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研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

復活したドミノ理論の誘惑と代償

2023年01月23日 | 研究活動
戦略研究の嚆矢であるカール・フォン・クラウゼヴィッツが約200年前に執筆した古典的著作『戦争論』は、ロシア・ウクライナ戦争に大きな示唆を与えてくれます。彼は、戦争には想定外の事態が待ち受けていると強調しています。「戦争は不確実性を本領とする。軍事的行動の基礎を成すところのものの四分の三は、多かれ少なかれ不確実性という煙幕に包まれている」と。これが戦争を分析する上で有名になった「戦争の霧」という概念です。

戦争の霧
ロシアは短期間で簡単にキーウ(キエフ)を占拠できるだろうと想定して、ウクライナに侵攻したようです。開戦時において、ロシア軍の総兵力はウクライナ軍の4. 5倍でした。ロシアの軍事費にいたってはウクライナの10倍でした。ロシア軍とウクライナ軍の主な装備を比べれば、戦車は5対1、戦闘機は11対1だったのです。軍事の世界では「攻撃三倍の法則」というものがあります。攻撃側が防御側を突破するには、三倍以上の戦力が必要だということです。ロシアは、この条件を満たしてウクライナに侵攻しました。にもかかわらず、ウクライナは首都キーウに攻め込んだロシア軍を撃退しました。

このように戦争には高い不確実性を伴いますが、だからといって、予測が全く不可能ということではありません。数々の検証に耐えた戦略理論は我々の強い味方です。標準医学の理論が病人の診断に不可欠なように、優れた戦略の理論は戦争の分析に役立てることができます。

勝利へのこだわり
アメリカの大手シンクタンクである「大西洋評議会」が、最近、注目すべき報告書を発表しました。タイトルは「勝利に備えること—ウクライナがロシアとの戦争に勝つことを助ける長期的な戦略と平和の確保」です。ここで著者たちは、かなり強気の政策を提言しています。

第1に、西側はウクライナを勝利に導き、ロシアを敗北させる目標を追求すべきとしています。この提言では、クレムリンの戦略目的をウクライナ国家とウクライナのアイデンティティを破壊することと推察しています。アメリカや同盟国は、このロシアの目的達成を何としても拒否すべきだと記されています。

第2に、ワシントンはロシアの核の恫喝に怯むべきではない、ということです。同じような主張は、リアリズムを「でたらめ」と切り捨てるタカ派のエリオット・コーエン氏(ジョンズ・ホプキンス大学)による「交渉の呼びかけは、エスカレーションに対する我々の恐怖を戦略的に無意味に暴露するようなもので、実質的にロシアが我々の頭の中に入り込み、我々を混乱させることを招くので無意味であり、危険である」との議論と重なります。我が国のウクライナ・ホークが声高に叫ぶ「プーチン思う壺論」も、これに似たロジックに基づいています。

第3に、欧米諸国は、ウクライナの戦力を向上させるために、装備や訓練、経済面で支援することがうたわれています。要するに、この報告書の主旨は、アメリカとその同盟国が、戦争のエスカレーション・リスクを冒しても、ウクライナがロシアを打ち負かすことを全力でサポートすべきだということです。

ドミノ理論の亡霊
「勝利に備えること」の政策提言は、改訂版「ドミノ理論」に依拠しています。「ドミノ理論」とは、ある一国が共産化すると隣国が次々に共産化すると警告する、冷戦期にワシントンの政策立案者に広く共有されていた学説です。この理論が導く政策処方にしたがい、アメリカのジョンソン政権は、南ヴェトナムの共産化を防ぐために軍事介入して、共産主義国家であるソ連や中国の手先と見なした北ヴェトナムと激しく戦いました。しかしながら、アメリカは物量で北ヴェトナムを圧倒していたにもかかわらず敗退しました。同時に、アメリカが懸念していた、共産主義の「赤い波」が東南アジアを席巻することも起こりませんでした。ドミノ理論は間違っていたのです。その重い代償は、300万人を超えるヴェトナム人と約6万の若いアメリカ人の尊い命の犠牲でした。

ヴェトナムの悲劇から約半世紀を経た今、ドミノ理論は復活しようです。「勝利に備えること」は、ロシアがウクライナで勝利を収めることを許せば、今度はポーランドやバルト三国などの他のヨーロッパの国家を次々と襲い、最終的には国際秩序を脅かすことになると示唆しています。それを端的に表しているのが、報告書の次の一文です。すなわち、「もしロシアが勝利を収めれば、NATO同盟国も含めて、この地域の他の国々が次(の餌食)になり得るだろう」という、我々に恐怖心を与えるような予言です。ここから導かれる結論は1つです。すなわち、ロシアがヨーロッパを支配する悪夢のような事態になるのを防ぐには、ウクライナでロシアを完全に敗北させる以外に道はないということです。くわえて、報告書の著者たちは、国際平和と安全にとって死活的に重要な領土保全原則の「命運」は、ロシアを敗北させることにかかっているとも力説しています。

こうした主張は、ワシントンの外交エリートであるリベラル・ホーク(タカ派)の「ブロブ」や対ロ強硬派のヨーロッパ指導者によく見られます。ロシアがウクライナに侵攻する直前に、オバマ政権の高官だったエイヴリン・ファーカス氏は、「アメリカの指導者は…必要であれば戦争に備えるべきである。もしロシアが再び勝つようなことがあれば、我々はウクライナだけでなく、国境を越えた世界秩序の将来についての危機から抜け出せなくなるだろう」と主張していました。フィンランドのサンナ・マリン首相も1月のスイスでのダボス会議で「もしロシアが戦争に勝ってしまったら、何十年とその侵略の振る舞いを見なければならなくなるし、他の国にも『侵略はして良い』というメッセージを与えてしまう、ウクライナが勝つ以外の選択肢はない」と決意と不安をにじませる発言をしました。

侵略の連鎖という妄想
このような政策提言は、はたして妥当なのでしょうか。私は、そうは思いません。現状打破に挑戦する国家が、ドミノ倒しのように次々と隣国を制圧することなど、ほとんどあり得ないからです。政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)による「脅威均衡理論」が明らかにするように、現状打破国の冒険的拡張行動は他国に脅威を与えます。そして、脅威にさらされた諸国家は、その源泉である挑戦国に必死で抵抗するのが通例なのです。



この脅威均衡理論が正しければ、ウクライナや西側諸国はロシアによる侵略の連鎖と国際秩序の崩壊といった妄想にとらわれなくてもよいということです。万が一、ロシアがウクライナを超えて他のヨーロッパ諸国の生存を脅かそうとした場合、NATO諸国は今より固く結束して、より強力な対抗措置をとる可能性が極めて高いのです。その結果、クレムリンの野望は打ち砕かれるでしょう。

クラウゼヴィッツは防御が攻撃より強力であると説いています。これは今でもそうです。戦略理論家のスティーヴン・ビドル氏(コロンビア大学)は、ウクライナ戦争を分析して、「攻撃側の突破は適切な条件下ではまだ可能だが、十分な補給と作戦予備を背景に、準備された縦深防御に対して、これを達成するのは非常に困難である」と断言しています。ウクライナ軍もロシア軍の相手の防御を崩す過程において、激しい戦闘と相当な犠牲を覚悟しなければなりません。ましてやウクライナを制圧できないロシアが、優勢なNATOの防御を通常戦力で崩壊させるのは、ほとんど不可能でしょう。

間違った因果推論
現代版ドミノ理論は、台湾有事の分析でも猛威を振るっています。この理論に取り憑かれた人は、ウクライナでロシアが敗北しなければ、「侵略は許される」というメッセージを世界に発することになり、それを中国の習近平国家主席が学習して、台湾に侵攻することになるだろうと主張するのです。ヨーロッパで倒れた1つのドミノの駒は、なんと何千キロも離れたアジアの駒を倒すことになるという驚くべき考えです。

アメリカのマイケル・マッコール議員は、「ウクライナが陥ちると中国の習主席は台湾を侵攻することになる」とCNNに語りました。これに痛烈な反論を行ったのが、『シカゴ・トリビューン』紙のコラムニストであるダニエル・デペリス氏です。彼は「アメリカ人は、このような単純で事実無根の発言を下院外交委員会の委員長がすることをとても、とても懸念すべきです。習近平は台湾侵攻を決断する可能性は大いにあります。しかし、そうだとしても、習近平はウクライナで起きたことに基づき重みのある決断を下さないでしょう。習近平はハードパワーの指標、例えば、中国共産党にそのような作戦を行うための訓練が行われたか、そのための装備があるかどうか、台湾の抵抗力はどうか、に基づくだろう」とまっとうな主張をしています。

中国の対外行動がウクライナ情勢に左右されないことのエビデンスもあります。中国外交部の王毅外相は、2022年3月8日に「台湾問題とウクライナ問題は性質が異なり、全く比較にならない。最も基本的なことは、台湾は中国の領土の不可侵の一部であり、台湾問題は完全に中国の内政問題である」と発言しました。我々は権威主義国や独裁国の指導者の発言を脊髄反射のように「プロパガンダ」と退ける傾向があります。確かに、政治指導者は相手を騙そうとして「ウソ」のメッセージを発信することはあります。ところが、国家間のリーダーや外交官たちは、思ったほど互いにウソはつかないことが、国際政治における戦略的なウソの研究から明らかにされています。王発言が、台湾侵攻を隠匿するとともに、台湾を支援する国を油断させるためのウソだったとするならば、中国人民解放軍はそろそろ台湾を攻撃してもよさそうなものですが、今のところ、その気配はありません。

台湾の併合は習近平が掲げる「中華民族の偉大な復興」の1つの目的ですが、にもかかわらず、中国が台湾に侵攻していないのは、戦略国際問題研究所が最近に公表した机上演習の通り、北京の指導者が、その企ては「早期に失敗」しそうだと判断しているか、甚大なコストを払うことになり、迅速で安上がりな勝利をまだ収められそうにないと考えているからでしょう。オースチン・ダマー氏(防衛政策アナリスト)が鋭く指摘するように、「『ウクライナを救えば台湾も救われる』と考える政策立案者や戦略家は、自分自身を欺いている。ヨーロッパでロシアを衰退させ、そしてアジアへ優雅に軸足移動を実行するなどと言うことは、災いを招くだけでなく、アジアにおける中国の覇権の条件を促進する可能性さえある」と思います。

要するに、ウクライナ情勢次第で中国の出方が決まるなど、あり得ないことなのです。日本やアメリカの安全保障のカギを握っているのは、ロシアのウクライナでの勝敗ではなく中国の行動です。ウォルト氏が喝破したように、「現在、ロシアのウクライナ戦争はより直接的な問題であるが、より長期的な課題としては中国が挙げられる。アメリカ(そして日本、引用者)の経済的将来と安全保障全体は、クリミアとドンバスを(ウクライナかロシアの)どちらが支配することになるかで決まるわけではない」のです。むしろ、ウクライナへの西側の支援と中国封じ込めはトレードオフの関係です。アメリカと同盟国がウクライナに戦略資源を投入した分だけ、中国の侵攻を抑止することに犠牲が生じます。我々は、トランプ政権の高官だったエルブリッジ・コルビー氏の発言にもっと真剣に耳を傾けるべきです。すなわち、「中国との戦争に必要な準備はできている、台湾・アジアとウクライナ・ヨーロッパの間にトレードオフはない、という主張は成り立たなくなってきている。(アメリカも日本も)明らかに十分な準備ができておらず、トレードオフの関係はある。事実を直視した方がいい」ということです。

戦争と評判
歴史上、多くの戦争は国家の評判や威信、名声の名の下に行われてきました。その背景にあるのは、弱腰の姿勢は敵国に付け入るスキを与えて、その侵略を助長するのではないかという指導者の恐怖です。ジョナサン・マーサー氏(ワシントン大学)は、この政治的に強力な議論に反論しています。すなわち、国家の評判を賭けた戦争に価値はないということです。



その後、国家の評判と信頼性に関する研究は格段に進歩しました。紛争や危機で引き下がった国家は、侵略に抵抗する決意を疑われて挑戦を受けやすくなるかどうかについては、政治学者の間で意見が割れています。ダリル・プレス氏(ダートマス大学)は、こうした学習効果はなく、国家の現状打破行動はバランス・オブ・パワーによって決まると主張しています。他方、アレックス・ウエイシガー氏(ペンシルベニア大学)とカレン・ヤリ=ミロ氏(コロンビア大学)は、過去の行動が決意や威嚇の評判に普遍的な影響を与えるわけではなく、同じような危機や紛争において、指導者の決意の評判に関する判断に強く影響する一方で、あまり似ていない危機や紛争では、弱い効果しかないという研究結果を発表しています。どちらが正しいとしても、侵略の「ドミノ理論」は支持されません。「侵略が許される」というメッセージが世界全体に広がった結果、あちこちの現状打破国がこれを学習して勢いづき隣国を次々に征服することなど、国際政治の常識からすれば、ほとんどありえないということです(評判と決意の研究は「第3の波」と言われるほど活況を呈しています。詳しくは、ロバート・ジャーヴィス氏、カレン・ヤリ=ミロ氏、ドン・カスラー氏による最近の関連研究のレビュー論文 "Redefining the Debate Over Reputation and Credibility in International Security," World Politics, 73:1, Jan 2021を参照してください)。

国際政治学の大家であるケネス・ウォルツ氏は、今から四半世紀も前に、「ドミノ理論が経済的にも軍事的にも成立しないことを、われわれは既に——願わくば——学んだ」と書きました(『国際政治の理論』勁草書房、2010年〔原著1979年〕、278ページ)。どうやわ、われわれは彼の懸念が不幸にして、未だに解消されていないことを認めなければなりません。同時に、アメリカと同盟国は、用済みとなった三流の理論をあえて持ち出す必要もなければ、勝利と敗北の二項対立に拘泥するべきではないでしょう。世界レベルの国際政治研究の成果は、「国際秩序の守るためにロシアを敗北させなければならない」とか、「中国の台湾侵攻を防止するためにウクライナでロシアの勝たせてはいけない」、「もしロシアのウクライナ侵略が成功して、国際社会がウクライナを見捨てた場合には、日本だって同じことが起こりうる」(小泉悠氏)といった言説を安易に信じないほうが賢明であることを我々に教えています。ロシアとの戦争目的は、ウクライナの主権と独立を守ることにより正当化されます。この点について、ジョージ・ビービ氏(クインシー研究所)は、「ウクライナはすでに、ロシアがウクライナの独立を抹殺する能力を持たないようにするという、この戦争の最も重要な目標を達成している」として、バイデン政権に和平交渉に乗り出すよう促しています。

アメリカ元NATO大使のイヴォ・ダルダー氏は、ウクライナ情勢の分析を難しくしている戦争の霧の中に見えたことを率直に語っています。すなわち、「ウクライナの勝利はなさそうだ。不可能ではないが、戦車やあらゆるものが流れ始めたとしても、なさそうだ…この戦争がウクライナの勝利で終わるという考えは、試してみるべきだが、それに基づいて政策を構築すべきではない」ということです。終末的大惨事により霧が晴れる結果になることだけは避けたいものです。

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日米同盟は中国の武力侵攻を抑止できるのか

2023年01月18日 | 研究活動
日米同盟は日本に安全保障を提供してきました。アメリカの強力な軍事力は、冷戦期も冷戦後も日本の独立や主権を脅かす国家の攻撃を抑止する上で、重要な役割を果たしています。冷戦が終わりソ連が崩壊した後、世界はアメリカが唯一の大国である「単極の瞬間」を経験しました。しかしながら、中国がアメリカに並ぶ「対等な競争国」としての地位に近づくにしたがい、国際システムは単極から二極に移行しています。こうしたパワー分布の変化は、日本の安全保障にも大きな影響を与えています。今や中国はアジアの地域覇権を狙えるパワーを持ち始めています。中国が勢力の拡張を目指して現状を打破しようとすれば、日本の領土保全は危険にさられます。こうした中国の高まる脅威を封じ込めるのに、日米同盟はどのくらい有効なのでしょうか。懸念される中国の尖閣諸島への武力侵攻は、日米同盟による拡大抑止で防げるのでしょうか。

中国の高圧的姿勢とアメリカの遅れる対応
中国は日本の安全保障にとって深刻な脅威です。三期目を決めた習近平国家主席は、昨年11月に共産党中央軍事委員会の作戦指揮センターを「戦争の準備を強化する決意と態度を表明するため」に、わざわざ迷彩服で訪れて、「すべてのエネルギーを戦争に合わせ勝利するための能力を向上させなければならい」と強調しました。気になるのは、習近平氏が、2016年に開かれた軍幹部の非公開会議で、沖縄県・尖閣諸島や南シナ海の権益確保は「われわれの世代の歴史的重責」だと述べ、自身の最重要任務と位置づけていることです。このことは、我が国の領土征服への中国の野心を示しています。心配される台湾有事についても、中国国防部は、昨年の 11月末に「台湾の武装が中国封じ込めに成功すると考えるのは、馬鹿馬鹿しいナンセンスだ」とアメリカや日本に警告を発しています。

日本政府は、昨年末に公表した「国家安全保障戦略」において、中国を「これまでにない最大の戦略的挑戦」と位置づけて、防衛力を大幅に強化することを決めました。アメリカの『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙は、この文言が、最近発表されたワシントンの防衛戦略を反映したものであると報じて、日米同盟が緊密に連携している証であると論じました。

しかしながら、国際システムにおけるパワー分布の変化は、アメリカの中国に対する抑止力の弱体化を招いているようです。バイデン政権は、沖縄の米空軍嘉手納基地に常駐するF-15戦闘機を今年に撤収して、その後はアラスカからステルス戦闘機F-22をローテーションで沖縄に飛来させることにしました。その理由について、エバン・メデイロス元米国家安全保障会議(NSC: National Security Council))アジア上級部長は、嘉手納基地は中国のミサイル攻撃を受けやすいことから、巡回駐留方式には利点があるとの見解を表明しています。そうは言っても、米空軍が沖縄に前方展開することは、アメリカが日本に提供する拡大抑止の大きな柱なので、それが細ることは尖閣諸島への中国の侵攻を抑止することに悪影響を与えかねません。

バイデン大統領は「我々は台湾を防衛する」と明言しましたが、その実行に疑問を投げかけるニュースが相次いでいます。アメリカ政府や議会関係者からは、ウクライナでの戦争は台湾向けの190億ドル(2兆8千億円)近い兵器提供の滞りを悪化させ、中国との緊張が高まる中、台湾の武装化をさらに遅らせるとの懸念の声が聞かれます。終わりの見えない紛争でキーウを武装する突然の要求に追いつくことは、アメリカ政府と防衛産業の能力に負担を強いているのです。ウクライナへの武器の流れは、中国による侵略から台湾を守るために、台湾を武装させるアメリカの戦略要請と衝突しつつあるのです。

拡大抑止の最新研究
アメリカのバイデン政権は、アジア・リバランス政策を掲げていたにもかかわらず、昨年2月のロシアのウクライナ侵攻以来、戦略的な資源をヨーロッパに集中投入しています。残念ながら、アメリカにはヨーロッパとアジアで2つの戦争を同時に行う戦略も能力もありません。アメリカがウクライナ情勢に集中すればするほど、インド・太平洋地域で想定される有事への対応が疎かになりかねません。

二極化する国際システムにおいて、ウクライナに気をとられるアメリカは、アジアの同盟国やパートナーに拡大抑止を提供し続けています。それは、どのくらい機能しているのでしょうか。抑止とは、国家が相手国の敵対行為を思いとどまらせることです。したがって、抑止が効いている限り、戦争や武力紛争は起こりません。生起した出来事の原因は、それを引き起こしているであろう要因を見つけて、両方が相関しているのかを統計的に検定したり、事例を観察して因果プロセスを確認したりすることで、ある程度は明らかにできます。他方、起こらなかったことは、顕著な変化がないことなので、何が現状を維持させているのかを分析するには、はるかに困難で高度な方法論と研究力が求められます。つまり、抑止が効いていることを論証することは難しいのです。

こうした難題に取り組んで一定の答えをだしたのが、新進気鋭の若手研究者である李都英氏(オスロ大学)です。彼は安全保障研究のトップジャーナルである『安全保障研究(Security Studies)』に論文「拡大抑止の戦略—どのように国家は安全保障の傘を提供するのか—」を発表しました。その内容を簡潔に要約すれば、抑止提供国(パトロン)は同盟国(クライアント)が受ける脅威の程度に従い、複数の拡大抑止戦略から適切なものを選択するということです。拡大抑止提供国は、同盟国に脅威を与える敵国が武力行使により迅速な勝利を収められる可能性が高いか、それとも低いかを判断したうえで、どのような同盟条約を結び、通常戦力または核戦力をどのように展開するのかを決定するのです。


出典:Lee, "Strategies of Extended Deterrence," p. 771.

拡大抑止は4つの類型に分けることができます。第1のパターンは、敵国が高い確率で迅速に勝利できそうで、その脅威が同盟国の生存を根底から危険にするケースです。このような場合、拡大抑止提供国は核戦力を前方展開して、同盟国を守る戦略をとります。この事例が同盟国との核共有 (nuclear sharing) です。冷戦期に、アメリカはソ連の強力な通常戦力に対して圧倒的な劣勢を強いられていた西ドイツに戦術核兵器を配備して、それを同国と共有しました。第2のパターンは、敵国が高い確率で迅速に勝利できそうであるが、同盟国の生存を根底から脅かすまでの危険を与えていないケースです。このような場合、拡大抑止提供国は通常戦力を前方展開して、同盟国を守ろうとします。その1つの例が米比相互防衛条約です。冷戦後期において、アメリカは空軍と海軍の部隊をクラーク基地とスービック基地に駐留させて、中国の脅威からフィリピンを守りました。

第3のパターンは、敵国が想定される戦争で迅速な勝利を収める確率は低いが、その脅威は同盟国の生存を根底から危険にしているケースです。このような場合、拡大抑止提供国は核兵器の威嚇を盛り込んだ防衛協定を結びます。この1つの事例が、現在の日米同盟です(李氏は、日本を生き残りへの脅威がないとコード化〔定義に基づくデータや事例の仕分けのこと〕していますが、私は、そうではないと判断しました)。日本は中国や北朝鮮の核の脅威からアメリカの核の傘により守ってもらう一方で、想定される尖閣諸島への中国人民解放軍の侵攻に対しては、自衛隊と在日米軍で対応するということです。第4のパターンは、敵国が迅速な勝利を収める確率が低く、その脅威も同盟国の存在自体を危険にするまでには至らないケースです。このような場合、拡大抑止提供国は通常戦力による防衛取決めを選択します。これにはアメリカとタイの戦略的連携があります。アメリカはタイを「主要な非NATO同盟国」と位置づけています。これはアメリカの「1961年対外支援法」と「1987年ナン修正法」により定められたもので、指定国に対し装備品の譲渡など、軍事面での優遇措置を与えるものです。タイはヴェトナムから脅威を受けていましたが、その安全保障を根底から脅かされていません。

抑止の有効性と戦力比
拡大抑止は、パトロン国とクライアント国が敵対国の迅速な勝利を拒否できる戦力を持てば、成功しやすいと考えられます。なぜならば、戦争はコストがかかる行動なので、素早い勝利が見込めない侵攻に付随する損失は、挑戦国の軍事力による現状打破行動へのインセンティヴを低下させるからです。それでは、攻撃側は防御側との戦力比がどの程度であれば、武力侵攻を思いとどまるでしょうか。その1つの答えが「3対1」です。これは戦略研究では「攻撃三倍の法則」と呼ばれています。ジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)は、通常戦力の抑止を分析した古典的な論文「通常戦力バランスを評価すること—3:1ルールとその批判—」において、以下のように主張しています。

「攻撃側は特定の地点における防御側を突破するには、戦闘力で少なくとも3:1の局地的優勢が必要である」。

つまり、戦争が起こりそうな場所において、敵国が自国より三倍以上の戦力を保有している場合、抑止は破綻する可能性が高まる一方で、敵国の優勢が三倍に満たない場合、消耗戦になるコストとリスクが敵国による侵略を抑止するであろうということです。李氏は、ブルース・ブエノ・ デ・メスキータ氏(ニューヨーク大学)が著書『戦争の罠』で定式化した、距離で補正する軍事力(CINC: Composite Index of National Capability)の計算式に基づき、クライアント国と敵国の戦力比を論文の付録で公表しています。その際、拡大抑止を提供される同盟国の純粋な防御能力を算出するために、彼はあえて拡大抑止提供国の戦力を除外しています。その結果は次の通りです。



冷戦期における西ドイツとソ連の戦力比は、ザックリと計算すれば、1対9から1対6程度でした。すなわち、ソ連は西ドイツを国家として滅ぼすのに十分で強力な戦力をヨーロッパに展開していたのです。そのためアメリカはソ連の西ドイツへの侵攻を抑止するために、戦術核兵器を同国に配備しました。冷戦後期における中国とフィリピンの戦力比は7対1でした。しかしながら、フィリピンは南シナ海の島嶼をめぐり中国と紛争になっていたのであり、その生存を脅かされているわけではありませんでした。それでアメリカは通常戦力をフィリピンに展開することで対応しました。タイはヴェトナムとの戦力比において、1対0. 48の割合で優勢でした。ですのでタイ単独でも十分に抑止を成功させられます。そのためアメリカはタイとの連携において、通常戦力による防衛力の提供にとどめています。

尖閣諸島および朝鮮半島における有事と拡大抑止
我々が気になるのは、日米同盟が中国の尖閣諸島への侵攻を抑止できるのか、ということです。李氏の計算によれば、東シナ海の戦域における日中の戦力比は1対2. 45です。すなわち、尖閣諸島での有事に対処する自衛隊の能力は、今のところ、中国人民解放軍による迅速な勝利による既成事実化をかろうじて防げそうだということです。「攻撃三倍の法則」は、在日米軍の戦力抜きでも、自衛隊のみで中国の攻撃を抑止できる可能性を示唆しています。しかしながら、中国人民解放軍は今後も戦力を強化し続けますので、日本が防衛力を増強しなければ、近い将来に三倍を超えるのは確実でしょう。

ですから、日本が新しい国家安全保障戦略で防衛費を倍増すること、反撃能力を保有することを決定したタイミングは、中国に戦力で三倍の優勢を持たせるのを直前で阻止したと言えるでしょう。日本の安全保障にとって幸いなのは、日本の防衛力に在日米軍の戦力を加えると、中国のアドバンテージはグッと縮まることです。くわえて「核防衛協定」としての日米同盟とそれを円滑に運営するための日米拡大抑止協議は、アメリカの日本防衛への強いコミットメントを示しています。これは「コストをかけたシグナル」として、中国の指導者に届いているはずです。要するに、アメリカの日本を守る公式の決意はホンモノであると北京に認識させる効果が見込めるということです。この論文の分析結果だけから結論を出すのは早計ですが、日米同盟の対中抑止効果は、我々が懸念しているより、多少は強力である可能性があります。これには日本人として少し安心させられます。日米同盟の対中抑止をさらに強化するには、両国間の情報収集・警戒監視・偵察活動(ISR: Intelligence, Surveillance and Reconnaissance)の促進が有効でしょう。

興味深いのは、李氏が、北朝鮮の脅威には現在の米韓同盟態勢で十分に対抗できるので、アメリカの韓国領土への戦術核の再配備は不必要であるばかりか、中露の反発により朝鮮半島の緊張を高めるので、これは間違った助言であると主張していることです (同論文、795頁)。韓国は北朝鮮に対して戦力で1対0. 7の優勢にあります。それなので北朝鮮は韓国を攻撃をしても、迅速な勝利を収められないでしょう。これに前方展開する在韓米軍の戦力が加われば、米韓はさらに優勢になりますので、北朝鮮への抑止は効くということです。今年に入り、韓国の尹錫悦大統領は「問題が深刻化すれば、韓国に戦術核を配備するなど、独自の核武装もあり得る」と述べましたが、李氏は韓国の核武装を間違った戦略であると批判しています。韓国は核武装も核共有も必要ないのです。なお、同盟国であるアメリカのジョン・カービー調整官は「韓国政府は核兵器を追求するのではないという点を明確にした。韓米は共同で拡大抑止を議論していて、我々はこのような方向に進むだろう」と語っています。

中国の台湾侵攻が、どの程度、抑止されるのかも気になるところですが、残念ながら、米華相互防衛条約が1979年末で失効したために、それ以後の米中台の戦力分析は、上記の研究対象から外れています。ただし、筆者と交換したメッセージにおいて、李氏はアメリカの台湾への拡大抑止の効果を明らかにする研究を進めていると書いていました。この重要な問題に関する研究成果が発表されるのを期待して待ちたいと思います。

日米の安全保障研究の格差
李氏の拡大理論抑止の基本は、ミアシャイマー氏の通常抑止理論の応用です。斬新な発想だと思って李氏の経歴を確かめたら、彼の指導を受けて博士号を取得していました。優れた研究者・教師からは、よい弟子が育ち、見事な研究が生まれるものだと感心します。そして、こうした新しい優れた研究を知れば知るほど、アメリカの政治学/国際関係論/安全保障研究/戦略研究の底力を痛感させられます。

残念ながら、日本は安全保障研究や戦略研究において出遅れてました。我が国の戦略研究の草分け的な存在である西原正氏は、今から35年ほど前に「日本では…戦略的思考者を育てるべき大学がその責任を…ほとんど果たしていない…日本人は平和憲法を信頼し…幻想の世界に生きようとしたがために、国家の戦略について考える必要がないと思ってしまった…戦略研究は、大学のカリキュラムにおいてタブー視され、意図的に排除されてきた」とアカデミアの軍事忌避の問題を率直に指摘していました。その後、これらの研究環境は改善されましたが、それでも日本はそのツケを今でも払わされているように感じます。

英語で研究成果を海外のジャーナルに数多く発表している多湖淳氏(早稲田大学)は、昨年の暮れに「日本の国際政治学者特有の事情かもしれないが、専門外であるか否かを問わず、とにかく意見を述べることに使命を感じる『研究者』が少なくないようである…『目立つ日本の国際政治学者』の情報発信に惑わされず、世界水準の国際政治学者のまっとうな研究に目を向けてはどうか」と発言をして物議を醸しました。 これに対して細谷雄一氏(慶應義塾大学)は、「いわゆるタレントやテレビ解説員の一部の方が、ときにはあまり的確とは思えない論評をされていたり、基本的な知識が不足した状態で発言をしている様子を見る中で、多くの国際政治学者がそれらを修正して一般の視聴者に有益な発信をしていることは重要な社会貢献と感じました」と多湖氏を批判しました。

私は、政治学研究の多様性を擁護する立場から、定性的アプローチや定量的アプローチ、理論研究のみならず地域研究や歴史研究、思想研究などが共存しながらも、この学問を発展させることが望ましいと信じています。その一方で、細谷氏の発言を借りれば「国際政治学者一部の方が、十分な知識が不足した状態で発言している様子」を修正する学者同士の建設的な相互批判が、ほとんど行われないのも好ましいと思いません。この点について、河野勝氏(早稲田大学)は、「メディアに登場するコメンテーターや評論家たちが、なんの根拠もなく、また政治学の常識からすると明らかに間違った解説を平気で述べていることに対しては、『プロ』としてチェックの目を働かせ、時には憤りを持って彼らを批判」する必要性を訴えています。

抑止の研究は、世界で膨大に蓄積されてきました。国際政治学者が「プロ」として影響力のあるメディアやインターネットで発言する場合、先行研究に賛成するか反対するかは別にして、自分の専門分野についての主要な既存の研究成果をキチンと理解したうえで意見を述べるべきでしょう。例えば、日米同盟の抑止効果は、その信頼性によるというのであれば、少なくとも、同盟や拡大抑止と信頼性に関する有力な研究結果を踏まえたうえで、根拠に裏づけられた説得力のある解説が求められます。「プロ」に国境はありません。自分の専門分野で第一人者とされる学者の主張を論駁できるような質の高い見解を述べてこそ、「職業としての学問」(マックス・ウェーバー)に従事する資格者ではないでしょうか。

日本の国際政治学は、「輸入学問」であると揶揄されることがあります。私は、輸入学問の何が問題なのか、理解できません。それどころか、過去に日本の国際政治学界は、世界で広く高く評価されている優れた研究の輸入を怠ってきました。この事実は忘れない方がよいでしょう。アメリカの政治学のいくつかの専門分野が日本のそれよりも「比較優位」を持つのであれば、それらを積極的に輸入して研究や政策立案に活かすのが得策です。安全保障研究や戦略研究では、アメリカの大学院で政治学の博士号を取得して、学術的に鍛えられた学者が次々と画期的な研究成果を発表しています。この記事で紹介した李氏の研究もその1つです。それらを見逃すのは愚かなことでしょう。日本政府は、奨学金をだして、若い優秀な学生をどんどん北米の大学院政治学研究科に送り込むくらいのことをやってもよいと思います。

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