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研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

失敗の学習とエリート

2018年11月23日 | 教育活動
私が最近読了した、とても面白いと思った図書を紹介します。マシュー・サイド、有枝春訳『失敗の科学―失敗から学習する組織、学習でいない組織―』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016年です。私が、これまで読んだサイエンスライターの書いた本の中でも、ベスト5に入るほどの良書です。サイエンス本は、自然科学を対象にしたものが多い中、社会科学を題材にしたものは、とても貴重で価値があります。




この本の意義は、著者のサイド氏が「エピローグ」で述べていることに尽きるでしょう。

「『失敗から学ぶ』という言葉は、使い古された陳腐な説教のように聞こえるかもしれない…しかし…失敗から学ぶことは、深遠で道義的な目標がある。人の生命を救い、支え、強化することだ」(330ページ)。

本書によれば、失敗が活かされ多くの命が救わるようになった業界とそうでない分野があります。前者は、航空業界です。後者は、なんと医療の世界だということです。航空業界では、パイロットなどの関係者は自分のミスに向かい合い、事故調査については、独自の調査機関が調べ上げ、失敗を明らかにしています。そして、それらを事故防止に役立てているのです。この結果、航空機は乗り物の中で、もっとも安全な移動手段の1つになりました。

他方、医療の世界について、この本では、驚くべき実態が書かれています。「アメリカ国内だけで、毎年100万人が医療過誤による健康被害を受け、12万人が死亡している…『回避可能な医療過誤』は…アメリカの三大死因の第3位に浮上する」(20ページ)。これだけ多くの医療過誤があるならば、そこには何らかのパターンがあるはずです。にもかかわらず、「医師たちにその『パターン』を知る術はなかった。その理由はシンプルだが衝撃的だ。医療業界はこれまで、事故が起こった経緯について日常的なデータ収集をしてこなかった」(31ページ)のです!

そもそも、われわれは「失敗した」ときに、どう考えるでしょうか。「次からは失敗しないように気をつけよう」と思うのが普通ではないでしょうか。しかし、『失敗の科学』は、こうした「精神論的努力」だけでは失敗から学習して進歩することが、必ずしもできないことを心理学などの理論や豊富な事例により明らかにしています。たとえば、失敗しないよう集中して何かに取り組もうとする行為は、はたして正しいのでしょうか。残念ながら、答えは「ノー」です。なぜならば、1つのことに集中すると、他のことに意識が向きにくくなる結果、これが時に重大な失敗を冒すことにつながるからです(このことは、本書の第1章の飛行機事故の事例を読むと、よくわかります)。つまり、「次からは気をつけよう」では、失敗を克服することはできないといっても過言ではないでしょう。

その他、本書には、さまざまな貴重な指摘がなされています。「エリートほど自らの失敗を認められない」(108ページ)、「メディアの掌返し」(162ページ)などですが、とりわけ私が深い印象を受けたのは「データを受け入れない人々」(201ページ)のところです。「人は自分が深く信じていたことを否定する証拠を突き付けられると、考えを改めるどころか強い拒否反応を示し、ときにその証拠を提示した人物を攻撃さえする」ということです。確かに、この「愚かな行為」は認知不協和の理論が示す通りなのですが、エビデンスに基づく議論をする際、こうした人間の心理的性行には、よほど気をつけなければならないと痛感させられます。エリートほど証拠を示しても、失敗を認めたがらないのであれば、多くの組織が失敗から学習できず、改革もできない理由がよくわかるではありませんか。

では、どうすればよいのでしょうか。サイド氏は「失敗に対する考え方に革命を起すこと」を提案しています。「子どもたちの心に、失敗は恥ずかしくないものでも汚らわしいことでもなく、学習の支えになるものだと刻み付けなければならない」(320ページ)のです。教育に携わるものとしては、これはまったくその通りだと思いますが、実際に、子どもたちの失敗に対するマインドを変えるためは、日本全体の教育システムを根本から改革しなければならないでしょう。ですが、その教育の根幹を担っているところは、「エリート」と呼ばれる人たちにより動かされているのです。何たる皮肉でしょうか!

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