Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

Sirius: IL BARBIERE DI SIVIGLIA (Wed Jan 30, 2008)

2008-01-30 | メト on Sirius
今週末の『ワルキューレ』の予習があるので、書いてる場合ではないのですが、覚書。

今日の『セビリヤ』は、序曲の演奏がとっても良くって(特に弦セクション、つややかでいい音でした。)、
どんな公演になるのか、とわくわくしましたが、途中から乱れてしまいました。
このChaslinの指揮、前回オペラハウスで観たときも感じたのですが、
部分部分で、オケを掌握しきれていないような印象を受けます。

今日はドン・バジリオ役のローズが体調不良のため、ディーン・ピーターソンと交代。
ローズの上品な中にもおかしみが光る歌をもう一度聴きたかったのですが。
ピーターソンはピンチヒッターで入ったと思えないほどのびのびと歌っていて、
逆にのびのびすぎて、やたら各フレーズ最後のrの音を強調するのが下品に感じられたのが残念。
それから一幕最後の六重唱の場面でも、出すぎてアンサンブルをかき乱している箇所も。
確かに突然放り込まれて大変だとは思いますが、
もう少し他の歌手たちとのバランスを考えた歌を歌えれば、、。

ヴァサロのフィガロ。今日はとってもいいです。
”町の何でも屋”は、オペラハウスで観たときに、こういう風に歌ってほしかった!と思うくらい、
伸ばす音を心もち長めにとったり、余裕のある堂々とした歌いぶりで、観客からも特大の拍手が。
一旦やみかけた拍手に、いや、もっと拍手をあげないと本人が報われないでしょ!という感じで、
”追い拍手”が入ったのが印象的でした。

ロジーナ役のガランチャ。
うーん、ラジオで聴くとこう聴こえるのか、、、という感じです。
まずラジオでは、実際にオペラハウスで聴くよりも声が痩せて聴こえますね。
それから、彼女の場合、あのルックスと、この知的な声、というアンバランスが魅力になっているのですが、
ラジオではあたりまえですが、何も見えないので、声だけで役をイメージするしかなく、
彼女の声はどちらかというと暗いトーンなので、
たとえば、タッカー・ガラで聴いたディドナートの
”今の歌声は”なんかと比べると、弾けるような若々しい感じに欠けるかもしれません。
CDや音だけだと、なかなか実演での良さが伝わらない不運な歌手というのがいますが、
彼女ももしかしたらちょっとそのタイプかもしれないですね。
ただし、その ”今の歌声は”では、オペラハウスで観たときと、
違ったヴァリエーションを加えたり、言葉のアクセントのつけ方を変えたりしていて、
ほとんどの歌手の場合、日にちの近い公演では、
ヴァリエーションのつけ方や基本の歌い方が同じというケースが多いのに対し、
(なので、ヴァリエーションも練習できっちりかためられたアドリブという風に感じられることが多いのですが)
彼女の場合は、本当にアドリブ、という感じがするのが面白いです。
しかし、その代償として、おお!すごいじゃないの!と思わせるヴァリエーションもあれば、
それはやりすぎかな、、とか(ヴァリエーションには歌手のセンスが出ますから、、)、
今ひとつ成功していないものもあって、
結果として全体の出来が粗く感じてしまうという欠点もあるかもしれません。

しかし、喜劇系のオペラはやっぱり舞台で見てこそだなあ、と思います。
観客の笑い声なんかを聴いていると、余計音だけで聴いているのが悲しくなってくる。

悔しいし、書き出すとまた長くなってしまいそうなのでここらで止めて、
『ワルキューレ』の予習に戻ることにします。

(頭の写真はガランチャ)

Jose Manuel Zapata (Count Almaviva)
Elina Garanca (Rosina)
Franco Vassallo (Figaro)
Bruno Pratico (Dr. Bartolo)
Dean Peterson replacing Peter Rose (Don Basilio)
Jennifer Check (Berta)
John Michael Moore (Fiorello)
Conductor: Frederic Chaslin
Production: Bartlett Sher
OFF

***ロッシーニ セビリヤの理髪師 Rossini Il Barbiere di Siviglia***



DVD: EUGENE ONEGIN (Metropolitan Opera HD Live)

2008-01-27 | 家で聴くオペラ
今日は家聴くのカテゴリーの一環として、DVDを紹介します。
以前、お知らせのカテゴリーで触れた、『エフゲニー・オネーギン』のDVDがそれ。

さて、このDVD、アメリカでは12月に発売されていて、ほとんど発売後すぐに購入しながら、
パッケージを取り出すたびに苦い思い出が蘇ってきて、なかなかディスクをプレーヤーの中に入れることができませんでした。
なぜ、苦い思い出なのかというと、私が公演を観た2/17に、ゲルギエフにキャンセルをかまされたからなのですー!
その時に書いたものを読み返してみると、その怒りをホロストフスキーにぶつけているわ、
書いたものは短くて、ほとんど舞台の描写がないわ、で、なんて我ながらひどい奴なんだ、という感じですが、
今日はとても朝から気分が良いので、心をまっさらにして、我が家にて、DVD鑑賞を決行、
ついにディスクがお皿にのる日がやって来たのです。

この公演は、2007年の2月に、ライブ・インHDのために収録された土曜のマチネ公演の映像。
DVDで見ると、特に一回観たきりではなかなか全部を把握しきれない、
舞台上の様子や演出の細かい部分がじっくりと観察できることも魅力です。



幕が上がった瞬間、びっしりと降り積もった枯葉のうえに一人たたずむ、ホロストフスキー演じるオネーギン(上図)。
妙な霞がかかっているような色で、”何だ、これは?最新の録画技術で撮ったものがこれかよ!”と、
ディスクを皿から取り出したくなりますが、慌てずに!
これは、オネーギンの回想のシーンで、回想のシーンにはいつも、紗のような薄いスクリーンがかかっているのです。
回想が終わると美しい映像に変わります。

さて、この公演、あらためてDVDで見ると、本当に演出が心憎いくらい素晴らしい。
はっきり言って、豪華なセットは一つも出てこず、舞踏会のシーンも並べた椅子だけで表現されていたり、
冒頭の田舎で散策するシーンも、あるのは床にしきつめられた枯葉だけで、
出演者の立ち位置だけで、場所が移動していくのが大変ユニーク。
(たとえば、乳母が、オネーギンとタチアナを探しに行くシーン)
しかし、全編を通して、壁、これがものすごい効力を発揮しています。
付録でついている、リハーサルからの映像の中のインタビューで、
ヴァルガスが、この作品について、”広がっていながら閉塞している”という指摘をしていますが、
おっしゃるとおり!で、
特に、舞台にいつも見えている舞台の高さいっぱいに作られた壁によって作られる二つの”角”、
これが、その閉塞感を表していて、見事だと思いました。
タチアナとオネーギンの会話の後ろにこの壁が見えるたびに私は息苦しい思いがしたくらいです。
それから、色。これも、この舞台の大きな鍵となる要素となっていて、
場面場面を象徴する巧みな色使いで本当にため息ものでした。
無茶なお金をかけずに、この物語を表現しうるとは、このセットをデザインした方、相当凄腕です。
ただ、お金をかけずに、といっても、安っぽくなっていないのもさすが。
衣装に関しては、このうえなくエレガントで、外国から帰ってきたオネーギンに仕える
召使にいたるまで、妥協のない衣装作りにメトの底力を感じます。
むしろ、一見お金をかけていないようで、実は肝心なところにきちんとかけている、
だからシックさが失われていない、といった方が適切なのかもしれません。
しかし、趣味の悪い中途半端なセットにお金を使わずとも、
十分舞台をエレガントに見せることができるという点において、
他の劇場はおおいに見習うところがあるデザインだと思いました。



この日の公演は、とにかくホロストフスキー、フレミング、そして意外にも、
私が普段あまり高く評価をしたことがないヴァルガスが、がっぷりと組んで、
一歩も引いてません。
一番のウィーク・ポイントは、これまた意外にも、オルガを演じたザレンバだったような気がします。
特にこうして映像で見ると、演技が非常に表面的なのが気になりました。

まずホロストフスキーは、2/17に声量がない、とけちょんけちょんに書いてますが、
このDVDを見る限りでは、とてもそのようには思えない熱唱ぶり。
特に前半、まだ傲慢な頃のオネーギンの表現が上手すぎる。

さて、先ほども少しふれた、付録についているリハの映像。
これが私にとっては本編とも匹敵するほどにうれしいものでした。
主なキャスト、リハの段階からがんがん指示をとばすゲルギエフ、オケのメンバー、
(残念ながら合唱の方の映像はこのリハの映像の中にはほとんどなかったのですが)
の献身ぶりは感動的でもあります。
ゲルギエフが出している指示には、この映像で見る限り、テクニカルなことよりも、
どのようにこの作品を表現していくか、ということに主眼が置かれていて、
大変興味深かったです。
特に、ザレンバ演じるオルガと、ヴァルガス演じるレンスキーが愛を語り合うシーンで、
ついゲルギエフの棒をチェックしてしまった二人に向かって、
”この瞬間、あなたたちは世界で一番幸せな二人なんだ。
だから私の指揮は見なくていい。こんなときに私を見られても困る!”
と言っていたのには、思わずうなずいてしまいました。
アンジェラ・ブラウン、聞いてますかー。

とその特典映像の中で、最後の、オネーギンがタチアナにすがりつく場面の演技付けをしている
ホロストフスキーとフレミングのやりとりも見もの。
ホロストフスキーの演技がフレミングからのコメントで、ぐっと変化していく様子がとてもスリリングでした。
こう見ると、共演者との切磋琢磨で、力がさらに伸びていくということが往々にしてあるのだろうな、と実感。

フレミングは、今年の『椿姫』でかなり辛辣なことを書きましたが、
この役に関しては、私は、ヴィオレッタとは比較にならないほど役の咀嚼がなされていて、
本当に何度もほろりと来そうになりました。
実際にオペラハウスで観たときは、私のオペラグラスは使わない、というポリシーのために、
音と演技がいかに統合されているか、とか、オペラハウス内で感じられる彼女の声や演技から感じられるエネルギーの波動
(怪しく聞こえると思いますが、オペラグラスを使わずに見るのに慣れてくると、これが感じられるようになります。)
といったことでしか、彼女のパフォーマンスを判断することが出来ませんでしたか、
今回、DVDで彼女の演技を見て、それがいかに細かい演技と歌の組み立てで出来ていたかを実感。
オネーギンに手紙を渡したものの、冷たくふられ、拒絶の言葉に呆然としながらも感じた羞恥の心を、
歩き始めながら彼にとられた手とは逆の手で手紙を強く握りつぶすことで表現していたのは、そのほんの一例。
上でふれたホロストフスキーとのやり取りで、
”観客に意図が伝わらなければ、その演技はやらないのも同じなのよ”ということを言っていた彼女。
どのシーンも、彼女の意図が本当によく伝わってきました。
例えば、手紙のシーンの後、その手紙を乳母に預け、タチアナが恍惚の表情で、一人、
たらいの水で顔や首筋をひたすシーンは、特に日本人の感性からすると、
ちょっと濃厚でひく感じもあるかもしれませんが、
私は、あの動作によって、タチアナが空想に生きる少女から、
生身の感情や欲望を感じる女性になった、という彼女の人生においての大きな変化を表現していて、
巧みだと思いました。

そういえば、付録映像その2、ビヴァリー・シルズによる、ホロストフスキー、フレミングのインタビューのシーンで、
フレミングが鼻紙を持って登場して、鼻をかんだりしていて、何なんだろう?風邪?と一瞬思わされますが、
このインタビューは、ちょうど、その上で書いたタチアナがオネーギンにふられたシーンの直後で、
彼女が役に没頭しすぎて、本当に泣いていたことに、後に続く会話から気付きます。
(先にリハの映像を見てしまうと、あれ?何で泣いているのかしら?と一瞬記憶喪失状態に陥ります。
ので、先にこちらのインタビューの映像を見るのも手。)



”人を愛するということは、世間を知らない年齢の若者でも、頭に白髪が混じった人間でも、
同様に、喜びだ”
と、タチアナが結婚した老グレミン公に言われて、自分の気持ちに決定的に気付くオネーギン。
以前、新国立劇場でオネーギンを観たときは、私が子供だったのか、
公演の非力か、さーっぱり、わけのわからない話だな、
オネーギン、最悪じゃん。と思っていたものでしたが、最悪なのはこの私。
このDVDを見て気付いたのは、オネーギンは最初からタチアナのことを愛していたということ。
彼がタチアナを拒絶したのは、タチアナにひかれていなかったからではなく、
彼が彼自身どういう人間なのかということを理解しきれていなかった、
この話の悲劇はここにあると思いました。
そして、自分が本当はどういう人間であるか、ということを理解したときには、時すでに遅し。
家庭を持ったり、子供を持ったりすることは自分のやりたいことと違う、などと若かりし頃の彼は言ってましたが、
誰よりも人との本当のつながりを求めていること、だからこそ社交界の表面的な付き合いが苦手だったこと、
それを、親友であるレンスキーを決闘の中で殺さざるをえなくなった、
その過程とその後の時の流れの中でようやく悟るわけです。
皮肉な人は、最後のシーンは、タチアナが人妻になって手が届かない存在になったからこそ、
手に入れたくなったのであって、やっぱりオネーギンは昔と何一つ変わらぬ天邪鬼、
と思うかもしれませんが(そして、私も昔はそう思っていた。)、
今の私はそうではない、と思います。
少なくとも、ホロストフスキーの歌と演技をこのDVDで見るとそうとは思えない。
むしろ、自分のことがわからない、という若い頃の誰もが犯しがちな過ちのために、
なんという代償を払わなければならなくなったことか、また、タチアナに拒絶された今、
これからどんな寂しい人生を送っていくことだろうか、と、オネーギンが憐れに思われてならなかったです。



ビヴァリー・シルズのインタビューの中で、ホロストフスキーに向けた
”タチアナをふる場面では、オネーギンは何歳ですか?”という質問に対し、
ホロストフスキーが、”22歳”と答えるシーンがあるのですが、
これは、彼が社交界に戻ってきたときが26歳、
そこから”数年”というインターバルを逆算してこの数字になっているようです。
私は実はこの設定を知らず、26歳という年齢が出てくるシーンがある後半(三幕)に入る前に、
このインタビューを観たのですが、質問が出た瞬間に、ホロストフスキーの演じている感じだと22歳くらいかな、
と思ったので、彼の口から実際に22歳という言葉が出たときは、
ビンゴ!と思うと同時に、彼の歌と演技がいかに的確に年齢描写が出来ているかを
確認したような思いでした。
特にオネーギンの役は、先ほど書いたように、若さゆえの過ちという側面がありますから、
この若々しさが歌に演技に出ていることは非常なプラスといえるでしょう。
いや、むしろ、彼の歌にその若さを感じられたからこそ、この物語の悲劇性を構成している、
若さゆえの過ちという要素に気付けた、ともいえるのかもしれません。

日本の某CD・DVD販売店のネット販売のページでは、100点中75点あたりの評価がつけられているこのDVD。
こんな公演をどのように観たら75点などという点数がつけられるのか、と臍をかむ思い。
75などという数字に惑わされてはいけません!
最後のカーテンコールで見られる、プレイビルの紙吹雪
(注:主に、オペラハウスの上階、サイドに座っているオペラヘッドが、
プレイビルというプログラム冊子を自分の手でちぎって、カーテンコール時に、舞台に撒く紙吹雪。
これが出るのは、真の素晴らしいパフォーマンスか、誰かが素晴らしい歌唱を聴かせたときだけに限られる。)
が全てを物語っています。

Renee Fleming (Tatiana)
Elena Zaremba (Olga)
Ramon Vargas (Lenski)
Dmitri Hvorostovsky (Eugene Onegin)
Conductor: Valery Gergiev
Production: Robert Carsen
Set and Costume Design: Michael Levine
Filmed in February 2007 at Metropolitan Opera
ON

***チャイコフスキー エフゲニー・オネーギン Tchaikovsky Eugene Onegin***




iN DEMAND キャンセル (涙)

2008-01-25 | お知らせ・その他
1/16から、こちらの有料ケーブル・チャンネル、iN DEMANDで放送予定だった
『ロミオとジュリエット』、
直前になっても宣伝もされなければ、当日になっても、チャンネル・ガイドには、
ロミオのロの字もないので、
これはどうしたこと?と思っていましたら、NYタイムズに、どうやら、今シーズンのライブ・インHDの
iN DEMANDでの放送はキャンセルになった旨の記事が掲載されました。

どうやら原因は、映画館から出た、本上映から30日後にiN DEMANDで放送されるという、
そのインターバルが短すぎて、映画館でのライブ・インHDへの客足が遠のくのでは?
という危惧からだそうです。
ハリウッド映画でも、ケーブルに乗るのはもうちょっと後なんだし、という指摘も。

じゃ、30日後でなくてもいい。90日後でもいいからのせてほしかった。

しかし、これはもう決定事項のようなので、今年は涙をのむしかありません。
来シーズンについてはまだ未定だそうです。

ただし、一条の光は、昨シーズンと同様、PBS(半公共放送のようなチャンネル)での放送はあること。
何としてでもスケジュールを合わせて見なければなりません。

THE SONG CONTINUES DUO RECITAL (Wed, Jan 23, 2008)

2008-01-23 | 演奏会・リサイタル
今シーズン『マクベス』のマクダフ役を歌ったピッタスへの、私の盛り上がりぶりは、
すでにこのブログでご覧の通りですが、
その彼の歌をたった5ドルで聴けるという、犯罪のような企画を発見しました。
直接にカーネギー・ホールのウェブサイトでチケットをオーダーしたので、
"The Song Continues 2008 Duo Recital"というタイトルも深く考えず、
ただ、ただ、”5ドルぅ~?”という、ショック・プライスばかりに注意が向かっていました。すみません。

プログラムがオペラのアリアでないのは残念ですが、5時半スタートなので、
今日は会社の有給休暇を消化し、指定席なしの早い者勝ちで着席なので、
早めにヴァイル・リサイタル・ホールに向かう。
このホール、カーネギー・ホールの3階をリサイタル用のホールにあつらえたもので、
大変小規模ながら、高い天井から豪華なシャンデリアが下がり、
バルコニー席もあるし、床なんて非常に綺麗にメンテナンスされていて、
間違いなくうちのアパートの床よりも清潔そう。
こんな床にはこころおきなくバッグを直置きできる。気持ちいい。
私が現われた20分前には、まだお客さんの姿も少なく、余裕で好みの席に着席。

開演時間になる頃には、客席は満席。
一体5時半という時間に集まれるこの人たちって、一体何者?と、自分のことを棚にあげて思う。
しかし、聴こえ漏れてくる会話を聞いて、どうやらオペラに関わりのある方が多数いらっしゃっているようで、納得しました。
だから、この時間でも来れるのですね。

さて、いざ開演!と同時におもむろに客席の一席から立ち上がって、
リサイタルの説明を始めたおばさま。

どこかで見たことがあるな、と思ったら、マリリン・ホーンでした。
(60~70年代を中心に大活躍したほとんど男性のような深い声を持つ、歴史に残る名メゾ。
ジョーン・サザーランドと組んだ『ノルマ』などで、メトでも一世を風靡した。)



家に帰って調べてみたら、このThe Song Continuesという企画は、
マリリン・ホーン・ファンデーションが主催で例年1月に行われているリサイタルだそうで、
若手の歌手4名を、二名ずつ二回にわけて紹介するという方法で、
本来はどちらかというと、まだこれから世に出て行く歌手たちをサポートし、
歌う場を与える、というのが趣旨のため、それで5ドルという価格設定になっているようです。
また、業界の人が多かったのも、このファンデーションのコネクションのせいか。

そんな背景を知ると、今年のリサイタルは、
ソプラノのアマンダ・マイエスキこそ、名前を聞いたことがないですが、
ピッタスは、すでにメトの公演で注目されるような歌唱を披露していること、
また、このリサイタルの後半で彼が歌う予定の作品は、ワールド・プレミアもので、
彼のために書かれた作品、ということでややユニークではあります。

まず、マイエスキが歌うプーランクの作品でスタート。



「歌われた歌」から、”田園の歌”
「ルイ・アラゴンの二つの詩」から、”C”
「偽りの婚約」から”ヴァイオリン”と”花”の四曲。

芯のあるしっかりした声ですが、少しほっそりとした体型のせいか、
体から絞り出すような雰囲気があるのが、聴いていて辛い。
声量は十分あるのだから、そこまで振り絞らなくてもいいのでは、と思う。
曲を紹介したり、笑いながら礼をしているところなんかはとてもチャーミングなのに、
(写真よりも実物の方が素敵です。)
歌が始まると、突然青筋がたった悲壮な顔になってしまうのは、
歌というものが、何かを表現するための媒体であることを思うと、やや厳しいものがあるかも知れないです。
まじめな方なのか、歌の技巧面にエネルギーのベクトルが全て向かってしまっているようですが、
音程なんかは非常にしっかりしているので、
少し肩の力を抜いて、テクニックよりも、何を歌でもって表現したいか、
ということにもう少し注意が向かってもいいのかもしれません。
声自体は、オペラならR.シュトラウスものなんかに合いそうな、
少し硬質の声のように聴きうけました。

そんな彼女に比べると、やっぱり数段余裕があるピッタスの歌。
もう登場して伴奏のピアノの方がスタンバった瞬間から、顔の表情が歌の内容を物語っています。
レスピーギの歌曲で、
「六つの叙情詩 第I集」から”雨”、
「五つの古風な歌」から”雪”と”霧”を。
一曲目はわりとマイルドな歌い口で、あのメトの大きな劇場であんなにりんと聴こえる声が、
こんな小さな会場で、このくらいのサイズに聴こえるのか、と驚いていたら、
やはり、ややセーブしていたようで、
二曲目、三曲目とどんどん本領発揮。
しかも、声量が大きくなっても、決してうるさく聴こえないのが彼の歌のよいところ。
非常に端正な歌いぶりなのに、魂がこもっている。
その、くるくると変わる歌の表情に、つい、歌に込められた物語を読み取ろうと、
観客も身をのりだしてしまう。
しかし、このプライベートな感じはなんという贅沢か。
まるで、誰かのお家のホーム・パーティーに呼ばれて、みんなでピアノと彼を囲んでいるような、、
もしくは、ピッタスの歌の練習中にこっそり自宅に押しかけたような、、
決して大げさでなく、それくらい小さなホールなのに、聴こえてくる歌は超一級なのです。
しあわせ。
今日のお客さんは彼目当ての人が多かったようで、”霧”の後は割れんばかりの拍手と口笛でした。

再びマイエスキで、ヨーゼフ・マルクスの作品から、
”Bliss in the Woods (邦題がわかりません)"、”幸せな夜”、
”And yesterday He Brought Me Roses(やはり邦題不明)"、
”夜の祈り”、”夜想曲”の五曲。
マルクスの歌曲は初めて聴いたのですが、なかなか美しい曲でした。
特に、”夜の祈り”は、マイエスキの今日の歌の中では、最も上手く感情が織り込まれていたせいもあってか、
この曲のしっとりとした感触とよさが出ていたと思います。

さて、今日、注目の、しかし、ワールド・プレミアものがあまり好きではない私にはげんなりの、
ウィリアム・ブレイクの四つの詩、
”夜の歌(詩集「無垢の歌」より)”、”小さなヴァガボンド(詩集「経験の歌」より)”
”聖なる木曜日(詩集「無垢の歌」より)、”O for a Voice Like Thunder "に、スコット・ウィーラーが曲をつけた新作。
もともとセットの四詩かと思ったのですが、ばらばらの詩集から集めたもののようです。
音楽は、正直、うーん、という感じですが、ドラマティックではあります。
最後の "O for a Voice Like Thunder ”の詩には、どことなく、
中東情勢と、某国の大統領を思わせる一節があり、
マリリン・ホーン・ファンデーションが作曲依頼したというこの曲、
私は、ABTの『ファンシー・フリー』にも通じる(ただし、もっとこちらの方が濃厚ですが)
反戦歌であるという風に読みました。

アンコールは、マイエスキが、リストの”わが子よ、私がもし王だったら”。
ピッタスは、おそらく百万回聴いても聞き取り不能な作曲者名で、
曲調と言葉の感じから、おそらくイスラエルの曲ではないかと思うのですが、
オペラ警察の宿題として調べておきます。

POULENC "Air champêtre" from Airs chantes
POULENC "C" from 2 Poemes de Louis Aragon
POULENC "Violon" from Fiançailles pour rire, No. 5
POULENC "Fleurs" from Fiançailles pour rire, No. 6

RESPIGHI "Pioggia"
RESPIGHI "Nevicata"
RESPIGHI "Nebbie"

MARX "Waldseligkeit"
MARX "Selige Nacht"
MARX "Und gestern hat er mir Rosen gebracht"
MARX "Nachtgebet"
MARX "Nocturne"

SCOTT WHEELER Heaven and Earth
(Four Poems of William Blake)
·· Night
·· The Little Vagabond
·· Holy Thursday
·· O for a Voice Like Thunder

Encore
Majeski: LIZST Enfant, si j'etais roi, S283/R571
Pittas: unknown


Amanda Majeski, Soprano
Danielle Orlando, Piano

Dimitri Pittas, Tenor
Carrie-Ann Matheson, Piano

Carnegie Hall/Weill Recital Hall
GA Odd

***The Song Continues...Duo Recital Amanda Majeski Dimitri Pittas
ソング・コンティニューズ デュオ・リサイタル アマンダ・マイエスキ ディミトリ・ピッタス***

IL BARBIERE DI SIVIGLIA (Tues, Jan 22, 2008)

2008-01-22 | メトロポリタン・オペラ
フローレス王子(*フアン・ディエゴ・フローレス。
今、ベル・カントものを歌ったなら、世界で一番と言ってもよいテノール。
特にロッシーニものについては、他に比べる人がいない。
実力はもちろんのこと、見目および舞台姿がまた麗しく、
テレビ番組でインタビューに答えるその御姿を拝見したときには、
たたずまいまでおっとりしていて、まさに貴公子、でした。)



がアルマヴィーヴァ伯爵を歌った、昨シーズンの新演出作品『セヴィリヤの理髪師』は、
ライブ・インHDにものって、昨シーズンの公演中、最も評判が良かったものの一つでしたが、
その『セヴィリヤ~』が今年も帰ってきました。ただし、キャストはごっそり入れ替え。
アルマヴィーヴァ伯爵に関しては、フローレス以上の歌唱が聴けることはまず難しいので、
あまり期待値をあげすぎないように、一方、ロジーナを歌うメゾ、ガランチャが、
私は今まで生で聴いたことがないのですが、期待の新人メゾということで、
”満を持してメトに登場!”という宣伝文句(意外とこの手の文句に弱い。)と、
プレミアの公演について出たNYタイムズの批評が彼女については大絶賛だったので、
今日は、ロジーナ狙いで行きます。

去年の記事にも書きましたが、私、シャーのこのセヴィリヤの演出がなかなか好きなのです。
簡素なセットでありながら、高級感が溢れていて、安っぽくないのがいいし、
良く見てみると、どんなセットの転換も、決して音楽を邪魔しないように、巧みに計算されているのです。
こういう作品への愛情を感じる演出、いいですね。
ただ、いくつか、ん??と感じさせる箇所があったのは、今年はどんなことになっているでしょうか?

今日は一週間公演がお休みだったせいも関係あるのか、序曲、これはどうしたことか!
オケの、特に冒頭のアンサンブルがばらばら。。ひーっ!

それから、唯一この演出で私が好きでない、オケピットの上に張り巡らされた花道。



これは、前回座席がバルコニーだったこともあって、あれでも、少しコメントを控えたのですが、
今日は、グランド・ティアの第二列目正面という、一般的な基準でいえば、
これ以上望むべくもない良席に座ってみて、改めて思いました。
はっきり言って、セット上の欠陥です。
というか、話がここまで面白くなければ、こんないい席で、ここまで音が捻じ曲げられるセットは許せないくらいです。
私の座っている席からだと、オケの手前(指揮者に近い側)から3/4は、
板張りの花道がピットの上空をさえぎっているために、
トランペット以外の金管とヴァイオリンの音が完全にブロックされてしまい、音が抜けてこない。
なのに、1/4にあたる、トランペットや、弦セクションの一部の音は、やたら、屋根の空いているところから音が響いてくるので、
オケの音のバランスが非常に悪い。
それから、歌手が実際に花道まで出てきて(なのでほとんど平土間一列目の上空で)歌う箇所が結構あるのですが、
ただでさえ客席と距離が近いのでオケに比べて異常に声が立ってしまう上に、
オペラハウスの構造のせいもあるのか、舞台で歌われるときよりも、
音の強弱に異様なコントラストがついて聴こえ、私の席からは耳障りなほどでした。
(CDなんかで、急にボリュームを上げたり、下げたりした時に感じる印象に近い。)
というか、むしろ、バルコニーの時よりも、音響上の欠陥が目立つように感じました。
良席ほど音が悪くなるなんて、そんな馬鹿な、、。
正直、演出上は、花道抜きでもなんとかなると思うので、
あれはぜひ来シーズン以降、外して頂きたい、と新年早々私からのお願いです。

ザパタのアルマヴィーヴァ伯爵は、声そのものは、確かに必要な音は出ているのだけれど、
ややこの役には声がたくましい感じがします。
レジェロ(軽めの声)というよりは、音域によっては
ほとんどリリコ(叙情的な声で、レジェロより重い)のよう。
あと、言うまでもないことですが、言ってしまうと、見た目はフローレス王子の足元にも及びません。
下の写真の左の男性と、先ほどのフローレスの写真を参照。



そのようなハンデの割には、そこを割り切り、若干粗野なアルマヴィーヴァ伯爵という線で、
もてる力は出し切っていたようには思いました。
ただ、フローレスと比べて決定的に違うのは、声の使い方の繊細さ。
特にフレーズの最後で延ばされた音の消えていくまでの軌跡が、
やっぱり王子に比べると、ザパタは荒い。
あのフローレスの、繊細な陶器を思わせる歌声が懐かしいです。

バルトロ役のプラティコは演技上手で、ロジーナが身震いするほど嫌っているのも
むべなるかな、という、いやーな、だけど憎めないおやじぶりでなかなか。



今回楽しかったのは、去年の公演から細かい部分で演技付けが代わっていたり、
いろいろなタッチアップが見られたこと。
今年のバルトロは、チワワを飼っているという設定なようで(冒頭の一番右の写真を参照。)、
このプラティコ、詰め物をしているのか、自腹なのか、
ものすごく恰幅のあるおなかまわりなのですが、その卵を思わせる体型で、
ちょこちょことチワワを歩かせている様子が笑えます。

タッチアップといえば、伯爵がロジーナに向けて歌う
カンツォーネ(”もし私の名前を知りたいと言われるなら Se il mio nome saper voi bramate ”)
では、最初、普通に演奏されるように、ぽろろんと爪弾かれていた伴奏のギターが、
突然繰り返しの部分では激しいフラメンコ調に変わり、
ロジーナが”オエ!”とあいの手を入れるという新ネタも。

一方、去年の公演で、私が意味不明と感じたレズビアンのシーンはカットになっていました。
よろしい。
(レズビアンがいけないのではなく、ストーリーとの関連性がわからないのがいけない。)

フィガロ役のヴァサロは、昨シーズン、『清教徒』でリッカルドを歌ったバリトン。



アンサンブルはなかなか上手だし、どこか垢抜けないおやじっぽい感じが、
去年この役を演じたマッテイよりは、私にとってはらしく思われ、好感がもてたのですが、
ただ、この役は、それだけではやや辛いかな、というのも正直なところ。
そういう意味では、私の好みではなくても、自分らしい役作りをしていた、という観点で、
マッテイの方に軍配があがるかもしれません。
ヴァサロの歌唱には良いところもたくさんあったので、さらに役が練れたときにもう一度見てみたい気がします。

しかし、全男性キャスト中、私が最も楽しませてもらったのは、
バジリオ役のローズが歌った”中傷はそよ風のように La calunnia e un venticello ”。
私は今回この方、全くノー・マークだったのですが、イギリス出身のバスだそうで、
出すぎないがタイミング絶妙なコミカルな演技といい、
折り目正しく丁寧な歌唱といい、大変好感を持ちました。
私のななめ前に座っていた、オペラヘッドと思われるおじいさんも、
ずーっとつまらなさそうにしていたのに、この曲が終わると、”うぬっ”と言って拍手。
本人にしてみれば、そんなこと言われても、という感じでしょうが、
名前が地味で損しているような気もします。

さて、”中傷は~”と順序が前後してしまいましたが、
ガランチャの”今の歌声は Una voce poco fa ”。
このガランチャはラトヴィア出身のメゾで、
あと数シーズン、安定した歌を聴かせてくれたら、
ソプラノのネトレプコに対する、メゾのアイドルになりそうな予感がします。
顔もかわいらしければ、



背も高くて舞台栄えがするために(というか、男子陣よりも大柄に見えるくらい)、



ビジュアルの要素の重要性が日に日に増しているオペラ界では
(まあ、個人的にはそんなトレンドに一過言あるのですが、今回はわきにおいておきます。)
これから需要が増える可能性大の、注目のメゾです。

しかし。彼女の歌を聴いて思ったのは、彼女の財産はそのルックスではなく、声です。
この方の声、とっても頭の良さそうな声なのです。
実際の彼女が頭がいいかなんて知るわけもありませんし、興味もないのですが、
声から受ける印象が非常に知的。
ちょっと長らく(少なくとも表舞台には)いなかったタイプの声質かもしれません。
どういうのが頭のいい声なんですか?と聴かれると困るのですが、
かなり乱暴ですが、私にとっては、例えば、マリア・カラスのような声は知的であり、
アンナ・モッフォ(ごめんなさい。)のような声がその逆、痴的である、と言っておきましょう。
ただし、何も知的であることが優れているわけではなく、痴的な声にもそれはそれで
大いに魅力があることは付け加えておかなければなりません。



そう、ガランチャのロジーナには、時々、すっとカラスの面影がよぎる時があるような気がしました。
もちろん、トータルでは全然またカラスの歌とも違うのですが、その知的であるという一面においては、
似た瞬間があったということです。

そういえば、”今の歌声は”の、Ma se mi toccano の ma の処理がいわゆるカラス風の”んーまっ!”
ではなく、前に何もつけず、むしろ、後ろのse mi toccanoとくっつけて、
あっさりと軽く歌っていましたが、
んーまっ!派の歌手がわりと多い中で、こう来たのは、声の雰囲気がカラスと似ているだけに
面白いと思いました。


プレイビルを見ると、ロジーナ以外では、他の劇場で、モーツァルトの作品をいろいろ歌っているのですが、
その他に『ノルマ』のアダルジーザも歌っているようで、これはぜひ聴いてみたい、と思わされます。
というのは、今回のロジーナ役を聴いて、確かに技術もしっかりしているし、
申し分ないのですが、彼女の声には本来、もっと情熱的な役の方がいいのではないかな、と
思わされたからなのです。
声のサイズの問題で無理があるかもしれませんが、声のカラーだけで言うなら、
アムネリスなんかがぴったり来そうな。
で、そうすると、ベル・カント作品の中では超ドラマティックなカテゴリーに入る『ノルマ』のアダルジーザは、
非常に興味深い組み合わせなのではないかな、と思います。

今日は、初日の彼女の歌への絶賛ぶりに比すと、少し不調だったのかな、と思わせる部分があり、
特に第一幕では、ことごとく高音が下がり気味になっていて、
この”今の歌声は”も、例外に漏れなかったうえ、少し装飾音でも苦労をしていたような様子が見えたのですが、
第二幕では調子を取り戻して、巧みな装飾音の処理が聴けたうえ、
しかも、音がぴったりはまり出してからの彼女の歌唱は本当に文句のつけようがないほど。



一つ、私が心配するのは、彼女がルックスの良さゆえに本来向いていない演技や歌唱をこの先強要されたり、
また自分で課してしまったりしないか、ということ。
というか、すでに、この『セヴィリヤ~』でも、あまりにおきゃんな役作りが、
彼女の本来の美質を損ないそうになるところまで行ってしまっていたのが、
私は非常に残念に感じました。
そんなやりすぎなお芝居も器用にこなしてしまうところがまた仇になっているのですが、
彼女は、声と歌で十分他のメゾよりぬきんでているので、そんな小細工必要なし!



また、その彼女が芸達者だと思わせる一つの理由に、彼女の言葉に対するセンスがあると思います。
実は、体の動きとか、表情といったことよりも、彼女が上手いのは、
同じ言葉を、母音の区切り方とかイントネーションのつけ方を変化させることで、
全く違うニュアンスに聞こえさせる技術で、
観客から笑いを引き出した場面は、しばしば彼女のこの技術に負っていることが多いのに気づきます。
(もう一人、キャストの中でこの技術が巧みだったのは、バルトロ役のプラティコ。)

今までソプラノが歌うロジーナを聴くことが多い星のめぐりだったのですが、
今回、メゾでこのような歌を聴けて大満足でした。
(しかし、そう考えると、ソプラノであったカラスの歌が、
メゾである彼女の歌にうつりこんでいる、というのは、
いかにカラスが芸域の広い人であったか、と再確認させられます。)

全体として、少し演技付け、もしくは各キャストによる演技の解釈が大げさすぎるところがあって、
興をそがれるところもありました。
例えば、昨シーズン、バルトロの家来でゆるい演技を披露して爆笑をさらっていたべスラー氏(歌は歌わない。役者さん。)の演技が、
今年はものすごく濃くなっているのはどうしたことか?違う役者さんかと思いました。
やりすぎはいけません、何事も。



大団円の結末の後、全キャストが登場し、観客にお辞儀。
その中にはバルトロの飼い犬のチワワと共に、頭の方で登場したロバの姿も。
大きくなったぬいぐるみみたいでかわいいなーと、じっと凝視していると、
観客の拍手を受けながら、隣に立っていた女性に頭を摺り寄せて甘えていました。
かわいすぎます。

Jose Manuel Zapata (Count Almaviva)
Elina Garanca (Rosina)
Franco Vassallo (Figaro)
Bruno Pratico (Dr. Bartolo)
Peter Rose (Don Basilio)
Jennifer Check (Berta)
John Michael Moore (Fiorello)
Conductor: Frederic Chaslin
Production: Bartlett Sher
Grand Tier B Odd
OFF
***ロッシーニ セビリヤの理髪師 Rossini Il Barbiere di Siviglia***

Sirius: LA BOHEME (Mar 19, 1977/Sat Jan 19, 2008)

2008-01-19 | メト on Sirius
一月の中盤の一週間は、例年、メトの公演がお休みの週。
よって、1/19の土曜のマチネ公演はありませんでした。

全国ラジオ放送とシリウスの、土曜マチネのライブ放送番組では、
このマチネがない週に、HISTORIC BROADCASTと銘打って、
過去のメトからのライブ放送のアルカイブの中から、名演を一つ選んで放送してくれます。
去年は、マリア・カラスが出演した1956年12月8日の『ランメルモールのルチア』が放送されましたが、
今年は、昨夏に亡くなったパヴァロッティを偲んで、
1977年3月19日に放送された、『ラ・ボエーム』が選ばれました。
指揮は、若かりし頃のレヴァイン。
この音源の海賊盤CDが存在するかどうかはわかりませんが、
少なくともマーガレット嬢がいうには、今回正規には初出の音源だそうです。

まず、1977年の録音にしては、音がもこもこしていて、迫力がないのにちょっとがっかり。
特に最近のリアル・タイムでの『マクベス』の放送なんかと比べてしまうと、、。
まあ、そんなの比べるな、という話ですが。
正規がこの音だとしたらば、海賊盤が存在していたとしても、その音質はおして知るべし。。

そんな録音なので、とても、あの、パヴァロッティの声のすごさが
うまく捕らえられていないのが非常に残念であります。
亡くなったすぐ後に、アメリカでテレビ放送された、
『愛の妙薬』のライブからの映像を見たときにも感じたのですが、
あの太陽の輝きのような響きの60%くらいしか伝わっていない。
むしろ、こういった録画、録音では、彼の歌唱のキズの方が目立ってしまい、
この『ラ・ボエーム』の、”冷たい手を”でも、少しハイCが不安定になったように聴こえたのですが
(音程ではなく響きの方で。)、
その後の聴衆の熱狂的な反応からすると、オペラハウスでは、もしかすると、
それほど感じられなかったのかな、とも思え、考えてみるに、
私もそういえば、メトで”愛の妙薬”のネモリーノ役を歌うパヴァロッティを実演で聴いたとき、
その時は彼のキャリアの本当に終わりの方だったこともあって、
歌唱面での細かいキズはそこここにあったのですが、
彼の声にはやっぱり誰にも真似のできないものがあって、惹きこまれたのを昨日のように思い出します。
(しかし、そう考えると、細かいところでもキズを感じさせないような歌をまだ歌えるドミンゴは本当にすごい、と思ってしまいます。)
とにかく、パヴァロッティの歌というのは、何よりもあの声の響きに誰の追随も許さない美点があるのであって、
それを録音、録画の類は真の意味では捉えきれていないことを思うと、
彼の歌をこういった録音で云々議論するのは不毛に思えてきました。
というか、不毛なので、やめます。

で、そんなパヴァロッティにフェアでないこの録音なのですが、
なぜか、レナータ・スコットにはとんでもなくフェアというか、
いや、むしろ、それ以上といってもいい位。
彼女の正規の録音、海賊盤をあわせても、トップの出来を誇る歌唱に聴こえる。
彼女の声は、どの役を聴いてもどこかヒステリックに聴こえることが多く、
純粋な声の好みで言うと、私はあまり好きではなく、
そんなヒステリックさが、役に偶然マッチする場合(例えば蝶々さん)を除いては、
あまり好んでCDやらを聴いたりすることがないのですが、
この『ラ・ボエーム』の公演では、え?!こんなに可憐に歌えるの?というくらいに、
どの箇所も声の質が伸びやかで綺麗。
私は、この録音に関しては、パヴァロッティが歌う場面ではなく、
彼女が歌う場面で、仕事の手をやめて聴き込んでしまうことの方が断然多かったです。

さらには、ヴィクセル(マルチェロ役)とプリシュカ(コリーネ役)にもフェア。
二人ががっちりと脇を固めていたのが印象的。

叶わぬ願いと知りながら、もう一度、オペラハウスの中でパヴァロッティの声を聴きたかった、
と思わされたヒストリカル録音の放送でした。
録音なんかに収まりきらない大テノールを私たちは失いました。

(写真はその1977年の『ラ・ボエーム』の公演から、パヴァロッティとスコット)

original broadcast date: March 19, 1977

Renata Scotto (Mimi)
Luciano Pavarotti (Rodolfo)
Maralin Niska (Musetta)
Ingvar Wixell (Marcello)
Paul Plishka (Colline)
Allan Monk (Schaunard)
Italo Tajo (Benoit)
Andrea Velis (Alcindoro)
Conductor: James Levine
Production: Fabrizio Melano

***プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme***

家で聴くオペラ (5) 蝶々夫人 後編 その2

2008-01-18 | 家で聴くオペラ
<後編 その1から続く>

もはや、ピンカートンを信じ続けることでしか、
自分の存在のよりどころを確認できない蝶々さんは、この後、

Niente, niente. Ho creduto morir
Ma passa presto come passan le nuvole sul mare.
(なんでもありません、なんでも。死ぬかと思ったけれど、
でも、海の上の雲がすぐに流れていってしまうように、気分が晴れました。)
と、ひたすら彼が自分のもとに戻ってくれることを信じている、
いえ、もはや祈っているという段階に入ったかもしれません。

 そうまでして信じ続けなければいけない理由~子供が生まれていた!
そして、その後、部屋の奥から、男の子が現われ、シャープレスは、
ようやく、ピンカートンと蝶々さんの間に子供が生まれていたことを知ります。
(ただし、ピンカートンはその事実をこの時点では知らない。)
この子供の役に、メトのミンゲラ演出版では、文楽の人形を使用したことが話題になりました。
そのアイディアを支持する人が言う主だった理由の一つは、
”人間の子供を登場させた場合、まったく演技らしい演技をしないで、
そこにいるだけ、という感じなのに引き換え、文楽の人形はどんな子供よりも上手く演技をしてみせる”
というものです。
私はこの意見にははっきり言ってびっくりです。
蝶々さんの子供は、歌詞から計算するに、齢三つ。
そんな子供が、蝶々さんとピンカートンの間の事情なんて、理解できるわけがない。
確かに、実演では、ほとんどの子供が、わけがわからず、ボーっと突っ立っていたり、
蝶々さんにされるがままにしている、とケースが多いのですが、それでよいのです!
私は、このシーン、さらには、蝶々さんが自害する場面などで、
人間の子供が、”今日の夜ご飯何かな?”などと考えてそうだったり、
蝶々さん役の歌手に抱きしめられるたびに、”何これ?”というような表情をするばするほど、
一層、憐れを催します。
子供が何も知らないからこそ、ここは悲しみが募るではないですか?
文楽の人形がわけ知り顔で、蝶々さんの胸に飛び込んだり、大人顔負けの感情を見せるたびに、
なんともいえない違和感と嫌悪感を私は覚えました。全然リアルでないから。
私の考えでは、ここは絶対に人間の子供じゃなきゃいけません。

 もしもピンカートンが戻ってこなかったら~ アリア ”芸者になって街に出て Che tua madre dovra ”
もしもピンカートンが戻ってこなかったら、自分は、雨の日も風の日も街に出て、
芸者に戻るしかない、と訴える蝶々さん。
思わず情をかけずにおれなくなったシャープレスは、ピンカートンに事情を話すことを約束して、
蝶々さんの家を立ち去ります。

そんなところに、スズキに首ねっこをつかまれてゴロー登場。
”アメリカだって、正式に認知されない子供は、世間に冷たくあしらわれるだけだ”
と言い放つゴローを追いかえす蝶々さんとスズキ。
ここでも、ゴローはひどい奴のように一瞬思われますが、しかし、間違ったことを言っているわけではない。
いずれにせよ、この言葉は、蝶々さんの胸に深く刻まれ、後に子供を手放す決心をする一因にもなっていきます。

 大砲の音、白い船、ピンカートン、長崎に再入港~裏番的名場面
大砲の音が、一つ、長崎の港の方から響き渡って、一瞬の沈黙の後、
弦が奏でる”ある晴れた日に”の旋律をバックに、蝶々さんがはやる心をおさえながら、
望遠鏡で港を眺め、船の色と船体に書かれた船名を確認する、この場面も、思わず涙、のシーン。
まぎれもない、ピンカートンをのせたアブラハム・リンカーン号であることを確認した蝶々さんは、
嬉しさを爆発させ、
Trionfa il mio amor! la mia fe'trionfa intera ei torna e m'ama
(私の愛の勝利、私の愛と信頼が完全に勝ったのよ。あの人は帰ってきた、そして私を愛している!)
と歌います。
ここは、子供が登場するシーンあたりから、どんどん重量度が増してくる蝶々さんのパートの中でも、
フルで鳴るオケの音を飛び越えて歌わなければならない、
私の考えでは、椿姫の、”私を愛してね、アルフレード”と匹敵する裏番的名場面
(裏番とは、私の造語。アリアではないのに、アリアと匹敵するほどの熱狂を巻き起こす箇所。)であり、
ここの歌唱が素晴らしいと、その後に続くオケ(ただし、大音響)をかき消すほどの、
また、花の二重唱に入っていくのが聴こえなくなるほどの拍手とBravaが飛ぶ場合があります。

 花の二重唱
ピンカートンが訪れる時のために、と、スズキと二人で庭の花をつんで、
花びらを部屋に撒く蝶々さんとスズキ。
この二重唱は、二人の息が合うと、うっとりとするほどの美しい響きが聴ける名場面。
ただし、その二人の息がぴったり合う、というのは、そう頻繁に起こらないのが難。

 ピンカートンを待つ三人~ハミング・コーラス
化粧と婚礼衣装をつけ、ひたすらピンカートンの到着を待つ蝶々さんに、寄り添うスズキと子供。
”三匹の子ネズミのように、息をひそめて、そっと待ちましょう”という歌詞の後、
ただただ何事もなく時は流れ、夕暮れから夕闇へと舞台は変化していきます。

私が今まで見た『蝶々夫人』の舞台中、演出面で最も好きな、
新国立劇場で上演された栗山昌良氏の舞台では、オケが音楽を奏でる間、
望遠鏡を手にした蝶々さん、スズキ、子供の三人が障子の向こうに居て、
よって、観客席側からは、影絵のような三人の姿が障子に映っているのですが、
やがて照明がだんだんと夕暮れから夕闇への変化を描きだし、
そのままハミング・コーラスに入っていくというものでした。
いえ、ハミング・コーラスどころか、その後、休憩なしで、三幕に突入し、夜が明けて、
舞台の明かりが白んで行くまで、ずっと、舞台では3人が微動だにしないまま。
歌手の方への負担は相当なものだと思いますが
(特に蝶々夫人は、三幕で重量級の歌唱が待っているのに、休憩なし。
しかも、3人とも、この間、本当に全く動かずにいるので相当辛いはず。)、
この演出だと、休憩が入ってしまう場合に比べて、
観客も蝶々さんのピンカートンを待ちわびる気持ちを共有体験できるというのか、
影絵状態の三人を見ているのは、トータルで、ハミング・コーラスを含め、
実質5,6分というところだと思うのですが、それはそれは永遠のように長く感じられたのでした。
この演出は、他にも色々と優れた点があって、
新国立劇場は、その後、蝶々夫人を別の演出に変えてしまったようですが、もったいない話です。

さて、このハミング・コーラスは、弦のみの演奏にのせて、合唱が、
まさに、ハミングのみで歌う3分ほどの曲なのですが、涙が出るほど美しい。というか、実際出る。
今年、ここを、これでもか、というほどの弱音でオケが演奏したメトの公演がありましたが、本当に感動的でした。



第三幕

蝶々さんは、夜通しピンカートンを待ち続けて起きていますが、
スズキと子供は疲れて、待った姿勢のまま、居眠りをしてしまっています。
やがて遠くから聞こえる、漁師たちの歌。とうとう朝が来てしまいました。
蝶々さんをいたわって、少し眠るようにすすめるスズキ。

 子守歌”かわいい我が子よ、ねんねしな Dormi, amor mio ”
スズキの言葉にしたがい、子供をかかえて子守唄を歌いながら、部屋の奥に消える蝶々さん。
最後のヴァリエーション、高音のBは、ピアニッシモで歌わなければならない難所。
しかし、この音はひたすら、柔らかく美しく聴かせてほしい。
嵐のようなこの後の展開の前の、不気味なまでの静溢さ。
また、蝶々さんの母親としての優しさが溢れるシーンです。ここでもまた泣く。

やがてシャープレスとピンカートン夫妻が蝶々さん邸に現われ、
スズキに、今やピンカートンにはアメリカ人の正妻がいること、
しかし、二人が、蝶々さんの子供を引き取り、責任をもってアメリカで育てるつもりであることを伝え、
蝶々さんにはそれを彼女から伝えてほしい、と依頼します。
全く、シャープレスにしろ、スズキにしろ、なんていやな役回りなんでしょう。
しかし、良心の呵責に耐えられなくなったピンカートンが蝶々さん宅から走り去った後、
蝶々さんが現われ、ピンカートンの妻、ケイトの姿を見て、すべてを悟ります。
ピンカートン自らが姿を現せば、子供はお渡ししましょう、と約束する蝶々さん。

スズキに子供と遊んでくるように言いつける蝶々さん。
蝶々さんの意図を察したスズキは拒否しますが、その決心は固く、
スズキはやむなく蝶々さんの側を離れます。

”名誉をもって生きることが叶わぬものは、名誉をもって死ぬべし”という言葉をつぶやいて、
短剣を取り出した蝶々さんのもとに、子供がかけこんできます。

 アリア ”かわいい坊やよ、さようなら Tu, tu, piccolo Iddio ”
このアリアが終わった後は、蝶々さんはすべて演技のみで、言葉がないので、
最後の力を振り絞って歌ってほしい箇所。
非常に短いのにも関わらず、この役がソプラノ殺しといわれるのもむべかな、と思わせる大変なアリアです。

 蝶々さん自害
この自害のシーンは、演出の方法いかんで、印象がいかようにも変わる。
ピンカートンが到着する前に自害している場合、来てから目の前で自害する場合、
子供が居る前で自害する場合、居ないところで自害する場合、
また、その自害の方法(短剣をどのように扱うか)まで、本当に千差万別です。



さて、蝶々さんが死に追いやられた最大の原因として、私はアイデンティティの問題があると思っています。
蝶々さんは、まず、父親がお上に自害を命じられ、
それが引き金となって貧乏生活に陥ったために芸者という手段でしか身をたてられず、
そんな境遇ゆえに、日本に見捨てられたと感じていたのが、
ピンカートンと出あうことで、アメリカに希望を見出しました。
自分の宗教と家族を捨てて、完全に日本人という自分のアイデンティティを投げ打ったはずが、
(例えば、彼女が、ヤマドリとのシーンで、日本では男性は離婚もやりたい放題だけれど、
アメリカではそんな男は許されない、と判事の真似をして、男性をやりこめる真似をするシーンなどに、
盲目的なアメリカへの信奉ぶりがあらわれている)
そのアメリカ=ピンカートンにも受け入れられず、自分の命を絶たざるを得なくなるわけですが、
結局、その最後は、自分があれほど逃れようとしていた日本という国の忠義によって
死んでいかざるを得なかった、という、その葛藤に、この話の最大の悲しさがあるのではないでしょうか?
死という段階に至ってはじめて、自分は日本人であるという事実から逃れられないことに気付き、
いや、むしろ、それを主張することを選んだ蝶々さん。

なので、この物語がどこの国が舞台であるかに関わらず、普遍的な人間の感情を描いているから
オペラの名作として愛されている、という意見には、ある面、あるレベルでは同意できますが、
その一方で、この話はどうしようもなく、日本という国と切り離して考えることはできない、
というのが私の考えで、それゆえに、日本という国を上手くとらえられていない演出や、
日本人女性の本質を表現できていない蝶々さんの歌唱がのっている公演は辛い、というのが正直な思いです。

(写真は一枚目 ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス、二枚目 ジェラルディン・ファーラー、
三枚目 クラウディア・ムツィオ)

家で聴くオペラ (5) 蝶々夫人 後編 その1

2008-01-17 | 家で聴くオペラ
すべてのフレーズ、いえ、すべての音が見所、聴き所ですが、字数に合わせて泣く泣く厳選。

第一幕

いきなりスタート
序曲も前奏曲もなく、短い序奏のみですぐに結婚/借家斡旋屋ゴローとピンカートンの会話へ。
プッチーニの作品は、前奏曲序曲なしのいきなりスタート系が多い。
トゥーランドットしかり、ラ・ボエームしかり、トスカしかり。

オケには、その二人の会話に入るために序奏のテンポが落ちるその前の全ての音に
迫り来る悲劇を予感させるような緊迫感を込めてほしい。
ここがのっぺらぼうだったり、べたーんとした音だと、
”今日の公演を観に来た私ははずしてしまったのかもしれない”と、
不安になる一瞬でもあります。

人はいいけど無力な男、シャープレスの登場 
~ ピンカートンのアリア ”世界中どこでも Dovunque al mondo"
ピンカートンと蝶々さんの結婚式に参加するため、息をきらせながら、
ピンカートンが二束三文でお買い上げになった長崎港を望む丘の上の家に登ってくる駐長崎領事のシャープレス。
このシャープレス登場の部分の言葉とそれについているメロディーだけで、
結構なおじさんに違いないシャープレスがぜえぜえ言いながら大儀そうに丘を登ってくる様子が
目に浮かぶようです。
この作品でのプッチーニは、登場人物の性格描写はもちろん、
その心の動き、時間の変化、ある出来事が起こる瞬間、など、
何もかもを音で表現し尽くしていて本当に素晴らしい。

さて、ピンカートンは考えの至らぬ軽薄男ではあっても、完全な悪人ではない。
ここはポイントです。
彼は蝶々さんを意識的に苦しめようとしたわけではない。
無邪気さゆえの残酷さ。
これこそが蝶々さんを死においやる一要因です。(もう一つの要因については後ほど。)
ピンカートン役のテノールのキャラクターと歌には、
”悪気がないのに、それゆえに怖いその無邪気さ”が醸し出されていることが絶対条件。

思慮深い紳士であるところのシャープレスがやんわり非難するのをものともせず、
今度結婚する少女は現地妻に過ぎないこと、アメリカに帰ったら正妻(もちろんアメリカ人の)を
娶るつもりであることを屈託なく語るピンカートン。
その悪気なさが本当に怖いんだってば!ピンカートン!!!
悪気なさを炸裂させながら、世界中どこでも僕らさすらいのヤンキーは享楽に身をゆだねて好き勝手するのさ!
と歌う”世界中どこでも Dovunque al mondo"。
このあたりのピンカートンには多面性は必要なし。とにかく、無邪気に、
しかし、声楽的には、朗々とかつリリカルにその勘違いを歌い上げてほしい。

このピンカートン役、前編でも触れたとおり、CDなんかでは、名テノールが歌っていますが、
実演では、意外とビッグ・ネームが歌わない役です。
それには、彼がひどい男であるばかりか、そのひどさが、無邪気さ、間抜けさ、思慮のなさによっているという、
歌う側にとっては、はっきり言って非常に格好悪い役柄であるうえ、決め球となるようなスーパー・アリアもなし。
極端に言ってしまうと、蝶々夫人を支える準主役であり、決して主役ではありません。
またそのために、出番があまり多くなく(ほとんど一幕のみに集中)、雇うオペラハウス側からしても、
ビッグ・ネームのギャラを払うには、わりに合わない役柄である、という認識があるようです。
同じひどい男でも、パートはバリトンになってしまいますが、
『トスカ』のスカルピアや、『オテロ』のイヤーゴみたいな役だと、
悪の美学があるので、やりがいもあるというものでしょうが、
ピンカートンに、そんなこじゃれたものは一切ありません。ただ、格好悪さがあるのみ。

ゴローは、その歌う内容から、ネズミ男的なキャラクター(せこくてこすっからい男)として演じられ、
声も見た目もそんな風な人が担当することが多いのですが、
今シーズンのメトでのゴローに、私は目からうろこでした。
いなせなゴロー。これがなかなか良いのです。
今後のトレンドとして、いなせ路線のゴローが増えていくのか、
やっぱりネズミ男路線が定番として生き続けるのか、興味深いところです。

 蝶々さん、霞の向こうからあらわる! ”ああ、なんてきれいな空、素晴らしい海 Ah! Ah! quanto cielo! quanto mar! ”
ここはこのオペラの中でもっとも美しい場面の一つで、素晴らしい公演だと、
まるで霞の中から蝶々さんが現れるような、この世のものと思えぬ幻想的な音楽が聴けます。
なので、どんな形の演出をするにせよ、絶対にその美しさを邪魔してほしくない箇所でもあります。
まず、蝶々夫人に付き添ってきた親類縁者(ただし、女声のみの合唱)の声が聴こえ、
それにのるようにして、蝶々夫人の最初の言葉、Ancora un passo or via. Aspetta
(もう一息だわ。ちょっと待ってよ、待って。)
が聴こえてきます。ここからGiuと言って、みんなでお辞儀をするところまでは、
私はいつも息をひそめて舞台を見つめてしまう。
蝶々さんが歌う旋律は、登場してすぐに、割と高いレンジの音を、
しかも、柔らかい響きを込めつつ歌わなければならないということで、
さきほど、さらりと”素晴らしい公演だと、、”などと言いましたが、本当に難関。
さらに難易度を上げるために、最後の音をヴァリエーションでDesの音に上げるソプラノもいますが、
よほど高音に自信がない限り、上げても甲高い響きが出てしまって、
せっかくの挑戦が台無しになってしまうという、恐ろしい賭けの場所でもあります。
ちなみに、メトで昨シーズン(2006-7年)にこの蝶々さん役を歌ったドマスも、
今シーズン(2007-8年)歌ったラセットも、上げずにオリジナルの音で歌っていました。

 日本のメロと1、2、3!
『蝶々夫人』では、作曲者プッチーニの取材力が炸裂、
越後獅子、さくらさくら、お江戸日本橋、宮さん宮さん、
かっぽれ、豊年節など、数々の日本の曲の断片が現れます。
そして、最もわかりやすいのが君が代のメロディー。
この作品では、”君が代”の旋律が日本を、”星条旗よ永遠なれ”の旋律が
アメリカを表現するのに繰り返し現われるので、
日本の国歌を”君が代”から他の曲に変えようという議論があるそうですが、
このオペラが存在し続ける限り、私としては、ありえない話です。
その、日本の旋律ですが、蝶々さんを歌うソプラノによって、微妙な違いがあるのも面白いところ。
日本の旋律の独特さを見事に歌いだしているソプラノは、この後に続く場の出来が楽しみになってきます。
蝶々さんの役が、至難の役と言われる理由は、
基本的にリリコ・スピントといわれる、叙情的でありながら力強い、という特定のカラーが声に必要とされること、
またとにかく最初から最後まで出ずっぱりで、とんでもないスタミナが必要であるということなどが挙げられますが、
私が一番大変だと思うのは、一幕、ニ幕、三幕と幕がすすむにつれ、
蝶々夫人が成長を遂げていき、それに応じてその変化を歌いわけられなければいけない、という点です。
特に、一幕で必要とされる、15歳の、まだ少女らしさを残した性格は、
リリコ・スピントの声質とやや相容れないので、歌い演じるのが難しい箇所であり、
ソプラノの歌唱センスと技術がおおいに試される幕でもあります。
その歌唱センスは、どのようにこの15歳の蝶々さんを演じようとしているか、ということに大きく左右されると思うのですが、
それが断片的に伺い知れるのが、”1、2、3、みんなでお辞儀をしましょう”の、
1、2、3の数え方。
まるで舌足らずの子供のように歌われる蝶々さん、
すでに芯の強さが伺えるようなしっかりした蝶々さん、いろいろです。

 ボンゾの奇襲攻撃~日本で一人ぼっちになった蝶々さん
こっそりと、自分の家の宗教(神道と思われる)を捨て、
ピンカートンのためにキリスト教に改宗していた蝶々さん。
この事実だけでも、彼女の思い込んだら一直線、な性格が伺いしれます。
いきなり結婚式の場にのりこんできたボンゾ(坊主)は全親類縁者の前でその事実を暴露、
怒った親類縁者は彼女を許さず、ピンカートンの元に彼女を置き去りにして、
去っていきます。
ここは、ドラマ上、非常に大事なシーン。
蝶々さんは、ここで、日本という国から拒絶され、アメリカ(物理的にではなく、
精神のよりどころとしてのアメリカ)に
自分の居場所を求めざるを得なくなるわけです。
観客は、すでにピンカートンが決して彼女に本当にアメリカという居場所を与えられる存在ではない、
というかそのつもりもないことを知っているだけに、胸がしめつけられますが、
もちろん、蝶々さんは、ピンカートンを信じきっています。
ボンゾが大暴れした後から、いきなり蝶々夫人の女中スズキが唱える祈りの言葉を経て愛の二重唱に流れ込んでいくまでの、あまりにもスムーズな音楽の流れは、本当に素晴らしい。
この巧みさにはいつもため息がでます。

 イタリア・オペラで最もロマンティックかつエロティックな愛の二重唱 ”もう夜も更けた Viene la sera ”
イタリア・オペラ一ロマンティックかつエロティックな、というこのタイトルに文句をつける輩には、
この私が飛び蹴りを食らわせます。
蝶々さんが婚礼衣装の帯を解いて夜着に着替えるという具体的な描写まであるこの二重唱。
今の映画のラブ・シーンのはしりといっても過言ではない。
そのうえに、こちらが赤面してしまいそうな、二人の睦言まで歌詞で歌われるのですから、
こわいものなしです。
しかし、そんなロマ&エロな見かけとは裏腹に、
ここ(特に二重唱の中盤以降)はオケがバックで大音量で鳴っているため、
蝶々さんとピンカートンは次々と畳み掛けるように現われる重量級の旋律を歌いこなさなければならず、
本当に大変。
この大変さが勝ってしまって、このシーンの本質が失われてしまっている二重唱を何度聴いたことか。。
ここで、”おお、なんとロマンチックな!”とか”なんとエロティックな!”と思わされる歌唱が
舞台から聴こえて来たら、歌っている歌手の二人に大感謝してください。
ここでも、星が瞬く音の描写とか、プッチーニの筆が炸裂していますし、
最後に大爆発するオケと二人の歌声は本当にエクスタティック。
ヴェルディの『オテロ』の二重唱と、第一位のタイトルを巡って激しく競い合っておりますが、
プッチーニの曲には、理屈でなく、五感に直接ふれてくるような生々しさがあるのが特徴ではないかと思います。
(逆にそれが、ヴェルディの洗練されたそれとは違って苦手、という人がいるのもある程度、わかります。)




第二幕

”駒鳥が次に巣をつくるころには(一年したら)”
という約束も虚しく、もう三年間、ピンカートンはアメリカに帰国したまま、日本に戻ってきていない。

 信じ続けて帰りを待つ蝶々さん~”ある晴れた日に Un bel di ”
すでにピンカートンが残した金も底をつき、極貧生活に陥りはじめている蝶々さんとスズキ。
年の功と冷静な性格ゆえに、すでにピンカートンがもう蝶々さんの元には戻ってこない、
ということを薄々感じ始めているスズキが、泣き崩れる中、”馬鹿ね、彼は絶対帰ってくるんだから!”
と蝶々さんが歌う”ある晴れた日に”はあまりに有名なアリア。
歌詞で歌われる、ピンカートンが日本に戻ってくるときの模様をひたすら描写した
”水平線に煙がたなびいて、白い船があらわれ、
祝砲が打たれて、、”云々という箇所は、
幕の後半で、実際にピンカートンの船が長崎港に入港するときの様子と巧みに対応しており、
このオペラのリピーターは、思わずこの後に訪れるシーンに思いを馳せ、倍の量の涙を流すのです。
また、真ん中の、”すぐにピンカートンを迎えにはいかないで、じっとじらすの”という歌詞とあわせて、
このピンカートンが長崎に戻ってくる光景を、何度となく頭の中で繰り返したであろう蝶々さんのいじらしさが泣けます。


そんな蝶々さんのもとを、シャープレスとゴローが訪問。
すわ!良い知らせか?と浮き足だつ蝶々さん。
しかし、シャープレスがやってきたのは、ピンカートンからの手紙の内容を蝶々さんに伝えるため。
辛い内容であることを予感しているシャープレスがなかなか手紙の件を切り出せないでいるなか、
蝶々さんを新しくヤマドリという男性(ヤマドリ氏、自らがすでに数々の女性と関係があるため、
蝶々さんの過去は気にならないらしい。)と引き合わせようとするゴロー。
しかし、そんなヤマドリを蝶々さんは冷たくあしらいます。
まさにピンカートンもそんな無関心さ、冷たさで蝶々さんを見ているであろうとは思いもしないように。
蝶々さんの視点では、ゴローはひどい男であるし、
確かに、これでまた手数料を一稼ぎ、という腹がゴローにもないわけではないのですが、
しかし、彼は一方で、アメリカ人ピンカートンに捨てられた蝶々さんに対し、
同じ日本人として憐れみを感じており、むしろその気持ちこそ、
このヤマドリ斡旋の直接かつ最大の動機であると私は思っています。
いや、ヤマドリもそんな事情を知りながら、この話にのってくれているわけで、
この場面を見るたびに、ついこの二人の日本人男性と、そして、シャープレスの
蝶々さんへの思いやりが心に染みる。
しかし、もちろん蝶々さんは、そんな彼らの思いやりが理解できるほど大人な女性ではないのであって、
悲劇への道をまっしぐらに進んで行くのです。

 とばっちりを受けるシャープレス~ピンカートンからの手紙

ついに手紙の件を切り出すきっかけを得たシャープレス。
ごく静かなオケの伴奏にのせて始まる、手紙の二重唱("
Legger con me volete questa lettera")は、涙腺崩壊必至の場面。
ここで注目は、この手紙におよんでなお、ピンカートンの野郎は、
直接に蝶々さんに話しかけるのではなく、あくまで、シャープレスに宛てた手紙になっている点です。
いやー、この台本、本当にうまいです。
この設定だけで、あいかわらずピンカートンが、自分で引き起こしたことの顛末すら、
自分で責任を持って片付けることのできない、赤ん坊のような男であることを十分伝えきっているのですから。
そして、とばっちりを受けるシャープレス。アンラッキーな人です。

この二重唱、シャープレスが手紙を読み上げ、蝶々さんが合いの手を入れる形になっているのですが、
実にせつない。
特に、”もう蝶々さんは、私のことなど覚えていないかもしれないが”という手紙の一節に、
蝶々さんが、”覚えていないですって?スズキ、お前からも言ってちょうだい!
もう僕のことを覚えていないかもしれない、だなんて!”
と答え、つい今まで抑えていた思いのたけがあふれ出してしまう箇所は、
旋律の美しさとあいまって、我々観客もつい胸が痛くなるような場面です。
手紙の中で、自分が再度長崎に入港することを伝えるピンカートン。
あまりの嬉しさに、蝶々さんは、この後に続く、シャープレスへの
”あなたから、適切なご配慮を頂き、彼女に心の準備をさせてほしいのです”
という言葉の真意を理解できません。
しかし、シャープレスは、さすがに大人ですから、いち早くその意味を理解し、
蝶々さんに、”もしこのまま彼がずっとあなたのもとに帰ってこなかったら、どうしますか?”という言葉で、
その手紙の本意を彼女に伝えようとします。
ここで初めて、蝶々さんは、今までゆるぎのなかった自分の心に、
黒い雲が垂れ込めてくるのを感じるわけです。オケがすでにそんな彼女の心の動きを描写していて見事ですが、
もちろん蝶々さん役のソプラノも、歌で彼女が感じたその不安を表現せねばなりません。
ついに”ヤマドリのプロポーズを受けては?”と駄目押しするシャープレス。
自尊心を傷つけられ、”帰ってください!”と言い放つ蝶々さんの様子に、
いかに彼女の気持ちを傷つけたかを悟って、愚かなことを言いました、と詫びるシャープレス。
この後の蝶々さんの、
Oh, mi fate tanto male, tanto male, tanto, tanto!
(ああ、あなたは本当にひどいことをされました。とても、とても!)
という言葉は、今やシャープレスという、ピンカートンおよびアメリカという世界への、
架け橋も今や失おうとしているのでは?という蝶々さんの不安と、
その向こうにある、ピンカートンを失うということ、および自らの死への予感が凝縮されている大事なフレーズです。

(一枚目の写真はレナータ・テバルディ、二枚目はマリア・カラス)

<後編 その2に続く>

Sirius: MACBETH (Tues, Jan 15, 2008)

2008-01-15 | メト on Sirius
今日も夕飯の支度をしながらシリウスのLive from the METを聴く。
今日の演目は『マクベス』。
先週土曜日のライブ・インHDおよびラジオ放送は非常に評判が良かったようで、
ここ数年のラジオ放送にのった公演のうち、最も良かった、と断言している方もいらっしゃるそうです。
そんな公演がつい土曜日にあったもので、今日は気が抜けてぺしゃんこな公演になってしまうのか。
それとも、その熱気を引き継いで、またまた聴き応えのある公演になるのか?

マーガレット嬢がいつものように、”出演の順に、、”とキャストの紹介を始めた。
”マクベスはラド・アタネリ、バンクォーはジョン・レリエー、
マクベス夫人がシンシア・ローレンス、マクダフはディミトリ・ピッタス、、”

シンシア・ローレンス?

マクベス夫人役は、グレギーナとアンドレア・グルーバーのダブル・キャストのはずで、
シンシア・ローレンスとは、初耳。
今日がグレギーナとグルーバーどちらが歌うはずだったかももう記憶にないし、
どういった事情でローレンスが歌うことになったかは不明。

今、彼女のオフィシャル・サイトを見てみると、
”1/15にメトでマクベス夫人役を歌うことになり、とっても嬉しいです。”
というメッセージが出ているので、今のところは今日一度きり、ということのようですが、
彼女の今日の出来によっては、もしかすると、4月の公演のキャスティングにも影響が出そうで、
これは一層聴き逃せなくなってしまいました。
なので、スピーカーの前で、耳をそばだてながら、夕食開始。

そのローレンス。声を聴いた印象。
いいではないですか!
まだ少し、歌唱が練れていない箇所もあって、
下降および上昇音階の速いパッセージの歌唱がややもたつくのと、
音が延びる場所で少し拍のとり方が甘く感じられる時があるのですが、
声が若々しいのがいいし、高音も難なく出ていて、ラジオで聴く限りは声のボリュームもしっかりしている。
声に少しヒステリックな響きがあるのも、この役に向いている。
なんと、メト、こんな隠し玉を持っていたとは!まったく隅におけません。
彼女は、せっかくこの役を歌える恵まれた声を持っているのだから、これからぜひとも、
細かい部分を磨きあげてほしいです。
それが出来れば、この役は彼女の切り札にもなりうると思います。
ただ一つ気をつけたいのは、感情がこもり過ぎると、声の音色が変わりすぎること。
これは彼女の歌の魅力と表裏一体になっているので、さじ加減が難しいところですが、
場所によっては少し、母音が平たく、ほとんど下品に聴こえる箇所があったので、
そこはもう少し抑えてもいいかもしれません。

マクベスを歌うアタネリ。1/9のシリウスの放送の感想ではあまり良いことをかけなかったのですが、
今日はいいですねー。
もしかすると、1/9はコンディションが悪かったのかもしれません。
ただ、ローレンスと同じく、この人も歌からビートが感じられにくいところがあって、
ルチーチがさりげない音の中にもちゃんとリズムが感じられるのに比べると、
そこのあたりはもう一歩か。
でも、今日は高音がしっかり伸びているし、フォームが少し乱れても感情を優先させる熱い歌唱で、
ローレンスとともに、若々しいマクベス夫妻を好演しています。
こうやって比べてみると、ルチーチ、グレギーナコンビの方が少し歌から受ける印象年齢が高い感じがします。
ローレンス+アタネリ組、若いのに野心的、という、なかなか魅力的な夫婦像を作りあげています。

レリエーのバンクォー。
今日は、11/3の歌唱と並ぶ素晴らしい出来。
ライブ・インHDにぴったり合わせて来たか、と思っていましたが、今日がぴったりな位かも知れないです。

マクダフを歌ったピッタス。
今日は実はあまり声の調子が良くない、とみましたが、
(いつもよりも声の張りが弱くて、響きが浅く、長い音が苦しそうだった。)
私の優れた歌手の方程式、すなわち、”調子が悪いときにも、下げ幅が少ない”を見事実践し、
ほとんどその調子の悪さを感じさせない歌唱で踏ん張り、観客からの喝采をもらってました。

さて、現在、夢遊の場ですが、こうして聴くと、ローレンスの声は、
やっぱりグレギーナに比べると、声の線が細く、
そのためにそれを補おうとしたときに、少し下品な響きになってしまうのかな、と感じました。
しかし、線が細いと言っても、不満に感じるほどではなく、
むしろ、そこを彼女らしさという強みに変えてしまうことも可能な範囲だと思うので、
ぜひ発想の転換を!
しかし、彼女の歌は、感情がきちんと次々と現れて消えていく様が表現できているし、
下品な線に行く前までは、声のカラーの使い方もなかなか巧みだし、いいです、とっても。
今、夢遊の場が終わりましたが、観客、大喜びです。
いやー、こんな風にマクベス夫人を歌えるソプラノがいたとは、驚きました。
しかもアメリカ人。まさに、灯台もと暗し。
これは、4月、グルーバーが歌うのか、はたまた、ローレンスが代わりに入るのか?
私がゲルプ氏ならかなり頭を悩ませると思います。

マクベスの最後のアリア。
うーん、アタネリはこのアリア、ちょっと苦手なんでしょうか?
前のシリウスの放送の時も感じたのですが、かなり頭の音程がゆらいでます。
後半、持ち直しましたが、この頭が音痴なのはやばいですね。早急に処置を。

最後に。
今日のもう一つの主役はオケ。本当に今日はいい。
この演目でのオケは、あのライブ・インHDをきっかけに一皮むけたような感じすらします。
第一ランの頃に比べると、先週土曜のライブ・インHDの日、それから今日の演奏は格段によくなっています。
今もじーっと聴いていて思いますが(←かなり怖い図です。
家でスピーカーとさしで座って、箸を宙にもったまま、じっと首をかしげて聴き入っている。)
今日のオケの演奏は、おそらく、先週土曜日よりもいいですね。
ものすごくテンション高いです。
こういう演奏は、オペラハウスで聴きたかった。

(写真はローレンス)

Lado Atanelli (Macbeth)
Cynthia Lawrence (Lady Macbeth)
John Relyea (Banquo)
Dimitri Pittas (Macduff)
Russell Thomas (Malcolm)
James Courtney (A doctor)
Elizabeth Blancke-Biggs (Lady-in-waiting to Lady Macbeth)
Conductor: James Levine
Production: Adrian Noble
ON

***ヴェルディ マクベス Verdi Macbeth***

LA BOHEME (Sun Mtn, Jan 13, 2008)

2008-01-13 | メト以外のオペラ
オペラにのめりこむようになって一番変化したこと、それはカラオケに行く回数かもしれません。

学生時代には、バイト先の社長さんがそれこそカラオケ狂いだったこともあり、
”今日も、これ、行く?”とマイクを持つ手振りをすれば、
ほとんど断ることなくお供をさせていただいたために、
それこそ週一から週二ペースで、社長お気に入りの地元のスナックを貸切状態にして、
九時頃スタートして、夜中の一時、二時まで歌いまくったものでした。

しかし、オペラを聴くようになってからというもの、
1)ごく近い年齢のごく親しい友人と行く場合
2)仕事上の接待など、断りきれない場合
以外は一切行きません。

それは、オペラで魂にふれる歌を知り、そして歌手の人たちがそのような歌を歌うために
どのような精進と努力を積んでいるかを知るにつけ、
カラオケで、自分で歌うのはもちろんのこと(←下手くそ)、
人の歌を聴くのも(←上手い人であっても)なんだか違和感を感じるようになってしまったのです。
週一でカラオケに通った過去を持つ私ですから、
歌を歌う楽しさ、というのはわかるのですが、人に聴いて頂く、という部分がひっかかるのだと思います。
こればっかりは、理屈でなく、ただそう感じるようになってしまったので、しようがありません。

ただ、1の場合は、もはや懐メロの域に達している我々の青春時代の歌(邦楽、洋楽ともに)
を思い出しつつなごむ、というまったく別の次元の楽しみがあるので、許容範囲。

このような考えを持つうえに、オペラの最高の楽しみと喜びは、
”心に響く究極・至福の公演に出あうこと(ブログのプロフィール欄参照)”にあり、と断言しているくらいなので、
それを可能にする最高の才能と努力と精進が出会う場所を求めるのは自然のなりゆきであり、
そして、NYに居たらば、メトがまさにその場所であることに異議を唱える方はいないことでしょう。

NYにはメトの他にもオペラを上演している組織はシティ・オペラをはじめいくつかありますし、
彼らの公演の中には感動的なものも、すぐれたものもあるでしょう。
しかし、それを言い始めると、プロ、アマふくめ、すべてのオペラ公演に通わざるを得なくなります。
私のモットーには、”限られた時間と財力でいかに究極の公演に出会うか”という
しばりもありますので、
確率の問題として、私はメトに通い続ける。
これが、私がNYではメト以外のオペラにほとんど行かない理由です。

そんなメト・オンリーの私に、先週末、連れが、言い出した。
”ちょっと理由があって、アマート・オペラに行きたいんだけど。”

アマート・オペラ、、、、

今年60周年を迎える(ということは、1948年創立!)、
アマート夫妻によって運営され続けて来たオペラハウスで、
(ただし、奥様のサリーさんは2000年に他界されたので、現在はアンソニーさんが切り盛りしている。)
ロウアー・イースト・サイドのバワリー通り沿いにあります。
本当かどうかは知らないけれど、歌い手さんの中には、お金を払って歌わせてもらう人もいるとか、、。
と、そういう話を聞くと、なんだかカラオケのイメージがダブって、
つい気分もげんなりしてしまうのですが、しかし、オペラはオペラ!と気を取り直して演目しらべ。
13日に『ラ・ボエーム』の最終公演日があって、その後の公演は『ドン・パスクワーレ』か。。
って、『ドン・パスクワーレ』なんて歌える歌手、連れてこれるの!?
(ちなみに、一昨年のシーズンのメトの『ドン・パスクワーレ』は、
ネトレプコとフローレスのコンビで、それはそれは楽しい舞台でした。)

このアマート・オペラのオペラハウスの雰囲気からしても、
話の筋、演目の長さ(短め!)からいっても、『ラ・ボエーム』がいいだろう、ということで、
演目は『ラ・ボエーム』に決定。

さっそく、オペラハウスに電話してチケットを手配。
クレジット・カードの番号を電話で伝えて、チケットは当日引取りということにしたのですが、
この電話をとったおじさんが、かなりやばい。
最初に、”来週日曜日マチネのラ・ボエームを二枚、一番いい席でお願いします”と言うと、
”明日のラ・ボエームね?で、何枚?”
・・・・。
”明日じゃなくって、来週の日曜で、二枚です。”
”そうそう、来週の日曜だった、来週の日曜。で、何枚?”
と、こんな調子で、ちーっとも話がすすまない。

それでも、やっと座席の指定の段階までたどりつく。
”一番いい席がいいんですが”と重ねていうと、
”いい席っていってもね、教室くらいの大きさだからね。どこからでもよく見えるけどね。
おっと!でも、バルコニー席の一番前列が空いてるよ。ここがいいね!”
ということなので、そのバルコニー席の最前列を指定。
”席番AAの5と6、しっかりメモってね。”というので、
”あんたもね!”と思いながら、AAの5と6、としっかり手元のメモに明記。
さっきまで、まるで志村けんがコントで演じるおばあちゃんを相手に話しているのかと
錯覚させるおとぼけぶりをかましていたおじさんが、
こちらのクレジットカード番号をメモる段階になると、なんだか急にてきぱきとしだした。
なんなんだ?

さて、そんなかみ合わない予約の電話から一週間。いよいよ公演の当日になりました。

開演20分前。オペラハウスの、というか、普通のビルをオペラハウスに改造したものですが、
(NYにお住まいの方は、普通のタウンハウス一軒分の幅を想像ください。)
周りにはお客さんの姿が。



今日の演目、『ラ・ボエーム』のポスターが掲げられています。



一番お客さんの到着の激しい時間に着いてしまったようで、
一人きりで全てをさばかなければいけない受付の女性はかなりテンパってます。
名前で探してもお取り置きされているチケットが見あたらない様子。
どんどん現れるお客さんのもぎりもしないといけないため、”ちょっとそこで待っていてください”
と言われたまま、ずっと立ちっぱなしでどんどん時間が過ぎていく。
もう一人、やはり私たちと同様に電話でチケットを手配した女の子も同じ目に遭い、
三人で立ちぼうけ。
やっと別のおじさんが現れて、私の座席番号を見ると、”おかしいなー、5番と6番は連番じゃないんだよねー。
奇数同士が連番だから、5番と7番っていうならわかるんだけど。”
”いや、そんなの知りませんよ。電話で5と6って言われたんですから。”と言うと、
じゃ、とりあえず、、、と、バルコニーの5番と7番に案内され、いざ座席にお尻が着こうとしたその瞬間、
またしても、いきなりさっきのおじさんが舞い戻ってきて、”ちょっとその座席待ったー!”と言う。
”その席は他の人のものかも知れない”といわれ、またしても入り口に戻された。
”なんだよー、この手際の悪さはー!”(しかも、立たされている場所がめちゃくちゃ寒い)と、
連れと例の女の子と私の三人でいらいらが最高潮に達しているところに、
おじさんが私に言い放った。
”君のチケット、名前でも番号でも見当たらないんだよねー。
だけど、覚えてるんだよ、確か、僕が電話の応対したよね。そうだよね?”

・・・。
そんなの知らないってば!!!
大体、あなたとも初対面なら、何人予約の係の人がいるかも知らないんですけど、こっちは。

でも。
このとんちんかんぶりは、確かに、あなたかもしれない。
というか、あなたに違いない!
そして、あんただな。でたらめな5番と6番なんて数字を寄こしたのは!!

結局、我々は最後まで散々立って待たされたあげく、平土間の後方の簡易座席、
メトだと、私が絶対座らないあたりの座席に無理やり着席されたのでした。

オペラハウスは、建物のベイスメント(地下)からおそらく3階までをぶち抜いた作りになっていて、
地下が平土間、二階がバルコニー席になっています。
きちんとオケピットもあって、その上(一階あたりか?)がちょうど舞台になっています。
舞台の幅は先ほどふれたとおり、普通のタウンハウスの横幅分マイナス緞帳がかかっている幅ですから、非常に狭い。
8畳のお部屋分くらいしか、自由に歌手が動き回るスペースはありません。

私たちが座っている座席のすぐ後ろには、お茶とおやつのコーナーがあって、
上演中ずっとコーヒーの香りが。
右隣すぐに、この平土間席の入り口があるため、空気の出入りが激しく、
暖房が効き始めるまで、異様に寒い。

一幕、ロドルフォたちが、貧乏生活をして、寒さに凍えているシーンも、リアルです。
なぜなら、実際、こっちも座席で凍えているから。
だって、観客みんな、外に居るときと全く同じ格好で震えながら座っているんです。
コートも何もかも身につけたまま、、、。

歌手については、レベルが珠玉混合。
お金を払って歌わせてもらっているという噂もなるほどと思わせるような、歌詞を棒読み、のレベルの人(ショナール役)から、
きちんと歌詞と音符は追っているものの声のスケールがプロのレベルでやって行くには厳しい人(マルチェロ役)、
そして、おや?かなりいい人がいるではないですか?と思わせる人(コリーネ役)、
はたまた、正しい指導とトレーニングを受けていれば、オペラの世界でやっていけるかもしれないのに、
と残念に思わせるくらいのレベルの人(ミミとロドルフォ)と本当にいろいろ。

あらゆる役の人のレベルがその役なりに高く、安心して見ていられるメトと違って、
アンサンブルの場面で、一人が音を外してぶち壊し!というパターンが多い。

それから、オケは当然フルのオケではなく、ピアノ中心の伴奏に、ホルン、トランペット、
オーボエ、くらいの超小編成オケなのですが、
(おそらくアンソニーさんが、このオケ用にスコアをアレンジしていると思われる。)
こちらも、歌がなかなか聴かせている!と思いきや、
あいの手で入った金管がぱぷーっ!と、素っ頓狂な音を立てたりして、
え?と驚かされます。

そんな感じで、音楽の面ではメトと比べようというのが無理な話なのですが、
しかし、一幕、ニ幕、と、聴きすすめているうちに、なんともいとおしい気分になってくるのです。
例えば、純粋に音楽的なことをいえば、多分ピアノの伴奏だけの方が、
あらも少なくてすむでしょう。
でもあえて、金管やら木管やらを入れる心意気。
一生懸命に演奏する奏者に、わざわざピアノ譜を使うだけでなく、自分の手をかけて、
金管と木管のアレンジを加えたアンソニーさんの心。

それを言えば、セットも。
私の小学校の学芸会で使った体育館の舞台の方がまだ大きかったと思わせる狭苦しい舞台に、
ぎっしりと組まれたセット。もちろん、メトのあの洗練された大道具には叶わないけれど、
各シーンのエッセンスが本当に上手く込められていて、これは、本当にオペラを好きな人でないと
組めないセットだな、と思わされる。
色使いなんかもなかなか巧み。

セットにしても、演出にしても、思いっきりメトのゼッフィレッリ版『ラ・ボエーム』
(今シーズンライブ・インHDで上映予定の『ラ・ボエーム』も、そのゼッフィレッリ版です。)
から失敬させていただいた!という箇所があるのですが、
それにしたって、”いいものはいい。頂いて何が悪い!”という心意気すら感じる。

そう、このオペラハウスでは、アンソニーさんをはじめとする、
このオペラハウスに関わる人の、尋常ならざるオペラへの愛を感じるのです。

それから、面白いな、と感じたのは、薄いオケと部分的に貧弱な歌唱のせいで、
よりプッチーニの音楽を直に感じれること。
特に、”冷たい手を”から”私の名はミミ”へのシークエンスは、
つい、オペラヘッドにとっては歌手の技量勝負の場面になってしまっていて、
メトなんかで聴くときには、”さあ、今日のテノールとソプラノはどんな歌を聴かせてくれるか?”
とそればっかりに集中してしまいがちですが、
歌手の力技以前に、まずは素晴らしい音楽が根底にあり、そしてそれにそっと寄り添うような歌詞があって、
もともと素晴らしい場面なんだな、ということを再確認できたのが、目からうろこ、でした。
厚いオケも何もなくっても、あの、”冷たい手を”が始まる導入部分のメロディーが響くと、
一瞬にして、ロドルフォとミミの二人が目の前の明かりが消えた部屋の中で語り合っていて、
そこはパリで、自分がNYのアマート・オペラにいるという事実を忘れてしまいそうになりました。

ロドルフォ役を歌ったインカルナートは、歌い方が粗野ですが、
良い指導を受ければ、非常に面白い素材を持っていると思わせるテノール。
”冷たい手を”のハイCは失敗してしまいましたが、連れも私も思うには、
その周りの音を聴くに、リラックスして、正しい体の使い方をもって歌えば、
彼の声なら必ずや出せるはずです。

一方、ミミ役を歌ったカイトリーは、一幕で少し声があたたまっていない、
息が浅いような響きだったのが気になりましたが、
ニ幕の後半あたりから、どんどんみずみずしい声になっていって、


(ニ幕、カフェ・モミュスのセット)

第三幕の、ムゼッタ&マルチェロの二人と畳み掛けるように歌うロドルフォとの四重唱(Addio dolce svegliare)
での歌唱はなかなか聴きごたえがありました。


(三幕、アンフェール門のセット)。

前後しますが、ニ幕、カフェ・モミュスのシーンでは、
いきなり私たちの右隣の扉が開いて、パリの人々に扮した出演者が登場。
ムゼッタが、”きゃーはっはっは!”と言って、同じくこの扉から現れるシーンでは、
私の連れが耳の鼓膜を破られるかと思ったくらい、ムゼッタ役を歌ったCrouseの声が大きかった。
しかし、彼女の声は、少しオペラ的でないというのか、
あまりに地声に近い発声がやや私には気になりました。
特に上でふれた四重唱では、カイトリーの発声がものすごく綺麗だったので、余計に。
ミミ、ロドルフォが大変美しい歌を聴かせている舞台の反対側で、
ムゼッタとマルチェロが吠える。これも、アマート・オペラならではかもしれません。

一幕と二幕の後の休憩時間(ちなみに、休憩は3回。各幕後。)には、
ニ幕で、パリの子供たちの役の一人として舞台に立っていた女の子が、
運営費を集めるため、ラッフルのチケットを売りに来ます。
チケットを買って、最後の休憩で当選番号が発表され、
当選すると、アマート・オペラ特製のTシャツがもらえる仕組み。
ほしい。なので、二人揃ってチケットを購入。
この女の子が本当にかわいくって、写真を撮らせてもらいました。
どういういきさつでアマート・オペラに関わっているのかわかりませんが、
お休みの日にこうしてオペラの公演に参加してくれる子供たち、
オペラヘッドとしては本当に抱きしめて、お礼を言いたい!!



さて、そうするうちに、扉のところに現れた予約係のおじさん。
”あんたのチケット、あったよ!”
見せられた封筒には、スペルが間違った私の名前が。。
”やっぱり、バルコニー席だったよ。だけど、その席ね、他の人がもう座っちゃったから。
でも、こっちの方がいい席だから、絶対。”

開演前、0.5秒だけ座ったあのバルコニー席最前列は、間違いなく、このクソ寒い、平土間後方席よりはよかった。
しかも、一番良い席下さい、ってお願いして、バルコニー席をくれたのはあなたでしょうが!!!
いい加減なことをいうのもたいがいにしてほしい。
そんなにこの平土間がいい席なら、今から私たちの席に座ったという幸運な人たちに、
もっといい席が平土間にあるからと、連れてきてごらん!と言いたくなった。

アマート・オペラ。オペラハウスと公演自体は非常に味があってチャーミングなのだから、
この、テキトーな予約係はどうにかしたほうがいい。

さて、気をとりなおして。
この時点で、108席(107席説もあるが、劇場の資料には108席とあった。)満席で始まったこの公演、ほとんど途中で帰るお客さんなし。
もちろん、マナーも素晴らしく、掛け声もプロフェッショナル。
だめなものには温かく拍手、素晴らしいものには、Bravo, Brava, Braviといった言葉が
ばんばんとびまくります。
公演する側もする側なら、客も客。本当にみんなオペラが好きでたまらない!というのが痛いくらい伝わってきます。

四幕開始前に、舞台に上がってきた男性、これがアンソニー・アマート氏。
もう本当に素敵なおじいちゃまなのです。
オペラへの愛が昂じて、オペラハウスを建設、演出も自力なら、
自分で指揮までして(そうそう、オケの指揮はアマート氏です。)
オケのためにスコアのアレンジもし、若手や芽の出ないオペラ歌手にチャンスを与える、という、
これぞ、オペラヘッドのお手本、大、大、大先輩ともいうお方。
しかも、何か、この方のまわりにはものすごく温かい気が流れているのです。



このオペラハウスと舞台に流れるなんともいえない魅力は、
この方の力とパーソナリティに負うところが多いのではないかな、と思いました。
これからの公演についての説明と、ラッフルの抽選があり(例の写真の女の子がアシスタント)、
残念ながら我々はTシャツを逃しましたが、アマート氏とお会いできて大満足なのでした。

第四幕

もうこの幕に至る頃には、私はすっかりこの公演に心を奪われていて、
ミミとロドルフォが語りあうあたりから泣いてしまいました。
この小さな舞台空間、歌手との至近距離、といったことが原因の一つかも知れませんが、
舞台に立つ歌手との一体感がものすごく強くて、まるで、自分も彼らと同じアパートにいるような気分になる。
これは、メトのような大劇場では、よっぽどエモーショナルな演奏や歌唱でない限り、
経験するのが難しいものだと思いました。
お芝居なんかも、決して洗練されていないのですが、
しかし、あまりに歌手の方が一生懸命でこちらも引きずり込まれてしまいます。

気がつけば、メトで『ラ・ボエーム』を観たどのときよりも号泣してしまっていました。

人の心を動かすには、何も完璧である必要はない。
これは、私の連れが言った言葉ですが、大変興味深い事実だな、と思いました。

このアマート・オペラの公演を通して、私は二つの発見がありました。

1. 好き、という気持ちが突き詰められると、技術は完璧でなくても、
とても魅力的なものが生まれる。

2. しかし、だからこそ、そこに完璧な技術がのったものはより賛嘆の対象となる。

決して一級でない歌、頻発するオケの失敗、しょぼく見える寸前のセット、
これらの欠点を、独自の魅力へと昇華させたアマート・オペラ。
世界一級の歌、それを支えるオケの演奏、これ以上望めない贅沢なセット、
完璧さと贅沢さの追求という形でオペラ界を支えているメト。

タイプは違えど、どちらもその原動力は、すさまじいまでのオペラへの愛情。
深く深く尊敬してしまいます。
アマート・オペラをカラオケとだぶらせるなんて、失礼千万だった!
オケピットから、観客に見られずに舞台上の緞帳の向こうにまわれるような気のきいた階段を設置するスペースがないため、
舞台前に設置された小さな階段を、終演後、観客からまきあがった拍手を背にかけのぼるアマート氏。
緞帳のこちら側から向こう側へ消えたと思ったら、ずっとそこにいたような澄ました表情で、
キャストと手をとりあって挨拶。

最後までBravoなお方でした。究極のオペラヘッドに万歳!!

Cristina Keightley (Mimi)
Nick Incarnato (Rodolfo)
Claudia Crouse(Musetta)
James Wordsworth (Marcello)
Joseph Keckler (Colline)
Daniel Rothstein (Schaunard)
Dominique Rosoff (Benoit)

Conductor: Anthony Amato
Production: Anthony Amato

Amato Opera
ORCH

***プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme アマート・オペラ Amato Opera***


MACBETH (Sat Mtn, Jan 12, 2008)

2008-01-12 | メトロポリタン・オペラ
昨年10/22(Part IPart II)と11/3に続き今シーズン3度目の『マクベス』鑑賞。

10~11月とは違うキャストが組まれている1月の公演では、
マクベス役にラド・アタネリ、マクダフ役にロベルト・アロニカが配されていて、
一週間前までは、今日の公演もこの二人に、マクベス夫人役のグレギーナ、という予定だったのですが、
私が生霊となってゲルプ氏の夢枕に立った結果
10~11月の公演での歌唱が光ったピッタスがまずマクダフ役に交代で入ることになり、
そしてなんと、公演前日に、マクベス役がルチーチに変更になることが発表されました。
アタネリ、決して嫌いなわけではないし、昨シーズンの『道化師』のトニオなんかでは、いい味を出していたのですが、
1/9のシリウスでの放送を聴いた限りでは、
少し声のカラーがマクベス役にはマッチしていないように感じられたこと、
また、役の掘り下げ方が、歌唱、役作りの面ともに物足りないものがありました。
それに比べて、ルチーチは、シーズンの頭、
この『マクベス』が新演出ということもあり、みっちり組まれたリハにも最初から参加していたし、
このプロダクションの宣伝スチールはすべて彼がマクベスに扮したもの、
そのうえ、そこそこ第一ランの公演の評判が良かったのには彼の貢献度が大きいとなれば、
第二ランから、そこにすっと入ってきたアタネリが
ライブ・インHDでおいしいところを持っていくというのはどうなのよ?という疑問が実は私の中にもあったのです。
まあ、それでもアタネリがそんなの関係ねえ!とばかりの名唱を聴かせてくれていれば、
ルチーチよ、あなたは運が悪かった、ですんだところですが、
そこで、あのアタネリの歌唱ですからね。。

最後の最後までこの変更が発表されなかった(というか決定されなかった)のは、そういった複雑な事情からではないかという気がするのですが、
ルチーチが報われるのはよしとしても、アタネリにすれば、かなり屈辱的ともいえますね、
最後まで両天秤にかけられたあげく、歌った後の変更なだけに。。

しかし、とにかく、そんなわけで、
ぬかりなくルチーチとピッタスをこの公演に呼び戻すことに成功した生霊の私ですが、
手が及ばなかったのがグレギーナ。
10/22と11/3の感想を読んでいただければ、
あまり私がグレギーナのマクベス夫人役に感銘を受けなかったことがありありとしていることかと思いますが、
しかし、このマクベス夫人、では誰が代わりに歌えるのか?と聞かれれば、
マクベスやマクダフの時と違って、名前が出てこない。
そんなわけで、ベストではないと思いながらも、やっぱりグレギーナになってしまうか、この役は、、、という気持ちだったのです。

しかし、この作品をご存知の方なら、マクベス夫人役がこのオペラの中でいかに大きい存在であるか、
という点に異存を唱える人はいないでしょう。

ということは、すでに、公演のとても大事な要素の一つがはじめからベストでない、
とわかっている、ということであり、私は、ルチーチとピッタスが聴けるのが
楽しみではあるが、グレギーナ、この前の公演のときのようなら、
ライブ・インHDで、世界の観衆をがっかりさせることになるんじゃないかな、、と不安でした。

たった一つ明るい材料は、1/9のシリウスで、彼女の歌唱のディテールが10~11月のそれとは
おおいに変わっていたこと、そして、声の調子がよさそうだったこと。
しかし、今シーズン、『マクベス』と『ノルマ』、と立て続けにがっかりさせられたこともあって、
1/9に一回きり良かったくらいではまぐれかもしれない、ぬか喜びはいかん、と、
自分を戒め、オペラハウスに向かった次第です。

レヴァイン氏登場。
指揮については個々人で賛否両論、好き嫌いがあっても、
やはり、彼がメトに登場すると、知り合いのおじさんが出てきたような、特別な雰囲気が聴衆の間に流れます。

そして、オケから音が出てきた瞬間、思ったこと。
”これはもしやして??”
音に緊張感があるし、今日は聴衆の質もよい。
音が止まったときに、きちんと静寂ができている。
これ、ずっとざわざわしている聴衆と一緒に聴くのとは、
音楽から受ける印象が全く変わってしまうので、とっても大事なことだと思います。

グレギーナという不安材料を抱えてそんな馬鹿な?という気もするのだが、
しかし、その一方で、今日の公演、”来そう”な気がする。



ショッピング・レディ系の魔女たちは何度観ても好きになれないのだけれど、
今日は、比較的、女声の合唱がいつもに比べると、良かったほうだと思います。
メトの女声の合唱で、私が最近一番フラストレーションを感じているのは、声に若さがないこと。
もしや平均年齢が高いのか?とも思うのですが、じゃ、高ければ高いなりに、
若々しく聴こえる歌い方を編み出してほしいと思うわけです。
ただ、今日はこの魔女という設定に助けられて、他の演目よりは”年齢高め声”が気にならない。

今日のルチーチは、ちょっと安全運転に勝ったかな?という気がなきにしもあらず。
特に前半、もっと感情をこめて暴走しても大丈夫なのにな、と思わせる箇所がありました。
ただ、彼の声そのものの質はやっぱり好き。
独特のぬくもりのようなものがあって、特に木管楽器とからんだときなんて、
その声も楽器の一部に思わせるような響きが出るときがあるのがなんともいえずいいです。

レリエーは、1/9のシリウスの放送のときにも思いましたが、
本当に上手にこの日にターゲットを合わせてきたように思います。
むしろ完成度が高すぎるのが、欠点のような気がするほど。

いよいよ、グレギーナの登場。
”勝利の日に~早く来て あかりを Vienni t'affretta"の部分を聴いて確信。
彼女は、10~11月の公演以来、相当、この役の歌唱を練り直したに違いありません。
1/9に”あれ?10月と随分歌い方が変わったな。”と思った部分がいろいろあったのですが、今日も全く同じアプローチでしたので、
9日の歌唱はまぐれではなかったのだ、と。
結論をいうと、相当努力したのでしょうが、見事に結果となって現れていました。
とにかく、細かい部分一つ一つについて、彼女の現在の声でできること、できないことをふりわけ、
出来る範囲で、最大限の効果を挙げられるような歌い方に変化していました。
それも、いい足しておくと、私は以前の歌を聴いているので、ああ、ここがこう変わった、
とわかりますが、
初めて聴く人にまで、”ああ、ここは歌えないからこういう風に歌ってんだな。”と、ばれてしまうような、
白々しいテーラーリングではなく、非常に巧みなものです。
それは、ブレスのタイミング、どのカラーの声(声音といってもいいですが)を使うか、
ということから始まって、さらには、声の重心のコントロールまで含まれていました。
10~11月の公演では、声の重心が少し重たく、それがまた、高音が出しにくくなっている一因のようにも感じられたのですが、
今日はその重心があがったというか、声から受ける印象が、やや軽めになったような。
前回の公演では、どうにもこうにも重たくて、ほとんど聴くのが辛いレベルに達していたトリルも、
この重心があがった声のおかげで、十分聴けるものに変化していました。

以前の公演での、オケのやや重ためのリズムにも、手を焼いていた彼女ですが、
オケの方も今日は歩み寄りを見せていて(それは1/9のシリウスでも感じましたが)、
もしかすると、この練り直しには、レヴァイン氏が関わったのかな?と思わせる点があるのですが、
もしそうだとすると、よくもこの短期間でここまで改造したものだ、と、
指揮もさることながら、そちらの才能に感嘆します。

ですから、一言。
私の以前の感想を読んで、ライブ・インHD(日本ではライブ・ビューイング)に行くことに二の足を踏んでいる方!
グレギーナの歌に関して言えば、この1月からの彼女の歌は全く別物です!
大いに期待してくださって構いません。

彼女の歌唱が良くなったおかげで、彼女自身はもちろん、キャスト全員の演技も白熱、
ドラマとしての緊張度がより高くなったことが、最大の副産物だったように思います。
贅沢をいえば、先ほども言ったようにルチーチが、まだ、ダンカン王殺害のシーンあたりでは、
十分に熱くなっておらず、やや安全運転モードだったのが残念。



ダンカン王殺害の第一発見者、マクダフが、王の寝室から血相を変えて飛び出してきて歌う
”Orrore! Orrore! Orrore!"という言葉。
ピッタスが絶好調のときは、ここの声の響きが、ドミンゴの声をしのばせるものがあって、
(1/9の放送ではまさに!)
今日も楽しみにしていたのですが、やはりライブ・インHDで堅くなっていたのか、
やや大人しめの表現。
やはり、大舞台を踏んだ数が少ないこともあってか、傾向として、
平日だと、全然そんなことはないのに、初日とか、このライブ・インHDのような超大舞台になると、微妙に高音が引っ込んでしまう
癖があるように思うのですが、
(録音されたものではそれほど明らかではないかもしれませんが、
オペラハウスで生の声を聴いていると、感じられます。)
すでに初日の時よりは落ち着いて歌っていましたし、
経験とともに克服されていくのは時間の問題でしょう。



第二幕の”日の光は薄らいで La luce langue”は、もともとグレギーナにとって、
歌いやすい曲なのか、以前の公演でも、大きなアリアの中では一番上手くまとめていたくらいなので、
今日も非常に安定した出来。Bravaがとばなかったのが不思議なくらい。
また、このアリア、それから、後の夢遊の場面では、以前の公演に比べて、
音の間・空白のとり方にも非常に工夫が感じられました。

バンクォーの”空が急にかげったように Come dal ciel precipita l'ombra”。
レリエーが最後の一音まで折り目正しい歌唱を披露。
その後の、子供を守るために、刺客と繰り広げる立ち回りも見事でした。



この後の、乾杯の歌("Si colmi il calice di vino eletto")でのグレギーナの歌唱は、
先ほど言及した、声の重心があがっている、ということのわかりやすい例だと思います。

このあたりから、少しずつルチーチがいい感じでヒートアップ。
バンクォーの亡霊を見て自分を失い、椅子をふりあげるところから、
正気をとりもどすところの表現なんか、本当に上手いです。

インターミッションをはさんだ第三幕は、このプロダクションで視覚的には
もっともおもしろい部分ではないでしょうか?
また同時に、このプロダクションを嫌い!という人は、ここが苦手なのではないか、とも思います。
私はなぜか、この演出、嫌いじゃないので、この場面はわくわくして見てしまいます。

今日はバンクォーの子孫の王を表す金のわっか7体が全て問題なく舞台上に現れ、ほっとする。
(11/3には、セットの故障で、二体しか降りてこなかった。11/3の記事では8体と書きましたが、
この演出では、鏡を持ったバンクォーが登場して8体目となるので、
金のわっかは7体でした。失礼しました。)

マクベスと夫人の”今や死と復讐のときだ Ora di morte e di vendetta"、
中間部までの絡みは良かったのに、
最後の部分で、二人の言葉のタイミングが少しあっていないように思われたのが残念。

四幕



冒頭の合唱、"しいたげられた祖国よ Patria oppressa"は、今日の合唱の中で、
もっとも出来栄えの良かったシーンではないでしょうか?

そして、いよいよピッタスが歌うマクダフのアリア、”ああ、父の手は Ah, la paterna mano”。
久々に聴いている私の方が緊張しました。
好きな歌手というのがもともと少なく、いても、私の好きな歌手というのは、
もう、ほとんど常にいつも完成度の高い歌を披露してくれるタイプの人が多いので、
(ザジックしかり、ラセットしかり、、)
こういう緊張は本当に久しぶり。まるで自分の知り合いが歌っているような。
もちろん、むこうは東洋の生霊女のことなど知る由もありませんが。

それは、このブログでここまで素晴らしい期待のテノール!とぶちあげた手前、
ぜひともこのライブ・インHDという大舞台でその実力を発揮してほしい、というのもありましたし、
また逆にここで大ヘボをかますということは、これからより大きな舞台に立っていく上で、
舞台度胸の面でも、舞台運という意味でも、大きな疑問符をしょって歩いていかなければならない、
ということを意味しており、彼のキャリアでの一大転機なのは間違いなく、
その一大転機を目撃しようとしている彼を応援するオペラヘッドとしては、
座席でつい息をひそめて体を硬くして見守っていようと、誰も責められまい!

そして。
彼はさすが、でした。
信頼して、リラックスして聴かなくってごめんなさい、と謝罪したくなるほどに。

オペラハウスいっぱいに広がる、彼のおおらかでいて、憂いも感じさせる声もさることながら、
彼の歌には、どこか、観客に、上のような理由でおこるのとはまた違った緊張を強いるクオリティがあるのが素晴らしい。
こんなほとんど初なのではないかと思える超大舞台で、レヴァインとがっぷり組んで、
音と音の間ですら、ものすごい緊張度を生み出しているところなんて、どうでしょう!
これから始まるであろう活躍に、私は大いに期待しています!

マクベス夫人の夢遊の場。
以前観たときに、なぜ、ここの場面で、魔女が椅子を並べて、その上をマクベス夫人が歩く、
という演出になっているんだろう?と思いながら、深く考えないまま時間が経ってしまいましたが、
今日のような良い歌唱で聴くと、何もかもが急にきちんと意味を持って見えてくるから不思議。
結局、マクベスと夫人は、魔女という形を借りた運命に翻弄されて、
自らを追い込み、自らの手で破滅に落ちていくわけで、
その魔女が運命のレールを敷いていき、その上を、おぼつかない様子で歩くマクベス夫人。
このシーンのこの演出こそは、このオペラのテーマそのものずばりを表現していたんだ、
と今日、はっきりと認識しました。というか、むしろ、ものすごくはっきり見えすぎて、
どうして前回まで気付かなかったのだろう?というくらい。
しかし、歌の出来がいまいちだと、そういうせっかくの演出の意図も見えなくなってしまうものなのかもしれません。

グレギーナは、ここでも今日は指先足先にまで神経のとどいた歌を聴かせ、
しめの高音なんて、大丈夫なんだろうか?と不安だったのですが、根性で乗り切ってました。

厳しいことを言うことはできますが、この至難の役を実演でここまで歌ってくれれば、
私は満足です。

この後に続くマクベスのアリア、”憐れみも、誉れも、愛も Pieta, rispetto, amore"。
本当にせつなくていい曲です。
途中、ルチーチの声ががらがらしてひやっとしましたが、彼も熱唱。
彼の歌の美点は、力いっぱいに歌わない箇所にあるような気がします。
柔らかく、そっとオケと互いに手を取り合って歌っているような奥ゆかしさがあるのがいい。
ただ、彼の声は慈愛を持つ役(たとえばリゴレットとか)に向いていて、
このマクベス役には、あまりにいい人っぽく聞こえ過ぎるところが、人によっては難点に感じられるかもしれません。
でも今日は、他の歌手だと思いっきり声を張り上げるような箇所で
柔らかく歌っているのがまた美しく、フレーズから新しい魅力を引き出していて、
この人の歌もやっぱりいいなあ、と思いを新たにしました。



全キャスト、指揮、オケ、合唱と、全員の力が結集した好演。
『マクベス』をこれ以上実演で全ての面をそろえて演奏することは、不可能ではなくても、
かなり難しいと思います。

不安材料だときめてかかっていた(失礼!)グレギーナが大健闘。

ライブ・インHDをこれからご覧になる方は、大いに楽しみにしていてください。
どんなに楽しみにしても裏切られることのない出来ですから、ご心配なく!

Željko Lucic (Macbeth)
Maria Guleghina (Lady Macbeth)
John Relyea (Banquo)
Dimitri Pittas (Macduff)
Russell Thomas (Malcolm)
James Courtney (A doctor)
Elizabeth Blancke-Biggs (Lady-in-waiting to Lady Macbeth)
Conductor: James Levine
Production: Adrian Noble
Grand Tier D Odd
ON

***ヴェルディ マクベス Verdi Macbeth***



神通力炸裂が止まらない!

2008-01-11 | お知らせ・その他
いよいよ明日12日のマチネは、ライブ・インHDにのる『マクベス』の公演。

マクダフ役が、当初予定されていたアロニカからピッタスに変更になって喜んでいたら
さらに吉報です。(私にとっては。)

マクベス役がアタネリから、10~11月公演で歌っていたルチーチに変更になりました!
変更は、12日の一日だけで、後の公演日は予定通りアタネリが歌う予定です。
1/9のシリウスを聴いての感想の中でも書いたとおり、私はマクベス役に関しては、
断然ルチーチの歌の方が好きなので、この変更は大歓迎。

というか。こんなに私の思い通りにキャストが変更になっていいのだろうか。
2008年の運を全てこの『マクベス』に使いこんでしまったのではないかと、怖くなってきました。

以前、コメントのどこかで、ゲルプ氏の夢枕に怪しい東洋の女が立って(顔は私にそっくり)、
”ピッタス”とか、”ルチーチ”とか、ささやいているのでは?と冗談を言ったことがありましたが、
しゃれになってません、これは。

しかし、いずれにせよ、新年初の生オペラが理想により近いキャスティングになって、しあわせ。
目と耳をかっぽじって、しっかりと観て・聴いてきたいと思います。

(そのルチーチのマクベス役カムバックを祝って、またまた彼の写真を。)

どこでもオペラ

2008-01-10 | お知らせ・その他
このブログでは、CDやDVDのソフト以外の商品を紹介するのはやめておこう、と思っていたのですが、
激しく私のオペラヘッドとしての生活のクオリティを高める商品を発見いたしましたのでご紹介。

私、片道1時間半以上かけて、毎日電車通勤しているのですが、
この時間を最大限有効に使いたい、ということで、
電車の中では、頭の中でこのブログのための案を練ったり(いずれは、小型のノートパソコンを持ち込んで、車中でブログ執筆ということをもくろんでいる。)、
iPodでオペラを聴くことが多い私です。

さて、そのiPodのイヤホン、たいていの人がそうしているように、
聴き終わったあと、くるくるっとiPodの本体にまきつけてかばんに入れておくことが多いのですが、
これが我が家では非常に危険な行為であり、今まで、うっかりかばんを床やらにおいておいた間に、
うちのわんこに、本体部分をがじがじされたり、ワイヤーの部分を食いちぎられたり、で、
イヤホンを買い換えたこと、数知れず。
そんなわけで、イヤホンなんて消耗品!という考えの私だったのですが、
先月から、最寄の地下鉄の壁に、Boseの新商品、In-Earというイヤホンの広告が出ているのを見て、
少し気になっていたのです。

そんなとき、またしても、使用中だったイヤホンの耳に入る部分につけるカバーを、
下のわんこがくちゃくちゃ噛んでいたところを現行犯逮捕。
無残にも、右耳のイヤホンがむき出し。。。また買い替えだ。。

そこで、会社の帰りに近所のさくらや/ヨドバシカメラ系の店に立ち寄り、
例のIn-Earを探してみる。
見本はあるが、実物がないので、お店の人をつかまえてたずねると、
”すっごく売れていて、ただ今在庫なし。”とのこと。
次の入荷は、保障はできないが、翌火曜の予定、ということを聞き出し、
その翌火曜、また会社の帰りに同じお店に寄ってみた。

あった!それも一個だけ!
”もらったー!!”と、棚からもぎとるようにしてレジにならんでから値段を見てびっくり!

99ドル95セント!?

た、高い!
イヤホンは消耗品、という考えの私には、これはあまりにもの贅沢だ。

しかし。その一方で、最後の一個、に弱い私。
棚に戻す勇気もなく、そのままお金を払う段になってしまいました。

すると、レジうちをしていたお兄さんが、
”ついてるね!これ、最後の一品だよ!君のところに行く運命にあったんだね。(←お兄さん、ちょっと大げさすぎやしないかい?)”
こんなこと言ってくるなんて、よっぽど、お店の人の間でも、この商品、もりあがっているようです。

さて、家に帰って、わんこにふれられない場所で開封。
早速iPodに接続してみる。
まず、写真のシルバーの部分が細かい金網状態になっているので、
ここから音がでるのかとそちらを内側に耳に入れたら、何にも聴こえまへん。
説明書を見て一人で赤面。
逆だった。この金網が外側なんだ。
ちょっと耳へのおさまり位置を確定するまでが苦労。
従来のイヤホンとは、置き場所がちょっと違うのですね。
耳の穴に入れるというよりは、耳の壁に沿わせて置く感じ。
キャップは、大、中、小とサイズが揃っているのですが、
それでも慣れるまでやや気持ち悪さが残る。

しかし!!!
音楽をスタートしてみてびっくり!!!
思わず、いつも使い慣れたiPodを表に返したり裏に返したりして、
同じものかを確認してしまいました。
というのが、今までと同じiPodから出ている音と思えないくらい、いい音だから!
Boseは、低音が強調される、という特徴があるので、贅沢な意味での好みは分かれるでしょうが、
小型のイヤホンで、こんな音が再生できるとは、驚愕です。
これで、オペラの録音を聴くのが、本当に楽しくて、いろんなCDをiPodに落としては、
”おおっ!”と一人で電車で盛り上がってます。

唯一の心配は、”これがわんこに噛みちぎられる日が来たら泣くよ、私は”
という点ですが、
Bose、そんな貧乏性な私のような消費者のニーズも心得ていると見え、
ちゃんと黒い合成皮革ケースがついてきます。
iPodを聴くたびに、いちいちこのケースにイヤホンを出したり入れたりする様子が我ながらわびしくはありますが、
また明日の朝もいそいそとケースを取り出して、今日はどのオペラを聴こうか?と
うきうきしてしまうことでしょう。

オペラヘッド・ライフを潤す超おすすめ品。

Sirius: MACBETH (Wed, Jan 9, 2008)

2008-01-09 | メトロポリタン・オペラ
今週の土曜のマチネはいよいよライブ・インHD収録の『マクベス』。
新年最初のオペラハウス詣でということで私も大変気分が盛り上がっておりまする。

今日はその公演の直前の『マクベス』ということで、新しいマクベス役のラド・アタネリと
マクベス夫人のグレギーナ、それから私が大いに注目しているマクダフ役のピッタスの土曜の歌唱を占う意味でも
どうしても聴いておきたく、シリウスを聴きながら夕ご飯を食べてます。

レリエーのバンクォー。
調子よさそうですね。土曜に向けて、大変いい感じのコンディションに仕上がってきているようで、
期待できます。

ピッタス。本当にこの人はいい!今日も素晴らしい歌唱。
というか、初日以来、この人の歌がまずかったところを聴いたことがない。
土曜もこんな風に歌ってくれたら、私は何も言うことなし。
とにかく、土曜日まで、体調と喉のコンディションを十全に保って、
しかし緊張することなくいつもどおりに歌って、世界の皆さんをあっと言わせてください。

グレギーナ。シーズンの最初のランよりも声の調子が良くなっているように思います。
今日はいつもゆっくりめの指揮のレヴァインが、どうしたの?というくらいの早いテンポで、
それに若干助けられた部分もあるかもしれませんが、一音一音を本当に苦しそうに歌っていた先の公演に比べると、
今日は随分高音の出も良くなっていて、
今日の公演の出来が悪いとHDの日に向けて自分自身を追い込むだけ、という意識もあったのでしょうが、
彼女の気合と集中力が感じられました。
さて、先日、私も行った、彼女の1999年のサントリーホールでのリサイタルがCD化されたものを聴いていたら、
このマクベス夫人の”勝利の日に Vieni t'affretta”が収められていました。
いやー、当時の彼女は本当にすごかったな、と感慨深かったです。

新しいマクベスのアタネリ。
うーん。だいぶ、前回マクベスを歌ったルチーチとは声のタイプが違うので好みもありますが、
私はルチーチがいいなあ。
アタネリは、前半は割りと手堅く、むしろその手堅さがおもしろくないくらいに、
堅実に歌っていたのですが、
後半、特に”憐れみも、誉れも、愛も Pieta, rispetto, amore”などで顕著だった、
単一の母音の中に複数の音符が入っているときの旋律が音程の面で甘い点がとっても気になりました。
土曜日までに、さらっておいてください!
アタネリも決して悪くはないのですが、こうやって比べて聴くと、
ルチーチがライブ・インHDの日に歌わないのはちょっと残念。
そのルチーチをしのんで、写真は彼にしてみました。

Lado Atanelli (Macbeth)
Maria Guleghina (Lady Macbeth)
John Relyea (Banquo)
Dimitri Pittas (Macduff)
Russell Thomas (Malcolm)
James Courtney (A doctor)
Elizabeth Blancke-Biggs (Lady-in-waiting to Lady Macbeth)
Conductor: James Levine
Production: Adrian Noble
ON

***ヴェルディ マクベス Verdi Macbeth***

宿題の答え ”戦争と平和”のピチピチとは?

2008-01-08 | お知らせ・その他
長い間ロシアに赴いていた当ブログ専属のオペラ警察が、
12/10に課せられた宿題への答えを携え、鼻の穴からつららをさげて帰国いたしましたので、ここにご報告。

質問:プロコフィエフの『戦争と平和』第十二場、アンドレイの死の場面で、
合唱が歌う ”ピチピチ(英語ではpiti piti)”とはどのような意味か。
またそれは何を表現しているのか、説明せよ。

答え:単語そのものには意味がないが、雨がふる音を擬音化したもので、
同時に、薄れてゆくアンドレイの意識を表現しているとも言われる。

なるほど、確かに日本語でも雨音をぴたぴた、とか、ぴちゃぴちゃ、と
表現できなくもなく、語感が似てますね。
納得。

そういえば、今シーズンのメトのプロダクションで、このシーンの間中、
ぎっしりと粉雪のようなものが降ってましたっけ!
雪だと思い込んでいましたが、あれは雨だったんだ!
なるほど!!!