こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

1982年1月11日 月曜日 ~ 22日 金曜日 ふたりの部屋「夢の10分間」

2016-04-15 00:46:21 | 音楽帳

1982年1月11日~22日 ふたりの部屋「夢の10分間」(23:05~:15)
出演:斉藤晴彦、神保共子

1月14日 木曜日 その4
1・ザ・リーグ・オブ・ジェントルマン 「インダラクティヴ・レゾナンス」
2・ペンギン・カフェ・オーケストラ 「カッティング・ブランチーズ・フォー・ア・テンポラリーシェルター」
3・ペンギン・カフェ・オーケストラ 「ピタゴラスのズボン」

1月15日 金曜日 その5
1・YMO 「灯(ライト・イン・ダークネス)」
2・坂本龍一 「ジ・エンド・オブ・ヨーロッパ」
3・ヴィサージ 「ザ・ステップ」

エンディングテーマ曲。

■Jean Michel Jarre 「The Last Rumba」1981■

FM雑誌(この言葉も死語)でザラ紙に印刷されたモノクロジャケットを視て、広告文字を読み、音を想像する。
そういったことが多くあった十代前半。

彼の「幻想惑星(1976)」や(のち1980年に出現する)YMO「増殖」そっくりのコンセプトジャケット「軌跡(1978)」などを視ては想像を膨らませていたはずだが、実際の音に出会ったのはこのラスト・ルンバが入った「磁界(1981)」。とすると、前2枚の作品ジャケットに出会ったのも「磁界」の広告だったのかもしれない。

ラスト・ルンバはB面最後の「磁界パート5」にあたる。この曲をどこかで聴いた人も多いはずで、様々な番組の間奏曲に使われてきた。とにもかくにもテクノの名曲であって、今まで多様な場面で聴いてきた。

だが、このポップな曲を聴いてアルバムを買おうというのは早まり過ぎで、基本はシンセサイザー・ミュージック。そう呼んでも何を指すか?これまた今の言語では通用しないだろう。
長い分数のスペイシーな曲は、タンジェリン・ドリームやクラフトワークと似て非なるもの。私的にはGoodだが、万人におすすめする気はない。

ジャン・ミッシェル・ジャールはフランスの人で、確か由緒ある家系の出身でお金持ちだったと記憶している。
それゆえか当時高価だったはずのフェアライトCMI(世界初のサンプリングマシン市販品)が使われている。一体どこにフェアライトが使われているのか?「磁界」にはまったくそんな音触はないし、当時そんなつもりで聴いてもいなかった。

ヨーロッパそのものが持つ歴史の厚みと余裕が、こういった人たちのおおらかで自由な表現を保たせ、許したのだと思っている。

30余年経ったレコードのインナースリーブのカビのひどさは、全く時間経過を覚えない自分の感覚と不一致。レコードの劣化はジャズやR&Bのレコードならもっともらしいが、「未来」だったはずのシンセやテクノのレコードだとちぐはぐさを覚える。

YMO熱を浴びた高野寛さんがソリトンSide-Bで言っていたことに頷いていたのを想い出す。当時最先端のテクノは後に振り返ってみると、案外演奏するミュージシャンのテクニック(肉体)という非デジタル=アナログに支えられていた。これを高野さんが語ったのが1995年でそこから20年が経過している。

私個人がそこに添えるとしたら、結実された音楽は、テクニックやセンスや(当時の)デジタル機器だけではない。
1つの音を鳴らすために夜な夜な費やした時間と労力、傾けた情熱。富田勲さんやNHKの現代音楽実験室などは良い例だが、そんな熱い夜が確実にそこにあった。

過去だけということでなく、ベンリな道具さえあればモノは産まれるか?
という疑問はいつもよぎることである。今で言えば、ITツールという道具だったり。

ありきたりな言い方になってしまうのは何だが、やはり、モノを産み出す/創り出す、ということには、努力や情熱が作用している。それは音楽に限らず映画でも絵画でも、あるいは道具そのものでも。。。

だからと言ってそんな”実験”は、いくら労力を掛けても成功もあれば失敗もある。
努力や情熱は、決して成功に結び付く法則ではない。しかし、才能やセンス、あるいは思い込んだ運命をこえる瞬間がある。そんな悪戦苦闘の果ての決壊を抱かねば、人は生きていけないのかもしれない。



書くうちに、今夜も脱線してしまった。
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2016年4月13日 水曜日 春のブルース

2016-04-14 01:27:13 | 音楽帳

朝目覚めると、外が薄暗い。
風呂に入ると沸かせていない。そういうこともあるだろう、焦るな、と昨夜の余熱と追い焚きでごまかす。

外に出ると雨。
電車に乗ると、まだ春の人間界はがたがた無駄なノイズを発生させている。

ひと仕事終えた帰り道も雨。あちこち痛みが走る苦しい夜。
傘を差しながらクリムゾンの「太陽と戦慄」を聴く島の暗がり。
「きょうの~仕事はつらかった~」と唄ってみる。眼から血が出そうなほど痛い。

岡林信康さんの山谷ブルース。
起きて家の外に出たら行き倒れた人を見る。それが日常茶飯事の三ノ輪風景だった。落ちているクソすら犬だか?人糞だか?も分からないどん詰まりの場所。そんな浅草・吉原・山谷・小塚原・千住に囲まれて育つ子供時代に始まっていたから、岡林さんが唄う哀しみを理解しているつもり。
だが、どっちかといえば、教授がスタジオレコーディングで缶詰めを終えた深夜。
幸宏と酒場で「ライディーン」のメロディーに合わせて二人で唄う山谷ブルースが欲しい。

赤ら顔で肩なんか組んで、箸をドラム替わりにチントンシャンと杯を叩いたりなんかして。
そんなことを想像するだけでも救われる夜がある。
それが今夜。

4月に入ってから、とても社会的にマジメな日々を”頑張って”いる。
疲れと心身不調から身を持ち崩してはいるけど、そんな今日さえ今日しかないのだ。
白井貴子のセリフの真似じゃなく、そう思えるだけマシ。三十半ばの可愛い後輩に死なれ、親は入院し、当人もぎくしゃくとデヴィッド・バーンみたいなぎこちない姿で必死な中。

ユーチューブでかつて観た「ライディーン」。
その動画は、一般の人が自分で写したんであろうブレる東京のビル群や人並みをバックにしたもの。苦笑というよりほほえみを伝えてくる代物。80年代当時なら『ださい』と言っていただろうが、今むしろダサくないかもしれない。

「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」を否定して次へ向かい、立ち位置と焦点を移さざるを得なかったYMO。その不幸と幸福とほとんどビョーキと。。。
12~13歳の頃、涙を流しながら聞いていたはずのビリー・ジョエルの「素顔のままで」にさえに懐疑的で否定にならざるを得なかった13~15歳のYMO初期から「BGM」「テクノデリック」への謀反へ。リアルタイムでそれらを聴き、同時代お互い走れたハザマの15歳へ。

そんな航跡を辿りつつ「ライディーン」も「素顔のままで」も素直に酔える今は、オヤジの懐メロ扱いじゃなく、航海の末に出現した境地。体内に駆動させるためのガソリンを注ぎながら、ビーチボーイズ/ブライアン・ウィルソンらが、何周も回ってフラットに評価される今の幸福を想う。

三十余年響きは変わらないが、今夜のガソリン。

■YMO 「開け心~磁性紀のテーマ~」1980■
『あ~、もう、イヤ。(=YMO)だ~、け~、ど~、仕事さ。』各種エフェクターでマスキングされた幸宏ヴォイス。そこで吐露された心情。YMO初のノイズ化。
その後の謀反の出発点。









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2016年4月9日 土曜日 ~ 10日 日曜日 春の断片

2016-04-12 22:32:49 | 写真日和



■Budd&Eno 「Failing Light」1980■




































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1982年1月11日 月曜日 ~ 22日 金曜日 ふたりの部屋「夢の10分間」

2016-04-12 21:23:32 | 音楽帳

1982年1月11日~22日 ふたりの部屋「夢の10分間」(23:05~:15)
出演:斉藤晴彦、神保共子

1月11日 月曜日 その1
1・スクエア 「かわいいテクノ」
2・シリコン・ティーンズ 「レッド・リヴァー・ロック」
3・ジョン・アンダーソン(イエス)&ヴァンゲリス 「ステイト・オブ・インディペンデンス」
4・YMO(ホソノさん) 「マス」(「BGM」より)

1月12日 火曜日 その2
1・YMO(幸宏) 「カモフラージュ」(「BGM」より)
2・チューブウェイ・アーミー 「マシーン・ロック」

1月13日 水曜日 その3
1・スプリットエンズ 「インドのアルバートへ」
2・ゲイリー・ニューマン 「ジムノペディ」(サティのカバー)

■Tubeway Army 「Me!I Disconnect From You」1979■


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2016年4月8日 金曜日 生誕祭

2016-04-09 00:58:05 | 音楽帳

今週の仕事をいったん切り捨て終え、耳鳴り・頭痛ありながら帰路を辿る。
少しでも空いた時間があればカラダで動きまくって何とかしようとするが、脳がどうしてもそれを追い越してしまう。
かなり働いて疲れ果てた一週間。それでもなにか心地良い徒労感がある夜。

今夜は、かつて相棒だったまみちゃんのハタチの誕生日。
お祝いということで、景気よく勢いづけ。。。というわけじゃないが色んな曲を収めていたUSBを差し込んだら、ファンクを中心に流暢な音楽が流れ出て心地良い。

・EP-4 「ココナッツ」
・エディプス(EDPS/ツネマツ・マサトシ)「デス・コンポジション」・・・etc

そんなうちに23時が近付き、チューニングをくるくる回す。
渋谷陽一さんの「ワールドロックナウ」を聴いて、洗濯機をガラガラ回す。

***

なんとチープ・トリックの新譜が出たという。
今持ち歩くmp3プレイヤーには「ヴォイシズ」「ザ・フレーム」が入っている。

インターFMでは今夜、血走った眼でパチパチキーボード叩く中、武道館ライヴから「I Want You to Want Me」が掛かった。デイヴさんの放送。つい「おおっ」となってしまう。

チープ・トリックに初めて出会ったのは、1979年作品「ドリームポリス」。
「ヴォイシズ」はその中のメロウなバラード。ビートルズの影を強く感じる美しい1曲。

■Cheap Trick 「Voices」1979■

渋谷さんの今日の放送。
インターFMで数曲聴いて「良いなあ」と思っていたアンダーワールドの新譜まで掛かる。

なかなか90年代以降の音楽について語ることも無かったが、アンダーワールドに出会ったのは1997年金曜深夜、FMのラジオCMから流れた「Born Slippy」が出会いだった。
毎週カセット録音をしながら聴いていた「電気グルーヴのドリルキングアワー」にて。

それを聴く家の別室では、まだ幼かったまみちゃんが眠りこけている夜。

今夜、渋谷さんが紹介した「Barbara Barbara, we face a shining future」というタイトルのゆえんを知る。昨年出たケミカルブラザーズやジョー・ジャクソンなどなど・・・欲しい新譜がたくさんある今。


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2016年4月7日 木曜日 春から夏への流れ 1986年 レッド・ギターズ

2016-04-08 00:02:56 | 音楽帳

おすすめミュージック「その1」といった具合だろうか。。。
■Red Guitars 「National Avenue (Sunday Afternoon)」1986■

暗中模索の夜。素浪人時代。
1986年夜、ピーター・バラカンさんと鈴木さえ子さんがNHK-FMで「全英ポップス情報」という番組を持っていた。そこでエアチェックした曲。

LPレコードのライナーノーツは1986年8月に書かれているが、ラジオではこのシングルがカットされた、もっと前の季節だった記憶がある。
この曲を収めたカセットテープには、1986年出会えた数少ないが貴重な曲ばかり。
そこにある救い。ニューウェイヴ最後のまたたき。

この曲を聴くと当時の夕方を想い出す。
樋口一葉が住んでいた菊坂あたり。そこに今でもひっそりとある図書館。御茶ノ水の予備校に行きながら、行っても何もわからない。さらにはほかに行くアテもなく、ひたすら歩く。
神田川沿いを伝って、水道橋で折れて春日通りを上に上がっていく。そんな日々。

図書館での逢魔が時、庭となった小さい公園で休憩がてらタバコを吹かす。
砂場と遊具が気持ち程度ある箱庭には、段ボールをリヤカー一杯積んだホームレスの人が休んでいる。お互い2~3mの距離で佇んでいる。

その人が持つミニラジオからナイターが流れる。
ときおり、ワーッという歓声が上がり、さっき通ってきた後楽園球場でのナイターを伝えてくる。
近くの球場からこだまのように聞こえてくる歓声の余波と、ラジオの音がずれながら入り混じる。

***

レッド・ギターズの他の曲はあまり聴かないが、この曲は春からの流れの頃に聴いてほしい1曲。
別に日曜の午後じゃなくっても、万人におすすめしたい。




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2016年4月6日 水曜日 東京尾行

2016-04-07 00:30:23 | 音楽帳

モノを溜めこまないこと、は最近のクチぐせだったはずだが、
延々たるカメラとの歩き旅のさなか、ギャラリーなどにふらりと立ち寄っては、そこにあるチラシやポストカードを持って帰ってしまう。

こういったきれいなものは手に入れた場所と空間で見た行為瞬間が一番美しいことが多い。
家に戻っては積んでしまい、紙の堆積物は絶望的に積み上がる。

最初<モノを溜めこまないこと>と言ったが、実はそんな断捨離だの呼称される類のことより、こころは最近さらに進んでおり、<ものがあろうがなかろうが>全部最後は消えてしまうのだから、そこに<在っても無くても>変わりがないんじゃないか?

そんなことを思う。
達観できたわけじゃなくて、脳が肥大しているから、<思う>はころころ変わってしまうのだが。

***

この数ヶ月A4以上のサイズチラシと出会っても持ち帰らない。
その場で見て終わらせる、比較的。
でも、ポストカードは持って帰る。

なんでこんな話をするんだろうか?
それは、藤城清治さんの絵が大好きで、キレイなチラシを集めてしまう、そんな女性とお酒を呑む機会を得たからである。
いままで仕事の近くに居たのに、。。。3月送別会で初めてそんな仕事じゃない話しをした。
もともと肝臓を理由にそういった酒の場に行かない生活が5~6年続いていた。

昔と違って、酒の場では仕事の話はしないようにしている。つまらないから。
可能な限りいろんなおもろい話しをふりまく自分は、後輩くんに言わせると、あんたは<人嫌い>なんて言ってるけど実は案外社交的で、実は人が好きなんですよ。
徹頭徹尾人嫌いなのに、自分を慕ってくれる友人の後輩。彼にそう言われる。

彼女「チラシは透明ファイルに入れていくんですけど、溜まる一方で。。。」
私「それを見返すことはあるんですか?」
彼女「それが、なかなか無いんですよ(笑)」
私「やっぱり(笑)」

お互い絵が好きだという話から、お互い絵の専門学校に行こうと思っていたが父親から「そんなもんでメシが喰えるとでも思ってんのか」と一喝されたことまで同じ経験を話す。
4月から別の仕事場になった彼女に、酒の場で「キレイなポストカードを集めて上げますよ」、そう言った。今週もすれ違ったら催促された。忘れてはいないんだな、と思った。

人の出会いや「話す」ということは良いコトだな、なんてことを今になって思う。
ちなみに、ここには下心というものは余り無い。そもそも彼女は結婚をしている。

昨日今日、上写真にあるチラシを電車などでしげしげ眺めていた。
ずっとこれを写真と思っていた。しかし、そのチラシの「カラー写真」は、ビデオ撮影した途中カット画像に対して、ソフトで線を描いていったデジタルペインティング。

線を描く=トレースする作業を通じ・・・『トレースとは尾行である』と言う作家・佐藤雅晴さんの「東京尾行」展。
この展示では、”オリンピックに向けて変わりゆく東京を描く”がテーマ。そうチラシに書かれている。

佐藤さんが、私のような五輪反対を未だ周囲に言い続ける人なのか?あるいはただ単にアートの対象としてのことなのか?それは分からないが、展示が終わる5月8日までには見に行きたいと思っている。

***

このチラシを眺めているうちに、急に浮かんだ教授の「美貌の青空」が聴きたくなり、昨日今日と聴いていた。
とにかく素晴らしい。と当たり前の表現をしてしまう。
イントロの始まり方のカッコよさ、民族音楽への傾倒を通じて血肉化した教授の感性と耳が、様々な音楽要素を一曲の中にギュッと凝縮させている。
ドラムは<いわゆるロック>のドラムではない。あるいはテクノでもない。
きらびやかなデジタル音と打楽器等の響きが構成する音空間。それは整理されたジャングル的とでも言おうか?1つ1つの音が絡み合いながら均衡を保った美しいジャングル。
脳が先行しがちの教授にしては、まったく自然な流れ。

当時、テレビでだったか?鈴木慶一さんが「1995年という年に”美貌の青空”が<今>として強く刻まれた」と感動を伝えていたが、まったく同じ想いをする。

1995年初めてこの曲を聴いたのは、
大阪は梅田、阪神百貨店にあったブリーズという音楽ショップだった。
新譜が設置された視聴機で数枚聴けたお店。
ガラスばり窓から見えるは梅田駅前の交差点、クルマ、雑踏、ビルディング、空。。。密閉型ヘッドフォンからの音響がすごく良かったのもあるが、それらの風景の中聴いた「美貌の青空」には、<感動>という安い言葉で言い切れない深い唸りが、あの場と瞬間に在った。

ルー・リード「ベルリン」に影響を受け、B-2UNITの「ザットネス・ゼアネス」でむき出しの肉声をさらした坂本龍一の<うた>。よく彼のヴォーカルを「へた」と括ってしまうことは多いが、私はとても好きである。

彼の創り出すメロディーも曲もだが、デジタルであってもざらざらした<手ざわり感>。
「美貌の青空」の歌詞は売野雅勇によるもの。しかし、この曲においてもこもりがちな声はくぐもり、歌詞はむしろ聴き取れないくらい。それでも彼のヴォーカルは「いいなあ」と思う。一つの楽器になっている。

1982年ブライアン・イーノのインタビュー番組で、女性のアート評論家の人が言っていた言葉を想い出す。
70年代アンディ・ウォーホールが執拗に「ロー&クルーズ」と言っていたが、感動を生身のまま出したい、という創作スタンス。イーノの作品にも通じて感じること。
<そのこと>をこの評論家の人は「かわき(乾き)」という言葉で表現していた。

この言葉を借りるなら、教授の作品にもそんな「かわき(乾き)」があって、彼のヴォーカルにもそういった表現の源があるように思う。

今夜、一般の方がカバーした「美貌の青空」に出会った。
かなり原曲に忠実なカバー。砂原良徳さんがYMOをカバーしたものにも言えるが、原曲への敬意と愛が大きいほど、その曲にある要素を大事にする。このaniwarataさんという方のカバーにそんなことを感じる。

■坂本龍一 「美貌の青空」cover■






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2016年4月4日 月曜日・深夜 春ぼらけ

2016-04-05 03:05:33 | 写真日和

この休みに出会ったネコさん。
まるでお地蔵さんのような安らかな顔。屋根の上でまどろんでいた。

気付かれないように。。。とそろり、そろりシャッターを押しながら、距離を縮めていったんだけど、
このまんまの姿勢でまったく微動だにしなかった。


■Brian Eno 「Julie With...」1977■

ビフォア&アフター・サイエンスに入った静かな一曲。
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2016年4月3日 日曜日 深夜ラジオ

2016-04-04 00:37:03 | 音楽帳
23時過ぎての帰宅。
ラジオを点け、着替え、湯を沸かす。遠くで鳴るラジオ。

出る前合わせていたTBSから馬鹿騒ぎが聞こえてきて、ラジオの場所に行って適当にひねり、元居た場所に戻る。
かすかに聞こえるラジオから素敵な曲が続いて聴こえ、?となる。ラジオ日本かな?

4月はラジオ番組改変期で、残念なことが多い。
最近よく聴いていたラジオ日本のジャズ番組かな?と思っていた。女性一人が語っていて違う番組らしい。
それにしては、きわめてクールな声。

。。。ラジオの場所に近付いて「あっ」となる。すべて合点が行く、大貫妙子さんの声だった。
初めて聞いたであろうニッポン放送の番組。大貫さんがDJなのは今日だけらしい。

数曲が過ぎてしまった後、座ってお茶を飲み、聴き出す。
なんと、ジョニ・ミッチェルの「ナイト・ライド・ホーム」から『パッション・プレイ』。
そして、ジョニとかつて付き合っていたジャコ・パストリアスがいるウェザー・リポートへ。。。

何年たっても古びない音楽、というテーマとのこと。
3・11で変わった大貫さんの人生観を語り、教授との作品がこの後掛かった。

じぶんの方に振り返れば、たくさん「古くならない音楽」はある。
一個人として。。。という意識はない。誰が聴いても永遠の音楽、と勝手に思っている。

そんな中、この番組や大貫さんとのまじわりで1曲選ぶなら、今夜はこれかな。

■Joni Mitchell (With Willie Nelson) 「Cool Water」1988■

水ぬるむ。そんな季節の空気が伝わってくる名曲。

「また、この曲ですか」といくら言われても大事な1曲。基本ジョニ・ミッチェルはどの作品であっても素晴らしい。天性の才能を持ったアーチストの音楽。
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2016年4月2日 土曜日 音楽備忘録 ブライアン・イーノ

2016-04-03 00:15:49 | 音楽帳

気の滅入りとあちこちの痛みから疲れ果ててしまい、イーノの「Lux」を聴く。
座してイーノについて書かれた本をひっぱり出してはめくり読む。

1982年買った、イーノの1975年LP「アナザー・グリーン・ワールド」。
阿木譲さんが書いたライナーノーツ。阿木さんはこの作品が生まれる前と後に、音の変化と共にポートレイトに映るイーノの姿の変化を発見する。

恋人で写真家だったリトゥバ・サァリッコが撮った裏ジャケットの写真。
手に取った本かノートをめくるイーノの姿。今でも大好きなポートレイトである。

1975年1月18日。
フィル・マンザネラのアルバム「ダイアモンド・ヘッド」録音スタジオからの帰り道、イーノは車にはねられる事件に遭う。そして入院へ。

「生死を彷徨うその事件は、結果として彼の音楽・思想・生き方まで変化を与えてしまった。」(阿木譲)

その病床へ、ガールフレンドのジュディ・ナイロンが18世紀のハープ曲を収めたレコードを持ってくる。彼女が帰ったあと、やっとの思いでレコードを掛けて、再びベッドに横たわるが、ボリュームが小さすぎて聴こえるか聴こえないかのレベルだった。
身動きすらままならない。しょうがない、と諦め、身を横たえていた。

小さい音と、雨の音、光。
それらが病床の彼に伝えてくるもの。

アンビエント(環境)を発見したもう1つの事件。

イーノの信者には、細野さん・教授・土屋昌巳さん・大竹伸朗さん・・・等々キリがなく居るが、大竹さんはアンビエント以降より前のイーノが好きだと言っていた。
決して嫌いではないが、ぼく自分はやはりアンビエント以降の70年代後半から80年代へのイーノが好き。

派手な衣装に身をまとい、後にパンクと呼ばれる人たちのあこがれ・発火点となったインパクト。それよりスーパーインテリの彼が、いのちの危機を経て、向かっていく音の姿・現れへの流れに影響を受けた。

ロキシーミュージックがデビューアルバムを発表した1972年6月。(当時、イ―ノ24歳。)
早々の8月にロバート・フリップと知り合い仲良くなり、9月にはイーノの自宅で「ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション」(ノー・プッシーフッティングに入った曲)を2人で録音している。

この後、ロキシーはアメリカからイギリスへツアーを重ね、1973年3月には2枚目「フォー・ユア・プレジャー」を発表するが、その7月にイーノは脱退を宣言する。

イーノはフリップとの作品創りや他のミュージシャンの作品参加する一方で、自らのソロに9月着手。。。絶えず精力的に音楽を産み出した彼。
本当かどうかわからない逸話では、彼は精力絶倫であったという。
そもそもハンサムないでたちで、まれなる頭脳とエネルギーを持った人だから、たぶんウソじゃないのだろう。この辺は教授にも共通する。

交通事故で頭に17針の傷を負った彼が、示唆となる体験をした1975年。
1月に事故に遭ったあと、5月9日に「ディスクリート・ミュージック」がイーノ独自開発のテープディレイにより録音される。

そして7~8月に「アナザー・グリーン・ワールド」録音、11月に発表される。
また同時にすすんでいた2枚目のフリップ&イーノ作品「イブニング・スター」が1976年1月2日に発表。

なんという時間密度なんだろうと驚く。
しげしげとイーノの写真を視て、音に身をゆだねる。

2012年作品「Lux」。4つのパートに分かれてはいるが、そこに在り続ける1つの光。
単位として使われる”ルクス”、ラテン語で「光」を意味するという。
イーノの信者だから、というわけではなく、精神をある状態にもって行ってくれる素晴らしい作品である。
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