こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年5月19日 土曜日 松本伊代 「月下美人」'85

2012-05-19 08:32:01 | 音楽帳
細野晴臣さんの作曲講座が開かれたのが、1984年のお正月。
NHK-FMでの一週間の放送。
聴きながらエア・チェック。
細野さんのそれまでの音楽の旅を紹介しつつ、不思議女史だった遠藤京子を相手に進んだ。

その過程で、遠藤京子が歌詞を作り、それに細野さんが曲を合わせていく。
そして、最終回に出来上がった曲を披露する流れだった。

「おーミステイク、わかっているよミステイク↑(語尾上がる)」
そのサビのセリフが「とても良い」と細野さんは評価し、一人ピアノでもくもく作曲をする。
それを盗み撮りしていたら、途中で仕事から逸脱して、細野さんならではの「カランカラン」いうエキゾチックなピアノを弾き・遊び出す。
そのシーンに、細野さんの可愛さを感じた。

***

YMOが1981年末のウインターライヴで、実質解散した後、1982年以降、3人はそれぞれソロ活動に入り、「歌謡曲」にアプローチしていく。
細野さんは、松田聖子や中森明菜の曲を、はっぴいえんどの詩人・松本隆とのコンビで作っていった。
それらがチャートに食い込む中、オーディエンスへの本当のYMO解散(封印)に向けて、1982年後半から1983年末までの「サーヴィス」プランが練られる。

そこで1983年、本来は最後のアルバムとなるはずだった「浮気なぼくら」が発表される。
「YMOが歌謡曲をやったらどうなるか?」「かわいいおじさん」といったモチーフの元で作られたアルバム。
一見して「君に胸キュン」のイメージが先行しているが、中身はやっぱりYMO。
歌謡曲とは一線を画す名盤。

***

1983年の暮れのNHKテレビでの「散会ライヴ」を、胃潰瘍入院から無理矢理退院後、こたつに入って見る中。
ブリッジとして3人を紹介する場面。
細野さんのパートには「細野晴臣さんの作曲講座」の収録風景が一部出てきた。

1984年のこのラジオ放送を経て、テレビで伊代ちゃんが「月下美人」という曲を歌っていた。
「んんん?これは・・・どこかで聴いたメロディ?」
記憶をたどる。


そうだ。
この曲は、「細野晴臣さんの作曲講座」で作った曲。
ところが、この「月下美人」では歌詞が、遠藤京子から松本隆に変わっていた。
1985年発表の曲。


自分は、唐突に伊代ちゃんのデビューCM('81)に「ガーン」となった世代。
「伊代はまだ、16(才)だ~から~」という、センチメンタル・ジャーニー。
誰だ?このセーラー服の可愛い子は?と思ったシーン。
「お前、あのコマーシャル見たかよ?」
翌日、学校で、このCMをめぐって、ああだのこうだの童貞男同士は話した。

■ロッテ「ガーナチョコ」CM '81


自分は'82年4月、巣鴨高校という極右軍隊的男子校に入る。
巣鴨の出身者である寅さん(渥美清)が居た時代には、東京では有名な不良学校だった。
それを、文武両道の学校に立て直したのは、2代目・堀内政三ちゃん。
朝礼では、授業が始まる時間を越えても、ヒットラーのごとく、壇上からプロパガンダを放ち続ける。
その長さに耐え兼ねて、ばたばた倒れる者が居ようと、ひたすら話を続けた。
今思えば、歳の割にはパワフルな園長だった。

その童貞男だらけのむさ苦しい世界には、いろんなアイドル・ファンが居たが、伊代ちゃんのファンも多かった。
そういう自分は、伊代ちゃんも好きだったが、中森明菜さんや柏原芳恵さんが好きだった。
もっと言えば、たくさん出てくるが、とりあえず(苦笑)。


***

毎週土曜日、親の目を盗んでは、夜な夜な「一人宴会」。
酒とタバコをやりながら「オールナイトフジ」を見出したのも、高校に入ってからのこと。

伊代ちゃんが「オールナイトフジ」の司会になった頃は、実に楽しかった。
今でも覚えているのが、伊代ちゃんが自分の自伝かエッセイ集?だかを出版した際に、番組内でのPR。

伊代ちゃん「・・・ええっと、今度、わたしのこういう本が出ます。
まだ、わたしは、よく読んでいないんですが・・・・」
鶴ちゃん(=片岡鶴太郎さん)「(驚きと半笑いで)バカ野郎!
自分の出した本、自分で読んでねえって、どういうことだよ!」

ゴーストライターが書きました、ということがバレバレに。
伊代ちゃんは、天然、というものを通り過ぎて、かなりお間抜けな人だったが、楽しませてもらった。

■松本伊代 「月下美人」
コメント
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