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まち歩き伏0656 京阪電車 淀駅前の水車

2017年11月14日 21時36分45秒 | まち歩き

「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」で有名な淀の水車は、淀城の淀川沿いの城壁に二つあって、一つは淀小橋下流の宇治川と桂川の合流する辺りもう一つはさらに下流の庭園近くに取付けられていました。 

もともと宇治川筋には古来より灌漑用の水車があったと言われており、淀においても淀城が出来る以前に住んでいた河村与三右衛門の屋敷に水車があったと「淀下津町記録」には記されています。

「帝都を守護せむ地、淀にまされるはなし、汝今より淀に城築くべし」との徳川二代将軍秀忠の命を受けた松平定綱は寛永2年(1625)に淀城を完成させ初代城主に就きました。淀は宇治川、桂川、木津川、巨椋池、四方を川と池に囲まれた美しい水上の城下町となり、さらに二代目城主永井尚政が寛永15年(1638)、木津川を南に下げて城下を拡張し、庭園を新設しました。

永井藩主の家老、佐田川昌俊によって作られたという説が残っていることから、どうやらこの頃までに二基の水車が整備されたようです。

元禄5年(1692)に江戸参府の途中、淀を通過したオランダ一行の医師ケンペルは「淀の町は美しく、水車小屋がその城の一部になっている」と書いています。また、江戸時代に来日した朝鮮通信使も絵と文章で淀の水車のことを伝えました。宝暦年間(1753以降)淀稲葉藩士渡辺善右衛門はその著「淀古今真佐子」で次のように「淀の水車は日本国は言うに及ばす朝鮮、琉球、オランダまでも知れ渡ったものである。二つ二ヵ所にあって、二の丸居間の庭園用と花畑の茶屋の水鉢用に使用している。直径は四間(7.2メートル)、全体が竹製でわらび縄(蕨の繊維で作った縄)で結んだものである。心棒に毎朝小船に乗って水油(菜種油などの液状の油)を一升注さねばならない。油を多く注すと良く回る。箱形の釣瓶が20個付けられるようになっているが、多く付けると早く痛むので普段は三個にしている。この釣瓶の古いものが茶の湯の花入れとして大坂や西国で、人気となっている。」と記しています。安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」や文久3年(1863)に出版された「淀川両岸一覧」に淀城と水車が描かれ、淀城と言えば水車が付き物となっていました。葛飾北斎も「雪月花淀川」で淀城と水車を描きました。明治時代の画家冨田渓仙は淀の水車が好きで作品を残しています。

溶溶と流れる淀川の波に従い優雅に廻る水車の姿は、淀川を行き来する旅人の心を癒したに違いありません。

「ほととぎす待つやら淀の水車」  西山宗因

「霧の中何やら見ゆる水車」  上島鬼貫

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