6時半起床。
朝日がまぶしい。
深い緑茶を入れる。
過去のメモ帳を入れた重いダンボールを発見。
1冊を取り上げ、しげしげとめくっていた。
手近に近いところにあるCDをまさぐる。
昨年JANISの野外の風にさらされた200円・300円の山から、数枚視聴の上買ったCDから、
アダムFの「カラーズ」というのを聴く。
ところどころに出てくるアンビエントな部分が好きなのだが、ほとんどは定型パターンの「ドラムンベース」。
この中に、トレイシー・ソーンがヴォーカルを取っている曲があったので掲載する。
■Adam F 「The tree knows everything」 (with tracy thorn) '97■
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<1988年5月11日の日記よりのメモ>
今の自分は、つくえに向かえば、怖くなり・顔がバリバリいうものの、
少しは、学問とやらをやるが、飲み込まれそうだ。(飲み込まれていたのだ・今までが)
その分を補うのが、人とのコミュニケーションであり、
それによって、たんなる文字(もじ)は客観性を帯び、ただ文字(もじ)にひたることを防ぐ。
現実を認識できる。
だが、この数年おろそかにしていたせいで、文字(もじ)そのものに、自分を見い出し、
話す方の自分を軽視していた。
GAPが産まれる。
外国語は、両方をつなぐには、良い材料。
だが、それとて、双方が足並みをそろえるのは、ある程度までで、
そこから先は、別で考えねばならない。
しゃべりコトバやコミュニケーションが、文字(もじ)に打ち勝てず、
文字(もじ)の方が、上に立って難解に事をしてしまう。
文字(もじ)を扱う人があらわれ、しゃべりを職とする人が出てくる。
両方をうまく、とは、実に難解である。
帰り道に、ビンゴやマージャンで数千円「スル」。
一度、一発デカいのを、当てたいものだ。
武蔵野線に乗ると、好いねえちゃんが居た。
バクチを打った後の肩切るヤクザのように、つい、じーっと舐めるように見ていた。
私は、自分が男として、不能などでは無いと分かった。
「性欲はチカラなり。
誰一人として、持たぬ者なし。
しかし、扱い方によっては、危険にも幸福にもなる。」
ヤクザな気分は、持続しない。
立ったペニスも、そのうちしなった。