野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

「核態勢の見直し」と核共有

2022年03月20日 | 研究活動
日本に拡大抑止(核の傘)を提供するアメリカは、4年前に、「核態勢の見直し(NPR: Nuclear Posture Review)」を発表しました。このアメリカ政府の公式文書は、同国の核戦略の概要を示す重要なものです。NPRは、1994年に初めて公表されてから、2018年版で4回目の報告になります。アメリカの同盟国である日本は、外務省が、その概要と評価をウェッブ・ページで紹介しています。日本政府は、外務大臣談話として、2018年版のNPRを以下のように、肯定的に評価しています。

「今回のNPRは、前回のNPRが公表された2010年以降、北朝鮮による核・ミサイル開発の進展等、安全保障環境が急速に悪化していることを受け、米国による抑止力の実効性の確保と我が国を含む同盟国に対する拡大抑止へのコミットメントを明確にしています。我が国は、このような厳しい安全保障認識を共有するとともに、米国のこのような方針を示した今回のNPRを高く評価します」。

2018年版のNPRについては、国防省傘下にあるアメリカ国防大学の機関誌 Joint Force Quarterly が特集を組んで分析しています。この学術誌は、日本では、ほとんど知る人はいないでしょう。今回のブログ記事では、日本のことにも言及している同雑誌に掲載された、ある論文の内容を紹介したいと思います。Ryan W. Kort, Carlos R. Bersabe, Dalton H. Clarke, and Derek J. Di Bello, "Twenty-First Century Nuclear Deterrence: Operationalizing the 2018 Nuclear Posture Review," Joint Force Quarterly, Vol. 94, No. 3, July 2019 です。著者はアメリカ軍の佐官級の将校です。なお、本論文の掲載内容は、アメリカ政府や国防省、国防大学の見解を代表するものではないとのことです。

論文の冒頭では、著名な核戦略家だったトーマス・シェリング氏のちょっと物騒な言葉が引用されています。「痛めつける力、すなわち誰かが大切にしているものを破壊するという、まったくもって何かを欲するのでもなく生産するわけでもない力は、一種のバーゲニング・パワーであり、それは簡単には使えないが、しばしば使われるのだ」(Arms and Influence, Yale University Press, 1966, p. v) 。この一節は、核兵器が国家間のバーゲニングにおいて最大のパワーであることを示唆するために、引用されたのでしょう。

そして著者たちは、これまでのNPRを批判することから議論を始めています。「1994年からのNPRの調査は、(軍事)作戦を行う環境が変化したにもかかわらず、国家は、遺物のような核抑止概念に頼っていることを例証している…アメリカは核兵器の近代化が遅れる一方で、他のグローバルな競争相手は主導権を握ったのだ…アメリカは冷戦以降、ほとんど同じようなやり方で、核抑止を実行しようとしてきた…『第二の核時代は、アメリカが核兵器の作戦を抑制し続けたことが生み出した、核兵器の力の真空として広く説明できる…中国と北朝鮮はこの機会を利用して、核兵器の作戦概念と能力を向上したのだ」(74-76ページ)。このように著者たちは、アメリカの核戦力の低下と核戦略の停滞に危機感を募らせています。

その後で、中国と北朝鮮の核兵器が分析されます(ロシアの核戦力に対する言及は割愛します)。「中国の拡大する核抑止ドクトリンと能力は、アメリカの核抑止の遂行の仕方に深刻な戦略的挑戦となっている。2016年、習近平は中国の第二砲兵を独立した中国人民解放軍ロケット軍に格上げして、全ての核戦力に対する指揮・統制を固めた…『中国はいくつかの新型で多様な攻撃用ミサイルの開発・試射を行い、旧式のミサイルシステムを改良して、弾道ミサイル防衛を突破する方法を開発している』…北朝鮮は核兵器を保有し続ける限り、それが何発であれ非常に現実的で現存の危険であり続ける…もし抑制されなければ、北朝鮮は東アジア地域、そして、おそらく、いつかはアメリカ自体を脅かすだろう。北朝鮮のミサイル実験に対して、日本や韓国は『アメリカがこれらの国々を守ろうにも、そうすることは北朝鮮からのロサンジェルスやワシントンへのミサイル発射を引き起こしかねないので、躊躇するかもしれないとの懸念から、核武装の選択』を検討したと伝えられている」(77ページ)。このように中国と北朝鮮の強化される核兵器が、日本や韓国の核武装を促す懸念が示されています。

これらの戦略分析を踏まえて、著者たちは以下のような驚くべき政策を提言しています。

「アメリカは、敵国に対する質的、概念的優位を再び取り戻して、それを維持するのであれば、迅速に行動しなければならない…断固とした行動をとらず、必要な概念やこの戦略を可能にする関連能力を構築できなければ、アメリカの拡大抑止の傘は破れてしまい、同盟国は強制に対して脆弱になり、核戦争の可能性が高まるだろう。今、大胆な行動をとれば、政治的、軍事的リスクは低減できるだけでなく、アメリカは懸念すべきアクターに対して、強い立場から誤算やエスカレーションのリスクを軽減する機会も与えられるだろう...さらに、アメリカは危機に際して、選ばれたアジア太平洋のパートナー、とりわけ日本や韓国と非戦略核能力を管理された形で共有することを含む、物議をかもすであろう新しい概念を強く考慮すべきである…この態勢は政治や軍事の制約ゆえに、NATOの非戦略核の運用方式をまねることにならないだろう…東アジアにおける非戦略核能力の前方展開は、アメリカの地域的な同盟国に多大な安心を供与することにより、さらなる優位を提供することになる…一連の行動はアメリカの決意の新たな物理的証明となるだろう。これは統合地域演習を通じた軍事的パートナーの強化と協力への道も切り開くだろう。これらすべては、潜在的な敵国を抑止して、同盟国に安心を供与するために必要なことなのだ」(77-78ページ)。

この論文は、アメリカ政府や軍の意見を代表しないとはいえ、現役の将校が、これまでの核戦略を公に批判すると共に、日本や韓国との核兵器の共有まで提言していることには、正直、驚かされます。日本で現役の自衛官が、日本の既存の防衛政策を批判したり、アメリカとの核共有を提案したりするなど、とても考えられません(そんなことをしたら社会的な大騒動になるでしょう)。アメリカ国防大学において「アカデミック・フリーダム」が徹底されているからこそ、また、シビリアン・コントロールに自信があるからこそ、こうしたタブーなしの論考を将校に発表させることが許されるのでしょう。同時に、現役の軍人たちの指摘は、おそらくアメリカの軍事組織の改善や国防政策の見直しにフィードバックされるのでしょう。日本とアメリカは、民主主義の価値を共有する同盟国ですが、両国の軍事組織の文化は、これほどまでに違うものなのだと感じさせられました。



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核兵器の共有(Nuclear Sharing)に関する論文紹介

2022年03月17日 | 研究活動
ウクライナ戦争において、ロシアが核兵器による恫喝を行ったこと(核戦力部隊の「高度な警戒態勢」への移行)は、日本における核共有の議論をにわかに活発化させました。これまでも「核兵器の共有」や「非核三原則」の見直しについて、前者は石破茂衆議院議員が、後者は加藤良三元駐米大使が、議論をすべきだと主張していました。ウクライナ危機後は、安倍晋三元首相が、核共有について、その是非を話し合うべきだと発言して、大きな話題になりました。

このブログ記事では、日本ではあまり注目されていない、アメリカの専門家の核共有に関する分析を紹介したいと思います。ここで取り上げる論文は、エリック・ヘジンボーサム氏とリチャード・サミュエルズ氏(共にマサチューセッツ工科大学)が、昨年春に『ワシントン・クォータリー(The Washington Quarterly)』誌(第44巻第1号、2021年)に発表した共著論文「北東アジアにおけるアメリカの同盟の脆弱性―核兵器の含意―("Vulnerable US Alliances in Northeast Asia: The Nuclear Implications")」です。ヘジンボーサム氏は、ランド研究所で米中衝突時の戦争シミュレーション(「米中軍事スコアカード」)をまとめた戦略研究の第一人者です。サミュエルズ氏は、日本の安全保障研究で世界的に有名であり、日本語に翻訳されたかれの著作としては、『特務ー日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史―』(小谷賢訳、日本経済新聞社、2020年〔原著2019年〕)『日本防衛の大戦略—富国強兵からゴルディロック・コンセンサスまで―』(白石隆監訳、中西真雄美訳、日本経済新聞社、2009年〔原著2007年〕)などがあります。

ヘジンボーサム氏とサミュエルズ氏が上記の論文で主張している骨子は、中国や北朝鮮の増大する脅威にさられる一方で、日米同盟が漂流しかねない状況におかれている日本にとって、核共有は、その安全保障にとって有力な1つの方策であり、アメリカの国益にもかなうということです。かれらがどのような分析を経て、上記のような結論に至ったのかについて、論文の要所を抜粋しながら確認してみたいと思います。

かれらは序論で次のように述べています。「北東アジアにおいて高まる脅威と挑戦にもかかわらず、アメリカの同盟国に対するコミットメントは、より不確実になってきた…数十年にわたって同盟の効率性を高めてきた役割と任務にもとづく軍事的な分業から、日本も韓国も遠ざかっている。両国における核兵器に関する議論の広がりは、おそらく最も目を引くものである。核武装は日本や韓国の自衛力を強化し得るであろうが、バランス・オブ・パワーをかならずしも向上させるわけではない…これは中国のパワーに対する武装中立を生み出す「タートリング」(カメが頭や手足を甲羅に引っ込めるように重厚な防御体制を構築すること、引用者)につながる可能性が高いだろう。この論文では、これらの考えを発展させ、アメリカが長期にわたって北東アジアの同盟国を支援してきたことを放棄するのではなく、むしろ調整するための前向きな提案を示すことにする」(157-158ページ)。

要するに、日本が中国や北朝鮮の脅威に対処できるよう、アメリカとして同盟を堅持するために何ができるかを提案するのが、この論文の目的だということです。ヘジンボーサム氏とサミュエルズ氏は、続いて、北東アジアにおける安全保障環境の現状について分析を進めていきます。

「東京とソウルは安全保障環境の未曾有な不確実性に直面している。バランス・オブ・パワーは、双方に不利な形で急速に変化しており、両国の安全保障を担保するアメリカは、予測不可能な兆候を見せている…2019年には、中国のGDPは日本の3倍にまで成長した…防衛費に関して、中国は日本の4から5倍を支出している…中国は現代的な戦闘機を日本の4倍も配備しており、海軍も日本より規模が大きい…日本の多くの地域も、中国の基地から発進する軍用機が、無給油で飛行できる範囲(約1000キロ)内外に収まっている…ソウルと東京の指導者は、グローバルな規模で深く関与するという戦後のコンセンサスを疑問視しているアメリカという同盟国とも向き合わなければならない…かれらは…(トランプ大統領が)アメリカは『世界の警察官にはなれない』と宣言したことを聞いてしまったのだ。

バイデン大統領は異なる政策の優先順位を設定しているが、国内の有権者と海外の同盟国との間でどのようなかじ取りをするかは定かではない…民主党には、国防予算を大幅に削減することを既に押し進めている者もいる…紛争時に同盟国を防衛するアメリカの意志と、より重要なことであるが、その能力について新たな疑問が生じるかもしれない。増大する地域的脅威とまずます不確定な同盟国に直面した東京とソウルは、より確実な自主性を求めるという選択肢を評価しているのだ。かれらはアメリカの国内政治の展開次第では、アメリカの海外へのコミットメントへの支持が大幅に縮小する可能性にも気づいている」(158-160ページ)。

日本政府は、中国の増大する脅威とアメリカの安全保障の提供が危うくなる事態を懸念して、いわゆる「自主防衛」の路線を真剣に検討しているとかれらは分析しています。そして、日本が中国の台頭と日米同盟の弱体化のリスクを避ける4つの方策をそれぞれ検討しています。それらは、①通常戦力の増強、②地域的安全保障パートナーシップの深化、③中国に便宜を図ることを含めた協調的安全保障体制、④核兵器、です。

「第一の提案は、他の選択肢の支持者のほぼ全員が擁護しており、日本自体の軍事能力を強化することを強調している…第二のアプローチは、志を同じくするパートナーとの戦略的関係を深めることをともなうものであり、現在進行しているプロセスだ…しかし、これにはアメリカの衰退に備えることも必要である…第三のオプションは中国とアメリカの間で再度バランスをとるものだ…日本が新しい『多層的な』安全保障のアーキテクチャーを主導することだ…これら最初の3つのオプションは、ゲーム・チェンジャーではない…通常戦力のギャップは単純にいって、自前の能力や中小国との同盟では、埋められないほど大きい。そこで登場するのが、核兵器という選択肢になる。何十年もの間、日本の戦略家は、アメリカの拡大抑止に信ぴょう性がある限り、核武装は日本の利益にならないだろうと、ほぼ一致して主張してきた。このことは繰り返し確認されてきた一方で、いく人かの主流な戦略家は今日において、拡大抑止の信ぴょう性を精査している」(161-162ページ)。

ヘジンボーサム氏とサミュエルズ氏は、日本が安全保障を高められるであろう選択肢を検討すると、核兵器は排除できないと指摘しています。しかしながら、かれらは日本の核武装はバランス・オブ・パワーを改善することにはならないと推論しています。

「核武装すれば、どちらの国(日本と韓国)も国家の最も基本的な安全保障上の要件を満たすことができるが、他方の国の不安を悪化させてしまうだろう。重要なことは、核兵器は地域的なパワー・バランスの不均衡を回復するものではなく、中国が地域のあちこちで行動する能力を制約しないだろうということである。核兵器は地域により容易に展開できる他のアセット(たとえば、軍艦や航空機)を犠牲にしてしまうのだ…要するに、日本と韓国の軍事的自立は、たとえそれが核武装という条件下であっても、地域的な…政治秩序は中国の優位を反映するようになる可能性が高い」(168ページ)。

このようにかれらは、日本独自の核武装は、バランス・オブ・パワーを均衡に近づけることにはならないと結論づけています。こうした分析を踏まえて、ヘジンボーサム氏とサミュエルズ氏は、以下のような政策を提言しています。

「地域的なバランス・オブ・パワーを維持することはアメリカの利益なのだから、アメリカの北東アジアの二国間同盟は維持され、支援されるべきである。何かと多くの悪評がある東アジアのハブ・アンド・スポーク型のアメリカの同盟は、今日までアメリカの役にとても立っているし、引き続きそうなるよう調整されるべきである。ワシントンは、日本、インド、オーストラリアとの、より発展された四か国安全保障対話を含め、多国間防衛体制に門戸を開放し続けるべきだ。しかしながら、クアッドの時代は、もしメンバー国の状況が変われば到来するかもしれないが、まだそこまでに至っていない…アメリカはそれぞれの北東アジアの同盟内で、通常戦力の任務と役割と分業の議論を同盟国と再活性化するべきである。発展し続ける中国の能力は、アメリカとその同盟国が限られた資源を効率的に展開することを至上命題としている。

最後に、アメリカは同盟国の核の不安に対処しなければならない一方で、核武装に向けた動きを止めなければならないだろう。中国や北朝鮮の核兵器が増強され、射程を伸ばし、残存性を向上させていることが、韓国や日本に拡大抑止の信頼性への懸念を生じさせるのは自然なことである。これらの懸念は収まりそうにないため、また、核兵器が拡散しない方が、よりアメリカの利益になるため、ワシントンは同盟国が独自の核武装を最良の選択と考えるのを防ぐために、追加の措置を検討すべきである。

これらはソウルと東京にそれぞれ核計画部会(nuclear planning groups)を設立すること、(アメリカの統制下においてNPTの制限内で)戦時の核兵器の共有に向けた韓国と日本の受け入れ態勢を模索することが含まれ得るだろう。こうした準備には、ハードウェアの変更(例えば、核兵器の運搬用に同盟国のF-35を認証すること)や新しいシステムの取得、戦術核攻撃や指揮・統制に従事する航空あるいは海上のクルーの訓練が含まれ得るだろう。共有は、物理的存在に伴う問題を避けながら、同盟国の領土外で行われることになるかもしれない。例えば、訓練はアメリカ本土で実施できるだろう。同盟の核兵器を用いた作戦はグアムから、あるいは、より遠い将来においては、沖合の艦船もしくは潜水艦から発射される巡航ミサイルによって始められるかもしれない。これらの提案は、冷戦時代の前例にもとづくものであるが、現在のニーズに合致するだろう。

国家安全保障戦略は、状況の変化にあわせて常に微調整することが求められる。北東アジアの同盟の枠組みを再び調整する時が到来したのだ。われわれの分析は、日本と韓国の戦略家がアメリカとの同盟が最良であり、おそらく唯一の実行可能なオプションであるのは事実だと認めることを示唆している」(169-171ページ)。

このようなヘジンボーサム氏とサミュエルズ氏の政策提言には、賛否があろうことと思います。興味深いことに、実は、オーストラリアでは、核共有が議論されています。同国のローウィ研究所は、原子力潜水艦を用いたイギリスとの核共有を考えるべきとの政策提言を行っています。その背景には、上記の分析と同じように、中国の脅威が高まる一方で、アメリカが同国へ提供する「核の傘」が揺らいでいるとの判断がありました。なお、与党の自民党の安全保障調査会は、年末に向けた「国家安全保障戦略」への提言に核共有を盛り込まない見通しだと伝えられています。これで日本は核共有を行うことなく、新しい国家安全保障戦略を練ることになりそうです。

現在、日本の安全保障は岐路に立たされています。ヘジンボーサム氏とサミュエルズ氏の指摘を待つまでもなく、北東アジアのバランス・オブ・パワーが日本にとって不利に推移していく傾向は、今後も続くことでしょう。また、日米同盟もアメリカの相対的なパワーの盛衰に大きく影響されることでしょう。日本の政治指導者は、国家の安全保障を確保する上で、今後も難しい舵取りを迫られるのは間違いないでしょう。

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政治心理学とロシア・ウクライナ戦争

2022年03月15日 | 研究活動
ロシアの戦争開始の政策決定について、プーチンの思考が推察されていますが、「政治心理学」で多くは説明できそうです。以下は、スティーブン・ウォルト氏(ハーバード大学)による『フォーリン・ポリシー』誌のブログ記事からの抜粋です。

【プロスペクト理論】
「人間は…損失回避のためなら、より大きなリスクを厭わない…プーチンは、ウクライナが米国やNATOとの連携へと徐々に傾いてると確信したなら…彼が取り返しのつかないとみなす損失を実現させないことは、一か八かの賭けに値するものなのかもしれない」。

※プロスペクト理論は、ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞受賞)とエイモン・トベルスキーにより確立されました。 Daniel Kahneman and Amos Tversky, "Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk," Econometrica, Vol. 47, No. 2 (Mar., 1979), pp. 263-291.

【属性バイアス】
自分の行動は環境のせいにして、他人の行動はその人の本性のせいにする傾向も、たぶん関係している。現在、西側の多くの人は、ロシアの行動をプーチンの非道な性格が反映されたものであり、以前の西側の行為への反応とは解釈していない…プーチンからすれば…米国とNATOの行為は生来の傲慢さから生じたのであり、ロシアを弱い立場に置き続けたい深い願望に根ざしており、ウクライナは誤導されている…と見えるのだろう」。

【誤認】
「誤認に関する膨大な文献は、とりわけ故ロバート・ジャーヴィスの画期的な研究が、この戦争について、われわれに多くを教える。今やプーチンが多くの面で深刻な誤算をしたのは明らかだ。彼はロシアに対する西側の敵意を過大評価し、ウクライナの決意をひどく過小評価し、迅速かつ安上がりな勝利をもたらすはずだと自軍の能力を過度に見積もったようだ」。



【自信過剰】
「恐怖と自信過剰の組み合わせの…典型だ。国家は素早く相対的に低コストで目標を達成できる確信がなければ、戦争を始めたりしない。長く血みどろの高くつく敗北に終わるだろうと信じる戦争は、誰であれ始めない」。

【認知不協和】
「さらに、人間はトレードオフを扱うのは居心地が悪いので、一度戦争が必要だと決めたら、上手くことが運ぶだろうと見込む強い傾向がある…この傾向は政策決定過程から異論が排除されると酷くなり得る」。

要するに、プーチンの決定は、彼を「非合理的な狂人」と見なさなくても、説明できるということです。ウォルト氏は、「残念なことに、誰一人として権力の座にいる者は、学問的成果に深い関心を寄せていないようだ」と嘆いていますが、わたしもまったく同感です。政策立案者や専門家、市民が、国際関係理論をもっと活用すれば、ロシア・ウクライナ戦争への理解が深まり、より良い対応ができると思います。

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国家の評判と決意の信ぴょう性

2022年03月12日 | 研究活動
抑止政策の成否を左右する1つの重要な要因は、決意の信ぴょう性だといわれています。すなわち、耐え難い損害を与えると脅された相手が、抑止国の決意は固いをと信じれば、望ましくない敵対的行動を控えるということです。ここで問われることは、何が決意に関する信ぴょう性や評判を生み出すのかです。リアリストは、パワーや利益が決意の源泉であると主張してきました。国家は、決意や威嚇が本物かどうかを過去の行動からではなく、自国と敵対国との相対的なパワーや利益で判断するということです。この理論が正しければ、国家は危機や紛争で相手に妥協したり引き下がったりしても、その評判や信ぴょう性を落さずに済みます。したがって、もっぱら自らの評判や信ぴょう性を維持するために不必要な対決姿勢をとったり、強い決意を示すために利害の小さな紛争へ軍事的に介入したりすることは、避けるべきだということになります。このような立場をとる代表的な研究者は、このブログでも紹介したダリル・プレス氏(ダートマス大学)です。かれは、威嚇の信ぴょう性は対象国の過去の行動ではなく、その時々のバランス・オブ・パワーにより判断されることを事例研究により明らかにしました。

他方、古典的なバーゲニング理論では、国家が過去にとった行動は、当該国に対する決意の評判や信ぴょう性を左右すると説明されていました。トーマス・シェリング氏は、今では、この分野で既に古典となった名著『軍備と影響力(Arms and Influence)』において、以下のように主張しています。

「見方というのは、それ自体が勢いを持つ。この最後のことは、かなりの程度、本当なのだ。ある危機において、今日、何を行うかは、明日、何を行うだろうかを予期することに影響するからだ…一連の外交的対立において、いかにして評判が弱さの兆候へと収斂していくのかは、まったく分からない。どう(対立から)手を引くと、自分自身が臆病に見られたり、傍観者にそう見られたり、敵にそう見られたりし始めるかは、まったく分からない。屈服は上記のような非対称な状況をつくってしまうと、どちらの側も感じる状況に陥ることはあり得る。それは降伏者の代償を求めない行為のようなものだから、誰であろうと引き下がってしまったら、明日かそれ以後は屈しないだろうことを誰かに言い聞かせても無駄だろう」(Thomas C. Schelling, Arms and Influence, Yale University Press, 1966, p. 93)。

シェリング氏は国家がある危機や紛争で引き下がると、その決意は疑われることになると警告しているのです。これが正しいとするならば、国家は自分の決意や信ぴょう性の評判を保持するためには、代償を払う価値があることになります。

このように決意の評判や信ぴょう性の原因については、意見が分かれています。ですので、これは研究上も政策上も、克服されるべき重要な課題でしょう。アレックス・ウェイジガー氏(ペンシルバニア大学)とカレン・ヤリ=ミロ氏(コロンビア大学)は、論文「評判再訪―いかにして過去の行動は国際政治において問題なのか―("Revisiting Reputation: How Past Actions Matter in International Politics")」(International Organization, Vol. 69, No. 2, Spring 2015) において、「軍事化された国家間紛争(MID: Militarized Interstate Dispute)」のデータセットをつかって、定量的手法により、この疑問を解き明かそうとしました。



はじめに、彼女たちは、「決意(resolve)」をジョナサン・マーサー氏(ワシントン大学)の先行研究に従い、「国家がその目的を達成するために、どのくらい戦争のリスクを冒すかの程度」と定義します。そして、決意の信ぴょう性に関する仮説を統計に検定するのですが、その前に、過去の行動が決意の信ぴょう性に影響を与えた1つの事例として、フォークランド紛争に言及しています。アルゼンチンがフォークランド島(マルビナス島)を奪還するに際して、イギリスの予想される反応を同国の過去の行動から判断していた証拠として、フンタ(軍事評議会)のコスタ・メンデス外相の発言を引き合いに出しています(前掲論文、478ページ)。

「(スエズ危機時の)1956年からイギリスの行動は常に交渉であって、軍事力を基礎にしたものではなかった…ローデシアは最近の例であった。そこでイギリスは60万人ものイギリス人を見捨てた。こういった認識を合わせて、イギリスは軍事的反応をしないだろうという結論が導き出された」(デイヴィッド・ウェルチ、田所昌幸監訳『苦渋の選択―対外政策に関する理論―』千倉書房、2016年〔原著2005年〕、128ページに引用)。

要するに、アルゼンチンは、イギリスが過去に軍事力を行使する決意に欠いていたことから、フォークランド(マルビナス)諸島に侵攻しても、戦争に訴えないだろうと判断したのです。そのうえで、ウェイジガー氏とヤリ=ミロ氏は、決意の評判に関するいくつかの仮説を1816年から2001年の間に起こった2332件の軍事化された事件(incidents)から統計的に検定することで、一般化された結論を導いています。すなわち、紛争において引き下がることは、当該国家が、その後に挑戦をうける可能性を高めるのです。過去の行動は決意や威嚇の評判に重大な影響を与えるということです。興味深いことに、著者たちは、プレス氏らの先行研究と自分たちの発見との乖離を埋める説明を試みています。危機時における意思決定において、敵国の過去の行動から収集された情報は、より広義な利益の判断に紛れ込んでしまうので、見過ごされやすいということです(前掲論文、492ページ)。これをフォークランド紛争の事例にそって述べれば、フンタは、過去の行動からして、イギリスは地理的に離れた紛争への軍事介入に利益を見いださないと判断したことになります。敵国の過去の行動に関する記録は、その国が危機や紛争にどの程度の利害を持っているのかを計算する際に埋もれがちなので、政策決定者の発言や文書には表れにくい。だから、事例研究では、過去の行動が決意や威嚇の評判に与えた影響は観察しにくいということでしょう。

ただしウェイジガー氏とヤリ・ミロ氏は、シェリング氏のバーゲニング理論を全面的に肯定しているわけではなく、その限界も指摘しています。過去の行動は、決意や威嚇の評判に普遍的な影響を与えるわけではありません。過去の行動は、同じような危機や紛争においては、国家の決意の評判に関する判断に強く影響しますが、あまり似ていない危機や紛争では、弱い効果しかないということです(前掲論文、492ページ)。著者たちの論文から、危機や紛争の類似性に関する明確な定義は見いだせませんでしたが、つまるところ、評判はそれらの状況や文脈に大きく依存するのです。たとえば、領土紛争で引き下がってしまうと、新しい領土紛争で挑戦を受ける可能性が劇的に上昇します。ある領土紛争で前年に屈服した国家は、過去10年間で屈しなかった国家よりも、15倍も挑戦を受けやすくなると、ウェイジガー氏とヤリ・ミロ氏は結論づけています(491ページ)。もしこの命題が正しいとするならば、領土紛争で譲歩した国家は、将来に高い代償を支払うことになります。なお、著者たちは、国家の評判は、政権交代が起きても、引き続き過去の行動から判断されることを統計検定から明らかにしています。これは直感的には理解しにくいのですが、決意や威嚇の信ぴょう性は、国家は指導層ではなく国家そのものの行動から判断されるようです。

研究者にとって悩ましいのは、同じ課題に対して、定性的方法と定量的方法の分析が、それぞれ異なる回答を提出する研究成果は珍しくないことです。同時に、これは政策決定者にとっても、頭の痛いことでしょう。抑止は国家安全保障にとって死活的な戦略です。もし抑止の威嚇の信ぴょう性はバランス・オブ・パワーや利益によって決まるのであれば、国家は自国優位の軍事バランスを保ちつつ、対決と妥協をうまく使い分けながら、危機や紛争を乗り切るべきだということになります。しかしながら、敵対国に妥協してしまうと抑止の脅しがブラフと受け取られやくなるのであれば、国家は危機や紛争には、基本的に対決姿勢で臨むべきだということになります。これは国家にリスク受容の行動を促すことを意味します。シェリング氏の画期的な研究から半世紀がたっても、対決や威嚇の信ぴょう性に関する因果関係については、まだハッキリしたことは分からないと考えた方がよいのかもしれません。

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政治学の「科学化」と政策提言

2022年03月09日 | 研究活動
政治学や国際関係論は、政策立案において、どのような役割を果たすべきなのでしょうか。自然科学における「基礎研究」のように、客観的な事実を追究すること自体に価値があるのであり、政治学や国際関係論もそうすべきだという見解があります。その一方で、これらの学問は、世界で実際に起こっていることへの対策を講じるのに貢献するべきだとの意見もあります。後者の立場から、政治学は政策から離れていることに警鐘を鳴らす重厚な研究書が、マイケル・デッシュ氏(ノートルダム大学)による『無関係性の崇拝―社会科学の国家安全保障への減退する影響―(Cult of the Irrelevant: The Waning Influence of Social Science on National Security)』(プリンストン大学出版局、2019年)です。



デッシュ氏は、膨大なデータから、政治学が定量的で数理化すると、政策の処方を行わなくなる傾向が認められることを実証しています。事実、この40年間で、政治学のトップジャーナルに掲載された国際関係論の論文は「科学化」する一方で、ますます政策から距離をとるようになりました。1980年時点においては、定量的・数理的アプローチをとる国際関係論の論文は全体の30%以下でした。ところが、2012年になると、その割合が倍以上に急増したのです。他方、政策的処方箋を示した論文は、1980年において約15%だったのが、2012年では10%を切ってしまいました。政治学がこうした状況になってしまったことを、かれは次のように説明しています。「現代科学の進歩は皮肉なことに、それ(政治学)がより専門的になるにしたがい、具体的な問題にますます直接適用できないものにしている…洗練された社会科学の方法(モデル、統計学、難解な専門用語)は、専門家以外の参入を阻む理想的な障壁を提供している…テクニックとして狭く定義された厳密さの追求は、政治学が実践的問題にますます関連しなくなることを意味する」(同書、3-15ページ)。

こうしたデッシュ氏の危機感は、健全な民主国家を形成する政治学の役割が失われつつあることから生じています。この点は重要なので、かれの主張を以下に引用します。

「学者は政策立案者より、他のいくつか優れた点がある。かれらは(国家が直面する)問題や地域について、大半の政策決定者に比べて、より深い知識を発展させる時間を持っている。組織での終身在職権は、少なくとも理論上は、かれらに論争となっている問題を探究する自由や不人気の立場を表明する自由も与えている…大学に籍を置く学者は政策決定者に比べれば、特定の政策や計画への既得権益がほんの少しだけである…われわれの民主的な政治システムは、アイディアという市場が上手に機能すること、さまざまな強みと弱みを持つ個人や集団における抑制と均衡、より広い政策論争に参入している偏見(バイアス)を相殺することに依存しており、したがって、それぞれの限界を補い合っているのである」(同書、242ページ)。

要するに、民主国家を市民にとってよりよいものにする政策を立案するには、政治家や官僚といった実務家だけでなく、学問の自由を享受している学者がさまざなまアイディアを出し合うことにより、より合理的で適切な選択肢は生み出されるのだから、政治学を生業とする者は、政策形成に貢献すべきだということでしょう。それでは、具体的に、政治学者は何をすればよいのでしょうか。政策立案者は忙しいので、政治学者は、かれらの立場を考慮した政策提言を行うべきだということです。新聞の論評やブログは、その媒体になります。また、それらでは、ジャーゴン(難解な専門用語)を避け、平易な英語(わが国であれば平易な日本語)で書くべきだとデッシュ氏は述べています(同書、250ページ)。

こうした主張に同意する少なからぬ政治学者は、自分の仕事はあくまでも「社会科学」なのであり、ジャーナリズムではないと悩ましく思うかもしれません。確かに、「職業としての政治学」はジャーナリズムではありません。両者の線引きは、どこにあるのでしょうか。デッシュ氏は、根本的に、多くの政治学者が政治における科学の追求を勘違いしていると、このように指摘しています。「多くの社会科学者は、自然科学の形式(数学と普遍的モデル)を科学の定義と混同している。しかしながら、これは安全保障研究にとって分類的な間違いである」(同書、252ページ)。この点は、少し分かりにくいでしょうから、別の文献に助けてもらいましょう。組織の戦略論で著名な野中郁次郎氏は、歴史研究者たちとの共同研究である『戦略の本質』(日本経済新聞社、2005年)において、次のように述べています。

「戦略論は、人間世界を研究対象とする社会科学の一分野である…われわれは戦略論の科学化を志向するけれども、自然科学と同一の厳密さでの科学化を意図していない…社会科学の面白さは自然科学ではうまく扱えない価値、コンテクスト、パワーなどの現象を事例や物語をベースに、できるだけ客観的に、禁欲的に、現実に迫っていき、最終的には『かくあるべきである』という規範的命題を提示することにある」(『戦略の本質』333-335ページ)。

上記の方法論的立場をとる研究者は、一般的に科学で推奨される演繹法ではなく、帰納法による命題の構築や限定的一般化を目指すことが少なくありません。上記の『戦略の本質』では、戦況を逆転した戦史の事例から、成功する戦略に共通するパターンを発見しようとしています。このブログでも過去に言及したアレキサンダー・ジョージ氏の抑止や強制外交の研究も、やはり帰納法をつかった事例から中範囲を理論を構築しています。独裁者の軍隊の軍事的効率性に関する研究軍事組織のイノベーションに関する研究は、事例から理論を導出しています。これらには自然科学の研究で見られるたくさんの数式はありませんが、全て正真正銘の科学的な政治研究です。

デッシュ氏の議論に戻りましょう。かれは、政策分析やジャーナリズムと純粋な学問との間に中間地帯があると主張しています。政治学は、これらの間でバランスをとるべきだということです。そのために必要なことは、「方法論的多様性」であり、特定の方法だけを使うのではなく、目下の問題にとって最も適切なアプローチを採用するということです。ただし、これは十分条件ではありません。デッシュ氏によれば、政治学者は方法論から導出されるのではなく、取り組むべき問題から導出された研究に従事すべきだと指摘しています。これら2つの要件を満たすことにより、政治学は科学的で政策に役立つものになるのです(『無関係性の崇拝』250ページ)。

最後に、『無関係性の崇拝』を読んで、印象に残ったことを2点ほど指摘して、この記事を締めくくりたいと思います。1つは、アメリカの政治学において、「地域研究(area studies)」が、科学的ではないという理由により、「比較政治学(comparative politics)」に取って代わられたことです。第二次世界大戦時においては、アメリカで地域研究者は活躍していました。「地域研究は『戦略計画や軍事作成において最も価値』があった」ということです。日本との関連でいえば、文化人類学者のルース・ベネディクト氏による日本政治文化の研究は、応用社会科学の最も影響力のあった事例です。彼女の研究は、アメリカの戦後日本統治と再建に大きな役割を果たしたと考えられています。ところが、1960年代頃から政治学の分野でも、自然科学で用いられる数理的・数学的手法で政治現象を分析できると信じる、行動科学革命が深く入り込むようになりました。その結果、この方法に馴染まない地域研究は、政治学界では周縁化されてしまいました(「ソ連研究」は例外)。政策決定者は引き続き地域研究者を必要としていたにもかかわらず、大学は政策サークルに必要な地域の知識をますます提供できなくなってしまったのです。ベトナム戦争の悲劇は、アメリカにおける地域研究の衰退と無関係ではありません。政府の高官たちは、ベトナムに関する地域の専門知識を欲していましたが、大学から、その多くを得ることができませんでした。これは社会科学という学問が行動科学をますます志向したことにより、地域研究が衰退した結果だったのです(『無関係性の崇拝』48-49、58、199ページ)。

もう1つは、冷戦後に登場した安全保障研究「不要論」です。この主張を主導した1人が政治学者のデーヴィッド・ボールドウィン氏(コロンビア大学、プリンストン大学)でした。かれは安全保障研究者を強烈に批判して、政治学の専門分野としての安全保障研究は消滅させてもよいのではないかと、このように訴えたのです。「『政策に関連』づけたい欲求は、何人かの学者を政策立案者とのあまりにも緊密な関係に導いたために、かれらが自律した知識人とみなされなくなってしまい、政策立案の支配層の一部として考えられるようになった…安全保障研究の分野はしばしば戦略研究と同じだとされてきた…国政術の軍事的手段は…安全保障の専門家の中心的関心になった…かれらは軍事的安全保障は他の目標に優先すると主張する傾向にある…他の目標とのトレードオフなど認めらないというのだ…国家は外部からの攻撃から武力なしでは自分を守れないが、吸える空気や飲める水のない国家は確実に生き残ることができないだろう…資源が希少な世界では、軍事安全保障の目標は常に他の目標と対立する…冷戦の終焉が軍事的安全保障をより豊富なものにしたということは、資源を安全保障から公共政策の他の目標に投入する時が来たことを示唆していそうだ…おそらく、安全保障研究という分野を廃止する時が来たのだ」(David A. Baldwin, "Security Studies and the End of the Cold War," World Politics, Vol. 48, No. 1, October 1995, pp. 117-141)。さらに、安全保障研究や戦略研究は、数理的で厳格な科学を志向する「合理的選択論者」からも非難を浴びました。こうした冷戦後の政治学の傾向にジャック・スナイダー氏(コロンビア大学)は、こう苦言を呈していました。「既にあるアイディアを拝借して、安全保障研究に大立物を(既にあることに気づかずに)再発明しているか、数理化が実際に新しい概念を加えた程度を誇張している合理的選択論者に、わたしは気づいてきた。その間ずっと、(かれらは)伝統的な安全保障研究の後進性を批判しているのだ」(『無関係性の崇拝』218ページ)。幸いなことに、安全保障研究や戦略研究は、政治学において、こうした猛攻から生き延びました。

『無関係性の崇拝』が分析するのは、アメリカの政治学の変遷や方法論上の傾向なので、これを日本の政治学界にそのまま当てはめることは出来ません。わが国では、「地域研究」は国際政治学会で確固とした地位を築いており、「理論研究」や「歴史研究」などと相まって「方法論的多様性」を保っています。ウクライナ紛争の報道では、ロシアやヨーロッパといった特定の地域を専門とする、大学に籍を置く地域研究者がメディアで引っ張りだこです。また、冷戦後、日本で安全保障研究不要論が唱えられたことは、私が知る限り、ほぼ無かったといってよいでしょう。日本の防衛政策の策定においては、懇談会などを通して学者が関与してきました。さらに、日本の政治学において、過度な数理化が推し進められることも、今のところありません。日本の政治学は、悪くいえば、まとまりがないのかもしれませんが、良くいえば、健全な「方法論的多様性」を維持してきたのです。ただし、政治学者の政策提言に関して、久米郁夫氏(早稲田大学)の次の警句は、傾聴に値すると思います。「多様な推論の意義と必要性を認めたとしても、その推論が方法論的自覚に基づいた論争に耐えるものでなければ、結局は勢いだけの提言と自己満足に堕するだろう」(『書斎の窓』第680号、2022年3月、3ページ)。方法論的多元主義とは、「何でもアリ」とは異なります。政治学者は、定性的であれ定量的であれ、社会科学の方法論に基づいて推論を行い、それを政策提言の基礎とすべきだということなのでしょう。

追記:2023年に「国際関係論と政策関与」について、新しい興味深い調査結果が、アメリカ政治学会の『パースペクティヴ・オン・ポリティクス』誌に発表されました。この論文の著者たちは、これまで言われてきた常識とは異なり「国際関係学者は政策に高いレベルで関与している」と結論づけています。その大半のやり方はブログ記事や意見広告ですが、政策レポートやコンサルティングも顕著にみられるそうです。

米国の国際関係学者にメールでアンケートを行ったところ、回答者の約7割が、キャリア形成において、政策関連の組織で働いたことがあるとのことです。約半数は学界に入る前に政策形成の世界で働いていたと回答しています。そして、回答者の約7割が、政策に関与することは教育や研究の質を向上させると考えているのです。注目すべきは、定性的方法をとる学者も定量的(数量的)方法をとる学者も同等程度、政策に関与していることです。つまり、政治学における数理化は、国際関係研究者に「政策とは無縁なものへの崇拝」を促していないということです。そしてどちらの方法論をとる研究者も、その6割前後が、大学はもっと政策への関与を終身在職権や昇進の審査で評価すべきと回答しています。

ただし、こうした政策への関与は学問的誠実さの問題も提起しています。圧倒的多数(87%)の国際関係研究者は、政策への関与が何らかの義務であると考えています。その一方で、いわゆる「御用学者」が学問をゆがめる潜在的問題も無視できないということです。この調査を実施したC. ヘンドリクス氏、J. マクドナルド氏、R. パワーズ氏、S. パターソン氏、M. ティアリー氏は、以下のように述べています。

「政策に関与する学者が、政策立案のメンバーにアピールするために、自分の本当の信念や意見を歪める心配はある」という記述に、どの程度強く同意するか、または同意しないかを国際関係学者に尋ねたところ、3分の1以上(36.4%)が同意、29.4%が同意しない、34.3%が同意でも不同意でもないと回答。興味深いことに、活動のスポンサーに反対されることを想定して、自分の本当の信念や意見を和らげたり、控えたりしたことがあると自認する国際関係研究者はごく僅か(4.7%)だった。国際関係研究者は、資金提供者や助言する組織が聞きたいことを伝えようとする誘惑に駆られたことはないと報告しているが、複数の研究者は、同僚がそうしているのでは、と心配している。このことは…学問的誠実さの問題を提起している(p. 9)。

さらに、若手研究者とベテラン研究者でも、どのように政策に関与すべきかについて、意見が割れています。

「国際関係研究者は、政策集団のメンバーとの対話において、自らの見解を優遇するのか、それとも専門家のコンセンサスを伝えようとするのか」という問いに対して…主任教授の半数近くが、学術的なコンセンサスよりも自分の研究成果を重視することに同意するのに対し、そう回答した助教は28.6%に過ぎなかった。政策決定者は、政策決定に必要な情報として学術的なコンセンサスを重視する傾向があることを考えると、この結果は厄介である。その場にいる最も年長者の声(つまり、ランクによって示される学術的な資格)は、その専門性を活かして、テーマに関するコンセンサスの立場を主張する傾向が最も低いのかもしれない (p. 10)。

政策立案過程において、声の大きな年長の国際政治学者の「個人的な」意見が、学問的コンセンサスより影響力を持ちやすいとすれば、これは必ずしも健全ではないでしょう。

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