こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年10月13日 火曜日 備忘録・断片

2015-10-13 23:59:35 | 坂本龍一のサウンドストリート

カレンダー上、三連休明け。ヒトゴミ・クルマ少ないのは継続。
東京地下鉄車内は、相変わらず八割が板切れに向かう移動病棟。

もとからヘルナイアもちのじぶんもヒトゴトじゃない。
クビ・肩の痛みをストレッチや入浴で補うのを続けても、両手にしびれが出る。鈍痛。

帰って点けたAMラジオのチューニングを変えても説教くさく、脳ばかりが肥大。
うんざりしてNHKの英会話講座に辿り付く。まあ、これでいいかという適当さ。
じぶんにとって意味のない無縁世界が気分を散らす。頭痛を感じつつ。
研いだコメがヒタヒタになるのを待つ。

教授のサウンドストリート”デモテープ特集”一回目だろう。
英会話のやりとりにリズムを多重録音したヒトのテープに惹かれたのを想い出した。
それはスロッビング・グリッスル等々の影響下にあるだろうが、無名の一般の人が夜な夜な実験を行う方が断然面白い。当日感じたので覚えている。

■岡元清郎 「Demo Tape In Sound Street On ’80s」■

痛みをめぐり話せば”ちゃーんと、すぽーつ(うんどう)しているのかなぁ~?”と女医にいじられ・追い詰められる、月ごとの定期健診。
なにか自己主張せねばムチ打ちが待っているので、(”うぉーきんぐという病的運動じゃなく”と前説明後)ひたすら歩いている迷走をぼそぼそ話した。
その歩く距離のキチガイさに驚かれながら、「それはいいわネ」と急に上機嫌に顔を変えた女医。

「歩くのはイイわね。
でも、最近は全身運動が良いという効果が出ているのよ。有酸素運動とか・・・」その後は結局スポーツクラブの宣伝のように水泳やフィットネスに類する有体なおはなし。

「なあんだ」と思いながら訊いていると、両肩を回すポーズ。
まったく趣味ではない女医が手を回すたび、見える脇と突っ張る胸に「せんせい、その全身運動ってアレのコトですか?」と言いたくなるが、そんなことを言った日には往復ビンタを喰らうだろう。
ごきげんさんを維持してもらい、そろそろと去る準備をしながら相づちを打つ。
せんせいが尾野真千子さんなら・・・と妄想する余裕は現実には無い。

街を歩くうちに、持って帰ってしまったチラシや本類。それに、要求しないのに舞い込むチラシやタウン誌など。
それらが合体し堆積する紙のうず。
何とかせねばとチョキチョキすることに立ち上がったのは、この一ヶ月。毎回ゴミ出しの日にはひきづるような重さのゴミを出す。
紙や水が一番重い。

最初は必要な部分のみを切り取って後はゴミ箱に入れる、を続けていたが、しだいに大胆になりおおむね捨てるという狂人・強迫行為的になる日も多い。
そうでなければいけない。”これはアトに取っておいて・・・”というアトは無い。
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2015年3月25日 水曜日 「1982年1~2月の断片」4

2015-03-25 23:22:10 | 坂本龍一のサウンドストリート

朝、ペンキでまんべんなく塗りたくられた青。空の色。寒の戻りで外したマフラーを戻す。
夜の帰路、北風強く、工事現場の足場と防塵幕が揺れていて「これが崩れたら」と恐れる。

ホワイトファンクという言葉を意識したのは、ミュージックマガジンの中。今野雄二先生。
ア・サーテン・レイシオがまず、そう語られていた。(実際は白人・黒人混合)彼らの曲では1982年2月16日「ウォーターライン」。
中古レコード屋めぐりをする中、彼らのLP・12インチ・ミニアルバムを沢山見ながら、手持ち金は少ないので買えず。じゃあFMで・・というと掛かる番組も無かった。

ミュージックマガジン1982年2月号、1981年ベストアルバムに今野先生が「To Each・・・」を選んだり、1月号”ファンク”特集を読み、気にしながら。現実的にア・サーテン・レイシオを聴き出すのは、教授が掛けてくれた「ウォーターライン」に出会って以降。

ホワイトファンクでは1982年春以降、登場したABCまでがそう語られたが、それは違うのでは無いかと思っていた。
むしろ1981年ファーストアルバムの後、シングル「チャントNo.1」を創ったスパンダー・バレエを聴いた夏の夜。サウンドストリートで掛かった1981年8月18日夏の夜。
どこにカテゴリーすれば良いか不明のクロスオーバーな感じが素晴らしい名曲。
「とぅる~」以降”泣きメロ”演歌に成り果てる彼らとはまだ無縁の冒険が大成功したシングル。

ア・サーテン・レイシオが女性ヴォーカルを入れてブラジル的音を鳴らすのを聴いた「FMトランスミッション/バリケード」放送時点では、”このバンドは終わっている”と即直感的に思った。

これは(今となっては)危険だが、音の向こう側で、何かとんでもない意志や思想がうごめいている。そんな不気味で得体の知れないものを、ア・サーテン・レイシオの音楽に感じ、興味津々だった。それが彼らの魅力だった。

CD時代になって購入した「Early」2枚組。
今から知る人なら、このCDか「To Each・・・」を聴いたほうがよいだろう。



■ア・サーテン・レイシオ 「フライト」■
















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2015年2月14日 土曜日 二月真ん中

2015-02-14 11:53:50 | 坂本龍一のサウンドストリート

■昨夜から今朝■
13日の金曜日夜、極寒。と言ったら笑われるだろう。
夜に仕事場を出ると、身を切るような空気。耳が痛い。
しかし、しょせん”とうきょう”なぞのさぶさは、寒い地域の土の上に住まう人の比ではない。
ただ、その空気をずっと生きてきた。

ところが、島に戻ると寒さはさほどでもない不思議。煮物を温ため、お湯割りを呑む。
頭ばかりが勝手に暴走し飽和の末、くたびれて眠る。
いつだってそうだが、今日は珍しく9時間近く眠る。太りたい、そう無理をして食べると少しは体力になるようだ。

起きると、今朝も良い天気。
社会は”出口無し”の2015年世界とは思えないおだやかで静かな青空。

その世界を離れるべくワープをする。
別の意味でどん底だった1981年から1982年の年明け後。
希望は無く必死な日々だったが、救いがあった。当時は受験さなか。過ぎ去ったから比較が出来る。

■冬・1~2月■
2月は、当時も今も、春へのキャンペーンが始まる時期。
ビール会社は、クソみたいに「右にならへ!」とこの後の日々は「春ビール」広告になっていく。
まあ、テレビを見ない自分には、今ではそのしつこさは余り影響はない。

壇れいさんはかわいいと思うが、CM自体がステレオタイプでつまらない。
季節が変わろうとすることに応じて広告を打ち出し続けることには、もう何の感覚も覚えない。商売という車輪しか視えない。

そうは言っておきながら、街を歩いていて、そんな広告を見るとついシャッターを切ってしまう。
それでも病魔に憑りつかれておらず「まし」だな、と思うのは、よどんだ隣組社会の群衆のなかならぬ、解放された放浪のさなか、街でそんなポスターに出会うことくらいだろうか。

1982年1月から2月にかけた寒い時節。
スケジュールされた受験日から受験日の波間。つらい孤立無援の鬱の闇。
そんなさなかでも、一条の光はあった。
当時をひも解くために、録音したカセットテープ、それにホームページ「アルコ堂」をめくり教授のサウンドストリートのページを見ると、当時自室で録音テープを聴いていた像に近づいていく。

1月12日放送の中で、教授がCM用に作った曲を掛けてくれた。
春の化粧品「パーキージーン」。

■資生堂パーキージーンCM■
CM短秒の間に聴こえるヴォイスは鈴木慶一さん。そのバックの女性の掛け合い声はスーザン。
日本語の語りは、言うまでもない小林克也さん。

当時のコマーシャルには、15秒なり30秒の間の夢があった。
コマーシャルに出てくるお姉さんにときめいたり、映像と音楽は魅惑的だった。
ビデオももっておらず、さまざまな制約下にあって、目に焼き付け作業をしていた。








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2015年1月19日 月曜日 星空の下で

2015-01-19 23:54:51 | 坂本龍一のサウンドストリート

12月からだが、帰り道、星を見る機会が多くなった。
正確な星の名前は分からないが、それでもオリオン座だけは分かる。「満天の星」とはいかないまでも、東京でだって星はキレイに見える。「満天の星」などというと、ジェットストリームの城達也さんのセリフがよぎる。
それでも、脚色一切なくとも、島から見える空には、たくさんの星が見つけられる。そんな夜。

東京の空は灰色。と書いた作文を、まるで詩人と捉えて、
そんな話を、親族が三ノ輪に集まる時には必ず定番としていたのも、今思えば70年代のこと。

作文と書いたが、それは、6つ上の兄のもので、私が小学生に上がった日には、兄は中学生に入り、すでに長い髪をしていた時代であり、この幼少の”6”という差はいかんともしがたい距離であった。
たぶん実際”灰色”であったのは、工場がもくもくと煙を出し、公害が社会的問題であって、東京湾からヘドラが産まれた頃に近い。

親の眼を盗んででは、”行ってはならない”と言われた魅惑的世界・駄菓子屋で、スモモを食べては舌を赤くさせていた頃。みうらさんが”科学””というと”=未来的”と思ったという話しにはおおいにうなずく。それは1970大阪万博の余波であるが、まさかその時に、三島さんが”あのような”ことになっていようとは、当時の私には知りえないこと。

当時は、今(2015)のガチガチで身動きが出来ない監獄では無かったので、様々な化学調合物が食べ物には混じっており、駄菓子屋はその手合いの食べ物のパラダイス。
そんなものを日々摂取してきて、今に至っても大きな影響はないので、紅茶キノコに始まる”健康宗教”が果たしてどこまで正しいのかは疑わしく、化学の専門家ではない私には知りえない。
ましてや”STAP細胞”なるものが何たるか?も分からない。

ゴミを整理しているうち、最近出てきたものがある。
それは、雑誌のページの切れ端。色が褪せてしまっているが、70年代の終わりから80年代以降のものは今も”昔”とは思えない感覚として生きているので、その退色感ほどには感じない。

中身を読み、そこから1981年夏前の頃、とわかる。
一風堂・土屋昌巳さんが選んだ「ニュー・ウェイヴ」レコード100枚。
これは、80年代のなかで集まった雑誌類の重みに耐えかねて「要らない部分」を捨てるために、本を根元のノドの部分まで裂いて、取っておくページのみを保存した残骸である。
雑誌は(週刊ではなく)「月刊レコパル」からのモノ。

ちょうど、教授のサウンドストリートに土屋さんがゲストに出たタイミング。
ようくレコードをたくさん持っている人におべんちゃらを使っては、その音楽メディアだけを目的に、友人でもない人の家に行ったように、それぞれのコレクションを覗く、というのは実に興味深かった。(今もネット上で”盗み見る”なら大して変わりないが、何のプロセスもなくワンクリックという点が全く違う。)
この記事も、そういうあこがれがこうして保存しては眺める、ということを繰り返しさせてきたのだろうが、引っ越しを繰り返す中で、荷物のなかに沈下していた。

”いつか、こんなにたくさんのレコード・コレクションを持てるようになりたいな”と思っていた。
そうして、土屋さんのリストをチェックしては右往左往し、そしてまた、モノクロ写真を眺める、そんな繰り返しだった。

100枚のうち、1~10枚まで。

1・セックス・ピストルズ「勝手にしやがれ」
2・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド ファースト
3・キャプテン・ビーフハート「美は乱調にあり」
4・トーキングヘッズ「フィア・オブ・ミュージック」
5・トーキングヘッズ「モア・ソングス」
6・スライ&ザ・ファミリーストーン「フレッシュ」
7・ウルトラヴォックス「システムズ・オブ・ロマンス」
8・ウルトラヴォックス「ヴィエナ」
9・ポリス「白いレガッタ」
10・フィリーズ「クレージー・リズムス」

あの1981年夏。九段下から神保町に向かう、ギラつく俎(まないた)橋を渡っては「夏季講習」に通っていた日の頃、別の「講座」をFMで聴いていた夜。
その番組のテーマ曲がウルトラヴォックスだった。

■Ultravox 「Vienna」1980■
今はYOUTUBE上には無いが、このヴィエナのプロモーションヴィデオが、後のMTVブームに与えた影響は実に大きい。

PS:今夜は、キーボードに向かったら”想定外”の結果になった。
いつもの”なりゆきまかせ”は変わらない。
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2014年8月1日 金曜日 かたちんば・夏の100曲 ~八月~

2014-08-01 23:32:54 | 坂本龍一のサウンドストリート

1981年、教授の夏の授業「電気的音楽講座」を夜の暗闇部屋で聴いていた少年の想いに添えて。

■Psychedelic Furs 「Sister Europe」1980■
「坂本龍一のサウンドストリート」夏の特別版『電気的音楽講座』。
YMOの「BGM」が影響を受けたウルトラヴォックス。
彼らの曲を番組始まり曲とした、一週間五夜連続の夏期講習。
録音をしつつ聴いた中聴こえた、サイケデリック・ファーズの「シスター・ヨーロッパ」。
安定感がありながら、奇妙な匂いを放つ夏の夜を思い出す。

カセットテープには、断片的にエアチェックした彼らの曲が納まり、部屋の中でそれらの音楽は中高生の間流れていた。
しかし、シンプルマインズの「Don’t You」同様、彼らのシングル「プリティ・イン・ピンク」で、ぷっつりと糸は途切れた。

持っているLPは、輸入盤で石丸電気で買った「フォーエヴァー・ナウ」のみ。CD時代に入っては幾枚か持っているものの、熱心な信者ではない。
84年のシングル「Ghost In You」は好きでシングル盤を持っているが、シングル「ヘヴン」等々は聴くに耐えない。「ああ、これで終わりだな」と思った。

時々断片1
島にある東洋整体に一時通っていた際、施術師は「仕事もほどほどにしないと(仕事で)身体が壊されるからセーヴするように」と言った。
彼に言われるまでもなく、それは十二分に理解しているつもりだったが、彼と話すうちに、他に目覚める観点があり、しばらくお付き合いした。
しかし、彼の肥満度合と、彼が語る恩師が病気で若くして亡くなっていることを次第に知るうち、言っている東洋云々へのリアリティが無くなり、“そんなモノは信じられぬ”と遭わなくなった。
その後約半年。今では“医”学“が何か、などよりも、まずは”それ“抜きで(薬も抜きで)どう一つの身体で立って、バランスを保ちながら今を生きるかの方に力は傾きつつある。

”ダイエット”なる人間の傲慢さ・そのものが形となっている、と見えた少年の頃、肥満とは怠惰の現れそのものだ。そう思いつつ、ガリガリの自分の方に”寄せようと”やせている人=それだけで。。。という思い込みは、未だに余波を残す。

時々断片2
働く人の九割が給与労働者で、個人経営者では無い現代。
組織や経済の濁流と無縁では居られないのは理解するが、そこにのみ身を投じる不具に距離を置いて数年。
個では生きられぬことを知る中で選択する道として、中央と島の二世界を行ったり来たりしつつも後者に重心を置く。
中島義道さんの「人生を半分降りる」等の本を参考にしていた311前からも離れてきた。
たった一人で食材や喰うためのちからを発揮する方に敬意を持ちつつ、そのような能が無い自分は、可能な範囲でやれることをする程度。

時々断片3
昨日、仕事上何かとお付き合いしている大企業の某部長さんと話しているうち、お互いの歳の話しになり、自分は彼を50代と思っていたが、半年しか生まれが違わないことを知る。
気持ちも動きも笑い方も、若若しい彼だが、白髪からもっと年上と思い込んでいた。

波長の合う彼には、一定の礼儀を持ちつつも、よく私的な話しをするのだが、昨日は盛んに“サラリーマン”という言葉をクチにするので、“部長には蒼いと思われるだろうが、自分はその言葉が嫌いだ。そんな自分自身に対して失礼な言葉をクチにするものじゃない。”とボクは言った。
そこからお互いがかぶった社会的ベールの一部が壊れ、話すうちに打ち解けた部分が広がる。そこで彼自身の吐露を聞いた。

時々断片4
島に住みながらも、三ノ輪の頃とは事情が異なり、隣近所の人とは挨拶程度しかしない。
一方では、島のあちこちの場所で出会い、話すうちに顔見知りになった人が居る。
ほとんどが道端の花や猫を巡るきっかけだが、そこで出会った人が全て仲間でもない。話すうちに意を害す人も居る。それは向こうからもあれば、自分からもある。欺瞞じみた希望なり、それに無理して同意しようとする“善人ぶろうとする自分”が透けて見えたら、自分は引いてしまう。
善人ズラが続くほどの精神力が今はもうないのだ。
そこまでして何になる?と自らに言い続けるべきだ。
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2013年12月22日 日曜日 「心象風景:1983秋/1984秋」

2013-12-22 23:25:30 | 坂本龍一のサウンドストリート

1984年。年末にはまだまだ早い十月。
やけに滲む色した夕暮れどき。
そこには坂本龍一の「森の人」が、心臓音に近付くようなテンポに落とすように、自室内のスピーカーからたゆたっていた。
自分で選んだ機器が組み合わさったオーディオ・コンポと、思考する作業台かつシェルターとしてのつくえは一定の距離を保ちながら、音はスピーカーから、血の色じみた空と混じり合った時間と空間。
もう既に、18歳の自分は疲労困憊し、燃え尽きていた。

1982年3月・中学3年生の卒業前・行くべき航行も定まってしまい、麹町中学校なる・放火して焼き尽くすべき学校にも、何の用も義務束縛ももう無くて、わざと「風邪」と休み、やっと貯めた十数万円を握り締めて秋葉原に向かい、憧れのオーディオ・コンポを買った。
そこから2年半しか経っていない。

1983年秋、神経性胃潰瘍と薬疹で二度立て続けに入院し、12月下旬に出所するまでを過ごす。
YMOが散っていくというのにも関わらず、自分はその最後を肉眼で見れぬまま、こたつで退院後を過ごして年を越した。
まだ、心身はキリキリと現実の痛みを伴いながらも、音楽・サブカルチャーへの希望がまだ在った。

***

坂本龍一のサウンドストリート。
1984年10月23日には、教授自身の新譜「音楽図鑑」特集。
その次の週の火曜日の30日には、来日したデヴィッド・シルヴィアンをゲストに呼んで、ピーター・バラカンとの音楽と話し。

1983年12月に、ジ・アート・オブ・ノイズの「イントゥ・バトル・ウィズ・ジ・アート・オブ・ノイズ」を、自分は初めて聴く。
1983年秋と1984年秋が、たかが1年というのに、いかに濃密な時間の変遷を辿ったか、その1年には、ヒップホップからの引用・イミュレーター(初代サンプリング機器)・オーケストラヒット(Byジ・アート・オブ・ノイズ作)がさまざまな音に現れていた。

アフターYMOの1984年は、何かはっきりしないもやの中に自分は居た。
在るべきものを欠いてしまった感。
一方で音の像を激化させていく方向、一方ではそれに距離を置いて静かの森に向かう方向。
ジ・アート・オブ・ノイズで例えるなら、「ビートボックス」と「モーメンツ・イン・ラヴ」のように。
80年代初頭に爆発したサブカルチャー文化と音は、二分され・股割き状態にあった。(と幻惑されていた。)

サウンドストリートは、この年6月に、糸井重里が司会のNHK教育テレビ「YOU」と同時録音された。
ここでテーマにされたコトバ「行き詰まり」。
1983年末には、これほどまでに豊作は無いというくらいに、ニューウェイヴが実っていたときから、たかだか半年後のこと。

***

1984年10月30日の放送で、デヴィッド・シルヴィアンが紹介した、彼がその時点で聴いていた選曲。
ジョニ・ミッチェル、ブルガリアン・ヴォイス、ヤスカズ、土取利行。
数年で、このような体内のスティルに耳を傾ける境地に至ったのは彼のみでは無い。
当時、自分はLPレコードで購入できなかったのだが、土取利行の作品「磐石」の石の響きは、余計な情報の洪水の渦の外に身を置かせてもらえるものがあった。
汚泥にまみれた世界から脱して、フラットな状態に気持ちを持っていくには、未だに有効な音楽である。

■土取利行 「磐石(サヌカイト)」より■




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2013年6月20日 木曜日 南佳孝 「日付変更線」'78

2013-06-20 23:58:28 | 坂本龍一のサウンドストリート
今では、そんな元気も無いのだが、肝臓を壊す前までは、兄との「CD文通」のようなことをしていた。
おたがい共に、いつ果てるか分からない中、音楽が重要な好物である仲で、そのとき・そのときに好きな曲を収めたオリジナルCDを、季節の便りにかえて、交わい合い・会う機会があれば渡しあったりしていた。
現在では、兄からもらうCDはあれども、じぶんから兄に渡すCDがない状態が続いている。

***

かつて、まだ壊れる前のSONYのCDウォークマンで好きなCDを掛けながら・好きな東京街歩きをして・好きなシーンにカメラを向けていた頃。
南佳孝さんのアルバム「サウス・オブ・ザ・ボーダー」は、夏の重要な一枚だった。

ジャケットは、故・池田満寿夫さんの作品。
南佳孝さんに初めて出会ったのは「モンローウォーク」「憧れのレディオ・ガール」「スローなブギにしてくれ」といったシングル盤であった。
そういった大ヒットシングルとは別に、後に1982年の「坂本龍一のサウンドストリート」の「渋リク(=渋いリクエスト)」の日に、教授がかけた『常夜灯』に、引導された。
「サウス・オブ・ザ・ボーダー」のジャケットは、当時よく見ていたが、そこに大きな宝物が埋まっているとは思いもしなかったので、素通りしていたのを、逆戻しさせた。

時を経て、CDウォークマンで「サウス・オブ・ザ・ボーダー」を聴いて歩いていた夏。
秋葉原の橋のたもとで休憩をしている折に、心地良くなって短パン&Tシャツ姿で、そこに横になって、青空と流れる雲を眺めながら「サウス・オブ・ザ・ボーダー」を聴いていると、心は南洋に行くことが出来た。

【そのCD「サウス・オブ・ザ・ボーダー」は、相変わらず遭難中。
写真は、右が「憧れのレディオ・ガール」を収めた1980年作品『モンタージュ』。
左は2002年作品『ブルー・ヌード』。】


この夏に、兄に渡したCDには、「サウス・オブ・ザ・ボーダー」の中でも、特に好きな曲「日付変更線」を入れた。
音楽への知見の深さも、じぶんは兄に叶わないのだが。。。そんな兄からメールが届いた。
「日付変更線は、イイねえ~。」そんなメールをもらうのは珍しいことだったので、その後、アマゾンでCD「サウス・オブ・ザ・ボーダー」を購入して、兄の家に贈った。
「イイでしょう~」と誇らしげに浮かれて。。。

***

数日前に、山下達郎と坂本龍一の組み合わせを意外と。。。と書いたが、南佳孝と坂本龍一の組み合わせも意外と感じる方も居るだろう。
しかし、南佳孝さんと教授は、当時友人同士で、教授は、南佳孝さんのアルバムのアレンジャーとして一緒に音楽を創っていた。
南洋に恋していたミュージシャンたちが創った名作LP「パシフィック」に限らず、この頃は(その後の)YMO&周辺ミュージシャンの心は、南洋のトロピカルな世界に向いていた。(故・加藤和彦さんの「パパ・ヘミングウェイ」も、その中の一枚)

「日付変更線」という曲の心地良さには、大貫妙子さんの透明感あるバックコーラスの美しさも、大いに含まれている。
■南佳孝 「日付変更線」1978■


もう、あっという間に10年近く経ってしまうのだが、まだ営業車を転がしている頃に、偶然FMで昼間に掛かった南佳孝さんのスタジオ・ライヴ。
南洋色・サウダージの匂いは、更に深い磨きをかけていて、鳥肌が立つほど感動した。
録音機械を積んでいなかったので、リアルタイムでしか聴けなかったが、実に貴重な放送だった。
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2013年6月18日 火曜日 山下達郎「風の回廊(コリドー)」'86

2013-06-18 21:20:42 | 坂本龍一のサウンドストリート

日本のミュージシャンで、未だにじぶんの中の「音楽の神様」であり続けているのは、YMO+3人+周辺ミュージシャン。
単発では、素晴らしい音楽を創る人たちもいるが、それを超えることは、無い。

そこに微妙に絡み合う軌道上に居るのが、山下達郎さんであり・竹内まりやさん。
アッコちゃん(矢野顕子さん)の「オーエス・オーエス」という「ラーメンたべたい」が収録された1984年。
その録音スタジオには、教授&アッコちゃんが居る、その隣で、達郎さん&まりやさんの「ヴァラエティ」が録音されていた。

達郎さんと幸福なる結婚をして、音楽シーンから一旦退いた竹内まりやさんだったが、主婦として居る中もかたわらで創りだめていた曲が良くて、達郎さんがアルバムにしたい、と録音をしたのが「ヴァラエティ」だった。
「ヴァラエティ」とは、達郎さん曰くの「幕の内弁当」。さまざまなスタイルの曲が1枚に収まったアルバム。

***

教授&アッコちゃん夫婦・達郎さん&まりやさん夫婦。
共に偶然だが結婚をしたのは、同じ1982年のこと。

教授&アッコちゃんの結婚初期の蜜なる時空がパッケージされた「愛がなくちゃね。」が、あまりにも素晴らしくて永遠であるように、達郎さん&まりやさん夫婦の「ヴァラエティ」は、当時の「山下達郎のサウンドストリート」を録音したと共に、LPレコードで聴きまくった。

じぶんにとっては「オーエス・オーエス」が余り好きでは無くLPを買わなかった一方で、1984年段階では「ヴァラエティ」のほうが断然素晴らしかった。
達郎さんが、まりやさんを大事にしている想いが音になっていた。
それは、今も変わりはない。

***

「坂本龍一のサウンドストリート」に1982年6月1日ゲスト出演した達郎さん。
「なぜ、山下達郎が坂本龍一の番組に出るんだ、というお思いの方も居ると思いますが・・・」(教授)
さかのぼる1975年に、お互い「辺境の民」として2人は出会い、友人として親交深い生活を送った。
その後のバンド「シュガーベイブ」に居た大貫妙子さんと教授が恋人同士だった時期を経て。。。
この1982年6月1日では、2人は「結婚」なるもので、いかに適当に大衆雑誌があること無いことを書きつつ・本人らのプライヴェートをさらし者にするものかを、そのひどさを、語っていた。

その後、1984年、同じ場所で録音された「オーエス・オーエス」と「ヴァラエティ」。
隣に居るということもあり、「坂本くん、ちょっと手伝ってよ」と「ヴァラエティ」収録の『結婚しようよ』でキーボードを演奏したり、日々交流があったという。

***

これは、渋谷陽一さんとの対談であったり、渋谷さんが述べたり・書いたりした評論でも明らかなことだったが、山下達郎という人の不思議な在り方。
彼自身は、音楽がとても好きで、レコードコレクターとしても、家のゆかが抜けるほどのコレクターであるが、どちらかといえばブラック・ミュージックの影響が強い彼が、自らの長い長い音楽活動をする中で、彼自身が創る音楽にはブラック・ミュージックの影は薄く、ついつい良質なポップ・ミュージックとなってしまう。

かたちんばは、彼自身が出たマクセルのカセットテープのCMで演奏された「ライド・オン・タイム」に脳天を一撃されて以降、YMOほどの熱心さでは無かったものの、達郎さんの音楽を過去から今に至るまで聴いてきた。
(むしろ彼の音楽の本質への、素直な反応としての磁力は90年代以降だったかもしれない。)
彼自身も渋谷陽一さんも述べているが、決して本人は「ミドル・オブ・ザ・ロード」を歩くつもりはさらさら無く、大衆に受け入れられるつもりでポップ・ミュージックを奏でているわけでも無いのに、結果論として、良質な音楽として、大ヒットしてしまうという構造の不思議さ。

***

そんな彼が1986年4月に発売した「ポケット・ミュージック」には、実に重い・重い曲である「War Song」が収められている。
かたちんばは、2年目の素浪人に突入時代。じぶんにとっての寄る辺・共時性進行形音楽であったニュー・ウェイヴ/テクノが終焉を迎えると共に、じぶんのイノチも終焉を迎えようとしていた頃に鳴っていた音。
初めて「War Song」を聴いたのは、日曜日の夜のNHK-FMの渋谷陽一さんの番組で、渋谷×山下対談がされた際に掛かったもの。
その頃、隣の兄の部屋からは、毎朝LPから「War Song」が流れていた。

この曲の重さは、別の機会にちきんと述べたい。
このところ、毎朝・毎夜、涼しさを感じたいがために必ず聴いている定番「風の回廊(コリドー)」。
「ポケット・ミュージック」に収録された愛する1曲。

日曜日「父の日」で実家に家族集合した際に、料理をするかたわらで鳴っていたベスト盤「トレジャーズ(贈り物)」からの1曲。
「なつかしいいねえ」と、達郎さんファンの兄・自分・お袋さんの3人は、3人3様の想いを抱きながら聴き惚れていた。
彼の素晴らしい音楽は、今では、時空なんか平気でひとっ飛びして、永遠を獲得した音楽ナリ。
■山下達郎 「風の回廊(コリドー)」1986■
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2012年2月20日 憂鬱なる月曜日 - 細野晴臣 「ノルマンディア」'85 -

2012-02-20 22:02:36 | 坂本龍一のサウンドストリート

【2012年2月11日 小村井にて撮影】

メシを喰っていくためには、窓の無い部屋に閉じ込められて、仕事に拘束される時間が必要である。
拷問への我慢料としてメシ代は払われる。

やさぐれた気分にあって、ネットで見つけた「今日の天使」のコトバを繰り返して、ゆっくり読んでみる。。。。
自分がすがれる、数少ない言葉を。
ゆっくり、ゆっくりと。

『・・・何も考えずに、自然に、自分を一番大切に、あなたが、自分の心と体を、一番大切にすると良いです。
あなたがあなたのお気持ちを一番大事にするのが良いです。

なぜならば、人との付き合いは、まず自分と自分との付き合いからがスタートです。
自分を最優先してください。
全ての人とうまく付き合う必要はないですよ。
あなたが、あなたらしく、あなたがあなたを一番大事にする。
そして、人とうまく付き合うのではなく、あなたらしく付き合うことですよ。

大丈夫です。相手が不愉快かどうかは考えなくても良いです。
一番大事なのは、あなたが愉快か不愉快か、ということです。
あなたは、まずご自身のお気持ちを愉快にするようにしてください。
他人の愉快、不愉快ではなく、あなたの愉快を追及してください。
あなたには、あなたの道を生きることが許されています。』


80年代、YMO3人の中でも、教授と細野さんは特にコマーシャルへの出演と共に、そのバックに流れる音楽をたくさん創ってきた。
細野さんの場合は、それらを1985年に自身のレーベル「モナド」から「コインシデンタル・ミュージック」というアルバムの形で発表した。
これは、明らかにブライアン・イーノが発表した「ミュージック・フォー・フィルムス」の影響。

そこに収まっている「ノルマンディア」という曲。
当時、サウンドストリートでこの曲をかけた後に、教授は「細野さん、一体どうしちゃったんでしょうねえ・・・」と言った。
それは、この曲が余りに坂本龍一的だったことを意味していた。
当時まだ細野VS坂本の対立軸がある中での出来事だった。

1982年制作の映画「戦場のメリークリスマス」で映画音楽に目覚めた坂本龍一が創り出してしまった名曲「メリークリスマス・ミスター・ローレンス」。
その後の影響は大きく、土屋昌巳のその後のインストゥルメンタル、スティーヴ・ジャンスン&リチャード・バルビエリが創ったNASAのアポロ映像のサウンドトラックなど「モロ」な影響がそのまま投影されていた。
細野さんの「ノルマンディア」にも、確かに坂本龍一特有のオリエンタリズムの影は漂っている。

この後、この「ノルマンディア」は自分の意外な瞬間に再度立ち現れる。
1991年4月から住まうこととなった大阪で。
1994年の深夜に『文學ト云フ事』なる番組をやっていて、毎週録画しては見ていた。
NHK土曜ソリトンと並んで。
この番組は、毎週有名な日本文学作品を紹介、映像化し、最後のところで数十秒の広告CMにする、というものだった。その中で安部公房の名作「箱男」が紹介され、この小説に出てくる看護婦役を緒川たまきが演じていた。
確かその回だったと思うが、バックに流れたテーマ曲が細野さんの「ノルマンディア」だったような記憶。
あのVHSヴィデオはどこへ行ったのだろうか?

■細野晴臣 「ノルマンディア」■
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2011年7月8日 金曜日 夏のフェイバリッツ・11 「If You Want Me To Stay 」を巡って '81

2011-07-08 22:55:56 | 坂本龍一のサウンドストリート
先週金曜日、7月1日順天堂で神経ブロック注射をされて、びっこを引きずりながら、ふらふらと御茶ノ水から駿河台をくだり、神保町へ・・・。

「某」レコード・ショップのエサ箱をあさっていたら、スライ&ザ・ファミリーストーンのレコードがかかり「おおおっ」と思いながら、エサ箱をあさり続けた。

スライのLPレコードを通しで聴くというのは初めてだったが「坂本龍一のサウンドストリート」の1981年6月16日に教授がかけた「ランニング・アウェイ」「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」含めてかかり、心地良いレコード屋さんで過ごす貴重な時間。

店員さんとこのアルバムについて短時間語った後に、帰って調べると「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」は「フレッシュ」というアルバムに収まっていて、今日聴いたアルバムはそれなんだなとわかるが、ジャケット・デザインが余りにかっこ悪いので、音だけ聴きたい。


【アルバム「フレッシュ」】

教授のサンストのお陰で知ったこのスライだが、影響を受けた人は多い。
自分が夜の暗がりで、闇に光沢感を持って輝くベースとこの1981年6月16日に聴いた曲の記憶があるので、つい夏の夜とスライを結びつけてしまう。



■スライの「If You Want Me To Stay」1973■


なんで、1973年の「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」が、テクノ全盛の1981年にかかったか?には背景があった。



この1981年のニュー・ロマンティクス・ムーヴメントの裏の首謀者、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロとエンジニアのラスティ・イーガン(スティーヴ・ストレンジの「ヴィサージ」というユニットの音は、実際はほとんどこの2人が創っていた)がプロデュースしたロニーという男装した女性の麗人が「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」をカバーしていたことによる。

この12インチ・シングルは自分も持っているが、当時ほんの少しの時期だけ話題になった。

■ロニーの「If You Want Me To Stay」1981■


***

1982年5月に「YENレーベル」設立と新譜「フィルハーモニー」を引っさげて、「坂本龍一のサウンドストリート」に立花ハジメと共に出た細野さん。



この放送の中で、「LDK(リビング・ダイニング・キッチン)」という黒人音楽の影響の強いカッコイイ曲がかかったが、実はこの原曲は70年代にはすでに出来上がっていたそうである。
ただ、当時出来上がった曲は「もろスライ&ザ・ファミリー・ストーンの影響があり過ぎて」「恥ずかしかったので」オクラ入りとなっていた曲だという。

1981年「テクノデリック」でグイノリのファンク・ベースを弾いていた細野さんのベースのカッチョ良さを思い出す。

「フィルハーモニー」では、その原曲にさまざまな着色をして、テクノ色の強い曲に再度創り直している。

せっかくなので、このカッチョ良い細野さんの「LDK(リビング・ダイニング・キッチン)」もかける。

■細野晴臣「LDK(リビング・ダイニング・キッチン)1982■
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