クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生陣屋の兵も“梁田戦争”を目の当たりにした?

2016年05月10日 | 近現代の歴史部屋
“梁田戦争”は知る人ぞ知る戦いだ。
足利市の梁田を舞台に、幕府軍と官軍が衝突した。
時に、慶應4年(1868)3月9日のことだった。

梁田宿で休んでいた幕府軍を官軍が急襲。
官軍は3隊に分かれ、宿を囲むように攻め込んだという。
不意を突かれた幕府軍が慌てふためいたのは言うまでもない。
急いで反撃に出ようとしたが、
官軍の勢いを止めることはできなかった。

梁田宿では大砲や鉄砲の弾が行き交い、黒煙が上がった。
宿内の民家からは火の手が上がる。
それは勢いを増し、合わせて18軒の家々が紅蓮の炎に包まれたという。

また、宿内では白兵戦も繰り広げられた。
斬り結ばれる刃と刃。
逃げ惑う女や子どもたち。
そのときの梁田宿は地獄絵図と化したのだろう。

実は、この中に羽生の兵もいた。
梁田宿に来る前、幕府軍は羽生陣屋(埼玉県羽生市)に立ち寄っており、
農兵隊も参陣したからだ。

その兵たちは、血生臭い戦場を目の当たりにしたことになる。
陣屋構築にあたって急遽集められた兵たちばかりだ。
激しい戦闘を目の当たりにして、
士気を保つことができたかは定かではない。

この戦いによる幕府軍の死傷者は、
ものの本によれば100人を越えたという。
宿内の長福寺には、この戦争による死者の墓“戦死塚”があるが、
64人が亡くなったという。

現在の梁田宿は、「閑静な住宅街」と言っていいかもしれない。
日光例幣使街道を示す石碑が道路脇にポツンと建っている。
歴史を知らなければ、
かつてそこで激戦が繰り広げられたことなど知る由もないだろう。

この戦争を目の当たりにした者がいまもいる。
それは梁田公民館の敷地内にてご存命だ。
梁田戦争で大砲の弾を受けた“松”だ。

現在は梁田公民館に移植されているが、
かつては宿内の民家に立っていたという。
両軍の激しい戦闘を目の当たりにした松だ。
しかも負傷している。
まさに「歴史の目撃者」。

なお、同公民館には梁田戦争ゆかりのものが展示されている。
幕末はどんどん遠ざかっているが、
それらはかつてそこで戦争があったことをいまに伝えている。


梁田宿(栃木県足利市)


戦死塚


東軍戦死者追悼碑


弾痕の松

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