kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

2019年の年越しそば「京名物 にしんそば」

2019年12月31日 | Weblog

今年の年越しそば「京名物 にしんそば」です。

京都のそば処・河道屋倖松庵は
老舗そば屋「総本家河道屋」より、のれん分けを許されたお店です。


一昨年は「えび天」で美味しかったので迷いましたが
昨年からは、人気の「京名物 にしんそば」にしてます。(^^ゞ
美味しそうに撮れていませんが、美味しかったですよ。

Aちゃんの初体験「除夜の鐘」 2015年12月31日撮

「アナと雪の女王2」を一緒に見てきたAちゃんが2歳の時です。
お墓参りで、除夜の鐘の準備をされている姿を見て思い出しました。

2歳になったばかりの、Aちゃん(女の子)のママが
「Aちゃんに、除夜の鐘を撞かせたい」と言ったので

いつもなら、Aちゃんは寝ている時間(23時45分)ですが
除夜の鐘を撞くために一緒に並んでいると・・・
眠いのを忘れて境内を嬉しそうに走りまわっていました。


除夜の鐘の「ゴーン ゴーン」と大きな音が鳴り響くと
少し音に驚いた様子だったので、鐘の近くに行くのを嫌がるのではと
心配していたのですが、パパと一緒に鐘を撞いていました。
そんな懐かしい写真は、Aちゃんの初体験「除夜の鐘」でした。


除夜の鐘で撞かれる108の回数人間の煩悩の数が108あるので
取り除くために108回撞くと言われていますが・・・

その「108の煩悩」は
四苦(4×9)+八苦(8×9)で、四苦八苦(36+72)だとか

他の数え方には
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)×三種(好・悪・平)=18
人間の体の働きから生じる煩悩が18で
                                   
六塵(色・声・香・味・触・法)×三種(苦・楽・捨)=18
五感と意識を合わせたものから生じる煩悩が18で

18+18=36 36×3世(過去・現在・未来)=108で
108の煩悩になるそうです。

今日は朝から冷たい風が吹き、とても寒い一日でしたが
今年最後のお墓参りで、お墓を掃除している時は陽がさして
母やご先祖さまに守られているようで寒く感じませんでした。

ブログに訪問して下さり「いいね・応援・続き希望・役だった」に
コメントや、フォローして頂きありがとうございました。
アッという間の一年でしたが、来年もよろしくお願いします。
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重要文化財の「大阪市立愛珠幼稚園」

2019年12月31日 | Weblog

淀屋橋辺りは高層ビルが連なっていますが


適塾に向かう道で見たのは・・


右側に見える木造建築の建物です。

何だろう~と気にかけていましたが
適塾を出たあと、適塾の西側にある史跡公園から
南側にある「緒方ビル」に向かうと・・・


緒方ビルの前から見えたのは、日本最古の木造園舎
重要文化財の「大阪市立 愛珠幼稚園」でした。


幼稚園とは想像できない風格のある門構(南側)と建物です。


愛珠幼稚園は
明治13年、北浜4丁目(大阪倶楽部北側)に創立されました。

明治16年に、鴻池家の持家を借りて今橋3丁目
(現在の今橋2丁目、日商岩井ビルの南西)に移り
明治22年に大阪市に移管され、以後私立幼稚園になりました。


現在の敷地に移転したのは、明治34年(1901年)で
明治33年4月に着工、翌3月に竣工しました。
※見学のしおり『重要文化財「大阪市立愛珠幼稚園」の建築』より


幼稚園入口にある「銅座の跡」碑

銅座の跡
1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。
江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。 船場naw様より抜粋

大阪大学適塾記念センターと、史跡公園の隣接する場所にありました。
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大阪除痘館の跡地・緒方ビル4F「除痘館記念資料室」

2019年12月30日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
史跡公園の南側から出ると正面に・・・「緒方ビル」があります。


この場所は、当時死亡率が2割をこえていた伝染病の
天然痘から守るため、緒方洪庵が予防接種を行った場所です。


「緒方ビル」はクリニックビルのようですが


私達は、4Fの「除痘館記念資料室」に向かいます。


アッ!ビルの入口右側に「除痘館の跡」と説明板があります。

1796年5月14日イギリス、ジェンナーが天然痘の予防のために種痘を初めて行いました。種痘前までは死亡率が高い病気として世界中で流行していました。


4Fの「除痘館記念資料室」に行くと写真禁止でした。(^^ゞ

天然痘(てんねんとう)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つで
疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいわれています。


緒方洪庵が予防接種を行っている様子が描かれいます。
(1階ビルの入口に展示)


その横に・・・


そして、その下に・・・


外に出るとレリーフはビルの1階正面、説明板の上部分にありました。

WHOによる天然痘根絶計画により、1977年ソマリアにおける患者発生を最後に地球上から天然痘は消え去り、その後2年間の監視期間を経て、1980年5月WHO は天然痘 の世界根絶宣言を行いました。

緒方洪庵先生のことは、大阪人でなくてもご存知の人は多いですが
大阪人であっても、適塾は初めてだと言われる人が多かったです。
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我が国唯一の蘭学塾の遺構③「大阪大学適塾記念センター 2階 」

2019年12月29日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座

2階に上がると板の間があり、次の部屋は女中部屋でした。
女中部屋にも貴重な本が並んで展示されています。


ここでは西洋医学の研究をはじめとして、種痘事業やコレラ治療など
大きな医学史上の業績が生まれました。


主な蘭学塾、江戸・京都・大阪


1846年に設立された除痘館は1858年には
江戸幕府が公認した最初の種痘所となりました。


女中部屋の次の間は「ヅーフ部屋」」です。

適塾における教育の中心は蘭書の会読でしたが、この予習のために塾生が使用した辞書がヅーフ辞書(長崎出身のオランダ商館長ヅーフがハルマの蘭仏辞書に拠って作成した蘭和辞書)であり、当時は極めて貴重で適塾にも一部しかなく塾生はヅーフ部屋と呼ばれる部屋につめかけ奪い合って使用した。

福沢諭吉は自ら述懐して、凡そ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強したといっている。


ヅーフ部屋の先にあるのは、塾生たちの大部屋です。


適塾は全国から駆けつけた塾生にあふれ、談論風発の気風はその後の明治維新の激動の中、日本の近代化に大きく貢献した多くの人材を輩出しています。

塾生には福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などをはじめ明治を切り開いた1,000人近い塾生が育ちました。

1869年に明治新政府は、洪庵の二男・惟準(これよし)や洪庵の弟子達、およびオランダ人教師・ボードウィンを迎えて大阪仮病院と大阪医学校を開設しました。大阪医学校は幾多の変遷を経て1915年に大阪府立医科大学になり、大阪帝国大学医学部へと発展していきました。


史跡公園

適塾のすぐ西側の史跡公園に「緒方洪庵」の銅座があります。

わが国唯一の蘭学塾の遺構
大阪大学が、この貴重な文化遺産を保護すべく、適塾の東西にあるビルを撤去し、大阪市、財界などのご協力を得て昭和61年に完成しました。


1838年(天保9)から1862年(文久2)の25年間大阪・船場にあって塾を開き若き人々の教育にも多大適塾の塾主は緒方洪庵(1810~1863)である。当代きっての蘭方の医者、学者であって、教育者でもありました。

その力量を知る幕府は1862年(文久2)、江戸に召しだし奥医師とすると同時に西洋医学所の頭取としたのである。洪庵不在の時期も義弟や子息、門下生達は塾を守り、さらに分塾をするほどに発展したが、明治新政府の教育制度の整備と共に発展解消し、大阪医学校、府立医科大学、さらには大阪大学へと発展し、今日にいたっています。


史実には、緒方洪庵は長崎から伝来した治療法をまとめ、和訳した『扶氏経験遺訓』を無料で医師に配布するなど、その情熱と正義感をひたすらに傾け、治療にあたっていたそうです。
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我が国唯一の蘭学塾の遺構②「大阪大学適塾記念センター 」

2019年12月28日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座

前栽の見える家族室〈客座敷の西隣)には
洪庵さんの夫人「緒方八重さん(1822~1886)」の写真。

本来病弱の夫「洪庵」を助け、多くの塾生と、患者の世話をよくし
9人の子供を立派に育てた適塾の陰の力になった八重夫人です。


納戸を通ると台所です。


天井の高い町家の台所です。


台所は書斎に通じています。(台所は写真左)

書斎からは、台所の入り口の横に見える廊下の先は
教室だったところで、いまは参観券を購入した受付になっています。


台所から撮った写真には(写真禁止のため)
薬研・ランビキ・乳鉢 などが展示されていました。


写真左に見える部屋が、家族室と台所の間にある納戸です。
2階へ上がる階段は一段が膝まである高さで、勾配のきつい階段でした。
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我が国唯一の蘭学塾の遺構①「大阪大学適塾(てきじゅく)記念センター」

2019年12月27日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
御堂筋を東に入り向かったのは「大阪大学適塾(てきじゅく)記念センター」です。


「大阪大学適塾記念センター」は、大阪大学が創立80周年を迎えた
2011年4月1日、大阪大学の新しい部局として誕生しました。


大阪市中央区北浜のオフィス街に現存する適塾は


我が国唯一の蘭学塾の遺構です。


現在は国史跡・重要文化財として内部を観覧することができます。


現存する適塾は、1845(弘化2)年に洪庵が当時の過書町に町屋を購入し
瓦町の旧適塾から移転して拡張した建物です。


適塾は、蘭医学研究の第一人者とされる


蘭方医緒方洪庵(1810-1863)が1838(天保9)年に開いた塾で
「適塾」の名称は、洪庵の号「適々斎」にもとづいて名付けられ
「適々斎塾」、略して「適々塾」「適塾」とよばれました


写真右が書斎で、中庭から応接間、客座敷、前栽が見えています。


ここでは西洋医学の研究をはじめとして
種痘事業やコレラ治療など、大きな医学史上の業績が生まれました。


適塾は幕末から明治維新にかけて
近代日本の国家形成に関与する幾多の人物を輩出しました。


客座敷から見える前栽です。

シーボルトやオランダ商館員も宿泊し、蘭書の取引なども行われたので
この部屋に通され、このお庭をご覧になられたのでは・・・(^^♪

長くなりますので次へと続きます。
コメント (2)
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Aちゃん、YUちゃんと「アナと雪の女王2」を見てきました!

2019年12月26日 | Weblog

エルザの好きな、YファミリーのAちゃん、YUちゃんと
『アナと雪の女王2』を見てきました。

第86回アカデミー賞で歌曲賞、長編アニメ映画賞を受賞した
『アナと雪の女王』の続編です。


Aちゃん、YUちゃんと一緒になって、久しぶりの映画を楽しんできましたが
館内は子供の姿より、若いカップルや女性同士が多かったので意外でした。

ステマを、映画「アナと雪の女王2」公開後にニュースで知りました!
数人の漫画家が、Twitterで“感想漫画”を投稿し、同じハッシュタグで「これはステルスマーケティングではないか」と指摘があったニュースです。

ステマを調べると、ステルスマーケティング(Stealth Marketing)の略で
Twitter、LINE などインターネット上の一部で使われている略語でした。

初めて聞く言葉が多くなり戸惑うこともありますが・・・
今は調べると簡単に分かるので、出来るだけ知りたいと思ってます。

6歳と3歳になったばかりの、かわいい子と一緒に映画を見るのも
新しい言葉を調べるのも、ボケ防止の一つになりますね。(^^ゞ
Aちゃん、YUちゃん、楽しかったよ! ありがとう~(^^♪
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ヨゼフ・モール司祭が1816年に書いた6行詩「きよしこの夜(Silent Night)」

2019年12月25日 | Weblog
世界で最も有名なクリスマスキャロルの一つ「きよしこの夜(Silent Night)」が
昨年、クリスマスイブに初演してから200年を迎えました。


クリスマスになったらいつも思い出す、私の好きな写真の一つは
2009年12月に、平安女学院のクリスマス カンタータで撮ったものです。
毎年同じ写真でごめんなさい。(^^ゞ

世界的に知られ、300の言語や方言に翻訳されるまでになった「きよしこの夜」の起源は、ナポレオン戦争後の貧困に苦しんでいたオーベルンドルフの村人たちを癒やそうと考えたヨゼフ・モール(Joseph Mohr)司祭が1816年に書いた6行詩という、つつましやかなものでした。

その2年後に、モール司祭は教師や聖歌隊の指揮者、オルガン奏者を務めていた友人のフランツ・クサーバー・グルーバー氏に、その詩に曲を付けてほしいと依頼。

「きよしこの夜」は、1818年12月24日、オーベルンドルフ村の礼拝堂に集まった信者である労働者と、その家族たちの前で初めて演奏されました。

作詞:ヨーゼフ・モール(1792-1848)
作曲:フランツ・グルーバー(1787-1863)

クリスマスツリーの、いちばん上に輝く大きな星は
キリストの誕生を知らせた不思議な星「ベツレヘムの星」です。

東方の三博士にイエス・キリストの誕生を知らせベツレヘムに導いた
クリスマスの星と言われ、キリスト教徒にとって宗教的な星なのです。


ワインと愉しむ「アンティパストセット」を買ってきました。(^^♪
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大阪・イチョウ並木がシンボルの御堂筋を歩く

2019年12月24日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
北御堂ミュージアムを出て、雨上がりの御堂筋を歩きました。(12月18日 水)


見慣れていた御堂筋には、新しいビルが立ち並び・・・


思い出のあるビルを探しても見つかりませんでした。


イチョウ並木は、大阪のシンボルで昔と変わらないのですが・・・

秋になれば多くの銀杏の実がなり、銀杏を拾う人の姿も多かったのですが
銀杏の放つ悪臭などが敬遠され、実のならない雄木に植え替えられています。

かつては400本ほどあったとされる雌木(実がなるのは雌木のみ)は
今年も植え替えが決まっているので、将来的には御堂筋から銀杏が消えて
いずれは、銀杏を拾った時代があったことは忘れ去られそうです。


御堂筋の名前の由来は、1927(昭和2)年の大阪都市計画によって
津村別院(北御堂)と難波別院(南御堂)の門前を結ぶ道が拡幅されました。
その拡幅された両御堂門前を結ぶ道が「御堂筋」だったのです。


御堂筋のブロンズ像19体に、赤い服が着せられた事件がありましたが
誰が着せたのでしょうね・・・?


光のアートフェスティバル「OSAKA 光のルネサンス」は
大阪のシンボルストリート・御堂筋を美しく彩る「御堂筋イルミネーション」

開催日程:2019年11月4日(月曜日)から12月31日(火曜日)
点灯時間:17時頃から23時
開催場所:御堂筋(阪神前交差点から難波西口交差点)

大阪・光の饗宴 2017 「御堂筋のイルミネーション」の時に
黄昏の御堂筋を歩いたことがあります。


このビルの間を通って、大阪大学適塾記念センターへ向かいます。
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大阪・2019年1月9日にオープンした「北御堂ミュージアム」

2019年12月23日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
大坂城の前は、北御堂(石山本願寺)さんだったことは知っていましたが
歴史クラブに参加して、北御堂ミュージアムに行ってきました。


本願寺津村別院の巨大な寺院の1階が、ミュージアムになっています。
内部は写真禁止

北御堂ミュージアム
本願寺と大阪の関わる諸資料を収集、調査、展示し、併せて広報活動を行うことにより、別院を訪れる方々へ、大阪と本願寺・北御堂の関係性を周知させ、歴史を通じて、文化の発展に寄与するとともに、寺院との関係をつなぐことを目的として、2019年1月9日にオープンしました。


ミュージアムから出ると・・・
御堂筋は、昨日からの雨で落ち葉も濡れています。


当時の津村御坊は
境内地面積、約2,000坪に、本堂(17間×19間)
書院、対面所(13間)、台所(9間×11間)等があり
当時の大坂にあって威厳を放つ荘厳な建物でした。

その後も拡張を続けた津村別院の境内地は
明治・大正期には約6,596坪になりました。


私達は、地下鉄御堂線の本町駅2番出口からミュウジアムに入りましたが
写真左が入口で、ここに「北御堂ミュージアム」の案内があります。


昔は、御堂筋の北から南まで歩いたことが何度もあって
北御堂さんは見ていたのですが・・・こんなに立派だったのですね。

南北両御堂のその門前には多くの門徒が集まり、「御堂さんの屋根が見える。鐘の音が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に仕事に精を出し、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。

また、現在の伊藤忠商事、丸紅の創業者、伊藤忠兵衛の遺言「たとえすべての事業・財産を失うことがあっても、他力安心の信心を失ってはならない」は殊に有名な言葉ですが、心の依りどころとして浄土真宗の教えを信仰し、日々を送っていたことが窺えます。


私達は「北御堂さん」と呼んでいましたが・・・「本願寺津村別院」でした。

1597(慶長2)年に町割改革により、当時「円江(つぶらえ)」「津村郷(つむらごう)」と呼ばれていた現在の地に移転し「津村御坊(つむらごぼう)」と称し、1876(明治9)年に津村御坊は「津村別院」と改称しました。

北御堂さんはこちらをクリックしてご覧ください。


除夜の鐘の集いでは、除夜の鐘を撞いた方に
年越しそば接待券が配られるそうです。


久しぶりの北御堂さんです。

北御堂さんの近くで、当時では珍しい紙鍋を頂いたことが思い出されます。
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