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慈受院  源氏物語・村雲御所の地

2015年10月24日 07時01分20秒 | 寺院

単立寺院

 

門前には 五色の花を咲かせる椿がある

次回訪ねたときに探してみよう

 

慈受院門跡(薄雲御所)

竹之御所・烏丸御所ともよばれる。正長元年(1428)室町幕府4代将軍足利義持の正室、

日野栄子が夫の遺言により皇室の菩提を弔うために創建したと伝えられる。

慈受院という寺名は日野栄子に法号「慈受院浄賢竹庭尼大禅師」に由来する。

以後、後西天皇の皇女瑞光内親王、伏見宮息女が入山するなど

代々宮家(王女・皇女)将軍足利家・近衛家・花山家から交互に住持が入っていた

門跡寺院として法灯を伝えている。(大正8年総持寺と統合)

また近年、角田文衛博士に調査により

慈受院は「源氏物語」に登場いる薄雲御所ゆかりの寺院としての

側面を有していたことが明らかになった。

御所文化のおもむきを残し、「源氏物語」ゆかりの門跡寺院である

慈受院には今も皇室ゆかりの調度品などが数多く残る。  京都市

源氏物語ゆかりの寺院 薄雲御所と源氏物語

慈受院の開祖は竹庭瑞賢尼和尚である。尼和尚の俗称は、従一位日野資康の娘・栄子。

室町将軍第4代足利義持の夫人で、第5代将軍義量の生母、

義持亡き後、出家して正長元年(1428)に本寺を建立したが、

これは曇華院・総持院と並んで尼五山の第二位通玄寺の三子院の一院となった。

御所名を開祖の一字をとって「竹之御所」と称した。

また、総寺院も称光天皇より「薄雲御所」の名を賜っていた。

慈受院は第7世(後西天皇の皇女瑞光内親王)の頃、尼門跡として盛んになったが、

7世が亡くなると共に廃絶した。

大正8年に至り、縁故関係にあった総寺院は慈受院の再興をねがって、

両院の法灯を引き継ぐこととし、寺号を慈受院とする改称届けを京都府に提出し、許可された。

 

届書によると、慈受院の旧地は、

現在の京都府立鴨沂高校(上京区寺町通荒神口下)に位置にあったという。

慈受院の旧地とされる高校の場所は、王朝貴族の代表的な人物で栄華を誇った

藤原道長が、建立した法成寺の跡地である。

この寺は、極楽浄土をこの世に再現したといわれ、蓮伽藍であった。

また、道長の娘彰子一条天皇の中宮(上東門院)となっていた。

宮仕えをした女房に、源氏物語の作者の紫式部がいた。

道長はこの物語を愛読し、また光源氏のモデルとまでいわれた。

この道長の故地であったことから、慈受院が再興される時、

源氏物語にちなんだ総寺院の御所名が遺ることになった。

「薄雲」は光源氏が藤壺中宮の崩御の哀悼を

入日さす峰にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまかへる

と詠じている、

夕日がさしている峰にたなびく薄雲は、悲嘆にくれる私の喪服の袖に似せているのであろう、

という和歌に由来するのである。

財団法人古代学協会名誉会長  角田文衛

 

 

 

日本三体随一  毘沙門天王

 

毘沙門天堂

 

稲荷社

 

 

大日如来  地蔵尊

 

大正8年11月 建立

 

 



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