間部詮勝寓居跡
間部詮勝(1802~84)は越前鯖江藩主で,寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任して老中となった。
水野忠邦(1794~1851)と合わず引退するが,井伊直弼(1815~60)により再度老中に登用され,
将軍後継問題・安政五カ国条約締結などにあたる一方尊王攘夷派を弾圧した。
安政5(1858)年9月,幕府が調印した日米修好通商条約に激怒した孝明天皇(1831~66)を
説得するため上京し,寺町通二条下るにあった妙満寺に滞在した。
この石標は間部詮勝が滞在した妙満寺の跡を示すものである。
妙満寺は昭和42年に岩倉に移転した
この地には、昭和43年(1968)まで、約400年にわたり顕本法華宗の本山・妙満寺があった。
現在は左京区の岩倉幡枝に移転した同寺に、
安政5年(1858)、幕府の老中・越前鯖江(現在の福井県)藩主 間部詮勝が滞在し、
「安政の大獄」と呼ばれる志士の弾圧を指揮したという。
井伊直弼が大老となり、勅許を受けずに日米修好通商条約に調印したことで、
尊王攘夷派などの反対が高まると、井伊大老は、詮勝を京都に送り、
朝廷との交渉にあたらせるとともに、志士の弾圧に乗り出した。
詮勝は、安政5年(1858)9月に京都に入り、翌年3月まで滞在し、朝廷、公家と交渉する一方、
町奉行所を指揮して、梅田雲浜ら志士を次々逮捕した。
後に、詮勝は井伊大老と意見が合わず、老中を罷免されたうえ、処罰を受けた。
京都市
昭和四十三年十一月 京都市