物集女の歴史と地名の由来
来たらまっすぐ南下してきた物集女街道は、この場所で向日丘陵のすそにひろがる段丘に突き当り、いったん大きく東にカーブして、段丘の縁に沿ってさらに南へ続いていきます。この段丘上に古くから形成されてきたのが物集女の集落です。この地の歴史は、今から1万年以上前の旧石器が発見された中海道遺跡にさかのぼり、縄文時代終わりころから現在に至るまで、連綿と人々の生活が営まれてきたことがわかっています。
物集女の地名は、古くこのあたりに土師氏の支族である「毛受腹」の人々が住んでいたことにちなむ、という説があります。記録には、平安時代の辞書『和名類聚抄』に乙訓郡の郷名の1つとして「物集毛都米」と登場するのが最初です。
平安京・京都に入る重要な道であった物集女街道と、丹波へ向かう街道が交わる物集女は、古代から多くの人や物資で賑い、戦乱の時には軍勢が行き交う場所でした。室町時代になると、この地は嵯峨の天龍寺の庄園となり、物集女庄とよばれるようになります。やがて戦国時代に入ると、庄園の代官として、また地元の有力者として実力をつけた武士が現れ、地名をとって物集女氏を名乗りました。物集女氏は、今から540年ほど前、現在の物集女町中条に土塁や堀を備えた居館を築き、支配の拠点としました。その跡は現在も残り、乙訓地域を代表する平地の城館として、全国的にも貴重な存在です。城跡の周囲は昔からの集落で、屈曲した道に沿って寺院や家々が並び、かつての面影を今に伝えています。城跡の地名「中条」は村の中心を示し、地区の南端には「南条」、その隣には「出口」の地名もあります。城跡の近くにある「御所海道」や「中海道」の「海道」は、古い集落を意味する「垣内」に通じ、城(御所)や家並みの存在を示しています。
この情報板が建っている付近は、北の端にあたる場所で、「北ノ口」という地名が残ります。古くから続いてきた物集女の歴史は、現在の地名や景観のなかにも脈々と息づいています。平成28年 3月 向日市
物集女北ノ口の常夜燈
この常夜燈は、火事を防ぐ火伏の神様「愛宕さん」へ火を献じるための愛宕灯籠です。向日市域では愛宕信仰が盛んで、その昔、町内ごとに灯籠を設けることが多く、現在市内では24基の愛宕灯籠が確認されています。このうち物集女地区には二基あり、一基はこの燈籠、もう一基は南東500mほどの場所にある、通称「サクライ」の祠の南側にあります。
燈籠の正面に「愛宕山 常夜燈」と刻まれた下には「右柳谷 左山崎」 左側の面には「右あたご通」とあります。北から南下してきた物集女街道が大きく東へカーブする曲がり角に位置するこの燈籠は、道しるべの役割も果たしてきました。
右側面には、江戸時代後期の天保2年(1831)に、地区の青年集団である「若中」が、村内の安全を祈って建立したものであることが記されています。なお、今まで失われていた笠石ゃ火をともす火袋については、今回の石碑保全活用工事において、本来の姿に近づけるよう復元しました。平成28年 向日市
上部の笠石と火袋が復元された
愛宕山
常夜燈
右柳谷 左山崎
天保2年 秋
當村 安全
世話 若中
右 あたご道
サクライの祠
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