自遊日記

定年後の備忘録

野菜好きの、愛犬「MEGU」

2009-01-30 15:34:47 | その他

        昨年の春からこの家にやって来た、MEGU です。
          こう見えても、一応女の子です。

            野菜やパンが大好きです。
       飼い主を含め、誰にでも咬みつくのも、結構好きです。







              何かご不審の点でも?       

「陰陽師・飛天の巻」読了

2009-01-28 16:07:15 | 読書

このほど、夢枕 獏著「陰陽師・飛天の巻」を読了しました。
晴明神社を訪れたつながりで、「陰陽師」がらみの本に目が行きました。

魑魅魍魎が跋扈し、まだ闇が闇として残っていた時代の物語です。
陰陽師・安部晴明と笛の名手・源博雅(みなもとのひろまさ)が活躍します。

博雅が事件を持ち込み、晴明が解決するというパターンで物語は進行します。
まるでシャーロックホームズとワトソンの関係の様です。

先般訪れた、晴明神社や一条戻り橋の様子などを、思いおこし乍ら
しばし、平安時代をさ迷ってみました。




平安京・大極殿跡

2009-01-26 16:31:40 | 京都 街歩き

千本通りと丸太町通りの交差点にやってきました。
このあたりは、平安京のど真ん中だった所のようです。

鳴くよ(794)ウグイス平安京・・・。
ご存知の通り、794年に桓武天皇によって遷都令が出され、平安京の
造営が始まりました。

ところで、都の心臓部の皇居(内裏)が置かれたのは、どこなのでしょうか?
現在の「御所」でしょうか?  

正解は、「御所」ではなく、「御所」より西のここ千本丸太町界隈です。



千本丸太町交差点の南東に、平安京復元イラストの銘板がありました。










平安遷都が決まった裏には、京都が風水学的にも最高の吉相を示していたから
と言われています。(四神相応の地)

四神とは、東西南北を守護する聖獣の事で、東(青龍)、西(白虎)、南(朱雀)
北(玄武)。

確かに東に鴨川が流れ、西に大きな道(山陰道)があり、南に大きな池(巨椋池)
があり北には大きな丘(船岡山)がある・・・。

京都は、四神の存在に適した地勢だったようです。



千本丸太町交差点の西北に小さな公園があり、そこに「大極殿跡」の
碑が建っていました。
平安時代にはこのあたりに、皇居(内裏)や諸官庁が建ち並んでいたようです。








千本丸太町あたりに造営された皇居(内裏)は度々戦災や火災にあい、
その都度、天皇は摂関家の邸宅に一時避難されたようです。

1331年、今の京都御所にあった東洞院土御門殿の邸宅に光厳天皇が
移られてからは、元の内裏に戻られる事がなくなった由。

平安時代の皇居(内裏)は、現在の「京都御所」よりかなり西にあったという事ですね。

        (写真は 大極殿の想像図)

陰陽師を祀る「晴明神社」

2009-01-23 17:51:13 | 京都 街歩き

御所探訪の後、西へ向かい「晴明神社」へやってきました。
平安時代に活躍した陰陽師「安部晴明公」を祀る神社です。

「陰陽師」の小説や映画の影響もあり、若い人の参拝が増えてきたようですが
私の訪れた時は、比較的閑散としていました。

百鬼夜行、魑魅魍魎の跋扈する平安京では、都に忍び寄る魔物を撃退したり、
権力者達に指針を与えたりする「陰陽師」という職種が重要な位置を
占めていたようです。

「陰陽師」というのは、天文学、占星術、方位学、医学等の知識を持つ
占い師、霊能者といったところでしょうか。








陰陽師の中でも、安部清明公は、ズバ抜けた人気と実力の持ち主だったようです。

没後2年の1007年に、一条天皇の勅旨によりこの神社が創建された由。
天皇の信任も大変厚かったようです。

境内には至る所に、五角形の晴明桔梗印が目につき、一種独特の雰囲気です。

この五角形は、セーマンとも言い、魔除けの力があるとされています。









           絵馬の形も五角形です。









   「魔除けの桃」にも、ちゃんと五角形のマークが入っています。







   「晴明井」にも、五角形の晴明桔梗印が入っています。

  この五角形のマークは、イスラエルの国旗と似ていますが、イスラエル
      の国旗の方は六角形なので、ちょっと違います。








  境内には、安部晴明ゆかりの「一条戻り橋」のミニチュアがあります。
  本物の、一条戻り橋は今でも晴明神社を少し南に行った所にあります。

 「戻り橋」という名前の由来は・・・
 熊野詣中の浄蔵が、父危篤の知らせを受け、急遽京都に向かった。
 帰る途中この橋の上で父の葬列に出会った。
 浄蔵が棺にとりすがって神仏に祈ったところ、父親が蘇生した、
 という故事からきているそうです。

 戦争中は、無事戻れるようにと、出征兵士がこの橋を渡っていったそうです。









安部晴明が、この「一条戻り橋」の橋の下に式神(しきがみ)を
控えさせていた、と今昔物語にも記述があるそうです。

式神というのは、精霊のようなものでしょうか。
晴明は、この式神を自由自在に操っていたようです。

「一条戻り橋」のミニチュアの横にある像は、式神の像のようです。








       ここは、千利休の終焉の地でもあるようです。

「京都御苑」散策

2009-01-21 16:58:44 | 京都 街歩き

京都御所の築地塀をチェックした後、ぶらぶらと広い「京都御苑」を歩いてみました。

「京都御苑」の南東に、関白・九条尚忠の邸宅跡がありました。
池の奥に見えるのは、公家屋敷の面影を残す、茶室拾翠亭(しゅうすいてい)。

九条家は五摂家のひとつで、多くの人が朝廷の要職、摂政関白についたそうです。

底冷えのする京都、池には薄氷りが張っていました。









   建礼門の近くに、凝華洞跡という場所がありました。

  ここは京都守護職に任じられた松平容保が、禁門の変の頃、
        仮本陣を置いた所だそうです。








    向こうの方に、何だか由緒あり気な一角が見えてきました。








   立て札によると、ここは 公家 権大納言中山忠能の邸宅跡。
    明治天皇は、ここ中山邸でお生まれになったそうです。













 門の隙間から覗くと、「明治天皇 生誕の地」という碑がありました。
 このお屋敷で4歳まで過ごされたようです。



御所が東京に移されるまでは、この「京都御苑」に公家や宮家の邸宅が
200ヶ所近くもあったそうです。

今では広い公園となり、当時を偲べるのは邸宅跡ぐらいですが、
ここ「京都御苑」は日本史好きには、格好のウオーキングコースです。

「京都御所」の鬼門

2009-01-19 11:59:12 | 京都 街歩き

         京都御所にやって来ました。

   正面の門は建礼門です。この奥に紫宸殿があります。
  観光客もまばら。時折り、ジョギングする人を見かける程度です。








      東に目を転じると、大文字山が見えました。








東側の築地塀に沿って砂利道を歩きます。450mもある長い塀です。
めざすは、この塀の端っこです。







  
  Googleの航空写真で「御所」を俯瞰すると、こんな具合です。
  紫宸殿や清涼殿など重要な建物が長方形の塀で囲まれています。

     但しこの塀は、単純な長方形ではありません。
  鬼門に当たる東北の角には、ちょっとした厄除けの工夫がされています。






  
    東北の角をアップで見ますと、こんな具合です。
    塀の角をわざわざ切り欠いているのがわかります。

   角をとってあるのは、鬼の角を欠く、鬼封じの意味のようです。






      東北の角にやってきました。
地上で眺めると、こんな具合です。このコーナーは猿ヶ辻と呼ばれているようです。

尊皇攘夷派の中心人物であった、公家・姉小路公知が暗殺された
場所でもあるそうです。






角の築地屋根の下には、御幣を担いだ木彫りの猿が金網の向こうに見えます。

この猿は、鬼門を守るための日吉大社の使徒なのだが、夜になると
出歩くいたずら者だったので、このように閉じ込められたそうです。








     御所の裏鬼門を守る位置に、宗像神社があります。
   桓武天皇の命により、皇居鎮護のため設けられたようです。







 また御所の鬼門を守る位置に幸神社(さいのかみやしろ)があります。

 平安京全体を守るためには、比叡山・延暦寺と石清水八幡宮が
 鬼門と裏鬼門を守る位置に、夫々設けられています。

 京都御所は何度も訪れていますが、鬼門という観点で眺めたのは、初めてです。
 知っているつもりの京都ですが、結構知らない事が多そうです。


紫式部の邸宅跡

2009-01-17 15:16:58 | 京都 街歩き
先日、冬の京都を歩きました。 観光客の少ない冬。
尚且つ、あまり観光地化されていない場所を中心に回りました。

どこもガラ空き、貸切り状態でした。

最初に訪れたのは、天台系円浄宗の大本山、ろ山寺です。
京都御所の東側にあり、紫式部の邸宅跡としても知られているお寺です。







京阪の丸太町駅下車西へ。丸太町橋から見た、真冬の鴨川。
水量も減り、川幅が夏場より狭くなった感じです。

遠くに見える北山も、うっすらと雪をかぶっています。








河原町通りを北上。すぐに、ろ山寺が見えてきました。








めぐりあひて 見しやそれともわかむ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

門をくぐった右手に、紫式部の歌碑がありました。








観光客は私以外ゼロです。静まり返った本堂と庭を独り占め。

本堂から眺める、平安の庭。









平安時代の様式で、作庭されているようです。
初夏から秋にかけては、この庭にキキョウが咲き、一層風雅な趣が増すようです。

私的には、冬の庭も凛としていて、それなりに好きですね。
平安貴族は、こんな庭を眺めて過ごしていたのでしょうか。







ここは、紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔から、父の為時へと
伝えられた広い邸宅跡だそうです。

紫式部は、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、ここで
源氏物語を執筆したと伝えられています。

誰もいない本堂の縁側に座り、しばし紫式部を偲びました。








ろ山寺拝観の後、すぐお隣りの梨木神社に参拝して御所に向かいました。

家老列伝「東に名臣あり」読了

2009-01-14 17:04:25 | 読書


このほど中村彰彦著、家老列伝「東に名臣あり」を読了。
肩の凝らない、面白い本でした。

直江兼続、後藤又兵衛基次等6名の物語が収録されています。

そのうちの一つ「東に名臣あり」は、会津藩家老 田中三郎兵衛玄宰という人
の話です。
24歳の若さで会津藩の番頭(ばんがしら)に抜擢され、その後若年寄、家老
と順調に出世していく。
家老職にあった時に、何の落ち度も無いのに藩主に辞職願いを出し、辞職する。

辞職後自宅でぶらぶらしていると、いろんな人が訪ねて来るようになった。
家老でなくなったので、生の情報がドンドン入ってくるようになった。

造り酒屋の主から、
「いくら頑張っても灘、伏見の酒より数等劣る味しか出せない・・・」との悩みを聞くと、
摂津から杜氏を播磨から麹師を招聘し、会津でも芳醇な酒が造れるようにした。

他にも朝鮮人参を植えたり、漆器の改良を試みたりいろいろ工夫を重ね
貧しかった会津藩の財政を立て直したそうです。

家老でふんぞり返っていたのでは、生の情報が入らない。
民意を汲み上げる事が出来ない・・・。
と自ら野に下って、生の情報を収集した田中三郎兵衛さんは立派ですね。

守旧派の家老の抵抗は相当キツかったようですが、それに負けずに藩政を
立て直したそうです。

今の政治家の先生方にも読んでもらいたい本ですね。

オニオングラタン スープ

2009-01-10 12:01:51 | オヤジの料理

昨夜の「オヤジの手料理」は冬の定番メニュー「オニオングラタン スープ」です。
タマネギの旨味をしっかり味わえ、身体も暖まります。

薄切りにしたタマネギを、あめ色になるまで20分余りじっくり炒める必要あり。
その間フライパンから離れられません。

忙しい家内は敬遠するメニューですが、暇なオヤジにはもってこいの料理です。

炒めたタマネギにブィヨン、ジャガイモを加え、ことこと20分ほど煮込みます。

このスープに、こんがり焼いたバゲットと、溶けるチーズを乗せてオーブンで
焼き色をつければ出来上がりです。
手間隙かかりますが、美味しいスープです。

という訳で、
昨夜はステーキ(といっても賞味期限が迫っていた特売のステーキですが)と
我が手造りのスープとサラダ・・・のリーズナブルな夕食でした。

初詣 石清水八幡宮

2009-01-08 17:09:54 | 外出
5日、好天に誘われ石清水八幡宮に参拝しました。
九州くんだりまで初詣に行って、地元の神社にご挨拶しない訳には
まいりません。







男山のふもとの、安居橋近くから参道に入ります。

九月の勅祭 石清水祭の際にはこの太鼓橋で胡蝶の舞が奉納される
ようですが、まだ見た事がありません。

天皇陛下の勅使も参列される由緒ある石清水祭、一度見てみたいものです。 








20分程参道を登ると、南総門が見えてきます。
お正月の鈍った身体には、この上りの階段は何とも心地よいものです。

6日はテニスの初打ち。
テニスのウオーミングアップにも絶好の上り階段でした。








楼門から参拝します。本殿はこの楼門の奥にあります。

皇室の崇敬も篤く、武門の崇敬も篤かった石清水八幡宮。
源義家はここ石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家と名乗りました。
楼門の前に屹立する、破魔矢は如何にも武門の神様の雰囲気です。

福岡の大宰府天満宮、長崎の諏訪神社、京都の石清水八幡宮と
今年は欲張って3社に参拝しました。

数行きゃ良いというものではないでしょうが、何とか良い1年に
なって欲しいものです。