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若一神社  平清盛ゆかりの地  御神木の楠は 西大路通りを迂回させた

2015年09月09日 07時59分35秒 | 神社

 

平清盛公 御手植楠

楠社

社前 楠の大樹  平清盛公御手植と伝えられる御神木

 

社伝によると、宝亀3年(772)、唐から渡来し天王寺に居住した威光上人が、

紀州熊野を詣でた際、迷い苦しむ人々を救済しようと、

御分霊若一王子の御神体を背負って旅立ち、

当地の古堂で一夜をあかしたところ御神託を授かり、堂中に安置した。

 

その後、当地は荒廃したが、平清盛公が六波羅に在住していた頃には、

当地は浅水の森と称し、風光明媚な土地として名を馳せており、

平清盛公は、当地に西八条御所と称される別邸を造営した。

仁安元年(1166)、平清盛公が熊野詣でをされた際に、

「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ」との御神託を授かった。

帰京後、邸内を探したところ、東方の築山から夜光を放っており、

清盛公自らが三尺ほど掘ったところで、土中から若一王子の御神体が現れ、

当地に社殿を造営し鎮守した。

 

平清盛公が御神体に開運出世を祈ったところ、

翌年仁安2年(1167)2月10日太政大臣に任ぜられたことから、

開運出世の神様として尊崇されている。社前の楠の御神木は、

平清盛公によって植樹されたものとされる。

例祭 11月10日        月旦祭 毎月 1日

月次祭 毎月 10日         旬祭  毎月 21日

                 京都市 駒札

清盛が植えたと伝える楠は長年御神木として崇められてきました。

昭和9年、西大路通りが開通したとき、

この木の祟りを恐れ切りは輪うこともなく道路を迂回させています。

この楠に祈念を込める人があります。

人目にふれないように夜中にお参りする人が今でもいるようです。

 

 

 

 

 

 

稲荷社

御祭神 「稲荷大神」 商売繁盛、生業繁栄、伏見稲荷神社より御勧請

 

昭和の御大典 紀念 植樹

手水舎

平家の没落と共にお宮も荒廃し、御神体も土中に埋められました。

元文5年(1740)11月10日夜、日旋老師の夢に

白い衣をつけ衣冠の人が神の由来を告げられ神社が再興されました。

それが若一神社です。

昔は勝明寺の鎮守の社といわれましたが、明治になって独立し西七条一帯の氏神とされています。

若一王子は紀州熊野権現の第一王子の名前です。

 

 平清盛公 像

 

本殿  出世開運

 

狛犬

 

 

松尾社

御祭神 「松尾大神」 醸造満足

 

 狛犬

 

 

 

 

銘水  若一神社神供水

平清盛公熊野詣ででの折、御神託により仁安元年(1166)11月10日、

西八条殿内に隠れたる御神体を世に出し、社殿建立し奉斎し以来、

日々、御神前にお供えせし御神水也  

開運出世の水として、新生児誕生に際し、産湯としても有名也。

 

 

祇王歌碑

西八条殿は「平家物語」によると白拍子の祇王・祇女仏御前の悲しい舞台となり、

平家の都落ちの際、自ら火を放ち焼き払われた。

 

 

弁財天社

御祭神  「市杵島姫命」 芸能、福運、正徳5年竹生島より御勧請

寿命社 

 御祭神 「高砂尉と姥」 良縁・夫婦円満・子孫繁栄・延命長寿  

安土桃山時代に豊臣秀吉が高砂城を攻めた時、城内の社から神体が持ち出され、

若一神社にまつられた播州高砂神社より御勧請。

高砂から返却を求められたため、そっくりに模した彫刻をつくり、寿命社の神体としてまつるようになった。

 

祭典は高砂に返却されたといわれる日に合わせて行われた。

御神体が公開された。尉と姥共に15センチくらいの大きさです。

 

清盛餅

祖霊社

昭和58年9月11日建立

当神社奉仕の神職及び総代、世話方並びに特別崇敬篤き方々の御霊を奉斎し、

生前の御功労に報い奉り報恩感謝の誠を捧げると共に遺族の御守護御繁栄を祈り奉る

11月23日 画像追加   木々がこんもり茂っています

 

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