初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

客船「みどり丸」は静かに大海原を

2019年09月30日 20時50分28秒 | Weblog


私の乗った客船「みどり丸」は

大海原を航行して夜を迎えました

当時、非常時の戦時体制でした。

戦争は始まったばかりでつまり、

緒戦でしたから、日本近海の

制海権、制空権は

問題なかったのでしょう。





客室へ戻ると

母親は「明日朝、大連港に入港する

親父が迎えに来てくれる」と

久しぶりに再会する親父に

微笑んでいました…

… … …

私にとって船旅は生まれて

初めてでした

幸い、天候は晴天で静かな

旅が続いていました

久しぶりに親父との

再会を楽しみに








「みどり丸」甲板で

2019年09月29日 17時26分04秒 | Weblog


広大な大海原を航行する

客船「みどり丸」の甲板で

遠くの水平線が曲がって見える

風景?は、私にとって初めての

経験でした…





ボーッと海を眺めていると

私と同じように海を眺めている

お兄さん(青年)がいました…

フト見ると、お兄さんの耳が

潰れています…

そのお兄さんは私に気付いて

私に近寄ってきて

「私はラグビーの選手だった…」

その試合中に怪我をした…

私はラグビーの試合そのものを

知らなかったので、なんとも

激しいスボーツもあるもんだと

思いました…

… … …

今、日本で開催されている

ラグビーワールドカップで

日本チームの活躍を見ていて

思い出しました…







客船「みどり丸」は大海原へ

2019年09月28日 22時40分59秒 | Weblog


神戸港で近所の人々にテープで

見送りを受けたことは私にとって

初めての経験でした

… … …

客室(船室)で一休みしてから甲板へ

出てみました





乗船した「みどり丸」は神戸港から

どのような航路で進んだのか

覚えていません。…

見渡す限り大海原で島影は

見えません

小学生だった私にとって船といえば

琵琶湖で島巡りで湖(みずうみ) を

回ったぐらいでした…

今、乗っている「みどり丸」は

隅っことはいえ太平洋を航行

しています。

甲板から遠くを眺めると、

水平線しか見えません

そして、その水平線は直線では

なく少しカーブして見えます

地球は丸いんだなあと実感しました



客船「みどり丸」いよいよ出港

2019年09月26日 21時25分20秒 | Weblog



神戸港で私らは客船「みどり丸」へ

乗船しました。今から思うと日本の

神戸港と満洲大連港は近く感じられますが

当時は、船で一泊して翌朝大連港へ着く予定

でした…

従って、船では一室設けられていました。

船室から甲板へ出てみると、京都から一緒に

やって来た近所の人々が見送りデッキに見えます

やがて、出港の時間が来て、銅鑼が鳴らされます

「ジャン…ジャン」と港に響き渡ります…





見送りの人々から私らに、数本のテープが

投げられました

我が母親も港のデッキに向かって

テープを投げました…

銅鑼の音が止むと、

私らの乗った客船「みどり丸」は

いつの間にか、静かに港を離れていました。

船が港から離れていくにつれて

お互いに手に持ったテープがピンと張り詰めます

港の近所の人々がテープを離したのでしょう

テープは私の手に残って、風に吹かれて

ヒラヒラなびいていました…

… … …

横で一緒に見送りを受けていた母親は

「しばらく日本とお別れね…」といいました。








満洲へは旅客船「みどり丸」で

2019年09月25日 19時33分05秒 | Weblog



引っ越しで、家財道具の

荷造り発送がどれだけ日数が

かかったのか何分古いことなので

覚えていません…

兎に角、家の中はすっかり

片付いてしまって、広く感じられました

私にとって77年前で9歳の出来事でした





京都の住まいは…

京都市左京区下鴨下川原町15番地

でした。

神戸から船で満洲國の

大連(だいれん)港へ向かいます

いよいよ出発です。

朝早く、神戸港へ向かいました。

親しくして下ったご近所の人も

大勢、神戸港で、見送ってくださいました

満洲行きの旅客船はたしか、「みどり丸」

でした…








母親の伝票への書き込みが大変

2019年09月24日 19時00分39秒 | Weblog


海外(満洲國) への引っ越しは

大変でした。

船便で送る家財道具の荷造りは

オーバーなものでしたが

しかし、荷造りは日通の業者さんら

がするので別に大変では無かったのです

しかし、母親が別の意味で、大変でした…



母親は、荷造りする業者さんの傍らで

包装されていく家財道具の内容を

伝票に書き上げていきます

毎日、毎日、一週間ぐらい

続きました…

肝心の親父といえば、渡満組の

スタッフを連れて先に、満洲へ

行ってしまっています



引っ越しが済んで落ち着いてから

母親は親父に

「酷い目に遭わされた」

と文句を云っていました







大袈裟な家具の荷造り

2019年09月23日 18時55分07秒 | Weblog


最近の引っ越しは、専門の業者がいて

段ボールの箱を用意して

数人の業者さんがやってきて

手際よく荷造りをしてくれます…

そして、転居先の家の部屋へ

並べる家具の

配置図を渡しておくと

数日後、転居先の部屋へ入って

見ると、すでにキチッと家具が

並んでいるという…

スゴイサービスがあります。





今から77年前の昭和17年(私は9歳)の

海外(満洲)への引っ越しの荷造りは

大変でした…

例えば、タンスの荷造りは、まず

タンスを藁ムシロで包んで

細い板をタンスに合わせて切断して

釘止めする大変な作業でした

船便で運ぶのですから頑丈な荷造り

でした…

… … …

等身大の大きな鏡のついた洋風タンスの

荷造りでは、厳重な荷造りなのですが

大きな鏡のところは、ムシロをかけないで

外からみて鏡が、丸見えになっています。

私は荷造りをしている業者の兄ちゃんに

なぜ、鏡を丸見えにして、荷造りするのか聞きますと

「船に積む人がこの丸見えの鏡を見つけると

鏡を割らないように丁寧に扱ってくれる」

と、説明してくれました





家の中は引っ越しで大変

2019年09月21日 20時38分00秒 | Weblog


小学生だった私にとって

引っ越しは初めてです。

しかも、一寸した引っ越しでは無く

外国、満洲へです。

家の家財道具一式が

船便で送られるのですから

日通の職人さんによる荷造りも

大袈裟で大変です



荷造りをしている職人さんの

傍らで母親は、一つ一つ伝票に

書き込んでいきます

日本は、戦時体制の真っ最中ですから

船便で送る荷造り品の内容を

かなり詳しく書いていました








渡満の準備始まる

2019年09月20日 23時04分25秒 | Weblog


親父はこの戦時体制、非常時のさなか

外国つまり、満洲國へ転勤?になることに

なりました…

そして、親父は東京へ打ち合わせなどで

度々出掛けて居ました

当時、小学生だった私には

細かなことはわかりません



確か、大東亜戦争勃発の翌年の

夏に渡満予定だったはずでした

左京区下鴨下川原町××の住まいへ

満洲への引っ越しの荷造りに

日通?から数人やってきました






満洲映画協会(満映)

2019年09月18日 20時11分43秒 | Weblog


日本の映画界は大きな映画会社のほかに

プロダクションや、小さな撮影所など

が、あったようです…

もっとも、私は小学生でしたから

細かなことは知りません



第二次世界大戦が始まって

日本は非常時で戦時体制になりました

映画界の余剰技術者をまとめて

親父が代表となって、隣国、満洲の映画会社、

満洲映画協会(満映=まんえい) へ行くことに

なりました。

また、満映へ行かなかった技術者の何人かは

中国、南方戦線の取材記者?として

派遣されました…