Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

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LA CENERENTOLA (Fri, May 2, 2014)

2014-05-02 | メトロポリタン・オペラ
自分のブログに自費で観に行った公演の正直な感想をそれなりに根拠を添えて書いてすらクレームが来るなんて
あまりにもびっくりしてしまって、驚いている間になんと一年以上が経ってしまいました。
Madokakipがへこんでいるのかな、と心配してくださったのでしょうか、励ましのお言葉、
それからさりげなく記事のupにつながるような心配りで書いてくださったと思われる内容のコメントもいくつかコメント欄に頂きました。
その方々には心からのお礼と、そして長らくお返事を差し上げなかった非礼をお詫び申し上げます。
どうぞ、ご心配なきよう、あのようなコメントをいただきましても、”ああ、これまで書いていたことの本質が全く伝わっていない相手もいるんだな。
時間と労力かけて一生懸命書いていた私が馬鹿だったな。なんか、必死こいて記事を書くのがめんどくさくなったな。”と思うことはあれ、へこむというような脆弱なメンタリティは持ち合わせておりません!
仕事も忙しくなって来たし、これでフェードアウトもありかな、まあ、こうして放置していればだんだん閲覧件数も減っていくだろう、と思っていたのですが、
先日久しぶりに記事の編集ページに行ってみて、あまり閲覧件数が減っていないのにびっくりしまして、
よもやgooの閲覧カウンターが壊れているんじゃ、、、との思いも頭をよぎりましたが、もしかして、もしかすると、書き込みをして下さった方々をはじめとして、
いつかこのブログが復活するのではないかと思って時々のぞき続けて下さっている方がいるのかもしれない、、、と思うと、なんとも申し訳ない気持ちになって参りました。
それに、このブログに終止符を打つのであれば、人のブログに土足で踏み込んで、偉そうな値踏みをしていく輩にタイミングを決められて自然消滅するのではなく、
自分の意志できちんと皆様にご挨拶をして幕を引きたい、とも思いました。

オペラへの愛は子供のしつけに対する考え方と似ていると思います。
ある人は、愛情があるなら厳しいことを言わずにのびのびと育てればよい、と思うし、ある人は愛があるからこそ、厳しいことのひとつやふたつ、、、とも思う。
けれども、人の家にずかずかと入り込んで、あなたのしつけのやり方は子供に厳し過ぎるから、ゆえに子供を愛していない、というようなことを決め付けて、だからもっと優しく接しなさい、と押し着せてみたりだとか、
逆にあなたは甘やかし過ぎだから、もっと厳しくしなさい、なんてことをずけずけ言ってのけるのは、分をわきまえない失礼な行動であるということを自覚して欲しいと思います。
それは、その家の人間が本当に子供を愛している場合、なおさらで、ほんと、余計なお世話とはこのことです。
人の愛情の表現の方法は色々で、どれが絶対に正しいなんてことはないはずです。
他の事ならともかく、私のオペラに対する愛情を疑問視したり、オペラが好きならこういう行動をとるべきだと強制するようなコメントはここでは二度と見たくないので、よろしくお願いいたします。
それから、愛する対象への厳しい言葉は、それがどれほどきつくあろうとも『悪口』とは性質を異にしますので、そこの見分けもつかない方には、このブログは全く向いてないと思います。
他にもたくさんオペラについてブログに書いていらっしゃる方はおられると思いますし、その中にはお花畑のようなブログもあるでしょうから、どうぞそちらを楽しまれてください。

また、私がチエカさんのブログの一部の読者のグリゴーロバッシングに対して苦言を申し上げたのは、彼らがグリゴーロに対してネガティブなことを書いているからでは全くありません。
彼らが実際に公演に足を運んでそう感じられたなら、”ふーん。そういう見方もあるのか。”と思うだけです。
私が軽蔑するのは、実際の公演に足を運ぶことすらしないで(はい、私はどのサインネームの方が実際にグリゴーロの公演を見たこともないということを知る程度にはチエカさんのサイトを頻繁にチェックしています。)、
YouTubeやらでちょい聞きした程度で歌手の歌唱を”二流”と決めつけ、
関係のない歌手の話をしている時にまで、ことある毎にその歌手を引き合いに出して貶める、そういうオペラファンなのであって、そういう人たちは本当に”暇な人”だと思います。
だけど、実際に聴きにいった公演の、ある歌唱に対する印象が全くよくなかった、それをきちんと理由だてて、その公演、もしくはその公演と何らかの関係のある・比較が有効な公演の記事の中で説明するのは全く必要かつ当然なことだと思うし、
それをやったからと言って”その言葉、お返しした”いと言われる筋合いなんてどこにもないと思います。

さっき書きました禁止事項以外のことであれば、どれだけ私のある歌手への評価に反対!という意見であっても、
なぜそう思うのか(単純に声が好きだから、顔が好きだから、、、何でも構いません)を合わせて教えて頂けるのであれば大歓迎! 喜んでお話させて頂きたく思います。

というわけで、この一年は全く公演の感想の覚書もとってませんし、今となっては2013-14年シーズンに見た公演全部の感想をupするのは不可能なんですが、記憶の新しいものや記憶に残った度が高いものを中心に、
またメトのシーズンオフ中にもいくつか観に行く予定の他カンパニーの公演(オペラ以外にも、バレエやみやびさんがコメント欄で教えてくださった歌舞伎のNY公演も含め)がありますので、それらと合わせてメトのシーズン・オフ中も記事をupしていこうかな、と思っております。

で、とりあえず、記憶の新しいところから、またbchamaさんの不運をカバーすべく、フローレスが復帰した、シーズン第四回目の『チェネレントラ』となる5/2の公演のレポートで復活したいと思います。



メトの2013/14年シーズン中、最も話題だった歌手の一人がハヴィエ・カマレナです。
彼は2011/12年シーズンにすでに『セヴィリヤの理髪師』でメト・デビューしているのですが、今シーズンの活躍で一気に認知度が高まったような感があります。
シーズンの終盤は、ベル・カント・ラッシュと言ってもよい感があって、『夢遊病の女』、『清教徒』、そして『チェネレントラ』が前後して、もしくはほぼ同時期に上演されていました。
カマレナはもともと『夢遊病の女』のみにキャスティングされていたんですが、ダムラウと組んだその『夢遊病の女』での歌唱が非常に評価が高く、
それが買われたのか、もしくは元々彼がアンダースタディだったのか、体調不良のため『チェネレントラ』の最初の3回の公演を降板したファン・ディエゴ・フローレスの代役は彼がつとめることになりました。

ところが、その『チェネレントラ』での代役歌唱の評価がものすごく高くて、新しいスターを手ぐすねひいて待っているオペラファンの中には”もうフローレスの時代は終わった。これからはカマレナだ!”とか、
カマレナをパヴァロッティの再来!とまで呼ぶ声まで出て来ている始末です。

あまりに初日の評価が高かったので、ちょうど『チェネレントラ』のチケットを手配しようとしていた私は頭を抱えてしまいました。
なぜならば、現在色々な理由で多忙を極めているため、『チェネレントラ』の公演には一回しか行けそうにないからです。フローレス or カマレナ、どちらかを選ばなければならない、、。
とそこで、メトが、二幕のラミロの”そう、誓って彼女を見つけ出す Si, ritrovarla io giuro" をカマレナがドレス・リハーサルで歌っているところの抜粋映像をアップしてくれていることに気付きました。
いつも繰り返しますが、録音はあくまで録音でしかないので、これだけを頼りにして決めなければならないのは非常に心苦しいのですが、仕方ありません。



なるほど、、確かにベル・カントのレパートリーを歌うにしては強靭で、芯のある、がっちりした輪郭の声をしてるな、と思います。
しかも、高音にものすごく強いんですね、、、フローレスや2008/9年シーズンに同役を歌ったブラウンリーは普通にハイCで処理しているところを、そこにさらにDを重ねて、
その音も申し訳程度に、もしくは苦しげに、もしくは怪しげに、もしくは妙な音で鳴ってます、という感じでは全然なく、
それまでの音と全く遜色ない響きと土台の力強さのまま高い音にエクステンドして鳴り渡っています。
あ、それを言ったら今シーズンの『清教徒』はブラウンリーが歌っているんですが、彼は数年前にマチャイーゼと組んだ『連隊の娘』も安定感を欠いたあまりぱっとしない歌唱で、、
一時期の勢いがちょっとなくなってしまっているような感じを受けるのは残念です。
フローレスに続け!と期待も高かったんですが、そんなゆるいことをしている間に、このカマレナのような人が出てきてスポットライトを奪って行くわけで、
ベル・カントという限られたレパートリーの役を互いに競っていくわけですから、油断できません。
カマレナに話を戻すと、声のカラー、音色に関しては、私個人的にはパヴァロッティを彷彿とさせるものはあまり感じませんが、
安定感から来る力強い響き(実際に劇場で聴いた人の話ではすごく良く音が鳴るそうです)がパヴァロッティの歌唱を思わせるのかもしれません。

しかし、その一方でベル・カント好きの人間からするとちょっと気になる側面もあって、それは彼の歌は興奮度が優先する・させるあまり、
プレシジョン、正確性といったものが軽く犠牲になっているように感じられる部分があるのと、
高音以外の部分、たとえばフレージング全体の美しさとかメロディーのアークの取り方、言葉の音への乗せ方、とか、その辺りではまだまだフローレスの技術の高さには追いついていないかな、という風に思います。
”フローレスはピークを過ぎた、これからはカマレナ。”などという声があるなら余計、それだったら今のうちにフローレスのラミロを聴いとかにゃ、と思ってしまいます。
カマレナはこれからもどんどん聴く機会があるでしょう。その時までにそれらの部分がブラッシュアップされていることを期待することにします。
ということで、これはかなり頭を悩ます選択でしたが、フローレスの公演に決定〜!



そこでまた神の思し召しか、フローレスが体調不良から復帰する最初の公演(通算ではシーズン4度目の公演)に、一席だけ、燦然とディレクター・ボックスの座席が残っているではありませんか!!
ディレクター・ボックスとは、グランド・ティアーの最も舞台下手(舞台に向かって座って、左手の側)に近い、ほとんどオケピを横から眺める感じのボックスです。
舞台の一部は見切れてしまいますが、歌手が舞台前方で歌っている限りはまるで手にとるようにその表情が見えるうえ、しかも指揮者やオケの様子もばっちり観察できるので、このボックスは大好きです。

ドン・マニフィコ一家は前回(2008/9年シーズン)と全く同じキャスティングで、ドン・マニフィコをアレッサンドロ・コルべりが、そして意地悪姉妹をレイチェル・ダーキンとパトリシア・リスリーが演じています。
当時の記事にも書いた通り、『チェネレントラ』がメトで初めて上演されたのは1997年のことなんですが(バルトリらが出演)、
2008/9年シーズン、それから今シーズンと、舞台監督を変えつつも、その1997年からの演出が今も引き続いて使用されています。
意地悪ファミリーのコンビは2008年からの記憶がまだきちんと残っているからか、演技・歌唱いずれのアンサンブルもすばらしく息の合ったそれで、
しかも、今回の舞台監督の手腕が良いのか、はたまた主演陣の歌唱のレベルの高さに感化されたのか、2008/9年の公演以上に生き生きとした、
それでいて必要以上のどたばたに陥らない、役の領分をわきまえた歌唱と演技で、主役陣をうまく盛り立てていたと思います。

コルべりはもう60歳を過ぎていますし、声のパワーは以前と比べて衰えている部分はありますが、
もともと声自体は軽めでパワーや音色で聴かせる人では全くなく、安心して観て・聴いていられる歌唱力とタイミングの良いコメディックな演技力(特に後者)に強みがある人だと思います。
特に、自分も舞踏会に連れて行って欲しい、と懇願するチェネレントラを、王子やダンディーニの目前で、虐待すれすれのやり方(ディドナートをステッキで羽交い絞め!)で脅し、いじめ、阻止する”だめ父”ぶりは、
本人が他の場面以上に生き生きと演じていて、実に楽しそうですらあります。



チェネレントラ役のジョイス・ディドナートは、以前からこのブログでも折りあるごとに触れてきた通り、素もすごくチャーミングでポジティブ・オーラに溢れたアーティストです。
彼女の声の少し独特な音色と歌唱技術の長所(特に早いパッセージでの上手さ)のコンビネーションから、個人的には一番ロッシーニのレパートリーが向いていると思っているのですが、
彼女の地のキャラクターとどことなく通じる雰囲気のあるチェネレントラはその中でも特に彼女に向いた作品なのでは?と推測していました。
というのも、彼女の"Non più mesta"はメト・オケのコンサート等で単独で聴いたことはありますが、彼女のチェネレントラを全幕で鑑賞するのは今回が初めてなのです。

彼女は元々あまり高音に強いメゾではなく、レパートリーの最高音域を軽くアタックしてすぐに降りてくるような時は綺麗な音を出すのですが、
フルブラストで長い音を鳴らす時になると少し音にすかすかしたブリージーな感触が混じることがあり、以前はそれでも気合で押してそれをあまり気にならないレベルに押しとどめていたんですが、
メトで『マリア・ストゥアルダ』を歌ったあたりからその傾向が以前よりさらに顕著になり、以前に増して高音が出にくくなっているような印象を持ちます。
大体同時期と思われる2012年のグラミー賞の場でも、"Non più mesta"を披露しましたが、その歌唱にも似た感想を持ちましたし、今日の歌唱もやはり、似た印象でした。
また、少しお疲れモード、もしくは声のコンディションがあまり良くなかったんでしょうか、全体的に声がドライで、
マリア・ストゥアルダの最高音域以外で鳴っていた、劇場にたゆたうような美しい響きがあまり今日は聴かれなかったのが残念です。

2008/9年にチェネレントラを歌ったエリーナ・ガランチャはその点、彼女と全く対照的なタイプの歌手と言ってもよく、彼女はメゾとしては楽々と高音を出しますし、
また低音域から高音域までの統制のとれた均一な響きはトップクラスの歌手の中でもさらに上位何パーセントというようなレベルのそれです。
また声そのものの美しさも印象的で、ディドナートが早いパッセージでちゃきちゃきとした魅力を発するとすれば、ガランチャの方はむしろ、ややゆっくり目のパッセージ、
ラストの部分で言うと、Non più mestaよりは、その前のNacqui all'affannoの部分の美しさで私などは、”おお!”と感嘆してしまったのでした。
ちなみに、その2008/9年の公演での彼女の歌唱はこちら。




また、作品通しで、歌唱技術全体を見て隙がないのももしかするとガランチャの方かもしれないな、と思います。
私は過去にガランチャの歌でしかこの作品を生鑑賞したことがないので、その記憶がかなり鮮明に残っていて、意識しなくとも、ついそれと比較してしまいます。
そうすると、ガランチャに比べると、ディドナートは、より”人間らしい”処理の仕方で歌っている箇所もあったりして(たとえば細かくはありますが、音の粒の揃い方とか、、ガランチャは半分ロボットみたいに正確なので、、)、
「あれ?」と思ったりもするのですが、それではディドナートのチェネレントラはガランチャのチェネレントラよりだめなのか、と言われると、その答えがNoでないところが実にオペラです。

高音の安定感、声そのものの圧倒的な美しさ、低音域から高音域にかけての音色のなめらかな統一性、これらの側面でほんの数ミリガランチャに譲っているディドナートですが、
ディドナートのチェネレントラには言葉では説明の難しい、これぞ役との相性、とでも言うしかないソウルとかハートとでも呼びたくなるようなものがあるため、
全幕を見終わった後でどちらが”ああ、チェネレントラを見たなあ。”という実感が強いかというと、ディドナートだったりするんです。

チェネレントラってよく考えてみると、その行動に結構自信家で図太いところもあったりして、下手すると同性に嫌われやすいタイプではないかと思うんですが、
そんな逞しさを感じさせつつも、それを嫌味でなく、女性から見てもチャーミングにディドナートは表現してくれます。
また、ガランチャは出身地(ラトヴィア)も関係があるのか、若干この役にはウェットで、じとーっと王子が彼女を探し出してくれるのを待っているような雰囲気が漂っているんですが、
ディドナートのチェネレントラはもっとドライでパワフル。
美しく変身した姿で腕輪の片割れをラミロに渡した後に、灰かぶり娘状態に戻ってももう一方の腕輪を身につけ、気高く、
ほとんど自信に溢れた様子でラミロの登場を信じているかのような佇まいは、より現代的で、若い世代のオーディエンスにも共感しやすい役作りなんじゃないかな、と思います。



ガランチャの女性らしい声質・歌唱スタイルに比べて、ディドナートの少し野太目な音色、それから早いパッセージでのばりばり感(ここはガランチャにはないディドナートの最高の強みだと思います)は、
そんな彼女のチェネレントラ像をよく補完していると思います。

2008/9年の公演も良かったんですが、それに増して今回の公演はチェネレントラ役だけに限らず、全体としてもより良くまとまったコヒーシブな舞台だな、と好印象を持ったんですが、
それにはディドナート以外のメインの役における配役の妙があったと思います。



まず、家庭教師アリドーロ。
この演出では、アリドーロって本当に人間の家庭教師なのか、それともこの世の物でない存在なのか(なぜか天使みたいな格好だし、、、)よくわからない感じがあるんですが、
前回の公演で同役を歌ったジョン・レリエは、ばりばりと低音の良く響く声と背が高くて男性っぽいたたずまいのせいか、人間・家庭教師の雰囲気もそれなりに保っているため、
天使みたいなコスチュームも、コスプレ好きな家庭教師が仕組んだ遊び、みたいな雰囲気もあり、それはそれで面白かったのですが、今回キャスティングされている、ルカ・ピサロ二。
彼は以前から、なんか面白い歌手だな、と思っているんですが、ますますその印象を強くしました。
まず、ピサロニは愛犬家で知られていて、飼っている二匹の犬の片方がダックスフントである、という、その点からしてすでに、私個人的にはかなりポイントが高いんですが、
(今回の公演のために、わん二匹もヨーロッパからNYに同行して、随分NYライフを満喫されたようです。FaceBookで確認できるこの親ばかぶりは、私に負けてません。)
それを抜きにしても、彼はアーティストとして、非常に面白い個性を持っているな、と思って注目してます。その彼の個性とは”良い意味で個性がないこと。”
普通メトに登場する位の歌手になってくると、それなりに本人のカラーが前面に出ている人が多く、人によってはそれこそ何の役を歌っても○○だな、と思わされることがあったりもするものですが、
ピサロニはこれまでメトでいくつかの舞台を拝見してますが(『フィガロの結婚』のフィガロ、、『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロ、『魔法の島』のキャリバン、そして、今回のアリドーロ)
毎回カメレオンのように雰囲気が変わるので本人がどんな人なのか、今もって皆目不明なくらいです。
それでいて、どの役も結構器用に説得力を持って歌うんです。キャリバンなんか、ものすごいモンスター姿で本来の顔すらわからないような状態だったのに、
あの激厚メークの下からきちんと表現の意図の伝わってくる演技と歌唱を披露していましたし、
かと思うと、グランデージの演出がプレミエした際は、ちょっとワイルドな男臭いレポレッロも上手く演じてました。
(下はメトのHDの『ドン・ジョヴァンニ』からのカタログの歌の歌唱です。)



声や歌唱には、嫌味な癖がなくて、素直でクリーン、といった言葉が真っ先に浮かんでくるのですが、何色にも染まっていないというか、
演技と同様、歌唱から受けるイメージも毎回役によって違う雰囲気の出てくる不思議な人です。
で、そのピサロニが今回演じたアリドーロは、『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロ役で見せたマッチョな雰囲気とまるで同じ歌手に思えないほどか細く、
ほとんどフェミニンな、それこそその場で消えてしまいそうな、この世のものでない的雰囲気を一人醸しだしてました。
レリエが天使のフリをした家庭教師だったとすると、ピサロニは家庭教師のフリした天使、そんな感じの違いです。



ダンディーニ役はドン・マニフィコ役と共に喜劇的な屋台骨を支える大事な役。
2008/9年の公演では、アルベルギーニが同役にキャスティングされていましたが、王子とそう年の変わらない雰囲気で歌い演じていてそれはそれでなかなかに良かったです。
今回の公演でこの役を歌ったのはピエトロ・スパニョーリ。今シーズンのこの『チェネレントラ』がメト・デビューになります。
アルベルギーニがちょっと突っ走り系おっちょこちょい、だけど根は優しくて憎めないダンディーニだったのに対し、
スパニョーリの方はかなり親父っぽく、突っ走っているというよりは何事につけあまりやる気がなく、ちょっととぼけてる感じの役作りなんですが、、
その親父っぽい風采のおかげで、ラミロと再度アイデンティティ交換を行って、本来の従者の姿に戻った後のドン・マニフィコとのやり取りになんともいえないリアリティが漂ったのが素敵でした。
万時やる気なさげなダンディーニに突然訪れた王子のフリとそれに伴う興奮という”超日常”という楽しみの終焉、
そして、再び従者としての際限ない退屈な繰り返しの”日常”&やる気ないモードに戻らなければならない、という寂寥感とアパシーがドン・マニフィコとの間に感じられて、
チェネレントラはものすごい幸運をつかんでしまいすが、99.9%の人間にとってはこの退屈な日常が普通。
私も間違いなくそういう一般ピープルの一人ですので、それがまたちょっとせつないというか、しかし、それでいて愛しいというか、、、意外なところが美しい場面になりました。
スパニョーリはメトのような大箱で聴いてもよく声の通る人だな、という印象です。
ただ、この役はそれほど奥行きのある役でも繊細な役でもカリスマが必要な役でもないので、
それらが必要とされる役を歌う時にどれ位の力を持っているのか、というのは、また再びメトに戻ってくれる時にじっくり聴いて確認したいと思っています。



そして最後になってしまいましたが、ラミロ王子役のフローレス。
もう第一声が出て来た時のこの色気!これがやはり特別な歌手を特別なものにする一番の要素なんだ、と本当に思います。
カマレナの声のような強さはないですが、さっと広げた上質の絹のような味わいと感触があります。
いくら歌唱技術が優れていようが、どんなに高い音が出ようが、この生まれもった声 〜別にスタンダードな意味での美声でなくてもいいですが、
何か一声でオーディエンスの心に訴えかけてくるようなそんな力を持った声〜 これはやはり”色気”としかいいようがないんでしょうが、それがいかに大事かというのを思い知らされます。

告白してしまいますと、実は今日の公演で私が一番驚いたのは、ビジュアル的にフローレスが老けたことです。
いや、もともと若々しい人なので、老けたと言ったら言い過ぎなんですが、以前とは雰囲気が変わったな、と思いました。
私が彼をメトで最後に見たのは2011/12年シーズンの『オリー伯爵』だと思うんですが、あの頃くらいまでは、彼特有の”永遠の青年”的な佇まいを保っていたように思うのですが、
やはりお子さんが出来た(確かオリーのHDの日当日の朝方近くに赤ちゃんが生まれた、というような話だったはずです)ことが関係しているのか、
よく言えばパパらしく、悪くいえばちょっとおじさんっぽくなったな、と思います。
でも、私がれっきとしたおばさんだから言うのではないですが、これもまた素敵なことだと思います。
フローレスはトーク・イベントに参加した時に受けた印象からも、すごく感じがよくて決して傲慢な人ではないですが、
やはり、若い時というのは”自分ががんばらねば!”というのが前面にでてしまうものです。
ましてや、ロッシーニ作品をはじめとしたベル・カントの主役テノールに求められるアクロバティックな歌唱を毎回コンスタントに繰り出さなければいけないのはすごい重圧だし、
それが成功したら”どうだ!”という気持ちになって当然だと思います。
でも今回の彼はなんというのか、、自分のことより何より、周りのキャストへのまなざしがあたたかくて、それは本当に素敵だな、と思いました。

昨シーズンか昨々シーズンだったかに、オペラ・ギルドのトークのイベントで、自分の声が変化して来ているから、色々実験している、というような趣旨のことを言っていたような記憶があるのですが、
その時は正直、へー、そんなことをやっているのか、とちょっとびっくりした記憶があります。
当時は公演を聴く限り、私にはまだまだ以前通り、十分軽く、また高音もしっかり鳴っているように聴こえていたので。
彼の声が以前と同じでないな、というのをはっきり意識したのは今日の公演がはじめてです。
この10年以上、ベル・カント、特にロッシーニ作品の主役テノールとしてほとんど彼はアンタッチャブルな地位をキープして来ましたが、
その理由の一つは彼のゆるぎのない、何があっても失敗するなんてことは絶対にありえないと思えるほどセキュアな高音とその音色の魅力でした。
しかし、彼の声の変化が一番如実に出ているのが、まさにその高音での音の響き・テクスチャーです。
最初の公演三つをキャンセルしているので、コンディションの問題も多少はあるのかもしれませんが、
しかし、そこに至るまでの音域では以前と変わらず全く綺麗な音でインタクトですし、
それに彼は以前、『連隊の娘』の土曜のマチネのラジオ放送で、”風邪引いてます”と堂々宣言していました(たしかダムラウとの共演で、彼女と二人で風邪をひいていたと記憶してます)が、
その時の感じともまたどこか違っていますので、私自身は風邪ではなく、より長期的な変化によるものの可能性が高いと思っています。
一言で平たく言うと、高音に以前ほどの輝きがなくなった、と言えるのかもしれません。
で、そのあたりを指して、フローレスは終わった、みたいな失礼なことを言う人が出て来るんでしょう。

しかし、あなたが高音の音の響きしか聴かないハイC馬鹿でもない限り、そんな断定は無用、
彼の歌はまだまだキング・オブ・ベル・カントの名に恥じないすばらしい内容のものです。
”必要は発明の母”という言葉がある通り、高音が以前のような音で出しにくくなっている、ということが理由になってもいるのかもしれませんが、
彼のフレージング美へのこだわりと、そのエグゼキューションレベルの高さは感動ものですらあります。
高音とかトリッキーな音型、迅速さをもとめられるパッセージは、ともすると、それ自体が手段でなく目的になってしまいがちですが、
彼の今日のラミロ役の歌唱を聴くと、それらが目的には全くなっていなくて、常に役の表現、音楽、といった”全体”が優先されていることがよくわかります。
そのために、(高音はある程度年齢等によって避けがたい部分もありますが)あらゆる歌唱部分は磨きに磨かれ、どんなに難しいフレーズでもいとも簡単に歌いこなしてしまうので、
なんだか、すごく簡単なパートを歌っているような気がしてくるのがなんともおそろしいところです。

以前、アンジェラ・ミードの歌についても同じようなことを書いたのですが、このタイプの歌唱・歌手の損なところはこのマスタリー度の高さゆえに、
かえって、どれほど大変なことを成し遂げているか、あまりオペラやベル・カントになじみのないオーディエンスにはわかってもらいづらい部分がある点です。
大変だ、ということがもはやわからないまでに、歌唱を極める。
それをやってのけているアーティスト達は損得なんて全くもって考えていないのでしょうが、
この彼らのやっていることの素晴らしさ・すごさが通じない相手がいるのを見るにつけ、それが痛いほどわかる人間は臍をかむというものです。
どれ位高い音が出るか、とか、それをどれ位のばせるか、とかだけでなく、こういうところへのこだわり、あくなき探究心、歌いまわしや言葉の乗せ方のセンスとそれを可能にするための鍛錬、
それらこそ、これからフローレスに続く若いベル・カント歌いたちに見習って欲しい点です。



フローレスが出演する公演には最低一公演、時には複数公演、足を向けているにもかかわらず、私がいつも彼のアンコールを逃し続けて来たことはこのブログを継続して読んで下さっている方ならご存知の通り。
あまりに運が悪いので、もう私は死ぬまで生でフローレスのアンコールを聴くことはないのだわ、という悟りに至ってしまって、今日はすっかりそんなことも忘れてしまっていました。

自分の代役で歌ったカマレナの評判については当然フローレスの耳にも入っていたはずですが、
しかし、キング・オブ・ベル・カントにも意地ってものがありますから、ここは彼も負けてられません。
そんな意地が昇華して、”そう、誓って彼女を見つけ出す Si, ritrovarla io giuro"ではものすごい気合が伝わってきました。
彼がこんな気合で歌う時は、素晴らしい内容にならないわけがなく、歌唱後、ト書きにそった退場のため、扉の向こうに出て行くフローレスを追いかけ、
そして、彼をもう一度舞台にひっぱりださん、と、まきあがる大喝采と大歓声と拍手の嵐。すごい観客の熱狂ぶりです。
そうしたら、しばらくして再び扉があいてフローレスが挨拶のため、再登場。
観客のアンコールおねだりの歓声がすごいことになっていて、そこで、”あ、そうだ、ここでアンコールすることもあるんだった。”とようやく気付く私なのでした。おそっ。
まったくもってやみそうのない歓声の嵐に、どういう風にフローレスがコミュニケートしたのかいまだにわからないんですが
(あんなに至近距離に座っていても、特にフローレスから指揮者に何かサインが出たような感じはキャッチできなかったのですが)、
指揮のルイージがオケのメンバーに”楽譜、少し前に戻って。”という手サインを出しているのが見えるではありませんか!

うそ?うそ?まじで????アンコール??????(Madokakip、感涙

ああ、もう夢のようです。何年も夢見たアンコールがこんなにあっさりと起こっていいものなんでしょうか?!
しかも、今日はディレクター・ボックスゆえに、手の届きそうな距離のところでフローレスが歌っている、、あまりにもシュールで気を失いそうです。

彼の歌が素晴らしいのはもう当然のことなんですが、今回この『チェネレントラ』という演目で彼の出演する側の公演を選んで本当に良かった、、と思いました。
それは、彼のルックスです。フローレスって以前より少しおじさんっぽくなったといっても、やっぱり王子役がよく似合う。
ダンディーニと身分の取替えをしても、”こちらが王子です。”というのが歴然と伝わってくるし、
チェネレントラがずっと従者だと思っていた相手が実は王子だった!という、文字通りの”シンデレラ・ストーリー”的インパクトが、フローレスみたいな歌手が王子役だと、100倍にも200倍にも膨れ上がる感じです。
『シンデレラ』に初めてふれる女児の多くは、いつか自分にもこんなハンサムで身分の高い男性が現れるのだ!と、目をハートにするわけで、ハンサムx身分が高い、この二点が入っていることがポイントです。
2008/9年のブラウンリーのラミロ王子は歌は非常によくがんばっていると思いましたが、片方がおっこちている点で(すまない、ブラウンリー、、、)、
彼が王子だと判明しても、今ひとつ子供の時に感じた”いいなあ、シンデレラ〜”という羨望の思いを感じない。
むしろ、これでいいのか、シンデレラ?とすら、思ってしまう(重ねて、すまない、ブラウンリー、、、)
申し訳ないが、カマレナでも、その点では似た感じになると思います。
でも、フローレス!
彼のラミロ役でこの作品を見ると、私の奥に眠っていた5歳当時のMadokakipが”うおー!!シンデレラ、うらやまし〜!!”と叫びまくって、それはもう大変でした。
やっぱりシンデレラの物語はこうでなければ。

しかし、ふと、こうも思いました。
なんか、こんなこと思ってしまう私って、フランスのエロじじい化してる、、?
そこで、彼に”私がいつの日かあなたとそっくりなことを言い出すことになるとは、誰が想像したでしょう?”という言葉を書き添えて、
フローレスのルックスのおかげで、どれほどシンデレラ・ストーリーがリアルなものに感じられたか、正直に書いてメールしてみました。
そうするとすぐに彼から返事が。
”そうだよ、君もやっとわかってきたようだね。”
でも、言っときますが、フローレスは歌唱も超一級ですから!!


今日の指揮は先にも書いた通り、ルイージ。
ヴェルディとかワーグナーの作品での彼の指揮については、近年個人的には失望続きでしたが、
この『チェネレントラ』のような、猛烈なエモーションを感じさせる必要はないが、娯楽性とかつデリケートさや繊細さが必要な演目での彼の指揮はとっても良いと思います。
音楽が自然に流れていて、とても楽しめました。
しかし、ある方から、彼の『蝶々夫人』もすごく良かった、と聴いてかなりびっくりしてます。
バタフライほどエモーショナルな演目もないですからね、、、うーん、聴いておきたかったです。(聴きのがしました。)


Joyce DiDonato (Angelina, known as Cenerentola)
Juan Diego Flórez (Don Ramiro)
Pietro Spagnoli (Dandini)
Alessandro Corbelli (Don Magnifico)
Luca Pisaroni (Alidoro)
Rachelle Durkin (Clorinda)
Patricia Risley (Tisbe)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Cesare Lievi
Set & Costume design: Maurizio Balò
Lighting design: Gigi Saccomandi
Choreography: Daniela Schiavone
Stage direction: Eric Einhorn
Grand Tier DB Front
OL

*** ロッシーニ ラ・チェネレントラ Rossini La Cenerentola ***
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THE SINGERS' STUDIO: VITTORIO GRIGOLO

2013-04-17 | メト レクチャー・シリーズ
『リゴレット』Bキャスト初日のレポートを先に書こうと思ったのですが、こっちが先に出来てしまいましたので、アップしてしまいます。

Singers’ Studioで、私が密かにやってみたかったことを実行に移してくれる歌手がようやく現れました!!
それがどういうことか後でわかりやすいよう、先に今日の登場人物の紹介をします。

ゲスト:ヴィットリオ・グリゴーロ (以下、VG)
現在メトの『リゴレット』(メイヤー演出)Bキャストでマントヴァ公を歌っているイタリア人テノール。
(しつこいようですが、このBはB級のBではなく、ランの中の順番としてのBです。)
2010/11年シーズンの『ラ・ボエーム』でメト・デビュー、出待ち編のレポートでも片鱗がうかがわれる通り、超ハイパー、超早口、元気一杯の36歳。

ホスト:F・ポール・ドリスコル (以下、FPD)
メトロポリタン・オペラ・ギルドが出版しているオペラ雑誌 Opera Newsの編集長でしばしばSingers’ Studioの司会を務める。
ゲストが何を語っても動じない、というか、ほとんど感情的な反応がない不思議なキャラクターゆえ、当ブログでの通称は“鉄仮面”。



オーディエンス代表:Madokakipの心の声 (以下、

以下はいつも通り、会話を正確に直訳したものではなく、メモを元にした意訳を再構成したものです。
手書きメモという超原始的なメソッドゆえ、グリゴーロ君の超早口には参りました、、。

************

FPD: まず皆さんに彼の名前を良く聴いて頂きましょう。
VG: ヴィットリオ・グリゴーロです。
FPD:ということで、グリーゴロではないですからね。皆さん、お友達に正しい発音を教えてあげてください。
:(そういえば、さっき、私の隣に座ってるおばさんもグリーゴロ、グリーゴロって連呼してましたね。)
FPD: あなたが歌の勉強を始めたのは8歳からで、12,3歳の時にはすでに『トスカ』の羊飼いの役でオペラの舞台に立っていますね。
そして、その時にカヴァラドッシを歌ったテノールが?(とグリゴーロに回答を促す)
VG: (それを焦らすかのように)魅力的ななかなか良い歌手でしたよ。
FPD:(グリゴーロがなかなか名前を出さないので焦れて)で、そのテノールの名前は?
VG: (しようがないな、、という風に)ルチアーノ・パヴァロッティです。
(そのことを知らなかったオーディエンスからどよめきが起こる。)
FPD: どのような経緯で歌を歌うようになったのか、話していただけますか?
VG: 僕の母親がサングラスを買うというのでついていっためがね屋さんで、シューベルトの歌がどこからともなく聴こえてきたんだ。
僕は今でもそんな風で、そしてそれが時々“too muchだ”といって批判される原因にもなるのだけど、すごく好奇心が旺盛なものだから、
“何々?”という感じで声の元を辿って地階に降りていったんだ。
僕は当時まだ7歳だったけれど、彼が歌っていた“アヴェ・マリア”を一緒に歌い始めたんだよ。
そしたら、そのおじさんに進められたんだ。歌を習った方がいい、って。
そこ(後述のバチカンのシスティーナ礼拝堂聖歌隊のこと?)はローマで一番ソルフェージュの勉強、音楽上のケアなど、優れた教育内容を誇る場所で、
三年間の奨学金制度もあるから、って言われて。
実は“アヴェ・マリア”はその二年前にいとこの結婚式で歌おうと思って準備してたんだ。
だけど、5歳程度の子供がそんなもの歌えるわけがない、というんで、僕がそういう風に言っても、みんな“はい、はい。”って感じでまともに取り合ってくれなかった。
結婚式のよくあるパターンでみんなが歌う順番の取り合いで、僕まで順番が回ってこないし、なんか最後の方に“アヴェ・マリア”なんか歌ったらみんなが悲しくなっちゃうかな、と思って、結局披露せず仕舞いに終わったんだけどね。
でも、二年後にそうしてめがねやさんの地下で歌う機会が訪れたんだ。
FPD:そうしてあなたはシスティーナ礼拝堂聖歌隊に入隊します。
VG: スコアの読み方、ヴォーカリゼーション、音楽のあらゆる側面で非常に優れた教育を行う場所で、僕の母親もびっくりしてた。
僕が習った先生は声楽的な面、技術の部分だけでなく、音楽の持つ感情の部分を理解するうえでも、
初めてついて習う先生としては最高の人でした。また助手の司祭の先生もいましたね。
一つの音だけでなくて、それが続いて複数の音になって、それが一小節になり、一フレーズになり、、という風に、
音の、音楽のつながり、というものを教えてくれたのも、貴重でした。
オペラ歌手の声が出る仕組みについて皆さんがどれだけ馴染みがあるかわかりませんが、、、
あ!あそこにホワイト・ボードがあるね!
(ゲストのためのひな壇から対角線にだいぶ離れた、Madokakipの座っているすぐ側の壁を指差したかと思うと、鉄仮面が返答できないうちにすでに立ち上がり、
いきなり走り出したかと思うと、気がつけばすでにMadokakipの真横に立ってペンでホワイト・ボードに何かを殴り書こうとしています。
私が持っている五感中、一番発達していると自負しているのは実は嗅覚で、
会社でも、しばしば他の同僚が気付く前に何かの匂いを嗅ぎ取ることが多く、“鼻がいい。”と褒められるのですが、
そんな私ですので、彼が側、ほんとに手を伸ばしたらすぐに手を握れるような側、に来た時は、
おそらく直前にシャワーを浴びる余裕はなかったのでしょう、良い意味でのほのかな体臭に香水の匂いが混じっていて、その匂いにクラクラしそうになるのでした、、。
ところが、いくらグリゴーロ君が書きなぐってもそれがホワイト・ボードに現れない。)
FPD: (次々とペンを取り出して躍起になっているグリゴーロ君を遠目に眺めながら、冷静に)
ヴィットリオ、それは特殊な電子ホワイト・ボードなので事前に設定をしてないと文字が表示されないんです。
こちらに別の普通のホワイト・ボードがあります。ペンを用意しますのでこちらに帰って来てください。
VG: (そんなハイテクなものだったのか、、という様子でちょっとがっかりした風にペンを置いてひな壇に走り去って行く。)
FPD: 今ペンを用意してますからちょっと待ってくださいね。その間にちょっと合唱隊での話を聞かせてください。
まだ変声前の状態ですよね、そうするとパートはどんな風になるんでしょう?例えばあなたの場合だとコントラルト?
VG: 合唱隊では普通に全部のパートがありますよ。バリトン、バス、、
(注:本人がどのパートだったかははっきりとは明言していないように思うのですが、聞き落としだったらすみません。)
一週間に二回の正式な活動があって、それに日曜のミサが加わる、というスケジュールです。
僕は小さい時から自分の目標とか野心とか夢を出来るだけ現実的で自分の手が届く範囲にしておく癖があるんだ。
例えば宝くじにあたることが夢、なんて現実味のない目標を立てたら、なんだかもうその時点で一生幸せになれない感じがしてしまって、、。
で、とりあえず、合唱隊にいる間はソリストになることを目標にしてました。
FPD: で、先ほど話題に上がったローマの『トスカ』での公演が1990年にあって、その時あなたは13歳ですか。
オペラの実舞台に上がって音楽のキャリアを進めて行くにしても随分と若い年齢でのことですよね。そのことの影響はありましたか?
VG: 実を言うと、自分としてはこれでキャリアが開ける!とか、そういう風な意味での大事とは当時考えてなくて、
とにかく舞台に立ってソロで歌えるというのがシンデレラ・ストーリーか夢のようで、その時はそれを精一杯生き、過ごすことで一杯でした。
僕のキャリアの中で何度かあることですが、これもまた、一番良い時期、一番良い人々、一番良い場所、が重なった例だったと思う。
僕は自分の最大の才能は、声ではなく、タイミングよく大事なチャンスが回って来て自分の力が認めてもらえる点にあると思っています。
でも、そういえば、その頃、映画の『トスカ』に出演しないか?という話もありましたね。
実際にローマの街でロケ撮影するという、あのドミンゴが出演した『トスカ』です(注:1992年の演奏でトスカ役はマルフィターノ)。
当初、あの企画はマゼールが指揮が予定だったんだけど、後にメータに変更になって、そうこうしているうちに話をもらってから三ヵ月後位かな?声変わりが起こってしまって。
母に“ちょっと一体どうしたの?!その声!”と言われたけど、“朝起きてみたらこうなってたんだよ。”と答えるしかなくて(笑)
昨日まで*&^%%(と鳥のように高い声で話す)みたいな声で話していたチビが、いきなり、(野太い声で)“母さん、コーヒー。”って(笑)
ということで、歌の方はその後しばらくお休みせざるを得なくなったんだ。
16歳からまた歌の勉強を再開したんだけど、その時はもっぱらオペラ一筋に練習しました。
ヴェネト州のリゴーザというバリトンが先生だったんですが、オペラ関係のCDをぎっしり鞄につめてレッスンに行くと、
“No more of this (こういうのはもう今後なしだからね。).”と言って全部CDを割られてしまって、、。(笑)
僕は小さい時から喋るよりも歌の方が自分の伝えたいことを相手に伝えやすいということに気付いていて、
“アイスクリームが欲しい。”なんていう言葉ですら、普通に言葉で発するのではなくて、メロディーをつけて母親におねだりしたりしてました。
その頃から歌、音楽には言葉にない魔法のようなものがある、と思ってた。
17歳からオーディションを受け始めましたが、同時にレストランで歌ったりもしていました。
大喧騒のレストランで『愛の妙薬』を歌ったり、ピアッツァで『セヴィリヤの理髪師』を歌ったり、、。
18歳の時には、初めて仕事でウィーンにも行きました。
当時のイタリアでは徴兵義務があったんですが、“僕には6ヶ月のコントラクトがあるんだ!兵役に出てたら契約不履行になってしまう!”と訴えて、徴兵免除にしてもらいました。
僕が前例を作ったせいで、その後、徴兵を免除された若者も少なくないと思います。
同じ18の時、仕事で一緒になったメキシコ人のテノールが素晴らしい歌い手で、またギターも上手なものだから(注:セヴィリヤの理髪師か?)
“こんな歌手には適わないな、、。”と当時思ったものですが、今では彼の名前を聞くことはなくなり、
逆に自分はこうして劇場で活動できる場を与えられているからわからないものです。
彼のように実力があっても、ちょっとしたことでキャリアにつながらない例はたくさんあるのだと思います。
だから僕のモットーは、とにかく自分の出来ることだけにフォーカスすること。
“Help yourself and Gold will help you. 天は自らを助く者を助く。”です。
FPD: あなたはオペラの舞台以外の活動にも熱心ですね。ポップスのアルバム、『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』
(過去・現在からのタレント、スポーツ選手、リアリティ番組の出演者などが、プロのダンサーの特訓を受けてダンスの出来を競うアメリカのテレビ番組。)の出演など、、。
VG:今の世界に欠けているもの、それはコミュニケーションです。
きちんと顔を合わせて相対で話したり、きちんとした文章を手で書くことはおろか、
Eメールやテキストでお手軽なメッセージを交わして、さらにそれだけでは飽き足らず、4とかUとかXみたいな文字を使う始末。
(注:発音が同じでかつタイプする数が少なくてすむので、しばしば、4はfor, uはyouの代わりに使われ、またxはキスを、○はハグを意味する。this is 4 u xoxox みたいな感じ。)
最初の頃なんか、“4? U? X? それってどういう意味??”と聞き返さなきゃいけなくて、
そんな質問やそれに対する答えを書いている暇があったら、for, you, kissってちゃんと綴った方が早いのに!という(笑)
僕が音楽をやっている理由はコミュニケーションです。
お金や名声だけが欲しいなら、他の職業についていたでしょう。
僕はチケットを売るためやCDを売るために歌っているんじゃない。
オペラとか音楽は普通の商売と違って形のあるものを売るわけではない。
音楽という、空気の中にしか存在しない、見えないもの、形のないもの、それで観客とコミュニケーションすること、これが僕の目指していることです。
『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』に出演したのもコミュニケーションの一貫で、
これでオペラやクラシック音楽に興味を持つ層を少しでも増やすことが出来るなら、、、という希望からです。
オペラというのは一部の人にとってはとっつきにくいものです。
なぜなら、言葉が、イタリア語の段階でも、すでに昔の言葉だからです。
今の世界、日常生活の中で辛い気持ちを表現するのに、“私のはらわたはねじれ、煮えくり返る。”みたいな表現をする人はいないでしょう。
しかし、この昔の言葉を理解し、きちんと消化して、歌唱にのせることはオペラ歌手として非常に大事なことです。
僕はラテン語、ギリシャ語、そして古いイタリア語をきちんと勉強して来ました。
だから、オペラハウスの訳が、きちんと全ての言葉を訳出していない時、僕は不満だし腹立たしく感じます。
:あら?メトの新しい『リゴレット』の字幕システム訳を見たら、グリゴーロ君、卒倒するんじゃないかな、、。
VG: でも、こういった古いイタリア語で歌われるオペラという作品を20代の“4 U XXX”世代(笑)相手に伝えていかなければならない現実もあるのです。
あ、あそこにピアノがありますね!
(と今度は部屋に設置されているピアノを目ざとく見つけ、そちらに駆け寄って行く。)
この曲、皆さんご存知ですよね?
(と、ベートーベンの『月光』を弾き始め、やがて各フレーズにインプロビゼーションによって重ねたボーカルの旋律を口ずさむ。)
ベートーベンと同世代の聴衆がこの曲を聴いた時は当然古びたクラシック音楽としてではなく、
今のポップスやラップを聴くような、“かっこいいじゃん!”という反応で捕らえたはずだと思います。
一時期はこれに声楽のパートのアレンジをつけた曲を作ろうかな、と思っていたんですよ。
それをJay-Zか誰かが歌ってくれたら、“何、この曲、誰の曲?○○?
(多分、最近のラッパーかなんかの名前だと思うのですが、今のラップの世界には大変疎いMadokakipなので聞き取れませんでした。)
え?何?ベートーベンって人の曲なの。ふーん!“ってことになるんじゃないかな、と思うんだ。
:水を指すわけではありませんが、しかし、これに似た事は少し前にアリシア・キーズが実行してますよね、、。



(ここから、この月光の話が続いているのか、他の自作の曲の話に移っているのか、話が良くわからなくなって来たのですが、)
VG: それを披露している様子がYouTubeで今でも上がっていると思うんだけど、その後、立ち消えになってしまって、、
でも、事が起こらない時は、何かそうなってしまった星回り、理由があるんだろうと考えて、あまり深く落ち込んだりはしません。
その時その時を大事にしたいな、と思います。
映画『カンフー・パンダ』の台詞にある通り、
“Yesterday is history, tomorrow is a mystery but today is a gift and that’s why it is called the “present.”
:直訳すると、昨日はヒストリー、明日はミステリー、でも今日という日はギフトだ。
だからそれはプレゼント(“今”という意味と“贈り物”という意味のダブルミーニング)と呼ばれるのだ。“なんですが、
和訳する人にとっては本当にいやな感じの英語だと思います。
映画が日本で公開された時の訳はちなみに、「昨日とは過去のもの。明日とは未知のもの。今日の日は儲けもの。それは天の贈り物」となっているみたいです。)
FPD: あなたはオペラ以外にポップスを歌っていた時期もありましたね。
VG: 3年ほどそういうことをやってみたのですが、今の時代は、ポップスを歌う歌手でいる方が(オペラの)テノールをやってるより大変だ、ということがわかって、
これからはオペラにフォーカスを置きたいと思ってます。
ポップスの歌手は、とにかくトーク、トーク、トークで、朝の6時ごろからプロモーション活動をしなければならない時もあるんだよ。
声帯って体の中で、もっとも最後に目が覚める器官だ、って知ってます?
最近ではアデル(注:イギリスのノン・オペラ歌手)の例もありますが、そんな状態で、
レコードだけならともかくライブで何度も何度も自分の声域をプッシュするような歌唱を繰り広げていたら、喉を潰してしまいます。
なので、最近気をつけていることは、適切なレパートリーを歌うこと、
色んなことに手を出すのは構わないが、何事も程度を知ってやること、というのを心がけています。
適切なレパートリーというのは、すなわち、自分に合ったテッシトゥーラ(その作品の中で主にカバーされている・中心になる音域)か、ということです。
以前、ブッセートでゼッフィレッリ演出の『椿姫』に出演しないか、との打診がありました。
話を受けるつもりで準備を始めたのですが、もうスコアの2ページ分を歌った程度で、先生と“これではとても作品全部を歌いきることは出来ないね。”という結論になって、お断りしました。
結局何年後かに、ローマで初めてゲオルギューのヴィオレッタを相手にこの役を歌うことになり、この時もゼッフィレッリの演出でしたが、
これとて、もともとは僕が歌う予定だったわけではなく、
一番最初に予定されていたアラーニャがキャンセルになり、その次に別のテノールがキャンセルになって、その結果回って来た公演でした。
keyakiさんのサイトによると、これは2007年のことで、“別のテノール”とはフィリアノーティのことのようです。)
ドン・カルロも歌ったことがありますが、僕は元々アリアがない作品があまり好きでないし、、いずれにせよカルロにはまだ準備が出来ていなかったと思っています。
こういう自分にとって重めの役を歌ってしまうと、声の重心が下がってしまって、軽いレパートリーに戻れなくなるのが問題です。
実際、ドン・カルロを歌ってから、『愛の妙薬』に戻れなくなってしまいました。
こうやってマスケラを使って歌うわけですが、この違いがわかるかと思います。
(と早速、重めのレパートリーの時の重心と軽めのレパートリーの時の違いを音を使って実演。)
『ホフマン物語』は作品が長いのが大変だけど、自分に合っていると思います。
(誰かが『ルチア』は?と声をかけると)
イエス!ルチアは大好きです。
フランスやスカラでも歌いますが、メトでも歌いたい!!!
FPD: 現在メトで出演中の『リゴレット』について少しお話を伺わせてください。
前半の公演はHDで上映もされて、映像が存在するわけですが、その映像はご覧になってますか?
VG:いえ、見てません。ディスクは頂きましたが、リゴレットはすでに自分のレパートリーだし、自分が歌っている内容と食い違う動きは僕は絶対にしません。
だから、事前に、ゲルブ支配人には、申し訳ないが、自分は自分のリゴレットをやる、(Aキャストの)ベチャワと同じ風には出来ませんよ、とお伝えしました。
『マノン』についてもそのようにお話しました。
:と、唐突に『マノン』の話が出て来たのですが、そうすると、この先、メトで『マノン』を歌う予定があるのかな、、?
VG: 新演出をかける時、その場での成功も大事ですが、同時に長い視点で、
そのプロダクションがお客さんを継続的に呼べるような公演にしていかなければなりません。
ラス・ベガスのリゴレット、という今回の設定については、最初、僕はかなり懐疑的でした。
しかし、演出家のマイク・メイヤーと話して、彼が非常に細かいディテールに気を配っていることがわかりました。
これはいい兆候だな、これだったら大丈夫かも、と思いました。なぜなら、小さいことが全体を作るからです。
彼は今回のマントヴァ公をシナトラのイメージと重ね合わせてるらしいですが、
シナトラのマイクロフォンの扱い方はほとんどダンスみたいで格好いいな、、と思います。
(ここまでは、時々鉄仮面の表情をのぞいてモーションをかけつつも、
いつもの無表情を変えず、淡々とインタビューをすすめる鉄仮面のペースに合わせて比較的大人しくしていたグリゴーロだが、
我慢が限界に達したか、この辺りから異様にエンジンがかかり始める、、。)
だから、今回は目一杯、マイクの扱い方を工夫してみたんだ。
(おもむろに立ち上がり、シナトラの真似をしながらエア・マイク〜物理的には存在しない架空のマイク〜を華麗に扱い歌って見せる。
そして、立ち上がったまま)
でもね、僕自身はシナトラよりも、エルヴィスのイメージに近いかな、って思ってるんだよ。
(と、今度はのりのりの様子でエルヴィスの物真似に入る。手を振り回し、かかとをあげながら片膝をついて大熱演!オーディエンス爆笑。)
でね、エルヴィスはここのかかとのところが、上がったり、下がったりするんだよね。
(観察が細かーい!!ますます大のりでかかとを上げたり下げたりして大フィーバーのグリゴーロ。)
わかんないよ〜ん、これ、みんなが(リゴレットの)最後の公演に来てくれたらやっちゃうかも!!
FPD: それに公爵がポール・ダンシングをするシーンもありますよね。
VG: そうそう!メトのスタッフにポール・ダンシングがありますよ、と言われたときは、あっち(ストリップ・クラブ系)のポール・ダンシングかな、と思って
(といいながら、間勘平ちゃんの“かいーの”のように股間を何度かポールに上下にすりつけるダンスの演技を実演するグリゴーロ)
“イエイ!”と思ったら、
“そうじゃなくて、フレッド・アステアとかジーン・ケリーのイメージでお願いします。”とか言われてさあ(笑)、
こんな感じの、、(映画“雨に歌えば”でジーン・ケリーが街灯のポールにつかまって踊る時のような雰囲気の演技で、
さっきの勘平ちゃんダンスとは対照的な、しなやかな手の動き、うっとりした顔の表情を作る。
さっきの勘平ちゃんダンスといい、これといい、あまりのことにオーディエンス、大・大・大爆笑)
えー、そんな気取ったのやだよーって言ったんだよ。
FPD: (最初の勘平ちゃんダンスがまだ頭から離れないのか真っ赤になりながら)
いや、私、ちょっと赤面してしまいました、って言っていいですか。
:オーディエンス、再び爆笑。やっとこの無表情な仮面を動揺させられたぜ!と得意満面の表情のグリゴーロ君。
いや、こんなに慌てている鉄仮面、私は初めて見ました。グッド・ジョブ、グリゴーロ君!!
ちなみに、肝心のメトの実演では、ポールの上の方に飛び乗って、くるくるくる、、と回りながら降りてくる、という、
この二つのどちらでもない演技になってます。
FPD: (なんとか気を取り直そうとするかのように)今まで歌った中で印象に残っている役は何ですか?
VG:『コジ・ファン・トゥッテ』かな?
FPD: 『コジ』?!あなたのレパートリーのイメージですらないのですが、、本当に歌っていて心地良いレパートリーですか?
VG: うん、過去に歌ったことがあります。7回予定されていた公演を7回とも歌って、それでも声が全く疲れなくて公演前と同じだった。
あんな経験をしたのはあの時の『コジ』一回きりです。
それから『ウェスト・サイド・ストーリー』のトニー!
スカラがかけた公演なんだけど、スカラのような劇場が、あの作品をオペラだと認知した事実がエキサイティングだな、と思いました。
日本ツアーもあって、東京、名古屋、大阪といった街で歌うことも出来ましたし、、。
それからバレエのレッスンがあって、これがまた楽しくて、、(笑)
プリエ、トンデュ、、、(と言いながら、またまたダンスの演技)、、ああいうの、僕、大好きなんだ!
ダンサーの子と友達になったりしてね、、(と嬉しそうなグリゴーロ)
その後、レコーディングもありました。
一番苦労したのはアクセントかな。アメリカ人っぽいアクセントにしなきゃいけないのに、
僕がやるとどうしても、“リトル・イタリーのトニー”っぽくなっちゃって、、(笑)。
FPD: 今後のことを教えてください。
VG: 椅子にただ座っているだけじゃなくて、外に出よう!という冒険的な姿勢を持っていたいな、と思います。
さっきのコミュニケーションの話にまた戻りますが、30年位前まではイタリアでも、○○に行きたいんだけど、、というと、
見知らぬ人でも、“じゃ、このヴェスパの後ろに乗れよ!”という感じでした。
ところが、今は、、問題に関わらないこと、それが一番だ、という風潮になっている。なぜなら、この世の中には山のように問題が溢れているから。
それから、友達との付き合い方!
FacebookやTwitterとか、なんだか細かい日常生活の垂れ流しになっていて、
みんな、あまりにたくさんの“大して重要でない友達”との表面的な付き合いにエネルギーを費してないかな?
:もう、激しく同意!です。私も全く同じ理由で数年前にソーシャル・ネットワーク系のサイトはぜーんぶやめてしまいましたし、
NYでソーシャル・ネットワーク系のサイトから距離を置く人が増加して来ている、という記事を先日新聞でも読みました。
だから、グリゴーロ君と同じ考えの人、意外と数いると思います。
VG: 音楽関連では、2013年10月にアヴェ・マリアのCDを出します。聖歌隊で歌われる曲に手直しをしたものなど、16曲を含む予定です。
FPD: では皆様からの質問の時間に入りましょう。
質問者1:チューリッヒの『椿姫』はどのような経験でしたか?(注:中央駅の中で行われた生演奏で、DVD化もされた)
VG: 三言で言うと、cool, cold, credibleかな。
オケも生演奏だったんだけど、音はイヤフォンを通して入ってくるので、そういうテクノロジーとの兼ね合いの面でも面白い実験だな、と思いました。
ただ、気が散る部分もあったのは事実かな。
駅の活動を全部止めるわけにはいかないから、Libiamo~って歌い始めた途端、
(駅のアナウンスをドイツ語の発音を強調して真似ながら、、で、この真似がまた面白い!)
“X番ホームから○○駅行きが発車します”なんていうすごい音声が重なって来たりして、
“そりゃむこうはマイク使ってんだから、声量では負けるに決まってるじゃないか!”という(笑)
質問者2:今後、CDやDVDの予定は?また、今後歌ってみたいレパートリーは?
VG: ソロのリサイタル・コンサートのDVDを発売したいな、と思ってます。
オペラのアリアももちろんだけど、ナポリ民謡とか、軽いものも入れたいな。
:あら?これはもしかして、来シーズンにメトで予定されているコンサートを映像化するつもりかな?
VG:でも、あまり先のことは考えず、今、目の前にあることにフォーカスして行きたいな、と思ってます。
レパートリーは『ウェルテル』かな。今まで歌って来たフランス系のレパートリーを極めるという意味でも、、。
ホフマン、マノン、ファウスト、、
(とそこで止ったグリゴーロに変わって、オーディエンスの一人が、ロメオ!と声をかける!)
あ!そうだ!ロメオこそ、僕の(得意な)役じゃないか!!
それを言えば、フランス・オペラのアリアのアルバムも企画してるんだ。それからコンサート、そんなところだね。
質問者3:今、若い人がオペラ歌手になりたい、と言ったら賛成しますか?
VG:(しばらく考えこんだ後)うん、します。でも、同時に時間は貴重だから、無駄にしないで、とも言いたい。
それから、批評。
僕は批評というものがあまり好きじゃないんです、、批評じゃなくて、レポートならいいんですけれど。
この間も僕の歌唱に対して、批評家で“あまり美しい声ではないが、、”という一文を書いた人がいて、
それは主観的な、個人のテイストの問題じゃないか!と言いたくなりました。
音をクラックした、とか、音程が甘いとか、歌唱技術の問題ならば、批判も受け、その部分を改善しようと努めることも出来ますが、自分の声は変えられません。
今の僕はそこそこ経験もあるし、年齢も経ているのでそんなことを言われても大丈夫になりましたが、
こういった種類の批判が駆け出しの歌手にとってどれほどの打撃になるか、それも考えて欲しいと思います。
オペラはオリンピックじゃないんですから。
質問者4:さっきホワイト・ボードに書こうとしたことは何ですか?
VG:おお!そうでした!
(といって、今度はひな壇の近くにあるホワイト・ボードに絵を描き始める)



(この絵はグリゴーロ君の直筆ではなく、彼が書いたものを私がノートに模写したものです。)

下の方にある○が横隔膜、首のところにある波線、ここらあたりに粘液があります。
ここには適度な湿り気が必要で、乾き過ぎると良い音が出ません。
舞台裏で僕に会うと、濡れタオルで口を押さえていることが多いのはそのためです。
僕は公演中、氷入りのコークを飲むことが多いです。
コークは余分な粘液を落としてくれる効果があり、氷は炎症をおさえます。
これを言うと、同僚の多くが、びっくりして“熱いお茶の方がいいんじゃない?”というのですが、
スポーツ選手が足などを怪我した時、そこに熱いお茶を当てたりしますか?
みんな、氷を当てるでしょう?それと同じこと。氷は自然の炎症防止・抑制剤です。
音はそのまま真っ直ぐ上に上がって、上の方の○の部分、いわゆるマスケラ、マスクと言われる部分ですが、
ここに到達します。
マスケラは言ってみれば、スピーカーのような役割をします。
バリトンやバスは90度の角度に近いところ(Bとマークしたところ)から音が出ているような感じがすることが多いですが、
テノールはもう少し上に向いた角度が中心です。
では、口を閉じたままで、音を出してみてください。手を当ててみると唇がぶるぶるっとしているのがわかりますよね。
(オーディエンス全員、グリゴーロ君の言うがままに唇をぶるぶるする。)
そこから口を少し開けてみましょう。音の位置が変わったのがわかりますか?音程を変えていくと、また位置が変わります。
オペラ歌手はこれを千本ノックのような感じで何度も何度も出しこなすことで、どういう音がどの位置で出るのか、というのを学習していきます。
発声の理想は赤ちゃんです。
赤ん坊の泣き声というのは、ものすごく遠くまで聴こえ、かつ延々と疲れなしで泣き続けることが出来ます。
赤ん坊は誰もがクリーンなマスクを持って生まれて来ます。
オペラ歌手の発声練習は、この赤ちゃんの頃のマスクに出来るだけ近づくよう、マスクの再クリーニングを行うプロセスに他なりません。
この図でも判るとおり、音は自分の顔の前、頭のてっぺんから喉の部分までの180度にまたがって伝わっていく。
つまり、音のプロジェクションとは顔の前で発生する、ということも忘れてはいけません。
よって、音が出てお客さんの耳に届くものが生まれた時には、もう自分の体を離れています。
だから、自分の体の中にあるものを聴こうとするのは無意味です。
オケとの音合わせなどで、良く自分の声を聴こうと耳を押さえて歌っている歌手を見ますが、あれは僕に言わせればブルシットです。
(bullshitという言葉は馬鹿げた出鱈目ごと、という意味で使われるのですが、
あまり綺麗な言葉ではなく、かつ若干滑稽なニュアンスが加わるので、ここでもオーディエンスから笑いが出る。
鉄仮面も笑ってるかな、とグリゴーロ君が見やった先に、相変わらず無表情な鉄仮面!
グリゴーロ君の表情が、“こんなに頑張ってるのに、まじで笑ってねーよ、、。”と一瞬ひるんだ瞬間でした。)
:大丈夫、グリゴーロ君。この人は私もずっと観察して来ましたが、常にこういう人なんですよ。
伊達に私が“鉄仮面”の称号を献呈したわけではありません。今日は彼を赤面させただけでも大勝利!です。

それにしても、彼は話すよりも歌う方がコミュニケーションしやすい、なんて言ってますが、
話術も巧みで、ユーモアのセンスもあるし、声の出る仕組みを説明する時の話しぶりも理路整然としていて、
仮にオペラ歌手になっていなくても、何ででも身を立てていけるようなタフさを感じます。面白い個性の人ですね。
コメント (35)
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OTELLO (Wed, Mar 27, 2013)

2013-03-27 | メトロポリタン・オペラ
Aキャストではボータの不調とそれに伴う代役選びでひやひやさせられた『オテロ』
(初日&二日目の公演についてはこちら。またHDの公演についてはこちら)。
あれから約五ヶ月を経て、Bキャストでの上演が始まってます。

一時期はオテロ役におけるドミンゴの後継者ではないか?とまで言われていた記憶のあるクーラ。
私も映像や音源で彼の『オテロ』を拝見・拝聴したことはありますが、意外にもメトでこの役を彼が歌うのは今シーズンが初。
というわけで、彼のオテロを生で鑑賞するのは私もこれが初めて。
それからデズデーモナ役には私の好きなソプラノの一人であるストヤノーヴァが、
そして、2011年のメトの日本公演(『ルチア』)でカンパニー・デビューを果たしているアレクセイ・ドルゴフが今回カッシオ役でいよいよ実際にNYで舞台に立つとあってこちらも楽しみです。
ところがこういう時に必ず水を差す人がいるもので、さて、チケットを購入しようかな、と、メトのサイトでイアーゴ役のキャスティングを見て口から茶を吹きそうになりました。
トーマス・ハンプソン、、、。
私はいくつかの理由から彼のことが元々かなり苦手なのですが、昨シーズンの『マクベス』は、彼の歌唱とナディア・ミヒャエルの夫人役とが相まって、
今でも思い出したくない悪夢のような公演で、あれ以来、彼のヴェルディは絶対に避けねば!と強く心に刻んでいるのです。
すると、おや?3/27の公演だけ、イアーゴ役がマルコ・ヴラトーニャというイタリア人バリトンになっているではありませんか。しかもこれがメト・デビュー。
普段はランの一日だけ違うキャスト、特にそれがメト・デビュー、という場合はYouTubeでそれなりにその歌手のことをリサーチしてからチケットを購入するのですが、今回は全然ノー・チェック。
ハンプソンでなければ誰だっていいわ、もう!です。


(今日の公演でイアーゴ役を歌ったヴラトーニャを含む舞台写真は残念ながら存在しないので、この写真ではハンプソンがイアーゴです。)

今回、たまたまグランド・ティアの舞台から二番目に近いボックスの前列に一席空きがあったのでそれを抑えました。
Aキャストの指揮はビシュコフでしたが、Bキャストはアルティノグル。
この人は忘れもしない、以前『カルメン』でカウフマンへの視界をブロックされ、後ろから首を絞めてやりたい思いに何度もかられたフランス人指揮者です。
しかし、彼はそのような直接の害がなければ、遠くで見てる分には穏やかで人の良さそうな感じの人で、
むしろ、こんな羊みたいな人に『オテロ』の指揮が務まるんだろうか、、とにこにこしながら観客に挨拶している彼を見て心配になって来ました。
あの『カルメン』の時も、悪くはないけれど、かといって特別なことも何もしない指揮者、、という印象でしたし。

ところが、冒頭、オケがどかーん!とあの嵐を描写する音楽を奏で始める時、このモシンスキーの演出では雷光がばちばちっ!と舞台に走るのですが、
オケの演奏の音圧と相俟ってすごい迫力で、私などは座席から一センチ位お尻が浮きそうになりました。
最初はこの迫力は舞台に近い座席に座っているからなのかな、、、?と思ったのですが、オテロ役のクーラが歌い始める前までの数分の演奏を聴いて確信しました。
今日はオケが超ONだーっ!!!ハレルヤ!!!!

『オテロ』はメト・オケが演奏しなれた演目の1つだと言ってよいと思いますが、それゆえにアルティノグルの“何もしない作戦”“勝手にオケに演奏させる作戦”が功を奏しています。
Aキャストの時のビシュコフは自分なりの演奏をしようとしていて、その意欲は高く評価しますが、
リハーサルの時間が足りなかったのか、彼の意図が今ひとつ上手くオケに伝わっていなかったのか、
特に初日なんか、オケが演奏したい方向と指揮者が目指している方向が微妙に噛み合っていない感覚がありましたが、
今日はもうオケがのびのびと自分たちのやりたいように演奏していて、しかし、緊張感は損なわれておらず、情感豊かな演奏で、
私は指揮者が自分のやりたい方法にがっちりはめようとする演奏よりは、オケの自発性を感じる演奏の方を好む傾向にあるという自覚が前々からあるのですが、今日の演奏でそれを激しく再確認した次第です。

難破しそうな自国の船、そしてそれを飲み込まんとする海を見つめて言葉を交わす合唱やソリストの掛け合いからもう手に汗握る迫力でドキドキしてきました。
嵐を乗り越えた船に人々が歌います。
“All’approdo! Allo sbarco! 着岸したぞ!船を降りたぞ!”
“Evviva! Evviva! 万歳!万歳!”
そして、いよいよオテロ役のクーラが歌い始めます。どきどき。
“Esultate! L’orgoglio musulmano sepolto è in mar; nostra e del cielo è gloria! Dopo l’armi lo vinse l’uragano.
喜べ! 傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。栄光は我らと神のものだ!奴らは敗戦の後に嵐で殲滅した。“

、、、、、、、。

クーラももう50歳、このEsultateの部分を楽々と歌える時期はとっくに過ぎたと見え、歌が走る走る!
言葉の間に十分な間がなく、慌しく畳み掛けるような歌い方で、
“この部分はとっとと終わらせちまいたいぜ!”というのがありありと感じられる歌唱でした。
しかも、ただ早いだけでなく、それぞれの音の長さの正確さや音程もかなり微妙な感じで、
正直、この部分の歌唱が終わった時点では、私の頭の中で“今日のオテロ、もしかしてやばい??”という声がエコーしてました。

ただし、クーラの声の音圧と重量感、これはすごい。まじでバズーカ砲みたいな音です。
Aキャストのボータやアモノフのオテロの記憶なんて、この声の音圧で軽く吹き飛んだ、って感じです。
いや、それを言ったらムーティ指揮のシカゴ響がカーネギー・ホールで演奏会形式で演奏した『オテロ』(感想はまだあげてません。)でタイトル・ロールを歌ったアントネンコも、
その時は割りとロブストな声をしてるな、と思いましたが、今日のクーラと比べたらまだ可愛いもの。
他の歌手との比較だけでなく、クーラ自身がメトで過去に歌った他役と比べても、ここまでの音圧を感じたことがないので、何か役との相乗効果がなせる技なのかもしれないな、と思います。

Esultate!の部分でかなり不安にさせられたクーラでしたが、ストヤノヴァが登場してからの二重唱(“もう夜も更けた Già nella notte densa”)あたりから歌唱が安定して来て、その後はもう!!

以前にもどこかの記事で書いたと思うのですが、クーラという歌手にはどこか得体の知れないところがあって、良い時と悪い時の差があまりに激しいので、
私のヘッド友達にも彼が良い歌手かそうでないのか、今ひとつ判断しかねる、、と言っている人がいるんですが、
私も彼を初めて生で聴いて以来、2008/9年シーズンの『道化師』を聴いてこんなに力のある歌手だったのか?とびっくりするまでの10年近く、あまり高く評価してませんでした。
というのは、彼の歌は往々にして力任せになりがちで、それがドラマと噛み合わないと共演者をそっちのけで単に歌が暴走しているだけ、という印象を与えましたし、
時には歌そのものの乱暴さが程度を越して、正確性の点でこちらの許容度を越えるような公演もあったからです。

しかし、今日の公演はその情熱が単なる力任せにならず、見事に演技と噛み合っている。
歌も単なる乱暴の烙印を貼られるぎりぎり手前のところを走っていてそのスリリングなこと!!
単にカッシオがデズデーモナにオテロとの取りなしを頼んでいるに過ぎない、
その様子をイアーゴが利用して段々とオテロの胸の中に彼らが不倫を働いているのではないか?との不安を広めて行く場面での、
オテロの感情が刻々と変化して行く様子も実に描写が細かくタイミングが的確で、DVD化もされているリセウの2006年の公演(ストヤノーヴァとはこの時も共演してますね。)と比べても
一層解釈が深まっている感じで、これはオテロという役の解釈の1つのあり方として最高のレベルに達していると感じられるものになっています。

また彼は『道化師』の時もそうでしたが、役が正気を失う手前の、神経が極度に過敏になってぴりぴりしている時の歌唱・演技表現が非常に巧みで、
今回のオテロに関しても、イアーゴやデズデーモナに対する当り散らし方もかなり怖いですが、
それ以上に、自分の感情をコントロールできない自分自身への怒り、その表現が本当に素晴らしいと思います。

それから、力を出さないことによってかえってどれほど潜在的にすごい力を持っているか、ということを演技で表現しているのも上手いなあ、と思います。
先に書いたイアーゴが段々とオテロの胸中に疑惑の種を蒔くシーンではイアーゴの喉元を片手で摑んでそのまま机に投げ飛ばしていましたし(ヴラトーニャもハンプソンも決して小柄ではないのに!)、
また、オテロがデズデーモナを殺す場面はせつなくて、オテロが彼女の息が絶える姿を正視できずに、
彼女がいるのとは逆側の自分の肩を向き、その肩に顔を押し付けて泣き声を抑えながら、もう一方の片手だけで彼女の首を絞め上げて殺してしまうのですが、
この場面ではその微かな泣き声も歌唱の一部になってしまっていて、胸を衝かれました。



この『オテロ』の公演の前の週に、私はワシントンDCにオペラ旅行して来たのですが、
日中、スミソニアン国立動物園に立ち寄っている時、ライオンがかなりの長時間に渡って吠えている現場に行き当たりました。
あまりに強烈な吠え声なので、仲間同士で殺し合いでも始まっているのか?とびっくりしましたが、
何匹かいるうちの一頭だけが普通に遠くを見ながら吠えているだけで、ライオンって単独でもこんなにすごい声を出すのか、、とびっくりした次第です。
ものすごい広範囲の半径にわたって空気が震撼しているのが感じられるのです。
まさにこれこそ、録音には絶対に入らない種類の迫力声!
ライオンがオペラ歌手になったら、オペラハウスでは大人気なのに、録音ではいまいち良さがわからん、、とか言われて、
損するタイプの歌手になるんだろうなあ、、などととめどもないことを考えていたのですが、
今日舞台をのし歩いているクーラの姿とバズーカ砲のような声はまさに野放しになったライオンそのもの!
下手したら次の瞬間にも誰かの頭を食いちぎりそうな緊張感が常にあります。
と同時に、ボータやアモノフのオテロに決定的に欠けているのはこの感覚なんだ!と思いました。
ボータやアモノフはクーラに比べると声も佇まいも本当おっとりしていて、獅子というより象みたい。

第三幕では実際にテキストの中にオテロを指してLeon/Leone(獅子)という言葉が登場しますが、
ボータやアモノフみたいなオテロだと、この言葉が単なる強者を表す比喩の意味で使われているようにしか感じられません。
クーラのような演じ方をしてこそ、イアーゴが失神して倒れたオテロに向かって吐く“Ecco il Leone! これが獅子だとよ!”という言葉が何倍も生きて来ると思うのです。

この“Ecco il Leone!”の前に、“Chi può vietar che questa fronte io prema col mio tallone? こいつの頭を俺のかかとで踏みつけるのを誰が妨げられるか?”というイアーゴの言葉があるので、
私がこれまでに見たメトのモシンスキー演出の公演では、“Ecco il Leone!“の言葉に合わせてイアーゴ役のバリトンが
(さすがに頭を踏みつけるのは抵抗があるため)床に倒れたオテロ役のテノールの胸の辺りに足をのせて踏みにじるような動作をする、というパターンが多いのですが、
クーラのオテロ役が迫力あり過ぎで、あまりに怖かったんでしょう、
イアーゴ役のヴラトーニャが頭どころか胸の上ですら足を置くことをためらって、空中に足を浮かせたまま片足立ちになって“Ecco il Leone!”と歌っていたのはちょっと間抜けでおかしかったです。
この期に及んでオテロに遠慮するイアーゴ、、。
確かにかかとがクーラの胸に触れた瞬間、“てめえ!何まじで足のせてんだよ!”とか言いながら
いきなり立ち上がって殴りかかって来そうな感じがありますからね、、、ま、気持ちはわからなくはないです。

考えてみれば、その予兆はニ幕に既にあったのでした。
ニ幕の最後のオテロとイアーゴの二重唱(“そう、大理石のような空にかけて誓う Sì, pel ciel marmoreal giuro!”)は
アルティノグルが良い感じで野放しにして爆発したオケとクーラの歌声がまさに丁々発止という感じで盛り上がって行って、
ヴラトーニャもそれに引きずられ健闘、、、と、最近のオペラの公演ではだんだん体験することが少なくなって来た、良い意味での爆音合戦になりました。
なんだか最近では歌手の声のパワーを賞賛すると“繊細な耳を持っていない。”という風にとらえられてしまったり、
中には“デカ声は嫌。”とか“声がでかいだけ”といった意見など、パワフルな歌声がネガティブな意味でとらえられることも少なくないように思うのですが、
そういった方たちは優れたデカ声というのを本当に聴いたことがあるのかな?と思います。
クオリティの低いデカ声ばかり聴いて“声の大きいのは駄目”と即決するのはちょっともったいない。質の高いデカ声にはやっぱりそれ特有の魅力があると私は思います。
アンチ大声派が増えて来ているとしたら、それはクオリティの高いパワフルな歌唱を出せる歌手が今オペラの世界からものすごい勢いで消滅している、
というか、もうほとんどいない、、という、それも原因の一つだと思います。
それゆえに今日のクーラのような歌唱は貴重。Viva, でか声!
こういう声を聴いてしまうと、少なくともこれからしばらくはこの路線で『オテロ』を歌えるテノールはいないな、、と思えて、それはそれですごく寂しい。

で、クーラ自身もこの二重唱は会心の出来だったのでしょう、もうかなりのアドレナリン・ラッシュ状態になっていて、
幕が降りてインターミッション前の舞台挨拶にヴラトーニャと二人で登場した際、
“やったな!”という感じでぼかっ!とヴラトーニャの胸を殴りつけていて、本人はメト・デビューの後輩を労わっているつもりなんでしょうけど、
いたわっているというよりは、いたぶっている、という表現の方がぴったり来る感じ、、。
ヴラトーニャの顔に喜びと恐怖の入り混じった表情が走るのを私は見逃しませんでした。



先述したリセウ劇場の2006年の公演でもクーラと共演していたストヤノヴァ。
そのせいもあってか二人の間の信頼感を今日の公演の端々から感じました。
全幕終わってのカーテンコールでは二人ががっちりと抱き合ったまま数秒そのまま、、という場面もあって、
またクーラがストヤノヴァの肋骨の一本、二本、折るようなことになってなきゃいいけど、、とはらはらさせられましたが。
ストヤノヴァの声には独特の固さに金属的な響きが少し混じったような感じがするのが特徴かな、と思います。
(スラヴ系のハイ・パートの歌手〜テノールとソプラノ〜にその傾向を共通して感じるのは私の気のせいでしょうか?)
Aキャストのフレミングのまったりした声とはその点で対照的だと思います。
これみよがしな歌唱も、本人の個性全開の演技もないですが、いつも真摯な歌唱を聴かせてくれるので私は現役では好きなソプラノの一人です。
ただ、二、三年位前から他の劇場での歌唱の音源を聴いていても高音域でピッチが不安定になることが増えて来たように感じるところがあって、
1962年生まれだそうですので彼女もほぼ50歳(クーラと同い年くらいなんですね。)、そろそろ年齢の影響かな、、と思っていたんですが、
シカゴ響との演奏会形式の『オテロ』(2011年4月)では音を外そうものならムーティに半殺しに遭いかねないという緊張感があったからか、
完璧な音程で歌いこなしていたので、ネットの音源で聴いたと思った年齢による衰え云々も私の気のせいだったのかな、、と流してました。
しかし、ほぼ二年振りに今日の公演で彼女の歌声を聴いて、
“ああ、やっぱり年齢が段々声に現れるようになっていたんだな。”と思いました。
彼女の声にもともとちょっと固いテクスチャーと金属的な響きがあるのは先に書きましたが、年齢による歌声の変化により、今では音にものすごく角立った感触を感じるようになってしまっていて、
たった二年前の歌唱と比べても、かなり与える印象が変わって来ている程です。
特にこのデズデーモナ役は人を疑うことを知らない、というのがキャラクターの大きな要素になっていて、
リブレットには具体的な年齢設定の記述はありませんが、年の若さがそれに貢献していることはほとんど間違いなく、
とすると、年齢的にもかなり若いはずの役ですので、そのあたりの違和感を観客に感じさせずに聴かせるのは段々難しくなって来ているかな、、と思います。
デズデーモナはそろそろ封印しても良い役柄かもしれません。
彼女はもともと佇まいなんかがちょっとおばさん臭くて地味なところがあるので
(そしてそれこそが、キャリアの一番良い時期にどれだけ素晴らしい歌を聴かせても、彼女がメトではあまり重用されることがなかった原因の一つだと思っていて、
本当に嘆かわしい事態!とずっと私なんかは怒って来たのですが、、。)、
年齢を感じさせるようになるとしたら、そっち方面からだろう、とずっと思っていたのですが、
この役で、容姿や舞台上の動きよりも先に声で年齢を感じるようになってしまったのは大変意外でもあり、
こうなってしまうと、ますますメトでキャスティングされることは減って行ってしまうのかもしれないなあ、、と寂しい気持ちになります。
声の変化がここまでネガティブに影響しない役が他にあると思うので、そちらに上手くシフトして行ってくれるといいな、と思います。
もともと声の美しさそのもので勝負!というタイプの人ではなく、誠実感溢れる歌いぶりと地味ながら的確な表現力を持った人なので、
そのあたりも生かせるレパートリーを中心にしていってくれたら私は嬉しいのですが。
今日も若干ピッチが甘くなっていた箇所が二、三ありましたが、“アヴェ・マリア“のような絶対に外してはいけないところは見事にきちんと抑えていますし(最後の高音も綺麗でした)
精神力さえ緩まなければまだまだ観客の心に訴える歌を歌える歌手のはずです。

ボータ&フレミング組と全然違う味付けで面白いな、と思ったのは、オテロがデズデーモナに“A terra… e piangi! 地面に伏して、、、泣くがいい!”と言う場面。
ボータ&フレミング組はリブレットの“デズデーモナをつかまえ荒々しく”〜“デズデーモナは倒れ、エミーリアとロドヴィーコが助け起こす”のト書きに割りに忠実に演じていたのに対し、
意外にもクーラのオテロはデズデーモナの手をつかんで地べたに放り投げたりしないんです。
クーラの個性を考えたらこれは一瞬意外です。
だって、さっき、あんた、ヴラトーニャを突き飛ばしてたじゃないか!ついでにデズデーモナも放り投げたらどうなんだ?という。
しかし、“A terra… e piangi!”という言葉と共に彼が指を地面に指すと、
ストヤノヴァのデズデーモナは自らの意志でがっくりと膝まずくのです。
これによりオテロがデズデーモナに対して持っている絶対的な力を強調する一方で、
彼自身が落ちて行っている罠から自分を救い出す術は何一つ持っていないというオテロの無力さと彼がデズデーモナに対して行使している力の空しさが強調され、
ト書き通りではないのにきちんと物語に沿っていて、非常に面白い効果を上げていると思いました。



イアーゴ役のヴラトーニャははげ、、いえ、スキンヘッドの面長顔でギョロ目という、なかなか個性的なルックスで、
開演前にプレイビルの写真を見た時は期待が高まったのですが、先のエピソードでもわかる通り、強面のルックスの割りにへたれなキャラで終始クーラの迫力に押されっ放し。
声はボリュームの面でも、トーンやカラーの面でも、際立った個性がなく、歌唱はそれなりに無難にこなしていますが、
なんの面白みも彼らしさもない歌唱で、長所と言えば、ハンプソンみたいにこちらが積極的に嫌いになる個性すらないこと位でしょうか。
、、、って、あれ?これは長所なのかな?
このような歌しか歌えないとしたら、彼の家族を除いて、彼の歌を聴きたくてわざわざ劇場に行く!という物好きはいないでしょう。
クーラとでは舞台上の存在感、オーラ、個性、パワー、何から何まで違い過ぎ。
普通だったら、こんなへなちょこなイアーゴ、罵倒して、して、しまくるところですが、こんないるのかいないのかわからないようなイアーゴを抱えてすら、観客全員をほとんど一人で舞台に引きずりこんだクーラの力に押し切られてしまって、罵倒する気があまり起きないのが不思議です。
それでも、これでイアーゴがAキャストのシュトルックマンみたいな人だったらもっとすごい公演になっていたかもしれないな、、と思います。
いや、そもそもHDのオテロとデズデーモナを、ボータ&フレミングというぬるま湯コンビじゃなくて、
こちらのクーラとストヤノヴァを立てて、シュトルックマンと組み合わせていたら、これは結構見物な公演になっていたかもしれません。
また失敗しましたね、メト。

カッシオ役のドルゴフ。
この人、、、、中学生じゃないんですよね?(笑)
なんか本当初々しくて子供みたいなんですけど!!!
カッシオはちょっと色男っぽい雰囲気が欲しいので、どんぐり君みたいな彼が舞台に出て来た時は、
あれ?高校の文化祭を見に来たんだっけ?と一瞬錯覚し、そして次に、大丈夫なのかな、、とちょっぴり不安を感じました。
初めて口を開いてからの数フレーズは、声もこちらがはっとするような特別な美声ではないし、素直な発声で、歌は丁寧に歌ってるな、、と感じる以外はあまり強い個性を感じないんですが、
彼の人柄と歌を歌う楽しさと喜びを感じている様子のせいなんでしょうか、
なんだか公演がすすんで行くにつれて、好感度が増して行っている自分がいました。
一幕が始まったばかりの時は、こんな中ボーみたいな子に、“ビアンカのキスには飽きたよ。”と言われてもなあ、、と三幕に不安を感じていたのですが、
いざ、その三幕になってみると、逆にその子供のような風貌を利用して、若い男の子が無邪気にとっかえひっかえ女の子を取り替えている雰囲気で上手く乗り切ってしまっていて、
なんか、不思議な魅力を持ったテノールだと思います。
彼はシベリアの出身なんですね。“シベリアの中坊“か、、。

ただAキャストを歌ったファビアーノが余裕でリリコ、それからもしかしたらさらに一歩進んだ重い役も将来的には歌える感じのがっちりとした歌声なのに対し、
このドルゴフ君は軽めの声で、少なくとも私に見える将来の範囲ではそれが劇的に変わることはないように思うので、
しばらくはベル・カントなんかが良いのではないかな、と思うのですが、マネジメントのサイトを見ると、まあ、何かあれこれ歌ってますね。
ベル・カントに混じって見えるのは、、、ん?トスカのカヴァラドッシ?!アリアドネのバッカス!?
、、、、なんというはちゃめちゃさ、、、。いやあ、、、本当に不思議な人だわ。


José Cura (Otello)
Krassimira Stoyanova (Desdemona)
Marco Vratogna (Iago)
Alexey Dolgov (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Jennifer Johnon Cano (Emilia)
Alexander Tsymbalyuk (Lodovico)
Alexey Lavrov (A herald)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier Side Box 30 Front
LoA

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***
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PARSIFAL (Fri, Mar 8, 2013)

2013-03-08 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第七日目**

いよいよラン最後の公演。
第六日の公演を追加で見に行くことに決めた理由の一つは、目玉演目でもHDが終わってしまうとメインのキャストが一公演お休みしてしまうことが時にあって、
楽日をブッチし、そのまま故郷、もしくは次に歌うことになっているオペラハウスのある国に飛んで行ってしまう、というケースをこれまでに実際見たことがあるからだ。
だから楽日のチケットが手元にあっても、カウフマンが、パペが、マッティが、降板してしまうのではないか、、と思うと、第六日も見ておいた方がいいのではないか、、との不安にかられてしまったのだ。
しかし、このオペラヘッドの過剰な心配をよそに、結局楽日の公演はダライマンも復帰し、チーム全員揃って迎えることが出来た。実にめでたい。

そして、この日は、ランの最後を飾るにふさわしい良い公演にしたい、というキャスト全員のエネルギーが漲っていた。
それは無能な演出だったならばとことん食いちぎったる!気満々のサメのようなヘッズたちや公演評を書くために来ている批評家達のリアクションが心配な初日とか、
また下手な歌と演技を出したらそれが全世界に配信され、それどころか後世のためにソフト化までされてしまう心配のあるHDの収録日とか、
そういった外から与えられるプレッシャーとは全く逆の種類の、
作品そのもの、そして、今回の演出での共同作業を通して培われたチーム全体(キャストだけでなく演出チーム、そしてオペラハウスのスタッフ全部を含む)に対するリスペクト、愛情、責任感、
そういったものから自発的に出て来ているポジティブな緊張感で、今回の『パルシファル』を誰もが実りあるプロジェクトとして捉えているのが明らかだ。
キャスト全員がここまでのレベルの充実感を感じていることがわかるメトでのプロダクションというのは、他にあまり思い出せない。少なくともこのブログが始まってからは。
ガッティの指揮からアッシャーの指揮にシフト・チェンジをしようとするプロセスの中で全7公演中最もオケの戸惑いと凡ミスが目立ったのは残念。
特にパルシファルの頭の上で槍が止まる場面でトランペットの首席奏者が音をクラックさせたのには、座席でこけると同時に猛烈な殺意。
しかし、今日のキャストはそんなことをものともしていないのだ。
トランペットがあそこで楽器の代わりにおならをふったとしても、カウフマンはまじ顔で歌い続けるに違いない。それ位全員気合が入っているのだ。
指揮者がフィッシュに変わってから歌手の中で最も歌いにくそうにしていたのはマッティかもしれない。
とにかくアンフォルタスの歌唱パートでのフィッシュの指揮のテンポが重いのだ。いくらマッティが力のある歌手と言ってもこれは辛いだろう。
パペは良くついて行っていたが、フィッシュはなんだか男性の低声パートに思い入れがあるのか、私の感覚では度を越して音足が重くなる。
テノールやソプラノのパートに関しては全くといっていいほどそういうことがなかったので、不思議だなと思う。

三幕に入ると、惜別の情が一気に押し寄せて来た。これで本当に最後なのだ。
一ヶ月近くかけて公演の軌跡を追い、それぞれの歌手の歌唱がどのような変貌を遂げ、また演出がどのように段々とキャストの間に、そしてオーディエンスの間に馴染んで行ったか、
その過程を観察していると、言葉では上手く説明しきれないような思い入れが出来てしまう。
でも、この日の公演の三幕で聴いたものは、そんな思い入れだけのせいではなかったはずだ。
私はいわゆる”花の沃野の動機”が初出する部分から鼻水の大洪水を起こしてこの幕だけでハンカチ一枚をお釈迦にし、真後ろの座席に座っていた男性は声を出して泣き続け、
すぐ横に座っている男性はさぞこんな二人に呆れていることだろう、と思いきや、私は見逃さなかったのだ。
作品の最後の音がなり終わった後、こっそり眼鏡をはずして彼も涙を拭っているのを。
美しい弦楽器の演奏が終わるあたりからオケが暗く重い旋律を奏でるのにかけて、
地平線の向こうに槍の先、そして槍の全体、そしてボロ布にまとってほとんど倒れそうになりながら歩いて来るパルシファルの姿、が順に見えてくると、
とうとう彼が、迷いの世界を抜け出し、聖なる世界に歩み入ったのだ、という感慨で胸が一杯になる。
そして、グルネマンツが彼をパルシファルだと認知する場面の静かな感動はどうだろう。
パペのあえて抑制された歌い方の中にいまだこの奇跡を信じられない思いで見守っているグルネマンツの心情が過不足なく表現されている。
ここから彼らが聖杯の広間に向けて出発するまでの音楽は、どんな言葉で説明しても陳腐になってしまう。音楽が到達出来る最高の境地に達していると思う。
パルシファルの”これぞ、我が最初の務め。洗礼を受け、救済者を信じよ。
Mein erstes Amt verricht' ich so: -
die Taufe nimm, und glaub an den Erlöser!”という言葉と共に洗礼を授けられたクンドリの涙が、
乾いた土地に突如流れ始める水として表現されるのは先の公演の感想で書いた通りだ。

そしてこの後、パルシファルは自分の周りに広がる世界を全く違う目で見つめるようになる。
初日にこの場面を見た時は、花もなければ春らしさもなく、何だろう、、?という感じだったが、
今日のような公演を聴くと、ほんの少しだけ空気が暖かくなるのを感じる。とても細かな変化だが、これも一つの”春”の描き方だろう。
世界がどうあるのか、が問題なのではなく、私達が世界をどのように見るのか、それが大事なのだ、というのがこの演出の一つのメッセージなのではないかと思う。
その目的のためには花を咲き乱れさせたりして世界のあり方そのものを変えてしまう必要はなく、ほんの少しだけでも私達の方が変わった、その温度を感じさせるだけで十分なのかもしれないな、と思う。
そして続いてグルネマンツが歌う言葉、ここにこの作品でワーグナーが伝えたいことの全てが集約されている。
”罪を悔い改めた人々の涙がこの日聖なる露となって野や畑を潤し、これほど豊かな命を育んだのです。
救い主の御跡を慕う生きとし生けるものは喜びをかみしめ祈りを捧げようとしています。
十字架の救い主をじかに見ることのかなわぬ彼らは救いに与かった人間を仰ぎ見るのです。
罪の重荷と恐怖から解き放たれ、愛ゆえの神の犠牲によって浄福に包まれた人間を。
野の草花にもわかるのです。今日ばかりは人の足に踏みにじられることはないと。
神が広大無量の心で人間を憐れみ人間のために苦しまれたように、今日は人間も慈愛の心で草花を踏みつけぬよう、心して足を運びます。
すると地に花を咲かせ、はかなく枯れ行くものたちはこぞって感謝を捧げるのです。
罪を浄められた自然が今日こそ無垢の日を迎えたのですから。”
続くパルシファルの
”かつて笑いかけて来た花は萎れてしまった。あの者たちも、今日は救いの手を待ち焦がれているだろうか。
お前の涙も恵みの露となった。まだ泣いているのか。ごらん、野は微笑んでいる。”
カウフマンは本当に柔らかくこの部分を歌う。
耳を澄ませばきちんと聴こえる音量なのだが、まるで囁いているかのように聴こえるので、オペラハウスではついみんな耳をそばだててしまうのだ。
観客席がまるで水を打ったように静かになり、そこで最後のsieh! es lacht die Aue(ごらん、野は微笑んでいる)が一つ一つの単語を強調するように、しかし柔らかさをもって発音され、
このフレーズが終わる時にはため息が出そうになる。
カウフマンは声そのものでなく、それが出て行く劇場の空間・空気に対するコマンド力も持っている。これは良い歌手には絶対不可欠の能力だ。
またこの日の彼の歌唱で印象深かったのはラストだ。
”その泉をこれ以上ふさいではならぬ。 Nicht soll der mehr verschlossen sein:
聖杯をあらわせ!厨子を開け! enthüllet den Gral! Öffnet den Schrein!"

この最後のÖffnet den Schreinを彼はこれまでの公演ではずっと一つ一つの単語にアクセントをつけるかのように発音していた。
ガッティの指揮の時はオケの演奏もそれを意識した演奏になっていたので、おそらくガッティの意向なのではないかと思う。
しかし、この最後の公演では彼は逆にこの三つの言葉がまるでつながっているかのように一息で歌ってみせた。
私はこちらの方が好きだ。聖なる血が聖杯の光の波に流れ入る、、という少し前の部分と上手く呼応し、まるでこのフレーズ自体が永遠に続く流れを表現しているように聴こえるからだ。
それにしても、この最後の最後に及んでまだ色々な表現の可能性にチャレンジするその精神には感服する。

表現の可能性といえば、随分変化したのは”愚か者”の時期のパルシファルの演技だ。
初日のカウフマンは幼児がやるように靴の外側に体重をのせて内側を浮かせO脚みたいなポーズをとってモジモジしたりしていた。
しかし、それ以外はあまりあから様に”愚者”演技をしない。
インターミッションでその話をすると、友人のマフィアな指揮者が原作(『パルツィヴァル』のことか?私は残念ながら未読)では
この時点でのパルシファルはティーンエイジャー位の年齢設定になっている、という指摘をしていて、なるほど、、と思った。
ニ幕のクリングゾルがパルシファルの童貞を奪ってしまえばこっちのもの!という趣旨の発言をしていることからも辻褄は合う。
”愚者”というから、なんとなくあっぱらぱーな元気一杯の小僧を想像してしまうが、”どのように愚かなのか”という説明はリブレットにもどこにも書いていない。
愚かと一口に言っても、馬鹿・頭の悪さを意味することもあれば、若さゆえに世の中のしくみや体制や人の気持ちに不慣れな愚かさだってあるし、
全く何も考えていない、という愚かさもあるだろう。
興味深かったのは、公演の回数が重なれば重なるほど、一幕に関しては”何もしない”演技に近付き、極端な若さの表現すら排除するようになっていったことで、
これはある意味非常に大胆なアプローチだ。
そして、そんなパルシファルが三幕でボロ布を脱ぎ捨て、真っ白になった頭を見せる時、
我々観客はクリングゾールの魔法の城を出た後も彼がどれほど長い旅を重ねて来たか、、それを思って一層敬虔な思いになる。



今日はグランド・ティアー一列目のどセンターで鑑賞したため、歌手達がまるで自分に向かって歌ってくれているような感覚を味わい、至福の思いを味わった。
テクニカルな面ではHDの日の公演が一番内容が良かったと思うが、今日の公演はラン中で一番ハートを感じるというか、独特の魅力がある公演だった。

カーテンコールではカウフマンがガッツポーズを出していたが、この作品で無事に7公演をつとめあげるというのはやはり相当プレッシャーだったはずだ。
メトの公演でバーンアウトしたか、直後にウィーンで予定されていた『パルシファル』はキャンセルしてしまったと聞いている。
ウィーンで鑑賞する予定だった方に対しては申し訳ないが、しかし、今回の公演を連続して鑑賞するとバーンアウトする気持ちもわかる。
私もこの『パルシファル』を鑑賞した後、余韻があまりに長く大きくて、しばらく他演目の公演に行きたくなくなったし、実際、必要最小限の数しか行かなかった。
それ位、今回の公演はかかわった全ての人(そしてそれはオーディエンスも含む)を良い意味で消耗させる内容のもので、
カーテン・コールでのキャストたちの充実感あふれる表情を見れば、今回のジラールとの作業が非常に有益な体験だったと彼らが感じていることがわかる。

初日の日はブーを出す観客が何人かいて、キャストの間に”こんな演出でもブーを受けるのか?”という驚きと戸惑いの表情が走り、
歌手たちが懸命に舞台挨拶に現れたジラールを擁護する拍手を舞台上で出す、というようなこともあったが、
日を追うにつれて段々ブーが少なくなって、楽日までにはオーディエンスの大多数がこの演出を支持していることに疑いの余地がなくなった。
今日のオーディエンスにはリピーターもかなりの数含まれていたと推測するが、それはカウフマンとかパペといった個別の歌手の力だけではなく、
公演全体に、もう一度観たい!聴きたい!もっとこの作品が伝えようとしていることを深く知りたい!と感じさせる力が大きかったからだと私は思っている。
少なくとも私が当初予定していた倍の公演数を観にいくことになった理由はそれだ。

リハーサルが徹底していたからか、マイナーな失敗ですらほとんど皆無だったこのプロダクションだが、楽日に可愛らしいアクシデントがあった。
ニ幕で花の乙女が槍を前に立て歌手の後ろで立っている場面があるのだが、この槍を立てられるよう小さなスタンドのようなものが地面に埋め込まれているのだと思われる。
ところが途中で一本の槍がバランスを失って倒れてしまい、この槍担当の花の乙女(ダンサーだと思う)が懸命にスタンドの中にもう一度収めようとするも、
スタンドがやや小さすぎるからか、まるで槍が”そこに戻るのは嫌よ〜。”と言っているように、言う事を聞いてくれない。
その間、ずっと一本だけ聞かん坊の槍がぐらぐら〜と揺れ続けていて、ダンサーの方の焦りが手に取るように感じられた。
しまいには彼女が素手で槍を持ち続けるはめになってしまったのだが、こういう誰の責任でもないアクシデントというのは生の舞台ではつきものだし、
みんな舞台に引きこまれていたので、ご本人が焦っているほどにはオーディエンスは気にしていないものだ。

Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Asher Fisch
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Gr Tier A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***


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PARSIFAL (Tues, Mar 5, 2013)

2013-03-05 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第六日目**
今日もドレス・サークルの最前列。
ここから二回は指揮がアッシャー・フィッシュに交代。
しかし、この6日ははそれだけでなく、クンドリ役が病欠のダライマンに変わり、ミカエラ・マルテンスになった。
今シーズン『パルシファル』で歌手の交代があったのはこの一件のみ。
マルテンスというと、確か2007-8年とその翌シーズンのの『ランメルモールのルチア』でアリーサを歌っていたメゾではなかったか?と思ったらやはりそうだった。
ワーグナーの作品を歌えるメゾだったとは意外だが、おそらく彼女がクンドリ役のアンダースタディだったのだと思われる。
きちんと演出の意図は理解し、彼女なりに真摯に努力しているのは伝わってくるのだが、
やはり他人が歌い演技しているのを目で見て頭の中で理解するのと、実際に舞台の上の相手がいる場でそれを再現するのとでは大違いで、細かいところでぎこちなさが目立った。
一幕でグルネマンツとパルシファルが聖杯城に向かう(とはいえ、この演出では具体的な城はないので、そうリブレット上ではなっている)場面の前に、
クンドリは眠りに落ちながら草の茂みに隠れていく、ということになっている。
ダライマンは眠りに落ちる場所を出来るだけ舞台袖の近くにしておくことで、少し這えばすぐに姿を消せるようにしていたが、
マルテンスはそれよりずっと舞台の中央寄りで眠りについてしまったので、いくら這っても舞台袖に辿りつかず、そのままあきらめて舞台上でぐったりと静止してしまったので、
あの舞台転換の感動的な音楽の中をこのまま彼女はずっと舞台の上で寝て過ごすつもりなのだろうか?とびっくりしたが、
少し舞台が暗くなるのをきっかけにむっくりと立ち上がってすたすたと舞台袖に消えて行った。
うーん、それはあんまりだろう。
それからラストでは、マルテンスが聖杯をカウフマンの近くに掲げすぎたために、カウフマンが自分の持っている槍の先を聖杯に入れる動作に四苦八苦していた。
こういう作品の要の部分で気分がそがれるような事態になるのは残念だ。



ダライマンに比べると、彼女が歌いやすい範囲の声域においては、よりみずみずしくがっちりとした音色で悪くないのだが、高音域になるとその音色が失われてしまい、
本人もそれに自覚があるからか、薄氷を踏むような歌い方になってしまうのもいただけない。
クンドリはそのレベルの歌手が歌う役柄ではないし、今回のように周りを見渡せば男性陣は誰も彼もが優秀なキャスト、、という環境の中ではなおさらだ。
ダライマンだって声楽的に欠点がないわけでは決してないのだが、それなりにねじ伏せて一つのクンドリ像を作っているのに対し、マルテンスはどこか遠慮がちだ。
これだとやっぱり二人のどちらかを採れといわれればダライマンを選ぶことになってしまう。
ランの途中で指揮者が交代する場合、交代した最初の公演はまだ前の指揮者の演奏の雰囲気が残っている、というケースをこれまでにも何度か体験したことがあるが、
今回もまさにそのパターンで、いまひとつフィッシュがどういう演奏をしたいのか見えなかった。
一方でもちろんガッティの演奏を面白くしていた部分を徹底させることの出来る本人(ガッティ)はもういないわけで、これまでの演奏と同じレベルの細部への拘りや音のきらめきを維持出来ているわけではない。
指揮者のスケジュールとの兼ね合いもあるのは良くわかるが、こういうランの最後の数回だけ別の指揮者、、というのもやめてほしいな、と個人的には思う。
どんな優れた指揮者でも、『パルシファル』みたいな作品でリハーサルもなしにいきなり指揮台に立って思い通りの指揮が出来るわけがないし、こんなことは指揮者、オケ、オーディエンス、誰の得にもならないと思うのだ。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Michaela Martens replacing Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Asher Fisch
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***
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PARSIFAL (Sat Mtn, Mar 2, 2013)

2013-03-02 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

**第五日目**

HDの日。ドレス・サークルの最前列で鑑賞。
第四日の公演が若干いびつながらエキサイティングな公演だったとすれば、第五日の公演は完成度の高さと公演のエネルギーの高さのバランスが最もよく取れていた公演だったと言ってよいだろう。
個々の歌手のベストの歌唱は他の日に跨っているのだが、全公演の中で一本だけDVD化する公演を好きに選んでいい、と言われれば、全体としての完成度の高さから、この日の公演を私も選ぶことになると思う。
ランの残りの二つの公演は指揮がフィッシュに変わってしまうので、ガッティの指揮する公演はこれで最後になってしまったわけだが、
彼のためにも今日はいい演奏をしたい!という意欲がひしひしとオケから感じられた。
カウフマンの歌唱には前回のような自分でアクセルを踏みすぎているのにも気付かないような暴走(そして、私はそういう暴走が結構好きだ。)はなかったが、
最初から最後まで見事な歌唱のコントロール配分と完全にフォーカスの定まった発声(そのために他の日の歌唱と比べて声の重量感・重圧感が若干違って感じた程だ)で、
前回のように危うげな音が出てそれをきっかけにコントロールに注意を払わなければならなくなる、ということがなく、末広がりに、最後に向かうほど良くなって、
クライマックスに最も良いポイントを合わせられる、という、声楽的には理想的な展開の歌唱になっていたと思う。
HDの日には暴走型よりもやはりこのような歌唱になるのは当然だし、この長さの作品になると、どこに自分の声や歌唱の一番良いところを持っていくか、という、マラソン選手にも似た計算が重要になってくる。
ラストで舞台下手に近い客席から始まって、センター、そして舞台上手に近い客席、と順にパルシファルが指先からオーディエンスにエネルギーを送るかのような仕草をするが、
これは聖杯と聖槍が出すエネルギーを、そして、それを可能にした”共苦”というコンセプトをオーディエンスと分かち合うためにある。
だから、これは単なる”振り付け”ではない。『パルシファル』という作品のメッセージそのものであり、この一見簡単に見える動きの中からオーディエンスがそれを感じるように演技しなければならない。
オペラハウスにいた我々はそのエネルギーの波及を確かに感じ取った。
今回、感想を書くにあたって、歌唱パートの日本語訳は白水社の『ワーグナー パルジファル』(日本ワーグナー協会監修 三宅幸夫/池上純一編訳)に拠っているが、
この場を借りて、この三宅さんと池上さんという会ったこともないお二人に心からの感謝を述べたい。
今回、カウフマン、パペ、マッティ、ダライマン、二キーチン、ブラッタバーグという素晴らしいソリスト陣、優秀な演出に指揮・オケ・合唱に恵まれて、『パルシファル』という作品を堪能したが、
そこにさらなるレイヤーを与えてくれたのはこの書物だ。
今回公演前の再学習として英訳とこのお二人が手がけられた邦訳、両方拝読したが、
お二人が翻訳と解説を通して見せているほとんど執念と言ってもよいこだわりとこの作品への奉仕の精神はそれ自体が一つのアートになっている、と私は感じた。
作品中何度も歌われ、この作品のキーワードと言ってもよいMitleidという言葉に与えられている”共苦”という訳も素晴らしいと思う。
私が使用した英訳、そしてメトの字幕でもそうだが、この言葉が単にcompassionという風に訳されていて、
この言葉は現代では同情というニュアンスも多分に含むようになっている(し、compassionの一般的な和訳は”同情”だ)が、
苦しんでいる人を外から見て”同情”するのと、苦しんでいる人の心に自分も居て”共苦”するのとでは大違いだ。
それを言うとメトの『パルシファル』の英語字幕は人がオペラの舞台を見ながら文字を読める時間との関係との兼ね合いもあるのだろうが、訳が随分荒く、
NYのワグネリアンたちからも”原文の意味が出来っていない。”と多く嘆きの声が上がっている。
HDの日本上映はメトの英訳字幕からの和訳になるのだろうが、出来ることならば、三宅さん/池上さん訳を採用して頂きたいと強く思う。

**出待ち編**

公演の内容が本当に良かったので、『パルシファル』で出待ちをするなら今日だろう、、ということで出待ちです。
事前に打ち合わせたわけではないのですが、ステージ・ドアにはゆみゆみさんとKinoxさんもいらっしゃっていて、
後、日本からいらっしゃっていたお着物がお似合いで本当に素敵でいらしたパペ・ファンの女性の方を含めた4人で楽しくお喋りしながらでしたので、
本当はそうでもなかったのかもしれませんが、いつもよりも早く、あっという間に全員が出てきたような気がしました。
最初に捕獲したのは演出家のジラール。気の毒にこのHDの日すら一名激しくブーを食らわせていた人がいて、出てきた時は憮然とした表情でしたが、
カナダかフランスから来たと思しき可愛いギャルに”良かったですう〜。”とフランス語で話しかけられるといきなりでれでれ。
ったく、フランス語圏のおやじはどいつもこいつも。
それにしても、煙草吸いながらサインするの、やめて欲しい。ええ、思いっきり上昇して来た煙が煙草嫌いのMadokakipの鼻腔を直撃しましたとも。

次に現れたのはティトゥレル役のルニ・ブラッタバーグ。
彼はカーテンコールの時以外、舞台には現れないし、プレイビルのソリスト紹介の欄にも載せてもらっていないので、出待ち常連陣にも彼の正体が見破れなかった様子。
ふふふ。私はですね、この日の公演の一週間前にNYのワーグナー・ソサエティの『パルシファル』勉強会に参加したんですが、
ゲストがダライマンとこのルニさんだったんですよ。だから顔ははっきり覚えてるの!
というわけで、彼は私がもらった〜!と駆け寄って行って、ペンを差し出すと、”僕の名前は何でしょう?”
うーん。名前は、、、なんだっけ?忘れちゃった(笑)
”僕が誰だかわからずにサインもらおうとしてるの?”と言うので、
”知ってるわよん。ティトゥレル役を歌ったもの。”と言うと、”Very good!"と大喜びでサインしてくれました。
その後は、ルニさん、ルニさん、と常連組にもみくちゃにされてました。彼もお喋りが大好きみたいだし、よかった、よかった。

と、次はニキーチンだ!
体に対して頭が横と前後両方にでかい。あの頭蓋骨の中で声が良く響きそうだなあ、、と見とれてしまった。
だけど、やっぱり、なんかこの人、あたし、こわい(笑)
それでもおそるおそる近付いてサインをお願いします、と言ってペンを差し出すと、
サインしてくれるのはいいんですが、あの、それ、握ってるの、ペンだけじゃなくて私の手ごと握ってるから、、という、、。
だけど、怖くて何も言えない、、。というわけで、私の手ごとつかんでサインをしてくれました。プレイビルのど真ん中にすっごくでかく。
もー!!カウフマンがサインする場所がなくなっちゃったじゃないのよー!!!

そして、続け様にでかい人が二人出て来たと思ったらマッティとパペだ。でけ〜っ。
パペもすごく大きいけど、マッティはさらに彼の頭の上から首が出てる位。
ゆみゆみさんが聞きたい!と仰っていた質問をマッティに直撃。
”トロヴァトーレのルーナは歌わないんですか?”
”実は指揮者からは君に絶対向いてるから、って薦められてるんだけどね。でも、まだ完全には準備出来てないかな、って思うから。”
あなた、そんなこと、アンフォルタス役についても言ってたじゃないですか。
案じるより産むが易し!!ルーナももう歌っちゃいましょう!!
だけど、”Someday!"って言ってましたから可能性がないわけではなさそう。楽しみですね。
彼は本当にぶったところや気取ったところがないのが格好いい!

今回の出待ちで思いの外(ん?)素敵だったのはパペ。
私からは一言も日本語では話しかけていないのに、さらさら、、とサインをした後、きちんと目を見ながら物静かな声で”アリガト。”って言ってくれました。
これまで出待ちした中で佇まいが素敵な人ナンバーワンかもしれません。

その間にメークも完全にはとれない状態で出てきていたのがダライマン。
そばで見ると結構おばちゃんだな。私も人のこといえないけど。
字は人柄を表すというけれど、彼女の字はなんかはんこか何かみたいに几帳面で、まめな人なのかな〜と思います。

と、そこにやっと現れたカウフマン!!
いやーん、どうしたのー!?
数年前『トスカ』の出待ちの時に身につけていた花輪君みたいなキュートなネッカチーフとスーツから大変身、今日は革ジャンじゃないのー!
それにあの頃と比べると、やっぱりスター歌手っぽい佇まいになって来ましたね。
本当の話なのか単なるガセなのかは知りませんが、彼がヨーロッパのどこかの国で出待ちのファンに対して
”君達が僕に風邪をうつしたりするからもう一緒に写真を撮ったり握手をしたりしない。”と宣言したことがある、という話を聞いたことがあったんですが、
今日は全然皆と普通に写真を撮っているので、私も便乗してiPhoneで一枚パチリして頂きました。
件のお着物の女性がすごく上手に撮ってくださって、しかも、そのままじゃフレームに納まりきらないからもう少し寄って下さい、と、とんでもないナイスな一言を発して下さったおかげで、
ヨナス(あ、ファーストネームベースになってる、、)が肩を組む準備をしてくれたので、これ勿怪の幸い!とばかりに彼の胸にとびこんだせいか、
撮影された写真を見てみたら、私がカウフマンに抱きつかんばかりに近寄っている写真になっていて、思わず”こらこら、、。”と自分に駄目出ししたくなる位です。
内心、彼も”そこまで寄らなくても、、、。”と思っていたことでしょう。
まあ、いいです。今日の公演の思い出と共にこれは私の一生の宝物。プリントアウトしてサインの入ったプレイビルと一緒に額に入れたいと思います。

残念ながらガッティは捕獲できずじまい。ぬぼーっとしてるように見えて、結構逃げ足が早い。巻かれました。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
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Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

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PARSIFAL (Wed, Feb 27, 2013)

2013-02-27 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第四日目**

グランド・ティアーの最前列で鑑賞。
第五日はHDの上映があるので、この日は予備用の映像が収録される日(いつもHDの一つ前の公演には、HDのテクニカル・リハーサルを兼ねて予備の映像が収録される。)なのだが、
オケの演奏の締りが悪く、凡ミスもいくつか聴かれた。ガッティが指揮した公演の中ではオケの演奏がもっとも荒れた日。
予備用の映像は時にDVDとして商品化される際にも、当日の映像に問題があった部分と差し替えて用いられることもあるのに、これではその目的にも使えないのではないか?
もうこれはHD当日の映像をすべてDVDに使うしかない。
リハーサルとのダブルヘッダーでオケの疲労がピークに達しているのかもしれないな、、と思う。
『パルシファル』を演奏する大変さがわかるなら、もうちょっとオケのスケジューリングをなんとかしてあげて欲しい。
今更ながらで恥ずかしいが、この公演では一つ発見があった。
第一幕の最後、アンフォルタス、騎士達、グルネマンツが姿を消すと、乾いた大地が裂け、まるで谷間のような真っ赤な深い裂け目を好奇心一杯の目で見つめながらパルシファルが手を伸ばして幕、となる。
この真っ赤な谷のような裂け目を降りていったその先こそが二幕の舞台であるクリングゾルの魔法の城なのだ。
二人のパーソナリティが全く違っているので、受けた罰へのリアクションも、またその後に辿る運命も全く違ったものになってはいるが、
アンフォルタスの罪もクリングゾルの罪も根幹は同じ、ということがこの作品では一つのポイントとなっている。
ワーグナーは山を境に片側を聖なる世界、もう一方をクリングゾルの支配する邪悪な世界と設定しているが、
このプロダクションでは、それを90度動かして、地上が聖域、地下が魔法の世界とすることで、
両世界のコインの裏表のような、根っこでつながっている関係をきちんと維持しながら舞台化しているのは実につぼを押さえていると思う。

また、二幕の舞台はバックドロップに裂け目があるのだが、その裂け目の隙間に体液のようなものが流れる(こちらもコンピューター・グラフィックスによるもの)ので気付いたのだが、
これは女性の膣の表現ではないのか?
ということは、花の乙女達やクンドリやクリングゾルやパルシファルが歩き回っているあの空間は子宮そのものであり
(地上の世界から聖槍を持った人間が入って来るというのは、これも性行為を示す以外の何ものでもないだろう。)、
多用されている血はアンフォルタスの血でもあるが、また一方で女性の性を表現しているのではないかとも思うのだ。
この作品では最高の愚かさが最高の智になる、など、一見矛盾した要素の組み合わせが大きな真実をもって迫ってくるところに特徴があるが、
この二幕の演出では、血を通して、苦しみ&死と喜び&生がつながっていることを表現しているのは巧みだ。

ルパージの演出がリングで大コケしたのと対照的に、ジラールが今回の『パルシファル』の演出で成功した一つの理由はハイテクに依存しなかった点だ。
どちらの演出もビデオ・グラフィックスの多用という点では共通しているが、ルパージがそれに”マシーン”を加えて自分の首を絞めたのに対し、ジラールの演出は意外とプリミティブだ。
二幕でクリングゾルが投げる槍がパルシファルの頭の上で止まるという超常現象の表現はその好例で、
同演出ではクリングゾルだけでなく、花の乙女達全員が槍を持っており、彼らがそれを掲げながらパルシファルの方に近寄っていくと、パルシファルが片手を挙げて制止する、
するとそれ以上槍は進むことが出来ず、パルシファルが
"Mit diesem Zeichen bann' ich deinen Zauber:
die mit ihm du schlugest, -
in Trauer und Trümmer
stürz' er die trügender Pracht!"
(この印により汝の魔力を封じる。お前があの人に負わせた傷はこの槍がふさいでくれよう。さあ、絢爛たる虚飾の城を廃墟に変えて葬り去れ!”)
と歌って、クリングゾルと乙女達がばたばたばた、、と倒れる。
しかし、これで十分この場面の本質は表現しているし、この片手を挙げて槍を止める、という動作はどことなく東洋的で、このあたりにもあらゆる文化のミクスチャー的なアプローチが見られる。
コリオグラフィーのせいでこの二幕は若干冷たい印象を与える、という感想は基本的には変わらないが、何度か見ているとこの幕の演出もそう悪くはない、、と思えて来た。
また、騎士達は聖杯に食べ物を供給されている、という、こちらの超常現象も、食べ物を突然現出するようなハイテクを駆使したマジックはなく、
アンフォルタスから騎士達に次々と指を通してエネルギーが伝達されるような演技付けだけだが、これで十分それが彼らの食料・エネルギー源である意図は伝わってくる。



そして、この日、とうとう待ち望んでいたことが起こった。
これまでの公演と同じように始まったと思えた二幕だが、段々とクンドリとパルシファルの会話が異様な青白い炎のような色を呈して行ったかと思うと、クンドリのキスの後、パルシファルのモノローグでそれが炸裂した。
"Die Wunde sah ich bluten: -
nun blutet sie in mir -
hier - hier!"
(あの傷から血が流れ出すのを私はこの目で見た。その傷が今私の中で血を流している。ここだ、ここだ!)"
でのhier(ここ)は、これはもう歌なんかではなく心の叫びそのものだった。
パルシファルがキスを通してアンフォルタスの苦しみを理解したように、私達観客はカウフマンの歌を通して、パルシファルが追体験したアンフォルタスの苦しみ・痛みそのものを聴いたのだ。
この後もまるで流れ出した血が止まらないかのようにカウフマンの歌唱にアクセルがかかり、この間自分が息をしていたのかどうかも思い出せないくらいだ。
このカウフマンの熱唱に感応するかのように、クンドリ役のダライマンが他の公演では聴かせなかったような歌でこたえる。いや、歌で、というのは正確ではないかもしれない。声で、と言った方がより近い。
他の公演では乾いて角のない声だったダライマンが、この日の二幕はまるで人が違ったような歌声を聴かせたからだ。
lachte!(笑ってしまった)=クンドリ役のパートの中で最も大きな難所と言ってよい、ハイBからローC#へのリープでの、
このハイBは空気がまるで切っ先鋭いクリスタルで出来たナイフか何かで切られたような感触があって、声が停止した後の数秒はオペラハウスが震撼し、完全静止したのを感じたし、
その後の畳みかけるようなフレーズ、そして最後に迷いの呪いをかけるまで、全く文句の付け所がない出来だった。
他の公演ではどことなくのんびりさんなイメージを残したダライマンのクンドリだが、今日のような歌唱を聴くと、メトが彼女の何を聴いてこの役にキャスティングしたのか、その理由がよくわかるような気がした。
残念なのは、他のどの公演でもここまでの歌唱は彼女から聴けなかった点だ。
この日は彼女のコンディションと公演のエネルギーが本当に上手くマッチしたのだと思う。
当然、ダライマンのこの歌唱に刺激されて、カウフマンの歌唱も更に熱を帯びたわけだが、幕の最後の方で出した音で、カウフマン自身が意図した以上にアクセルを吹かせすぎたのに気付いたような様子があった。
車の運転でたとえるなら、”あれ?こんなにスピードが出てたの?”という感じか。
その音自体はエキサイティングだったが、そのまま突き進んだらちょっとまずいかも、、と思わせるような音色が微妙に混じっていた。
次回はHDなので、そのあたりも考えてか、その音以降はもう少しコントロールの効いた歌唱に戻ってしまったが、
今日の二幕のような歌唱が可能だということがわかってしまった今、残りの公演は全部観なければ、との決心を固める。
舞台挨拶の様子からも、カウフマン自身、この日の公演は自らの歌唱に関して会心の出来だったのが伝わって来た。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
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Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Gr Tier A Odd
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PARSIFAL (Mon, Feb 18, 2013)

2013-02-18 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第二日目**

キャストが全体に渡って高レベルなのは素晴らしいことだが、やはりカウフマンのパルシファルに火がつく瞬間を見たい。
すると、まるで”そうおしなさない。”と天も言っているかのように、平土間最前列センターブロックのチケットが公演直前に放出された。
前奏曲が始まって、紗幕の向こうに日々の生活に疲れた様子でネクタイをはずし、白シャツと黒パンツになる男性合唱団員たち。
その間に紛れ込んでいる黒シャツ、黒パンツのパルシファル=カウフマンはやがて二つのブロックに分かれていく男性たちのどちらのグループにも属することが出来ず、
自分が何者なのか困惑したまま立ち尽くしている。
そう、既存のルールによってしか生きられない騎士達ではなく、そんなルールから自由な存在で、だからこそ他者の痛みへの気付きを得たパルシファルのような人間こそが救世主として選ばれるのだ、、、

などと思いながら舞台を眺めていると、あの前奏曲に奏でられる至高の美しさの音楽に混じって、”うにゅー。んがー。”と不気味な音?声?が聴こえて来る。
何事かと思ったら、ガッティの唸り声だった。クンドリもびっくりの何の動物か?と思うような。
最前列センター!という喜びに、前回の公演のインターミッションでせっかく聞きつけた会話をすっかり失念しておりました、、。
うーん。それにしても本当うるさい。(笑)

しかし、オケの演奏自体は最高に素晴らしく、今振り返ってみれば、ランの中で一、二を争う出来だった。
初日で聴かれた凡ミスが全く姿を消し、こんなにどアップで、各セクションの音が立って聴こえる場所で聴いても、それでも全く隙がない。
一幕で森から聖杯城に舞台が転換する(とリブレット上ではなっている)場面は、この演出では実際に城らしきものが登場するわけではなく、
強い円形の光が指してそれがどんどんこちらに近づいて大きくなって来るという、SFチックな演出になっていて(どことなく『2001年宇宙の旅』の冒頭を思い出す、、)、
ビデオ/コンピューター・グラフィックスの力だが、この場面が与える不思議な感覚はこれまでメトで見たどの作品のどの演出とも似ていない非常にユニークなものになっている。
このビジュアルに重なってくる部分のオケの演奏がまたいいのだ。
レヴァインならもっとオケをストレートに爆発させるところだが、ガッティは逆にすごく抑制が効いている。
だけど、その抑制がかえってその下で沸騰しまくっているオケのパワーをオーディエンスに感じさせる結果になっているのが面白い。
もちろん、その間ガッティの唸り声も最高潮に達している、、。
初日では長すぎて感じられた休符が今日は不自然には感じられない。
残念ながらHDの日の演奏ではまた若干初日に似た感じに戻って行ってしまったが。
クーベリック盤の前奏曲を聴けば、休符やフレーズの緊張感が落ちるまさに直前にきちんと次の音が入ってくるので、音が永遠に続いているような独特の感覚をもたらす。
この感覚が失われてしまうのを”不自然”と表現しているが、この日の演奏はきちんとその感覚があった。
とにかく、この日は最初から最後までオケに関しては何も言うことなし。こういうのを耳福というのだと思う。



さて、この演出をオペラハウスで一回だけ見るなら、平土間席は厳禁だ。
平土間に座ったら、この演出が伝えんとしている全容の軽く15%は見逃してしまっていると考えた方がよい。
初日の感想で書いた地面が肌に変化して行く様子、それから一幕最後で地面が割れる様子(これは第四日のレポートでふれる)が良く見えないし、
第二幕の舞台一面に張った血もほとんど見えないありさまだ。
なので、HDの映像もいつものように歌手のデンタル・ワークまで見えるようなどアップでなく、若干高さのあるところからきちんと距離を保った全体像のショットを入れてくれていることを望むばかりだ。
(HDの映像はこれを書いている時点では未見。)

この日の公演でオケと並んで印象深かったのはパペの歌唱。
ラン全体を通して本当にレベルの高い歌唱を維持し続けた彼だが、この日は特別に何かのスイッチが入っているかのような情熱的な歌唱で、彼について一番印象に残っているのがこの日の公演だ。
第三幕で聖金曜日の意味をグルネマンツが歌いあげる箇所(前述した通り、オペラのラストと並び、もしくはそれ以上にエモーショナルな場面)の最後、
da die entstündigte Natur heut ihren Unschulds-Tag erwirbt
(罪をきよめられた自然が、今日こそ無垢の日を迎えたのですから。)の後、
手を体の前で合わせてぶつぶつと祈りを唱えている様子は、演技などではなく本当にトランス状態に入ってしまったいるかのようだった。

ジラールの演出はキリスト教だけでなく、複数の宗教・スピリチュアリティのエレメントを取り入れていることは先に書いた。
洗礼の場面でのパルシファルは後ろに現れる光と合わせてまるで仏陀のようだし、
既存のメジャーな宗教には属さない独自の動き(先述のパペの祈祷や騎士達が腕を持ち上げて体の前でわっかを作るポーズなど)はある種の新興宗教的な雰囲気すらもあって、
どの個別の宗教にも拠っていないようで、しかし、どの宗教のようでもある。

カウフマンについては初日と似た感想を持った。歌唱の完成度は非常に高い。
言葉の取り扱いが非常に繊細で、オケが演奏する音楽との兼ね合いがこれ以上考えられないほど高いレベルのそれになっているのだ。
それは例えば一幕のクンドリとの会話の中で、騎士達のようになりたい!と母親を置き去りにして駆け回るようになったなれそめを説明する部分のようなところでも徹底されている。
ドラマ的にさらに重要なシーンではなおさらだ。
それはカウフマン一人だけで達成できることではなく、ガッティとの共同作業の賜物であることはいうまでもないが。
しかし、これらを達成しようとする用心深さが真に自由な表現を微妙に妨げている感じが初日の演奏に引き続きあるのがもどかしい。
演奏が終わった時、この完成度の高さを達成するためにどれほどの努力が費やされたか、それを思う尊敬の気持ちは湧き出てくるが、
それを考える前についスタンディング・オベーションを送りたくなるとか、あまりに心が動かされて座席を立てない、、とか、そういう感じではないのだ。
カウフマン自身の舞台挨拶の様子もそれを反映したものになっているように思うのは気のせいではあるまい。
マッティやパペが全力を尽くした充実感に溢れているのに比べて、何かまだ”そこ”に完全には行けていない、という自覚がある風なのだ。
残念ながら、今日もその日ではなかったようだ。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

ORCH A Even
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***
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PARSIFAL (Fri, Feb 15, 2013)

2013-02-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事にあるリンクから飛んだ先にはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想も含まれています。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。



実は、ワーグナーの作品を頭ではすごいな、、と理解できてもそこからなかなか前にすすめない時期が私の場合オペラを聴き始めてからしばらくありました。
『パルシファル』はワーグナーの最後の作品なのでオペラ本の中でもワーグナーの項の最後に取り上げられることが多くて、
しかも、大抵の解説文からはなんだか”難解な作品である。”という印象を受けるので、この作品を実際に聴くまで大きな回り道をしてしまったのですが、
初めてメトで生鑑賞するにあたり(このブログを始める前のことです)、予習のためにクーベリック盤で初めてこの作品をきちんと聴いた時、
本当に自然に音楽と作品が頭ではなく、心に響いて来て、オペラ本はお尻から読んどくんだった、、と激しく後悔したものです。
それ以来、『パルシファル』は何度聴いても飽きることのない作品。
やがてワーグナーの他の作品の素晴らしさに開眼するようになったのもすべてこの作品のおかげとも言え、だから、私にとってはすごく思い入れの深い作品なのです。

また、現役の歌手で私が”この人が歌うなら絶対聴きに行きたい!”と思う極く少数(二名くらい、、)の歌手の一人がカウフマンであることはこのブログでは何の秘密でもなく、
私の大好きな作品xカウフマンがコンボになって迫ってくる今シーズンのメトの『パルシファル』は当然最も楽しみにしていた演目です。
しかし、いざ蓋を開けてみればそれ以外のあらゆる側面で期待を超える内容で、一度公演を見る度にもっと鑑賞したい!ということになってしまって、
どんどん追加でチケットを購入するうち、気がつけば7回予定されていた公演中、一公演を除いて全部鑑賞、、という恐ろしい事態を招いていました、、。
ラン中は浮かれていましたが、最後の公演が終わってからクレジット・カードの請求書を見てボー然、、、どうするのよ、これ、、?です。破産です。
でも、いいのです!!!こんな公演を見れるなら、もう私、ホームレスになっても構わない!!

また、クレジット・カードの支払いと共に頭を悩ませたのは、この6回分の公演の感想をどうやってレポにまとめよう、、?という問題です。
ランの最後の公演では周りの観客(特に男性、、)とともに客席で思い切り涙したMadokakipですが、最初の公演からそんな風だったか、というと決してそうではなく、
少なくとも私は演奏のスタイルと新しい演出に完全に馴染むまで数公演はかかりましたし、おそらく歌う・演奏する側が変わって行った部分もあると思います。
ということで、最もロジカルな方法として、各公演を時系列順に並べ、出来るだけ鑑賞時に感じたことを忠実にまとめるよう心がけることで、
その変遷を辿っていけたらいいな、と思います。
ただし、字数が多すぎて全部のレポを一つに納めることが出来ないので、第2,4,5,6,7公演日の演奏については、各公演日をクリック頂くとその日の公演についての感想に飛べるようにしました。
公演数が多いので各レポートではです・ます体を排し、それぞれの公演単位ではかなり短めの感想になってしまっているものもありますが、
全公演の感想を通して読んだ時にラン全体の演奏の全貌が少しでもわかるような感じになっていればいいな、と思います。

それから声を大にして言いたいのは、この作品は全然難解なんかじゃないということ!!
過去の私みたいにオペラ本に騙されている人がいては本当にもったいないので、念のため!!

**初日(Fri, Feb 15, 2013)**
ドレス・サークルの二列目で鑑賞。
オケの演奏に関して”遅い”という意見が批評家・ヘッズの両方から多くあがっていたようだが、テンポが遅いのではなく、休符の取り方が長い、と言った方が適当だと思う。
特にこの日の演奏の前奏曲でそれが顕著で、ガッティはランの前にこの作品での休符の重要さを説いていたが、
その重みに耐え切れなくて緩んでいる、とまでは言わないものの、私にはわざとらしい・不自然と感じるテリトリーに微妙に足を踏み入れているように感じた部分もある。
しかし、たとえば二幕の花の乙女たちの場面の音楽はむしろ私の感覚ではかなりスピーディーな演奏に感じられたし、
一幕の舞台転換の音楽も、ラジオなどの音源だけで聴くとゆったりし過ぎて感じるかもしれないが、その雄大さは舞台で進行している演出効果(後に触れる)と良くシンクロしており、
劇場で聴くと適切なテンポに感じられる。
過去のレヴァインの演奏(これは、まじで遅い!)と比べても、今日の演奏は決して”遅”くはない。
もし、それでも”遅い”という印象を払拭できないとしたら、それは瞬発力の欠如のせいではないかと思う。
この作品には突然の気付き、突然の感情の奔流、という瞬間がいくつかあって、歌手が言葉でそれを表現する前にオケの演奏がそれを先取りするようにワーグナーが音楽を書いているが、
そういった瞬間にオケの演奏が、どぱーっ!と出て行くのではなく、むにゅむにゅ、、と残り少ないマヨネーズをひねり出しているような感じで演奏される時があった。
今シーズンの『パルシファル』の演奏で、ガッティはオケに力任せではなく、繊細で柔らかな表現を求めているのが感じられ、それは一方では素晴らしい音楽的効果をもたらしているのだが、
感情の奔流の表現と繊細さを統合するのはかなりハードルが高く、この点では若干の課題があったかもしれない。
それでも、全体としては大変に優れた解釈と演奏で(これまでイタものを含めたガッティの演奏を全く好きになれなかった私でもそう思う)、
一幕でオケかららしくないミスがいくつか聴かれたのは残念だが、それでもガッティの音作りとそれに答えてオケが出している音はオペラハウスで聴くと音のバランスが素晴らしく、
また、それを損なわずに大切な場面で音をきちんと鳴らすことを怖れていないのも賞賛に値する。ワーグナー作品でこのようなエモーショナルな演奏をメトで聴いたのはレヴァイン以来。
今シーズンの『パルシファル』の公演がオケの演奏の面からだけ見ても特別なものになっているのは明らかで、これだけでガッティが振る残りの公演をすべて鑑賞したくなった。
また、ガッティが舞台で進行していることにも神経を使いながら音作りをしているのは、
演出チームと音楽チームの意思の疎通が上手く行っている証で、これは上演上多大なプラス。
ただし、インターミッション中に、平土間席前方中央に座っていると思しき女性二人の”ガッティの歌声・唸り声がうるさくてオケの音が聴こえない。”発言が耳に入って来たので、
それは覚えておかなきゃな、、と思う。
演出はコンセプト型とでもいおうか、確かに我々が普段着用・使用しているような衣服・小道具が登場するのだが、
それは単に物語を普遍的なものにする目的の一部に過ぎず、セットもイメージとかアブストラクトさ、コンセプトを重視した舞台で、
よって、キャストが現代服を着ている、という点では同じでも、60年代のヴェガスという固有の場所に舞台を移したメイヤーの『リゴレット』とは全く対照的な舞台づくりである。
だから、MetTalksの際にゲルブ支配人がやっていたような、”現代服をキャストが着用する演出”というようなカテゴライズの仕方はなんらの意味も持たないし、
よって、演出をモダンvsトラディショナルの枠組みだけで捉えるのも無理があるだろう。
オペラの演出のカテゴリーとして存在するのは、優れた演出と出来損ないの演出、この二つだけ、という、この気付きが今回の『パルシファル』で得た収穫の一つだ。
MetTalksの記事で演出家のジラールが語っていた通り、当演出はポスト・アポカリプティックな世界を舞台にしているので、舞台は始終曇っていて暗い。
干上がった地面には水一滴なく、よって、一幕でクンドリが母の死を聞いてショックを受けたパルシファルの額に水をかけてやる場面はちょっと無理があるかもしれない。
(クンドリ役のダライマンは必死で水をかき集める動作をするが、それでも歌われている言葉との違和感は隠し得ない。
三幕でもクンドリがパルシファルに気付けのために水をかける場面があって、同じ轍を踏みそうになるが、ここはグルネマンツが”そうでなく、、”と、
洗礼のためにとっておきの汲み貯めした水を持って来ることで救われている。)
アンフォルタスが一幕で自らの傷とそれを引き起こした自分(それ、すなわちすべての人間)の弱さを嘆いた後、舞台の中央を走る細い溝に血が流れ始める。
やがて、ビデオ・グラフィックスにより、血が走る乾いた土地は人間の皮膚のクローズアップに変化したり、
後ろに見えていた連綿とした乾いた土地がしばらく砂丘のようになったかと思うと、それがそのまま人間の体の一部(背中?)にモーフィングしていく。
つまり、この世界は、私の、あなたの、体そのもの、ということであり、世界(他者)の痛みは私の痛みであり、その逆も真なり、というこの作品のテーマを良く捉えていると思う。
また、クンドリが、”あの人”(限りなくイエスのイメージだが、この演出ではワーグナーが意図した通り、個別の宗教としてではなく、
あらゆる宗教に共通した・を越えたスピリチュアリティをテーマにしたものになっているので、”あの人”のままにしておく。)を笑ってしまったため、
後悔と懺悔を繰り返しても救済の瞬間に笑いが漏れて再び劫罰に落ちるという、
”泣けない”という恐ろしいカルマ(これをジラールが輪廻転生と重ねて見ているのはMetTalksの記事の通り)。
パルシファルから洗礼を受ける時に彼女が落とす涙によって、とうとう彼女が終わりない懺悔から解放され、ついに”あの人”に赦されたことをオーディエンスが知る、
作品の中でも最もエモーショナルな場面だが、ここで干上がった土地の、例の溝に、水が流れ始める。まさに奇蹟、ということなのだろう。
また、永劫の罰から解放されたということは、すなわち、彼女が待ち望んだ死が訪れる、ということであり、この演出ではエンディングに彼女の死も視覚化されている。
この演出でおそらく最もユニークな点は聖なる槍と聖杯の再会・再結合にクンドリが物理的に大きな役割を果たしている点で、
クンドリがささげ持った杯に向かって血を流し込むべくパルシファルが聖槍を立て、その血を受け終わった瞬間、クンドリが死を迎えアンフォルタスをしばし見つめた後
(クンドリがアンフォルタスに対して特別な感情を持っていたことの顕れともとれる。もちろん、長い間彼を苦しめたことに対する彼女なりの謝罪の表現ともとれるが。)、
グルネマンツに抱えられながら、息を引き取ってゆく。
この場面でクンドリに大きな役割を持たせたことにより、救済者としてのパルシファルはアンフォルタスはもちろんクンドリなしでも存在し得なかったということ、
汚れた愚かな存在から、最高の智が生まれる、という構図(愚かなのは過去のパルシファルだけでなくクンドリもアンフォルタスも、、)が強調される効果が生まれ、
この世界に無駄な存在は一切なく、昨日の無知は今日の智である、というこの作品のメッセージを強く感じさせるものとなっている。
また、もちろん、この場面の演技付けには性的な側面もあり、聖杯と聖槍の再会の場面は性交の描写そのものといってよく、
これによって、限られた男性のみが騎士として特別な地位を許されていたのが、救済者としてのパルシファルの登場を通して、女性も男性も、愚かなものも智あるものもすべて一体となった、ということを言わんとしているのを感じた。



初見時にこの演出で私が若干の違和感を感じたのは三幕。
10年程前にケニアを訪れた際、何度か自分が世界・他の生命と完全に一体化するような圧倒的な感覚を味わい、そのことは自分のその後の生き方を考えるうえで大きな転機となった。
信仰深い人たちは宗教を通してこういった感覚を体験するのかもしれないが、具体的な宗教の形でなくてもそれをもたらしてくれるものが、非常に数は少ないが、ある。
良く演奏された時の『パルシファル』はその一つで、そして、オペラ作品でそのような感覚を引き起こす力を持った唯一の作品が『パルシファル』ではないか、と思う。
ワーグナーはこの作品を単なるオペラとしてではなく、舞台神聖祝典劇としているのでそれは当然とも言え、
また、”オペラ作品”とひとからげにするな!という人が必ずいると思うが、この作品を”オペラ”として鑑賞している人もたくさんいる、という事実も厳然としてある。
その証拠に、2005-6年シーズンの公演までは一・二幕の後は拍手をしない、という伝統が守られていたように記憶しているのだが、今シーズンの公演でそれは完全に崩壊した。
音楽が完全に止まる前に拍手が出るのは言語同断で、特にこの作品の場合、すでに手が動いている人間を絞め殺してやりたい位頭に来るが、
音楽が停止してからの拍手が一幕と二幕で出るようになったのは、少なくともここNYではこの作品を典礼としてでなく、オペラとして鑑賞する人が圧倒的に凌駕した、ということで、
ワーグナーが知ったら悲しむと思うが、いつかはその時が訪れる運命でもあるのかもしれないな、とも思う。

私はジラールの必ずしもキリスト教のそれにこだわらない演出アプローチは正しいと思うし、
ワーグナーはドラマとしての力を増幅させるため、キリスト教の中で観客がリレートしやすいイメージ(例えば三幕でパルシファルの足をクンドリが髪で拭う様子はルカによる福音書などに登場し、
マグダラのマリアと同一人物とされることもある女性のイメージだ。)の力を借りてはいるが、その一方で、キリスト教だけに拠ったものにならないよう、心を砕いてリブレットを書いている。
演出をする場合はこのバランスの取り方が肝であり、また難しいところだ。
私が一番好きな音源は先にも書いたようにクーベリック盤だが、この盤の三幕の洗礼の場面を、ほとんど宗教的とも言ってよい深い感動を覚えずに聴くことは難しい。
というわけで、ワーグナーがこの場面を命の芽吹きを感じさせる時と場所に設定しているのは当然理由あることなのだが、ジラールの演出はなぜかここの描写が控え目だ。
舞台ではほんの少しだけ、雲が晴れて、そこから見える空の色が少し明るくなるだけ。野の花もなく、相変わらず土地は荒涼としたままだ。
あまりに変化が微細過ぎて、これでは観客の中には私のように人間の他者の痛みを共有する力を信じていいのかどうか不安になってしまった人もいるだろう。
ヘッズの間でもこの場面はもうちょっとカタルシスが欲しい、、と感じた人が少なからずいたようだ。
この場面を見て、私はジラールはすごくペシミストなのかもしれないな、と思った。
現代のように自分勝手な人間がどんどん幅を利かせている世界では、彼のような感じ方の方がリアリティはあるのかもしれないが、
しかし、ワーグナーはそれでも人間を信じたい、そういう思いでこの作品を書いたのではなかったか。
個人的には、もう少しオプティミスティックに行って欲しいところだ。

また、二幕目の花の乙女(実際にこのパートを歌う歌手に加えて、ダンサーを補強している)の表現は演技ではなくダンスの範疇に入るもので、
私は情熱的で濃厚な感情はもっと気ままに表現されるべきだと思うので、
動き、シークエンス、タイミングまでががっちりと決まってしまっている今回のような表現は”コリアグラフされ過ぎ”との印象を初日には持った。
結果、エロティックさが薄められ、割とクールな感じの花の乙女になっている。(コリアグラファーはミンゲラ版『蝶々夫人』と同じキャロリン・チョイ。)
花の乙女達がパルシファルにくらいついてカウフマンの着ている洋服をはぎとって、彼が上半身まっぱになってステージ前方に転がり出て来ても、
このコリアグラフィー度の高さのせいで、全然エロティックな感じがしないのだ。ほとんど意図的に生々しいエロティックさを除去しているようにも感じられる。



歌手に関しては今回キャストがかなり強力なのでがっかりさせられることはないと思ってはいたが、一番期待を上回る幅が大きかったのがアンフォルタス役のペーター・マッティ。
彼が素晴らしい歌手なのも、、当代髄一のドン・ジョヴァンニなのも実際に聴いて知っているが、ワーグナーをこんなに素晴らしいスキルと豊かな感情を込めて歌うとは!!
彼はこれがロール・デビューで、この初日の数日後にマッティを招いてのSingers' Studioのイベントがあったが、
そこでも、まだ、”自分でも役との相性がいいのかどうか、まだ完全には確信を持てないのですが、初日での皆さんの反応を見たところ、まあまあなんでしょう。”なんてびっくりするような発言をしていた。
こんな素晴らしいアンフォルタスを歌える歌手、今、世界のどこを探しても他にいない!それ位すごい歌唱を披露しているのに。
それどころか、歴代の名アンフォルタスと比べても、引けをとってない。
そのSingers' Studioで、彼の発言を聞くうち確信したのは、彼は圧倒的な天然の才能を持っているということ。
彼の主張は始終”練習はきちんとするけど、特別にこうしてやろう、ああしてやろう、といった努力は何もしない。
声に無理なことをさせてはいけない。無理をしなければ歌えないようであれば、それは役が合っていないということ。”
彼の歌が素晴らしいので、その秘訣を聞き出してやろうと躍起になっている鉄仮面(Singers' StudioでモデレーターをつとめるOpera Newsの編集長)を相手に、
純粋に鉄仮面の尋ねている質問にどう答えていいのかよくわからない、、という表情を浮かべているのだ。
マッティの主張は言うは易し、だが、ほとんどの歌手は特別な努力をして、声に負担をかけている。
”秘訣なんて何もない。普通に歌うだけ。”
こんな発言、生まれつきの才能に欠ける歌手が聞いたら歯軋りして悔しがるような発言だろう。
歌唱表現の機微を一切損なわず、ワーグナーのオーケストレーションを楽々と越えてオペラハウスを包み込むベルベットのような声。
カウフマンやパペのソロ部分では繊細な表現を心がけているガッティも(そして、言っておくが、この二人だって声量がない歌手では全くない。)、
マッティが歌う時には場面がそれを要求しているからということもあるが(アンフォルタスに与えられたパートは音楽的にこの3役の中でもとりわけエモーショナルだ。)遠慮なくオケを鳴らしまくっている。
またマッティの歌唱が非常にスポンテニアスなのも、今回印象に残った。
毎公演、毎公演、その日の公演のエネルギーやオケの演奏に合わせて、同じフレーズでも違うカラーリング、違うパッションの込め方で歌い、歌の表情が豊かだ。
これまで何度もグルネマンツ役を歌っているパペはランを通して割と完成された、公演毎でぶれのない歌唱を聴かせたのに対し、マッティやカウフマンの歌は一回一回かなり内容が違う。
三人ともそれぞれのやり方で完成が高いので、どっちが良いということではなく、単なる比較の問題で。



グルネマンツはアンフォルタスのように爆発的な感情を吐露する場面はほとんどないが、一見淡々として見える歌唱の中に複雑な思いを込めなければならず、
また三幕の洗礼の場面の、グルネマンツが歌うパートは作品のエンディングと並んでこの作品の最も感動的な場面であり、オケが奏でる音楽に負けない存在感と表現力が求められる。
しかも二幕には全く登場しないものの、全体に渡って歌うパートが大変に多いので、力のない歌手が歌うとオーディエンスにとっては退屈で目も当てられない、、ということになってしまう。
パペは私が見るところちょっと照れ屋なところがあるのか、オーバーでわざとらしい演技が苦手で、そういうのをやれ!と強制されたりすると、
逆にそっけなくしたくなる天邪鬼さんみたいなところがあるように思う。
例えば昨年の『ファウスト』のメフィストフェレスなんかも、初日ではすごくはじけた演技をしてたのに、
HDでは”そんな恥ずかしいところを映像に残せるか。”とばかりに大人しくなってしまっていて、それはがっかりしたものだ。
しかし、彼のそんなそっけなさ、良い意味での朴訥さが、グルネマンツという役、特にこのジラールの演出でのグルネマンツにはすごく合っている。
髭を伸ばした長老、、というティピカルなグルネマンツのイメージではなく、ほとんど彼の実年齢くらいのイメージでこの役を演じているようだが、本当に等身大でリアリティがあるのだ。
歌にも変に誇張したところがなく、淡々と歌っているように見えるが、その完成度の高さは、けちをつけたくなるようなところが何もない程で、
逆にその淡々としたところが三幕の洗礼のシーンで爆発的な感動を生み出す結果になっている。
パペに関してはフィリッポ、マルケ王、ボリス、メフィストフェレス、、と多くの役で素晴らしい歌唱を何度もメトで聴かせてもらっているが、
今シーズンの『パルシファル』での彼の歌唱は単なる優れた歌唱を超えて、作品や演出とのシナジーがプラスαを生み出し、今まで聴いた彼の中でも最も記憶に残るものとなった。
パペはまだまだこの先何年も舞台で歌い続けていくだろうが、私が足腰弱ってオペラ通いを止める時、パペの最高の舞台を一つあげよ、と言われたら、おそらくこの『パルシファル』をあげるだろう。
オペラ通いを続けていると、このクラスの公演がどの位の頻度で起こりうるか、大体の予想がつくからだ。



クリングゾル役の二キーチン。初日の歌唱からは大変な気迫を感じた。
彼は見かけによらず(?)、声は非常にエレガントで意外と軽く、いわゆるノーブルなキャラクターに向いていて、例えば、数年前の『エレクトラ』でのオレストはすごく印象に残っている。
クリングゾル役へのキャスティングというのはちょっと意外でもあり、彼の個性にすごく向いているか?と言われると、私は必ずしもそうは思っていないところもあるのだが、その割には良く健闘していたと感じた。
今回の演出で一番演じにくい役はクリングゾル役ではないかな?と感じるところもあって、同役が若干カリカチュア化された悪役に見えてしまうのが残念なのだが、
歌唱でそれを引っくり返すところまではいかず、むしろその演出に引っ張られてしまった部分があったかもしれない。
しかし、NYのオペラ人口に占めるユダヤ系の率はおそらくオペラハウスが存在する世界の他都市のどこよりも高いはずで、
そのNYで、しかもワーグナーの作品に登場するということは、MetTalksの記事で触れたような経緯があった彼にとって大きなプレッシャーだったに違いない。
オーディエンスの喝采が若干彼の頑張りに比して少ないように感じたが(特に初日)、もし歌唱の内容がXだったら何のためらいもなくブーするヘッズだって必ず混じっていたはずだ。
良い歌手なのだから、先のシーズンでもメトで歌ってくれるのを期待している。

ティトゥレル役の歌唱はマイクを通してしまったので(またこの演出では彼は舞台上には一切登場しない)、完全な生声を聴けたわけではないが、
マイクを通しても豊かで深く美しい声を持っていることが感じられたのはル二・ブラッタバーグというフェロー諸島(現在はデンマークの自治領)出身のバス。
メトではずっとハーゲン役などのカバーを務めてきているようだが、少なくとも声楽の面では既に表にキャスティングしても十分通用するものを持っているように感じる。
ティトゥレルのパートは”間”がすごく大事なのだが、慌てている様子が一切なく堂々とした歌いぶり。
良い公演というのは、こういう比較的小さな役もきちんとしまっているもので、その見本のような歌唱だ。

今回のキャストは男性陣が本当に充実しているので、これにふさわしい歌唱を出すのは本当に大変だと思う。
今シーズンの前に『パルシファル』がかかったのは確か2005-6年シーズンのことではなかったかと思うが、その時のワルトラウト・マイヤーのクンドリが印象に残っている。マイヤーに比べるとダライマンのクンドリはちょっとまったりとおばさんくさい。
彼女の鋭さのないおっとりした歌い方がそれに貢献しているのは間違いないが、佇まいにも、もうちょっとシャープさがあれば、、と思う。
特に第一幕でのクンドリは非常に複雑で、グルネマンツや騎士達との会話の中にも彼女の自分の運命そして自分自身への苛立ちが表現されていなければならない。
マイヤーの歌唱と演技は幕中のどこからもそのひりひり感を感じるものだったが、ダライマンのクンドリはその点でもう一歩だ。
ただし、二幕、三幕、と幕を追うごとにクンドリの変貌がダライマン自身の個性に近くなっていくのはラッキーで、
三幕でクンドリが歌うのは”Dienen... dienen!"という二語だけだが、先述したようにこの演出は三幕のクンドリに大きな役割を与えているので、馬鹿にならない。
MetTalksの時にダライマンが初日を間近に控えて風邪をひいていたことが開陳されていたが、その影響か、
もしくは年齢・レパートリーによるもっと大きな流れの中での声の変化のせいか、以前聴いた時よりも声が少し乾いた感じに聴こえるのは若干気になった。

一番意外な歌唱を聴かせたのはカウフマンだった。
彼は普段から色んなタイプのレパートリーを歌って行きたい、と語っているが、メトでの舞台はそれを反映したものとなっていて、
私は『椿姫』、『トスカ』、『カルメン』、『ワルキューレ』、『ファウスト』、そしてこの『パルシファル』と、イタリア、フランス、ドイツものをそれぞれ2演目ずつ全幕鑑賞する機会があったわけだが、
(他にもOONYの演奏会形式の演奏では『アドリアナ・ルクヴルール』もあった。)
このうちで最も繊細な歌唱だったのが今回の『パルシファル』だったからだ。
過去に鑑賞した・もしくはこれまでCDで聴いたことのあるパルシファルたちでこんなに繊細に、柔らかくこの役を歌っているテノールもまずいない。
例えば『トスカ』、『カルメン』、『ファウスト』といった演目で、彼がアリアの中で弱音を入れることはあったが、
今回の『パルシファル』はそういうこの音単位でピアノ・ピアニッシモにしよう、という意図を越えて、全体においてソフトなのだ。
あまりにもソフトなので私はカウフマンの声量がなくなってしまったのか、、と最初は心配になった位だ。
第二幕のAmfortas!以降の部分で、決してそういうわけではないことがわかるのだが。
しかし、その場面以降も決して力任せに音を発することはなく、歌全体にものすごいコントロールが働いていて、
正直、初日の段階ではそれが表現の結果としてなのか、それともこの大役を歌うにあたってペース配分に気を遣うあまり、こうなってしまうのか、判断しきれなかった部分がある。
カウフマンがonな時にどのような表現をするか十分に知っているつもりの身としては、前者なら、まだ完全には役作りが練り切れていないのか?
またもしも後者なら、この役に対して彼の声と歌唱がほんの少しアンダーパワー気味なのか、、?との危惧も持った。
普通の尺度で言ったら十分に素晴らしい公演だったが、カウフマンが火を吹く公演はまだ先にあるのではないか、と見た。そしてそれは正しかった!


**第二日 (Mon, Feb 18, 2013)**


**第三日 (Thurs, Feb 21, 2013)**
オペラハウスで鑑賞できなかった日。シリウスで放送を聴く。
初日と比べると徐々に演奏がこなれて来て、歌手達の表現が少し自由になった感じがする。
一方でHDが近づいているからか、歌のフォーカスが高まって来ている。
他の公演日とあまりに鑑賞条件が違い過ぎるので(生鑑賞vsシリウス)、これ以上の感想は省略。キャストは初日と同じ。


**第四日 (Wed, Feb 27, 2013)**

**第五日 (Sat Mtn, Mar 2, 2013) & 出待ち編**

**第六日 (Tues, Mar 5, 2013)**

**第七日 (Fri, Mar 8, 2013)**

**聖金曜日の典礼 (The Solemn Celebration of the Lord's Passion) (Fri, Mar 29, 2013)**
いくつかの理由で、過去5年ほどは、アッパー・イースト・サイドにあるエピスコパル派の教会での日曜の復活祭ミサに参列して来たのだが、
『パルシファル』モードがずっと続いているのと、金曜日に完全なオフがとれることになったので、
今年は家から一ブロックという超近所にあるアッパー・ウェスト・サイドのカトリック教会での聖金曜日の午後三時からの典礼に参加してみた。
ジェントリフィケーションが進むマンハッタンではあるが、私の住んでいるエリアはヒスパニック系の住民も多く、
今年はフランシス法王という新しい法王が南アメリカから誕生したということも関係があるのか、なかなか活気に溢れている。
たくさん書きたいことはあるのだが、ここはオペラ・ブログであり、『パルシファル』に関する記事の中なので、三つの点だけに絞って書きたい。
 ‥砧蕕始まると司祭があらわれ、いきなり地べたに腹ばいになった。あんな綺麗な装束で、またこんな冷たい床に、、と気の毒に思い始めたまさにその時、
”この姿は!!”とMadokakipの頭の中で稲妻がなりまくった。
パルシファル役のカウフマンが第三幕で聖なる槍を前に腹ばいになる場面があった。
ぼろきれという衣装のせいだろうか、舞台で見た時は単に体で十字架を作っているのだな、、としか認識できなかったのだが、
あれはまさに、今私の目の前で司祭が見せているのと同じ行為ではなかったか。
今頃あの演技をカトリックの儀式と結びつけることが出来たなんて、私も相当鈍いが、遅くても気付ける機会があって良かった!
◆,海海龍飢饑貘阿硫両Д繊璽燹聞臂Г世韻任呂覆い里任△┐討海Ω討屐◆◆砲魯廛蹐僚犬泙蠅蕕靴、それを事前に知らない私は
件のエピスコパル教会で毎年聴かされているようなへっぽこ地元合唱団(しかも、参列者も歌がど下手)を想像していたので、
綺麗な歌声ときちんとした歌唱が飛び出して来たのには本当にびっくりしてしまった。
しかも、ヨハネの福音書からのイエスの受難・死の場面の抜粋が普通の朗読ではなく、レチタティーヴォ的な音楽にのせてずっと語られるのだ。
ソプラノがナラティヴの部分を詠むと、バス・バリトンがイエスの言葉を歌い、そして、それに応えて人々(合唱)が応える、、というように。
やはり音楽の力というのはすごいな、と思う、朗読で聴く以上にものすごいドラマを伴ってあの場面が胸に迫って来るのだ。
しかも、参列者の歌もこちらの方が一枚も二枚も上手だ。なかなか音楽的に恵まれた教会で今後も通いたくなった。
 その死の場面で、イエスはI thirst.(渇く)と言い、人々がぶどう酒にひたした海綿をヒソプに付け差し出したところ、それを受け、”成し遂げられた”という言葉を最後に息を引き取る。
司祭からのお話でも、今回、この"渇く”という言葉がテーマとして取り上げられていた。
パルシファルがクンドリに洗礼を施し、クンドリが流す涙とそれを機に舞台上の大地に流れ始める水は、彼女と世界が救われたことを現すと同時に、
その水・涙はまた、救済者の渇きを潤すもの、救済者に救済を与えるものである、ということを表現していたのではないか?
他人を救済し、そのことによって、また自分も救済される。
『パルシファル』を締めくくるのは、合唱によって歌われる”Erlösung dem Erlöser!(救済者に救済を)”という言葉だが、それと合わせて考えると大変興味深い。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ B Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***
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MetTalks: PARSIFAL

2013-02-07 | メト レクチャー・シリーズ
日本語では『パルジファル』の表記が多いのですが、音としては『パルシファル』が正しく、
松竹のライブ・ビューイング/HDのサイトも後者になっていますので、当ブログでも『パルシファル』の表記を採ります。


昨(2012/13年)シーズンは『ファウスト』で共演したカウフマンとパペ。
あの時はカウフマンと演出家のマカナフのそりが合わなくてフラストレーションたまったカウフマンがリハーサルで大爆発!というようなこともありました。
今シーズン、この二人は2/15の金曜日にプレミエを迎えるジラールによる新演出『パルシファル』で共演するのですが、
今回カウフマンがおとなしい替わりに、パペが暴れてるみたいです。
オケとのリハーサル中、パペの歌とオケを制止しイタリア訛りの英語で”ルネさん、そこはちょっとこの間話し合って決めたテンポと違いマスネ。”と指摘する指揮のガッティ。
”今日はちょっと体調が悪いんだよ。”と応えるパペ。
”でも、ルネさん、この間話したじゃないデスカ。ここのテンポはこういう風に、って。それと違ってマス!”
”いや、だから、体調が悪いっつってんだろ!”
、、というような応酬がエスカレートしたかと思うとガッティがオケに向かって"パウザ(Pausa=休憩)!!”
これで心おきなくやりあえるぜ!とやる気満々のガッティとパペの怒鳴り合う声が持ち場を離れるオケのメンバーの耳にずっと聞えていたそうです、、、。

今日はその『パルシファル』の出演者&スタッフによるパネル・ディスカッション。
上のエピソードを聞いた時はパペがつむじを曲げて出てこなくなるかと心配しましたが、、、、
風邪気味で大事をとった(早く直してくださいね!)ダライマンを除き、カウフマン、パペ、ガッティ、ジラールの四人が登場し、
ゲルブ支配人のホストのもと、話を聞かせてくれました。
ゲルブ支配人をPG、カウフマンをJK、パペをRP、ガッティをDG、ジラールをFG、Madokakipの心の声をとし、いつも通り、直訳ではなく大意を再構成します。

PG:皆さんは今日もリハーサルで大量の血を浴びた後ここに集まってくださいました。
NYタイムズの記事でもふれられている通り、この演出では一幕では干乾びた土地に流れる河を、また第二幕では舞台一面を血が覆う趣向になっていて、
使用される血糊の量は1600ガロン(6000リットル以上)に及ぶ。)
『パルシファル』は皆様もご存知の通り、バイロイトでのみ演奏されるように、というのがワーグナーの希望であり、それ以外の土地では演奏が禁止されていましたが、
しかし、それでも作品はアメリカに密入国し、1903年にメトでアメリカの初演を迎えました。
以降、(世界大戦の影響による)原語での上演の禁止などを経つつも、今ではワーグナーの作品の中でも最も人気のある定番レパートリーとして定着しています。
私は2006年、ヨナスが36歳の頃、チューリッヒの劇場で彼が歌うパルシファル、
そしてそれは今回のメトでの上演を除き彼が全幕を歌った唯一の公演ではなかったかと思いますが、
を鑑賞する機会を得、すぐにメトの『パルシファル』に出演頂きたい、ということで契約にサイン頂きました。
なのでそれから2013年まで、我々にとっては7年越しのプロダクションということになります。パルシファル役を歌うテノールのヨナス・カウフマンです。
(客席からカウフマンに熱い拍手。)
そして、その隣がメトではお馴染み、何度もフィリッポ、マルケ王といった役どころで素晴らしい歌を披露してくれており、
シェンクによる旧演出の『パルシファル』ではプラシド・ドミンゴ、ベン・ヘップナー、レヴァイン
(レヴァインについてはパペもうんうん、と頷いてましたが、彼がグルネマンツを歌った公演はゲルギエフとシュナイダーが指揮だったようなので、両者の覚え違いか?)
といった顔ぶれとの共演ですでにグルネマンツ役では登場済みのベテラン、バスのルネ・パペです。
(客席からカウフマンの時よりも盛大な拍手が巻き起こる。パペ、照れくさそうにしながらも、とっても嬉しそう。)
そのお隣が『蝶々夫人』でデビュー(1994/5年シーズン)後、しばらくなぜかメトからは足が遠のいていましたが、
2009/10年シーズンの『アイーダ』をきっかけに再びメトで活躍してくださることを期待している指揮のダニエレ・ガッティ。(また拍手)
そして、最後がグレン・グールドのドキュメンタリー、そして映画『レッド・ヴァイオリン』の監督として知られ、
今回のプロダクションの演出を担当するカナダのケベック出身のフランソワ・ジラール。(またまた拍手。)
クンドリ役のカタリーナ・ダライマンは風邪気味のため、大事をとり、今回のディスカッションは欠席させて頂きます、とのことでした。
支配人としては今風邪になってくれて良かった、公演にさえちゃんと出てくれるなら今はどれだけでも具合悪くなってもらって結構です。
 アホがまたわけのわからんこと言ってまっせー!!
歌手にとってはリハーサルも公演と同じ位大切なプロセスだということがわからない支配人がどこの世界にいますか?
リハーサルだろうと公演中だろうと彼らの健康を一番に願うのが普通の支配人の感覚でしょうが!)
PG: 彼らの他、アンフォルタス役にはペーター・マッティが、そして、クリングゾル役にはエフゲニ・ニキーチンが出演する予定です。
NYのタトゥー・パーラーに行くのに忙し過ぎなければ。
 オペラ・ファンなら誰でも知っている、ニキーチンが若気の至りで昔入れたと言うハーケンクロイツの刺青が大物議を醸し、
先夏のバイロイトの『さまよえるオランダ人』のプレミエの直前に降板させられた事実を踏まえたゲルブ支配人の趣味の悪いジョーク。
カウフマンもパペもその冗談に笑わないだけでなく、出来るだけ何の感情も顔に出さないよう気をつけつつも、ちょっと居心地悪そうな雰囲気でした。
下手な冗談ふるなよな、支配人!普通にニキーチンは出演する、とそれだけ言ってくれれば十分なんだから。)


(写真は出席者の座席順通り、カウフマン、パペ、ガッティ、ジラール)


PG:今回のプロダクションはほとんどポスト・アポカリプティック(この世の末のその後、といったような意味)な雰囲気のあるプロダクションですね。
 地球温暖化のために我々は干上がった土地に生きている、という設定らしいです。)
FG:今回私はこの作品の演出を任されるにあたって、どうすればこの話が今の私達にも密接に関わる・身近なテーマであるか、ということを、
”こいつは何をやるのだ、、?”という不安を観客に与えることなしに伝えるにはどうすればよいか、というのを深く考えました。
そこで、プロダクションはコンテンポラリーなものにし、オーディエンス自身を騎士達と想定し、
この話はあなた達自身の話なのです、というメッセージを、言葉・音楽両方の細かいディテールに注意を払いながら、打ち出したつもりです。
また先ほど血が山ほど出てくる、と言う話が出て来ましたが、誰も怪我をしたりはしていませんのでどうぞご安心を。
 『ファウスト』のマカナフやリングのルパージ〜同郷!〜にパンチを浴びせてますね。)
アンフォルタスの痛み、聖なる血、そして苦悩の血、これらを出来るだけシンプルに表現しようとするとこのような血の多用というアイディアになりました。
また、この作品は表見はキリスト教的でありながら、仏教のエレメントが多く感じられます。例えばクンドリが体験していることは輪廻転生そのものです。
仏教のベクトルはもちろん、あらゆるスピリチュアルな影響をキリスト教という形を借りてアウトプットしたのがこの作品ではないかと思っています。
PG: マエストロ・ガッティにお伺いします。この作品は長大な作品な上にテンポの問題もあって、
誰それの公演は某の公演より2分長かった、、とか、そういうことが話題になったりもしますね。
DG: 私が『パルシファル』を初めて振ったのは2008年のことですが、バイロイトやパリのコンサート形式など、経験を積んで来ました。
当時、私の人生はちょっとした問題に見舞われてまして、どうも考えがネガティブな方向に向かってしまっていけませんでした。
 その後もその問題の話が延々と続き、ちょっと!私はダニエレの人生の話を聞きに来たのではなくってよ!と思い始めた頃)
DG: この作品を指揮していると信仰の神秘、そして死後の神秘というものについて考えさせられるようになりました。
自分は何のためにこの世にいるのか、、という問いですね。
 ちょっと大丈夫?良い精神科医紹介しましょうか?)
DG: 指揮をすればすれほど考えさせられ、自分の中で育って行くオペラです。
ヴェルディを激しく血気立った音楽だと考えられる人は多いと思いますが、この作品もまた全く違うあり方で非常にエモーショナルな作品です。
ということで、とにかく私が出来ることはただひたすらこの作品と指揮にコミットするということであり、
話を戻すと、それさえ出来ていれば、長さのことは心配しなくても良いのではないか?と思うのです。
 こいつ、まさか、オーバータイムに無神経なんじゃ、、という不安の表情がゲルブ支配人の顔に表れる。
メトでは演奏時間が決まった時間を超過すると、関連する全ての部署のスタッフにオーバータイムの給料を払わなければならない。)
DG: 歌手や演出家はプロダクションや舞台での動きという問題があるので私のようにはいかないかもしれませんが、しかし、、
テンポをがちがちに決めるということは、演奏を鳥篭の中に入れるような行為だと思います。
人によって同じことを伝えるにも時間のかかる人、少ない時間で良い人、色々でしょう。
伝えたいことをきちんと伝えられるならば、長い、短いはあまり問題ではないと思います。
 なかなか物分りの良いことを言っているガッティだが、ふと思う。
じゃ、何でパペが具合悪いって言ってる時にあんなにテンポに拘ったのよ!!と。)
JK: 横からすみませんが、一言良いですか?私もその通りだと思います。
そして、公演は一つ一つ違う、ということも忘れてはならない要素かと思います。
テンポはこれで行くぞ!とあまりに強く思い込んでいると、公演のスポンタナイティ(自由性)のせいで少しでもそれが狂って来たり、
予想外のことが起こると、”おお、もうこれで僕達はお終いだ!!”とパニックして慌ててしまう、というようなことになってしまう。
それから作品の長さの話ですが、まあ、それはそうです。『魔笛』よりは確かに長いでしょう(笑)
でも、例えばロッシーニのような、音数が多くて、ある程度のテンポをもって演奏しないとどうしても演奏がダルになってしまう作品とは違い、
ワーグナーの作品はきちんと感情を織り込み、それを維持する演奏者の力があれば、極端な話、どれだけ遅いテンポでもそれを支えてしまえる力がある、
これも違いではないかと思います。
DG: 例えば『パルシファル』の前奏曲、これは静けさ、無を表現した曲だと私は理解していますが、
この前奏曲の間にオーディエンスを違う次元の場所、全く違う雰囲気の場所に連れて行く、そのための音楽でもあります。
PG: ルネ、あなたはどう思いますか?
RP: それはもう、ハンス・ザックスを除けば私のレパートリーの中で最も歌う時間が長いのではないですか?このグルネマンツは。
 ここで黙っていられない前方席のオペラ・ファンが何か別の役名を出して、そっちの方が長い!と主張し始める。)
RP: え?そう?そう思う?
また、旧演出も含めて通常は衣装を着ける時間というのが役にトランスフォームする時間になるのだけれど、
今回はフランソワの演出意図もあって、衣装も本当に現代の普通の服装だから、そのまま役に入っていけます。
しかし、不思議なのは、あれほど長い作品でも、プラシドやマエストロ・レヴァインと歌った時の公演では、
 と、ここまで言っているので、この組み合わせて歌ったことがあるのかもしれません、、アルカイブでは見つけられませんでしたが、、。)
公演が終わって欲しくない!まだ歌いたい!!と思ったんですよ。そういう作品なんですね。
オーディエンスだけでなく、歌手にとってもこの作品がもたらす感情は素晴らしいものなんです。
FG: 時間の認知に関わる話が出たのが面白いですね。
このプロダクションではあえてせかせかアクションを加えることなく、スローであること、を大事にしました。
この作品の歌詞の中にも出てきますが、”時間が空間に変わる”ということは実際にあると思います。
そうすると、5時間近いものが2時間位に感じられたりするんですね。
 それはちょっとオーバーだろう、、。)
すると、物理的な時間の長さというのは大した問題ではなくなって来ます。
JK:またこの作品にはテキストの曖昧さ、という問題があります。言葉の解釈がそれこそ何通りもあるのです。
私たちはリハーサルをはじめてから、それこそ、何度も何度もある言葉がどういう意味を持っているのか、
立ち止まって考える作業を続けていて、時にはそれが熱を帯びた大議論になることもあります。
しかし、この作品で最も危険な罠は、演出家が作品の長さに恐怖を感じ、自分の今の演出では何か物足りないのではないか、
オーディエンスが退屈してしまうのではないか、と考え、無闇にアクションを入れて余計に退屈なものにしてしまう、というパターンではないでしょうか?
PG: 正直な話をしますと私は支配人の立場としてオーバータイムになると困るな、、と、、(笑)
( ついに本音を出しやがったなー!)
JK: あ、メトも大変なんですか?スカラはものすごく厳しいんですよ。真夜中になったら照明とかも落としてしまう!位の勢いです。
PG: いや、メトはそこまで厳しくはないですけれども、、(笑)
JK: スカラで今シーズン『ローエングリン』を上演した際、ルネと共演だったんですけれども、
モノローグのシーンが上演回を重ねるごとに長くかかるようになってしまって、最後の回だったか、
歌っている時に舞台袖でルネが”早く!早く!時間がないぞ!”って時計を指す仕草をしてるんですよ。
完全に公演が終わったのが冗談でなく、本当に丁度夜の11時59分何十秒、とかで、あの時はほんと冷や汗かきました(笑)
PG: 先ほどテキストの曖昧さ、という話が出ましたが、もう少し詳しくお話願えますか?
JK: 言葉が、、ドイツ人の我々でも意味がわかりにくいものがあるのです。現在使われているのとは違う意味で使われていたりとか、、。
それから、ワーグナーが発明した独自の単語というのもあって、、。
PG: え?独自の単語ですか?『パルシファル』から何か例を挙げていただけますか?
JK: んーと、、んーと、、ちょっとすぐに出てこないのですけれど
 と、カウフマンがパペに救いの手を求める眼差しを送るが、パペは”君が撒いた種だからね、僕は知らないよ。”とばかりに無言。)
JK: んー、すみません、今ちょっとすぐに出てこないのですが、例えばリングでジークフリート(と言ったと思います)が母親のことを形容する言葉、
 といってその単語を発音してくれたのですが聞き取れませんでした。)
これは文字通りの意味にとると”雌の鹿”という意味で、”雌の鹿みたいなお母さん??何だそれ??”と思ってしまいますけれども(笑)、
多分、彼女の雰囲気を伝えるためにワーグナーが独創した単語なんですね。
特にオペラの場合は音があって、例えば4つの音符にある意味の言葉をのせたい、という時に、それにぴったりの既存の言葉がないと、作ってしまえ!ということになるのだと思います。
 とここで、ガッティが○○もそういう造語?とカウフマンに確認する場面あり。
ちなみに『パルシファル』の中では、ニ幕でクリングゾルが歌うEigenholdeなどがカウフマンの言っている例にてはまるかと思います。)
FG: というようなことで一つ一つの単語を叩き割ってその意味をみんなで確認し、共通の解釈を持つというのは気の遠くなるような作業なのです。
JK: で、そうやって何度も話して、それで行き詰った時にはもう一度音楽に戻って来るのです。
そうすると、言葉だけを聞いて議論していたら全く答えが出なかったことが、いとも簡単に解決する、ということもあります。
DG: そうですね、スコアを見れば、音楽を聴けば、あるパートが歌っている時にそれに伴って演奏している楽器はどれか、とか、
そういうことに注意を払うと、自ずとその意味が見えて来る時があります。
JK: でも、言葉というのは厄介で、一つドアを開ければまた新しい問いのドアが二、三個待っていたりして、それはまるで迷路のようです。
ワーグナーが書いた言葉の意味を求めてのあくなき戦い、という感じですね。
PG: ルネ、あなたが歌うグルネマンツについてお話いただけますか?どんな役柄ですか?
RP: どんな、って、、この物語のストーリーテラーです。
PG: ではヨナス、パルシファルは?
JK: パルシファルは一幕目では中身のない殻のような存在です。
しかしニ幕目に、クンドリに1時間だけ私と過ごしましょうよ!と言われ、拒むものの、
母親を擬したたった一つのキスにより、”共苦”を知ることで最高の知を得るのです。
たった一回のキスでこんなことになってしまうのですから、1時間クンドリといたらどんなことになってしまうんでしょうね(笑)
前奏曲の10分でたちまち誰もがこの物語の世界にトランスポートされます。
そして、ワーグナーが自分の書いた物語、音楽を深く深く信じていることが、この前奏曲を聴くだけでわかるのです。
パルシファルはこの物語の中で成長し、苦悩と死への理解を得ます。
もし、皆さんが仮にどんな無宗教であったとしても、この作品を聴く間だけはワーグナーが皆さんを信仰深い気持ちにさせるはずです。
DG: あのキスの場面には『トリスタン』にも似たホルンとチェロの長三和音が登場し、これはワーグナーのトレードマークと言ってもよいものです。
ワーグナーの全音階と半音階の使い方の上手さには驚嘆しますが、ここでの半音階の使い方はその一例です。
PG: 今日はカタリーナ(・ダライマン)が欠席なので、フランソワ、クンドリ役について少しお話願えますか?
FG: クンドリはこの物語をテントに例えるなら、ポストの役割をしています。
彼女はパルシファルのナイーブさ(英語で言うところのナイーブなので、ものを知らないうぶさ、愚かさ)につけこみ、
パルシファルの母の死を利用して、パルシファルの堕落をたくらみます。
PG: 彼女はやはり本気で彼を転落させようとしているのでしょうかね?
FG: 私はそうだと思います。アンフォルタス、ひいては世界全体への”共苦”と官能的な”誘惑”の一騎打ちです。
そしてこの葛藤を経て、何の理由もなく白鳥を殺すようなことをしていたパルシファルが救世主となっていくのです。
クンドリが何の救済もなく、何度も何度も男性を誘惑する役割に引き戻される、これは仏教の輪廻転生の考えとも繋がっています。
DG: また、一幕、ニ幕、三幕にクンドリが与えられている音楽を聴くと、音楽の中に彼女の魂の救済が描かれていることに気づきます。
先ほどのお話の中にワーグナーの造語の話がありましたが、実はヴェルディも、そこまで極端ではありませんが似たことをやっているんですよ。
通常のイタリア語で使われるのとはアクセントの位置を変えていたり、とか、後、例えば『仮面舞踏会』で、
Sento l'orma dei passi spietati と歌われる箇所があります。
(注:第二幕、リッカルドがレナートにアメーリアを無事に家に届けるように、また顔は見ないように指示した後の三重唱で歌われるレナートのパート)
これは情け容赦ない危険な足音が迫って来るのが聴こえる、というような意味なのですが、足音は”聴く”ものであって通常はsento(感じる)と言う言葉は用いません。
しかし、”その足音が体に感じられる”という表現は、あの場面の恐怖を良く表現しているなと思います。
 とついそんなことなら俺らイタリア人もやってるぜ!と対抗してしまうお茶目なガッティ。
でもちょっと待て。『パルシファル』は台本を書いたのもワーグナーですが、『仮面舞踏会』のリブレットはヴェルディでなくソンマじゃないのよ!)

とここでタイムアウト。
カウフマンとジラールが喧々諤々と議論を交わしつつも和気藹々とやっている風で安心いたしました。
後はパペとガッティの関係修復のみ。
ダライマンも初日までに何とかいつものコンディションを取り戻して欲しいと思います!

(冒頭の写真はリハーサル時のもの)

MetTalks: Parsifal

Jonas Kaufmann
René Pape
Daniele Gatti
François Girard
Moderator: Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Parsifal パルシファル パルジファル ***
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RIGOLETTO (Mon, Jan 28, 2013)

2013-01-28 | メトロポリタン・オペラ
”ベガスのリゴレット”。
昨年2月に行われたメトの2012/13年シーズン発表で、
1989年から20年以上存続して来たオットー・シェンクのプロダクションをリプレイスするマイケル・メイヤーの新演出がそんなコンセプトだと聞いていやーな予感が走りました。
そして更に舞台+コスチューム・デザインを見てげんなり。
大体ベガスは私がアメリカで一番嫌っている都市なのでこちらから足を運ぶことを避けているというのに、向こうの方からメトまでわざわざやって来るとは。

実はレポートがすっかりバックログっている(というか、もうこの先も多分書けないだろうと思われる)昨シーズンのSingers' Studioに登場した歌手の一人がベチャワで、
私はヘッドショットの彼がいつも銀行員みたいな格好をしているのと、あのどこかあかぬけない人の良さそうな風貌から、
すごくまじめで大人しく物腰の柔らかい人なんだろうな、と勝手に思い込んでいました。
歌手には大体見た目通りの人と、口を開いたら見た目のイメージとあまりに違ってびっくり仰天!の二パターンがあるのですが、ベチャワはなんと第二のパターン。
特に、作品そのものを尊重せずに演出家のエゴ全開のプロダクションに関しては相当にたまっているものがあるらしく、
これまで実際に出演した演出で馬鹿ばかしいと思ったものの実例をあげながら(南の島に舞台を移したルチアとか何とか言っていたと思います、、。)、
そういった演出がどれだけ糞か、そういう時はどのように演出家に意見するか、ということを、
毒舌ユーモアを交えつつ、頭から火を噴き噴き語っている様子に、”面白いわあ、、この人、、。”とすっかり見直してしまった次第です。

なので私は演出があまりにも行き過ぎたなら、ベチャワがリハーサルでメイヤーに噛み付いてくれるだろう、と安心していたのに、
上演が間近になったある日、メトがリリースしているこんなリハーサルの映像を見てしまったのです。



ベチャワ、、、何鼻の下延ばしとんじゃ。
しかも、”(ヴェガスに舞台を移しても)上手く話の辻褄が合ってる。”だとー!?
「シナトラ的なマントヴァ公」のコンセプトがいたく気に入ったらしく、
嬉しそうに”あれかこれか”を歌っているベチャワに、”この人に期待したあたしが馬鹿だった、、。”とがっくり失望です。

『リゴレット』は私の大好きな演目であるので、メトで上演がある年(そしてそれはほとんど毎年と言ってよい、、。)には
一つのキャストの組み合わせに付き最低一度は鑑賞するようにしているのですが
シェンクの演出が20年存続したということは、これすなわち、私はメトではシェンク以外のプロダクションを観たことがないということなんです。
(日本に住んでいた頃来日公演で他のオペラハウスのプロダクションを見たことは勿論何度かありますが。)
シェンクの演出は『リゴレット』に限らず、旧リングをはじめとする他作品でも超トラディショナル+リブレットに忠実がモットーで、
これは全くもってゲルブ支配人の趣味と相容れないらしく、順調(?)にメトの舞台からシェンク演出が消えて行っています。

ここ数年、私が新演出ものに不満をぶちまけた記事が数本ありますが、
それを読んでMadokakipは演出に関しては超コンサバなんだな、写実的なプロダクション以外は受け入れられないんだな、
と思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。
私は単に、作品が本来伝えるべき内容・観客の心に引き起こすことの出来る激しい感情、
これらをきちんと伝えられない・起こすことの出来ない出来損ないの演出が嫌いなだけです。

時代や場所の設定を読み変えるのも、どんな悪趣味・反道徳的な舞台でも構いませんが、
それは上で書いたことが出来るという条件つきで、です。
大体オペラの演出というのは、リブレットに忠実に行ったとしても大変な作業なのに、
そこで時代や場所の設定を変えるというのはさらにそこからハードルを高くする行為以外の何者でもなく、それだけの才能が演出家にあればいいですが、
ゲルブ支配人がたまたま無能な演出家ばかりを選りすぐって連れて来ているからなのか、それとも今活躍している大抵の演出家にはそんな才能はないからか、
少なくともメトで私が鑑賞している範囲内では自分で上げたバーをきちんとクリア出来ている演出家はほとんどいません。
だから、60年代のラスベガス、、と聞いた時にいやーな予感がしたわけなんですが、
ミュージカル『スプリング・アウェイクニング』(邦題:『春のめざめ』)の成功(トニー賞を受賞しています)
で知られるマイケル・メイヤーは自分が高くしたハードルをきちんと越えてみせられるのか、それとも見事に足が引っかかってすっ転ぶのか、、?



まず、私が今回の演出で一番びっくり仰天したのは、悪趣味の極みと言ってもよいセットでも、
第三幕に登場する胸丸出しのストリッパー(しかし、日本の皆様、特に男性には残念なことに、HDでは丸出しにはならないそうです。)でもなく、”字幕”です。
演出のメイヤーか誰のアイディアか知りませんが、なんとメトは座席の同時字幕システムで長らくこの演目で使用されて来たスタンダードな翻訳バージョンから、
新演出のために特別に訳し直した、いわゆる”ラスベガス・バージョン”にとりかえてしまったのです。

公爵に迫られるチェプラーノ伯爵夫人の返答の訳がベガス・バージョンでは"Chill out, fella.”みたいなことになっていて私は座席から引っくり返るかと思いました。
これは正直、大・大・大問題です。
原語のイタリア語ではCalmatevi、確かに(そう性急にならずに)落ち着いて頂戴、という大意は同じかもしれませんが、
”お心をお静めになって”(新潮オペラCDブックの永竹さん訳)と言うのと、”ちょっと、あんた、落ち着いてよ。”(ベガス版のMadokakip訳)と言うのでは、
随分ニュアンスが違うと思いませんか?
ましてや、オペラは演劇と違って言葉一つ一つに音楽が付いています。
ここの部分の優雅な(しかし、貴族的な欺瞞に満ちた!)音楽を聴いて、”ちょっと、あんた”みたいな言葉遣いを想像する人はいないと思います。

大体、”あんた”というような言葉をマントヴァ公に吐くというのも問題です。
私はアメリカ人のオーディエンスの多くが完全には理解できない感覚に”生まれ付いて持っている特権”というのがあるのではないかな、と思っています。
イタリアをはじめとする多くのヨーロッパの国には貴族がいるし、日本には皇族があります。
嫁入り・婿入りをする場合を除いて、私達一般ピープルが貴族や皇族に入れる確率はゼロ。
貴族や皇族は”生まれる”ものであって、”なる”ものではないのです。

アメリカにも勿論生まれつき金持ちという特権階級はいますが、金持ちと貴族はちょっと違うな、と思います。
例えば、この私だって金持ちには”成れる”かもしれませんが、さっきも言ったように、貴族に”生まれる”ことは出来ないからです。
シナトラとかディーン・マーティン(この演出でのもう一人のマントヴァ公のインスピレーション源だとか。)のようなスターも、やはり
この区分で言う”成る”ものであって、”生まれる”ものではない。
”誰でも頑張れば成功できる!”という考えが好きなアメリカでは、”なる”ことの出来る希望や可能性が存在する事が重要であって、
”生まれる”という概念はそれを邪魔するものであれ、決して助けるものではないのです。

なので、この国では、どうしても、贅沢とか自分のやりたいことをやれる自由というのが、努力や成功の報酬とイコール、という見方になってしまいがちなのですが、
マントヴァ公のような貴族(しかもマントヴァでは他の誰よりも位が高い)は、なんの努力も成功も必要なく、
それに生まれついた時点で自分のやりたいことを好きに出来る自由を持っていて、その権利をほとんど無意識に行使しています。
それゆえにマントヴァ公には何の悪意もない、その事実が一層、リゴレットやジルダにもたらされる悲劇を悲しく、切ないものにする、、、
これが『リゴレット』のストーリーの一番大切な側面の一つであって、それを誰でもが”なれる”可能性のあるシナトラのような人物と置き換えてしまうあたり、
やっぱりメイヤーはアメリカ人だなあ、、と思ってしまいます。



更に、マントヴァ公をシナトラ/マーティン的人物にしたせいで、
本来宮廷の人々であるはずの役柄(合唱)はすべてラット・パック(60年代に一緒につるんだり仕事をシェアしたシナトラやマーティンを中心とするスターたちの一群。)という設定になってしまい、
宮廷というコンテクストがすっかり抜け落ちてしまったのも問題です。
『リゴレット』の作品で、この宮廷という設定は非常に重要です。
せむしのリゴレット(これもまた彼の性格を語る上で非常に重要なアスペクトなのですがルチーチは全然せむしらしい様子も動作もしておらず、
この新演出で完全無視されています。)に、宮廷の道化をつとめる以外、どんな仕事があるというのでしょう?
彼が生活の糧を得て、ジルダを育てていける唯一の方法は貴族の欺瞞・高慢さに付き合いながら道化に徹することだけです。
だからマントヴァ公を喜ばせるために、本来の彼なら思いもしない言葉を吐いて、モンテローネから呪いの言葉を受ける羽目に陥る。
この作品で面白いのはリゴレットが宮廷の人々に非常にアンビバレントな気持ちを抱いている点で、
宮廷のような閉塞した場所で、毎日顔を付け合わせているせいで、彼らを憎しみ、馬鹿にしながらも、
一方でどこかに彼らからの理解を期待しているような、ほとんど楽観的と言ってもよい気配もあります。
だから、彼らがジルダを誘拐しようとしているとは夢にも思っていなければ、
”悪魔め鬼め Cortigiani, vil raza dannata"でさえ、何もかも投げ打って助けを乞うことで、誰かがきっと手を貸してくれると思っている。
毎日顔を付け合わせて働いている仲間の娘が公爵の慰みものになっている時に、それを見捨てるほど薄情ではないだろう、、と。
だけれども、誰も手を貸さない。
その時に初めて、リゴレットは本当に理解するのです。彼がモンテローネに吐いた一言がどれほど残酷なものだったかを。
そして、その思いが彼をマントヴァ公への復讐へと走らせ、一方でますます呪いの成就への恐怖を強くしていくわけです。

この辺りの微妙さをシェンクの演出は上手く出していて、誘拐してきた女性がリゴレットの妾ではなく娘だと判った時の廷臣たちの動揺、
リゴレットの嘆願から体を背ける様子に良く表現されていました。
彼らも悪人ばかりじゃない。でも、リゴレットを助けるという事はマントヴァ公に逆らうこと、、
宮廷での立場を簡単に失えないという点では彼らもリゴレットと同様に自由のない宮廷の世界にがんじがらめになった存在なのです。

ところが、この新演出では宮廷という枠を取っ払ってしまったので、先に書いたようなリゴレットの思考内容や順序が意味を成さなくなっています。
そもそもこのベガス版でのリゴレットは一体誰&何者なんでしょう?
どうしてラット・パックとつるむ理由があるんでしょう?
リゴレットとマントヴァ公の関係は何なんでしょう?
上に書いたリゴレット嘆願の場面もラット・パックは全くの無表情かあざける様子を見せているかのどちらかで、
宮廷という閉じた場所で起こりがちな、家族関係にも似た愛憎混じる複雑な感情をシェンクの演出のように見せられていません。
また、場所と年代を置き換えて宮廷という大切なコンテクストを抜きながら、それを代替するものの説明がきちんと演出の中で成されていないから、
それぞれのエピソードをつなぐリンクが弱くなって、本来この作品が持っているパワー、観客の胸に巻き起こすことのできる悲しみや興奮を生み出せていないのだと思います。



どんどん指摘を続けましょう。
次は”呪い”です。
この作品の前奏曲は呪いの動機で始まって、全幕を通してリゴレットは何度も呪う・呪い(maledivamiとかmaledizione)という言葉を歌い、作品の最後に彼が吐く言葉もこれです。
つまり、この作品は最初から最後まで呪いとリゴレットがそれに対して感じている恐怖が通奏低音にあるわけです。
その作品のテーマと言ってよい呪いを導き出すのはモンテローネが”Sii maledetto! (貴様の上に呪いあれ!)”と歌う場面なわけですが、
メイヤー演出では、モンテローネがなぜかアラブ人という設定になっていて、横でリゴレット役のルチーチがガトゥラに擬して頭にタオルをのせてうろうろ歩き回ったりしているものですから、
呪いをはく部分も含めてこのシーンをコミカルと感じる馬鹿で幼稚で悪趣味なオーディエンスが結構いたために始終笑いが客席から起こっていて、
この場面が本来持つべき、背中が凍るような怖さを感じることが全くできませんでした。
私がどこかで目にした記事で、メイヤーが”(この呪いをかける場面は)現代の感覚からすると唐突で不思議な感じがするので、
それを解消するためにアラブ人のアイディアを採用した。”と語っていて、
つまり、変なことをやらかすのもアラブ人ならば納得でしょ?というような不思議な論法だったんですけれど、
こう言っちゃ何ですけど、私からすると、アラブ人が変だと言うなら、ユダヤ人も負けず劣らず奇妙ですよ、まじで。(ちなみにメイヤーはユダヤ系アメリカ人)。
そんなだったら、代わりにキッパーをのせたユダヤ人の横で、ルチーチが頭に小皿でも載せてうろうろしていてもいいと思います。
そんなことを非ユダヤ人の演出家がやったら大問題になっていると思いますけどね。
こういう他文化を笑いのネタにするような幼稚なユーモア・センスは私は持ち合わせていないですし、
この作品のどこで笑いを取りに行こうと、ここだけは真面目にやらなければならない!という箇所があるとすればここで、
呪いのテーマとそのトーンの設定をしくじる、ということは、全幕にわたってその影響があるわけで、ここは今回の演出で一番失敗していた部分として私は挙げます。



そして、三幕もむむむ、、です。
スパラフチーレとマッダレーナが営んでいるのは少し町外れと思われるストリップ小屋で、
前奏の部分の音楽(実にせつなく美しい旋律、、)をバックに、ベチャワがまた鼻の下を延ばして例の胸丸出しのお姉さんがポール・ダンスをするのを眺めている、という設定です。
そのストリッパーがいなくなった後に、マッダレーナが登場するのですが、このマッダレーナもストリッパー兼売春婦なんでしょう、
スリップ姿から出ているハイヒールを履いた足が超美脚で足フェチの男性ならずとも、
”おお!!”と一瞬驚きの声をあげそうになりますが、歌声が出てきてその声は”ええ!?”に大転換です。
このメト・デビューのヴォルコワというメゾは、絶対に脚の美しさだけを買われて起用されたのだと思います。
声に深みも色気も何もなく、というか、オケにかき消されて歌声が全く聴こえない、という有様で、
出番は少ないながら、四重唱の一端を担う大切なパートなのに、全くいないも同じ。ほとんど三重唱の世界になってました。
こんな三流メゾ、キャスティングするな!って感じです。

演出で問題、かつ、オペラ演出家としてシェンクとの度量&レベルの違いが悲しい位に露呈してしまうのが、嵐の場面です。



上の映像は25周年記念ガラでそのシェンク演出の『リゴレット』の三幕が抜粋演奏された時の映像なんですが
(パヴァロッティとギャウロフという垂涎コンビにステューダー、スヴェンデン、そしてレヴァインの指揮。
このYouTubeの抜粋には登場しませんが、リゴレットはヌッチお父さんでした。なんという贅沢な、、。)、
ジルダが宿に飛び込んで行った後、時々雷光が走る以外、ほとんど何も見えないのがわかるかと思います。
このはっきりとは見えないということがどれほど恐怖を倍増させるか!
オーディエンスのイマジネーションほど強力なものはないのです。しかもこんな音楽が後ろで鳴っているんですから!!
能無しみたいに何でもかんでも逐一見せるのではなく、もっともっと演出家はオーディエンスの想像力を信じてほしいと思います。

今回の演出ではネオンライトが雨と雷を表現しており、ジルダ殺害中もこうこうと照明はついたまま。
しかも、この場面って、暗がりで音楽を聴いているとそうは思わないのですが、殺す様子をいちいち視覚化しようとすると、
すごく慌しくてせかせかして、時間が足りないのが目立つ感じがします。(人はそう簡単には死なないですからね、。)

観客に胸がバクバクするような恐怖を与える能力、また音楽の長さと表現すべきことを統合する能力、
いずれの面でもメイヤーはシェンクのセンスの足元にも及ばない感じです。



相当にネガティブなことを書き並べて来ましたが、それは私がメトのような劇場はオペラとその作品を、きちんとした形で次の世代に渡して行く義務があると思っていて、
初心者が見てもその作品の言いたいことと真価がきちんと伝わるようなそういう舞台を作っていかなければならない、という信条に立っているからです。
このメイヤーという演出家はある種の舞台を作る能力やスキルは高いものを持っていると思うし、
『リゴレット』のパロディーとして、『リゴレット』という作品の本来の形を知っている人間があくまでバリエーションとして鑑賞するにはエンターテイニングなものに仕上がっているとは思います。
そして、そのためにそれなりにきちんと頭で考え、努力を積んだ形跡は十分感じられるので、
ボンディの『トスカ』を見た時のような”手を抜きやがって、、”という怒りは感じません。
また、延臣がジルダを誘拐する場面でリゴレットが娘が連れ去られたことに気付くまでの成り行きはリブレットの設定自体に”そんな馬鹿な、、。”な要素があるので、
シェンクの演出をも含めて、多くのプロダクションが苦労し、かつぎこちない結果に終わってしまっている非常に難しい部分だと思うのですが、
メイヤーはこの部分を二台のエレベーターを使うことで非常に上手く処理しています。

ただ、じゃ、これが『リゴレット』という作品ですか?と言われたら、字幕の書き換え
(そういえば、リゴレットがジルダを指して言うmia figlia(わしの娘)という言葉もmy babyになっていて、ダムラウがbaby..とちょっとひきました。)や上で書いたこと全ての理由で、私はそうは思わないし、こういうものが堂々とメトの舞台に上がるようになった、ということに非常に複雑な気分を持っています。
entertaining(娯楽としては良く出来ている)だけど、本来作品があるべき姿を伝えていないし、moving(心に響いてくるもの)でもない、そういう感じです。
オペラの演出家はブロードウェイの演出家と違って、エンターテイニングなものを作るだけでは駄目で、後者が出来ないと。

私の隣にいらっしゃった三人連れは『リゴレット』の鑑賞が初めてか、限りなくそれに近い感じで、
最後に7:3位の感じでブー(3の方)が出たのに、”えー、ブー出してる人がいるよー。なんでー??”って言ってました。
もう少しでMadokakipが彼らの方を向いて、”これは『リゴレット』のパロディーであって、本物の『リゴレット』ではないからです!”と説明してしまいそうになりましたが、
このプロダクションはなまじそこそこ(パロディーとしては)良く出来ているので、
こういうリアクションのお客さんも出て来てしまう、そういう意味ではちょっと性質の悪い演出だと個人的には思います。



キャストで最も感銘を受けたのはダムラウです。
彼女の声はお子さんが産まれてから随分野太くなって来たな、と思います。
メディアの評でも、そこを指摘し、彼女がジルダには向いていない、と指摘しているものが少なからずありました。
確かに声の響きと質の話だけに限った話をすれば、ジルダ役を歌うギリギリか、もしくはアウトグローしているととられてもおかしくない部分はあります。
以前の彼女の声を特徴・個性づけていた硬質でメタリックな美しさは減少し、その分声が温かく野太くなって、
ジルダ役を歌うような歌手からは普通まず聴くことのない、ちょっとぎょっとするようなドスのようなものを感じる時もあります。
また、テクニックには定評のある彼女なんですが、この声の変化のせいで、アジリティに以前程の軽さや鋭さが感じられなくなっている部分もあります。
でも、それを全部加味しても、私は今まで彼女で聴いたイタリアン・レップの全ての公演の中で今日の歌唱を一番高く評価します。
私がこれまで彼女に対して不満があったとしたら、歌があまりにスキルに走っていて、魂みたいなものが十分に感じられない、というものでした。
特にイタリアもので魂が感じられない歌唱というのは私にとっては致命的な欠陥です。
今回の彼女はテクニカルな部分では上のような変化はありますが
(しかしそれはあくまで過去の彼女との比較であり、絶対的な尺度で言うと今だってぶっちぎりの上手さで、
今日彼女が披露したような技術的に卓越した"慕わしい人の名は Caro nome”はそう聴けるものではありません。)
一つ一つの音符が以前よりもずっと表情豊かで、かつ、ジルダの感情を表現しようとする意図や目的意識を感じるもので、
また子供の誕生・成長といったプライベートが関係しているのか、歌に愛が溢れている!! 私にはそのことが何よりも喜ばしいことでした。
音の響きの美しさや技術の完璧さは年と共にやがて衰えて行くものですが、表現力と音楽性は永遠です!
メト・オケとのコンサートでドイツ歌曲を披露してくれた時に、その表現力に驚き、
表現の面でもこんなに力のある人なのか、、この表現力がイタリアン・レップにも及んでくれればいいんだけどな、、と思っていたのが、ついに現実になったのを聴けた感じです。
以前はシーズン発表などでダムラウがイタリアン・レップに登場すると知ってもふーん、、、という感じだったんですが、
これでこれから先彼女のイタリアものも聴くのが本当に楽しみになりました。
マフィアな指揮者と”今日のダムラウは素晴らしいね。”と盛り上がっていると、そこに招かざる客、フランスのエロじじいの登場!です。
ダムラウは超美人というわけではないし、オポライスみたいに手足は長くないかもしれないけれど、
さすがにこんな素晴らしい歌に文句はつけられまい、、と思っていたら、
”僕は彼女がもっと上手く歌う時を聴いたことがあるし、あの彼女のフォルクス・ワーゲン並みのでか尻では、とても純粋で可憐な処女ジルダには見えないねえ、、。”
もうほんっとにこのじじいはどこまで失礼な奴なんだ!?と殴りかかりたくなる衝動を抑えるのに一苦労でした。
しかも、でか尻って、一寸法師のお前が言うな!って感じです。(彼はちなみに私の2/3くらいしか身長がない。)
彼の言葉の前半部分(もっと上手く歌うのを聴いたことがある)は、それは先に書いたような事情で一部真だと思いますが、
オペラの歌唱というのは技術だけではないんですよ、本当。私は今の彼女の歌唱の方がずっと好きです。




ベチャワは批評家はおしなべてポジティブな評を出してましたが、私は歌唱の方ではトップ・フォームだとは思いませんでした。
もっと良い歌を披露している時の彼をメトで聴いたこともあるし、それと比べると今日は特に一幕でピッチのコントロールに微妙に苦労していたように見受け、
経験もある彼なのでなんとか許容範囲に収めてましたが、楽にデッドオンのところに音が入っていなくて一生懸命調整しているようなもどかしさがありました。
”あれかこれか Questa o quella"ではもう少しホールドして欲しい高音をすっと早く畳んでしまったりしていて、
この曲の、ひいては公爵役のグランドさが今一つ出てなかったし、それに伴ってオーディエンスが感じるべきわくわく感も割引されてしまいました。
かえって第二幕の冒頭のアリア、それからその後延臣たちとのやり取りをはさんでのPossente amorの部分、
こちらの方がシナトラ/マーティン的人物造形と音楽を上手く統合した魅力的な歌だったと思います。
三幕の最後でリゴレットの耳に舞台裏から聴こえてくる”女心の歌”での最後のpensierは綺麗な高音が響いていてあの場面のテンションを一気に高めるのに貢献してましたし、
トップ・フォームでなくても、こういうところを外さないのはさすがだな、と思います。
また、主役3人の中で最も無理なくメイヤーの演出に溶け込んでいたのはべチャワでした。
無理なく、というよりも、かなり喜々として演じてたと思います。銀行員みたいなルックスのくせに、意外とすけべなの。
ただ、マントヴァ公は好きに生きていればいいだけで、他の登場人物とは一切深いレベルでのインタラクションがないので
それもこの演出でも彼が演じやすく感じる理由かもしれません。



そうは簡単に行かないのがルチーチ演じたリゴレット役で、この演出の問題点をもろに被ってしまった感じですが、
メイヤーだけでなく、ルチーチにも責任の一端があると思います。
とにかくこのブログでも何度も書いて来た通り、彼のパフォーマンスには波があって、歌も演技も別人のようにスイッチがonになったりoffになったりするのですが、
今日の彼は声と歌の技術についてはon、歌での表現と演技についてはとことんoffでした。
私は彼の声はすごく好きだし、彼のどこか温かく、歌い方自体は洗練されていながら、
それでいてアーシーな感じのする音色はリゴレットに本来はすごく向いていると思っていて、
今日の公演も何度もやっぱり綺麗な声だな、、と感じる箇所があるし、アリアや重唱もものすごく丁寧に上手く歌っているのですが、
ダムラウの歌とは逆に全くハートが感じられないんですよ、、、
リゴレットみたいな大役でハートがないというのは、これはまずくないですか?
演技にいたってはもう完全放棄!という感じで、正直、ルチーチ的には全くメイヤーのビジョンに同意できないか、もしくは全く理解できていないんではないかな、と思います。
先に書いたように、せむしでもなく、普通のおっさんで、しかもマントヴァ公との関係性もはっきりしないものですから、
どのようにこの役を解釈して演じればいいのか、見当もついていない、という感じに私には見えました。
なので演じる部分をあきらめて、歌に重点を置いたのではないかな、と推測してます。
よって声も歌唱の技術も水準以上の内容だったのですが、しかし、歌による表現は役をどのように理解しているかということと切り離すことは出来ませんから、
歌唱技術からすると奇妙なまでに釣り合わない、味気ない歌唱になってしまったのだと思われます。
NYポストでは、車のトランクに瀕死のジルダを発見する(そう、袋の中ではなく車のトランクなんです、この演出では。)ルチーチの驚き方が、
車のスペアタイヤを忘れたのに気付いた時の程度の驚き方にしか見えなかった、と皮肉られてました。
それにニ幕のジルダを奪い返しに行く場面も本当にフラットで、上手く歌えてる割にこんなに胸に迫って来ない”悪魔め、鬼め”も珍しいな、と思いながら聴いてました。

これはヌッチお父さんが東京で歌った時の”悪魔め、鬼め”ですが、なんという雲泥の差の、胸を抉られるようなパッション!!
オケの演奏も火を吹いてますね。素晴らしい。これこそ『リゴレット』です!!



コーツァンは私あんまり好きな歌手ではないのですが、このメイヤー演出のスパラフチーレのいかがわしいヒットマンみたいな人物像にはすごく合っていて◎。
ドン・カルロの宗教裁判長、ドン・ジョヴァンニの騎士長、アイーダのランフィス、、と、何をやってもいまいち役にフィットしなくてうーん、、と思っていたのですが、
やっと、彼のどこかいかがわしくちんぴらっぽい個性を活かせるプロダクションが出て来て良かったですね。
プロダクションに個性が合っていると歌いやすいのか、シェンクの演出時代に聞いた彼のスパラフチーレより断然良かったし、一幕の低音も決まってました。
ただ、彼のリズム感のないのは相変わらずで、今日もどうしてそんなところで躓くかな?というところで小ミスを出してました。

ミケーレ・マリオッティは1979年生まれですのでまだ30歳代前半の若い指揮者。
ボローニャ歌劇場で指揮していて、日本公演にも同行したようですので彼の指揮を生で聴かれた方もたくさんいらっしゃると思います。
今日のキャストはいずれもキャリアの豊かな歌手たちで、彼らがちゃんと歌えないようならもうあんたは指揮者を辞めた方がいいよってな位のもので、
彼らの力、そしてオケ自身の力(リゴレットは彼らが最も多く演奏している演目の一つですから、、。)に助けられたところもたくさんあったと思いますし、
まだまだ技術的に未熟な部分もある彼ですが、出てくる音には彼らしい個性があって、私は決して嫌いなタイプの音作りではないですし、
放っておいたらメト・オケが鳴らすであろう音楽とはかなり違う彼なりのサウンドが出ているだけでもこの若さを考えれば大したものです。
ルイージの流麗で凝った音作りに比べると、素朴ですがイタリアの演奏の伝統を踏襲しているのを感じる音作りで、
これで技術が付いて来たら面白い指揮者になるかもしれないな、と思います。
歌を押し潰さないように、と、歌手を気遣った音作りをしている点も好感を持ちました。


Željko Lučić (Rigoletto)
Piotr Beczala (The Duke of Mantua)
Diana Damrau (Gilda)
Štefan Kocán (Sparafucile)
Oksana Volkova (Maddalena)
Maria Zifchak (Giovanna)
Robert Pomakov (Monterone)
Jeff Mattsey (Marullo)
Alexander Lewis (Borsa)
David Crawford (Count Ceprano)
Emalie Savoy (Countess Ceprano)
Catherine Choi (A Page)
Earle Patriarco (Guard)
Conductor: Michele Mariotti
Production: Michael Mayer
Set design: Chiristine Jones
Costume design: Susan Hilferty
Lighting design: Kevin Adams
Choreography: Steven Hoggett
Dr Circ A Even
BS

*** ヴェルディ リゴレット Verdi Rigoletto ***
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LA RONDINE (Sat Mtn, Jan 26, 2013)

2013-01-26 | メトロポリタン・オペラ
こちらで書いたような事情で、実際に劇場で鑑賞するまでは何を言ってみたところで、
”ラジオじゃ良さはわからん。”とか”聴く前から良くないと決め付けとる。”とフランス人の友人に言われ続けることになるので、
堂々とオポライスに対する意見を言う権利を得るため、今日は土曜のマチネの『つばめ』にやって来ました。

実はあの後も彼はまるで初恋相手への思いを吐露するかのように熱く&しつこく彼女のことをメールで語るので、
私はもうすっかりうんざりしてしまって”いい歳こいてこのエロじじいが!”(ちなみに彼の御子息と私が同い年。)とこっそり、
いや、もう返事の文面にもそのニュアンスを丸出しにしておいたので全然こっそりではないんですけれども、思っておりました。
いつもは同じ公演を見に行くとわかると事前にインターミッションで落ち合う段取りなどを確認し合うのがならわしで、
年末年始にバカンスでNYを離れていた彼と会うのはほとんど一ヶ月ぶりですのでこの件があるまでは会うのを楽しみにしていたのですが、
もうあと一言彼からオポライスへのラブ・コールを聞いたならば、間違いなくその場で彼を絞め殺してしまうと思うので、
今回は会わないのがお互いの身のため、、、ということで、
今日は一人でインターミッションを過ごすつもりでベルモント・ルームに向かい、
飲み物のオーダーと勘定を済ませ、振り向いたところで思わず”きゃっ!!” です。
フランスのエロじじいが”Madokakip~!"と両腕を広げて立っているではありませんか!
そして久々の再会を喜び合う抱擁の後に、彼が私の両手を握りしめながら大真面目な顔で言うのでした。
”君の言う通り、僕は彼女に恋してしまったようだよ、、



私がオポライス個人に対して過剰な反応を示しているように感じられたり、
あるいは、彼がオポライスにぞっこんなのを私が嫉妬しているのでは、、?
という的外れな推測をされている方がいてはいけないので少しここで説明しておかなくては、と思います。

もちろん美人なのが悪いわけでは決してありません。
オペラが視覚も伴うアートフォームであることを考えれば、一般的に言って歌手も見目麗しい方が有利なのに決まってます。
しかし、視覚的な美しさはプラスα以外の何者でもなく、また、それ以外の何者になってはいけない、
ルックスや演技も含めたビジュアルは決して歌唱(音楽による表現も含む)の不備や欠点や物足りなさを補うものではないはずです。
だから、私は歌唱にまずきちんとした公平な評価を与えないでおいて、ビジュアルとの単純な加算合計が大であればOK、という考え方にはまったく反対だし、
そこを混同するような間抜けはまさか私の身の回りにいないでしょうね、、と思っていたのが、
『ファウスト』のポプラフスカヤにメロメロになり、ミードのアンナ・ボレーナをぼろくそけなし、
『マリア・ストゥアルダ』のディドナートやヴァン・デン・ヒーヴァーを貶めかと思うと
オポライスをまるで不世出のソプラノであるかのように褒めちぎる、、、
彼の度重なる蛮行にとうとう私の堪忍袋の緒も切れたというわけです。

この話を連れにしたら、あっさり一言。
"That's because he is listening with his dick."
(それは彼が耳じゃなくチン○で聴いてるからだな。)
おお!!!こんなぴったりの表現、もっと早く教えてくれればいいのに!



シンガーズ・スタジオの記事にも書いた通り、
『つばめ』の初日の公演でのオポライスは批評家から大絶賛されて、
メトが慌てて先のシーズンに彼女をキャスティングする交渉(特にHDがその一部であるだろうことは想像に難くありません。)に出た、という話もありました。

私が同じ日にシリウスで聴いた彼女の歌唱からは、そこまで大騒ぎするほどのものを感じなかったので、
それを説明できる唯一の可能性として、彼女の声のグランドさや響きの豊かさがラジオのような媒体では十分にトランスミットされないケースか、と思っていて、
なので私は彼女をテバルディに似たタイプの歌手なのかな、、と想像してました。
オポライスがシンガーズ・スタジオの時に、自分の声種はスピントであると何度も言い張っていた、それも理由の一つです。
『つばめ』のマグダ役は冒頭からすぐに登場し、”ドレッタの夢”のような聴かせどころもすぐにやって来るので、
この役を歌うソプラノは最初からエンジンをかけようとしているはずなんですが、
それにも関わらずオポライスの声が私のイメージしていたのと全然違っていて拍子抜けしました。
声のボリューム・ふくよかさいずれも、シリウスに乗り切らないどころか、私がシリウスで聴いて想像していた”以下”です。
仮に今回のように前評判のせいで期待が膨れ上がっていたわけでなく、ニュートラルな状態で彼女の声を聴いたとしても、
”割と小さな、劇場であまり響かない声だな。”というのが第一印象になったと思います。

彼女の歌唱でこの日一つだけ耳をひいたものがあったとしたら、それは”ドレッタの夢”のFolle amore! Folle ebbrezza!の両方のfolleで彼女が出した音で、
舞台の彼女の立ち位置とは全く違う、それでいてどこと特定出来ない場所から音が鳴って来ているような感覚を起こす不思議な音色で面白いなと思いました。
ただし、全幕を通してこのような音を彼女が出したのはこの箇所だけでしたが。



シンガーズ・スタジオの時に彼女が、かつて、ある先生Aは彼女をドラマティコだといい、
また別の先生Bはルチアやヴィオレッタを歌わせようとし、
結局最終的にはその二人とは更に別の先生Cの主張するスピント説で落ち着いた、という話を披露していて、
この三つはかなりディスティンクティブに違う種類の声だと思うので、
”変なのー。”と思いながらその話を聞いていたのですが、
彼女の声を生で聴くと、何となくですがその紆余曲折の理由がわかるような気がしましたし、
そして、それと同時に彼女が本当にスピントかどうか、その点について私はかなり懐疑的になっています。

やはりスピントと聞けば連想されるレパートリーというものがあり、
さらにそのレパートリーから想像されるオーケストレーションの厚さ、というものがあって、
だから、ある歌手が”私はスピントです。”と言う時、当然、オーディエンスとしては、
それらのレパートリーのオーケストレーションをきちんと越えて響いてくる声を想像するわけです。
ところが彼女の声はかなり軽くて小さくて、ルチアやヴィオレッタを歌わせようとした先生がいた、というのは全然不思議じゃないです。
しかし、彼女の発声には通常べル・カントを得意とする歌手が持っている、
そのお陰で小さな声でも劇場の隅々にまで音が届くのを可能にする音の響きや鳴り方が備わっておらず、
また彼女は一般的に言って、音を力いっぱいフォースするような歌い方をするので、
それがまるでスピントやドラマティコに向いている・であるような印象を一部の人に与えるのではないかな、と思います。
でも、スピントやドラマティコのレパートリーを歌うのを可能にするのは歌い方だけではなくて、
それを支える声の方も大事な要素の一部なんであって、
私が聴いた限りでは彼女の声はドラマティコはおろか、スピントのレパートリーですら、
こんな声で実際の劇場の全幕公演を歌って通用するのかな、というような種類のそれです。
歌唱で消費されている力が全部音になっていないため、音が薄っぺらくすかすかですし、、。
彼女はスピントのロールを歌っている時が一番楽、と言っていて、それは素晴らしいことだと思いますが、
彼女が”歌っている”つもりでも、こんな声で歌われるスピントおよびドラマティコのロールは、
聴いているオーディエンスの方が満足感を得れないと思います。

またこんなことを言うと、フランスのエロじじいと第三次世界大戦並みの戦いが勃発しそうですけれども、
そもそも、彼女が世界で一級レベルのソプラノという前提で、どの声質かに無理矢理カテゴライズしようとするから
どうやっても辻褄が合わない、説明しきれない、、ということになってしまうのであって
私に言わせれば、彼女をどの声種にもカテゴライズしにくい理由の一つは、どのカテゴリーにおいても彼女がB級であるからで、
つまり、彼女は少なくとも今は世界一級レベルのソプラノなんかでは全くないのであって、
どうしてこんな簡単なことが70年以上も生きてきてあのエロじじいはわからないかな、、と思います。



ここまでは彼女の素質や声の話でしたが、次に表現、特にこの『つばめ』のマグダに関して。

彼女のマグダを聴いていて、一番良くわかったのは、”ああ、彼女の蝶々さんはこんな感じに歌うんだな。”ということ。
そう、マグダを聴いているのに、蝶々さん、なんです。
蝶々さんは15歳かそこらの少女で、どんな時も心情を正直に吐露するし、
ピンカートンが彼女を現地妻と見ていようが、彼女の方はピンカートンの奥さんと会うまで自分は堂々の本妻!と思っていて、
プッチーニが蝶々さんに与えているパートはそれを反映するものになっていると思います。
一方、マグダは自分のグリゼット(お針子など本職を持ちつつ、男性と金・プレゼントなどを対価に寝る女性たち)人生に”そろそろこのままではいれない、、。”と思いつつ、
しかし、最後にはそこに戻って行くことを選ぶわけで、そこには人生への諦観もある、、、俗な言葉で言えば蝶々さんよりずっと”大人”の女性です。
だから、蝶々さんの表現に必要な一目盛りとマグダの表現に必要な一目盛りは幅が違っていて、
マグダを歌う時にその微妙な匙加減を表現し尽くせず繊細さを失うと、この話の肝心なメッセージが観客に届かない、ということがあると思うのです。
オポライスは先の素質の部分について書いたような、歌唱方法の問題(音を響かせるよりも力で音を押そうとする)も関係しているのかもしれませんが、
マグダを歌う際にもアプローチがすごく蝶々さん的=マグダの表現に必要とされるそれに比べて表現が大味で、
大切なディテールが落ちていたり、マグダがどのような感情を持ちながらある言葉、フレーズを歌っているのか、それが全く伝わって来ない箇所がいくつもあって、
まるで蝶々さんを歌っている、その言葉だけが『つばめ』の作品のそれになっているような妙な感覚でした。

例えば、一幕でマグダが
Denaro! Nient'altro che denaro! Ma via! (お金!お金以外は何もない!私の人生!)と歌いますが、
このDenaroという言葉を彼女は単純に音として歌っているだけで、
それを本気で嘆いているのか、自虐的にそう言っているだけなのか、、マグダのスタンスを表現する何らの感情も伝わって来ないのです。
ゲオルギューが2008/9年にこの役を歌った時
彼女はマグダがお金に対して持っている飽くなき憧れ・執着をdenaroというたった一つの言葉に込めていて、上手いなあ、、と思った覚えがあります。
プッチーニがこの単語につけた音楽を聴けば、そして、この『つばめ』の話をきちんと消化していれば、
ゲオルギューのこのアプローチが最も適切だと私は思っていますが、違うアプローチでも構わないから、何かをきちんと表現して欲しい、と思うのですけれど、
オポライスの表現は本当のっぺらぼうでがっかり。



それからラスト、ここも大問題です。
オポライスはシンガーズ・スタジオで、マグダのことを”段々死んで行っている”と表現していました。
ルッジェーロと出会うまではそういう解釈の仕方も出来ると思います。
でも、ルッジェーロに出会ってから、それから別れる決心をするまで、マグダの気持ちはどのように変わっていくのでしょう?
最後に別れる決心をしますが、あれはマグダにとって死を意味するの?それとも死から抜け出たの?
彼女は最後のAhをきっちり歌うことに相当神経を使ってたようで(この最後の音を出すのにかなり硬くなっているのが伺えました。)、
その甲斐あって、音そのものはきちんと出てましたけど、メトに来て、きっちり音を出すので精一杯、というのもなんだか寂しい話です。

このAhはマグダ役を歌うソプラノがどのようにこの作品を解釈しているかがわかる大事な音です。
私はこの作品はマグダが結局自分の望むライフスタイルを再確認し
(だからゲオルギューのようにお金への未練が絶ちがたい、ということを先に表現しておくことが大事なのです。)、
それを選ぶ自由のために、愛を捨てる、
つまり、人生において、何かを採れば、何かを犠牲にしなければならない、というメッセージがあって、
それが表現出来てこそ、この作品が老若男女問わずにオーディエンスにアピールする公演になると思うのです。

私はだからこのAhには自分が解放され、居るべきところに戻っていけるという気持ちと、
そのために失ったもの(愛)への寂寥感、この両方、特に後者がきちんと描けているのが理想で、
残念ながら生で聴くことは出来ませんでしたが、以前こちらの記事で紹介したオフリンの歌がこれを完璧に歌唱で表現しています。
先述の2008/9年シーズン中、ゲオルギューが出演をキャンセルした日にオフリンがカバーに入った公演で、
この最後のAhを聴くと、なぜ、この作品が『つばめ』というタイトルなのか、そして幾重にも重なったマグダの複雑な気持ちを見事に表現しきっています。



同年のHDでのゲオルギューの歌唱はより失った愛と自分の人生に普通の恋愛とか結婚は決して存在しないのだ、
なぜならお金に囲まれた愛人生活が自分の居場所で、そこを捨てることは出来ないから、、という気付きへの悲しみを強調した表現になっていますが、
彼女の表現したいことはきちんと伝わって来ます。



一番いけないのはここで何を表現しようとしているのか、したいのか、が全く伝わってこないAhで、
オポライスのAhから私は何らの感情も感じることが出来なかったし、これが私が彼女の歌を聴いて”音楽性に欠ける。”と思う理由なのです。
実際、公演後、劇場の階段を降りている途中、若いカップルからこんな会話が聞えてきました。

”お母さんの許可とか言ってないで、二人で駆け落ちすればいいじゃないの。”

ああいう歌を聴いたら、そういう風に思ってしまうのも当然だな、、と思います。
それに、マグダだって、どうしてもルッジェーロと別れたくなければ、一々昔のことを告白する必要もない。
ルッジェーロを愛しているから嘘をつきたくなかった、というのも一つの見方かもしれませんが、私はその解釈をとりません。
実際、ルッジェーロは彼女が過去を告白しても、”そんなことは自分にとっては大したことじゃない。”と言っています。
ポイントは、マグダ自身が、お金と自由に囲まれた生活を捨てられない、ルッジェーロと比べてもそちらを採りたい、
ここに気付いてしまった点であって、その意味ではこの話は最早男女二人の悲恋話なんかではなくて、
マグダという女性が自分の身勝手さに気付きながらも、でも”私はこういう風にしか生きられない!”という選択と、
それについて来る代償(彼女の将来が限りなく寂しいものであろうことは誰にでも想像がつきます。)を受け入れる、そういう話なんであって、
それがきちんと歌唱で伝わらないと、上のカップルのような、”何、この話、、?”というリアクションになってしまうのだと思います。



手足が長く長身なのは下手をするとでくの坊になってしまう危険がありますが、オポライスは動きがエレガントで、
舞台でどう動けば綺麗に見えるか、ということは良くわかっていて、それは良く実践しています。
ただ、動きが綺麗なことと演技が上手いというのは全く別の問題で、
本能的な舞台勘の良さを持つネトレプコとは全く違うタイプだし(オポライスはどちらかというと事前にがっちりと演技も固めてくるタイプに見受けました。)、
また、普通に言うところの”演技の上手さ”では現在のオペラ界でトップ・レベルに入るポプラフスカヤ(歌は下手だけど、彼女の演技力はすごいと思います。)と比べて、
特別に秀でているものがあるかというと、そこまでとは私には思えないのですが、この点についてはもう少し他の役でも見てみてから判断したいな、と思っています。

というわけで、私の結論としては彼女についてはシリウスを聴いた持った感想とほとんど同じか、
下手すると未知数だった部分(声の良さ)が大したことない、と確定してしまった分、余計に評価が下がった位で、彼女のどこがそんなに特別なのか、まったく良くわかりません。
それなりにきちんと歌ってはいるのでポプラスカヤみたいな”えーっ!?”というような歌唱ではないですが、
個性とかこの人なりの表現というのが全く感じられなくて、こんなに美人でなければヨーロッパの地方劇場で活躍、のレベルで終わってもおかしくない感じです。

この公演の数日後に『リゴレット』の公演でマフィアな指揮者とインターミッションを過ごし、その際、彼女のことを話題に出したら、
この記事と同じ公演で劇場にいたらしい彼もまったく同じ意見で、”彼(エロじじい)が彼女に一体どんな特別なものを見ているのかわからんねえ、、。”と言うので、
”私の連れが、それは彼が耳でなくチン○で聴いてるからだって言ってた。”と言うと、大笑いで同意してました。
これでちょっと気が晴れたな、、と思っていたら、何とその数分後にエロじじいが我々のテーブルに現れ、
今度は『リゴレット』のジルダ役で素晴らしい歌唱を披露していたダムラウに向けてとんでもなく失礼な言葉を吐いたので、
私が再び”このチンカス野郎!!!”と噴火状態に陥ったことは言うまでもありませんが、その話は『リゴレット』のレポートに譲りたいと思います。



ルッジェーロ役のフィリアノーティはシンガーズ・スタジオの時に、モーツァルトはあまり向いていなくて、
このルッジェーロ役を含めたリリコの役の方が自分に合っていると思う、と言っていましたが、
私はこのルッジェーロ役は音のリープが多く、それが彼のまだ完全復活に100%至っていない部分を強調するような結果になっているように思えます。
それから、プッチーニの作品は歌手に遊びとか冒険を求める部分があって、そこをやり過ぎると下品になるし、やらなさ過ぎると物足りないし、で、
そこがプッチーニの作品を歌う場合に、最も歌手のセンスが問われる難しいところではないかな、と個人的には思っているのですが、
その辺、フィリアノーティはこの作品でもう少し冒険してもいいかな、、ちょっと端正で真面目過ぎるように思います。
彼の端正・真面目・スマートな個性はどちらかというと、ベル・カント・レップやモーツァルト作品の方が合っていると私は思うのですが、
ご本人がそう思っていないのは面白い点だな、、と感じます。
2008/9年の公演では駄目男を歌わせたら天下一品のアラーニャが同役を歌ったのも、フィリアノーティには不利だったかもしれません。
フィリアノーティだったら、マグダからの別れ話なんか、その奥の奥の彼女の気持ちまでさり気なく読んで、
”よしわかった、これっきりにしよう。”と大人な別れ方をしてくれそうな感じがしてしまいます。
アラーニャみたいに鼻をたらしながら(HDの時みたいに、、)”別れないでくれ。”と懇願するようにはとても見えないし、聴こえません。
リブレットには鼻をたらす、とは書いてないですが、”別れないで”と懇願はしますからね、ルッジェーロは。



プルニエ役のマリウス・ブレンチュウはこれが唯一の持ち役といった感じで、メトにはこの役でしか登場しないのですが、どうなっちゃっているんでしょう?
彼はルーマニア出身みたいなので、ゲオルギューの口利きでこの役にキャスティングされたのかな?
2008/9年と同じプロダクションなので、勝手知ったる、、という感じでのびのび歌っていましたが、以前ほど声に軽さを感じられなくなったように思いました。

リゼット役のアンナ・クリスティは今回初めて生の歌声を聴きましたが、こういう脇役ではいいかもしれませんが、
ここから主役級の役をメトで歌って行くようになって行くポテンシャルのようなものは私はあまり感じません。
どんなにきちんとした歌を歌っていても、彼女の声自体にオーディエンスに生理的な心地良さを生みだすものがないからです。
コミカルな演技はそれなりに上手い人ではあるので、キャスリーン・キムと同様、ニッチな路線に活路を見出す必要があると思います。
(ただし、声の綺麗さではキムの方が何倍も上だし、演技の間口もキムの方が広いと思います。)

ゲオルギューの口利きと言えば、指揮のイオン・マリンもそうなのかな、と思います。
彼もルーマニア出身だし、2007/8年シーズンの後の夏にメトのパーク・コンサートの一貫として行われたゲオルギュー&アラーニャ・ガラを振ったのも彼でした。
彼の指揮はなんかあっさりしてますよね、、、
私は2008/9年シーズンの時のマルコのようなべったりメロドラマティックな味付け(先に紹介したオフリンの音源の弦のメロメロぶりなんて、たまりまへん!)
が好きなので、ちょっと物足りなかったです。


Kristine Opolais (Magda)
Giuseppe Filianoti (Ruggero)
Anna Christy (Lisette)
Marius Brenciu (Prunier)
Dwayne Croft (Rambaldo)
Monica Yunus (Yvette)
Janinah Burnett (Bianca)
Margaret Thompson (Suzy)
Keith Jameson (Gobin)
Edward Parks (Périchaud)
Evan Hughes (Crébillon)
Daniel Clark Smith (Adolf)
Stephanie Chigas (Georgette)
Sara Stewart (Gabriella)
Christina Thomson Anderson (Lolette)
Jason Hendrix (Rabonnier)
Lei Xu (A Singer)
Roger Andrews (A Butler)
Conductor: Ion Marin
Production: Nicolas Joel
Set design: Ezio Frigerio
Costume design: Franca Squarciapino
Lighting design: Duane Schuler
Dr Circ C Odd
ON

*** プッチーニ つばめ Puccini La Rondine ***
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THE SINGERS' STUDIO: KRISTINE OPOLAIS & GIUSEPPE FILIANOTI

2013-01-24 | メト レクチャー・シリーズ
以前『ファウスト』の記事にも登場した二人のヘッズ友達、マフィアな指揮者とフランス人の男性、とは
ほとんど週一のペースで劇場で会っているというのに、それだけではまだ飽き足らずに、
週中に見た公演などについて、ほぼ毎日のようにメールのやり取りをしています。
我々三人はすでにお互いの趣味嗜好(もちろんオペラに関することだけ!)を知り尽くした頑固者の集まりですので、
他人の意見に関係なく、正直な感想を述べることが常になっています。

結果、1/11の『つばめ』の初日の公演をめぐって意見が大衝突。
その日、劇場で実際に生の公演を見たのはフランス人の男性だけなんですが、
マグダ役でメト・デビューを果たしたクリスティーン・オポライスについて、
歌や声から「モデルのような」(彼の言。)ルックスまで、褒めて褒めて褒めちぎり、
こんなすごい歌手が出たのは久しぶり!残りの公演も全部観に行く!とものすごい鼻息の荒さです。
マフィアな指揮者は丁度その時NYに居なかったため鑑賞出来なかったのですが、
私は全幕家でシリウスにて拝聴しましたので、いつも通り、思ったままをメールに書きました。

”私はオポライスについては声に特筆するような魅力があるとは感じなかったし、歌唱も音楽性に欠けていて、そこまで特別な歌手とは全く思えない。
まるで蝶々さんを歌っているかのような絶叫歌唱で、違和感大。
マグダ役の歌唱には蝶々さんよりもずっと繊細なコントロールと表現が必要だと思うけど。
それに、リハーサルの時の写真を見たけど、オポライスのマグダって安っぽい娼婦みたい。
そんなの見たかったらメトに行かなくてもマンハッタンにはいくらだってそういう場所があるでしょ。
何年か前に歌ったゲオルギューは見た目も歌もずっと品があって表情も豊かだった。
(ゲオルギューを必ずしも大好きなわけではない私でもそう感じた)。”

するとやがてフランス人から返事が来て、
”ラジオは音声をディストートするから当てにならないよ。生で聴かなきゃ。
あの日、聴衆は大喝采で、花束を舞台に投げ込む人までいたし(メトの舞台に花束が放られるのを見るのは久しぶりだ!)、
第一、批評家の公演評でも全員絶賛だったではないか!
『つばめ』は素晴らしい作品だし、演出も最高だ!”
そして、私が一回は観ておいた方がいい、と彼に薦めた『マリア・ストゥアルダ』に関しては
”あれはひどかった。わしは二度と観に行かんぞ。特にエリザベッタ。”

私は彼が『ファウスト』でのポプラフスカヤを大変気に入り、ミードの『アンナ・ボレーナ』を魅力ゼロ!と一刀両断した時から、
彼のオペラ歌唱におけるスタンダードを内心大いに疑問視しているのですが、
まあ、趣味とか基準は人それぞれ、、ということでそういう時は片方の耳からもう一方の耳へ垂れ流すことにしているわけです。
しかし、今回は私も虫の居所が悪かったからか、つい反撃に出てしまいました。

”確かに声自体の良さはラジオでは必ずしもきちんと伝わらないことがあるけど、音楽性の有無はラジオでも絶対誤魔化せないから。
花束に関しては、公演のインターミッション中に花屋まで走って買いに行った、というのでもない限り、
その日の彼女の歌唱の素晴らしさのバロメーターになんて一切なりっこないでしょう?
花束持って来たオーディエンスはその日彼女が口を開く前から花をあげるつもり満々で劇場に来てるわけだから。
しかも、批評家の公演評??? そんなのが当てにならないってのは我々三人の常識じゃなかった?なんで彼女だけ例外?
そう、『つばめ』は素晴らしい作品だし、私の大好きな、そして最も共感出来るオペラの一つ。
でも、この作品の本当の良さを引き出すにはそれにふさわしい歌手が必要!”

やばい雰囲気を感じ取ったらしいマフィアな指揮者は”わしは実際に聴くまで判断を保留〜。”とさっさとトンズラして行きました。

さらにフランス人が”君は彼女の歌唱を聴く前から判断にバイアスがかかってるみたいだけど?”と食い下がって来るので、
”私はラジオで聴いたんだから”聴く前からバイアス”には当てはまらないし、彼女のルックスにバイアスをかけられてるのはあんたの方じゃないの?
目をつぶって歌だけ聴いてみた?彼女がミードやヴァン・デン・ヒーヴァーみたいなルックスだったらそこまで彼女を擁護した?
ま、確かに、歌手の良し悪しを云々するなら生で聴かないとフェアでない、というのは私も同意!なので、
26日の土曜のマチネを劇場で聴きましょう。
もし実際に聴いてみてあなたの言うような素晴らしい歌手だったなら、それはちゃんと認めるわよ。
だって、素晴らしい歌手だと思いながら、まだそうでない!と頑固に言い張ってみたところで、びた一文私の得にならないんだから。
だけど、もし、オポライスが実際にあなたや批評家の言うような歌手でなかったらその時は、、、
ってなわけで、しっかり歌うのが彼女の身のためだと思うのでよろしく。”

というわけで、その26日の公演を待っていたわけですが、
その前に、『つばめ』で共演中のクリスティーン・オポライスとジュゼッペ・フィリアノーティを招いた、
こちらのシンガーズ・スタジオのイベントが予定されていたのでした!!

ここで付け足しておくと、フランス人の彼がメールに書いている批評家の絶賛、というのは全くその通りで、
ニューヨーク・タイムズからニューヨーク・ポストまで、オポライスに関しては”オペラ界の新しいスター!”といった論調の記事で、
メトも慌ててこの先のいくつかのシーズンのために彼女とのブッキング交渉に入ったと言います。
私自身はスターなんてものは一回だけの公演で生れるものではなく、一定の長さのトラック・レコードが必要であり、
そうやって良い公演を重ねるうちに、オペラファンがその歌手をスターだと認識するようになる、と思っているので、
少なくともここNYではメディアと劇場が必死で一気に彼女をスター歌手に仕立てあげようとしているようにも見え、ちょっと違和感を感じてます。

今日のインタビュアーは再び鉄仮面(F・ポール・ドリスコル)。
オポライスをKO、フィリアノーティをGF、鉄仮面をFPDと表記し、いつもと同様ポイントだけを再構築します。(なので対話の内容を全訳したものではありません。)
またMadokakipの心の呟きをで表示します。

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バイエルン国立歌劇場の『ルサルカ』の映像からオポライスの”月に寄せる歌”が流れる。
このアリアでは、オポライスは浅く張った水(湖)の中で丸いランプ(月)を持ち、髪まで濡らしての熱唱。

会場に現れたオポライスは女性にしてはかなり背が高くリーンで、まさにモデル体型。
これまで写真や映像で見ていても、実際にどんな顔なのか今一つわからないところがありましたが、
素はこの写真(↓)に近い感じ。笑うと昔のメグ・ライアンのようでもあり、確かに美人。
でも子育てで疲れているのかな?目の下にクマのようなものはあるわ、かったるそうな喋り方だわ
(しかも話し声が割と低いので、それもかったるさを増長させる原因となっている。)で、
同郷のガランチャのようなアップビートさはないので、人によっては生意気で感じが悪い、と取る人もいるかもしれないな、と思います。
フィリアノーティは舞台よりも素の方が断然素敵。(オペラ歌手にとってそれが喜ぶべきことかどうかはわかりませんが、、。)
物静かながら発言は簡潔できちんとポイントを抑えていて、終始紳士的で温かいオーラを感じます。
二人ともカジュアルながら素敵な私服で安心。(時々こちらがびっくりするようなセンス悪い格好で現れる人もいるので、、。)



FPD: この映像を見ていて、つい、あの水は温かかったのかな、冷たかったのかな、と考えてしまいます。
KO : さあ、わからないわ。
(:I had no idea. という彼女の答えに”あんたがそこにいたんでしょーが!”と即つっこみたくなりましたが、
続きの会話、さらには今日の彼女の発言全部を見るに、彼女はあまり英語が得意でなく、
限られた語彙からの発言になってしまうのが、彼女が余計そっけない印象を与えてしまう原因にもなっているかもしれないな、、と思います。)
最初は温水なんだけど、アリアを歌う頃までにはすっかり冷たくなってしまうので、、、
それでリハーサルから初日までに風邪を引きそうになって大変だったのよ。
FPD: 今回のメトの『つばめ』はロール・デビューですよね?
KO: 私自身、”ドレッタの夢”(一幕で歌われる『つばめ』の中で最も知られたアリア)以外はこの作品についてあまり良く知らなかったし、
また、自分の声がマグダの役に向いているかも良く判らなかったんです。
マグダは一般的にはリリコ向けの役ですが、私は自分の声をスピントだと思っているので、、。
マグダは自分が10年もすれば容色も衰えて不幸せになることがわかっています。
そういう意味では彼女はゆっくりと死んでいっている、ともいえ、他のプッチーニの作品のようなドラマティックさはないかもしれませんが、
彼女もやはり死に向かっているのだと思います。
GF: ルッジェーロはずっとマグダよりも少し遅れたところを走っている感じです。
マグダを愛する気持ち、パッションには溢れているけれど、人生経験が足りない。
KO: 彼にとって、清純、処女性、母親、というものが大事で、マグダにもそれを求めている。
マグダは彼を愛しているからこそ、それらを彼に与えることが出来ない、と判断して身を引くのです。
FPD: マグダは最後にランバルドの元に戻るのかな、、?とオーディエンスに感じさせるエンディングではありませんか?
KO: 私は彼女がランバルドの元に戻るとは思いません。彼女の中では彼とのことは終わっていると思います。
GF: 音楽面では、この作品は、幕を重ねるごとによりプッチーニらしくなっていきますね。最後の幕はもうプッチーニ節全開!で、
その音楽に身を任せて歌えばいいので、自分にとっては幕が進むほど歌うのが楽です。
FPD: 指揮者(注:『つばめ』の指揮はマリン)とテンポなどについて調整しますか?
GF: もちろんそれは行いますが、そうやっていてもパフォーマンスは一つ一つ違いますので、そこが難しいところですね。
KO: 私は悪い意味でのサプライズ、予想もしていないようなことが起こることはあまり好きではないので、調整はするんですが、
歌というのは結局のところそこに込める気持ちの結果なので、それはやはり一回一回微妙に違います。
FPD:(フィリアーティに)あなたはメトのデビューが『ルチア』のエドガルドで、ベル・カントのレパートリーも良く歌っておられます。
GF: ベル・カント、プッチーニ、ヴェリズモ、、、私はプッチーニはヴェリズモとはまた全然違う一つのジャンルだと思っているのでこのように分けましたが、
これらのどれを歌うにしても、歌唱は同じであるべきだと思っています。
私の師であったアルフレード・クラウスはいつもこのように言っていました。
”オーケストラと戦おうとしちゃいけない。なぜなら絶対に勝てっこないから。声をいつも軽く保ちなさい。”と。
例えば、こうやって(手を叩いて大きな音を出す)音を出すよりも、”ぴーん”(と高音をハミングで出す)、、こういう音の方が劇場では良く響くのです。
ですからベル・カント的なアプローチで歌うことが、声にとっても一番負担が軽い方法なのです。
FPD: ご自分の声質をどのように分類されていますか?
KO: スピントです。
GF: リリコでしょうね。自分でこれ!と決めたことはないのですが、これまでは『ルチア』、『愛の妙薬』、『ウェルテル』といったあたりがレパートリーの中心でした。
自分の声はモーツァルトの作品にすごく合っているとは思わないのですが、それでも今シーズンメトで『皇帝ティートの慈悲』に出演したのは
あのあたりのレパートリーにも挑戦・勉強してみて自分に合うかどうかを見極めたい、と思ったからです。
でも、今歌っていて楽なのはフランスもののリリコの役で、ベル・カントやモーツァルトの作品よりもそちらの方が自分の声には合っていると思っています。
KO: 私には過去に歌の先生が二人いました。
一人の先生は私の声はドラマティコだ、と言い、24になるまでにアイーダ、トゥーランドット、マクベス夫人といった役どころを歌わされたので、
これらの役は良く勉強しました。
しかし、もう一人の先生が私はルチアやヴィオレッタを歌うべきだ、というのでもうすっかり混乱してしまったのです。
で、自分に”あなたはどう思うの?”という問いかけをした時、どちらの先生からもレッスンを受けるのを止めるべきだ、という結論に至りました。
そこでやっと今の先生(で、この先生からは今でもアドバイスをもらっていますが)に、あなたはドラマティコでもリリコでもなく、スピントなのだ、と言われました。
作品のスタイルに合わせることはあっても、声や歌唱そのもの、そしてテクニックといったものは変えられないし、変えるべきではありません。
私のような声にとってはミミのような役を歌う方が疲労度が大きく、ROHで蝶々さんを歌った時は幕が降りた後もまだ歌える位の元気が残っていました。
例えばヴィオレッタなんかを歌うと、私が本来持っている声の半分位の声しか使わないことになるので、かえって疲れてしまうのです。
なので、『ルサルカ』や『蝶々夫人』あたりが私に最も向いた作品ではないかな、と思っています。
ただ、そうは言っても毎回毎回ヘビーな役を歌っていては喉に負担がかかるので、演目をローテーションして、その順序には気をつけるようにしています。
例えば、『つばめ』のマグダから『トスカ』のような重めの方向に行くのはいいですが、
その次は何か軽めのもの、例えばミミ、、というような順序にしています。
 でもさっきミミは蝶々夫人より疲れるって言ってたし、より疲れるものに移行するのは矛盾しているように思うのだけれど、、。)
今回のマグダのようなロール・デビューの役でメトにハウス・デビューすることに関しては不安がありました。
本当は2010/11年シーズンの『ラ・ボエーム』のムゼッタ役でメト・デビューするはずだったんですが、
(冒頭で映像を見た)『ルサルカ』の話があって、そちらをとることにしました。

(とここで、どうやら最前列に座っていたヘッドのばあさんが”話が長いねえ、この人は。”みたいなことを本人に聞えるように発言したらしく)

あ、ごめんなさい。話を早くまとめてくれ、とおっしゃってるんですよね。簡潔に話すようにするのでもうちょっと我慢してください。

(このばあさんの失礼さにさすがの鉄仮面もゲストであるオポライスに申し訳ないと感じたか、
珍しく感情を露わに、”黙れ、このばばあ”的視線を一瞬彼女に刺したかと思うと、以降、オポライスに対して一層親切な態度で臨むのでした、、。)

FPD: (フィリアノーティに)あなたのメト・デビューは(注:2005年の)『ルチア』のエドガルドでしたね。
GF: はい。あれが僕にとって初めてのNYでもあり、もうキャブから降りて見た摩天楼の様子に圧倒されてしまって、
まあ、パリに出た時のルッジェーロみたいな感じでした(笑)
NYのことはすぐに大好きになりました。
メトのスタッフの親切さと家族的な雰囲気は、スカラの堅苦しくて”これやっちゃ駄目、あれやっちゃ駄目”という雰囲気と正反対でしたし、、。
(思わず会場から漏れた笑いに)ええ、僕はスカラのアカデミーに二年居ましたから(笑)
で、メトでの最初のシーズンの『ルチア』を歌い終えた時はこれでもう死んでもいい、と思ったものですが、まだこうしてメトで歌い続けることが出来ています。
FPD: いつ頃から歌を?
GF: 17歳の時に出身地であるカラブリアのコンサバトリーに通ったのが初めです。
その後4年間(注:アカデミーでの二年がここに含まれるのか別なのかは不明)、ムーティが率いていた頃のスカラで勉強して、
そしてクラウス先生との出会いがありました。
今でも歌っていて、何か問題が生じてきた時は、常にクラウス先生の教えに戻るようにしています。

ここでフィリアノーティがOONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)の2006/7年シーズンに演奏会形式で歌った2012年7月にフライブルクで歌った『アルルの女』から、
フィデリコの嘆きの歌唱の映像が流れる。

GF:作曲家のチレアとは同じカラブリアの出身ですので、特別な感情を持っています。
『アルルの女』は『つばめ』と少し似て、非常に良く知られたアリアがありながら、なかなか上演されない演目の一つです。
内容はイタリアの『ウェルテル』とも言えるような、すごく良く作品だと思うのですが。
初演でフェデリコ役を歌ったのはカルーソーですし!
FPD: あなたはこのOONYとのフライブルクの公演で、普段歌われない第二のフェデリコのアリアを披露しましたね。
GF: はい、、実はカラブリアの博物館でこのアリアのスコアを見る機会があったのがきっかけなんです。
テキストを読むうちに、”あれ?この作品知ってるぞ、、、『アルルの女』じゃないか!”ということになりまして、
この三幕冒頭のアリアはテノールに二つも名アリアはいらん!ということなんでしょうかね、
カルーソーが1894年に初演で歌ったきり(注:これは彼の覚え間違いでしょうか?1897年が正しいようです)、チレアが封印してしまったものなんです。
FPD: その部分に関してはオーケストラの総譜も残っているのですか?
GF: いいえ、残念ながらピアノとボーカルしか残っていないんですよ。
FPD: (オポライスに)ラトヴィアの劇場・教育システムについてもお話いただけますか?
KO: 私はプライベートの先生についたので詳しく申し上げることは出来ませんが、テクニックや役柄の習得に二年ほどかけるだけで、
後は劇場の指揮者とオーディションを重ねることになります。
リガのオペラハウスはワーグナーの影響が強いんですが(初演作品が『さまよえるオランダ人』)、ラトヴィアの自国オペラはあまり発展していません。
一つにはラトヴィアのオペラのレパートリーには比較的重い声が要され、若い歌手たちにとって歌いやすいものではないのも原因かと思います。
FPD: 先ほどここに来る前にジュゼッペとアメリカの劇場で最も観客が熱狂的・うるさいのはシカゴだね、という話をしていたのですが、その辺りはどうですか?
KO: やはり公演の時は何もかもを注ぎ込みます。時にはちょっと注ぎ込み過ぎたかも、、と思う位に。
なので、その注ぎ込んで分だけは客席からもエネルギーが返って来て欲しいと重います。ラトヴィアの観客はすごく大人しいですね。
FPD: お二人は今キャリア的にも油が乗り切った時期ですし、歌を勉強している若い学生さんなどからアドバイスを求められるようなこともあるのではないですか?
GF: まずは歌ってみなさい!というのが私の意見ですね。
そして、テクニックに関しては、一人一人体格も持っているものも違います。
だから、ベーシックスは同じでも、細かい部分で誰にも共通するテクニックというものはなく、
自分に合うテクニックを見つけ、身につけていかなければなりません。
そして、体や健康である事を大切にし、そして、声に対するリスペクトを持ち続けることです。
オーディエンスがいくら気に入って喝采したとしても、自分自身がしっくり来なければ駄目です。
オーディエンスはハッピーかも知れないけれど、自分はそうじゃない、と感じたら、その気持ちに正直にならねばなりません。
それから、大事なのは自分らしくあること!
そして、歌を歌えるということは特別な才能ではあるけれど、それが自分を特別な人間にするわけではない、という謙虚な気持ちを持ち続けることも大切です。
若い時には、つい、もっと沢山の役を!もっと沢山の成功を!と思いがちですが、そういう誘惑にNO!といわなければなりません。
自分が良い歌を歌えた、と納得すること、それが一番大切なことです。
それから良い先生を得ることも、ですね。
声や歌というのは心の鏡ですから、心を自由にオープンにしておくことも忘れてはなりません。
KO: 若い人に良く”良い声楽の先生を紹介してください。”と言われるのですが、それは生徒一人一人の個性も違うので難しいことです。
私が大切にして欲しいと思うのは、音楽と自分の関係、そしてスコアへの敬意、です。
私は自分がディーヴァ扱いされることになったら嫌だなあ、、と思います。
 オポライスをそこまでの歌手と思っているのは私の友達のフランス人のおじさん位なもので、
今日の最前列のばあさんはもちろん、そう思ってない人もたくさんいるのでそんな心配はまだ無用だと思います!)
私はまだまだ勉強中の身ですから、、。
FPD: 『つばめ』の後の予定は?
KO: 一週間家にやっと戻れます!
子供がまだ一歳で、母が色々育児の手伝いをしてくれています。夫は指揮者(アンドリス・ネルソンス)ですので全然助けにならないし(笑)
で、ボリショイでタチアナ(『エフゲニ・オネーギン』)を歌って、、、
FPD: ボリショイでタチアナを?!それはまた鋼鉄のような神経ですね(笑)
KO: どう歌っても必ず文句を言う人はいるでしょう。ですので、私が出来ることだけをしっかりやろう、と思ってます。
GF: 大丈夫、大丈夫!ボリショイは僕も歌ったことがあるけど、ちょろい、ちょろい!
KO: ええ??本当?!(笑)
GF:うん、劇場がすごく小さいからね。メトと比べたら全然(笑)
KO & FPD: ああ、そういう意味で(笑)
KO: それからROHの『トスカ』があって、続いて演奏会形式ですがウィーンのアメーリア(『シモン・ボッカネグラ』)でジョセフ・カレーヤとトーマス・ハンプソンと共演します。
そして、その後、国立歌劇場の方で、主人の指揮で『ラ・ボエーム』です。
私の意見では彼は最高のプッチーニ指揮者ですし、
 ええええええーーーっ!!!!???ネルソンスが指揮したメトの『トゥーランドット』はとてもそう思えない出来だったぞー!!)
明らかな理由から彼と一緒に仕事を出来るのはすっごく楽しみです。
 と言った時の彼女がそれまでとは違う本当に可愛らしい表情を見せていて、ネルソンスのことが本当に好きなんだなあ、、というのが良く伝わって来ました。)
GF: 僕はシカゴで『リゴレット』(のマントヴァ公)で、ジェリコ・ルチーチとの共演です。
『リゴレット』はその後エクサンプロヴァンスのカーセン演出の舞台でも歌う予定です。
それから、トロントでの『ロベルト・デヴェリュー』が入っていて、こちらはソンドラ・ラドヴァノフスキーとの共演です。
他に『ホフマン物語』(注:ミュンヘン)、『愛の妙薬』なんかも入ってますね。
FPD: それではオーディエンスの質問タイムに行きましょう。
オーディエンス:今ラトヴィアからたくさん良い歌手が出てきていますが、これは何故でしょう?
KO: 確かに(エリーナ・)ガランチャ、(マリーナ・)レベカ、(アレクサンドルス・)アントネンコ、、、小さい国なのに不思議ですよね。
エリーナとは同じ先生だったこともありますが、それ以外は習っている先生も違えば、みんなそれぞれ個性の異なる歌手なので理由はよくわかりません。
でも、自分がその一部なのはすごくエキサイティングだし、嬉しいことです。

-----------------------------------------------------------------------------------------

土曜のマチネの『つばめ』も鑑賞して来ましたが、ヘッド友達と議論になった点をこのイベントで語られた内容と重ねて鑑賞すると
色々考えさせられることの多い公演でした。
レポートも出来るだけ早くあげたいと思っています。


The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Kristine Opolais and Giuseppe Filianti with F. Paul Driscoll

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Kristine Opolais / Giuseppe Filianti シンガーズ・スタジオ クリスティーン・オポライス ジュゼッペ・フィリアノーティ  ***
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ANDREA CHENIER (Sun, Jan 6, 2013)

2013-01-06 | メト以外のオペラ
OONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)の今シーズンの演目は『アンドレア・シェニエ』と『イ・ロンバルディ』の二つです。
その案内を数ヶ月前に郵便で受け取った時、『イ・ロンバルディ』にはミードが登場すると書いてあって、
これは今年もサブスクリプションをリニューアルしなければ!!と舞い上がったのですが、
それも束の間、その横の『アンドレア・シェニエ』のキャストを見て固まりました。

アラーニャのアンドレア・シェニエ、、、?!
えええーーーっっ!!?ぜんっぜん聴きたくないかも。
さらにマッダレーナ役がクリスティン・ルイス、ジェラール役がゲオルグ・ペテアン、、、
んー、誰それ?って感じ?

私のギルティー・プレジャー(それを好き!と公言することにちょっぴり恥ずかしさを感じつつも、やめられない・とまらない)の一つは
何を隠そう、じゃじゃ〜ん!!「ヴェリズモ・オペラ!」でして、
そう、奥深さのかけらもない単純なストーリー!どうにもこうにも3面記事なテーマ!べたなメロディー!
そんなでモーツァルトやワーグナーやヴェルディと同じオペラのカテゴリーを名乗ってしまってすいませんね〜、なヴェリズモ・オペラが大好きなんです。
よって『アンドレア・シェニエ』も例外ではなく、メトでは2006/7年シーズンを最後に舞台にかかっていないこともあり、
久しぶりに全幕を生で聴きたい!という欲求は猛烈にあるのですが、
しつこいようですがアラーニャがシェニエなので、それだったらサブスクリプションのリニューアルは止めて、
『イ・ロンバルディ』単体のチケットを買ってもいいかな、、と思い始めたところ、さらに読みすすめた先にこんな一文がありました。
”お客様は昨シーズンキャンセルになった公演代金のクレジットがまだ残っておりますので、
サブスクリプションをリニューアルしてセット券をお買い求めの場合に限り、その購入代金に当てて頂くことが出来ます。”

おお!!そうでした、、
昨年のOONYはゲオルギュー&カウフマンの『アドリアーナ・ルクヴルール』(あ!これもヴェリズモでした。でもまだレポ書いてない、、)の後に
ドミンゴ様出演の演目未定の公演が予定されていたのですが、
この後者の公演が、OONY側の資金の問題でキャンセルになってしまって、そのチケット代返金依頼の手続きをずぼらしてまだ行っていなかったのでした。

よーく考えたら公演がキャンセルになったのは私のせいではなくOONYの責任なのだから、”セット券との相殺しか出来ません”
というのもかなり強引な話で、さすがおばちゃん(イヴ・クェラー女史)率いるOONY!という感じですが、
ま、一公演分の金額で二公演見れるなら、リニューアルしとくか、、、という気にさせられるトリックではあります。
(だから、そのセーブしたはずの金はそもそも私の財布から出たものだ、っつーに。)

今日の『アンドレア・シェニエ』はそんな風にまんまとクェラー女史のトリックに騙されたまま来てしまったので、
会場であるエイヴリー・フィッシャー・ホールに入る直前にふとアラーニャが主役なのだという事実をもう一度思い出して、
私に輪をかけたアラーニャ嫌いである連れに、”年に数回は今日なんでここに来てるんだろう?と思う公演があるものだけど、
今日がまさにそれだわ、、。”とテキスト・メッセージを送ってしまいました。

私がOONYのサブスクリプションを始めたのは2010/11年シーズンからなんですが、
その年は彼らが資金の問題から存続自体が危ぶまれた直後のことで、
しかも、不景気のあおりをうけてメトを含めたオペラの公演のオーディエンスが激減りした時期でもあり、
それでこれまでのサブスクライバーが保持していた良席が回ってきたのでしょう、
周りにはメトの関係者やパトロンが多く、以前ゲルブ支配人がすぐ側に座ってい(て、全幕鑑賞する辛抱なく、インターミッションで走って帰っ)たこともありますし、
今日も近くにアーティスティック部門のトップであるサラ・ビリングハーストの姿が見えます。
あ、その数列前には今はOONYの名誉音楽監督のポストにある”おばちゃん”イヴ・クェラーもいました。

舞台の両端には一幕で登場するキャスト達が開演前から座って並び、歌うパートが近くなると舞台の前方に用意された譜面台の方に出てくる
(ので、ジェラール役のぺテアンなんかはすでにオケの前に立っている)流れになっているのですが、なぜか前奏の部分が始まってもアラーニャの姿が見えません。
マッダレーナ役のルイスはもうちゃんと着席してるし、彼女からそう時間をおかずにシェニエと一緒に登場するはずの修道院長とかフレヴィルも全員舞台に登場しているのに。
まったくもったいぶるなよなー、蚊の鳴くようなファルセットしか出せないくせに!と、つい関係のないことまで思い出してしまいます。

大体年に二回公演があるかないかのOONYですので、オケも編成や練習ににわか仕込的なところがあるんでしょうが、
今日の演奏を聴くと、いつもに増して反応悪(わる)、、と思わされます。
指揮者のヴェロネージがどんな指示を出しても、全然それを見てないし、当然の帰結として、その指示に従わない。
特に今回のようなヴェリズモ系の作品だと、このオケは放っておくとどんどん歌手そっちのけの爆音になって行く傾向があって、
私は何度もヴェロネージが、”だめだめ!そんな大きな音出しちゃ!もっと静かに!!”という身振りをするのを目にしましたが、
まあ、オケはまったく彼の話を聞いちゃいないわけです。
それに、弦が甘美な旋律を演奏する箇所では、音が出てきてすぐ、彼がもう少し甘くキラキラとした音を、、という指示を出しているんですが、
どんな指示が出ても、指示前とまーったく音色に変化がなく、のほほーんとそのまんまの音で演奏を続けていて、
ま、でもその辺りはリハーサル中にちゃんと伝達してないの??とも思いますけど。
これらの例からもわかる通り、クェラーが指揮していた頃に比べて、指揮者とオケのラポートがあまり感じられなくなっていて、
オケが好き勝手にやっているのは、もしかするとヴェロネージとオケの間があまり上手く行っていないのでは、、?と勘ぐりたくなってしまいます。

この作品は始まってすぐにジェラール役のモノローグがあって、
このモノローグというのが、歌い手のバリトンの声質、この役への適性、高音をハンドルする能力、表現力などなど、
はっきり言ってこの役を歌うバリトンに必要な大方の資質・能力の有無を判断するのに十分な長さになっていて、
言い換えれば、今日のジェラール役のバリトンに期待できるか、できないか、が5分かそこらである程度判ってしまうという、
歌い手にとってもオーディエンスにとっても、怖く、また、楽しみな箇所です。

ペテアンに関しては、冒頭に誰それ?なんて失礼なことを書いてしまいましたが、謹んで撤回!
彼のモノローグを聴いてすぐ、今日の演奏会は少なくともジェラールに関しては失望させられることはなさそうだ、と確信しましたし、
こんな質の良い、しかもヴェリズモ作品を歌えるバリトン、どこに隠れてた!?いつメトに来る!?とついエキサイトしてしまいましたが、
後でプレイビルを見ると、メトにはマルチェッロ(2009/10年シーズンの『ラ・ボエーム』)と
ヴァランタン(2011/12年シーズンの『ファウスト』)で既に登場済みだったことがわかりました。
いずれの演目も私が見た公演の裏のキャストになってしまっていたようで、それでこれまで彼を生で聴く機会を逸してしまっていたようです。
こういうことがあると、やっぱりもっとメトで鑑賞する公演数を多くせねばならんな、と思ったり、、、。
しかも、私が無知だっただけで、彼はヨーロッパではすでにメジャーなオペラハウスで活躍中なんですね。

YouTubeで彼の映像をいくつかチェックしていたところ、行き当たったのが下の映像です。
ローザンヌでの『愛の妙薬』なんですが、なんで、こんな缶々みたいな戦車からベルコーレが出てくるの? 
なんでアディーナがこんなアマゾネスみたいな格好なの?? それにこの食人花みたいな芥子の花は何??(アマゾネスが阿片でも生産しているのか?)
なんだけど、、、、すごく面白い!!!
メトの今シーズンのオープニング・ナイトに現れた中途半端で陰気臭いシャーの新演出に欠けているのは、こういう種類の楽しさだと思うんですよ。



で、もちろん上の映像でベルコーレを歌っているのがペテアンなわけですが、そこでも伺われるように、
彼の強みは適度に厚みのある音を維持しながらそのまま高音域まで綺麗に上がっていけるうえに、
その聴かせどころの高音でオーディエンスが存分に楽しめるだけの長さだけ十分に音をホールドできるブレス・コントロールの能力を持っている点で、
YouTubeには2005年にディドナートやスペンスと共演している『セヴィリヤの理髪師』(フィガロ役)の映像が上がっていますが、
当時よりはずっと声が重くなって厚みが増しており、
今日のジェラールのような、ドラマティックさと充実した高音を兼ね備えていなければならない役は実に適性があります。

ヴェリズモの役を上手く歌える歌手に実力のない人はいない、というのが私の持論で、
ヴェルディやベル・カント・レップをそこそこ上手く歌えるからと言ってヴェリズモも上手く歌えるとは全く限ってませんが、
その逆に、ヴェリズモの役を上手く歌える歌手はまずヴェルディやベル・カント・レップも上手いと考えていい、と思っています。
それは別に不思議でもなんでもなく、ヴェルディや現在スタンダード・レパートリーとして演奏されているようなベル・カント作品とは違って、
ヴェリズモ・オペラには力のない歌手が歌うと、オーディエンスが聴いていられないほど下品な演奏内容になってしまう、という性質があるので、
ヴェリズモ作品をそう聴こえさせずに適度なエレガンスを保ちながら歌えるということは、
きちんとした歌唱テクニックとドラマティック・センスがあるということであり、
それがある歌手が、音楽がチープに聴こえる可能性がヴェリズモ作品に比べてより少ないヴェルディやベル・カントのレップで良い歌を聴かせられるのは当然のことなのです。
ガヴァッツェーニ指揮のスタジオ録音でデル・モナコやテバルディと共演しているバスティアニーニなどはその最たる例かと思います。

よって、ペテアンのようにヴェリズモを上手く歌うバリトンに出会った時には、
その喜びが単にヴェリズモを歌える人が現れた!ということだけに留まらず、
その期待はヴェルディやベル・カント作品にまで及び、楽しみが何倍にもなるのです。

また彼は上の『愛の妙薬』の映像ではなんだかすごい格好になってますけど、
タキシードを来て普通にしていると、決してイケ面ではないですが、いわゆるバリトン顔というのか、悪・敵・仇役に向いたルックスをしていて、
今日みたいな演奏会形式の歌唱でも少なくとも顔の表情を見ている限り割と演技力もあるように感じられ、
顔の表情がその場面その場面のジェラールの状況を実に的確に表現しています。
マッダレーナ役のルイスが”亡くなった母を La mamma morta"を歌い始めるそのイントロの部分で、
長い間恋焦がれたマッダレーナに自分の思いは絶対に届かない、そしてそれは身分の差とは何も関係がなかったことを悟りながら独り言のように歌う
”Come sa amare!(何と彼女は彼を愛していることか!)”
この声楽的には何と言うことのないフレーズに込められた表情(歌も顔も!)もとっても良かったです。

それからジェラールの一番の聴かせどころといえば”祖国の敵 Nemico della patrai!"ですが、
そこに至るまでの歌唱から想像・期待していた結果を裏切らない内容でした。
この日の演奏会のその”祖国の敵”のラストのたった一分ほどですが、カメラで隠し撮りしてYouTubeにアップして下さった方がいました。



音質が良くないので彼の声が実際にどんなトーンなのかはフルにはわかりにくいかもしれませんが、
彼の歌唱がこのアリアのグランドさ、良い意味でのベタさを保ちつつ、しかし、決して下品にはなっていない、その匙加減の上手さやセンス、
それを可能にするために、彼がどのようなスキルを用いているか、といったことは十分に伝わるかと思います。

このアリアは昨年11月のタッカー・ガラでケルシーが歌ってましたが、ケルシーの歌になかったのはこのグランデュアさなんだなあ、、、と思いました。
とにかく、今日の公演はペテアンの存在でだいぶ救われたところがあったと思います。

そして、ペテアンが公演を”救った”ということは、それを救わなければならないような状況にした人がいるわけで、、。

先にも書いたようになかなか舞台に出てこないアラーニャなんですが、シェニエが歌う場面の本当に寸前になってようやく登場。
ところが、舞台の中央に向かって歩いて来る様子がいつものヘラヘラしたそれとは違って、なんか表情がめちゃくちゃシリアスでこちこちなんです。
しかもチリ紙だかハンカチみたいなのでしょっちゅう鼻を拭いたりして、風邪気味?
しかし、シリアスな表情のアラーニャなんて、変なもん見てしまったわあ、今日は、、風邪気味で歌に不安があるのかな?
と思っているうちに、彼が歌い始めて、むむむ!!!です。

顔がスコアに糊付けしたみたいに張り付いていて、全然指揮者の方を見てませんけど!!!、、、、

まさか、アンドレア・シェニエのタイトル・ロールで、パートをちゃんと憶えてないとか、そういう恐ろしい事態ではないでしょうね?
他の歌手もスコアを持ち込んではいますが、例えばペテアンなんかは要所要所でちゃんと指揮のヴェロネージを見る余裕がありますし、
マッダレーナ役のルイスはほとんど暗譜しているみたいですし、それ以外の小さなロールの人の中にはスコアなしで完全暗譜の人もいます。
Madokakipがこいつ、まさか、、、という疑惑の混じったいやーな視線をアラーニャに向けた頃、
いよいよ作品の最大の聴かせどころの一つであるシェニエのアリア”ある日、青空を眺めて Un dì all'azzurro spazio”の前フリ部分にあたる、
Colpito qui m'avete, ov'io geloso celo il più puro palpitar dell'anima
(あなたは、私が最も純粋な感情のときめきを隠している心の奥深い場所をゆさぶった、、)と歌い出すところで、
急にアラーニャが、”え?なんで?”という表情をオケや指揮者に向けたと思うと、どんどんオケと歌が合わなくなっていって、
ついに"Sorry.."というオーディエンスに向けた言葉とともに歌を中断してしまいました。
ったく、”え?なんで?”はこっちの言いたい台詞ですよ!!!
今頃になって、”ここはこうなはずでは、、?”とヴェロネージと打ち合わせに入っているアラーニャを、
”あたしらはリハーサルを聴きに来たんじゃないよ!”とばかりに冷ややかな目で見つめているのがMadokakipだけでないことは言うまでもありません。

ようやく歌が再開し、”ある日、青空を眺めて”は、やはり風邪気味ではあるのでしょう、
声がかなり荒れている感じがあるのと、きちんと歌うのに精一杯でもう感情を込める余裕はどこにもない、という感じなんですが、
一応大きな破綻はなく歌い終え、ほっとした様子で、多くの観客からは拍手も出てました。
しかし、これがメトの舞台だったら!とおそらく冷や汗をかいて見ていたであろうビリングハースト女史は拍手などありえません!という様子で隣の女性に何やら耳打ちしていましたし、
拍手を受けながらも、さすがにこの事態はまずかった、、という自覚でほとんどシーピッシュといってもいい位の臆病なアラーニャの視線が私の目と合った時、
私からも”あんた、ふざけんじゃないわよ。”という一瞥を食らわしておきました。

今回の演奏会にはNYのオペラファンもたくさん来場していたわけですが、
”これまでアラーニャの舞台からは強い役へのコミットメントを感じることが多かったが、今回は心ここにあらずでどうしたのかと思った。”
という趣旨の意見が数多く見られました。
私はこれまでだって、アラーニャという人はいつも自我が役の前に立ってしまうタイプというか、
本当の意味で役に没入しているところなんて見たことも聴いたこともないので、そういう意見は”何を今更、、、。”と思って聞いていて、
むしろ、今回そのような印象を彼らに与えたのは、風邪のせいでなんとか破綻なく歌うことに精一杯でそれ以外のことには全く手が回らなくなったからであり、
彼の普段のへらへらしたステージ・マナーが嫌いな私としては、かえって今日のように歌うことに専念してくれる方が好感がもてるくらいです。
このアリアの後には頻繋に鼻をかんだり、咳き込んだりで、相当辛かったんだろうな、と思いますが、
その割には果敢に高音も挑戦していました(最後のマッダレーナとの二重唱では超特大のクラックになってしまいましたが)。

ただ、インターミッション中に連れに電話してこの話をした時には、”最初の失敗を風邪のせいにしようとフリしてるだけ。仮病!仮病!”とものすごい突き放し方でした。
さすが、私よりもアラーニャを嫌っているだけのことはあるわ、、、とその徹底ぶりに感心しましたが、
私の見た・聴いた限りでは、かなりひどい風邪をひいていたのは事実だと思います。

演奏家なら誰だって風邪やその他諸々の身体的な理由で不調な時があるし、簡単に代役が利かないシチュエーションだってあります。
だから、どんな歌手相手でも、風邪による歌唱の失敗や不調を非難するつもりはないし、心あるオペラファンなら、みんなそうだと思います。
だけど、それと役が頭に入っていない問題は全く別問題。
混同してもらっては困るし、役を引き受け、観客が決して安価でないチケットのために払った代金からギャラを受け取っておいて、
きちんとした準備すらして来ない、というのは、観客が怒っても全くおかしくない、卑しむべき姿勢だと思います。

そうそう、ニ幕でもこんなことがありました、そういえば。
一幕で上のような大失敗があって、しかも風邪気味、、しかもマッダレーナ役のルイスに微笑みかけてもシカトされ、、、で、相当へこんでいる様子のアラーニャ。
そこに、シェニエの友人ルーシェ役のバリトン、デイヴィッド・パーシャルが登場。
プレイビルに掲載されているパーシャルのバイオには、メトの許可を得て出演、となっていて、
おそらく現在メトのリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムに在籍しているのではないかと思うのですが、
今シーズンはメトの『マリア・ストゥアルダ』のセシル卿のアンダースタディもつとめているようです。
まだ20代の後半か30そこそこで、歌は相当荒削りなところがありますが、音の響き自体として持っているものは決して悪くなく、
ルックスも好青年風で、本人の人柄のせいもあるのか舞台マナーにチャーミングさがあって、
彼が一生懸命にアラーニャを守り立てようとしている姿は、シェニエの友人という設定とシンクロしているところもあって微笑ましいものがありました。
50歳のベテランが、パートもきちんと覚えて来ないで26,7の青年にサポートを受けるというのもどうなのよ?という気もしますが、事実なのだから仕方ありません。
それで少しリラックスした様子のアラーニャは、そのルーシェとの会話のシーンが終わると水でも飲みたくなったのか、舞台袖に消えて行ってしまったのですが、
実はその後すぐにまだ歌うパートが残っていて、見事にそこがカラオケ状態、、、。
ルーシェ役のパーシャルやベルシ役のラマンダをはじめ、舞台に残っている歌手たちが居心地悪そうに視線を交わしたり、
パーシャルが”どこ行っちゃったんでしょうね、シェニエは?”という感じで肩をそびやかすジェスチャーをオーディエンスに見せて、
何とかその場を切り抜けようとしていたのは涙を誘いました。
いよいよ今度は腹でも壊してトイレに駆け込みか?
まだまだこの後シェニエのパートが続くのにどうする気なのか、、?と心配した頃、慌ててアラーニャが走って舞台に戻って来ました。やれやれ。

こんなアラーニャを”スターだかなんだかしらないけど、超アンプロフェッショナル!超迷惑!私の大事なNYでの大舞台をこんな風にめちゃめちゃにして!!”
と冷ややかな目で見つめていたのが、マッダレーナ役を歌ったクリスティン・ルイスです。
彼女は黒人のソプラノで、メトのナショナル・グランド・カウンシルでも2度ファイナリストになったことがあるそうなんですが、
これまでどちらかというとヨーロッパの劇場での活躍の方が多いみたいです。
笑顔は素敵な人なんですけど、元々強くてクールな顔立ちなので、最初の方は緊張もしてたんだと思いますが、
アラーニャへの怒りと合体して、顔がかちこちに固まっていて、かなり怖かったです。
面白いのは、彼女の声がルックスとシンクロしている点で、エッジの効いた、固いクリスタルのような音色が持ち味で、
黒人のソプラノといえば、まったりクリーミー、、みたいな声質の人が方が傾向的には多いような気がするのですが、
彼女は真逆の方法で、これまた黒人らしい音を出す人だなあ、、と思います。
このパワフルでナイフで切りつけて来そうな音は、他のエスニシティのソプラノにはちょっと出せない質の音のような気がします。

声のパワーに比してコントロールが完全に効ききれていなくて音が飛び跳ね気味になったりしたところもありましたが、
リラックスするにつれて安定感が出て来て、最後のシェニエとの二重唱”僕の悩める魂も Vicino te s'acqueta"で、
高音の上にまたたたみかけるように更に高い高音、、となる部分では、音が高くなるのに伴って音の鋭さとボリュームが増す感じで、
相当パワーのある人なんだ、、とびっくりさせられました。

それだけ思い切りのある人だけに、ちょっと残念だったのは”亡くなった母を La mamma morta”のクライマックスの高音
(fa della terra un cielの後の AhのBの音)の処理の仕方でしょうか。
下の音源はカラスの歌唱ですが、彼女の歌唱のこの高音までの疾走感、
マッダレーナの感情がほとばしって、夢中になって一気に語りきっている様子が伝わってきます。
音楽には色んな解釈が可能と言いますけれど、ここの高音に関しては、こう表現するしかないと思うのです。



ところが、スコアにもフォルテとある、アリアの最大の山場であるはずのこのBの音を、
彼女は綺麗に確実に音を出すことに拘りすぎて、直前にブレーキがかかってしまい、結果として音を小綺麗に鳴らすことになってしまいました。
彼女はもしかするとこの高音がちょっと不安だったのかな、、?
何度も直前にブレスを入れてましたが、それも音が慎重な感じで鳴ってしまった一つの要因ではないかと思います。
(オケに前に突き進んでいくような疾走感を与えず、それに付き合ってしまったヴェロネージにも責任の一端があると思いますが。)
このBの音は綺麗になんて鳴らなくたって構わないから、マッダレーナの思いが金切り声をあげて噴出するようなそういう迫力がないといけないと思うのです。
ヴェリズモがヴェリズモである所以をどれだけ歌い手が理解しているか、というのはこういう一音に現れる、と思うのですよ。
ここで心配になってブレーキをかけて歌ってしまうようでは、まだまだヴェリズモ歌いとしてのセンスが足りん、、と思います。
まあ、まだまだ若い彼女なので、これからの成長に期待!ですが、
素材としては同じ黒人の若手歌手ラトニア・ムーアが柔らかさと大らかさを感じさせるのと対照的に、
一直線的で硬質なものをもっていて、面白い資質を持っている歌手ではあると思います。

演技に関しては、緊張のせいか、アラーニャにブチ切れ!(風邪をうつされたらたまらん!と思っているからか、
全幕を通して彼の方を見もしなければ、手を握られるのも迷惑!という感じでした、、。)のせいか、それとも演技をする気が全くない人なのか、
シェニエとマッダレーナのケミストリーは全く感じられませんでした。
この点については、また次に彼女を聴く機会に判断を持ち越したいと思います。

OONYの公演には時々あっ!と驚くカメオ出演があって、それも楽しみの一つなんですが、
今日は盲目の老婆マデロン役にロザリンド・エリアスが登場し、他のキャスト全員が木っ端微塵に吹っ飛ぶような迫力ある存在感・演技・歌唱で会場を沸かせました。
エリアスは1953/4年シーズンにメト・デビューし、1996/7年シーズンをもって定期的な出演にピリオドを打つまで、
メトでそれこそ数え切れないほどの舞台をこなしたメゾで、久しぶりに聴く彼女の歌声に観客は大喝采でした。
1929年3月生まれだそうですので、この演奏会の時点で83歳!
当然ながら、声は昔と同じではありませんが、会場の温度が一瞬に下がるような冷静さで自分の孫を役立ててくれ、と戦いに差し出す歌唱と、
それが生み出す不思議な熱さ!
冷たさで熱さを生む!すごいなあ、、と思いました。

それに終演後はなんだかんだ言っても、”やっぱりヴェリズモはいいわあ。”と思ってしまった自分もおり、
公演の内容にこれだけの問題があっても、それなりに聴かせてしまえるということは、
”好き!”と宣言するに何を憚る必要があるか?、、、ということで、今後は堂々と”ヴェリズモ好き”を公言したいと思います。

今日は風邪のおかげで珍しくアラーニャが静かで良かった、、、と思っていたのに、
最後のカーテン・コールでまた調子づいて、”一言みなさんに言わせてください。この方がいなければ今日の歌唱はありませんでした。”
と言ってイヴ・クェラーに投げキッスを送るアラーニャ。
今日の歌唱があった方が良かったのか、なかった方が良かったのかは、
イヴさんにとっても、彼自身にとっても、オーディエンスにとっても微妙なところではありますが、、。


Roberto Alagna (Andrea Chénier)
Kristin Lewis (Maddalena di Coigny)
George Petean (Carlo Gérard)
David Pershall (Roucher)
Jennifer Feinstein (La Contessa di Coigny)
Ricardo Rivera (Mathieu)
Renata Lamanda (Bersi)
Rosalind Elias (La Vecchia Madelon)
Don Barnum (Fouquier-Tinville)
Nicola Pamio (L'Incredible)
Angelo Nardinocchi (Pietro Fléville)
Ronald Naldi (L'Abate)
Eric Keller (Schmidt)
Michael O'Hearn (Dumas)
Philip Booth (Il Maestro di Casa)

Conductor: Alberto Veronesi
The Opera Orchestra of New York
New York Choral Ensemble (prepared by Italo Marchini)

Left Orch L Odd
Avery Fisher Hall

*** ジョルダーノ アンドレア・シェニエ Giordano Andrea Chénier ***
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LES TROYENS (Sat Mtn, Jan 5, 2013)

2013-01-05 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


それは昔、まだ連れと知り合って間もない頃のこと。
私のあまりのオペラ気違いぶりに、”僕が持っているよりも、、。”と言ってプレゼントしてくれたものがあります。
それはレヴァインのメト25周年を記念してパトロン/ドナー用に作成されたCDコレクションで、
金色の刻印が入ったメト・レッドのボックスに納まった3枚のCDに、
過去のラジオ放送の音源から選りすぐった名場面の名演奏が収録されているという代物です。
その中に『トロイ人』第五幕の一場ディドーンのモノローグ以降が収録されており、
1983/84年シーズンの『トロイ人』と言えばDVD化もされたノーマン(カサンドル)/トロヤノス(ディドーン)/ドミンゴ(エネ)の公演があるので、
それと同じ音源?と思いきや、ノン!
さすがレヴァイン25周年記念としてものものしいパッケージに包まれてくるだけあって、既出の音源の焼き増しではないのです。
収録されているのは1984年2月18日の公演なんですが、この日は先述と同じキャストでの再演をラジオ放送するはずがトロヤノスが体調不良で降板、
ノーマンがカサンドルとディドーンの両方のパート全部を一つの公演の中で歌う、という離れ業を成し遂げた公演なのです。
(その二つ前の公演でも、ノーマンはディドーの一部の幕を掛け持ちで歌っていますが、全幕を通して完全に両役を歌ったのはこの2/18きりのはずです。)
コレクションに付いてきたブックレットによると、この作品がメトで初演された1973年10月22日にも、
ディドーンを歌う予定だったクリスタ・ルートヴィヒがキャンセルし、カサンドル役のシャーリー・バーレットが両役を掛け持ちしたことがあるそうなんですが、
一人の歌手が単体ずつでも大変なカサンドルとディドーンの両方を歌うなんて、本当にすごいことだと思います。

そんなわけで、25周年コレクションに収められている公演はオーディエンスにとっても大変思い出深い、メト史に残る公演の一つであり、
先述のDVDでは聴けないノーマンのディドーンの歌唱場面を収録しているところに、
このコレクションの企画に関わったスタッフ(とおそらくレヴァインも、、)の粋な計らいを感じます。
この時の彼女のディドーンの歌唱(抜粋ではありますが)は素晴らしく、このコレクションはずっと私の大切な宝物の一つであり続けて来たのですが、
その25周年記念のCDが作成された15年後の2010年、レヴァインはメトでの活動40周年を迎えて、
その折に新たなCDとDVDのボックス・セットを一般発売したのは以前に記事にした通りです。
この40周年記念ボックス・セットにはかなり多くの作品、それも必ずしも私の好みのレパートリーでないものたちが含まれているので、
もしかしたら一生かかっても全部は見れ・聴けないかな、、、と思っているのですが、
そういえばCDセットの方に2003年2月22日の『トロイ人』の公演(全幕)が含まれていたな、というのを思い出し、
今回せっかくの機会なので、、と耳を通してみたのですが、これはMadokakip、これまで封を開けるか開けないかの状態でこのCDを放置していたことを猛省!です。
というのも、ディドーン役を歌っているロレイン・ハント・リーバーソンの歌唱が実に素晴らしい!



こちらの記事のコメント欄で名古屋のおやじさんが書いていらっしゃる通り、
この時の『トロイ人』のディドーン役には元々ボロディナが予定されていたのですが、彼女が産休のために代わって歌ったのがリーバーソンでした。
リーバーソンの声にはノーマンのような骨太さ・雄大さはないし、彼女のような繊細で細い声の持ち主に、しかもメトのような場所で、
よくディドーン役を任せたもの、と、当時のスタッフの英断に驚きます。
しかし、その繊細さを逆手にとり、ノーマンが完璧な歌唱でディドーンを歌い切ったとすれば、リーバーソンは自分の弱点さえ表現に転化するアプローチで、
ノーマンと同じ位か、もしかしたらそれ以上に説得力のあるディドーン像を作り上げ、見事にその期待に応えています。
登場してすぐに歌う”Nous avon vu finir sept ans à peine ようやく7年の月日が経ちました”からすでに声そのものに説明し難い悲劇の影がちらついており、
五幕ニ場の"ああ、私は死んでしまうのでしょう Ah! Ah! Je vais mourir"でそれがピークに達する様は聴いているこちらまで胸が塞がります。
上で紹介したのは同じ公演の音源から、その"Je vais mourir"です。

本当に残念なことにリーバーソンはたった52歳という若さで2006年に癌で亡くなっているのですが、
彼女のキャリアのほとんど終盤と言ってよい時期の歌唱が、ボロディナの出産という偶然をきっかけに、
全幕でこのように音源に残ったというのはその中で唯一の慰めと言ってもいいかもしれません。
NYのヘッズの中には今でも彼女が登場した公演・演奏会がいかに素晴らしかったを熱く語る人が多いですが、
この『トロイ人』の音源を聴けば彼らの言う意味が本当によくわかります。

40周年記念ボックスには全くリブレットが付いてこないのが不便ではありますが、
その場合はデュトワ盤でも買って、CD放置でそれに付いてくるリブレットだけ見ながら、メトのリーバーソンの名唱を聴く。
鑑賞の準備はこんな感じの方法でよろしいかと存じます。



私には今、メトの舞台にのられると共演者とオーディエンスが迷惑する、よって、のらないで欲しい、と激しく思っているテノールが二人いて、
このブログのあちこちでこれまで書いて来ましたよように、それはロベルト・アラーニャとマルチェッロ・ジョルダーニの二人です。
今年の『トロイ人』のエネ役に予定されていたジョルダーニは、本当に歌を歌うことが好き、かつ、お人好しなまでに性格の良い、つまり俗に言う”いい人”だという噂を度々耳にし、
これまでも、他のテノールがダウンした時、時には昼の公演と夜の公演のダブルヘッダー!というような無理をしてまでカバーに入ってメトのピンチを救ったり、
若手の育成に熱心だったり(ジョルダーニ・ファンデーションなんてのも作ってましたよね、そういえば。記念のガラを聴きに行きましたがな。)、
それを裏付けるエピソードにも事欠きません。
だけど、彼が最近歌いたがっている、そして実際にメトで歌ってしまったドラマティックな役どころ(カラフ、ディック・ジョンソンなどなど、、)を
彼の声が支え切れていないのは明らかで、若手の育成に熱心な人が、観客が満足できる歌唱を聴かせられないにも関わらず
これらの役に固執することで次世代の歌手たちの活躍する場を奪っているかもしれないのはすごく皮肉なことだと思うし、
特にこの4〜5年は彼がキャストに混じっていると聞くだけで、”これで瑕のない公演になる可能性はなくなったな。”とあきらめるほどで、
昨シーズンの『エルナーニ』(ブログ休止期間でこれまた感想が落ちてますね。すみません。)なんか、
ミード、フルラネット、ホロストフスキー、とここまでキャスティングを頑張っておきながら、
どうしてジョルダーニでトッピングするという大馬鹿をやるかな、メトは!?と怒りに燃えてました。

かつては彼も綺麗な声を持っていてNYで良い歌唱を聴かせていたのと、先述の誰もが認めるいい人ぶりも加わって、
普段は遠慮なく厳しいことを言ってのけるヘッズもあまり彼の最近の低調振りを厳しく追及したくなかったのだと思いますが、
『トロイ人』初日の彼のエネ役の歌唱には残りの公演に対する不安の声がヘッズから爆発し、
ジョルダーニは三公演だけ歌って、同役を完全封印することになりました。
それを言ったら他にも完全封印した方がいい役はいっぱいあると思うんですけどね、、、。

で、急遽ブライアン・イーメルが四つ目の公演からエネ役に入ることになったわけですが、
彼は昨年6月ROHの『トロイ人』でもキャンセルしたカウフマンの代わりに同役を歌っていて、その時の結果が買われたものと思われます。
実を言うと、私は2007/8年シーズンのOONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)のガラで彼の歌を聴いたことがあるんですが、
そういえばその時も、スティーヴン・コステロの歌が聴ける、というので楽しみにしていたのに、彼が病欠してイーメルが出てきたんでした、、。代役専門か?
もう4年も前のことになってしまうんですが、その頃のイーメルは、歌がかなり不安定で、声にも特別なものが感じられず、正直全然良い印象が残ってなくて、
代わりにこんな良いテノールを発掘出来た!と興奮することもなく、やっぱりコステロを聴きたかったな、、と感じたのみに留まりました。
だけど、ROHの『トロイ人』やメトの『トロイ人』の直前に同じROHで出演していた『悪魔ロベール』では手堅い歌唱を披露していたという風に聞いていますので、
今回はこの4年間での成長をおおいにNYのヘッズにアピールして頂きたいと思います。



この作品はあまりに長大(演奏時間的にはワーグナーのリングに負けてないんですが、
日本でHD上映される場合はやっぱり一回りお高い金額設定になったりするんでしょうか、、?)で、かつ、ステージングが困難なため、
一部と二部通しのフランス語完全版を一日で連続して上演するようになったのはここ40〜50年位の話で、
それまでは世界的にも、片方の部だけの演奏だったり、短縮版を採用したり、、という状況でした。
ストーリー的には一部と二部を繋いでいる存在はエネ位のもので、それぞれが全く独立したものになっているので、
CDで音だけ聴いている時は、”別に片方の部だけの演奏というのも、そう突拍子ないものではないな、、。”と思って聴いていたのですが、
今回の公演を見て、やはりこの作品は両方を通しで見てこそ伝わってくるものがある!と思いました。
まず第一部、第二部、それぞれの話をして、その後になぜそのように感じたか、理由を書こうと思います。

<第一部>

第一部で最も大きな存在と言ってもよいカサンドル役には2003年の公演と同じデボラ・ヴォイトが配されています。
ヴォイトは最近の歌唱、特に『西部の娘』やリングのブリュンヒルデ役がかなりこちらのヘッズの間で評価が低く、
私がジョルダーニにもうメトの舞台に立って欲しくない!と思うのと同様か、それ以上の激しさで、彼女にはもう今後あまり歌って欲しくない、という声をよく聞きます。
彼女の場合はジョルダーニのようにヘッズの言葉に屈することなく、むしろ、”そんな言葉には負けないわ!”とばかりに頑張ってしまうところがあって、
それがまた一層、ヘッズの腹立たしさを倍増させているところがあるようにも感じます。
今回もジョルダーニのエネと、ヴォイトのカサンドルを差し替えて欲しい!!という声は同じ位に強かったのですが、結局ヴォイトは今日も逞しく舞台に登場して来ました。
2003年の音源を予習で聴いていて興味深かったのは、当時、まだヴォイトは胃のバイパス手術前の巨体でしたが、
すでに今ヘッズが問題にしている歌唱の欠点(過度なビブラート、高音域の浅さ)の兆しが見られるようになっている点で、
なので、彼女に関しては手術をしてもしなくても、歌唱が今のような状態になっていた可能性は十分にあって、
むしろ、私は今日の歌唱に関しては、2003年の時の歌唱から想像していたほどには変わっていないな、、と感じました。
なので、2003年の歌唱を生で聴いた人は実際のところ、彼女の歌唱に関してどういう感想を持っていたんだろう、、?と思います。

ヴォイトはそれ以外にもディクションの甘さ、そして、演技が表面的でいわゆるpark & bark (立ったままで吠えてるだけ、の意)の典型であることもよく非難の対象になるのですが、
こちらについては、多分、もう一生彼女が変わることはないんじゃないかな、、と思います。
彼女の手術以降のキャリアを見ていて皮肉だな、と感じるのは、今の彼女のように痩せてルックスが綺麗になっても、
役としての表現力・演技力にはほとんど何ら貢献することがなかった点です。
痩せて綺麗になることの意味はそれによってコンプレックスが抜けて照れや迷いなく演技に打ち込めることだと思うのですが、
彼女はまだそういうコンプレックスが抜け切らないのか、もっと単純に演技をするということに才能がないのか、
とにかく彼女の演技には完全に役と一体になっていないような、役からのいくらかの距離を感じる。
太っていた頃は、それを言い訳に出来たけれど、痩せて綺麗になってしまったことでかえってその言い訳も利かなくなった。
だから一層ヘッズは彼女のなんとなくノン・コミッタルな表現に不満を感じ、、というような悪循環に陥っているのだと思います。
歌唱の内容自体には10年弱の月日が声に当然及ぼす影響を除けばそんなに大騒ぎするほどレベル・ダウンしているわけではないのに、
今年の彼女の歌唱に大きな非難が向くのはそのあたりにも原因があるのかな、、と個人的には感じています。



実は今日の第一部が始まって、”こりゃやばい、、。”と思わされたのはルイージの指揮/オケの演奏です。
ヴォイトが元々あまり役に没入するタイプではないのは彼女自身の問題ではありますが、
それを一向に助けていないのが、第一部でのオケの演奏です。
例えば、一幕が始まってすぐ。
トロイアにたった今押し寄せんとしているオーメンと陥落をただ一人(正しく)予知しているカサンドルを、
ギリシャ軍を撃退したと勘違いして束の間の喜びに浸っているトロイア人たちは半分気ちがい扱いしています。
そんな彼女が父親である王の運命を嘆いた後(Malheureux Roi!)、さらに思いを許婚のコレーブに向け、
"ああ、コレーブも!彼すら私が気が狂ったものと思っているではないの!
彼のことを思うと私の怖れは何倍にも膨らむ、、、ああ!コレーブ、、、彼は私を愛し、私も彼を愛している”

この最後の Chorèbe! il m'aime! Il est aimé!の部分は、第一部で最初から最後まで鉄のような強さを保ち続けて死んでいくカサンドルが、
唯一女性らしい素顔をほんの一瞬オーディエンスに見せる部分で、それに見合った非常に美しい音楽をベルリオーズがつけていて、
2003年の音源のレヴァインが、照れなくここをロマンチックに盛り上げているのは全くもって正解です。
ところが、今日のルイージ&オケはどうでしょう!?
さらーっとここを流していて、”ちょっと!ここで盛り上がらなかったらいつ盛り上がんのよーっ!”と髪をかきむしりたくなるような有様なのです。
この間の『仮面舞踏会』の時も、昨年の『マノン』の時もそうでしたけど、
ルイージはこういう恋する女の気持ちを描く場面に来るとまったく駄目なのはどういうことなんでしょう?
そんなことしてたら奥さんにも逃げられますからね、気をつけて欲しいもんです。
いや、良く考えたら、奥さんだけではない!
こんな盛り上がらない演奏を正味4時間(HDはこれに二回分の休憩が加わりますのでよろしく〜。)に渡って聴かされるオーディエンスにも逃げられるかもしれませんぜ。



2003年から継続してキャスティングされている歌手にはヴォイトに加えてコレーブ役のドウェイン・クロフトがいるんですが、
なんだか今回は精彩を欠いていて、段々メトでは脇役やらカバーに回ることが多くなってきた昨今、このままキャリアが先すぼみにならなければいいのですが、、。

2003年の公演に比べて今回圧倒的にグレード・アップしているのは合唱で、今回は男性だけでなく、女性の合唱もなかなかに健闘していると思いました。
2003年のキャストと指揮&オケに今回の合唱が組み合わさればなあ、、と思ったりもするのですが、
キャスト(それも多岐に及んだ、、)、指揮&オケ、合唱、演出すべてが揃うのはこのようなスケールの大きな作品ではなかなか難しいことではあります。

ところで2003年のエネは誰だったんだ?というご質問はごもっとも。言うのを忘れてましたが、ベン・ヘップナーです。
今日エネ役を歌ったイーメルの声はヘップナーと比べると軽くて細身だし、正直言うと、私はやっぱり2008年のOONYガラと同様、
彼の声自体、特に低音域〜中音域、そしてそのちょっと上あたりにはあまり特別な魅力を感じなくて、どちらかという個性の薄い、比較的平凡な声だな、、と思います。
ただ、2003年にはすでにいい歳こいたおっさんだったヘップナーに対し、イーメルは年齢が若い(1979年生まれなので現在33歳)せいもあるのでしょうが、
もしジョルダーニが出演していたら聴き苦しいと形容する以外の何物でもなかったであろう最高音がすごくしっかりしていて、そこはヘップナーよりも全然良い位です。
普通のテノールだったらむしろ恐怖を感じるこれらの音の方が綺麗な音色が出ていて、しかも響きとしても安定しているのが面白いな、と思います。
この日のHDの幕間のインタビューで、イーメルがグラハムと共にインタビューされていましたが、
そこで彼自身も、”高音は以前からあったのだけれど、中音域と低音域を開拓するのに時間がかかったし、今でもまだその努力を続けているところです。”
というようなことを言っていて、なるほどなあ、、と思いながら聞いていました。

ただし、ROHの二つの演目でポジティブな評価を得ていることが自信になっているのか、度胸はOONYガラの頃に比べると格段に成長していて、
急遽決定したメト・デビューのシーズン(しかもエネ役のような大変な役で!)という気負いとかプレッシャーに負けずに、普段通りの力を出しているのは賞賛に値します。
今の彼の堂々とした姿を見ると、OONYガラでびくついていた頃の彼が懐かしい気すらしてきました。

第一部で私があまり感心しなかったのは歌のないアンドロマク役を演じたジャクリーン・アンタラミアンという女優(なんだと思います、、)の演技で、
周りとの調和、音楽、歌唱、すべてを無視したオーバーアクティングには辟易しました。
戦士した夫であり、カサンドルの兄であるエクトルの葬儀の場面で、いよいよ死体から引き離されるとなると、
大きな声で泣き喚き、周りの男性だったかの胸をドコドコ叩いたりしているんですが、
2003年の録音には一切そんな声や音は入っていないので、目立ちたがり屋な女優が演出のザンベロを説得してこんな変な演技を入れてしまった可能性も感じます。
この場面にうちの店子友達も混じっていたならば、また後で大変な愚痴話を聞かされるところでした。(なぜ、”また”なのかはこちら。)

後、もしかすると、この第一部だけを見て、(メト基準では、でありますが)過剰に暴力的な演出にうんざりされるオーディエンスもいた・いらっしゃるかもしれませんが、
第二部を見ると、それが意味なくヴァイオレントなのでは決してなく、必要な描写であることがわかってくるので、しばしの我慢が必要です。



<第二部>

第二部からの登場になるものの、一・二部を通して最大の主役となるディドーン。
今回この大任を請け負うのがスーザン・グラハムで、彼女のディドーンは初日の公演に対するメディア評もかなり好意的なもので大変期待してたんですが、
その後しばらくして風邪をひいてしまったらしい彼女は結局、ニ、三回、公演をキャンセルすることになってしまって、
今日の公演日にはちゃんと登場出来るのか、また登場したとしても良いコンディションで歌えるのか??かなりやきもきさせられました。
彼女はガタイがごつくてすごく丈夫そうに見えるのに、HDと言うと毎回風邪をひいている(『ばらの騎士』しかり、『タウリスのイフィゲニア』しかり。)
ような印象があるんですよね、、。

結局のところ、今回の公演に関してはきちんといつも通りのコンディションに戻っていて心配無用!
声楽的にはほとんど何もケチをつけることがない位、きちんとした歌唱でした。
表現力や歌唱の内容は置いておいて、声の質だけの話をすると、役に対して若干過剰に感じられるノーマンの声や、
そして逆に線が細すぎるように感じるリーバーソンの声に比べても、個人的にはグラハムの声が一番ディドーン役に適性があると思います。
声に適性はある、歌唱もしっかりしている、演技もヴォイトに比べたらそれはもうずっと深いコミットメントを感じる、、で、素晴らしいディドーンになる条件は全て整っている!
のですが、これが以前にもどこかの記事で書いた通り、1+1が必ずしも2にならない、オペラの神秘なんです。

リーバーソンのディドーンは、この役を歌うにおいて、本来なら欠点として認識されてもおかしくない彼女の声の特性(線の細さ、振り絞るような高音、、)を
すべて表現の面でのプラスに転化しているのが素晴らしい、と先に書きました。それは1+1が3にも4にも5にもなるような魔法です。
逆に、グラハムのディドーンは、この役を完璧にする何もかもが揃っているのに、なぜか、それが総和の0.00001少ないところに落ちているか、
もしくは、その総和のまま、それ以上のものになっていないような感じなんです。
多分、何の前知識もなくこの公演を鑑賞したなら、十分過ぎるほど満足出来たディドーンだったと思うのですが、
リーバーソンの胸を抉られるような歌唱を聴いてしまった後では、”ああ、あの高みには達していないなあ、、。”と思ってしまう。
贅沢ですみません、、、が、この、大抵のものでは満足出来ない、、という現象は、ある作品で優れた歌唱を聴いてしまった後に誰もが経験する事だと思います。



しかし、彼女とイーメルの間になかな良い感じのケミストリーがあるのは今回の公演で大きなプラスです。
映画館のスクリーンでどアップで見てしまうと、年増のおばはん(ごめんね、スーザン、、)が若い男を丸め込んでいる感じでちょっと怖いかもしれませんが、
劇場で見ている限りは、歌唱がなく、ずっとオケの演奏が続いて行く狩りと嵐の場面の演技はなかなかロマンチックで、
恋に落ちていく二人の様子が大変上手く描かれていたと思います。
また後ほどこのトピックに戻って行く事になると思いますが、今回、ザンベロの演出、特にダンスの取り込み方は、
コリアグラファー(ダグ・ヴァローン)の力もあるのでしょうが、素晴らしかったと思います。
リブレット通りに演出すると、ここは狩りに出たカルタゴとトロイアの人々が嵐に合い、嵐の気配が去った頃にエネとディドーンが手を取り合って現れ、
それを見てオーディエンスは”あ、この二人、もう出来てやがるな。”とわかる、、ということになっているのですが、
ザンベロの演出では、この嵐の音楽のところに、カルタゴ・トロイヤの合同チーム vs ヌミディアの戦いの様子と、
そこから披露困憊で帰って来た兵士たち、そして、最後にエネの姿を見つけて喜ぶエネの幼い息子アスカーニュと、
自分の命を守ってくれた愛するエネへの思いが爆発するディドーンと彼女の思いを受け止めるエネ、、、と、ここまでが全て描写されており、
音楽の素晴らしさとも相まって、公演の中の一つのクライマックスになっています。

第一部では全く冴えない感じだった指揮とオケも、この狩りと嵐の場面あたりからきちんとはまり出した感じがあって、第二部の方が第一部よりも全然良い出来です。
狩りと嵐に続くバレエの場面なんかダンサーの踊りのテンポにも配慮しつつ躍動感もあるなかなか優れた演奏で、
ルイージはバレエのレパートリーの指揮の方が向いているんじゃないの?と思ったりしました。
いえ、別にメトから彼を追い出そうとしているわけではないんですよ、念のため。



2003年にイオパ役を歌っているのはマシュー・ポレンザーニで、今やメトの主力戦力として新演出ものなどで活躍している彼も当時はまだ初々しい歌唱なのが微笑ましい。
私が今回の公演で大変興味深く感じていたのはこのイオパ役にエリック・カトラーが起用されている点です。
2003年のエネはヘップナーで、イオパはポレンザーニ。この二人にははっきり言ってテノールである、という事以外は全く何の共通項もありません。
ヘップナーが得意としていたレパートリーとポレンザーニがこれまで歌って来ているレパートリーは全くと言っていいほど被っていないし、
全然違うタイプのテノールであることは明らかです。
しかし、イーメルとカトラー、これはヘップナーとポレンザーニよりもずっとずっとお互いに近いところにいるテノールと言ってよいと思います。
2011年に鑑賞したカレジエート・コラールの『モーゼとファラオ』で私はカトラーを過小評価していたかもしれない、、と、
彼を少し見直すきっかけになったのですが、あの『モーゼとファラオ』の時の歌声が本来の力だったとすると、
イーメルがエネを歌えるなら、彼にだってエネを歌える力はあるはずだ、と私は思っていて、
イーメルよりも早くオペラ・シーンに登場して、それなりにチャンスも与えられながら(ネトレプコの相手役として『清教徒』のHDに登場していた位なのですから、、。)、
あのむさくるしいルックスや、ここ一番で今一つ自分の能力をアピール出来ない鈍臭さなどが重なって、ブレークするきっかけを逸している彼が、
後輩であるイーメルがこの稀なチャンスをものにしてスポットライトを我が物にしているのを、
同じテノール、しかも先輩として、どのような思いで見ているのだろう、、、という、ちょっと下世話な興味も湧いてくるわけです。



長時間に渡ってその歌唱を披露出来るエネ役に対し、イオパの方はほとんど4幕の”おお、黄金のセレスよ O blonde Cérès”一発で勝負!という、
エネ役とはまた違った種類の難しさとプレッシャーがあります。
しかも、その前のバレエのシーンでは延々と他の主要登場人物に混じって舞台で座って踊りを鑑賞しなければならず、
これ即ち、ウォームアップなしでほとんどすぐにあのメロディーを歌わなければならないということで、ぱっと見よりはずっと大変な役で、
しかもあんな大変な歌を歌った後に、”ごめんなさい、あなたの歌ですら私の心を明るく出来ないわ、、。”とディドーンに言われてしまうという、
全くもって踏んだり蹴ったりの役柄です。
しかし、カトラーがこのイーメルとのバトルをかなりシリアスに受け止めており(まあ、イーメルの方はバトルと思っちゃいないでしょうが、、)、
並々ならぬやる気を持って挑んでいることはすぐに感じられました。

カトラーの声が出て来てすぐに感じたのは、”イーメルより彼の方がエネっぽいサウンドだよなあ、、。”ということ。
彼は高音が強いためベル・カント・レップを歌うことがこれまで多かったように思うのですが、
以前に比べてかなり声に重量感が出て来ているので、ベル・カント以外のレパートリーにも手を広げていけるのではないかな、と思います。
まあ、その結果が今回のイオパ役でもあるのでしょうが。
ベル・カントを歌って来ているだけあって、基本的な技巧は割としっかりしていますし、
高音でオーディエンスの喝采を奪って来たイーメルに”これでどうだ?”と勝負をかけるかのように、
この曲の途中で高音(おそらくスコアにはないオプショナルの音ではないかと思います。)をトスして来たのには”やるな、おぬし、、。”とニヤニヤさせられました。
こういう遊び&勝負心のある歌手、私は嫌いではありません。
ま、高音も楽しかったのですが、最近の彼の歌唱が以前より良くなったな、と思うのは、そこに至るまでの前半の部分なんかを、実に丁寧に歌っている点です。
あともう一越え、歌唱のダイナミクスが豊かになれば、もっと良い歌になると思うんですが、、。
ところが歌の内容に比して、相変わらずオーディエンスの反応が緩く(何なんでしょうね、、あの熊みたいなむさ苦しい感じが観客受けしないのかな、、?)、
おそらく心の中では”満点歌唱だぜ!これは大喝采が来るぞ!”とガッツポーズを決めていたはずのカトラーがこけたように見えたのは私の気のせいでしょうか。
いやいや、オーディエンスがどんな反応をしようと、なかなか良い歌唱でしたよ。これでめげず、進歩し続けていって欲しいと思います。

主要キャストの中でもう一人言及しておきたい人がいるとすれば、それはアナ役のカレン・カージルです。
2003年の公演ではこの役をエレーナ・ザレンバが歌っていて、私は彼女の歌を何度か生で聴いたこともありますが、
こんなまったりした、しかも激しいビブラートの人だっけ?とびっくりしました。
もうビブラートの幅が広すぎて、しかもそれがことごとく微妙にずれているので、一体どこに本来の旋律があるのかわからないくらいのひどいことになってます。
それに比べて今日のカージルは適度な重量感がありながら、素直な発声に加えて変な歌い癖や誇張がなく、丁寧に旋律を追っており、誠実な感じの歌い振りに好感を持ちました。



今回、私が最も感嘆したのはザンベロの演出です。
まず、『トロイ人』を舞台にのせるのが大変な最大の理由は、
トロイの木馬、狩り、戦争、といった次々と現れるスペクタクルな場面をどのように実際に舞台上に視覚化するのか?という点であるのは間違いないでしょう。
これを成し遂げるだけでも壮大なプロジェクトで、結果としてそれ以外のことには何も手が回らない、、ということになっても決しておかしくない、
それ位演出家からすると『トロイ人』は難作だと思うのですが、ザンベロはこのメトの演出で、トロイの木馬をはじめとする基本スペクタクルをきちんとおさえつつ、
(あの巨大なトロイの木馬が舞台上に現れて、舞台袖に消えて行くまで、
特に馬の中からギリシャ兵たちの鎧兜の音が聴こえて舞台とピットが静まり返るシーンは、実際に劇場にいるとすごい緊張感です。)
そこに留まらずにそれ以上のことをきちんと成し遂げているところがすごい!

彼女はこの演出で、攻めや戦いの世界が、守りと平和の世界を侵食していく様を、
それがいかに簡単に、小さなきっかけで伝染していくかをきちんとオーディエンスに伝えようとしています。
このメッセージを伝えるためには、トロイアの国で起こった出来事をことごとく暴力的に描き、
逆に暴力に汚染される前のカルタゴはまるで平和の夢の国のように美しく描く必要がある。

私が特に強い印象を受けたのは、ダンサーが登場するシーンです。
リブレットを読み、音源を聞いただけでは単純な余興のための踊りとして思えなかった一つ一つの場面が、
コリアグラファーの力もあって、非常に意味のある場面になっていて、ストーリーの流れが一時中止しても歌がなくても、退屈するどころか、片時も目が離せませんでした。
これまで、メトの舞台に登場するバレエのシーンで、これほどまでに密接に作品と結びつき、すべてに意味がある!と感じさせられたことは一度もないです。
ヴァローンのコリアグラフィーの独特の浮遊感やリズム自体も心地良いのですが、
トロイアの男性が次第にカルタゴの女性と混じり合っていく表現とか
(しかし、カルタゴの男女比がよっぽど狂っていない限り、辻褄が合わないぞ、、という質問はしてはいけないのです。)、
平和(カルタゴ)の世界が戦い(トロイア)の世界を包むかと思いきや、最後には戦いの世界が勝ってしまう表現
(そして、考えてみれば、トロイアもギリシャと戦う前には平和な世界があったのかもしれない、、)など、
どの場面をとってもそのコリアグラフィーから演出の意図が感じられるもので、オペラのバレエ・シーンにこんな可能性があったのか!と驚きました。

今日の公演は2003年に初演された演出のリバイバルで、一般的には再演ものの舞台挨拶に演出家が登場することは珍しいのですが、
今回はそのザンベロが最後に舞台に登場して、私の隣に座っているご夫婦も”ぎゃーっ!!フランチェスカ!!ミス・ザンベラ!!!ブラボー!!”と大熱狂でした。
しかし、ザンベラって、、、苗字まで女性名詞扱いにする必要はないと思うんですよ。
ザンベです、ザンベ


Part I: La Prise de Troie
Deborah Voigt (Cassandre / Cassandra)
Dwayne Croft (Chorèbe / Coroebus)
Bryan Hymel (Énée / Aeneas)
Julie Boulianne (Ascagne / Ascanius)
Julien Robbins (Priam)
Theodora Hanslowe (Hécube / Hecuba)
Eduardo Valdes (Helenus)
Richard Bernstein (Panthée / Panthus)
David Crawford (L'ombre d'Hector / Hector's Ghost)
Jacqueline Antaramian (Andromaque / Andromache)
Connell C. Rapavy (Astyanax)

Part II: Les Troyens à Carthage
Susan Graham (Didon / Dido)
Karen Cargill (Anna)
Kwangchul Youn (Narbal)
Eric Cutler (Iopas)
Julie Boulianne (Ascagne / Ascanius)
Richard Bernstein (Panthée / Panthus)
Bryan Hymel (Énée / Aeneas)
Kwangchul Youn (La dieu Mercure / The god mercury)
Paul Appleby (Hylas)
Paul Corona / James Courtney (Trojan soldier)
Julien Robbins (Priam's Ghost)
Dwayne Croft (Coroebus' Ghost)
Edyta Kulczak (Cassandra's Ghost)
David Crawford (Hector's Ghost)

Conductor: Fabio Luisi
Production: Francesca Zambello
Set design: Maria Bjønson
Costume design: Anita Yavich
Lighting design: James F. Ingalls
Choreography: Doug Varone

Dr Circ A Even
SB

*** Berlioz Les Troyens ベルリオーズ トロイ人 トロイアの人々 ***
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