高校生のときに、その道を何度か通った。
西は見渡す限りの田園が広がっているのだが、
漆原医院の裏はこんもりと屋敷林が生い茂っていて、
何とはなしに目についていたのを覚えている。
そこが「漆原館」と言って、
中世の館跡と比定されることを知ったのは、
だいぶあとになってからのことだ。
『埼玉の中世城館跡』(1988・埼玉県教育委員会)に収録され、その遺構として、
漆原医院の裏手に、東西方向とこれから南に延びる2本の堀が残っている。
堀の幅は約6m、深さ約1m。
南北の堀には北側に出桝状の堀が認められる。
とある。
平井辰雄氏の『羽生ふるさと探訪』によると、
漆原家は鎌倉時代の豪族千葉氏の子孫と伝えられているらしい。
現住所は羽生市下新郷になっているが、
この漆原館は会の川(古利根川)から西に位置しているため、
かつては忍領だった。
つまり忍城の出城であり、川を越えて侵入してくる敵の監視をしていたのだろう。
敵とは誰か?
それは羽生城である。
羽生城主広田直繁と木戸忠朝は上杉謙信に属し、
忍城主成田氏とは浅からぬ因縁があった。
ところで、隣村に鎮座する“大物忌神社”にはある言い伝えが残っている。
それは、この地には忍城の出城があり、
川を境に合戦をし、死者が多く出たため、
その人々を祀ったというものである。
ここで言う「忍城の出城」とは、漆原館ではないだろうか。
川を挟んだ合戦といえば、
“岩瀬河原の合戦”と呼ばれる戦いが桑崎辺りで起こっているが、
そのほかにも戦いがあったのかもしれない。
また、天正元年(1573)には小田原城主北条氏政が、
羽生と忍の境である小松に布陣していることから、
このときも衝突があったとしてもおかしくはない。
元亀3年(1572)は、忍城勢が羽生勢を打ち散らしている(「吉羽文書」)
天正2年(1574)に羽生城は自落。
以後、豊臣秀吉が天下統一を果たすまで、
忍城の支配を受けた。
会の川沿いは緊迫した空気が緩和したことだろう。
漆原氏は連綿と続き、
代々下新郷の名主をつとめたと『羽生市史』に記されている。
現在、多くの人がそこを館跡だとは思っていないと思う。
館よりも“はしか門”の方が有名だ。
ぼく自身、高校時代はただの屋敷林のあるお宅としか見ていなかった。
しかし、そこが館跡だと知ってしまったからには、
戦場を駆け抜ける武蔵武士のごとく、
心を騒がせてならない……。
西は見渡す限りの田園が広がっているのだが、
漆原医院の裏はこんもりと屋敷林が生い茂っていて、
何とはなしに目についていたのを覚えている。
そこが「漆原館」と言って、
中世の館跡と比定されることを知ったのは、
だいぶあとになってからのことだ。
『埼玉の中世城館跡』(1988・埼玉県教育委員会)に収録され、その遺構として、
漆原医院の裏手に、東西方向とこれから南に延びる2本の堀が残っている。
堀の幅は約6m、深さ約1m。
南北の堀には北側に出桝状の堀が認められる。
とある。
平井辰雄氏の『羽生ふるさと探訪』によると、
漆原家は鎌倉時代の豪族千葉氏の子孫と伝えられているらしい。
現住所は羽生市下新郷になっているが、
この漆原館は会の川(古利根川)から西に位置しているため、
かつては忍領だった。
つまり忍城の出城であり、川を越えて侵入してくる敵の監視をしていたのだろう。
敵とは誰か?
それは羽生城である。
羽生城主広田直繁と木戸忠朝は上杉謙信に属し、
忍城主成田氏とは浅からぬ因縁があった。
ところで、隣村に鎮座する“大物忌神社”にはある言い伝えが残っている。
それは、この地には忍城の出城があり、
川を境に合戦をし、死者が多く出たため、
その人々を祀ったというものである。
ここで言う「忍城の出城」とは、漆原館ではないだろうか。
川を挟んだ合戦といえば、
“岩瀬河原の合戦”と呼ばれる戦いが桑崎辺りで起こっているが、
そのほかにも戦いがあったのかもしれない。
また、天正元年(1573)には小田原城主北条氏政が、
羽生と忍の境である小松に布陣していることから、
このときも衝突があったとしてもおかしくはない。
元亀3年(1572)は、忍城勢が羽生勢を打ち散らしている(「吉羽文書」)
天正2年(1574)に羽生城は自落。
以後、豊臣秀吉が天下統一を果たすまで、
忍城の支配を受けた。
会の川沿いは緊迫した空気が緩和したことだろう。
漆原氏は連綿と続き、
代々下新郷の名主をつとめたと『羽生市史』に記されている。
現在、多くの人がそこを館跡だとは思っていないと思う。
館よりも“はしか門”の方が有名だ。
ぼく自身、高校時代はただの屋敷林のあるお宅としか見ていなかった。
しかし、そこが館跡だと知ってしまったからには、
戦場を駆け抜ける武蔵武士のごとく、
心を騒がせてならない……。
えっとおじいさんの孫と言えばいいでしょうか?
あっ確かに屋敷林に堀が2本あったですね
以前、おじいさまの漆原先生には大変お世話になりました。
勝手にこのような記事を書いてしまい、とても恐縮です。
埼玉県が刊行した報告書をもとにこのような記事を書きました。
通るたびに、いつも目に留まってしまいます。