クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

何気ないふりして、実は……  ―漆原館―

2009年08月09日 | 城・館の部屋
高校生のときに、その道を何度か通った。
西は見渡す限りの田園が広がっているのだが、
漆原医院の裏はこんもりと屋敷林が生い茂っていて、
何とはなしに目についていたのを覚えている。

そこが「漆原館」と言って、
中世の館跡と比定されることを知ったのは、
だいぶあとになってからのことだ。
『埼玉の中世城館跡』(1988・埼玉県教育委員会)に収録され、その遺構として、

 漆原医院の裏手に、東西方向とこれから南に延びる2本の堀が残っている。
 堀の幅は約6m、深さ約1m。
 南北の堀には北側に出桝状の堀が認められる。

とある。
平井辰雄氏の『羽生ふるさと探訪』によると、
漆原家は鎌倉時代の豪族千葉氏の子孫と伝えられているらしい。

現住所は羽生市下新郷になっているが、
この漆原館は会の川(古利根川)から西に位置しているため、
かつては忍領だった。
つまり忍城の出城であり、川を越えて侵入してくる敵の監視をしていたのだろう。

敵とは誰か?
それは羽生城である。
羽生城主広田直繁と木戸忠朝は上杉謙信に属し、
忍城主成田氏とは浅からぬ因縁があった。

ところで、隣村に鎮座する“大物忌神社”にはある言い伝えが残っている。
それは、この地には忍城の出城があり、
川を境に合戦をし、死者が多く出たため、
その人々を祀ったというものである。
ここで言う「忍城の出城」とは、漆原館ではないだろうか。

川を挟んだ合戦といえば、
“岩瀬河原の合戦”と呼ばれる戦いが桑崎辺りで起こっているが、
そのほかにも戦いがあったのかもしれない。

また、天正元年(1573)には小田原城主北条氏政が、
羽生と忍の境である小松に布陣していることから、
このときも衝突があったとしてもおかしくはない。
元亀3年(1572)は、忍城勢が羽生勢を打ち散らしている(「吉羽文書」)

天正2年(1574)に羽生城は自落。
以後、豊臣秀吉が天下統一を果たすまで、
忍城の支配を受けた。
会の川沿いは緊迫した空気が緩和したことだろう。
漆原氏は連綿と続き、
代々下新郷の名主をつとめたと『羽生市史』に記されている。

現在、多くの人がそこを館跡だとは思っていないと思う。
館よりも“はしか門”の方が有名だ。
ぼく自身、高校時代はただの屋敷林のあるお宅としか見ていなかった。
しかし、そこが館跡だと知ってしまったからには、
戦場を駆け抜ける武蔵武士のごとく、
心を騒がせてならない……。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (漆原)
2011-03-25 11:14:55
こんにちは私は漆原家の子供です
えっとおじいさんの孫と言えばいいでしょうか?
あっ確かに屋敷林に堀が2本あったですね
Unknown (漆原)
2011-03-25 11:16:27
この記事を書いた方こめんとください!!
漆原さんへ (クニ)
2011-03-25 23:09:27
こんばんは。
以前、おじいさまの漆原先生には大変お世話になりました。
勝手にこのような記事を書いてしまい、とても恐縮です。
埼玉県が刊行した報告書をもとにこのような記事を書きました。
通るたびに、いつも目に留まってしまいます。

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