の力を抜いて歌った方がいい。
実際、ふっと力が抜けた時に出した声は軽やかで悪くない声をしています。

彼女の最大の欠点は、歌よりも演技です。というか、演技が型通りで、
何かエモーショナルなものを観客に伝えるための演技という意味ではほとんど何もしていない、というに近い、、。
シモンとアメーリアの二重唱の場面がぬるく感じる要因の一つです。



先ほど、”公演にかかわっている5人には本来実力があって”と書き、ピエチョンカで4人まで来ました。
”3人はオペラの後世に名前が残って行ってもおかしくない”とも書いて、
さすがにジョルダーニとピエチョンカの2人は、少なくともまだ(かもしかすると、今後も決して)、
そこまでのレベルにいるわけではありませんので、ドミンゴとモリスで二席が埋まった状態です。
では、そのもう一人というのが誰かというと、それは指揮のレヴァインです。

たまたまオフ・ナイトだったのかもしれませんが、レヴァインからこんなにテンションの低く、
細かい部分が雑い演奏を聴いたことは、私はとりあえずこれまで一度もありません。
『ホフマン物語』の時から少し心配に感じていた部分があったんですが、今日のこの公演はその比じゃありません。
彼の一番の強みといっても良かった、ディテールまで至る指示は、それゆえにコントローリングで、
演奏をしゃちほこばった、魂のないものにしてしまう部分も確かにあったかもしれませんが、
今日のように、ディテールがぼろぼろな演奏を聴くと、魂なんて高次な話はこの際どうでもいいから、
以前のように、細かいところに目配りの効く、レヴァインらしい指揮を見せてほしい、、と思ってしまいます。
この直後の日曜日(1/24)に、メト・オケとのコンサートで演奏予定のベートーベン5番が俄然心配になって来ました、、。



あと、この作品で、私が大事だと思うのはパオロで、ここには後に『オテッロ』で、
ヴェルディがイヤーゴとして結実させたものの原型があると思うのですが、
この大切な役を演じる機会を生かしきれないで(もしくは舞台の大きさ
~物理的な大きさではなく、共演者の顔ぶれとかHDにもなるといったこと~に押しつぶされているのか)、
カルフィッツィの役作りはあまりにこじんまりとしていて、スケールが小さすぎます。
彼は2008-9年シーズンの『ファウストの劫罰』(HDの公演を含む)でも、ブランデルを歌わせてもらうなど、
脇役でも大舞台を任せてもらうことが多いんですから、もうちょっと頑張らなければなりません。



ジャンカルロ・デル・モナコとマイケル・スコットのチーム(ちなみに、同時期に上演されている、
『スティッフェリオ』の演出も同チーム)による写実的で美しい舞台と豪華な衣装が泣かないよう、
今日の引退プロ野球選手による草野球ゲームのような公演ではなく、
”現役の舞台”として、HD当日は火花を飛ばしてくれることを期待しています。
そういう特別な火を作れるというのも、『特別な歌手』に備わった力の一つですから。
そのHDの公演にあたる2/6は事前にチケットを準備していなくて、
当然のことながら、今やソールド・アウト状態になっていますが、
ある方からチケットを譲って頂くという大変なご厚意を頂きましたので、
火花が飛ぶかどうか、しっかりとこの目で観て・聴いて来ようと思っています。


Plácido Domingo (Simon Boccanegra)
Adrianne Pieczonka (Maria / Amelia Grimaldi)
Marcello Giordani (Gabriele Adorno)
James Morris (Andrea / Jacopo Fiesco)
Patrick Carfizzi (Paolo Albiani)
Richard Bernstein (Pietro)
Joyce El-Khoury (Amelia's lady-in-waiting)
Adam Laurence Herskowitz (A captain)
Conductor: James Levine
Production: Giancarlo del Monaco
Set and Costume design: Michael Scott
Lighting design: Wayne Chouinard
Stage direction: Peter McClintock
Dr Circ A Even
SB

***ヴェルディ シモン・ボッカネグラ Verdi Simon Boccanegra***

THE SONG CONTINUES : MARILYN HORNE (Thu 1/21/2010)

2010-01-21 | マスター・クラス
マリリン・ホーン・ファンデーションによる”The Song Continues(歌は続く)”プロジェクト。
期間中はマスタークラスだ、リサイタルだ、と、毎日昼に夜にと何かあるので、
もはや”一週間半にわたる歌のお祭り”の様子を呈しているのですが、残念ながら私は、
働かないでもオペラを観たり、生命維持することが可能というような幸せな境遇にいるわけではないので、
今回参加できたのはかろうじて二つだけ。
一昨日のジェームズ・レヴァインのマスター・クラスに続き、今日は、ボス・キャラ、
つまり、マリリン・ホーンが講師をつとめるマスター・クラスです。

そのレヴァインのクラスの記事にも書いた通り、彼女はしばしばNYで行われるコンサートやリサイタルなどで、
姿をお見かけすることがあるのですが、いつも姿勢がよく、きりりとした厳しそうな雰囲気で、
ちょうど一年前のメト・オケ・コンで、いざディドナートのサインをもらえる!という瞬間に割り込まれた経験もある私としては、
きっと、生徒さんたちを締め上げる、怖い先生に違いないよ、これは、と思っていました。

それが、、、。

マリリン先生は1934年の一月生まれでちょうど76歳の誕生日を迎えたばかり。
一方、レヴァインは1943年の六月生まれだそうですので、10歳近くマリリン先生の方が年上なわけですが、
その元気さといったら、レヴァインとの年齢が逆に思えるほど矍鑠としています。
彼女はつい最近癌を経験しており、いわゆる”サバイバー”なんですが、
全くそんなことが嘘のように思えるほど元気そうで、椅子に座っている間も、
ぴしーっ!と背中が伸びていたのが印象的でした。

まず、意外だったのは、レヴァインは指揮者なので歌唱や声について、
ある程度意図的に避けているのも含めて、あまりコメントをしないのも不思議ではないのですが、
マリリン先生まで、発声についての発言は最小限な点。
発声はいつもついている先生にちゃんと習って下さいね、
ここではそこから先のことをやりますので、とでもいった雰囲気に近い。
彼女が今回の(もしくはすべての)マスター・クラスで生徒達に教えたいことは、
どのように曲を表現するか、曲のどういう部分をつかみどころとしてその曲の良さを引き出し、
観客に提示するか、そういうことにフォーカスされているように思いました。
昨年、日本で聴講したデヴィーアのマスター・クラスの時には、
受講生(実際に歌う生徒さんたち)が日本人のみだったわけですが、
日本の場合は、曲で何かを表現するには、まず技術がなければならない、
そこがないと表現に行けない、満足な表現というのは技術があってこそ、
という考えが、少なからず根っこにあるように感じました。
しかし、レヴァイン、それから今日のマリリン先生のクラスを見ていると、アメリカの場合は、
発想が逆なのかな?という気がします。
つまり、こういう表現をしたい!という意欲が強くなってきたら、
いつか、その表現をするためにマスターしなければならない技術に辿り着く、
技術はそこで習得すればよい、表現を伴わない技術だけを先に詰め込もうとするのは意味がない、
という、そういう考え方です。
もちろん、これは対比を明らかにするためにオーバーに書いている部分もあって、
アメリカの声楽教育も、技術の重要さを軽視しているわけでは決してないのですが、
歌の表現と技術の習得という点で、少しルートが違うように感じます。

なので、マリリン先生も、とにかく、曲の雰囲気とかスピリット、歌われている歌詞の内容、
各フレーズの歌い方を工夫することによって表現に深みを持たせる、
これを徹底的に生徒と詰めていく、そんなクラス内容になっていました。
なので、一部の参加者に、二曲、歌う曲の候補をあげている人もいましたが、
レヴァインの時とは違って、ほとんどの生徒が一曲歌うだけで時間切れになってしまう状態です。

最初に登場したのはカーティス音楽院在学中のバス・バリトン、ジョセフ・バロンで、
曲はブラームスの”あなたのところへはもはや行くまいと Nicht mehr zu dir zu gehen"。
早速マリリン先生から、”この曲はもっともっと重苦しく、焦燥感を持って歌わなければ。
あなたのこの曲は何かのんびりし過ぎ。”に始まって、
”テンポが早すぎる!もっと重厚に!!”、”ドイツ語の単語の発音をもっと歌に生かして!特に子音の使い方!”、
”曲の頭からそんなにやたら声をたくさん使わない!”、などなど、矢のような指摘の嵐。
こんなにたくさんのことを一気に言われると、頭がショートしそうですが、
実際、彼はショートしてしまったようで、何度言われても同じ個所の発音で失敗していました。
マリリン先生だけではなくて、優れた歌手はみんなそうだと思うのですが、
音を延ばしている時、休んでいる時、そういった時にもきちんとリズムを感じるような歌を歌うものです。
それをきちんと学生さんに伝えているのはさすがです。
最初のヴァースの最後の Denn jede Kraft und jeden Halt verlor ich
(なぜならどんな強さも決意も失ってしまったから)のHaltの後に、
”ん!ん!”というリズムを感じながら、verlorに入って行きなさい、など。

おそらく自身が色んなレパートリーに挑戦して自分のものにしていった経緯があるからでしょうが、
ドイツ歌曲、イタリア歌曲、黒人霊歌、エスニックな曲、そしてもちろんオペラの作品群、、
それぞれの曲で何が大切か、というのが、きちんと見えているのがマリリン先生の強みです。

特にドイツ歌曲では、子音の響きを表現に有効に利用しなさい、ということを何度もおっしゃっていました。
フィッシャー=ディースカウの録音なんかを聞いて勉強しなさい、本当に学べることがたくさんあるから!と。
他におっしゃっていた大事なことは、
”どんなフレーズでも、声のカラーを良く考えなさい。声そのものを変えるのではなくて、
カラーを変えるのです。”
”息の量を測ることを常に忘れないで。この後に何を歌わなければならなくて、
そのためにはどれくらいの息の量が必要かということを常に意識して。
特にこの曲ではいきなり声を目一杯使ってしまうのではなくて、たくさん後にとっておくの。”
また、二つ目のヴァースから曲の雰囲気が変わって、つい声を張り上げてしまうバロンくんに、
”大きな声で歌うのではなくて、声をサポートする気持ちで!”。

その上に、各フレーズの細かい指示もすさまじく、二つ目のヴァースの、
Möcht augenblicks verderben (すぐにでも死んでしまいたい)のaugenblicksのauを出来るだけ表情をつけて、
そして、Und möchte doch auch leben(それなのに、生きてもいたい)のundはdに向かって思い切り持ち上げるように、
そして、möcht、doch、auchの音をきちんと関連付けて、
第三のヴァースの頭のAchはそして、囁くように、など、それはもう注文の山!なのです。
しかし、それらを織り込むと、確かにさっきまでのっぺらぼうだった歌に、きちんと表情がついてきているではないですか。
もちろん、歌い手というのは、こういったことを自分でやってこそ、ですが、
それでも、マリリン先生がどういう風に曲を組み立てているのか、その一部を見れただけでも興味深かったです。

二番目に登場したのは、履歴が高卒になっているので、特に音楽系の学校に進まず、
フロリダのパーム・ビーチ・オペラなど、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)的に頑張っているベッツィー・ディアス。
選んだ曲はザビエル・モントサルヴァトゲという、スペイン(カタロニア)の作曲家の『五つの黒人達の歌』から、
”Canto Negro 黒の歌"。
ヤンバンボ、ヤンバンベ、など、私はアフリカの言葉がさっぱりわからないので、
本当にこんな単語があるのか、それとも彼らの話している様子を擬音化したものか、よくわかりませんが、
まるで早口言葉のような歌詞で、しかも、旋律をとるのが結構難しく、
これを下品にならず、チャーミングに歌うのは超至難の技だと思いますが、
ベルガンサがすごく素敵に歌っている映像があります。
(ちなみにバルトリがこの曲を歌っている映像もYou Tubeに上がっていますが、私は、、、。)




ベルガンサを見ていると、すごく楽チンに歌っているように見えますが(本当に驚異!)、
それがとんでもない勘違いであるのは、このディアス嬢が苦闘しているのを聴くとよくわかります。
いや、それはバルトリの映像を見てもわかるかもしれないほどで。
まず、このリズムに本当にのって歌う時点ですでに、大変な困難です。
リズムに乗せるというのは、単に言葉が音符にのっているということではなくって、
そこから、ちゃんとビートが感じられるか、ということです。

ディアス嬢はキューバ系移民の家庭に育ったらしく、マリリン先生が、
”あなた、キューバ系なの?それなら、こういう曲、もっとノッて歌えるでしょ!”。
いや、先生、いくらキューバがスペイン語を話す国だと言っても、
それだからスペイン語の曲は大丈夫でしょ!と一からげにするのはあまりにおおざっば、かつ乱暴過ぎるのでは、、、、
だし、歌詞の半分くらいはアフリカ語擬音系の単語みたいですし、、。
なんてことは誰も言ってはいけないのです。マリリン先生なんですから!

ディアス嬢は、ベルガンサと違って、高音域ではフル・ブロウンで歌いあげる方法をとっているんですが、
その音がややきつそう。
ソプラノなんですけれども、ちょっと高音に苦手意識があるのかな、、という感じがします。
そのため、ついそちらに気がとられてしまったり、また、いつも練習やレパートリーの中心になっていると思われる、
オペラ的レパートリーを歌うアプローチに固執しているために、勝手がきかずに苦闘している趣もあります。

すると、黙っていないのがマリリン先生です。
”あなた、どうしてこの歌をそんなにオペラっぽく歌おうとするのかしら?
まだ、本当にのれていないわね。
親戚中が集まった時のようなのりで、もっと楽しく、のびのびと歌いなさい!”

それでも高音域に上がってくると無意識に体が固まってなかなかリラックスできない彼女に、
マリリン先生は、おもむろに立ち上がって、のりのりの体でダンスをはじめ、
ディアス嬢のまわりをくるくると回り始めました。
お歳で多少身長が縮んだものか、もともと背が高くないほうなのかは不明ですが、
小柄なマリリン先生が、ここは常磐ハワイアン・センターか、というのりで、
楽しそうにこの歌に合わせて踊り狂う姿は壮観でした。
しかも、段々興にのってきて、ますます激しくなるマリリン先生のダンス。
ディアス嬢の目をじっと見つめながら、今、私がこうやって踊っているように歌うのよ!
という、強烈なメッセージを発しています。
思わず先生の振りに笑ってしまったディアス嬢がやっと少しいい意味で緩んで来た頃、
マリリン先生があるフレーズでピアノを止めさせ、一言二言、ここはこう歌った方がいいわね、と歌唱のアドバイスをした後、
まだはずむ息も荒く、ピアニストに向かって、”○×の部分から続きを!”と、ダンスのスタンバイに入ったところ、
あろうことか、このピアニストが入りの部分を混乱&勘違いして、違うポイントから弾き始めてしまいました。
すると、マリリン先生、突然、激冷め。
”さっきまで猛烈に楽しかったのに、もう楽しくなくなりました。”という表情で、
すたすたと、自分の座席に戻って着席してしまった様子が、まるで子供みたいでした。
でも、舞台芸術というのは、そうなんですよね。
せっかく来た良い波というのは、乗り逃がしたら、同じものはもう二度と帰って来ないのです。

あと、ディアス嬢に出たアドバイスは、こういう曲では胸声を使うのをおそれないで、というのがありました。
”あなた、いい胸声が出せるの、あたし、知ってるのよ。”
あたし、知ってるのよ、といわれちゃったら、ディアス嬢はそれで歌うしかありません!

それから、言葉遊び&早口言葉のような歌詞なので、つい口を大きく動かしたくなるのが人情ですが、
マリリン先生のアドバイスは、”顎をそんなに動かさないで!”でした。
そこからディアス嬢は顎と同時に頬骨を上から押さえて、出来るだけ、顔がガクガクと大きく動かないように努力していましたが、
その効果は、音同士の間に均質感が生まれ、安定して聴こえる、という形になって顕れました。

このちょっと特殊といってもよい山姥(Yambamboからの連想で)の歌のみで終わるのは気の毒と感じたか、
もしくは、マリリン先生自身も、今日のマスター・クラスの最初に、一昨日のレヴァインに続いて、
デュパルクの歌曲がいかに素晴らしいかということを語っていたんですが、その絡みもあってか、
ディアス嬢には、二曲目の選択曲として彼女が選んでいた、そのデュパルクの”悲しい歌 Chanson triste"にも
トライする機会が与えられました。

山姥の歌がマリリン先生に”しかつめらしすぎる”と言われただけあって、
この二曲を聞き比べる限りでは、声とか発声の面では、デュパルクの歌の方が彼女に向いているように思います。
それでも、マリリン先生からは”もっと内省的な感じが出た方がよいですね”とのアドバイス。
それから、さらにフランス語のディクションの悪さも指摘されてました。
私が聞いてもちょっとこのディクションはまずい、と思う位なのですから、これは相当頑張らなければならない部分だと思います。
それから、”あなた、音を間違ったまま覚えているわね。”なんて言われている個所もありました。

それで思い出したのですが、デヴィーアのマスター・クラスの時と大きく違う点がもう一つ。
それは、一昨日それから今日のマスター・クラスで、歌っている時に楽譜を見ないどころか、
楽譜を持ち込んで来る受講生すら一人もいなかった点です。
先生と一対一ならともかく、こうしてオーディエンスが入っている場所では、
マスター・クラスであっても、観客に歌を聴いてもらっているのだ、という意識が徹底しているのだと思います。
これはすなわち、歌詞や音が頭に入っているのは当然のこと、
先生がくれるアドバイスも、メモせずに全部頭で覚えて帰るということを意味します。
なので、ディアス嬢は、マリリン先生に”音が違っている”と言われると、
”ええ??!!”と言って、走って行って、先生が持っている楽譜をのぞきこんでいました。
確かに、覚え間違えていると、こういう事態になる恐れはあります。

例によって、第二ヴァースのMon amourを”ぽーんと空中に放り投げるように!”など、細かい指摘がありましたが、
一番手の男性と同様、彼女もフレーズの頭に息を使い切ってしまう傾向があって、
”息をちゃんとはかりなさい! Measure your breath!!"と言われていました。


(数年前のマスター・クラスからの写真)

三番目に登場したのはアリソン・サンダース。カーティス音楽院に在学中のメゾで黒人。
ディアス嬢に続き(とはいえ、ディアス嬢の場合は先に書いたように厳密な意味ではそうではないのですが)、
”私のヘリテージ”系の選曲で、”Ride On, King Jesus"。
ゴスペルのスタンダード曲で、ノーマン、プライス、バトルと行った黒人女性たちも取り上げていた曲ですが、
今回、ジョン・カーターの『カンタータ』という作品で、トッカータとして含まれている編曲に基づいた歌唱です。

カーターの版は後半にたたみかけるような高音が続いていて、歌う方にとっては、
このサンダースのようなすごいパワフルな声をしていても大変。
マリリン先生は、この彼女にも、”随分オペラちっくな歌い方ね。あなた、教会で歌ったりする機会あるでしょ?”
はい、と答える彼女に、”じゃ、教会で歌うように歌って頂戴。”
そして、上の写真のように立ち上がってサンダースの側までやって来て、彼女が歌う間に、
黒人キリスト信者ばりに、”Yeah!"といった合いの手を叫んだり、これまた大フィーバー。

曲の最後は高い音にあげた方が断然エキサイティングなんですが、
サンダースは声のテクスチャー的にはソプラノに近いと思うのに、
すごく高い音はまだ出せないため、妥協案としてメゾ扱いになっているのでは?と思わせる部分もあって、
この曲でも、高音を避けるため、通しの歌唱では、最後の音を上げないで終わっていました。
しかし、マリリン先生に、”これは最後に高い音出さないと、楽しくないわ。”とあっさり言われ、
多分、今までその高い音で閉めて、成功したことも、いや、もしかすると歌ったことすら、一度もないかもしれないのに、
それでも果敢にチャレンジしたスピリットは素晴らしいです。
出したかった音から1音ほど低いところに入ってしまいました(ので、ピッチが狂っているどころの話ではない。)が、
マリリン先生は、”ほらね、楽しかったでしょ?”と、そんなことは意に介してもいない様子でした。

ディアス嬢、サンダース嬢の2人へのアドバイスでマリリン先生が伝えたかったのは、
オペラ的歌唱にこだわらないで、どのように歌うのがその曲の良さを引き出すのか、
考えなさい、ということだったのだと思います。

本受講生最後はオクラホマ大に在籍中のテノール、ロドニー・ウェストブルックで、
選択曲はレオンカヴァッロ(『道化師』)の”マッティナータ(朝の歌)”。
シンプル(に聴こえる)な曲だけに、歌の表情とかさらりとした歌い回しが大切で、
そういったものがない時、これほど苦痛に感じる曲も少ない。

彼の最初の通しの歌唱では、異様にコロコロとした癖のある発声で、かつ、
どうしよう、と思わずこちらがうろたえるような”かっぺ歌唱”でびっくりしましたが、
マリリン先生が、”レガート!”、”ルバート!”、
”言葉を大切に!”、”だらだらと歌わないで、するべきところできちんとブレスをして!”、
といったアドバイスを具体的な個所に施しつつ手直しして行くと、どんどん良くなって行きました。
また、第二ヴァースの頭に出てくるCommosoという言葉のmmの、
イタリア語独特のはずむような語感を大切にして、という助言もありました。

古い音源ですが、このカルーソーの歌を聴くと、マリリン先生の言わんとしていることがよくわかります。




オルタネートの一人目は、すでにこのリサイタルの時点では地震で大変な事態になっていたはずのハイチ出身で、
ニュー・イングランド・コンサバトリーで勉強中のバリトン、ジャン・ベルナール・スラン。
彼は、コメディ映画に登場するギーキーな留学生を彷彿とさせる、
完全にはアメリカナイズされていない(そしてそれはいいことかもしれない、、。)ぎこちなさとか純真さがあって微笑ましいです。
声自体は一度聴くと忘れないような甘い音色で、非常に面白いものを持っているのですが、
シューベルトの”春に Im Frühling"での、奇々怪々なドイツ語のディクションと、
演技以前に、普通に立って歌う姿にすら漂っているぎこちなさ、
そのアンバランスさがなんともいえない味をかもし出しています。
彼は少し言語の習得に問題があるのか、何度同じことを言われてもなかなかそれをマスターすることが出来ないのが難点です。
それを克服できて、いい先生が付いたなら、穴馬的な面白い存在になると思うのですが、、。

二人目はピーボディ・インスティテュートに在籍中のソプラノ、エリザベス・ダウ。
”あなた、歌の先生は誰?”というマリリン先生の言葉に、ダウ嬢が”マイケル某”と答えると、
”知らない。そんな人。”
いやいや、客席に先生がいるかもしれないから!とマリリン先生には、こちらがひやひやします。
知らないから指摘してOK!と思ったか、”あなた、特に中音域ですごく空気が漏れているわね。先生に言われない?”
確かに私もそれは感じました。これ、デヴィーアのクラスの生徒さんたちに多かった症状です。
ただし、その問題を除くと、彼女は潜在的にはすごくいい声を持っている可能性があると感じました。
グリークの”夢 Ein Traum"で聞かせたドイツ語がこれまた学生さんの歌とは思えないほど、達者です。
今日のオルタネートは2人とも、まだ全然完成されていないですが、潜在能力という面では面白いメンバーでした。

今回のマスター・クラスでは、マリリン先生の意外にお茶目なキャラが垣間見れて、とても楽しかったし、
何より彼女の歌そのものを大切にする姿勢、いい歌を提供するためにどのような工夫をしているのか、
というのを断片的にでも知ることが出来たのは、大変貴重な経験でした。

Participating Artists:
Joseph Barron, Bass-Baritone
Betsy Diaz, Soprano
Allison Sanders, Mezzo-Soprano
Rodney Westbrook, Tenor

Alternates:
Jean Bernard Cerin, Bartone
Elizabeth Dow, Soprano

Pianists:
Adam Bloniarz
Adam Nielsen

Weill Recital Hall

*** The Song Continues... Master Class: Marilyn Horne
ザ・ソング・コンティニューズ マスター・クラス マリリン・ホーン ***

THE SONG CONTINUES:JAMES LEVINE (Tue Jan 19, 2010)

2010-01-19 | マスター・クラス
往年の名歌手、または彼らの家族によって設立された基金(ファンデーション)が、
アメリカの若手歌手の育成の中で果たしている役割は決して小さくありません。

リチャード・タッカー・ファンデーションによる、お馴染みタッカー・ガラは、
本来は彼らが一押しでサポートする期待の若手歌手のお披露目かつファンド・レイジングとしての場所だし、
ジョージ・ロンドン・ファンデーションは、自らがサポートして、大舞台に羽ばたいていった、
もしくは羽ばたきつつある歌手達にリサイタルを依頼し、
そのチケットの売り上げがまた次世代の歌手達への投資の一部を支えているといった具合です。
リチャード・タッカーとジョージ・ロンドンはもう亡くなっているので、
家族を中心としたスタッフによって運営されているのですが、
ここに、存命の歌手によるアクティブなファンデーションがもう一つ存在しています。
その名もマリリン・ホーン・ファンデーション。

私がオペラを聴きはじめて比較的日が浅い時に購入したCDの一つに、
ジョーン・サザーランドとマリリン・ホーンが共演した『セミラーミデ』があって、
このCDで初めてマリリン・ホーンの歌声を聴いた時、私がまず思ったのは、
”これ、男、、、?”
そんな、まるで野郎のような野太い声で、ロッシーニおよびその他のベル・カント・レパートリーに必要な
テクニックを持っていたメゾ・ソプラノ、マリリン・ホーンは、今でもNYのヘッズたちに深く尊敬されている歌手の一人です。
今年、75歳になるホーンですが、癌を乗り越え、今でもオペラ界に睨みを効かせ、
リサイタルやコンサートで、観客席に姿を見かけることもしばしばです。

そのマリリン・ホーン・ファンデーションが一年に一度恒例で行っているのが、
”The Song Continues (そして歌は続く)”という企画で、1~2週間にわたって、
人気歌手を招いてのガラ形式の演奏会、若手歌手によるリサイタル、
学生対象のマスター・クラスなどが、連日開催されます。

今日はそのマスター・クラスの企画でジェームズ・レヴァインが講師に登場する日。
会場はカーネギー・ホール内にある、ザンケル・ホールで、
一般にカーネギー・ホールといって思い浮かべるスターン・オーディトリアムとは別の、
やや小ぶりで、音響はそれなりにしっかりしていますが、純粋な演奏会のため、というよりは、
今回のような講演目的に適したホールです。

舞台にあらわれたレヴァイン、何事もなく手を振って聴講客の拍手に答えてますが、
あの額に見えるのは一体何、、?
椅子から転げ落ちたか、メトのオケピに入る時に高さの寸法を測りそこねて、
鴨居で額を打ち付けたのか(って、あのオケピで演奏してきた年数の長さを考えると、
その寸法を測りそこねること自体、大丈夫?って感じですが、、。)、
ものすごい大きさのこぶと傷が額のど真ん中にあるのです。
”ちょっと頭を打ちまして。”というような言い訳や説明が何もないところが余計な邪推をかきたてます。

今日レヴァインにアドバイスを受けるのは、5人の本受講生。
さらに、加えてオルタネートと呼ばれる、時間が余れば歌を聴いてもらえる予備の受講生が2人。
それぞれ3~4曲の歌を受講候補曲として、2人のピアニストのうちのどちらかと準備して来ていて、
レヴァインがその中から、実際にここで歌って欲しい歌をその場で指定する、という手順です。

今回の聴講生の中にはデュパルクの曲を選択した人が数人いて、それにあたって、
彼は残された作品(注:彼は多くの管弦楽の作品を含む自分の作品の大半を自分の手で破棄してしまったという経緯がある。)
のうちに声楽曲が占める割合が猛烈に高いため、
今ひとつ一般の認知度が低いけれども、彼の書いた作品群は本当に素晴らしい、という話がレヴァインからありました。
ジョージ・ロンドン・ファンデーションのリサイタルで、
彼の作品の素晴らしさを知った私は、これには大きく頷きます。

第1の参加者は、メゾのジュリア・ドーソン。
オべリン大の音楽院に在学中の学生で、ブロンドの髪で可愛い感じの小柄な美人。
”ブロンドは頭が弱い”なんて俗説、は私はもちろん信じてないですが、
レヴァインに、”じゃ、シューベルトの若い尼僧 Die junge Nonne、行ってみようか。
まず、この作品についての君の考え(your take)を聴講しているみなさんに話した後、
歌ってもらいたいんだけど。”と言われ、
彼女が延々と歌詞の訳を語り始めたときには、あちゃーっ!、俗説にも真理はあるかもしれない、、、と思ってしまいました。
”Your take”と言われたら、自分はどのように歌の内容と登場人物について解釈したかを話さなきゃ!
単なる歌詞の英訳なんて、配られた資料にあるんですから。

そして、レヴァインは、あまり頭の回転が素早くない人には許容量が小さいらしく、
彼女の持ち時間中、ピアノの配置に延々こだわり続け、(このマスタークラスでは、ピアノの奏者にも、
伴奏者としてどうあるべきか、というアドヴァイスが与えられます。)
やっと一曲目を歌い終わったと思ったら、
”この曲は君にはテッシトゥーラが低いんじゃないかな。君は高音の方が綺麗だから
(と、そっと誉め言葉を挿入するのも忘れないし、この指摘は実に的確で、
レヴァインが声について、きちんとした理解を持っていることがわかります。)”
ここで、いつぞやのマスター・クラスで、”あなたはメゾでない!”と言われ、立ち往生した学生さんとは違い、
そこはきちんと候補の曲の中に、やや高めの音域で勝負できる曲を盛り込んでいるのはさすがなんですが、
その曲ですら、”あまり準備が出来てないみたいだから。”とおざなりなアドバイスしか出ません。
レヴァイン、冷たっ!
しかし、彼女の方にも考えるところがあるんじゃないかな、とも思います。
彼女の声自体は軽めながら高音も綺麗だし、むげに駄目出しされるようなものではなくて、きちんとした発声もしているんですが、
”君は何のために歌うのか?”
この問の答えで大失敗してしまったために、また、おそらくは彼女の歌からも、そのような意志を十分に感じられないがために、
せっかくレヴァインに貴重なアドバイスをもらえる機会を棒に振ってしまったのではないかと思います。

それと対象的だったのが、二番目に登場した、マンハッタン・スクール・オブ・ミュージックに在学中の、
ソプラノのロリ・ギルボー。
いわゆる”オペラ歌手”的体格で、なんだか、着るものによっては、
ヘビメタ姉ちゃんみたいな感じになりかねない風貌でもあります。
音域によってはすごく若くみずみずしくなったグレギーナのように聴こえる部分もあり、
実際、ものすごく声量もあるので、観客受けしやすいタイプの歌手ではあります。

まだ高音が完全には出来上がっていない感じがするのと、テクニックの面で磨いていかなければならない部分はありますが、
観客の耳を引くポテンシャルのようなものは持っていると思います。
何より、彼女のいい点は、きちんと何かを表現しよう、という意志を感じる点です。
レヴァインは彼女に関して、何かひかれる部分があったのか、
次々と色んな曲を歌わせてみたい、という感じで、3曲もトライさせたのは参加者の中で彼女一人だけでした。
その3曲目というのは、選択曲にも入っていない曲でしたが、何か英語の歌を、とリクエストされて歌ったもので、
”ここのフレーズを、最大の決心をもって宣言するような感じで歌って。”など、
次々とニュアンスを変えて歌うように指示されても、臆するどころか、
歌と表情の両方で、きちんとそれを表現できていたのは見事でした。
”誰か目の前に自分がものすごく恐れている人がいて、その人の前でおそるおそるおびえながら話すような感じで。”と言われた時には、
”まさしく今の(自分とレヴァインの間の)ような状況ですね。”と切り返す余裕まであるのですから、大したものです。
そんな彼女に、”今、君が操ったのは、母国語である英語だけれども、
そのような自由さで、どんな言葉の曲でも歌えるようになることが大事。”とレヴァイン。

レヴァインは具体的な歌唱テクニックについてのアドヴァイスはもちろん一切しないのですが
(それは声楽の先生の仕事の領域なので、、)、
微妙なリズムの取り方とか、アクセントなど表情のつけ方で、
どれほど曲の雰囲気や完成度が変わるか、ということを具体的に見せてくれる腕は本当に確かなものがあります。
彼女が一曲目に歌ったデュパルクの”フィディレ Phidylé”での、
Et les oiseaux, rasant de l'aile la colline(そして、鳥達は丘を翼でかすめながら)のrasant以降を
つい重くダダダダと歌ってしまう彼女に、気持ちテンポを前にとって!というだけで、
全然フレーズの雰囲気が違って聴こえたり、
また、二曲目のフォーレの”マンドリン”については、曲中に登場する連音符がどういう意味をもっているか考えなさい、
垂直に打ち付けるような音の取り方でなく、水平にしゃらんとなでるように、軽く!と説明するなど、
具体的なテクニックよりも、イメージを説明に多用して、歌手から望む歌を引き出すという手法です。
そして、能力のある歌手が歌うと、実際にそれですごく歌の雰囲気が変わるのが面白いのです。

ギルボーがエラルド・オペラ・コンペティションに登場した時に歌った、
ボーイトの『メフィストフェレ』から”いつかの夜、暗い海の底に L'altra notte in fondo al mare"の映像が
You Tubeにありましたので、参考までに紹介しておきます。




三番手のセシリア・ホールはジュリアード音楽院で勉強中のメゾで、
もちろんパートが違うせいもありますが、それよりも歌の持つ雰囲気の面で、
ギルボーと全く対照的な持ち味の歌手なのですが、地味ながらいいものを持っていると思います。
彼女は、ギルボーのように最初から観客に強い印象を残す声ではないのですが、
声がまろやか、歌唱が知的で、その歌には、いつの間にか引き込まれてじっと聴いてしまう、という種類の力があって、
私の真後ろで聴講していた女性も、”私、彼女の歌、好きだわ。”とおっしゃっていましたが、
それは、歌の内容を良く考えて歌っているからだと思います。
一曲目のブラームスの”永遠の愛 Von ewiger Liebe"での”相手の女性の答えが聞けないくらいなら
もう死んだ方がいい!”と思っているような切羽詰った男性の表現を含め、
緻密に物語を構築するのも上手いですが、
(ここではレヴァインから彼女に、男性、女性、
それぞれどのような気持ちが各フレーズにこめられているか、という質問が飛びました。)
マーラーの”Wer hat dies Liedlein erdacht? 誰がこの歌を作ったのだろう?"について、
レヴァインのお馴染みの”Your takeは?”の質問に、”おちのないジョークのような歌!”と答えながら、
そのナンセンスな歌をすごく魅力的に歌っていると思いました。

ただ一箇所、彼女はこの曲の最初のヴァースの最後に登場するHeideという言葉の長い音型を、
ワンブレスで歌うのが苦しいようで、ブレスできる個所になる前に、
溺れ死ぬ直前の遊泳者のように毎回空をもがいてレヴァインに助けを求めるのが面白かったです。
そんなにひどい切れ方ではないのですが、
フレーズの最初の方の音と質感を均質にしたいのに、それが出来なくて苦しんでいるんだと思います。
意識し過ぎて息を吸いすぎるのも良くない、など、色々アドバイスも出ましたが、
何度歌っても、ガス欠ならぬ、空気欠になってしまうので、
”しばらくは、もう一箇所ブレスしてもいいのでは?”という妥協案でおさまりました。

四番目の参加者はシンシナティ・カレッジの音楽科に在籍中のポール・ショルテン。バリトン。
まず、ラヴェルの『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』から
”ロマンティックな歌 Chanson romanesque"を歌うようレヴァインに指示された彼。
しかし、この曲の彼の歌唱が、びっくりするほどつまらなくて、なんだか音まですべてフラット気味に聴こえるんですけれども。
お経か何かと間違えそうです。
二番手、三番手と優秀な参加者が続いて、レヴァインも精根を使い果たしたか、
ふと見ると、”しゅーっ!”という顔(瞼が閉じて口がとがっている)になっていて、
起きているのか、寝ているのか、よくわかりません。
曲が終わった途端、おもむろに、”これ、全然つまんないから他のにしよう。”
あ、聴いてたんだ。一応。
レヴァインは、以前はマスター・クラスでも、全然そんなことがなくてどんな時にも精力的だったように思うのですが、
年齢や健康問題のせいで、前ほど我慢がきかなくなった感じがあり、今日のマスター・クラスでも、
歌に聴くべきものがない、と感じると、それが、もろ、表情や言葉に出ます。
この『ドゥルシネア~』は三曲セットになっているんですが、真ん中をとばして、次は”乾杯の歌 Chanson à boire"に。
さすがにさっきのお経よりは歌唱はましになったんですが、まだレヴァイン的にはつまらないのか、
乾杯の歌というよりも、酔っぱらいの歌と言ったほうがよい感じな歌だけに、
”(歌の内容は)悪くないよ。後は、しゃっくりを一つか二つ入れれば完璧。”と、
冗談とも真面目ともつかないアドヴァイスを飛ばし、
(それでもやっぱり半分はまじめなのか、ちゃんと、”ここで、こうやって!”と、
場所ややり方まで、指定はしてました。)
挙句の果てには、あのギルボーの時に、”これ歌ってみて。””次はこれを聴かせて。”と言っていたのとは対照的に、
”じゃ、残りの選択曲のシューベルト、どれでも好きなの歌っていいよ。”
、、、、。 どうでも、よくなってますね、レヴァイン。

とはいいながら、ふと、こいつに魔王を歌われたら、名曲が、またどんな退屈なお経になるか、、と思ったか、
”ミューズの息子”はどう?と尋ねるレヴァイン。
すると、”ピア二ストのニールセン君の希望もあり、魔王がいいです。”
レヴァイン、”本当に魔王でいいの?”
ショルテンとニールセン・コンビが顔を見合わせて、がっちり。”はいっ!!”

これはとんでもない珍品になるんじゃ、、と聴講者が耳を澄まし始めたその”魔王 Erlkönig"。
いや、これが予想に反して、すごく面白かった!
ピアニストのニールセンが自分で弾きたい、と言っただけあって、緊張感のある伴奏だし、
語り手、父親、息子、そして魔王の四者を、顔と声色全部使って、くるくると変身するショルテンが強烈。
なんだか、一人マペット・ショーみたい、、。
おそらく一番地声に近い語り手の部分、それから少し深めに威厳をもって歌う父親のパート
(ここでの彼の声は魅力的でした。)はともかく、
魔王の姿(あるいは幻影)を見始めている病の息子に扮して、目をおっぴらいて頼りなげなちびっ子声で歌う子供のパートに至っては、
私の隣に座っていたおば様はあまりの強烈さに耐えられなくなったか、下を向いて肩をひくひくさせていました。
しかし、私が彼の歌で上手いと思ったのは、魔王の部分の味付けで、
最初の猫なで声で擦り寄ってくるところの不気味さは鳥肌が立ちましたし、
それが段々と子供を落す(つまり、死に至らせる)に至って地が出てくるかのように、
声に力が漲っていくところとか、すごく良い表現だと思いました。
こういう歌は、フィッシャー=ディースカウのような洗練された歌とは全く反対の極地にあるんでしょうが、
こういう歌が存在していて、どうしていけないのでしょう?
曲が終わった時に、この曲って、こんなにどきどきさせられるような歌だっけ?と思い、
家に帰ってから、色々音源を聴いたりしてみましたが、上手いな、と思う歌は数多あれ、
今日の彼の歌から受けたようなダイレクトな感じは味わえませんでした。
歌の最初から最後まで0.1秒ともだれる瞬間がなかったのですから、これはすごいことです。

レヴァインも曲が終わった瞬間、両手で親指をあげて彼の歌を賞賛し、一言。
”こういう歌へのコミットの仕方をされると細かいことはどうでもよくなるね。”
、、、誉めてるんだか、微妙にけなしてんだか、よくわからない表現ですが、
でも最後に、”でも、こういう歌への取り組み方は素晴らしいし、私は大好きだよ。”
また、ピアノの伴奏では定評のあるレヴァインが、
この曲の伴奏の基調になっている繰り返し現れるフレーズは設定が実は非常に難しいのに、
ピアノはよく頑張った!と、伴奏者にもお褒めの言葉がありました。

最後の本参加者は、オクラホマ大学に在学中のセリア・ザンボン。
英語に少し訛りがあるな、と思ったのですが、フランスの方のようです。
どこか、ジャッキー・O(ジャクリーン・ケネディ)を思わせるレトロな佇まいのソプラノ。
彼女が挑戦したのは、シューベルトのこちらも大メジャー曲、”ます Die Forelle"。
彼女の歌に関しては、”綺麗な声”としながらも、”少しプレゼン的すぎる”との指摘がレヴァインからありました。
そこで、英語で歌詞の意味を言ってみてくれる?と言われると、
”きらきら輝く小さなせせらぎに、、”とさらさらさら、と英語で歌詞の内容を喋り出した彼女。
するとレヴァインが、”そう!今話したような感じで歌ってみて。お友達に今日あった出来事を話すような軽い感じで。”
しかし、どうしても歌い始めると私、歌ってます!という感じになってしまう。
それから、彼女はある旋律に来ると、”きゃぴっ!”と両手を鞄を下げているような形に持ち上げる癖があって、
”そんな風に、この曲はかわいいの!とアピールすることはないんだよ。”とレヴァインにばっさり斬られてました。
少し声が浅い感じがするのと、本人の持ち味なのか、歌えるレパートリーに、
技術というよりはむしろ、このお嬢キャラのために限界があるのではないか、と感じる、
ちょっと不思議な、ある意味は個性の強いタイプの歌手です。

オルタネートにも、機会をあげたいのですが、というレヴァインの提案で、
ドミニク・ロドリゲス(オベリン大/テノール)はデュパルクの”ローズモンドの屋敷 Le Manoir de Rosamonde"を、
マシュー・ヴァルヴェルド(イーストマン・スクール・オブ・ミュージック/テノール)は
ドビュッシーの”憂鬱 Spleen"を歌いましたが、
本参加者に比べると、かなり技術が粗く、声もきちんと出来上がっていないような印象を持ちました。
ただ、レヴァインも気遣っていましたが、ここに至るまでには、
全く歌わずにおよそ2時間半座りっぱなしだったので、それでいきなり歌うというのは難しい面もあったかもしれません。


Participating Artists
Julia Dawson, Mezzo-Soprano
Lori Guilbeau, Soprano
Cecelia Hall, Mezzo-Soprano
Paul Scholten, Baritone
Célia Zambon, Soprano

Alternates
Dominick Rodriquez, Tenor
Matthew Valverde, Tenor

Pianists
Lio Kuokman
Adam Nielsen

Zankel Hall

*** The Song Continues... Master Class: James Levine
ザ・ソング・コンティニューズ マスター・クラス ジェイムズ・レヴァイン ***

VIENNA PHILHARMONIC ORCHESTRA (Sun, Jan 17, 2010)

2010-01-17 | 演奏会・リサイタル
ヨーロッパのメジャー・オケの中でも、渡り鳥のごとく、毎年決まった頃にNYを訪れて、
しかもそれがいつも人気の公演になるという点では、ウィーン・フィルに勝るものなし。
というわけで、今年もまた渡り鳥飛来!です。

以前、どこかの記事で書いたと思うのですが、同一オケが複数の日にちにわたって演奏する場合、
歌ものが含まれているか、オペラ作品からの抜粋が含まれている公演を選ぶ、というのを掟にしている私ですので、
それで行くと、普通なら、トリスタンとイゾルデ』の前奏曲と”愛の死”がプログラムに入っている
15日の初日を選んでいるはずなのに、その日を外してなぜか、今日の公演のチケットしか手配していませんでした。

チケットは、カーネギー・ホールの公演も、ほとんどシーズン前に購入しているので、
記憶力の低下著しい昨今、もはやはっきりした理由が思い出せないのですが、
一つ考えられるとすれば、一部に熱烈な信奉者を持っているように見受けられるバレンボイムの指揮するワーグナー、
これに私がどういうわけだか熱くなれない、ということを、昨シーズンのメトの公演で学習したからかもしれません。

しかし、その15日を選ばず、今日の演奏会を選んだおかげで、面白いことになりました。
というのは、今日のメインはベートーベンの5番、そして、丁度一週間後のメト・オケの演奏会のメインもベートーベン5番。
こんなに近い日にちで聴き比べることになるとは、まさに”運命の対決”です。

メト・オケとの絡みで言うと、今日のウィーン・フィルのプログラムには、
それこそ、レヴァインが選びそうな作品が二つも入っています。
『運命』を聴きたければ、この拷問を通過しな!ってか?

開演前にラウンジで同じテーブルになった年配の女性とおしゃべり。
カーネギー・ホールには良くいらっしゃるの?とお聞きになるので、
”いえ、ほとんどメトばかりで、その合間に時々しか、、。”と言うと、
”メト・オケもいいオーケストラだけれども、ウィーン・フィルのようなオーケストラはこの世に他にはないわ。
あのサウンドを出せるオーケストラは彼らだけ!
もう毎年彼らがNYに来るのが楽しみで楽しみで!”という、筋金入りのウィーン・フィル・ファン。
とても、”でも彼らって時々演奏から傲慢な感じが滲み出ませんか?”とは口が裂けてもいえなさそうな雰囲気です。
その女性が言うには、”15日の『田園』とワーグナーは、あなた、素晴らしかったわよ。
それに最後にポルカだったかワルツだったか、アンコールも演奏してくれたのよ!”
むむむ、、、やっぱり公演日を選び間違えたか、、?
オペラに関連ある曲でいい演奏を聴き逃した、と聞くと、とても悔しい。

”あら、でも、確か、来週はメト・オケもベートーベンの5番を演奏するんじゃない?”
なにげにウィーン・フィル以外のオケについても詳しいおば様なのでした。
”そうなんですよ。だから5番はとても楽しみで。”と言うと、突然おば様が溜息。
”なんだけど、5番に行くまでの前半がヤよね。シェーンベルクはまだいいとしてもウェーベルン、、。おえっ。”
あはは、気持ちわかる。でも、”あれ?ウェーベルンなんて、ありましたっけ?”
で、急いでプレイビルをチェックしたおば様が、”あら、ごめんなさい。ブーレーズ、ブーレーズ!
本当にこれなら前半飛ばして後半に合わせて来ても良かったわね。雨も降ってるし。”
そうそう、興味がなけりゃ、シェーンベルクもウェーベルンもブーレーズも似たようなもんです。
作品名に、”5つの~”とか、”6つの~”とか、やたら数字がつくところも何か腹立つんですよね。
そんな名前じゃ、覚えられないでしょうが!っていう、、。

そんな、シェーンベルクの”5つの管弦楽曲”から、今日の公演はスタートです。
ウィーン・フィルは毎年連れてくる指揮者が違っているのが楽しみの一つでもあるんですが、
段々順にさかのぼっていくと、去年がメータ、その前がゲルギエフ、そしてその前が今年と同じバレンボイムでした。
(今年はバレンボイムがピアノを弾く公演日があって、その日だけは指揮がブーレーズでしたが。)
その3年前の演奏会では、バレンボイムが体調悪そうな上に、しかもウィーン・フィルがかなり傲慢な感じのする演奏で、
なんと後味の悪い演奏会だろう、、と思った記憶があるんですが、
今日はバレンボイムは元気そうだし、それから何よりオケの雰囲気がその時とは、
いえ、その時だけではなく、その後に続く年の演奏とも、少し違う感じがしました。
で、良く見てみると、コンマスが、いつもの頑固おやじ(ライナー・キュッヒル)じゃない!
これまでたまたまそういうめぐり合わせだったのか、
少なくともこのブログを始めてから聴きに行ったウィーン・フィルの演奏会では、
全てに頑固おやじがいた記憶があるんですが、15日の演奏会のNYタイムズの評でも、
ライナー・ホーネックという別のコンマスの名前が出ているので、
今回のNY公演は、もしかしたら、頑固親父が同行しなかったのかもしれません。

もちろんキュッヒルはただの頑固親父なわけではなく、素晴らしい奏者であり、コンマスだろうとは思うのですが、
私はオケ全体の音色としては、今日聴いたウィーン・フィルが、ここ数年では一番好きです。
特に弦セクションについては、優れたオケの中でもそのさらに上を行っている、という
ウィーン・フィルへの世の中の認識を、初めて実感を伴って感じました。
ウィーン・フィルのヴァイオリン・セクションのボウイングの揃っていることは定評がある(はず)ですが、
正直、そこまですごいかな、、とNY公演では思わされることが多かったんですが、
今日のような演奏をされると、確かにこの弦セクションを超えるのは、
そうやすやすと他のオケに出来ることではないわな、、と思えて来ます。
それから、今日は、弦セクションを中心に、音が真摯になった感じがするのと、
上手いなかに、優しさがあるのもいいな、と思いました。

そんなオケが演奏する作品なんだから、もうちょっと楽しめてもいいと思うんですけれども、
シェーンベルクのこの作品は、私は心で感じることが出来なくて、いらいらしてしまいます。
オケが細部に至るまで丁寧に演奏しているので、色んな楽器が織り成す音色の妙というか、
そういうものの面白さは感じるんですが、なんだかこの作品を聴いていると、
”化学実験”という言葉を思い出します。
好きでない作品をこれ以上分析してみてもしょうがないし、
仮に面白い部分があるとしても、私には見えていないということですから、
マジックのように何もないところから鳩を取り出すような真似はしたくないので、これ以上は何も書きません。

それは、ブーレーズの作品”ノーテーションズ”についても同じです。
というか、この作品は、かなり大きな贅沢な編成のオケで演奏されるんですが、
作品に関しては演奏中にほとんど脳が思考停止を起こすというか、
その点ではシェーンベルクの時よりもひどいのかもしれません。
覚えているのは、最後に演奏されたIIの、打楽器パート(ティンパニも入れると合計9人!)の複雑さと、
それに被ってくる他のセクションのリズムの面白さ、くらいでしょうか。
この先、私の人生で二度と耳にすることがなくても、何ら困らないし悔いもないであろう作品です。
ブーレーズ、すまない。

拷問の後にたどり着いた『運命』。

私がメトでのバレンボイムの『トリスタン』を好きになれなかった理由というのは、
”ものすごくそこに近いのに、微妙にそこではない”感じがするからなんですが、
それについては、メトのオケが彼の要求に答え切れなかったのかな、という
可能性を完全に排除することがこれまで出来ませんでした。

けれども、私は今日の『運命』にも、すごくそれと似た印象を持ち、
これはやはりバレンボイムの指揮の特徴なんじゃないかな、と思いはじめています。
彼の指揮は際立ってまずい部分があるわけでもないし、全体としては上手く流れているように聴こえるんですが、
ものすごく精巧に作った人形を見ているような気持ちになります。

例えば、頭の有名な”じゃじゃじゃじゃーん”のフレーズ。
人形っぽくない、本当に熱い演奏というのは、このフレーズが繰り返しで出てくる直前の、
弦の長めの音の音色とか、その後にふっと一瞬出来る無音の部分の緊張感とか、
そういう部分に現れると思うのですが、
バレンボイムの今日の指揮からは、すごく器用で、巧みであるのは間違いないのに、
なぜか、そういう魂の入り方を感じることができないのです。
それは最終楽章でも同じで、本当に何かに突き上げられてそれが爆発するというよりは、
盛り上がるために盛り上がっているような、そんな感覚を持ちます。
彼の指揮からは、いかにその作品”らしく”演奏するか、ということの方が、
これで自分たちは何を表現したいか、ということよりも大切なように感じられるのは、私だけでしょうか?

全体としてはオケの音は真摯でまとまっている、と先に書きましたが、
実は前半から、一つだけ気になっていたセクションがあって、それはホルンです。
弦に負けず劣らずウィーン・フィルらしさを作っているセクションなので、
プライドがあるのはわかりますが、彼らの演奏は自分勝手過ぎます。
上手い演奏が聴ければいい、というタイプの聴衆には何ら問題はないのですが、
オケの一部として音楽を作っていく、ということを重視している聴衆にとっては、
せっかく全体のまとまりとしては良い方向に進んでいるように感じられた今日のオケの中で、
最大の足引っ張り屋となっていたのが彼らでした。

というのも、バレンボイムの指揮を無視するのが一度や二度のことではない。
彼の指示をシカトし、好きに演奏してしまっているのです。
それは、まるで、ウィーン・フィル高校で、バレンボイム先生が、
”じゃ、君、32ページから読んでみてくれる?”とある学生を指して言うと、
この生意気な学生が立ち上がって、わざと、35ページ目から読み始めるのに、
それを制止して、”32ページからと言っただろう?”と言えないで、
バレンボイム先生の方が、あたかも学生が35ページと聞き違えた振りをする芝居に徹して、
何も言わないでい続けているるような、そんな変な居心地の悪さを感じるのです。

でも、3年前の演奏会では、これがホルンだけではなくて、もっとたくさんのセクションに波及していて、
しかたなく頑固親父が、ふがいないバレンボイム先生に代わって、
影番のようにクラスをまとめている、という状態でしたから、
今は他のセクションがまとまっているだけよしとせねばならないのかもしれませんが。

最終楽章でさらに気になったのは、セクションからセクションへ音がバトン・タッチされながら、
音が膨らんでいくはずが、途中で時々、歯をところどころ欠いた櫛のように、
気が”抜ける”感じがする部分があったことです。これは何だろう?と思いながら聴いてました。

良い部分を説明するのは難しくて(良い音楽を言葉で表現するというのは本当に難しいと
ブログを始めてから思います)、逆に気になった部分を書く方は比較的簡単なので、
今回の感想はかなり辛口に写るかもしれませんが、きちんとした水準の演奏であったとは思います。
ここできちんとした、というのはウィーン・フィルとしてきちんとした、という意味なので、
普通で言えば、かなりの高水準です。
ただ、オペラが好きな私は、いえ、そうでなくても多くの人がそうだと思いますが、
シンフォニー系の曲からも、ただ演奏が高水準なだけでなくて、何かを感じさせてくれないと物足りないのです。

最後の拍手の中、ホルンのセクションを立ち上がらせたバレンボイム。
ウィーン・フィルを指揮するということは、一筋縄では行かない、大変なことだ、、と思います。
学生に気を使いまくった後では、当然のことながら、アンコールはなし。


Vienna Philharmonic Orchestra
Daniel Barenboim, Conductor

ARNOLD SCHOENBERG Five Pieces for Orchestra, Op. 16
PIERRE BOULEZ Notations I, VII, IV, III, and II
LUDWIG VAN BEETHOVEN Symphony No. 5 in C Minor, Op. 67

Carnegie Hall Stern Auditorium
Center Balcony J Odd

*** ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra ***

Sirius: CARMEN (Sat Mtn, Jan 16, 2010)

2010-01-16 | メト on Sirius
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をシリウスで聴いたものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

ぬかりました。
HDの収録日の公演なのに、チケットを抑えていませんでした。どうせ、とれるだろう、と思って。
大晦日の公演が終わった時点ですでに、普通にウェブではチケットが買えなくなっていて、
公演の前日まで、毎日メトにキャンセルになったチケットが出てきてないか、電話をかけ続けました。
しまいには親切なパトロン・デスクのスタッフのおじ様が、
”この公演日は異常な人気になっているから、多分、チケットをとるのは無理だよ。
悪いことは言わない。努力と時間の無駄になるから、おあきらめなさい。
ボロディナとジョヴァノヴィッチのチケットならたくさん残っているから、それを抑えてあげようか?”
いや、それじゃ意味ないから!
”それだったら、もう一日、カウフマンが登場する公演日のチケットを足します。”と、
意味なく、全然違う公演日のチケットを買い足したりして、
しかし、自身が猛烈なヘッドであり、やはりカウフマンが大好き!でいらっしゃるおじ様と、
”2006-7年シーズンの『椿姫』でのカウフマンを聴いたか?”
”もちろん!あれで私はカウフマンを好きになったんですものー。”という話で盛り上がり、
さらには共にコレッリが最大のアイドルであるという共通点まで発覚。
おじ様と1時間以上も話し込んでしまいました。

しかし、いかにも彼は正しかった。
そう言われつつも、毎日電話をかけ続けたのに、やっぱりチケットはとれなかった、、、人生最大の不覚、、
考えてみたら、今シーズンのチケットをまとめて買った時、ゲオルギューがカルメンを歌うはずだったから、
2回も聴く必要ないや、と抑えずにいて、そのまま来てしまったのでした。

実演が駄目なら、HDがある!!
と、今日は映画館でHDを観るつもりだったんですが、なぜか、いつもは元気一杯で手に負えない次男(犬)が、
珍しく昨夜から体調を崩し、連れと2人で夜通し様子を見て、今日もとても心配なので、家でのシリウス鑑賞に予定変更です。
でも、これも神様の思し召しか?実演をあきらめなければならなかったとしたら、断腸の思いだったでしょうから。
いくら私がオペラヘッドと言っても、次男への愛はそれ以上です。

というわけで、今日は近所を顧みず(っつーか、どうせ、あらゆる音が筒抜けの安普請な戦後に出来たアパート
だから細かい気を使っても意味ない。)、
映画館にいる気分でスピーカーから大音響で『カルメン』を鳴らさせて頂きます。

まず、びっくり仰天のアナウンスがありまして、
今日のエスカミーリョは、予定されていたマリウス・クウィーチェンが病気なのに変わって、
テディ・タフー・ローズが代役で登場です。
クウィーチェンのエスカミーリョはかなりヘッズの間で評判が悪かったですから、
DVDにもなってしまうかもしれないHDで、一生の生き恥を刻印するよりも降板することを選んだものか、
本当に病気なのかは良くわかりません。一応、インターミッションでは、
ローズがメトから交代決定の電話があったのは朝の10時だった(公演は1時開演)と語っていましたが、
彼の登場を楽しみにしていた方には残念としても、完璧なコンディションでない状態で歌うのをクウィーチェンが避けたのは
賢明な選択かもしれないとは思います。

ちなみに、テディー・タフー・ローズは、2007-8年シーズンの『ピーター・グライムズ』で、
ネッド・キーン役を歌っていたニュー・ジーランド出身のバリトンで、シックス・パック系ナイス・ボディで、
これなら衣装がちんちくりんでほとんど漫画のキャラ化しかけていたクウィーチェンのエスカミーリョと違って、
あの衣装が映えて見目麗しいだろうなあ、、と思いますが、今日はその姿を想像しながら聴くしかありません。


(2007年、オペラ・オーストラリアの『ドン・ジョヴァンニ』に表題役で出演中のローズ。
顔が隠れてますが、決して隠さなければまずいような顔だからではありません。どちらかというと男前です。
髪が薄いですが、それは突然に髪が豊かになったカレイヤに習って対処すればノー問題です。)

まず、ネゼ・セギャンの指揮とオケ。
今日は本当に気合が入っていて、大晦日の公演より、ずっと、ずっと、いいです。
大晦日の公演では序曲の部分から全開の、彼のスピーディーな指揮
(中には早く終わらせてとっとと年明けを祝う乾杯でもしたかっただけなんじゃないか?
と皮肉っているヘッドもいましたが。)が話題になっていましたが、
私には、少しスピードが空回りしているように感じました。
けれども、今日の演奏は、同じ早いスピードにありながら、それが上滑りせず、エキサイティングな演奏になっていて、
数箇所、合唱とオケのコーディネーションが悪い個所はありましたが、
(大晦日の演奏でも、一つどころに集中しすぎるあまり、よそがお留守になる、という現場をみかけました。)
全体として、活き活きとしたいい演奏で、今後を期待される若手指揮者という評判は、誤りではないと思います。

ガランチャ。彼女はまだ完全に熟す前だとしても、本当に優れた歌手だと思います。
よそのブログで、彼女をメゾ・ソプラノ版のダニエル・デ・ニースと呼んでいる人がいて、
どこをどう聴いたらそうなるんだ、と、PCのスクリーンに向かって熱い茶でもふっかけてやりたい位でした。
要はルックスだけで実力が伴っていない、ということを言いたいんだと思いますが、
今日の公演の彼女の、”花の歌”のすぐ後の、
”いいえ、あんたは私をもう愛しちゃいないのよ Non, tu ne m'aimes pas!"という言葉のpasの音の表現力とか、
こういうのを聴いてもまだ彼女のことをハイプと感じる人は、耳垢がつまっているんだとしか考えられない。
スタミナやペースの配分も申し分がないし、とにかく彼女は公演による出来、不出来の差が小さいのもすごいです。

それに比べると、大晦日から、ずっと風邪なの?と突っ込みたくなるアラーニャ。
下で紹介する音源からもわかると思いますが、健康的な(概念としてではなく、実際に)声にはとても聴こえないんですが。
彼に関しては、『カルメン』に限らず、ここ数年で私が観た公演のおよそ2/3くらいがこういう感じなので、
私はもうこれが彼のデフォルトの声になり始めているんじゃないか、と思っているくらいです。
HDで張り切りすぎたか、声をかばおうとして、必要以上に歌唱が芝居がかっているのも私にはちょっと下品に感じられるんですが、
これは聴く側の好みもあるかもしれません。
大晦日の公演時は、こんなオーバーな芝居を入れる余裕がなかったのがかえってよかったのかも、、と思います。
ずっと、声のコンディションが悪く、初日から”花の歌”のラストのB♭をしくじっているので、
今日はもうアラーニャが最初からすごく固くなっているのがわかります。
私はこの歌は、こんなに最初から力まないで歌われる方が好きで、古い録音(1928年)なゆえ、
歌唱スタイルもレトロで、今の時代に標準に比べると技術もやや粗い感じがするかも知れませんが、
このジョルジュ・ティルの歌唱のようなのが理想です。
いい声なんですよね、このティルが。




ここでのティルはB♭を思い切り歌い上げる方法をとっていますが、
今日のアラーニャはこれをピアニッシモで歌おうとして意識しすぎ、
B♭の音自体よりも、ピアニッシモで歌い初めたその音を含めたまとまったフレーズの最初の音から、
音をきちんとサステインできなくて、持ち直さなければならなくなってしまいました。
大晦日の時はここまで音を絞らずに歌っていたように思ったんですが、アラーニャ、勝負に出て見事に散ってしまいました。
合掌。

ローズのエスカミーリョは、声の質に関しては、クウィーチェンより、ずっと役にマッチしていて、
低音域の音がしっかり出ているのが魅力です。
実際、バス・バリトンではなく、バリトンとして通しているにしては、低音が強い人だな、と感じます。
ただ、この大舞台で頭が真っ白になっているのが、ラジオで聴いているこちらにまで伝わってきて、
私までどきどきしてしまいました。
オケから段々歌が走り出して、必死でネゼ・セグインが合わせているのも涙ぐましい。いやー、どきどきしますぅ!
そして、”a grand fracas!"のところ、一体、何が起こったんでしょう?
完全にオケと外れてしまったんですが、あまりに堂々と歌い上げているので、
オケの方が全員おかしいのかも、(そんなわけない!)と、思ったくらいです。
これだけ、正気を失っている歌手に、何とか最後までついていったネゼ・セグインは本当によく頑張りました。
また、それ以外の場面も、クウィーチェンの方が技術としては基礎能力が上で、
ローズは聞いていて、危なっかしい個所があちこちにあるんですが、
こうして、悪いことばかりあげつらっているようでも、これらの欠点にもかかわらず、
私はクウィーチェンより、彼の歌唱の方がスリルがあって(色んな意味で!)、面白い歌唱だったと思います。
歌と言うのは本当に不思議なものです。
ただし、彼は高音域に少し難があって、低音の強さと少しアンバランスな感じがします。

ティルの”花の歌”に続いて、エスカミーリョの”闘牛士の歌 Votre toast"での私の理想は、
もちろん、今までこのブログのあちこちのコメントで開陳して来た通り、サミュエル・レイミーです。
下の映像は1987年のメトの舞台で、指揮はレヴァインです。
カルメンは言わずもがな、のバルツァです。(座ってるだけなのに、すごい迫力。怖い。
理由もなく、ごめんなさい、と、謝ってしまいそうです。)




なんて、格好いいの。こんな猿顔なのに。
ただし、今日のローズは、このレイミーよりもさらにしっかりした低音を出していたように思って、ちょっと驚きました。
まあ、歌全体の完成度は比べるべくもありませんが。

ミカエラを歌ったフリットリは、初日から少し高音が苦しそうだったんですが、
今日の公演が一番安定していたと思います。
ビジュアルがあると、彼女の演技力もあって、ミカエラがホセの母親とオーバーラップしているようで面白いんですが、
こうやって音だけ聴くと、ちょっと老けた感じがするのは否めません。
彼女のこの役での歌の良さを感じるには、映像と一緒の方がいいと思います。

最後に今日の公演から、ホセがカルメンを刺し殺すに至る、
ラストの”C'est toi! C'est moi! あんたね!俺だ!”以降の音源をご紹介します。
ホセに向かってカルメンが言う”Eh bien, frappe-moi donc, ou laisse-moi passer!
いいわ、なら、刺してみなさいよ、そうでなきゃ、そこどきな!”(7'44")の迫力、
そして、カルメンが指輪をぽろんと落としながら吐く、憎たらしい”Tiens!"(8'30")や、
いつもはフライング拍手の嵐のメトにしては珍しく、最後の音の後まで聴いて
一瞬間があった後に拍手が出ている様子など(ああ、劇場にいたかった、、)をお聴きください。





Elīna Garanča (Carmen)
Roberto Alagna (Don José)
Teddy Tahu Rhodes replacing Mariusz Kwiecien (Escamillo)
Barbara Frittoli (Micaëla)
Keith Miller (Zuniga)
Trevor Scheunemann (Moralès)
Elizabeth Caballero (Frasquita)
Sandra Piques (Mercédès)
Earle Patriarco (Le Dancaïre)
Keith Jameson (Le Remendado)
Conductor: Yannick Nézet-Séguin
Production: Richard Eyre
Set and Costume design: Rob Howell
Lighting design: Peter Mumford
Choreography: Christopher Wheeldon
Associate costume designer: Irene Bohan
Solo dancers: Maria Kowroski, Martin Harvey
OFF

*** ビゼー カルメン Bizet Carmen ***

TURANDOT (Sat, Jan 9, 2010)

2010-01-09 | メトロポリタン・オペラ
1/4は、今シーズン、リチートラが初めてカラフを歌った公演でした。
その公演を見ていたオペラ警察が電話をかけてきて、
”こんなトゥーランドットをかけるなんてメトもいよいよ終わりだ。”と嘆き悲しんでいました。
同じ事を考えていた人はオペラ警察だけではないようで、
滅多なことでない限り、Bキャストのレビューは掲載されないNYタイムスに、トマシーニ氏の評が登場し、
なぜかそこにはリチートラが昨シーズンの『イル・トロヴァトーレ』にキャスティングされながら
結局歌わなかった事実などが書かれていました。
私がいつも愛読しているチエカさんのブログの読者の間では、トマシーニ氏はからっきし人気も信用もないので、
いつもののりで、”なんでまたトマシーニはこんな関係のない古い事実を持ち出してくるんだ。”
”そーだ、そーだ。”という、軽い非難のコメントが飛び交い始めた頃、
ある人がぴしゃっとこのようなコメントを入れました。
”関係なくなんかあるもんか。この批評で、トマシーニは暗にリチートラのキャリアが終わった、と宣言してるんだから。”
それ以降、トマシーニ氏への批判のコメントがぴったりと止みました。
誰もそのコメントに対して直接に返事を返す人はいませんでしたが、
我々、読者は思ったのです。”そうだ、、その通りだ!!”と。
私がオペラ警察から伝え聞いた、4日のリチートラの歌の内容は、それはもう惨憺たるもので、
”誰も寝てはならぬ”の後に、拍手すら出なかったというのです。
トマシーニ氏に、キャリアの終わりを話題にされても、仕方がないくらいに。

それからコメントの内容は、2002年に『トスカ』でパヴァロッティの代役をつとめて大絶賛を受けた、
あの華々しいメト・デビューの日から、どうやってリチートラが今のような状況に転落したのか、という議論になって、
その中でこんな内容のことを書いた人がいました。ただし、内容の真偽のほどはわかりません。

”彼はもともといい声を持ってはいたが、発声方法と技術には常に大きな問題があった。
周りの心ある人たちは、彼に、ちゃんと先生について、技術を洗いなおせ、と言い続けて来たが、本人が耳を貸さなかった。
メトの2008-9年シーズンの『トロヴァトーレ』に出演するにあたって、
シーズン前の夏に、スタッフの前で歌唱を披露したとき、その内容があまりにひどいので、
メトは彼を『トロヴァトーレ』の舞台には立たせられない、と判断した。
オペラ界のある重要な人物は、彼に、この夏の間に行いを正し、きちんとした歌唱を身につけない限り、
今後、彼を一級のオペラハウスにブッキングすることは出来ない、と宣言した。
(この重要人物というのが、オペラハウスの人間なのか、エージェントなのかは不明。)
彼はそこで、世界のオペラハウスで活躍していたある著名な女性歌手に師事することになるが、
レッスンは2回しかもたなかった。
(この”もたなかった”も、先生の方があきらめたものか、リチートラがあきらめたものか不明。)”

改めて言うようですが、このコメントの真偽のほどはわかりません。
けれども、”一時は未来を嘱望されたテノールがこんなことに、、哀れじゃのう、、。”という反応がほとんどで、
”そんな馬鹿な!”と反論する人がいるどころか、みんな”十分ありうる話”と受け止めたようでした。
連れにその話をすると、彼も”なんだか悲しい話だなあ、、。”と言い、
私が1/9にリチートラの歌が本当にそんなにひどいのか、実際に聴くのが楽しみ!というと、
”そんなことを言うもんじゃないよ。”と諭されました。

それから数日後、今日の公演を観る前に、別演目のシリウスの放送で、
なんとリチートラがインターミッションのゲストに登場しました。
数日前にひどい歌を披露したうえ、ヘッズにこんな噂までされて、シリウスの放送に登場するとは、並の神経じゃない、、、
と思っていたら、なんと、彼の口から、一昨年に(ローマで、と言ったと思います)生死に関わるような事故に巻き込まれ、
脊椎をやられたため、一時は舞台に戻れるかどうかもわからなかった。
今でも声を支えるのがとても辛い。”という話がありました。
私は彼がそんな大きな事故にあった、という話は聞いたことがなかったのですが、
リチートラの話と、上のヘッドのコメントの内容とは、時期的にも両立が不可能なので、
どちらかが真っ赤な嘘、ということになります。
そこで、私が連れに、”さすがにこんなことで嘘をつかないだろうから、
やっぱり不調なのには大怪我という理由があったんだね、、可哀想に。”と言うと、
”いや、わかんないぞ。オペラの世界はエンターテイメントの世界と一緒だ。保身のためなら何を言うやら。”
、、、、、この人ってば、突然ドライになるんですもの、わけがわかりません。



というわけで、本当ならマチネの『ばらの騎士』の余韻に浸っていたく、
中途半端に出来の悪い公演を見せられたら発狂しそうですが、
この公演は中途半端どころか、底辺のそのまた底辺な演奏になる可能性があるうえ、
しかもこのちょっとゴシップ的な興味のせいもあって、ダブル・ヘッダーの疲れゼロ、
ぎんぎんモードでサイド・ボックスから舞台を見つめています。
ここはかなり舞台に近いので、リチートラのちょっとした表情の変化も見落とすまい!と。

私、ネルソンスの指揮を見るのは今日で2回目なんですが、すっかり彼の指揮の物まねを会得しました。
早速この公演の後にオペラ警察にそれを披露して爆笑されたんですが、
なんでそんなことが可能かというと、彼の指揮って本当にワンパターンなんです、毎回。
それでも、11月に聴いた時よりは、演奏はほんの少し、ましだったように思います。
ただ、オケ側はもう彼をある程度見限っているし、彼もそれに気付いているように見受けました。
オケが指揮者を尊敬している時って、すぐにわかるし、それはまた指揮者側に自信となってあらわれるものです。
それでも若くて話題のアーティストは全部捕獲!がモットーのゲルブ氏には気に入られたのか、
ネルソンスは来シーズンも複数の演目で登場するようですが、
大変だなと思います、この信頼感を失った中でオケを率いるのは。

リューが11月の公演のポプラフスカヤから、Bキャストのコヴァレフスカ
(名前が微妙に似ていてややこしい!)に変わっていたのですが、
今日、コヴァレフスカとネルソンスの息がとても合っていて、コヴァレフスカが歌いやすそうにしているので、
”なんで??!!”と思いましたが、良く考えるとこの2人は共にラトヴィアの、それも同じリガというところの出身。
私がネルソンスの指揮で、しっくり来ない部分も、ラトヴィア人同士には通じ合うのかもしれません。
それにしても、ラトヴィアは美形が多い国なんだろうか、、。
(下の写真はコヴァレフスカ。アジアン・メイクも似合ってます。)



私は今日の公演で、本当に声とか発声について色々考えさせられたことがあって、
舞台全体、また、『トゥーランドット』という作品そのもの、として感激を受けたり、
満足が行くものではありませんでしたが、観に行った価値は大変にあったと思っています。

まず、コヴァレフスカなんですが、彼女は決して声に恵まれているタイプではない、というのを実感しました。
超美声でもないし、他のソプラノと比べて、”あ、コヴァレフスカだ!”とすぐにわかるような、
際立った個性があるわけでもない。高音域にはあいかわらずストレインがあるし、色々問題もあるんですが、
それでも、今日のメイン・キャストのうち、最も拍手が多かったのが彼女です。
それは、もちろん、リューはいいアリアがあって、役得という面もありますが、
何より、音を発した時に、きちんと芯があってそれが前に飛んでいる。
だから、皮肉なことに、他の2人(トゥーランドットとカラフ)と比べても、
最も音がしっかりとオペラハウスに鳴っているのが彼女なんです。



リチートラは、聞いていたほど悲惨ではない、と思いました。
というか、悲惨なのかもしれませんが、私は何よりきちんと役の準備をしていない人が嫌いで、
そういう人が案の定悪い結果を出すと、気分がむかむかするんですが、
リチートラの歌はそういうんでは決してないんです。
というか、フレージングを聴くと、むしろ、”役自体”は、相当頑張って準備して来たという風に感じます。
問題は、それ以前の、声と発声です。
まず、彼の声には、このカラフ役を歌うことを正当化できる要素が何一つありません。
今すぐに、この役からは手を引くべきだと思います。
彼は、メトにカヴァラドッシでデビューして、それが成功を収めてしまったことが、
ずっとキャリアにおいて、誤った方角に行く源になってしまったように思います。
彼は本来、かなり軽めなテクスチャーの声で、そのテクスチャーは声量で押しても変わるものではありません。
4日の公演の評判が悪かったのも多分耳にしているでしょうし、
何より彼自身、自分の歌が最悪だった、というのはわかっているはずです。
今日はそれを取り戻そうと、全力を振り絞っているのはわかるんですが、
必死になって声量一杯一杯にあげて歌っても、テクスチャーがこの役と合っていないんですから、それは無意味です。
それから、コヴァレフスカみたいな人と比べると良くわかるんですが、
彼が出す音は、音の芯がないというか、中心がはっきりせず、頭の周りで横に拡散してその場で消えてしまうような感じがします。
以前の彼はこんな風ではなかったと思うんですけれども、、。
それとも、これが脊椎を損傷して、踏ん張れなくなった結果なのか?

”誰も寝てはならぬ”の低音は、ジョルダーニと違ってちゃんと存在してましたが、
(ジョルダーニはこの曲の低音が全く出ていなかった。)
逆に高音の方は出来るだけリスクを取りたくないのか、二幕のトゥーランドットとの一騎打ちの最後で、
慣例的にハイCを出す個所がありますが、ジョルダーニは毎公演、この音を出していた
(かなりきつそうだったですけれども。)のに対し、リチートラは4日と今日の両方、その音を避けています。
頑張ってはいるんですが、この世の中、頑張りだけではどうしようもないこともあるんです。
オペラで自分の声に合わない役を歌おうとしても、頑張りだけではとても埋め合わせられるものではありません。



それから、キャリア・パスという面で。
先にふれた、因縁の『トロヴァトーレ』交代劇で、リチートラの代わりにマンリーコを歌ったマルセロ・アルヴァレスですが、
私の基準では、アルヴァレスのマンリーコはもちろん、今シーズンに歌った『トスカ』のカヴァラドッシなんかにしても、
軽い方の部類に入るんですが、
ただ、リチートラとアルヴァレス、同じようにこれらの役を歌っても、
アルヴァレスは、ベルカント、ヴェルディの軽めのテノールの役(アルフレード、マントヴァ公)、
フランスもの、などをきちんと経ながら、そこに至っていった、という経緯があります。
逆にリチートラはいきなりカヴァラドッシの代役で成功してしまったことが仇になったか、
少なくともメトでは、本来は軽い声なのに、(それから、もしかすると、ベル・カントなんかを歌える技術がないから?か、)
重いほうへ、重いほうへ、とレパートリーが流れてしまっていったように思います。
(私は数年前のリチートラのカヴ・パグは役の解釈とか演技が新しくて面白いと思いましたが、
声だけの話をすれば、ヴェリズモももちろん彼には負荷が大きいと思います。)
その結果、アルヴァレスがまだまだ健康的な声で歌えているのに対し、
リチートラは、下手すると彼のキャリアは終わりか?というような話までされてしまうほどに
今、やばい状況になってしまっているのです。
10年前にスカラで彼をマンリーコ役に抜擢したムーティ、、、重罪です。
あんな怖いおっさんに魅入られた日には、リチートラもNOとは言えないでしょう。
でも、言うべきだったのです、きっと。

アリアの後に変な沈黙にならないよう、今日はネルソンスが気を利かせ、
”誰も寝てはならぬ”の後は観客に拍手の判断をゆだねる時間を与えないよう、
オケをとめずにサクサクと進んでいきましたが、(だし、私は仮にアリアがすごく上手く歌われても、
ここで止まらずに、ガーッとすすんでいく方が好きなんですが。)、
最後のカーテン・コールに出て来た時に、まるで死刑判決を待つ罪人のように、
弱気な、おびえた表情をしていたのには本当に胸が痛みました。
たった数年前までは、こんな心配をしたことがなかったはずの彼が、です。
観客からは温かい拍手が出て、ほんの少し安心したようですが、それでも、歌手というのは、
自分の力が落ちて来た時、他の誰よりも自分でわかっているものですので、
短く切り上げて、すぐに幕の後ろに姿を消したのも、見ていて辛かったです。
この後の公演の出来にもよるのかもしれませんが、もしかしたら、メトで彼を見るのはもう最後に近いか、
もしかしたら、実際に最後になるかもしれない、、という思いがふっと頭を掠めました。



最後にトゥーランドット姫を歌ったリンドストロームについて。
彼女はシーズン初日に、病欠のグレギーナに変わって同役を歌い
グレギーナとは全く違うタイプのトゥーランドットとして話題を集めました。
何より、グレギーナの磨耗しきった声とは違って、まだ声がみずみずしく、
リリカルにこの役を歌える、として、グレギーナに食傷気味だったヘッズは、彼女の登場を歓迎しました。
私も大体似たような考えでしたので、今日の公演で彼女を聴けるのを楽しみに来たのです。

しかし、彼女が登場して、”この宮殿の中で In questa reggia"を歌い出した瞬間、思いました。
”声、細っ!”
これだから、今までに一度も生で聴いたことのない歌手に関しては、シリウスはやっぱりあてにならない、、。
マイクを通してだと、グレギーナまでは行かなくても、もう少しサイズのある声かと思ってました。
綺麗な声なんですけどね、すごく。
綺麗というのは、文字通り、ちょっと鈴の音のような感じがあって、
トゥーランドットよりも合う役があるんじゃないかな、、と思います。
どういう経緯でトゥーランドットがレパートリーに入ったのかわかりませんが、
フル・スロットルで出す高音は音が痩せ気味になるので、本来、あまりこの役に向いた歌手ではないと私は思います。
彼女の第ーの魅力である、声の美しさを保てる音域で勝負できる役が他にあるでしょう。
彼女はあと、舞台ですごく綺麗に見える、得なルックスをしてます。
本人の地の写真を見るとそんなに痩せているようには見えないんですが、舞台ではすごくスリムに見えますし。
もう一つ評価できるのは、彼女らしいトゥーランドットを作ろうとしている意志を感じる点です。
一幕、カラフが謎解きに挑戦することを知らせるために銅鑼を打つ場面で、
それまで紗のむこうで長椅子に横になっていたトゥーランドットが、のそーっと頭をもたげる様子は、
寝ていたヤマタノオロチが起きた様を彷彿とさせ、
トゥーランドットが化け物みたいに思われ、怖かったですが、
二幕以降、実際に舞台に姿を現わして歌う場面になると、彼女が冷たさの中に隠している恐れ、
女性としての弱さがきちんと感じられる役作りで、グレギーナよりは、姫らしい感じがします。

ただ、何と言えばいいのでしょう、、、
やはり、声のパワーというのは、それ自体に魔力があって、
ある面では今日のキャストがグレギーナじゃなくて良かった、、と思いつつ、
ふと、あのばりばりと歌いこなせるパワーが懐かしくなったりもしたのでした。
リンドストロームの雰囲気と、あの声のパワーがあれば最高なんですけれども、
そうは上手くいかないものです。


Lise Lindstrom (Turandot)
Salvatore Licitra (Calàf)
Maija Kovalevska (Liù)
Hao Jiang Tian (Timur)
Bernard Fitch (Emperor Altoum)
Joshua Hopkins (Ping)
Tony Stevenson (Pang)
Eduardo Valdes (Pong)
Patrick Carfizzi (Mandarin)
Anne Nonnemacher, Mary Hughes (Handmaidens)
Antonio Demarco (Executioner)
Mark DeChiazza, Andrew Robinson, Sam Meredith (Three Masks)
Sasha Semin (Prince of Persia)
Linda Gelinas, Alexandra Gonzalez, Annemarie Lucania, Rachel Schuette (Temptresses)
Conductor: Andris Nelsons
Production: Franco Zeffirelli
Set design: Franco Zeffirelli
Costume design: Anna Anni, Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreographer: Chiang Ching
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** プッチーニ トゥーランドット Puccini Turandot ***

DER ROSENKAVALIER (Sat Mtn, Jan 9, 2010) 後編

2010-01-09 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

まだ一幕は続いてます。
10月に観た公演に比べると、やや立ち上がりからの演技がピントが合わず、少し心配させられたフレミングですが、
”ヒポリットよ、今日は私をおばあさんにしたのね。 
Mein lieber Hippolyte, heut haben Sie ein altes Weib aus mir gemacht!"、この言葉以降、
モノローグを中心とした幕の最後まではさすがです。
ヒポリットというのは調髪師の名前で、彼に髪を結ってもらっている間、あんなに活き活きとまわりの人間と話していたはずのマルシャリンが、
鏡で出来上がった髪と自分を見てから、一気にふさぎこんで、普段押し隠している思いが一気に噴出してしまう場面です。
彼女の気性と考え方、それから自分の立場をふまえた責任感のため、
元帥夫人としていつも”完璧”と言ってもよい行動しか取らない彼女は、
周りの人間には、ほとんど本心を見せないんですが、その彼女の本当の気持ちが
唯一このモノローグを通して、我々観客は知ることができるのです。
ほとんど、と書いたのは、特にこの一幕の時点ではオクタヴィアンには理解できない形でしかぶつけられなかったとしても、
それでも、彼女が人に自分の本心を見せるという行為にもっとも近づく相手はオクタヴィンだからです。
この2人の間には単なる情事というだけでない、やはり特別な絆があって、
最後の幕ではオクタヴィアンもマルシャリンの気持ちを理解し、でも理解しながらゾフィーと一緒になって、
だから最終幕ラストの三重唱で、それぞれの登場人物の歌う言葉がせつないんですが、それは最後に。



今日はオケの演奏の良さにも本当に助けられました。
というか、彼らの演奏がちゃーんと音で物語を語ってくれているので、
主役の2人がトップフォームでなくても、全体としてはそれほど演奏の水準が下がっているような気がしません。
この一幕の最後の場面なんか、それがよく伝わる個所なのではないかと思います。
メト・オケの優れている点は、音の美しさだけにこだわるのではなく、
登場人物の心や今ある場面を表現するためには、意識しないでその枠をひょいと飛び越えられる、
勇気と言ってはおおげさですが、恐れのなさ、というか、そういうところにあるように思います。
他に今日の公演で例をあげるなら、ラストの三重唱の途中(後ほど紹介する音源の一つ目の5'00"から始まる金管)など、
ものすごい強奏で、音は汚くなる寸前というか、微妙に汚くなってしまっているんですが、
舞台の上で、マルシャリンが立ち去った後、”やっと2人になれたね!”という感じで、
ひしーっ!と抱き合うオクタヴィアンとゾフィーの姿とその音がどんなにシンクロしていたことか!
2人の爆発するような喜びが、この汚くなりかけの音にちゃんと表現されているんです。
こういう喜びを、綺麗なちんまりとした音で表現するなんて、絶対無理です。
舞台とオケが出す音のマッチぶりは、絶対に見えているわけはないのに、
まるで奏者が舞台を見ながら演奏しているんではないかと思うほどで、
多分、こういう音は音だけで聴くと、”汚い、大げさ、減点!”ってなことになるのかもしれませんが、
舞台で起こっていることと合わせて聴くと、素晴らしい音だと感じます。



第二幕

この『ばらの騎士』で私が好きなのは、各幕に大きな見せ場、
それもドラマの頂点となるところに滅茶苦茶美しいメロディーが重なる見せ場、があって、
その上にコミカルな部分がバランスよく配分されている、という点
(しかもそのコミカルな個所にも、軽めのこれまた美しいメロディーが入っているというスーパー技!)なんですが、
一幕の大きな見せ場がマルシャリンのモノローグなら、二幕は当然のことながら、ばらの献呈シーンです。
ここで初めて新興成金貴族ファニナルの娘のゾフィーが登場するわけですが、
10月に歌ったペルションに変わって、1月の公演で同役を歌うのはクリスティーネ・シェーファー。
シェーファーといえば、二年前の『ヘンゼルとグレーテル』のグレーテル役での、超可愛い子供っぷりが私の記憶に残っているんですが、
可愛いのは生限定なのか、HDやDVDで見ると、彼女の老け顔が気になった、という意見も聞きました。
あれだけ巧みな演技をしていても、まだそんなことを言われるなんて、本当に気の毒以外の何物でもないくらいです。

おそらくそれと全く同じことが今回の『ばらの騎士』のHDでは起ってしまうのではないか、と危惧していましたら、
まさにその通りになってしまって、彼女のゾフィーはアメリカ本土HD鑑賞組にはあまり評判が良くなかったようです。
確かに、一つには、彼女の割と線の細い声は、フレミングやグラハムのまったりとしながらパワーのある声質と、
あまり相性の良いコンビネーションではないと思います。
また、緊張のためか、それでなくても難所なんですが、冒頭の部分の高音が危なっかしくて、
同じ高音で苦労するなら、声にぴーんとした強さのあるペルションの方が、
バランスが良かったのでは、という見方があるのもわかります。

けれども、シェーファーのゾフィーにはペルションのゾフィーにはなかった美点もあり、やっぱり彼女は演技が上手い。
グレーテルは幼児と言ってもいい年齢、ゾフィーは16くらいでしょうか?
この二つの違った年齢を、ここまできちんとそれぞれリアルに演技で表現できる人はそう多くはないと思います。
ペルションがラッキーだったのは、彼女は演技力という技術の面では遠くシェーファーに及びませんが、
彼女は、自身にこれを地で演じ歌える雰囲気があったために、それがかえって面白い生々しさを生んでいました。
シェーファーのゾフィーはわりとぽよよん、とした感じで、
ペルションの向こうっ気の強そうなゾフィーに比べると、ほんの少し幼い感じです。
本来の自分とは違う雰囲気を作り出す”技”を評価するならシェーファー、
技術でなく素でもいいから役とのケミストリーの面白さを見せてほしい、と思うならペルション、ということかもしれません。

ゾフィーとオクタヴィアンが一目見てお互いに惹かれる場面は、
ペルションがゾフィーを演じた公演では、音楽と演技のタイミングが合っていなくて、
なんでそんな妙な時に視線がロックしあうのか!?という違和感がありましたが、
今日の公演の2人は、途中にふっと現れるトランペットのフレーズを2人の視線が出会う瞬間に設定していて、
演技もタイミングがぴったりで、お互いの姿にはっと息をのんで、
それこそばらを取り落としてしまうんではないか、という雰囲気で、時が止まるような感じがし、普通よりもこのフレーズを長く感じました。

歌に関して言うと、シェーファーは先にも書いた通り、声は細いんですが、
撥音がはっきりした発音(おやじのだじゃれみたいですが、、)なので、
言葉のリズムがはっきりと聞き取れるため、何を歌っているのか判らない、という感じはありませんし、
落ち着いてからはピッチもしっかりしてきましたが、元々この役で求められる高音域に関しては、
冒頭だけでなく、全体的に少し無理をしている感じに聴こえる音色ではあります。

また、やはりと言いますか、今日はインターミッションで、フランスからいらっしゃった日本人の方とお知り合いになったのですが、
その方がおっしゃるには遠目に舞台を見ていたときは、”かわいらしいゾフィーだなあ。”と思ったのに、
どれどれ、どんな人が歌っているんだろうとオペラグラスを覗いた途端、ちょっと引いてしまわれたそうです。

ゾフィー役については、HDに、シェーファーの安定感(ペルションの弱点の一つは日により出来に差が大きい点で、
それはシリウスの放送とあわせるとわかります。私が実演で聴いた日は、彼女の最も調子の良い日の一つだったようです。)を
とったのだと思いますが、HDに関していえば、賭けでペルションをキャスティングしておけば面白かったかな、とも思います。



10月の公演を観たときには女性陣の頑張りに比して、男性陣が物足りない、と書きましたが、
今日はその逆と言ってもいいくらいで、これほど男性陣がしっかりしている『ばらの騎士』というのはいいものです。
この作品では、どうしても主役の女性3人に注意が向きがちですが、彼女達により深みを与える、
そのためにオックスやファニナルがいるのであって、
この2人の役は歌っているだけでいい、と思っている方は、今日の公演(HD)の、
すでに書いたオックス役のジグムントソン、そして、ファニナル役を歌ったトーマス・アレン、
この2人の歌唱と演技を見れば、考えが変わるはずです。
特に私はアレンのファニナル役での上手さ、これに大いに感銘を受けました。
オックス役は主役の一人と言ってもいいくらい登場場面が多いですが、ファニナルはそれほどでもない。
その限られた時間の中で新興貴族ゆえの、まるで小市民的な、
見ていてとほほなまでの古い貴族(オックス)への腰の低さ、
それでいてどこか逞しい感じのする生命力(結局のところ、お金はオックスよりもファニナルの方がたくさん持っているんですから!)、
娘への愛情、それから、三幕のラストで、この作品中、唯一”大人”としてマルシャリンの気持ちをそっと推し量ってやれる人物として、
これ以上望めないくらい、見事にこの役を歌い演じています。
10月の公演でのケテルセンも悪くないと思いましたが、
この役に関してはアレンがキャスティングされたことで、数段レベルアップした感じです。

いかがわしいイタリア人のおじ&姪コンビ、ヴァルツァッキとアンニーナを歌ったロゼルとホワイトのコンビも、
いつもと同様、いい味を出していました。



第三幕

この作品、誰が一番の主役か、強いて選べなければならないとすれば、それはオクタヴィアンになるかもしれません。
それは、主役の中でも、登場場面が最も多いからで、カーテンコールでは一番最後に現れ、
また指揮者を舞台にひっぱってくる役割が彼(彼女)に与えられていることからも裏付けられます。
もともとコンディションが良くないグラハムはこの時点でかなり精神的にしんどくてもおかしくないんですが、
(やっと二幕歌い終わったと思ったら、長い三幕、それも最後に三重唱がくっついた、がこの先に控えているんですから。)
彼女のすごいところは精神力、これに尽きます。
三幕になってから、彼女がものすごいテンションで自分を鼓舞しているのが客席にまで伝わってくるんですもの。
そして、実際、高音にいつもの精彩を欠いていたとしても、
これまでの幕より良く声を出して来るんですから、本当にすごい人です。
おそらく、全幕乗り切れるように一幕と二幕では多少力をセーブしていた部分もあったのでしょうが、
もうその必要はない!ここで力を出さずしていつ出すか?とばかりに
全力投球しているのが手に取るようにわかります。
こういう頑張りというのは、入賞には手が届かないとわかっていても、全力で走ろうとするマラソン・ランナーと似て、
コンディションが完璧な状態でスーパーな歌唱を繰り広げるのとはまた違った感動があります。

私が今日の公演で”こ、これは!!”と驚かされた場面は、この三幕での、
マルシャリンと警部の絡み方で、私、今日の公演のフレミングとギャリオンの芝居の仕方から、
実はマルシャリンがオクタヴィアン以前に関係のあった相手というのは彼ではないのか?というのが頭をよぎりました。
ギャリオンなんですが、彼はメトでも十分良く通る、やや甘目というのか、色気のある声をしたバス・バリトンで、
遠目に見る分には、舞台姿も背が高くて美しいです。
顔の細かい造りは肉眼でしか舞台を観ない私にはよくわかりませんでしたけれども。
こんな彼なので、フレミングの演技の仕方一つで、たまたまこのケースを受け持った超脇役としての警部ともなれば、
あるいは、マルシャリンと以前に関係のあった男性として普通以上の意味合いが役に出てくる可能性もあるのは、
すごく面白い発見でした。
実際、一幕で、マルシャリンはオクタヴィアン相手に、うっかり、オクタヴィアンとの情事が彼女の最初の婚外情事でないと、
口を滑らせてしまっています。
実際に、身分や職業の関係を顧みて、2人の恋が可能であったか、という歴史的妥当性は
私はヒストリーおたくではないのでわかりませんが、
どのみち、『ばらの騎士』自体が婚約者にばらを贈るという、架空の慣習にもとづいたストーリーなんですから、
2人がかつて恋人同士だったとして、なぜ悪い?
仮にそうだったとしたら、ますます複雑な糸が絡み合う感じで、これはこれで面白いです。
こうなると、これまで単なる普通の会話に聴こえていた、

マルシャリン:(警部に)あなたは私をご存知?私もあなたを知っているような気がするけれど。
警部    :よく存じておりますとも。
マルシャリン:あなたは元帥の忠実な伝令役だったことがあるんじゃないの?
警部    :仰せの通りでございます。

という会話が突然意味深で、エロティックな感じすら漂ってくるのです。2人で目配せしながら会話しているような。
しらばっくれやがって、この2人!お前ら、出来てたんだろーが、昔!とMadokakipは心の中で叫ぶ。
前回観た公演では、警部に対して、ただの下々のものに話している雰囲気だったんですが、
今回のフレミングのここの歌い演じ方から、私は女性を感じました。
フレミング、、、、毎回、少しずつ、役作りが違う。全くもってあなどれません。
それについていっているギャリオンも、大したものです。

ジグムントソンは、もう後の幕になるほど勢いづいていった感じで、
"ロイポールド、さあ行こう!Leupold, wir gehn!"と怒鳴る声はもうびっくりするくらいの声量でした。
人によっては下品、と感じられるかもしれませんが、私はここまで突き抜けて歌い、演じてくれた方が
理屈ぬきに楽しめて好きです。
だし、彼のオックスはかっぺだけど、決して下品にはなっていなくて、コミカルな色が強いのは好感が持てます。
あともうほんの少し若々しい感じがあったら、と思いますが、まあ、それは望みすぎでしょう。
この後、マルシャリンとゾフィーが同じ言葉を、全くそれぞれの立場で違った意味で歌う、
そのどちらもに観客の胸はせつなくなる、本当にこの台本は良く出来ているな、と感心させられます。



三重唱の一番最初の”マリー・テレーズ!”という言葉をグラハムがものすごく丁寧に歌っているのは聴きものです。
そして、あの後に続く元帥夫人のメロディーでの、フレミングのオケの音と絡むような息の長いこのフレージングはどうでしょう!
最近元帥夫人を歌っている歌手には、ここで音を一つ一つ置きに行っているような、
直線的な旋律の取り方をする人がいるんですが、私はそれではこの三重唱の美しさが生かしきれないと思います。
フレミングの、このリボンが風に揺れて、くるん、とひっくり返ってまた戻るような、
オケの楽器と戯れ、空気に漂っているような、ずーっと音が連続しているような、
息の長い旋律の取り方を聴くと、こういう風にこのトリオを歌える歌手ってやはりそうはいない、
やっぱり彼女のマルシャリンは素晴らしい、と思います。

オケが歌手や物語と一緒に息をしているのも、この三重唱の聴き所で、
前半でオケが段々と盛り上がっていく場面では、ここにいながら、ここにいない、とでもいえばいいのか、
心が体から抜けて音と一体となるような感覚を持ちました。
そして、先にも書いたオクタヴィアンとゾフィーが抱きしめあって恋する喜びを分かち合う場面の音までには、
つい涙がこぼれて、今日はぬかりなく準備した手元のハンカチでそっと涙を拭うと、
隣のボックスに座っている黒人の男性が、片手の平で目の周りを覆いつつ、口を開いておんおん大泣きしてました。

続く二重唱の途中で、ファニナルが歌う”若い人たちはこういうもんかね。Sind halt aso, die jungen Leut'!"という言葉は、
彼がオクタヴィアンとマルシャリンの関係を悟りながらも、気付いていないふりをして、
そっとマルシャリンを慰める言葉なんですが、これをアレンが本当に上手く歌っています。
その後に続く、”そうですとも Ja, ja"が前回の鑑賞時とは違って、
思い入れを抑えて、文字通りの”そうですとも。”という感じで軽めに歌われているのは面白いな、と思いました。

今までじっくりとこの作品を観た事がない、という方(もちろん、ある方も!)には、
最高のHDになるんではないかと思います。
私もこういう公演を早くに観ていたら、もっと昔にこの作品に目覚めていたものを、、。
遠回りさせられました、本当に。

以前紹介したものと同じ音源ですが、ラストの三重唱と、それぞれのパートの言葉の訳をつけておきます。
(重唱の後半部分は、2009年10月13日の記事にあります。)




(マルシャリン)
私が誓ったことは、彼を正しい仕方で愛することでした。
だから彼が他の人を愛しても、その彼をさえ、愛そうと。
でも、そんなに早くそれが来ようとはもちろん思わなかった。
この世の中にはただ話を聞いているだけでは信じられないことがたくさんあって、
実際に体験すれば、それを信じることは出来るけれど、それがなぜなのか、ということは決してわからない。
ここに”坊や”が立ち、ここに私が立っている。そしてあそこには他の娘が。
あの人はあの娘と幸せになるでしょう。幸せということをよく知っている他の男たちと同じように。

(オクタヴィアン)
何かがやって来て、何かが起ってしまった。それでよいのか、と私は彼女に聞きたい。
なのに、その問いを彼女は禁じているのだ。私は聞きたい、なぜ私はこんなに震えるのだ?と。
何か間違ったことをしでかしたのか?でも、そのことをきくことが出来ないのだ。
そして、それから私はあなたを見つめる。ゾフィー、私はあなたのことだけを強く感じ、
ゾフィー、ただ一つのことだけ、確かに知っている。それは、あなたを愛しているということ。

(ゾフィー)
私は教会にいるような敬虔で、それでいて何か不安な気持ち。また一方で不浄な気持ちですらある。
私には自分の気持ちがわからない。あの女の人の前にひざまずきたいと思えば、また何か仕打ちを加えたいとも思う。
私には彼女が彼を私にくれるのだ、ということが判るし、それと共に彼から何かを奪ってしまうような気がする。
私には自分の気持ちがどうなのか、わからない。
全てのことを判りたいと思うし、判りたくないとも思う。
問いただしたいと思い、問いただしたくないとも思う。けれども、、
ただ、あなたのことだけは強く身に感じていて、そして、たった一つわかっているのは、私があなたを愛しているということ。


Susan Graham (Octavian)
Renée Fleming (Princess von Werdenberg)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Christine Schäfer (Sophie)
Thomas Allen (Faninal)
Wendy White (Annina)
Rodell Rosel (Valzacchi)
Eric Cutler (A Singer)
Erica Strauss (Marianne)
Nicholas Crawford (Mohammed)
Bernard Fitch (The Princess's Major-Domo)
Belinda Oswald/Lee Hamilton/Patricia Steiner (Three Noble Orphans)
Charlotte Philley (A Milliner)
Kurt Phinney (An Animal Vendor)
Sam Meredith (A Hairdresser)
James Courtney (A Notary)
Stephen Paynter (Leopold)
Craig Montgomery/Kenneth Floyd/Marty Singleton/Robert Maher (Lackeys and Waiters)
Ronald Naldi (Faninal's Major-Domo)
Tony Stevenson (An Innkeeper)
Jeremy Galyon (A Police Commissary)
Ellen Lang (A Noble Widow)
Conductor: Edo de Waart
Production: Nathaniel Merrill
Set and Costume design: Robert O'Hearn
Stage direction: Robin Guarino
Ctr Ptr Box 14 Front
OFF

*** R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***

DER ROSENKAVALIER (Sat Mtn, Jan 9, 2010)  前編

2010-01-09 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

あの10月の公演から3カ月近く、どれほど今日を心待ちにしていたことか!
オペラのシーズン中、それも特に比較的上演に時間がかかる演目の鑑賞を控えている時は、
風邪をひいたり寝不足にならないよう注意してるんですが、
歌手の声と同様、微妙な体調というのは、起きてみるまでわからないもの。
しかし、今日は朝起きたときから、自分でも怖くなるくらい、やたら体調が良く、しかも、窓の外を見れば今日のNYは快晴。
今日の公演への期待が余って心が昂揚していることがそうさせるのか、猛烈なナチュラル・ハイです。
オペラハウスに向かうキャブの中から(快晴なのに相変わらず歩かない人。)電話で、
”なんだか、今日はとても良い公演が観れる気がする”と連れに予言までしてしまいました。

私、本当に10月の公演では猛烈にエキサイトしてしまって、帰宅したその足でメトのサイトにログオン。
私の場合、メトのオペラハウスで、サイド・ボックスの後列や平土間の超後ろや端など、
ここだけは絶対座りたくない、というエリアがあるんですが、
ほとんどその時点ですでに売り切れに近かった今日のHDの公演で、それらを除くと、残っていたのはたった一席。
センター・パーテールの一番舞台上手側にあるボックス、前列の三つ並んだ座席のこれまた一番端。
つまり、センター・パーテールの一番端で、ボックスの向こうは、
もうセンターではなくて、サイド・ボックスになってしまうという、”ボーダー・ライン席”です。
そう、このボックスは忘れもしない、あの昨シーズンのリング・サイクルで発生した山ザル親子の襲撃ポイントです。
しかも、ボーダー・ラインのこっちは377ドル50セント、むこうはそれより200ドル近くは安かろうサイド・ボックス、、。
一瞬、あのおぞましい状況が脳裏をよぎり、また、このぼったくり寸前の割高感溢れる価格設定にひるんでしまいましたが、
(センター・パーテールの真ん中のボックスならともかく、こんな端で、、。)
迷っている暇なし。大好きなシュトラウス作品で、もう一度あのような公演を観れるならば、、、

ぽちっ!

オペラハウスに到着して、ちょっと安心したのは、私のいるボックスはもちろん、
目に入るあらゆるボックスが後列まで含め、びっしり満席なこと。
ふふふ。座る座席がなければ、さすがのサルも飛び込んでは来まい。
しかし、悲しいかな、私はセンター・パーテールの一番端のボックスには座ったことがあるんですが、
そのまた一番端のボーダーライン席に座ったことは、よく考えると今まで一度もないのでした。
この前列ボーダーライン席というのは、なかなかユニークな視界になっていて、
センター・パーテールに座っている人を横から一望できるのはもちろん、
見上げると、グランド・ティアなど上階の一部まで目に入ってくるという、
客席ウォッチングをするにはなかなかの場所なんですが、悲しいことに、
舞台を観るにはこれで他のセンター・ボックスと同じ金額取るな!と怒りたくなるほど最悪の視覚です。
いや、一席内側に入るだけでだいぶ違うと思うのですが、メトのサイド・ボックスは、
奥のボックスでちょっと膨らむようになっていて、舞台に近くなるほど、
少しずつなんですが、内側に入っていくようなデザインになっています。
なので、ボーダー・ライン席に座っていると、あろうことか、すぐ隣のサイド・ボックスの前列の人たちの姿が、
舞台を観ている間、ずーっと視界に入っているという、泣くに泣けない状況です。
377ドル50セント出して、それより僅かしか払っていない人たちに視界を邪魔されていたら、世話ありません。
このボーダーライン席はMadokakip的には、今後二度と座ってはいけないエリアとして永久に記憶されることになりました。

というわけで、ちょっぴりへこむ状況ですが、
ふと、周囲を見回すと、老若男女あらゆる人種とりまぜ、
”とってもオペラが好き!シュトラウスが好き!ばらが好き!”という雰囲気を醸しだしている人たちばかりで、
なんともいえない、良い気が流れているのです。
体調も気分もハイなせいで、視界のことはあきらめて、今日はこの皆さんと『ばら』を思う存分楽しもう!と、
いつの間にかすっかりポジティブ・モードなのでした。

第一幕

10月の公演の時は、指揮のデ・ヴァールトがおじいなためか、
マルシャリンとオクタヴィアンの情事を表現する序奏の部分が、大人しくてやや物足りなかった、と書きましたが、
しかし、今日はどうでしょう!テンポの設定から金管が爆発するところまで、まるで見違えるようです。
HD効果か、ヴァイアグラでも服用したのか、デ・ヴァールト。
若いオクタヴィアンのエッチを表現するなら、こうでなくてはなりません。
しかし、この序奏部分で、今日は予感通り、心配なし!と安心した瞬間、
続いてオクタヴィアン役演じるスーザン・グラハムの、
”Wie du warst! Wie du bist! Das weiss niemand, das ahnt keiner!
あなたは何と素晴らしかったことでしょう(この意味はもう言わずもがなですよね!)
そして今も。これだけは誰にもわからない。誰も気がつかない。”という旋律が入ってきて、
私は椅子からひっくり返るかと思いました。
おお、何てこと、、スーザン、風邪気味じゃん、、 

もともと、オクタヴィアン役は少し彼女にとって音域的に高い方にストレッチ気味な部分があって、
高音域がしんどそうに感じることがあるんですが、それでも、今日ほどきつそうだったことはありません。
しかも、今まで生で聴いたことのある彼女はいつもコンディションが一定以上に保たれていて、
見た目通り、体が丈夫なんだろうな、なんて思っていたくらいなのに、どうしてよりによってこのHDで、、、。



そして、フレミングはといえば、グラハムほどではないんですが、
あの10月の公演の高音で聴かせていたようなピュアな音を出すのに少し苦労している感じがあって、
稀に、彼女のいつもの独特の、人によっては苦手と感じるあの、”もわーん”とした音が混じったりもしています。
救いは、オケの音と絡みながら、きちんと上を通り超させる力と技術は健在な点です。
彼女ほど大舞台に慣れた歌手でも、やはりHDは緊張したり、考えすぎたりするものなのか、
珍しく、演技の方も一幕の前半はオフ・フォーカス気味で、オーバー・アクティングに流れていたのが意外でした。
数年前のHDに関して、”劇場仕様ではなく、スクリーン仕様で演じます。”と
はっきり宣言していたアラーニャの例にもある通り、もしHDに合わせるなら、
むしろオーバーアクティングでなく、アンダーアクティングの方に行くのが自然な流れだと思うのですが。
映画館で観た人からも、ここでの彼女は大きく目玉を回したり、顔の表情が大きすぎて、
まるでバービー人形のよう、、という声もありました。
今まで、『オネーギン』『オテッロ』、そして10月の『ばらの騎士』で、
彼女の抑え目で、かつ的を射た演技を見た事のある私としては、なぜ、、?という疑問が残ります。

それにしても、”なんだか、今日はとても良い公演が観れる気がする”って、
我ながら、なんとさえない予感なことよ、、。少なくとも、今のところは。



女性陣の立ち上がりの苦労をよそに、今日の演奏を盛り立てることになった起爆剤は、
なんと意外にも、オックス役のジークムントソンです。
10月の公演では、名前がMから始まってpで終わる心無いヘッドに、
”許容範囲の下にはなんとかひっかかっている”とか、”脇役専門でやっていった方がいい。”など、
失礼千万な暴言を吐かれた彼ですが、そんな言葉に一念発起したか、
同一人物とは思えないほどの健闘ぶりでした。
いえ、同一人物とは思えない、というのは語弊があります。
なぜなら、時々、高音になると、10月の公演で聴いたものを彷彿とさせる、”すか感”が混じる場合があったので。
10月の公演では、高音全部がこういう”すか系”の音だったと思って頂いてよいです。
でも今日は、、本当によく頑張っています。
高音ではっきりとすか感を感じたのは数音ですし、中にはものすごくちゃんとフル・ボディで出ていた高音もありました。
彼はもともと声自体は割とどっしりした声ですから、オケに負けていないですし、
彼自身、好調なのがわかっているからか、演技ものってました。
後の幕で低音で、きちんと出たというには厳しい音もありましたが、まあ、これだけの内容が伴った歌なら、私は満足です。
こういう歌や演技を見ると、オックス役がしまっていることが
この演目でいかに大事なことであるか、というのがよくわかります。



以前の記事でも書いた通り、かつては『ばらの騎士』が上演されるとなると、
パヴァロッティのようなテノールを連れてくることすらあったメトにあって、
このHDで、歌手役にエリック・カトラーを配するという選択は一体どうなのよ?という思いがありました。
いつも人気歌手を並べているのを自負するメトなら、ここでもうちょっと名の通った人を呼んで来れなきゃ嘘だろう、、と。
登場時間が極めて短いため、金はかけれません、というコスト・カットを重視した故の決断だったのかもしれませんが、
こういうところの遊び心のなさにはがっくりさせられ、
やっぱりわかってないよな、ゲルブは、、、(もはや呼び捨て)と思うわけです。
10月の公演に登場したヴァルガス位のテノールをなぜ準備できないか?と。
いや、もしかすると、カトラーと発表しておいて、当日に、”あっ!”と驚くようなテノール(まあ、そこで、”どのテノールですか?それは?”と言われても答えに窮するんですが。)を
振り出して来るんではないか、とまで期待してしまいました、私は。

カトラーに別に恨みがあるわけではないのですが、彼は数年前にタッカー賞に選ばれ、
『清教徒』のHDではネトレプコの相手役に配され、DVD化までされるなど、
これほどチャンスを与えられながら、ものに出来ずにブレークしきれないでいるというのは、
彼自身、考えるべき点があるんじゃないかと思います。
それなのに、また、フレミングとグラハムの『ばら』で歌手役を歌うとは、つくづくやたら運だけは最強です。
『清教徒』を鑑賞したときに、彼の歌の感想として、
”高音でテンションがかかるのが、なんとも聴いていてつらい”
”声量はあって、舞台栄えもする体格なのですが、フレージングとか高音の発声とか、まだまだ磨かれる前の原石状態”
ということを書いていますが、今日の公演のつい数日前にシリウスの放送で彼の
”固く武装せる胸もて Di rigori armato il seno contro amor mi ribellai"を聴いた時には、
磨かれるどころか、さらに原石化しているように聴こえて、ぎょっとしてしまいました。
メロディはへろへろ、高音は緊張しているし、その上に、ラジオで聴くと、
声に妙な輪(音の芯が太くなったり細くなったりする)が感じられるようになっていて、
暗澹とした気分になったものです。




いよいよマルシャリンのお付きのものやら諸々の人々と共に舞台に登場した彼は、
舞台栄えのする体格(背が高くがっしりとしているが太っていない)に、
身につけたこのプロダクションの豪華な衣装が似合っていて、歌もこの舞台姿くらい素敵だったなら、、と、
どきどきしながら”固く武装せる胸もて”を聴く。

、、、、、、、、。

うーん、面白い。なるほど、、シリウスでああ聴こえた歌は、オペラハウスで聴くとこのように聴こえるのかあ、、
簡単に言うと、特別すごい!という歌では決してないですが、
シリウスで聴くよりは生の方が全然いいです。
あの変な声の輪はオペラハウスではほとんど気になりません。
彼の声をすぐ足元のマイクで拾うとああいう音になってしまうのかもしれませんが、
声のサイズが思ったより大きく、よく響く声で、
私の座席のような、舞台からそこそこの距離がある場所に音が届くまでには、
輪の太い部分と細い部分がブレンドされてしまうのだと思います。
むしろ、気になるのは、『清教徒』の頃から全く変わっていない、高音の緊張感の方で、
高音になると、音が前に出てくる代わりに、ひーっ!と横に引いたような音になってしまう点です。
それでも、この大変な歌を、あからさまなミスもなくきちんと歌い終えたのですから、まずはほっとしました。
また、今回はHDということで、特別に舞台監督から細かい指示を受けたのか、
演技がヴァルガスよりずっと細かいのも見所です。
特に繰り返しのヴァースが始まる前に、だんだん歌手役がいきり立っていく様子が細かく描写されていて、
最後にオックスの”Als Morgengabe! 支度資金としてだ!!”という怒鳴り声で歌が中断される場面は、
オックスが公証人と交渉していた書類を床に叩きつけた途端、
歌手役が楽譜を同様に床に放って部屋から飛び出して行く、という、
ヴァルガスが歌った時にはなかった(他の出演者と一緒に退場するまで、だらだらとたむろっていました。)演技が加わっていて、
ヴァルガスの歌手役は、自身が人気歌手なだけに、
”ちょっと空いた時間で、立ち寄って歌わせてもらいました。”という雰囲気で、特に役作りも何もなかったのですが、
カトラーの歌手役は、ちょっと尊大な感じがする雰囲気が面白く、きちんと役を作って来たという点では評価できます。
相変わらずラジオだけで聴いた人たちには彼の歌手役は極めて不評でしたが、
それは、おそらく、私がシリウスを聴いて感じたものと似た印象を持ったのではないかと思います。
オペラハウスで聴いたオーディエンスからは、そこまで悪くはなく、まあまあの出来、という声も出ていました。


<フレミングとグラハムの不調に慌てるな!後編に続く。>


Susan Graham (Octavian)
Renée Fleming (Princess von Werdenberg)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Christine Schäfer (Sophie)
Thomas Allen (Faninal)
Wendy White (Annina)
Rodell Rosel (Valzacchi)
Eric Cutler (A Singer)
Erica Strauss (Marianne)
Nicholas Crawford (Mohammed)
Bernard Fitch (The Princess's Major-Domo)
Belinda Oswald/Lee Hamilton/Patricia Steiner (Three Noble Orphans)
Charlotte Philley (A Milliner)
Kurt Phinney (An Animal Vendor)
Sam Meredith (A Hairdresser)
James Courtney (A Notary)
Stephen Paynter (Leopold)
Craig Montgomery/Kenneth Floyd/Marty Singleton/Robert Maher (Lackeys and Waiters)
Ronald Naldi (Faninal's Major-Domo)
Tony Stevenson (An Innkeeper)
Jeremy Galyon (A Police Commissary)
Ellen Lang (A Noble Widow)
Conductor: Edo de Waart
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*** R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***

HANSEL AND GRETEL (Sat Mtn, Jan 2, 2010)

2010-01-02 | メトロポリタン・オペラ
素晴らしい公演はもちろんなんですけれども、
なんじゃこりゃぁ!?というようなあまりにクオリティの悪い公演も実は比較的に感想が書きやすかったりします。
なんですが、一年に一度くらい、滅茶苦茶質の悪い演奏というのでもないのに、
すごく筆のすすまない公演というのがあって、
例えば、一年半前の『賭博師』を思い出します。
”咀嚼できてから”って、一年半経って、まだ咀嚼できてないのかよ!って感じなんですが、
今日の『ヘンゼルとグレーテル』も実は同様の方法で半トンずらしてしまおうか、
来週の土曜は『ばらの騎士』と『トゥーランドット』というヘビーなダブル・ヘッダーもあることだし、、
なんて、考えてしまった私をお許しください。



あらかじめ強調しておくと、この子供向けと見せかけて毒を吐くリチャード・ジョーンズの演出が、
実は私は全く嫌いではないんです。
ちょうど二年前、やはりマチネでキッズに囲まれて見た公演の感想にも書いた通り(Part 1Part 2)に。
ラングリッジの、もはや地がわからない強烈な魔女への化けっぷりとはじけっぷりに笑い、
シェーファーの本当に少女のように見えるあの演技の上手さに舌を巻き、
とにかく、今考えてみれば、二年前の公演は勢いがありましたっけ。



さて、一ヶ月以上に渡ってNYに滞在し、『フィガロの結婚』『エレクトラ』、『ヘンゼルとグレーテル』という、
どれも違った理由で指揮をするのが大変な三作をルイージがかけもちでこなしたことについては、
これまでのそれらの演目の公演についての感想等でふれてきた通りなんですが、
なぜそんなことになってしまったかと、良く考えてみたら、
もともと『ヘンゼルとグレーテル』に予定されていたアンドリュー・デイヴィスが、
個人的な理由によりキャンセルせざるを得なくなり、そのカバーに入った為で、
本来はルイージが振る予定ではなかったのでした。
この一ヶ月の間には、ルイージがほとんど毎日指揮台にあがっているように思えるときもあって、
”誰がこんなはちゃめちゃなスケジュールを組んだんだ?!”と思っていたんですが、
やむをえない状況だったようです。
その彼の長く過酷だった今年のNY滞在最後を飾るのが、今日の『ヘンゼルとグレーテル』です。



2007-8年シーズンの演奏に続いて、今年も英語版による上映で、
ガキ、、いえ、お子様たちの姿がさらに客席に目立つようになったように思います。
ところが、気のせいでしょうか?2007-8年シーズンはちびっ子たちもおしゃれして、
男の子はちび背広にネクタイといった背伸び気味の格好で、
静かに鑑賞している様子が実に可愛らしかったのですが、
なんだか2年間で客層の変化に拍車がかかったような気がします。
というか、実際のところ、子供よりたちが悪いのは、同伴して来た大人の方で、
子供がオペラハウスに入れるというこの状況に便乗して、
自宅のリビング・ルームからワープしてきたようなだらしない、限りなくスエットに近いような格好で現れ、
オケの奏者がチューニングを始めても、スナック菓子の袋をばりばり言わせながら、
ひたすら食べ続けている私の隣の座席に座っている祖母、、、
ここはヤンキー・スタジアムじゃねーんだよ、、、ったく、げんなりしてきました。
グランド・ティアでこんな状態ですから、ファミリー・サークルまで上がったなら、
どんな動物園ぶりが展開しているかと、考えるだに、げに恐ろしい。
一級のセットで、ルイージが、メト・オケが、ラングリッジが、キルヒシュラーガーが、ペルションが演奏してくれる、
このありがたさを全くわかっていない様は嘆かわしいという言葉以外、何物も思いつかないほどです。
しかし、真の恐怖がサイドでなく、バックに控えていたとは誰が予想したでしょうか。



2007-8年は、ヘンゼルとグレーテルの両親をプロウライトとヘルドのコンビが歌っていて、
今年もプロウライトは据え置きで全公演、また父親の方はドウェイン・クロフトとヘルドのダブル・キャスト、
というのが当初予定されていたキャストだったんですが、
ヘルドはご存知の通り、シーズン開始数ヶ月前に急遽パペの代わりに
『ホフマン物語』のヴィレインズ役に引き抜かれてしまいましたので、
それに伴い、父親役は全てクロフトが歌うことになりました。
結果から言うと、今日の公演で一番私が歌唱として楽しんだのは、このクロフトの歌唱です。
この役に関しては、ヘルドと比べ、かなりのグレード・アップと言ってもよいと個人的には思います。
ヘルドは実際にワシントン・ナショナル・オペラなどで歌い始めていて、
かつ、ホフマンの際の歌唱でも多少その片鱗が感じられた通り、
ワーグナーの役も歌えなくはないサイズの声をしています。
ただ、彼の泣き所は微妙なニュアンスがなく、歌が平板な感じがする点で、
2007年の彼の父親役はそれに加えて声がうるさくて辟易しました。
(あの時の歌に比べれば、今年の『ホフマン』での歌唱はかなり良くなっているとは思いましたが。)
クロフトはメトのハウス・バリトンと言ってもいいくらいの感じで、
今日に至るまで、本当にたくさんの公演にキャスティングされているんですが、
(昨年の『蝶々夫人』のシャープレスなどが記憶に新しい。)
今ひとつ華がないのと、公演によって若干のアップ&ダウンがあるからか、
世界的なレベルでは、完全にブレークし損ねてしまったように思うのですが、
彼が好調な時は、声にヴェルヴェット的な質感があり、音が深くて、なかなかいい歌唱が聴けるんです。



最近の彼といえば、『椿姫』のジェルモン父や『蝶々夫人』のシャープレスなど、
すっかり親父キャラが板について来た感じなんですが、
実は『マノン・レスコー』のマノンの兄みたいなスタイリッシュな雰囲気も出せる人で、
いずれにせよ、細身な体型のせいもあって、どの役にもやや繊細な雰囲気が漂うのが特徴ですが、
この『ヘンゼルとグレーテル』の父役では普段の面影がないほどはじけまくっています。
見て下さい、二枚目の写真を!!!
しかし、この、役柄としてはじけることが必要であったことが効を奏したのか、
歌の方もいつもより一皮剥けたような感じがします。
こうして聴くと、彼はオペラハウスで歌える声のサイズも十分ある(それもメトで!)んですが、
音色自体が甘渋くて非常にいいものを持っているので、
ミュージカルのようなマイクを使って歌う舞台作品でも、力を発揮できるんじゃないかな、と思います。
特に今日のような作品で舞台ではじけまくっている彼を見ると、
もしかすると彼がオペラで歌えるレパートリーの中心を占める、シリアスで神妙な役柄より、
軽さ、楽しさでも勝負できるミュージカルのほうが適正があるのかも、と思うほどです。
彼のシリアスな役はちょっと鬱々しているところが強いんですが、
もしかすると、無理にそうしている部分もあるのかもしれません。
今日の公演ではキルヒシュラーガーとペルションのヘンゼル&グレーテル兄妹を除いた全員が
英語圏の歌手ですが、歌詞がきちんと聞こえるという点でも、他の歌手より群を抜いていました。

プロウライトは2007年とほとんど歌唱の内容が変わらず、
一番印象に残っているのはあのバレーボールの選手かと思うようなでかさ
(実際にどうなのかはわかりませんが、舞台でやたら大きく見えます。)、という点も変わりません。



今日、歌唱陣で楽しみにしていたのは主役のヘンゼルとグレーテルの2人。
特にヘンゼル役のキルヒシュラーガーは生で聴くのが初めて。
声は温かみがありながらクリーンで魅力的な音色なんですが、
正直、メトでは彼女のようなタイプの歌手は残念ながら、持ち味が発揮できないと思います。
彼女の場合、もう少し規模の小さい会場で、もっと親密な形、
たとえばピアノの伴奏のリサイタル、とかで聴いた方がいいのかもしれないなと思います。
声量が足りないのもそうなんですが、オケとブレンドしてしまいやすい種類の声というのがあって、
彼女にはそれを感じます。2007年のクートよりも音が抜けてこなくて、
オケの音に完全に埋没してしまっている個所が一つや二つではなかったです。
音色に面白いものがあるだけに、残念なんですが。



一方で、高音が、特に前半で硬くてコチコチだったのはペルション。
『ばらの騎士』のゾフィーで観た時はそうでもなかったので期待していたんですが、
彼女はその後にシリウスで聴いた『ばらの騎士』などを総合すると、
少し日によって声のコンディションや歌唱にむらがあるような気がします。
顔が可愛らしいので、ビジュアル的にはグレーテルの役にぴったりのように思えるのですが、
あの2007年の、完全に童化していたシェーファーに比べると、
どこか演技に大人が子供のふりをしているような、本当じゃない感があって、
子供率の多い観客のために必死になればなるほど、
ピン・ポン・パンのお姉さん的なものを感じてしまいます。
”さあ、みんな一緒に『ヘンゼルとグレーテル』の世界に行きましょう!”
”はあああああああ~~~~い!!”というような。
その微妙な大人感のせいで、魔女に扮するラングリッジがグレーテルの口に食べ物を入れるシーンでは、
ローティーンの少女に趣味を持つ変態親父というような倒錯したムードが漂っていました。
これは『ヘンゼルとグレーテル』であって、ロリータじゃないのに。

ここにいたって、いかに2007年のシェーファーの演技が凄かったかということを思い知るわけです。
ヘンゼルとグレーテルの両役が本当に子供らしく、歌い、演技してこそ、
スタート地点であるこの作品の童話としての魅力が初めて出てくるのであって、
この中途半端なグレーテルでは、それは叶わないことです。



歌については、ここまで、何とか耳に入って来たことをもとに書いて来ましたが、
これが限界です。
なぜなら、ヘンゼルとグレーテル2人が野に苺を採りに行く場面以降、
私のすぐ後ろに座っている少女が隣にいる父親をひっきりなしに質問攻め。
”パパ、あの緑のもの何~?””うん?木だよ。”
”パパ、あの人誰~?””うん?あれはね、サンドマンだよ。”
”あっ!何か床から出てきたよ!!あれ、何?””うん、魚だね。”
それも、ひそひそ声じゃなく、普通の会話の音量で。
ありがたい。字幕が要らないほどに、全てのディテールをこの親子が説明してくれるとは。

って、んなわけな~~~~~~~~い!!

もうですね、オケが演奏している音もまともに聴こえないくらいの騒音なわけですよ。
それもノン・ストップ。
ルイージが、オケから良い音を出している、、、、、のかな?
よくわからなーい!だって聴こえないんですもの 

駄目だ。このままこの座席に座っていたら、親子もろともグランド・ティアーから平土間に投げ飛ばしてしまいそうだ。
どうしよう。
と思ったら、後方別の方角からビニールのラップを開ける音が!



不動明王ばりの表情で振り返ると、そこにはまさに大口を開けてブラウニーを頬ばらんとする、
子供を連れた父親の姿が。
おそろしいことに、今日のこの公演では、いつものメトと、価値観が逆になってしまっているのです。
ここで、いきり立っても、私の方が頭のおかしい女と思われることはまず間違いがありません。

結局、インターミッションまで待って、近くのアッシャーに行き、
”別の座席を準備してもらえなければ、多分、嫌なばばあとなって周りを注意をしまくり、
皆さんの楽しい家族のひと時をぶち壊してしまいそうです。”と泣きつき、
とにかく、普通にきちんと音楽が聴こえる環境にしてほしい、
グランド・ティアーより安い座席になっても、
サイドのボックスのようなパーシャル・ビューの席でもいいから、と訴えると、
ほとんど満席だったのですが、ハウス・マネージャーが、
平土間の、通路に面した見やすい座席を準備してくださいました。
いつもながら、彼らの誠実な対応には、感謝いたします



おかげさまで、後半はじっくり鑑賞に集中でき、
ペルションの声に伸びが出てきて、彼女に関してはずっと良くなったんですが、
何か火がつかない公演というか、ラングリッジの歌や演技もルーティーン的な雰囲気が漂っており、
かつ、声の方も二年前より伸びがなくなったように感じたのが残念でした。
この演出においては、魔女役が突き抜けた演技をしないと逆にしらけてしまう。
ほんのちょっとした気持ちの変化がこうして観客に伝わってしまうというのは恐ろしいことでもあります。

ま、しかし、こういう日もあります。
年の初めに見る公演の内容で一年の運勢を図る初メト占いなんてものがあったとしたら、
”末吉”とか、そういう微妙な位置にいそうな公演です。

そうそう、露の精とサンドマンを歌ったモーリーとジョンソンの2人も、
昨年のオロペーザとクックのコンビより一回りスケール・ダウン。
ラストの子供達の合唱、これだけが2年前の公演をしのぐ美声で、健闘していた感じです。


Miah Persson (Gretel)
Angelika Kirchschlager (Hansel)
Rosalind Plowright (Gertrude)
Dwayne Croft (Peter)
Jennifer Johnson (The Sandman)
Erin Morley (The Dew Fairy)
Philip Langridge (The Witch)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Richard Jones
Set and Costume Design: John Macfarlane
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Linda Dobell
Stage direction: J. Knighten Smit
Translation: David Pountney

Gr Tier C Odd / Orch S Odd
OFF

***フンパーディンク ヘンゼルとグレーテル Humperdinck Hansel and Gretel***