平成28年12月24日 撮影 記事追加
寺院下0396 不動堂明王院
本寺の開基は今から凡そ一千年前の弘仁14年(823)に弘法大師空海が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて京都洛南に東寺を賜ったとき、東寺の鬼門(東北)にあたるこの地を択んで、法城守護のため一体の不動尊を祀ったのに由来します。この不動尊像はたまたま大師がこの地に発見した一基の妙霊なる石に、みずから彫り刻んだものでした。大師はこの霊験あらたかなる霊石不動が穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、更にこれを地中の井戸ふかくに安置したのです。
寛平11年(899)宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西ノ洞院に東西二町(約220m)南北に四町という広大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多天皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り人に命じてとりださせようとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を病み恐れをなして終に果たせなかったといいます。そこで法皇は勅して井戸を封じ以後何人もうかがうことを許さず、大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。
下って室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの手になって再び堂宇の造建をみました。その後江戸時代に入って明和元年(1764)11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。建立当初、本寺は宇多法皇が仁和寺と縁浅からぬ関係上同寺の直属道場として天明2年(1782)までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。
本寺の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、古今誰ひとりとして直々に拝したことがなく、ために御前立として同じく不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。世俗に高野山波切不動尊と成田不動尊と並んで空海作の三体不動尊と称されるものです。
尚、不動尊の右に弘法大師像、左に修験道とのゆかりの歴史を物語る役行者像が安置されています。
毎月28日には護摩を焚き、厄除け、家内安全・交通安全・病気平癒等の祈祷の行事をおこなっております。
西山浄土宗 不動堂明王院
2015年8月23日の記事
明王院
西洞院正面(西本願寺前)にあった宇多上皇の亭子(ていじ)院の鎮守社として創祀され、
亭子院の廃亡後、院内の一宇をもって再建されたと伝わる。
はじめ真言宗であったが、応仁の乱で荒廃し元禄8年(1695) 洛西花園法金剛院に移るにあたって
不動堂だけが残ったと伝わる。
今は、西山浄土宗の寺。石造不動明王像を安置する本堂がある。
まぼろしの屯所とは
奉納絵馬
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