こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

夏のフェイバリッツ⑱ Felt 「ニューイングランドの説教師」

2010-08-29 15:56:59 | 音楽帳


フェルトは、1981年にチェリー・レッド・レーベルから出したアルバムが最初らしいが、僕が初めて知ったのは、日本向けの編集盤「毛氈(もうせん)」という1984年1月に日本で発売されて、「クロスオーバー・イレブン」で、この曲を聴いたのが初めてだった。

1983年12月末YMOが散会し、ミュージックシーンというか、ニューウェイブシーンは、静かな方向に向かって歩み出していた。



ジャケットは非情に猥雑なデザインになっているが、中身の8曲中4曲はインストルメンタルで、2人の穏やかなギターの掛け合い、かと思えばヴォーカル入りの方はといえば、少しキュアーやエコー&ザ・バニーメンを思わせるようなぎくしゃくとした感じを特徴とした曲が多いが、全体としては、8曲聴いても、バンドの全体像は掴めないといった具合だった。



「僕は、と言えば」当然、インストルメンタルの曲ばかり聴いていた。

その中でも、この2人のギターの掛け合いの、穏やかな日の差す、夏のエアコンの効いた部屋で、ゆったりと流れていく入道雲を見ながら、土曜日の午後、じっとイスに座って聴き入る時間を、とても大切にしていた。

ドゥルティ・コラムと一緒にカセットを作ると相乗効果があって、美しい永遠の静かな午後が(もう戻らない)時として、カラダに染み込んで来た。。。

うつむく暗い青年にとっては、いつまでも、こんなぬくもりのあるおだやかな音が永遠に続けば良いと思った。
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夏のフェイバリッツ⑰ Duran Duran 「Save a Prayer」'82

2010-08-28 11:41:14 | 音楽帳
お盆明けから、陽が短くなると共にかなり「キチガイ的な暑さ」も弱まって来たな、と思っていたが、それでもかなりカラダにはキツい暑さが続く。

身の回りにも、暑さで体調崩したり、やせたり、疲れが溜まっているヒトを見掛けるようになってきた。

かくいう私もその1人。
しかも、重症のちんば状況ナリ。

***

まだまだ、うれしくない程のキチガイ夏が続くなら『夏のフェイバリッツ』も終える訳には行かない。

1982年=高校1年生の夏は、デュランデュランの2枚目の成長目覚ましいアルバム「リオ」をよく聴いた。



初めて聴いたのは、やはり「クロスオーバーイレブン」で、番組最後の2曲に「セイブ・ア・プレイヤー ~ ザ・ショーファー」が掛かり、カセットテープにエアチェックした。

【埋め込み禁止になっているので、再度クリックしていただいてもらうと、YOUTUBEに行きますので、そこでこの曲は聴けます。】

それを1982年夏のテープとしてインデックス・カードにこれらの曲を丹念に記入して仕上げ、そのカセットテープの仕上がりに悦に入って、何度も何度も聴いた・・・・。

その後、LPレコード「リオ」を買い、全曲が【当時にしては】新しいカタチの新鮮なシンセサウンドでありながら・すんごくポップで・すんごくロマンティックで・すんごくメロディアスなサウンドで、聴きながらうれしくなった覚えがある。

***

ジャケットは、ちなみに当時、流行だったパトリック・ナーゲルというヒトの作品。
このヒトは、後に、エイズで亡くなるが、このヒト独自のスタイリッシュなデザインもカッコよかった。

幸宏にロンドンで会った際に、新作アルバム『リオ』を、「今まで作り貯めていた曲を全部捨て去って、全曲新たにレコーディングしたんだぜ!」とメンバーが幸宏の前で自慢していた気持ちと自信がわかる、ポジティヴで、言わばその後のエレクトロニクス・ポップの1つの形を提示した「新しいシンセポップ」を打ち出したアルバムだった。

デュランデュランのメンバーは、みんなサディスティック・ミカ・バンドがロンドン公演を行っていた当時からの幸宏のファンだったので、幸宏とは交流があったし、自分のアニキと思っても居たので、それゆえに、自分たちの力作を認めて欲しかったのだろうと思う。

***

この後、多くのNEWWAVEのミュージシャンが、美しい打ち上げ花火として、革命的な音楽を創りながらも、散っていく。
それらは、全て花火ではなく、1つ1つまたたく星になって、確実に「時代にクギを刺し」ながら散って行ったように、後世に残る偉大な仕事をした人々だったが、では、それらと生き延びたデュランデュランはどこが違ったのか?
と言えば、ポップでメロディアスに重点が置かれていた点であった。

それを指して、デュランデュランはキタナイというヒトも居た。
要は「売れ線」【=死語】jじゃないかという批判であったが、そういうヒトには、言いたい。
「じゃあ、売れ線の音楽を創り続けるチカラは、誰にでもあるんですか?」と。

決して、デュランデュランは、=小室哲也ではない。
決して、デュランデュランは、=パヒュームのバックチームではない。
決して、デュランデュランは、=電通ではない。

全ては、彼ら自身と周囲のエンジニアたちのバックアップチームが創りだした、彼ら独自のものであったし、私はそういう批判には賛同しかねる。

***

デュランデュランは、メンバーも変わり、音楽的内容も変わって行ったが、未だにヴォーカルのサイモン・ル・ボンを中心にデュランデュランとして音楽活動を続けている。

但し、ポップでメロディアスに重点が置かれていた事で、時代を超えて行ったNEWWAVEミュージシャンとしては、デペッシュ・モードという重鎮が居るが、彼らのが「孤」として閉ざされた世界に居ながら音楽世界の頂点に立ってしまった重き時代の超え方とは、確かにデュランデュランの有り方というのは全く異なる。

***

1982年のLP「リオ」。
私もデュランデュランも、そこが一番幸せだったのかもしれない。

しかし、自分が幸福の渦中に居る事など、所詮は、後になってからで無いとわからないものなのだ。

「リオ」におけるデュランデュランは、彼らの歴史の中で、一番突き抜けて輝いていた段階だったのかもしれない。
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Joy Division 「The Eternal」'80

2010-08-26 22:54:52 | 音楽帳


私の好きな写真家アントン・コービンの撮影した、ジョイ・ディビジョンの大好きなモノクロのポートレイト。

***

世間が120歳の老人だの、130・・・140・・・果ては186歳だの、空虚な実態無き「数」だけの生が、ネット上のデジタル信号として行き交う・・・

コンビニに入れば、脳の中身が無い事が明らかに「カラカラ」と聞こえる、我々世代へのテクノを馬鹿に[風刺]したパフュームの挑発的な虚無な音が流れている・・・・

***

まだ、ジョイ・ディビジョンの実態に触れていない高校の頃、クロスオーバーイレブンで深夜、初めて聴いた『ディケイズ』。

滅び行く事を、絶望を、死を、前提としていると、はっきりとわかる、その重いしらべは、イアン・カーティスのくぐもった独特の歌い方と共に、自分の記憶の底にはある。

***

あまりに嫌な事を、たとえ仕事であろうともしたくない自分だが、あまりにも「みにくい」・「がさつでガツガツして」・「感情のみで生きている」・『おつぼね様』筆頭の女営業ウーマンだけを集めた「寄り合い」のような『研修』資料を作る「無駄さ」加減にアホらしくなり、午後沈黙に至った。

さらに、馬鹿げた事には、日頃のうっぷんを晴らす為なのか?
女にそんなに気をつかうべきなのか?
それともおもねりたいのか?
疑問???????????????
で仕方が無い「呑み会」までセットされ(自分は当然出ろと言われても出ないが)馬鹿らしいので、仕事黙って勝手に上がって、21:50帰宅した。

***



帰り道、先日ぶらり寄った本屋で買った「戦争論争戦」(小林よしのり・田原総一郎対談)が面白く、時を忘れて読んでいたら、あっという間に家に着いた。



沈黙したい今夜は、「ディケイズ」より更にスピードを落とした「ジ・イターナル」を聴きながら、闇の中に消えていきたい。

***

PS:クソオンナには、男のジョイ・ディビジョンの世界など想像も及ばない世界だろうな。
「暗いわね」という浅い・希薄な・軽い一言の発言しか、浅い人生の持ち主には、持てないだろうし。

「家計のために仕事にしがみついていると、周囲に悪性のガスが充満して、被害者が増える一方なので、早く仕事場を立ち去って頂きたいんですが?」
そう言いたい。
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夏のフェイバリッツ⑯Blue Rondo A La Turk「ミー&ミスター・サンチェス」'82

2010-08-25 15:51:53 | 音楽帳
1980年に、日本全土が「感染」した「YMOショック」とテクノ・ブームは、プラスチックス、一風堂、ヒカシュー、P-MODEL等々と共に時代の寵児として取り扱われる。

1981年に入り、YMOに影響を受けたロンドンの若いミュージシャンがマガジンやウルトラヴォっクスという影の仕掛け人を伴い「ニュー・ロマンティクス」というムーヴメントを創り出す。

・・・そして、1982年だが、元々、白人に拠るファンクを目指していたア・サーテン・レイシオなどは居たものの、そのホワイト・ファンクをもっとポップな形で表現したり、そこにラテンやハイチなど南洋の音楽を絡めていくといった「ファンカラティーナ」というムーヴメントが出てくる。

***

ABC、ヘアカット100、カルチャークラブ、モダンロマンス、ファンカポリタンなどのバンドが出現してきた。
この頃、こういうムーヴメントに影響を受けたり、融合・接近をしていく周囲の流れもあった。
スパンダー・バレエも、1982年は、おファンクしていましたなあ。

南洋のコンパス・ポイント・スタジオを拠点とするアイランド・レコードがたくさん、この明るいムーヴメントと相乗効果を発揮しながら、グレイス・ジョーンズ、マリアンヌ・フェイスフル、パラゴンズ、ブラック・ウフル、バリー・レイノルズ、B-52’S等々にぎやかにそれぞれのアルバムを出していた。

この年の春・夏は、まさに「貿易風」を感じながら、ポップなファンク、ラテン、レゲエ、ハイチ、そして、ファンカラティーナを聞きながら、独り部屋でノリノリになりながら、海の彼方にあるトロピカルな色の空と海の世界を想像しながら、うっとり音楽を聴いていた。

この頃発売されたブロンディの「夢見るナンバーワン」も、明らかにこういう音楽の流れに乗った心地よさを求めた名曲だった。
この頃のデボラ・ハリーはジャケットで、ダチョウのカラダのようなふわふわで方々に長く伸ばした髪をしていた。(要は、ドリフターズで爆発後にカトちゃんや志村けんが口から煙吐いた時のような髪の毛)

また、夏に発売された一風堂の「ナイト・ミラージュ」も、ファンカラティーナしていました。

***

そう思えば、なんて1982年という年は、ポップ、かつ、様々なバンドが出てきた豊作の年だったのだろうか!
今更ながら驚く。

今上げなかったバンドとしてよく聴いたものとしては、ソフト・セル、チャイナ・クライシス、アソシエイツ、ヤズー、デペッシュ・モード、ローリー・アンダーソン・・・・いくらでも出てくるだろうが、今浮かぶのだけでもこれだけあるのだから、1982年のニューウェイヴが如何に華多き年だったかわかる。
そういえば、JAPANが解散したのも1982年でしたね。
あと、こないだも言った「YENレーベル」の発足も1982年だし、驚異的に目まぐるしいメリーゴーランドのような年だったんですねえ。
(もう、あんな夢のような日々は来ない)

***

その多くは、今CDとして、再び聞く事が出来る時代となったが、実は、そんな中でもCD化を阻まれたバンドというのは色々ある。

モダンロマンスはCD化されているのに、ファンカポリタンやブルー・ロンド・ア・ラ・タークなどは全く名前すら消えてしまった。

特に、ブルー・ロンド・ア・ラ・タークは人気者で、僕もカセットにエア・チェックして「アイ・スパイ」やこの「ミー&ミスター・サンチェス」を踊りながら聴いていたものだが、CD化をされる様子が全くない。



ブルー・ロンド・ア・ラ・タークは、その後、分裂等を起こし、ブルー・ロンドというバンド名に変わったり・・・結局は消えていく。

自分はどうしても聴きたかったので、レコード盤を必死に探したが、未だ、シングル盤しか手に入っていない。
確かにモダン・ロマンスに比べると地味であったかもしれないが、音楽そのものは、モダン・ロマンスより面白かった。
早期CD化を望む。
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映画 「グーグーだって猫である」 '09

2010-08-24 23:32:40 | 雑記帳

【映画「グーグーだって猫である」予告編】

本当に切ない映画である。

それは、13年半付き合った「まみちゃん」との別れ・絶望を感じた僕自身と透かしながら見ているからかもしれない。。。。。

しかし、この映画における漫画家 大島弓子演じる小泉今日子のステキな佇まい・愛するものを失った悲しみを引きずりながらも、それでも生きていかなければならない現実の中で、彼女が時折見せる「遠い目」「遠くを見ている表情」の本当に永遠を感じさせるようないとおしい美しさが、この映画全体にふくらみを持たせていて、胸が打たれる。

子宮ガンを宣告され、子宮も卵巣もリンパも切除されながら、「グーグーが、長生きしますように・・・」と空に指を伸ばしながら語る「祈り」の切なさ。。。。

自分がネコ好きなのもあるが、それを通り越して見える「生きる」という事の困難さをゆったりと語りかけてくれる素晴らしい映画です。

是非、みんなにも見て欲しい映画です。
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夏のフェイバリッツ⑮  Camel  「Selva」’82

2010-08-23 21:12:01 | クロスオーバーイレブン
この夏の猛暑の人間の心身への爪あとはとてつもないものである。

日本の人は比較的勤勉であるから、おおごとにはなっていないが、まっとうにこの暑さの中仕事をしている事自体が不思議なくらいのものである。

7月~かなり活発に、この暑さの中でも、外に出て行動してきた自分も、結局はそのツケが回ってきた。

多くのお年寄りなどが熱中症で亡くなったのは、とても悲しい・可哀想な事実だが、この熱帯化してしまった日本の夏に、自分も参ってしまった。

土・日と調子悪くて寝込んでいたが、今朝も調子が変わらず、仕方なく仕事を休むハメになった。

休んだところで、何をするわけでもなく、ござの上に横になって、時折、水を飲んで、また横になるを繰り返すだけ。
実に虚しい3日間だった。

***

多くの幻覚じみた夢を見たが、どれもが仕事上、こういう「自己管理」が出来ない・勤怠に不安定さを持つ自分を全く信用してくれず、ひたすら、周囲に置いてけぼりという「いじめ」を受けながら、『大したモノでもないもの・ヒトを絶賛する馬鹿会社の有様』を見て、「つまんねえことにスポット当てんなよ」というが、みんな聞き入れてくれない悔しい思いをする。

「バカヤロー」という気分になる。

***

夜、8時過ぎ、身を起こして、また水を飲み、梅干を1コクチに入れ、パット・メセニーの『シークレット・ストーリー』をかける。



カラダの火照り止めのために貼った冷却シートだが、皮膚の弱い自分だから「大丈夫かな?」と思っていたが、やはり駄目で、かぶれが逆に起きてしまって、両肩からノドに向かう血管が集中する部分が赤く腫れ上がってしまった。

ロクな事は起きない。

***

悲惨な夏であるが、日の短くなるに連れて、このお盆休み後から、暑さにもかげりが見え始めた感じがしていて、出来れば、このままおだやかに暑さも終息していって欲しいと、心から願うばかりだ。

そんな悲惨な夏の夜の鎮魂歌であるが、クロスオーバー・イレブンでよくかかったキャメルの「セルヴァ」という曲を、今日は贈りたい。



キャメルの「シングル・ファクター」という1982年に出たアルバムの中の1曲である。
プログレの苦手な方にも受け入れやすい1枚では無いかと思います。



この「セルヴァ」は、実によく、クロスオーバー・イレブンでかかった曲で、様々な選曲のブリッジとして繋ぐには良い曲だったのだろう。
自分の持っている当時のエアチェックしたテープの何本ものカセットに、この「セルヴァ」が流れの中に入っている。

夏の夜、暑さで痛んだ心身を、この曲を聴いて、せめて少しでも癒してもらえればと思います。
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Icehouse 「No Promises」'85.11.01

2010-08-21 06:26:50 | 音楽帳


アイスハウスは、1981年のデビュー以来、NEWWAVEの一翼として、ちゃんと聞き、追いかけてきた。

ABC、トーク・トーク・・・等々と同じく、ブライアン・フェリーの耽美的世界への憧れがモロにヴォーカルとサウンドに出たバンドであるが、というか全てアイスハウス=アイヴァ・デイヴィスとも言えるが、彼らの不思議さ・面白さは、オーストラリアのバンドだという事だった。
サウンドは、ロンドン的でありながらも、文化的に異なった背景を持っている。

1984年の幸宏のアルバムにも参加し、ライヴにもギターとして参加した。
その後、アルバム「EGO(イーゴ)」にて「ダンス・オブ・ライフ」という名曲を2人で創っている。

アイヴァ・デイヴィス自身は、幸宏と一緒にその後も交流を続け、一緒にアルバムを創りたいとラヴ・コールを受けながらも、幸宏側の多忙さゆえに、あきらめてしまったのか、、、2人の競作アルバムは実現しなかった。

メロディアスで、なおかつ、かげりもあり、切ない感じを持ってもいる、アイヴァ・デイヴィスの音楽は、僕は未だに好きで在るが、この「No Promises」という良い曲、どういうわけか、同時期に発売されていたか?と思うデヴィッド・ボウイ&パット・メセニーの「THIS IS NOT AMERICA」と旋律がヒジョーに似通っている。

まあ、ともに名曲だから良いのだが。
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写真日和 「伊吹唯さん」

2010-08-20 04:14:12 | 写真日和
18日 水
猛暑の中、仲間のお酒の誘いを断りきれず、結果的に、室長のマンションに泊まり、深夜3時まで飲んでしまった。

自分は、お酒を呑むとつまみを一切食べないクセがあるので、ぐるんぐるん体内をお酒が回る。

19日 木
朝は仕事場に行ったものの2日酔い。

気持ちが悪くなり、2時間ほど仮眠室で、昼ごはん抜きで、死ぬように横になっていた。

とはいえ、やらねばならぬ仕事はせねばならず、目の下にクマを作りながら、19時には仕事を終えて素直に帰った。

21時過ぎ、汗だくに横になっていたら寝てしまい、夜中3時に起きて、パソコンをいじっていた。

***



写真は、16日 月 休みの最終日の晩、20:00。
夜というのに上野の街は35℃。

そんな猛暑の中、涼やかな声が聴こえてきて、歩いていったら、駅前で、伊吹唯さんというシンガーソングライターがか細い声で路上ライヴをしていた。

人々が行きかい・暑さの中、1人歌う彼女の歌は、とてもリスキーな街角で、切なく響いた。
しばらく足を止めて聞き入っていると、わざわざ彼女が自分のところに来て、パンフレットを渡し「聞いてくれてありがとうございます。」と挨拶に来た。

こうやって日々、何とか音楽で身を立てようとしている人が居るんだな・・・
と東京砂漠の中での若き夢を持った人の切ない声に、暑さの中、しばし耳を傾けていた。
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夏のフェイバリッツ⑭  細野晴臣 「ホタル(Liminescent)」'82

2010-08-18 18:38:30 | 音楽帳
昨夜は、20:40に仕事を上がって、素直に家に帰った。

帰り道、タバコを買い、スーパーで新鮮食料品と一緒になって冷え~冷え~と涼みながら、消耗し切ったカラダのために、オクラやモズクにお豆腐、それに、卵を挟んで揚げたという珍しい揚げ物などなどを買って22時近くに帰宅した。
しかし、家は「室(ムロ)」のように暑く、空気を入れ替えするために換気扇全開バリバリ・エアコンを付け、丸はだかになるが、汗がどくどくどくどく流れて止まらない。

室内で熱中症で死ぬ方が絶えない昨今だから、自分もとにかくラジオ「ZIG」をかけながら、うちわで扇ぎつつ、ビールを飲み、冷奴を食べ・・・・
やっと汗が落ち着いたのは、2時間後。

ござで出来た枕に横になる。

***

ここまで暑がりなのは、お袋さんそっくりである。

外に行って日焼けすると「稲葉の白うさぎ」になってしまうので、いつも、日焼け止めは欠かせない。
「ワールド・ハピネス2010」もたんまり日焼け止めを塗ったのだが、つまらない日本の三流バンドのときは、草むらに横になって寝ていたが、薬を塗っても日焼けしてしまった。
暑がりと共に、皮膚も弱いのである。

よって、辛いものの苦手で、かつて小川町のカレー屋さん「トプカ」にMZ師・ハブ噛み師匠と昼ご飯を食べに言った際も、自分だけが汗だくで、辛くて食べられなかった。
水を飲み・汗をふきふき食べたのだが、次第に意識が遠のいていく感じがしたので、キケンを察知して、食べきるのをやめたものである。

***

こういう性分というのは、音楽にも言えて、汗をかいて演奏するミュージシャンというのは、馬鹿に見えて、ドラムであればクールでクレバーな幸宏が好きだし、ギターはうるさいだけのヤツ・自分のテクニックに酔っているだけの暑苦しい「ロック」的ギターが、自分は駄目というか受け付けない。
エイドリアン・ブリューやロバート・フリップやアンディ・サマーズやアンディ・パートリッジ、それに影響を受けた高野くんや小山田くんなどのギターなどに、自分が聴けるギターというのも範囲が限定されてしまう。

***

話は逸れたが、昨夜は眠剤をちゃんと飲み、エアコンをかけて、まっぱだかで早く寝たのに、何度も何度も起き、ござの上をゴロゴロ、あっちに行きゴロゴロ・こっちに行きゴロゴロ、身もだえながら、朝まで深く眠れなかった。

何とか起きて、朝の電車には乗り、仕事場には向かったが・・・。

***

今日も暑いが、昨日までの暑さに比べれば、まだマシな方だと思う。

さてさて、音楽のお話だが、細野さんが、実質YMO中期(1981年末まで)でやりたい事をやりきってしまったYMOは、1982年、ソロ活動にいそしむ事になる。

幸宏と細野さんは「YENレーベル」という新しいレーベルを立上げ、2人のソロ以外に立花ハジメ・シーナ・ゲルニカ・・等々のアルバムをLDKスタジオから輩出していく。



「はらいそ」以来のソロ・アルバムとなった『フィルハーモニー』。
ほとんどが、イミュレーター1台で作られたアルバムだった。
それまでのアルバムとは毛色のまったく違う挑戦作だった。
(横尾さんと作った「コチン・ムーン」は近いかもしれないが)

***

このアルバム作りには、かなり細野さん自身、1人で作っていたせいもあると思うが、はまりこんでしまい、来訪者が訪れると、細野さんがスタジオの床に大の字に寝て、もんもんとしていた・・・という話もある。

そんな中、スタジオでおじいちゃんの霊が出たりとか、不思議な事がたくさん起きたアルバムとして、細野さんの記憶に残っているアルバムらしい。

まさにイミュレーターなくしては出来なかった不思議な音が出てくる不思議なアルバムだが、逆に言うと、飽きの来ないアルバムである。

ほとんど全曲好きだし、それぞれの曲に個別個別に思い出が個人的にはある。
「お誕生会」という曲は、JAPANが来日して、土曜の夜中の「スタジオテクノポリス27」(ピーター・バラカン&矢野顕子)に出演した際に、DavidSylvianが「HappyBirthday、Mr.HOSONO」と細野さんの誕生日に送った曲だった記憶とか・・・・。

いろいろと想い出はあるが、「夏」という事で「ホタル(ルミネッセント)」という曲を選んだ。



細野さんの手記によると、当時1981年10月からTVで始まったドラマ「北の国から」の「蛍」ちゃんをイメージしながら曲を作ったらしい。

今年の夏は「ホタル」どころか、熱帯夜の猛暑続きで、ムードもへったくれも無い悲惨な夏だが、せめて、この細野さんの愛らしい曲「ホタル」を聴いて、ロマンティックな夏の夜を、頭の中でだけでも夢想したいものだ。
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写真日和 「ミケちゃん、大丈夫?」

2010-08-17 23:59:27 | 写真日和


日本は明らかに亜熱帯ではなくなったようだ。

本当は、熱帯の暑さのしのぎ方に学ばないといけない時期に来ていると思う。

来週当たり、まみちゃんのお墓参りしなければ。
もうすぐ、まみちゃんが亡くなって1年。

期限来たら、合同墓に入れず、お骨引き取りたい。

***

しかし、あぢい。

自分はお袋ゆずりの暑がりなので、帰って1:30汗止まらなかった。
異常気象にも限界がある。

ヒトはなんとかなっても、可愛いネコや生き物たちは可愛そう。

神様もひどい仕打ちをするよな。

***

ミケちゃんは、自分の家のネコでは無いが、異常が出たら、家で介護してあげようと思う。
車庫に、水おけを買って置こうかなあ。

ミケちゃん、もう少しだから、秋まで日陰でしのごうね。
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