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寺院伏0298  伏見別院  真宗大谷派  

2016年12月28日 08時26分05秒 | 寺院

 京都市伏見区大阪町609

 

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主・教如が創建しました。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、大正4年(1915)に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。幕末の慶応4年(1868)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿舎としました。翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物には大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18年(1885)に南向きに縮小して建て替えられました。平成2年(1990)に建物の老朽化にために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。     伏見観光協会平成21年12月

 

京如上人御舊跡  伏見御坊

 

 

 

伏見別院は、慶長4年(1599)頃、本願寺第12代(東本願寺初代)教如上人が徳川家康より寺地としてこの地の寄進を受け、また堂舎には伏見に南隣する向島にあった家康の御殿を拝領し建立された。往時この地には蓮池に面し、そこには一茎双頭の蓮華や二葉が生え、蓮池御坊あるいは双葉御坊とも呼ばれた。

第17代真如上人(一説に第13代宣如上人)の時代に再建され、その後文久3年(1863)の教如上人250回忌法要にあわせてあらためて建て替えられた。本堂に加え客殿、正殿、末寺溜所、鐘楼などが建ち並んだという。

鳥羽伏見の戦いの際には、会津藩の宿舎となったこともあり堂舎も損害を受け、明治18年(1885)に、南向きに縮小して建て替えられたが、老朽化のため平成元年(1989)に解体し、仮本堂が設けられた。現本堂は旧本堂の解体から約25年を経た、平成26年(2014)3月に完成し、同年4月11日に竣工式が、翌12日に落慶法要と教如上人400回忌法要が厳修された。本堂の正面の東側にある寺標と西側に配置されている石は再建事業の際に出土した約400年前に建立された本堂の礎石である。

 

伏見御坊礎石  

約400年前の本堂の礎石

真宗大谷派  伏見別院    

約400年前の本堂の礎石

 

境内墓地には、慶長5年(1600)、伏見城を死守して戦死した安藤次右衛門定次とその息安藤駿河守(京都町奉行兼伏見奉行)父子の墓がある。

 

寺院 前回の記事 ➡  寺院伏0297  源空寺 浄土宗  紀元2600年

川柳                                        

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