こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年7月31日 木曜日 かたちんば・夏の100曲 ~七月終日~

2014-07-31 23:56:40 | 音楽帳



■砂原良徳 「summer」(作品「テイクオフ&ランディング」より)1998■
昨夕、日も沈まぬ明るい時間より、大阪より来られたお客様を慰労し、お見送りして、夜帰宅。
気を遣い過ぎ、酒を呑み過ぎ、バテて疲れたはずが、それでも眠れぬ。深夜3時半でやっと眠りに堕ち、朝のしんどさに起きる。

今日は仕事も早く上がろう、と思いながら、結果濁流の渦でぐだぐだしているうちに、またもや遅い帰路。
「なんとむごい夏であろうか」という辺見庸さんの言葉が脳裡に浮かぶ。
”梅雨は去り、さわやかな日が来た”とは、ただの想定流れであり、日々変動する世界では寝言に過ぎない。
仕事場を出たとたんに、外野はねちゃっとその湿気がまとわりつく夜。

島の道でもネコには出会わない。
こんな夜に遊んでいる馬鹿はネコではない。もし居たら心配でならない。
ねっちょりしている夜。うだる夏夜。
暗闇で、もう花は眠っていて、花びらをぎゅっと閉じているが、森に向かうとセミの鳴き声のシャワーを浴びる。

汗だくで米を研ぎ、お刺身を仕込み冷やす。

録音されたラジオを聴いていると、声に抵抗を覚える女アナウンサーが多いことに気付く。
声はその人とイコールでは無いが、ラジオにおいての声は、多くの部分を投影している。
朝の文化放送の気象予報士・伊藤佳子、それに、TBSの片桐千晶の声は、ラジオショッピングといった嬉々として人を煽り、何の疑いも無く、まがいものプロパガンダに染まることが出来る。
そんな危険を持っている声。そのような人には、なじみたくはない。
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2014年7月29日 火曜日 かたちんば・夏の100曲 ~読書の季節~

2014-07-29 23:58:13 | 音楽帳

夜に聴くのも、と思うが、好きな一曲。

■ウィークエンド 「ウィークエンド・オフ」■


バイオリズムのせいだろう。
6月頃から読書モードに入っている。
音楽も本も、”読み聴きしたい時”と”そうではない時”が行ったり来たりする。
そこには、ある出会いが発火点になっていることが往々であるが、それのみでもない。

”今”読みたい本がたくさんある。
まずは手元にある「この本」を読んでから・・・と思いながら、本屋さんに行くと、つい新たに本を買ってしまう。
知りたいことがたくさんある(と思っている)。そういう欲は、それだけでも“生きようとするチカラ”だから、どんな本でも良いじゃないか、と自分にだけ言う。

なんだかんだと言いながら、結局は“いかに今を生きるか”を巡る本をつい読みたくなってしまう。小説を読むクセが最近はない。
処世術本なんか・・・と書いた記憶があるが、それを“いい加減なものだ”とも”今”は思わない。
人と環境のありさまが日々劇的に変化していく中、アイデンティティという言葉を古い概念とも思わないし、捨てもしないが、必要以上に固執する必要もないだろう。

7月6日(日曜日)近所の本屋さんの店先に並んだ本をぱらぱらとめくる。
何かヒントをもらおうと買ったのが、心屋仁之助さんの「折れない自信をつくるシンプルな習慣」という本。720円+消費税8%ナリ。

おさいふの中に、アンケートに答えたお礼に貰った図書カードがあったので、それを使う。

タイトルの付け方がいかにも処世術本で、文字も大きく数時間もあれば読めてしまう、そんな見た目から引いてしまう人も多いだろう。
しかし、自分にとって何か1つでも“CUE”があればそれでオッケー。

7月中旬読了。あまり特別な発見は無かった、という言い方すら、この本は否定する思考。
逆に“なんでも難しくこねくりまわして考える方が良くない”と、この本は言っている。
個人的理解としては「なんでもやってみなきゃわからない」から「やってみたら」という行動論。
そう書いてしまうと「当たり前やん」ともなるだろうし、そこに逃げていると見えてしまう側面はあるが、社会人を長くやって、その末でドロップアウトし、心の問題を悩む人と取り組む仕事で独立された背景から、そうも言えないんだろうな、と匂わせる箇所を発見する。

26日(土曜日)に見た花火ではないが、「どうせ」と思う(思い込む)仮想概念と、目の前で見える肉眼の花火が異なるように、同じ脳が認識することなのに、実際行動をすると、違うことに気付く。

引き続きは、同じ6日(日曜日)に神保町で買った「愛国者の憂鬱」。
この教授と鈴木邦男さんの対談集も読みやすく“あっという間に”読めるはずなのだが、少しづつ考えながら読んでいたので、まだ読み終わらず、今日29日(火曜日)残り数十ページとなった。

その片方では、今まで買った本を同時並行でめくりつつ、この日曜日に買った2冊を読む方に向かっていく。(本当はもう1冊、みうらじゅんさんの新刊文庫を買ってあるのに。)
最近出版される本は、アイチャッチのためにタイトルがあからさまで、人を釣ろうとしているものが多いが、この2冊のタイトルもご多分に漏れず。
1冊は「まじめをやめれば病気にならない」、もう1冊は養老先生の「死の壁」。
“世間”はいろんな批評や評論家ぶったことを言うのだが、こちらにはそんなことはどうでも良い。
一言でも自分にとってめっけもんの発見があれば良いだけのことだ。

1981年夏、とあるコーヒーショップで”YMO座談会”が開かれた際に、教授が「ヤング”ル”・マーブル・ジャイアンツ」と言って、細野さんに間違いを指摘されたグループは、その後分裂。
良質な新譜だらけ発表の渦中、1983年4月5日 19:20からの「サウンド・オブ・ポップス」(NHK-FM)で掛かった”元ヤング・マーブル・ジャイアンツ”のウィークエンド作品「ラ・バリエテ」。
この曲「ウィークエンド・オフ」は、よく週末のFM放送で今でも掛かるイントゥルメンタル曲である。




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2014年7月28日 月曜日 かたちんば・夏の100曲 ~眠れぬ夜には~

2014-07-29 00:34:44 | 音楽帳
昨夜は2時間寝たら、深夜1時におきてしまい、以降眠れない夜となった。さすがに、1時から朝まで眠れない、のはなかなか無いこと。
4時半には夜が明けてしまい、ここまで来て”寝たら最後起きない”気がして、横になりながらも、こちらと向こうの間を意識がうろうろする。

時を持て余し、まずは水やりから始め、お風呂を沸かす。
いつもの朝風呂はカラスの行水なのに、のんびりと湯に浸かり、体を隅々まで洗う。
朝ごはんなどを珍しく食べながら、イーノのアンビエントビデオを見る。

なぜか今朝は、歩くと既に”秋のかおりが佇んでいる”。そんな錯覚。
陽射しは強くてもカラッとして、セミの鳴き声、青空には幻想的典型的入道雲。
猛暑で苦しい土日二日を越えたら、風景には良い意味での「夏休み」感が漂っていた。

昼も、すがすがしい爽やかな風が吹きぬけていた。やっと梅雨が本当に去ったのだろう。。。か?

夜は夜で、生き物たちに優しい温度湿度の夜。
この涼しさは、熱気から逃げたい焦りより放ってくれて、自然と歩く速さを落としてくれる。

この二日も、何リットルか汗をかきまくり歩きまくり、ある程度太陽を吸収したおかげで、腰や首などの痛みにも神経が向かない。
朝会った同僚に「今朝はえらい顔色が良いですね。先週青ざめた顔だったのに。」と言われる。
そうなのか、と思う。少し焼けてしまったのかもしれない。

帰り道、色っぽいミケちゃんが道で遊んでいるので、カリカリを一袋。
食べ終わるまで見ていたが、立ってその場を去ろうとすると、ずっとそばを着いてくる。それでも、テリトリーの境目にまで来たようで、おやすみをしてわかれる。

丸一日寝ていない分、つい眠りに堕ちた瞬間もあった今日。そろそろ寝支度を。。。
と灯りを消し、目薬をさしてせんぷうきの下。はだかでじっとしていたが、再度眠れないので、少し音を聴く。

■ヴィサージ 「ウィスパーズ」1982■
映像は、映画”ピクニック・アット・ハンギングロック”より。
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2014年7月27日 日曜日 かたちんば・夏の100曲 ~備忘録:海の向こうへの幻想~

2014-07-27 13:16:24 | 音楽帳

エアコンを入れたり切ったりしつつ、せんぷうきで空気を攪拌させる。
それでも室内温度計は31℃。
ラジオからは、安住紳一郎さんと中澤有美子さん。
天気予報は、今日が暑さのヤマで、明日からは暑さもマシになると言っている。

「暑いときは、最低限の汗はかいたほうが良い」と引っ込まずに外を歩く。
それは別段この時節だから、じゃないけれども。
しかし、ここ数年の熱射厳しい暑さはもはや限度を越えているから、無理せぬ程度で。

”レゲエ”という音楽スタイルを知ったのは、NHK3チャンネル(教育テレビ)の日曜昼下がりの番組。
当時、海を隔てた向こうの国の音楽映像は貴重。
そんな海外ミュージシャンの映像が流れる中、ラジカセをテレビの前に持って行き、ジャックでテレビとラジカセを繋いでモノラル録音。
ここで演奏された一曲がボブ・マーレーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」。
ラジカセを持っていた、ということは中学生に上がっていたのだろう。



■Police 「Walking on the Moon」1979■
土曜お昼、FM東京「ポップスベスト10」を聴いていた。
その中で1979年にヒットしたポリスの「孤独のメッセージ」がカッコよく・好きだったが、その後にシングルヒットした「ウォーキング・オン・ザ・ムーン」の方が心地良くて”自分向き”だった。
共に、レゲエの影響が濃厚に音に反映されている。

1982年の今頃、渋谷陽一さんの「サウンドストリート」。
”レゲエ・サンスプラッシュ’81”というライヴ盤から掛かった曲をカセットテープに録音し、よく聴いた。
ボブ・マーレーに捧げたこのライヴから、スティール・パルスやサード・ワールド、ブラック・ウフルーなど。

今になってCDを買ってインナーを読むと、高橋健太郎さんが1982年5月14日と記載しており、時期的にはもう少し前だったかもしれない。
高橋さんが綴った文章から知るのは、このライヴは裏で権利問題が絡んだモメごとが起きており、それはご想像通り、音楽を演じる側とは無縁とも言えないアフリカを巡る問題。

暑い夏が好きではないし、そんな暑い時期でもスパルタ教育で、炎天下の下走らされていたから、もっぱらこれらの音楽は、涼しい自分の部屋でひたすらじぃとして、飲み物を飲み、雲の流れを見ながら心地良く聴いては、海の向こうを想っていた。

平成なる時代に入って以降、日本でもレゲエやヒップホップのスタイルを真似た音楽や、服装をする者たちが現れた。
自分が中高生当時、音楽さえ聴ければそれで良い、と心地良くなっていたことから理解出来ないでも無かったが、見苦しくて未だにそういうムードが素直に好きになれない。

ジャパネスクのように、西洋画家たちが海の向こうの日本に”桃源郷”がある、と想ってくれたことが、新しい絵画世界を開いたように、誤解こそに創造の源泉があるとしても。
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2014年7月26日 土曜日 かたちんば・夏の100曲 ~二千十四年夏、とある夜~

2014-07-26 23:07:05 | 音楽帳

朝起きてしんどいが、植物たちに水やりをして、洗濯機を回し猛暑の空に干す。
ビールを呑み、イカ明太と収穫したきゅうりをおかずに、ご飯を頂く。
食べて横になったら、いつの間にか眠ってしまう。

数時間後目覚めると、熱中症のように脱水を起こし苦しむ。うなりながら横になるが、外が騒がしくなってゆく。
”ここで横になり続けるのは得策ではない”と、夕方、無理してまでも外に出る。

外にふらふらと出て、油汗をかきながら、ヒトのいない方向を目指そうとするが、どこを向いても逃げ場無し。
既に、ヒトの渦が島に流入し始めている。ついついやさぐれた感情になってしまう。

なぜヒトは、群れを成したがるのだろうか?
イオンなどで買った安物着流しを着た者らとすれ違う。地図やスマホで場所を探しながら歩く軍団が、どんどんと島にやってくる。

本当にこのヒトらは花火を見るのが目的なのか?いつからこんなに、こういった歳時に過剰な人数が来るようになったのか?
よくわからないが、4~5年前でもこんな騒ぎにはなっていない。スカイツリーとオリンピック影響だろうが、交通規制の範囲も広がっており、警察他大人数掛けての大事になっている。
皆で集団自殺でもしたいのか、わからない。

そもそもわざわざ遠くからよそに行って、わざわざ真下で見ようとするものなのか?(スカイツリーも花火も近付かなくたって見える、というのに。)
そんなことが脳をよぎる。居場所が無く焦る。

昔三ノ輪に住んでいた頃、毎年、家の物干しから見ていた隅田川の花火。
近所の親替わりのおばさん・おねえさんたちは、夕涼みがてら、近くの大通りに椅子を持っていき見ていたシーン。

人ゴミをかき分けて歩き、いったん京島に逃げ込む。
ボン、ボン、と空に爆撃音が響き出す。
70年かけて、アメリカのおもわく通り骨抜きになった国のさまをつい想起してしまう。
かつてこの地に爆撃がされたときも、こんな音が響いていたのだろう。

何だがわからない。
目の前の光景が不気味に見えてくる。
火薬が爆発し、ヘリコプターが飛び交い、町はそれでもなにごともなく静まり帰って空を見ている。
お店屋さんはかきいれどきだから黙ってはいるが、心地は良く無いだろうに。

そんな折、街角から露地に入ると、家の谷間から見える花火を見ようと、京島の人たちが座って見ている。
そこに神が舞い降りる。

年頃の生意気盛りの兄、と本当に可愛い小さい弟の会話。

弟「お兄ちゃん、こっち来て座んなよ。」
兄「興味ねえんだよな。別に見たくないよ。」
弟「わあ、きれいだなあ。」
兄「どれもおんなじじゃん。つまんねえよ。」
弟「そうかなあキラキラしててきれいだよ。どこでやってんの?」
兄「隅田川だよ。でも、近く行ったらダメだぞ。ヒトだらけだからな。」

まだ日が沈み切らない中の可愛い兄弟の会話に、歳の離れた自分と兄の過去を投影していた。

ここから、少しずつ島へと接近・戻っていく。その途中の道で、夜もどっぷり暮れた中、花火の現物を見たらぐうのねも出なくなってしまった。
「綺麗だ。」
足止めされたその場所から見えた花火に見とれて、最後まで。

はかなくもせつない一瞬のまたたき。
写真等の記録では伝わらない、目の前の肉眼に涙する。

車椅子のおかあさんと娘さんの姿だったり、いろんな人生模様が見えた今夜。
たまたま一緒に見ていた、日焼けたくましい親父さんとお話しをしたりする中、横で見ていた女の子2人の会話に、すごいなと思った。
『21世紀になっても、なあんも変わらんね。』
女の子が言いたかった意味は、よく分かった。
昔から今に至るまで、テレビで花火中継という意味不明なものが存在するが、江戸時代以来夏の風物詩となっている花火の意味。

来年見られる保証が無いから、ボクも君も花火を見ているのかもしれない。
今この同じ地で。

■Roxy Music 「True To Life」1982■
明日、この島は今日を忘れて、再び静かな地に戻っていく。




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2014年7月25日 金曜日 かたちんば・夏の100曲 ~ボクの中にある”永遠”~

2014-07-25 23:09:16 | 音楽帳

あまりにあまりに好き過ぎて、その思い入れが過多。
今までためらい、クチに出来なかったアルバムの1枚が高橋幸宏の「ニウロマンティック/ロマン神経症」である。
元々神経症傾向にある幸宏が、彼の持つセンシティヴな憂鬱と、ブライアン・フェリー他ユーロピアン音楽に影響を受けたエッセンスが内面で結び付き、ロマンティークに合い間って産まれた作品。

”ノイローゼ”という、いわば”和製英語”の基である、神経を指す英語「ニューロン(NEURON)」。
それと「ロマンティック(ROMANTIC)」を合わせた造語「NEUROMANTIC」。
この言葉には、1981年5月発表当時イギリスのムーヴメントとなっていた”ニューロマンティクス”への揶揄・けん制も含まれている。
”ニューロマンティクス”そのものが、YMOからの影響下で産まれたことへの、親から子への微妙な距離の置き方。

今夜のインターFM夜、テイ・トーワさんの番組から聞こえてきた、ピーター・バラカンさんとの会話の後のクラフトワーク「アウトバーン」、
そして、この幸宏の傑作「ロマン神経症」収録のこの曲が聴こえてきて、ラジオの前で一人黙って感無量になっていた。

■高橋幸宏 「ドリップ・ドライ・アイズ」1981■
(音声:1982.07.26 新宿厚生年金会館 ソロライヴより)

まるで洗濯されたみたいな気分
ボクは、もうボロボロだ
すっかり落ちこんでるんだ

ボクをひっかき回して
キミの好きなようにしてしまったんだネ

キミのドリップドライな目
キミの ぬれても すぐかわいてしまう瞳
キミは泣くことも笑うことも 同時に出来る

キミがうその涙を流しながら、ボクのそばにいるとき
キミはまるで水道の蛇口みたい
止めたり 出したりしてる

キミの水道の涙のおかげで、ボクのハートはひびわれてしまう

作詞:クリス・モスデル
作曲:高橋幸宏
演奏:幸宏、トニー・マンスフィールド、細野さん、大村憲司、アンディ・マッケイ






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2014年7月24日 木曜日 かたちんば・夏の100曲 ~カミナリさまの降りる夜~

2014-07-24 22:23:40 | 音楽帳

【小旅のさなか。小村井(おむらい)の子猫さんたち。】
[一日一曲]と律儀にルール化するのも、もう時間に余裕ある者が言うもの。。。
と思う今だから、アトランダムにフルスロットルで走り抜けるように、脳が思い付く事を走り書きして”今日もご苦労さま”と終わりたい。
時間を掛ければよいものではない。

休み明け22日 火曜日に東京は”ツユ明け”。
ツユ明け、と言えば、今野雄二先生が好きだったトーキングヘッズのアルバム「リトル・クリチャーズ」(’85)のコピーが”ボクたちからのツユ明け宣言”だった。

■トーキングヘッズ 「レディ・ドント・マインド(Lady Don't Mind)」1985■
【ニューヨークはマンハッタンの夜。】

ツユ明けしたら、ラジオの天気予報は「今週、雨には期待出来そうも無いですねー」と言っており、昨日も雨なき中たんまり汗をかいた。
夜ごはんを食べては”熱帯夜”の中、せんぷうきにハダカで寝たが、そこから2時間も経たずに暑さと悪夢にうなされて、暗闇で起きてしまった。
以後なかなか眠れず。悪夢には、鈴木邦男さんと三島由紀夫さんが出て来て、どうどうめぐりで抜け道の無い在り様。寝てるか起きているかさっぱり分からない。
暗闇でラジオを付けると山ちゃん(山里亮太さん)の深夜ラジオ。
ひさしびりに聞いたが、以前に比べて焦りがなく、最後まで聞いてしまうと3時。

ハワード・ジョーンズ「パールと貝がら」MTVを初めて見たのは『ポッパーズMTV』(ピーター・バラカンさんの深夜MTV紹介番組)だったが、うなされて起きる人のシーンが他人事とは思えなかったのは、高校生当時も今も変わらない。

***

雨は降らないはずが、今日夕方コカコーラを買いに行き、外の空模様を見ているうち、”これは雨が来るな”と思ったら、夕方から稲光とスコール。
植物たちには幸運の雨、ひそかに”今夜は水やりをしないで済むな”と手抜きにニンマリ。
雨の中、早々に帰る道々、カミナリさまはバチバチ、帰った今でもゴロゴロ言っている。

脳の中の自動想起装置は、カミナリ→サンダー→・・・となった。
中学生の頃、不良の連中が学校に持ってきていたデュラン・デュランのファーストアルバムを、物欲しげに見ていた自分。
チョコレートのCMバックで掛かっていた「グラビアの美少女」、ニューロマンティクス全盛時期。
この頃(今ではありえないが)サクソンの「ヘヴィー・メタル・サンダー」(やマイケル・シェンカー・グループやアイアン・メイデン)のミュージックカセットを買って聴いていたが、カミナリとヘヴィー・メタルの取り合わせが必然のように思う中、”なんでデュラン・デュランまでが、曲名にサンダーなどのコトバを使うのだろうか?”と思っていた。



デュラン・デュラン 「グラビアの美少女(Girls On Film)」1981■
また、片方では”サンダー”は、YMOが「開け心~磁性紀」で使ったギターテクニック・手法だなあ、と。
3人が居ないスタジオで、ギタリスト:大村憲司さんが、エレクトリックギターを落下させて、そのときの衝撃音をノイジーな音に混ぜ込んで創った曲。



■YMO 「開け心 ~磁性紀~」2012年8月ワールド・ハピネス■
帰ってトランクス一枚で、部屋は一気にエアコンを掛けて、せんぷうきで空気を撹拌させながら、まるで職人さんのように首にタオルをひっかけて、汗だくでレコード倉庫で脳が反応したレコード探索する。
「猛暑」はカンベン願いたいが、季節に応じて、歩き・動き・汗をかくことは極めて自然で当たり前のことだ。

米一合を研ぎ、冷蔵庫には今朝収穫したキュウリが”キンキンに冷えており、パプリカなどと和えておかずにしようと思っている。

PS:おもしろいもので、先日キム・カーンズの「ベティ・デイビスの瞳」を掛けたら、今朝インターFMからこの曲が掛かった。








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2014年7月23日 水曜日 かたちんば・夏の100曲 ~想い出のステップ~

2014-07-23 21:26:47 | 音楽帳

今年に入ってからインターFMでも掛かり、そういえば懐かしい、と思ったヒット曲。

■マシュー・ワイルダー 「想い出のステップ」(原題:Break My Stride)1984■
シングル盤の中からこれを拾い上げて”好きだった”想い出が甦る。
雑誌「サウンドール」1984年3月号【最終号】のディスクレビューに並んだ国内発売新譜のラインナップを見つつ、ああそうだったな、と確認する。
雑誌は一ヶ月前の発売盤を事前告知するから、ここにはマシュー・ワイルダー等々2月発売のLPが紹介されている。

かたやYMOの散会ライヴを収めた2枚組「アフター・サーヴィス」もあれば、サイキックTVの2nd、プリテンダーズの”再生復活”アルバムに、フェルト、ネーナ、クリスティン・マックビーの初ソロ、チャイナ・クライシスの国内初LP。。。
実にアトランダムで、イギリスもアメリカも無い混ぜの世界が展開している。
思えば、この当たりでクラフトワークのシングル「ツアー・ド・フランス」がFMで掛かっていた。

今ページをめくると、そのごちゃごちゃ感は”今だから”楽しめて、一冊の雑誌でもスルメのような味わいが続く。

マシュー・ワイルダーのEP盤は持っているがLP盤はここに無い。
この間際になってLPは買うまでも無いだろうが、浜辺の砂から顔を出す女性の横顔ジャケットが、アート的に部屋に飾りたくて欲しかったと当時思っていた。

【国内発売は1984年2月だが、アメリカでのヒットは1983年12月だった。】
スケッチ・ショー前夜、幸宏が細野さんの番組”デイジーワールド”で話していた会話に「なるほど」と当時思ったが、1983年までニューウェイヴ/テクノがヘッドフォン室内世界だったところから”アウトドア”に持っていった契機は、ハワード・ジョーンズのヒットだったのかもしれない。(別に彼のせいでは無いのだが)

1980年YMOワールドツアーに、松武秀樹さんが巨大コンピューターを10トントラックで運んだ時代。
シンセサイザーがあくまで室内楽器だったところ、そこから3・4年で、ショルダー型のシンセが発売され、トンプソンツインズ、ハワード・ジョーンズ等が1984年使い出すことになった。





ハワード・ジョーンズ 「パールと貝がら」(原題:Pearl In The Shell)1984■
1984年夏、この曲を収めたアルバム「ヒューマンズ・リブ」を聴いていた。
うだるナツの御茶ノ水、夏季講習への道と青空に浮かぶ雲を思い出す。
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2014年7月20日 日曜日 かたちんば・夏の100曲 ~七月二十日の島にて~

2014-07-20 20:25:37 | 音楽帳

今日が父の誕生日・海の日で、昨日家族で集合した。
憎しみが消えた、と言えば真っ赤なウソになるが、お互いいつ果てるか分からない中、楽しい時間を過ごした。
ゼロか100かという、単純さは、もはや無い。既に自分の魂はそこには無い。

昨夜から今朝はその疲れで、惰眠をむさぼれた。
馬鹿な中毒から身を削った結果、薬害しか生まない平成洗脳医療と距離を置き、やっとクスリ断ちに近付いた。4時間以上普段は眠れないというのに。

朝、植物たちにお水やりをしたら、今週初めてセミの声を聞いた。

いつも延々と音楽を聴いてる自分だが、電子画面上にある言葉をつい見てしまって、更新をやめることが多い。無駄な情報絶ちとは、TVもだが、インターネットの毒害の方が上になった二千十四年。10年前ですら、過去はそうでは無かった。
私は、道具として使うとしても、マン=マシーンにはなるつもりはない。抵抗し続ける。

「夏の100曲」とは、自分にとっては、過去の集約というよりも、今日この日に聴いている音楽。
二千十四年この日に聴いている音楽。
ついつい”これ一曲”とならないで、想いばかりがつのり、更新が出来なくなる。

7月20日 日曜日
午後、CDをMP3に落として、プレイヤーというナップサックにたんまりと詰めて旅に出る。
がさがさと渦から取り出したXTC、カルチャークラブ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、サニー・アデ、スミス等々より。

目的もアテもないのはいつもどおり。
ふらふらとさまよい歩いて、音楽を聴き、タバコを吸い、シャッターを切っているうち、気付くと京島に居た。
路地で茶色のねこさんに出会う。同じ旅人として、カリカリを一袋。





その後も歩くが、夕方通り雨に遭う。
傘は差せども強いので、のき下でしばし雨宿りする。小降りになるまで。





■Tears For Fears 「Working Hour」1985■
幼心を傷めた少年二人が、吐き出した1983年一枚目。
そこから、攻撃と解放に向かった「ザ・ウェイ・ユー・アー」「マザーズ・トーク」「シャウト」「・・・ルール・ザ・ワールド」への流れ。
内から外へ。

ピーター・ゲイブリエルに影響を受けたローランド・オーザバル、そして友人カート・スミスが内的世界に居たところから、仲間たちとのインプロビゼーションにより生まれた音楽がセカンド・アルバム「ソングス・フロム・ザ・ビッグチェア」には多数収まっている。
インプロビゼーション曲「ザ・ワーキング・アワー」に現れたエモーショナルな訴え。

一方では、危ないエネルギーを持つ”こども”がうるさいので、せいぜい雨は強く降ったほうが、暮らしやすいはずの今。
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2014年7月18日 金曜日 かたちんば・夏の100曲 ~”サンプロ”と仲間たち~

2014-07-19 00:56:28 | 音楽帳

「ショウユラーメンヲ 1ツクダサイ」。
深夜のラーメン屋に金髪ガイジンさんの声が違和を持って響く。。。
労働者たちが静かに集まり、お互い会話もせぬまま麺をすすり、ビンビールの一杯目を疲れを背負った体内に流し込む曜日。
高い位置に鎮座したテレビ画面が流れるに任せて。

1983?Or1984?
今でも録音した一部がカセットテープで残っているが、高校時代、“排球部“練習後のカラダを引きずって帰った夜には、ラジオ日本(ニッポン)の深夜番組が、ぎりぎりの心身をいやす重要な時間だった。
今では想像が付かない人も多かろうが、当時のラジオ日本(ニッポン)は、音楽番組がたくさんある貴重な(しかも)AM放送局だった。

平日帰った夜22時からは、「サウンドプロセッサー」(愛称”サンプロ”)を聴いた。(FMとの掛け持ちで、どちらを録音にするか迷う日々)
大貫憲章さんとスヌーピーこと今泉恵子さん、それに曜日に応じたゲスト(特に酒井康さんの曜日が面白かった)。

22時の時報。
その後、もはや時代ずれした”ヴォコーダー”を通した声が「J・O・R・F、J・O・R・F、ラジオはニッポン、サウンド、プロセッサー・・・」と言いテーマ曲が流れ出す。

2人の「こんばんは」で始まり、
お互いのやりとり、読むお便り、新譜に旧譜。。。怪しい訪問者たち。

酒井康さんが来る曜日は、闖入(ちんにゅう)者扱いであった。

憲章さん「今日も。。。言ってもいないのに、ゲストが来ています。
この人は、来たいときに来る、というのがどうも信条らしいですが、ではどうぞ。」
酒井さん「下着。。。付けてます。。。真行寺君枝です。。。」

大貫さんの”評論家業”始まりを振り返りつつ「お前も何か肩書きが必要だから、“クイーンの大貫で行け”と周囲に言われた」話、クイーンで洋楽に目覚めこの世界に入ったというスヌーピーの話など、折々に挟み込まれる会話が楽しかった。

放送の合い間に掛かるCMは、京浜急行グループが協賛しているのもあり、神奈川・湘南方面のものが多く、首都圏におけるローカルな味があって良かった。
異なる文化圏の匂いと、一方では、夏間近は海辺のプール(大磯ロングビーチ)や海水浴客向けCMなど。ほかでは聴いたことのない広告たち。

ラジオ日本そのものが横浜が発信地であり、当時引越先・ダ埼玉に住まされた自分の場所には、電波が入りにくかった。
チューニングに難度を要したが、微妙にダイヤルを回し、カセットテープのRECボタンを押し。。。

小学生の頃通わされていた梅ヶ丘の“塾”がある意味、東京二十三区の西極だった自分でも、この放送は異文化の匂いをはらんでいた。
AMラジオの中でもラジオ日本は、洋楽音楽がちりばめられた異質なラジオ局。
土曜日の深夜には、全米トップ40(ビルボード)、深夜1時からは全英トップ20(レコードミラー)。
前者は湯川れい子さん・後者は憲章さん&今泉さん。
当時、全英の方には、未だ聴いたことの無い音楽が紹介されるので、ノートにメモしつつ聴いた。

途中からは、インディチャートが現れて、インディペンデントレーベル中心のベスト5が紹介された。
ここでよく「耳にした」バンドは、4AD(コクトーツインズ、ディス・モータル・コイル等)、スミスが次々とたたみ掛けるように発表し続けたシングル類の疾走感が素敵だった。

***

話は行きつ戻りつするが、ナツだったように思うが、1983か1984年頃「サウンドプロセッサー」でも掛かったキム・カーンズの愛曲を今夜は聴いていた。

■キム・カーンズ 「ベティ・デイビスの瞳」1981■
当時大ヒットを飛ばし、ラジオで掛かり続けたこの曲。
ハスキーな声も好きだったが、中学生1981年時点では、シンセサイザーを使っているだけで、その音に満足していたフシがある。
実際は、この後1982年に「愛と幻の世界(ボイヤー)」でテクノに影響されたアルバムを発表するのだが、これはその前夜の曲。

「ベティ・デイビスの瞳」を大貫さんがCM前に紹介した時には、もう既に「懐かしい」と思うくらいになっていたが、たかだか2年程度の違いなのである。

憲章さんや今泉さんとは、決して趣味思考が一致しないどころか、かなりなズレを持った自分だったが、それでも楽しき時間だった。
(湯川れい子さんも、ましてや真逆側の酒井康さんなども)
そういった魅力は、肉声で人として伝えるメディア=ラジオならびにディスクジョッキーの魅力ゆえだと思う。
コメント
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