アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き伏0396  疏水と下板橋

2017年03月22日 20時20分24秒 | まち歩き

東方向を 見る

下板橋

伏見区東堺町  下板橋通   長さ17m  幅 6.5m    鋼橋

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五七五

オバさんって言われたくないオジさんに /山下

ことわざ

一丁字を知らず(いっていじをしらず)

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石碑伏0109  薩摩島津伏見屋敷跡  坂本龍馬・寺田屋事件・逃避先

2017年03月22日 06時47分24秒 | 石碑

 

 

江戸時代、ここに薩摩島津家の伏見屋敷がありました。徳川将軍は3代家光以後、約230年間、江戸にこもり京都にやってきませんでした。そのため原則として諸大名に上洛を禁じました。西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときは京都ではなく、伏見を通ってゆきました。

島津家も例外ではありません。少なくとも寛文10年(1670)までにこの地に屋敷を営み、江戸と薩摩を往復する際の当主の滞在地としました。

のち13代将軍家定の正妻となる。島津斉彬の養女篤姫(天璋院)も、薩摩から江戸へむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入りました。

ここを拠点に、10月2日洛中の近衛家、同4日洛東東福寺、同5日萬福寺(現宇治市)を訪問、同6日伏見をたちました。篤姫は以後、一度も洛中洛外を訪れませんので、この地は彼女の生涯たった一度の「京都観光」の宿舎だったわけです。

慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、蓬莱橋たもとの寺田屋で、土佐亡命志士坂本龍馬が、薩長同盟成立の重要人として、伏見奉行所役人の襲撃を受けます。重傷を負いつつ脱出した龍馬は、濠川沿いの村上町の材木納屋に潜伏、妻龍(のち鞆)や長府毛利家臣三吉慎蔵の通報により、薩摩伏見留守居役大山彦八に救出され、この地に避難しました。

龍馬が大政奉還、新政府綱領八策などに関係するのはこれ以後のことで、もしこの地に救出されなけば、以後の幕末史はちがう形になったことでしょう。

歴史地理研究者 中村武生

 

坂本龍馬

1  坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)

2  石碑 坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡

3   石碑  幕末史蹟・土佐藩士寓居跡 龍馬・お龍も暮したところ、

4  坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所

5  武信稲荷神社 坂本龍馬も登場

6  佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑

7  石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

8  まち歩き東0372  龍馬展

9  史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

10 石碑伏0097   坂本龍馬 避難の材木小屋跡

 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0108  京都歩兵聯隊跡

 

五七五

 

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ことわざ

一銭を笑う者は一銭に泣く(いっせんをわらうもの・・)

 

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