Remains of The Accidents

アクシデンツなページ

気がつけば三浦

2023年08月28日 | つれづれ

世間では夏休みの最後の週末。

前日、ルーティンの買い物を終えていたので、奥さんがどこかに行かないかという。

実のところ、自分は月曜日に休暇を取っていて出かけるつもりだったので
日曜日に出かけることは、あまり意識していなかった。

せっかく奥さんが云うのであれば仕方ない。ただ、この時間から遠くに出かける
のは帰り道が大変だし、かと言って近所のショッピングモールではパッとしない。

なやんでいても仕方なく、時間的には昼食をとる感じで取り敢えず自宅を出た。

昼食なら近場だ。近場だが三浦ならば渋滞しても相応の時間で帰ってこれる。

三浦ならばやはり魚が食べたい。一方で、魚が安くて評判のよい店は大勢の人が並ん
でいそうだし・・などと思案しながらカーナビもセットせずに横横道路を南進した。

どん詰まりの浦賀に到着、そのまま右折した。

確かペリー提督来港の記念館みたいなのがあったような気がするので
そこに寄ってみようといい加減な提案。

道なりに進んでも全く見当たらない。

仕方がないので、今一度タブレットでおさかなの美味しいお店をサーチ。

劔崎のほうにある「ぼーめん」さんが評判よろしく、取り急ぎ行先はここに決定。

少々並んでいてもいいやと鼻歌交じりに進むとGoogleMAPさんが突然に路肩の細道に
誘導するので曲がってみた。

お店が見えたもののほとんど車が止まっていない。あら日曜は定休日なのかと思ったら
手前の棒面丸という釣り宿のおじさんがここに停めろという。

「開いてますか」と訊くとおおきくうなづいてくれたので、そのまま入店。

魚フライと漬け丼が「推し」とのことだったので、自分はフライと漬け丼がセットに
なった「ぼーめん定食」、奥さんはやや遠慮気味に「本日の漬け丼」を発注。

漬け丼は「太刀魚、カツオ、イカ、なめろう、マグロ」、フライは「太刀魚とカマス」
ご飯はやや小盛りながら魚でお腹はいっぱいになった。

おいしかった。

普段、魚フライというとフィレオフィッシュかアジフライ程度なのでなんだかすごく
満足した。

また、人が全く並んでいないのにはびっくりしたが、確かにあまり交通の便がよい
ところではなかったので混まない日もあるのだろう。

いいかげんな準備で出かけてきたわりにご馳走にありついたのは幸せだ。

さて、お腹を満たしたので少し観光して帰ることに。

城ヶ島には渡らずに三崎港に向かってみた。

ここは独身寮時代に「寮旅行」でお世話になった港の割烹、あれから既に30年も
経っているのに、傾き具合も変わらずに営業を続けておられて感動。

当時、このお店で「かぶと焼き」をいただいたのを覚えている。

また、このお店の前には観光客用に城ヶ島への渡し船などがあり、物産館も入っている。

さすがに三崎なので様々な冷凍マグロが並んでおり、ウチはお土産用にマグロの
アバラ5本セットを購入、解凍してスプーンかヘラでこそぎ取ってスキミとして
食すのだそうだ。

そんなところをぶらぶらして一旦街並み見物に出かけたが、街中の寂れ方はひどくて
コロナ禍の影響からか、なんだかゴーストタウンを見て回るような感じ。

残念だけれどコロナはこんなちっぽけな観光地の魂を抜いて回ったようだ。

先週の出張でも小規模観光地の回復はまだまだだなぁと感じて帰ってきたが
ここも他聞に漏れず寂れてしまったようだ。

古い町並みは寂れ方に拍車をかけてしまうが、この町でまた伝統的な観光と
若いアクティビティが重なっていくことを願ってやまない。

とかなんとか言いながら、15:00前に帰路についたところ、80分ほどで自宅に
到着してしまった。

お昼を食べに出かけた話。

 

 

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インターネット黎明期

2023年08月20日 | Weblog

1993年ころだったと思うが、ある銀行から「紹介したい客がある」との話があり
当時の上司とともに面談に出向いた。

世界中のコンピューターがつながるというとんでもない話だった。

壮大な話に目を輝かせる自分に、上司は「ま、面白そうだから少し詳しく聞いて
みれば」と勧めてくれた。

金融関係の仕事なのでやはり色々と資料をもらう必要があったので、それから
何度か事務所にお邪魔した。

当時、先方の事務所にあったのは「Silicon Graphics」のIndyというWorkstationだ
ったと記憶しているが、「Indigo」だったかもしれない。

汚い事務所だったことと、初代の社長さんがいつも「寝起き」のような感じ
だったのをよく覚えている。

事務所では、Indyのディスプレイでヨーロッパの様々な研究機関のサイトをみせて
もらい、空のかなたに飛んでいけたような気がして、なんだかわくわくしていた。

次第にこの世界にのめりこむのだが、自分のいる会社では何を話してもなかなか
理解されないで苦しんだ。

一旦承認された申請を取り消そうとされたり、苦労しながら付き合っていた。

あるとき、インターネットについて書いてある書物を探して国立国会図書館や
新宿紀伊国屋などを回ったら1冊だけ翻訳されていたものがあった。

当然自費で購入したのだが、案の定書いてあることの半分以上は理解不能だった。

その間にも先方は投資を続けるというし、2代目の社長は「大丈夫だよ、ウチは
大きな会社になるよ」と繰り返すばかり。

こちらが腰を引いている間に、二種通信業の免許がおり、大手商社の出資が
決まったという。

ウロウロしているとほかの会社にとりこまれてしまう・・と焦ってばかりいた。

結果的に、財務を担当していたTさんがいつも気を遣ってくれたおかげでなんとか
取引を継続していただき、その間にその会社とインターネットが急成長した。

米国を中心に拡大していたインターネットが、阪神淡路大震災のような大災害でも
通信手段として維持されたことで国内の大企業が注目した。

自分も、親会社(大手商社)の会議に招かれて「当グループで実際のインターネット
ビジネスにかかわっている」と紹介されたこともあった。

その翌週には、自社の社長の声掛けから取締役を集めた場でインターネットを語る
ことにもなった。

時まさにNHK特集で「電子立国」という番組が放送されている最中だった。

社内の唯一の理解者だった同期入社の友人とともによくこの番組を見ていた。

半導体が世界を変えていくことが強調されていたが、自分は実務の関係から通信
というインフラがKeyであることを知っていた。

ただ、その時でさえまだ社内の大半の人は自分のことを色眼鏡でみていた。

応援してくれる人たちと揶揄するばかりの人たちに挟まれて迷いつまずく毎日だっ
たが、インターネットの爆発的な拡大はどんどん追い風になり、瞬く間に
社内の評判も変わっていった。

毎月のように発生する投資が自分の成績になりだすと、それまでの苦労が
うそのように評価も上がっていった。

賞与支給日に役員に呼ばれ「君の貢献度について少し配慮しておいたからな」
と肩を叩かれた。

件の同期に聞いて自分の賞与が同期のものより増額されていることを悟り
苦労が報われたと感じたものの、こんなに面白い仕事をして評価された
ことに、ついつい天狗になってしまっていた。

天狗の鼻はすぐにへし折られるもので、早々に転勤を言い渡された。

転勤先は名古屋の事務所、端っこの長机にPCが2台ほど並んでいた。

事務の女性に尋ねると「東京から送ってきたけれど、あまり使い方がわからない」
というので、インターネットにつないでPizzaHutのサイトなどを見せて「これから
はインターネットで買い物もするようになるよ」と言ったが、みな「??」と
いった感じだ。

この女性が現在の妻なので、後で聞いたら「なんか変なことをいうオタクの人」と
いう印象だったという。

名古屋での勤務はメンバーに恵まれ、日々面白おかしく過ごしていたのだが、その女性と
結婚することとなって新居に移ったころに上司に呼び出されて再度転勤となることを告げ
られた。

東京でインターネットを使ったビジネスを起ち上げようという話が出ていて、担当者の中
ではお前がやるべきだということになったという。

当時の会社は、大阪発の泥臭いビジネスが主流で、その方向で取扱高が拡大しており
その関係者が営業を牛耳っていた。

担当の役員に会社に向かうバス停であったとき、「お前、なんか変なことをやっている
んだってな。PCの前でこちょこちょやっているだけで利益が上がると思うなよ」と何か
責められるような説教をいただいた。

正直なところ「こんな会社ではインターネットビジネスはできないな」と見下していたの
で、ほとぼりが冷めるまで名古屋で大人しくしていようとしていたのだが、この一件で
さらにやる気がなくなった。

奥さんもやっと新居が落ち着いたところ、結婚生活に慣れてきたところに関東への引越
は嫌だったようで一晩中泣いていた。

自分のインターネット自慢もここいらあたりまでだった。

そのあとは大したことなく、大した成果もなく過ごした。

最初につきあった前述の会社が興した事業が失敗したとき、社内には自分の
「化けの皮が剥がれた」という人たちもいてさらに嫌な気分になり、どんど
ん気持ちがインターネットから離れていった。

当時は、あとからあとからインターネットを語る輩も出てきて「いつか
こうなると思っていた。バブルははじけるのだ。」という人もいた。

仕事はインターネットからどんどん離れていったが、生活はどっぷりとインター
ネットにはまり、興味は留まるところを知らなくなっていた。

なぜならば、もうこの時点でインターネットは「特別なもの」ではなくなっていた
からだった。すでに生活の必需品だったのだ。

Win3.1のPCにソケットを入れ、MOSAICでWhiteHouseの猫の声を再生していた時代は
遠い遠い時間のかなたにセーブされていったようだった。

Marc AndreessenもJames Clarkも過去の人になっていた。

自分の会社も業界再編から合併を繰り返して大きくなるうちに、自分のことなど何も
語られないようになった。

ここで定年退職の期日を迎えて、若い社員たちに「変わったおじさん」と思われながら
見送られることになり、ある意味本望ではある。

最初に語った会社は、その後も成長を続けて大企業となり、2代目社長は現在会長と
なって元気に過ごされているようだ。

お世話になったTさん、当時銀行から転籍されて今は財務を見ておられるWさんなど
一度ゆっくり会いたい方々もいらっしゃるけれど、記憶のかなたに消えた身としては
大人しく遠くからご活躍を喜んでいようと思う。

日本のインターネット、黎明期にこんな方々と出会えたことに感謝の気持ちしかない。

夢をみさせていただいて、本当にありがとうございました。

(T.K)

 

 

 

 

 

 

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Our 3days in Vacation.

2023年08月12日 | つれづれ

なんだかんだ言いながら安曇野方面を旅行してきた。

安曇野自体は涼しいというほどではなかったけれど、黒部ダムや
上高地はさすがに涼しく過ごせた。

混雑を避けて日曜日の朝、府中スマートICから中央道にのり
一気に双葉SAまで。

本当は長女に運転してもらおうと考えていたのだが、拒否権発動、
結果的にずっと自分が運転するはめになった。

台風は南西諸島付近でうろうろしていてくれたので、帰路につく
まではずっと好天だった。

初日、まずは諏訪湖畔にある諏訪大社上社本宮にお参り。

日頃無事健康に過ごせていることに感謝した。

ただ、朝からやはり暑かったので、思わず門前の珈琲店に立ち寄り
冷たくておいしいコーヒーをいただいた。

その後、旅行にも関わらず諏訪IC前の王将で餃子を食して黒部へ。

扇沢から電動バスに乗り込んで黒部ダムまで約15分。

200段ほどの階段の先、展望台からは迫力の放水が見られた。

観光放水ではあり噴霧状の水となっているが、これは直下の
滝つぼが水圧で変形してしまわないように噴霧状にしているとのこと。

底からの霧交じりの上昇気流を受けるとなんとさわやかなことか。

涼感最大。

ダムを超えてケーブルカー、ロープウェイを経験して帰ってこようと
したのだが、今から上がってもそのまま折り返してこないと最終バス
に間に合わないといわれしぶしぶ断念。

今少し早く上がっていればよかったのだが、これは後の祭り。

これまで3回ほどこのダムに来ているが、富山県側「室堂」までの乗り
物がそれぞれ高くて見送ってきた。

今回は家族旅行でもあって財布のひもを緩めて・・と考えていただけに
残念だった。

宿泊したのはアンビエント安曇野というところ、山間の別荘地をぐん
ぐん上った先にあるホテル。

もとは会員制のリゾートホテルだったとのことで、今も会員専用の
施設が残っていて、にわかカスタマーは入れないところがある。

ところで、泊まったお部屋はメゾネット式で2階に寝室が二つ。
100平米を超す広さで快適に過ごせた。
リゾートホテルだけあって温泉もコインランドリーも充実していたが
氷のディペンサーがなくてこまってしまった。

氷は売店で販売されているのだが、売店が20時で閉まってしまう。
フロントで訊いても氷の用意はないという。うーん。

今回、夕食時には飲酒せず星空を観に行こうとしていたのだが、夕刻
から急に雲が発生して大したものは見られなかった。
部屋に帰って少し飲んでから就寝しようとして、氷騒動となった。

残念。

翌日はこの旅のメインイベント。青木湖というところでSUPに挑戦することに。

長女が昨年からSUP(StandUpPaddle)のサークルに入った関係で、大会を観に
でかけていたのだが、見ているとやりたくなるのは当然のこと。

長男も話をきいて楽しみにしていた。

ただ、SUPは午後からなので午前中は安曇野散歩となり定番の大王ワサビ農園。

はやいうちに着いたのだが、それでももう炎天下の様子で、水車が回ろうと
鳥たちが鳴こうと暑いものは暑い。

さっそくスイーツで涼をとってから散歩していると、水辺に降りられる場所を発見。

長女が裾をまくって素足をつけるとキャッと叫ぶほどの冷たさ。

自分もサンダルのまま流れる水に入ってみたが、外気との差が激しすぎて痛いほどだ。

その後、長男が調べた地元の食堂「穂の香」で昼食をとって、いざ青木湖へ。

 

 

今回お世話になったのは「白馬ライオンアドベンチャー」さん。

SUPのほかにも様々な遊びを用意してくれているところで、青木湖を中心に
安曇野から白馬にかけて広い範囲をなわばりにしているらしい。

長女が経験者なので、レクチャもそこそこにすぐに湖上の人たちとなった。

係の方のアドバイスで、まずは風上に向かってできるだけ漕ぎ、湖の端まで
行けば帰りは楽ができるとのことだった。

初心者が漕ぎ疲れてから風上に戻るのは至難のわざだと教えてくれた。

アドバイスに従って漕ぎ出たものの、自分のボードは漕げども漕げども
へさきが向きを変えるだけで、なかな思うように進まない。

長女が寄ってきていうには、2艇は初心者向けで直進性が強く、あとの2艇は
少し大きいサイズで浮力が強く、直進性が弱いのでバランスよく漕がないと
なかなか前にすすまないようだと。

なにくそと立ち上がってみたのだが、2~3回漕ぐとバランスを崩して落ちて
しまい、一度落ちるとボードに上がるのに苦労する。

見かねた長女がボードを変えてくれたら、こちらのボードは乗りやすくて
楽ちんだし、すぐに立って漕げるようになった。

もう歳は歳だが、まだまだやれるようだ。

その間にボードに慣れてきた長男はボードの上で方向変換する術を教えて
もらって、失敗しては飛び込んでいる。

若いのだから当たり前だが、さすがだ。

2時間ほど湖上で遊んでいるうちに雲が覆ってきた中で終了。

海もいいが、こういう遊びは湖上の方が安心だ。

数年前に本栖湖でカヤックを借りたときも奥さんが風に流されてしまい
自分が助けに出て行ったが、湖なので焦る必要がなかった。

メゾネットの宿に連泊して、最終日は上高地にあがることにした。

奥さんが事前に調査した結果、4人いれば乗り合いバスで上がる
よりタクシーの方が時間が自由でいて、少し安価だという。

さわんど駐車場に自動車を停める際に、山小屋「ともしび」の
おじさんに「ここに停めて行ってよ」といわれて素直にそうし
たら、先に停めた方がタクシー乗り場から
「タクシー会社に連絡したら30分待ち」だという。

あらあら、それではバスで・・・となるとバスターミナルまで
とぼとぼ歩いていくことになってしまう。

宿のおじさんが「んじゃ、ターミナルまで送ってあげる」とい
いつつ自車を出してきてくれた。

ターミナルに着いたところ、次のバスまで30分待ち。
これではさっきの場所でタクシーを待っていても同じだったのでは
ないかと落胆していたところ、眼前を空タクシーが2台通りすぎた。

自分は駆け出して、タクシー乗り場に先回り。
このまま載せてくれないかと訊くと、なにやら無線機で確認した
後に「どうぞ」と乗せてくれることとなった。

あとから長女に聴くと、自分が駆け出す前にタクシー係の女性に
どれほど待つかを訪ねていたそうで、その女性がコントロールし
ていたようだったと。

いずれにしても、そのままタクシーで大正池。

ただ、雄大な景色と涼しい風、清涼な梓川には感動するものの、
観光客の多さとマナーの悪さに辟易してしまい少し不機嫌に
なってしまった。

そんな中で昼食も決めずにスマホをいじってばかりいる長男にあたって
しまった。うだうだしてないで早く決めろと・・・。

帰りもスムーズにタクシーに乗車。

タクシーの運転手さんは話好きで、上高地のタクシーは地元と云っても松本市内の
タクシー会社が遠征してくるので、最後はみんな市内に向かって降りていくという。

自分たちは「ともしび」に車を置いているので、そこまで送ってもらい、少し足湯
を楽しんでから松本ICの方に下山していった。

途中、新島々駅からは松電と並行に走り、山を降りきったところで、明日以降の買
い出しをしておくこととなった。

カーナビの案内で帰路を少しそれて地元のスーパーに立寄ろうとしたころから
にわかに夕立が激しくなり、ワイパーも効かないほどの大雨になった。

なんとかスーパーにたどり着いたものの、車を降りるのも躊躇するほどの激しさ。

豪雨の合間を縫って買い物を終えてから、長野道・中央道を経て川崎市まで帰った
のだが、中央道は走っている間はほとんど大雨の中。
先行していた一台が単独事故でグシャっていたが、なんとかこれには巻き込まれず
無事完走/帰宅できた。


さて、来年は長男も大学生になる予定。

家族旅行もこれが最後か、せいぜいあと一度程度だろう。

みんな、これまで随分自分を楽しませてくれたので感謝しなければならない。

また、往路に立ち寄った諏訪の神様、結局寄れなかった穂高神社の神様、北アル
プスの山の神様、安曇野の道祖神の神様たち・・・
今回もありがとうございました。

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