伏見口の戦い 激戦地跡
江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十国石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟など、千数百隻にも
舟運で賑わった伏見港の中心からこの京橋付近です。
角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運びで結ばれるとさらに発展しました。洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。ここから蓬莱橋を結ぶ南濱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬町ととして位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するとすう継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検問する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。幕末の慶応4年(1868)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここ伏見御堂を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。
伏見観光協会 平成21年12月 建立
京橋
この橋を京橋という。橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。
淀川の水運は、古くは京・大坂を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596~1615)、角倉了以が京都市中と伏見の間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は大いに栄えた。
淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟、更に宇治川を下ってきた柴舟などがこの辺りにひしめき合い、数十軒の船宿も立ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は往時の盛観は見られないが、ここから東約五十メートルの所にある旅館「寺田屋」がわずかに昔の船宿の名残りをとどめている。
京都市
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川柳
なんとなく尻なでそうでぼけられぬ /航さん
ことわざ
ああ言えばこう言う(ああいえばこういう)
相手の意見を受け入れずに、あれこれと理屈を並べたり、言葉尻をとらえたりして、口答えすること。
類似 ➔ 西と言えば東という
右と言えば左
山と言えば川
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