野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

「痛勤」の莫大な損失と地方創生

2018年06月27日 | 日記
日本における長い「通勤時間」が、生産性を大きく損なっているそうです。ある教育社会学者の試算によれば、平日1日あたりの平均損失額は、なんと1424億円だとか。くわえて、満員電車による通勤地獄が、ビジネスパーソンから知力や体力を奪っています(『ニューズウィーク』日本版ウェブサイトより)。主要な原因は、もちろん「東京一極集中」に象徴される都会への過度なオフィス等の偏重です。

「痛勤」が生み出す損失は、私が前々から持っていた、東京に政治や経済の拠点が集中しないほうがよいのではないか、むしろ分散すべきではないかとの漠然とした考えの妥当性を裏づけています。首都機能を地方に分散すれば、おそらく、大手企業も地方にオフィスを移転したり広げたりするでしょう。そして、地方により多くの職場が生まる結果、東京に存在する大学も少しずつ地方に移ることでしょう。

そもそも、なぜ大学や学生が東京に集中しているのか。その1つの答えは、大学の最も主要な出口である就職先が、都心に集中しているからです。青山学院大学学長の三木義一氏は、次のように述べています。

「なぜ地方の大学に学生が進学しないのか。逆に、なぜ東京の大学に学生が集中するのかというと、東京に大学があるからではなく、東京に就職先があるからです。地方の雇用の問題こそ本来問うべきなのです」(『中央公論』2018年7月号、140-141ページ)。

そうだとすれば、国家が地方分権や首都機能の地方への移転を断行し、企業の地方分散を促せば、学生たちは、もっと地方の大学に進学するようになるはずです。もちろん、これが「地方創生」に寄与するのは、いうまでもありません(大分県の立命館アジア太平洋大学の経済波及効果は、年間200億円、同大学出口治明学長インタビュー、『中央公論』2018年7月号、124ページ)。さらに、「痛勤」が解消されることにより、生産性低下も回復できるでしょう。日本の経済力の向上に一役買いそうです。

安全保障や危機管理の観点からも、政治や経済の機能は分散しておいた方が好ましいです。東京に国家の中心的価値が集中していることは、必然的に、そこが「戦略的重心」を形成します。軍事戦略は、相手を打倒するためには、敵の重心を叩くことが重要であると説いています。日本の場合、東京が極端な重心になっているので、万が一、ここに深刻な打撃を与えられたら、決定的なダメージを受けることになってしまいます(日本では防衛省でさえ、東京のど真ん中の市ヶ谷にあります。他方、アメリカの国防省はワシントンから離れたバージニア州にあります)。さらに、首都直下型地震などの自然災害が東京を襲ったら、国家機能がほぼマヒ状態になるでしょう。つまり、日本は安全保障の「ポートフォリオ」ができていないのです。

首都機能の地方への分散、地方分権、地方創生などの一連の政策は、政治、経済、安全保障上の国益になります。もちろん、それによるコストや弊害もあるでしょうが、私見では、便益の方がはるかに上回ると思います。








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「学問の府のアパルトヘイト」

2018年06月04日 | 日記
過激なタイトルだと思った人が多いのではないでしょうか。これは私が考えたものではありません。今から20年前、アイヴァン・ホール氏が著した『知の鎖国―外国人を排除する日本の知識人産業』(毎日新聞社、1998年)の第3章のタイトルを拝借しました。



さらに、ホール氏が、かつて雑誌『諸君』(1998年7月)で受けたインタビュー記事の副題は、もっと過激です。「『象牙の塔』から『木鐸』まで、すべてが国際規格外。既得権益にむらがる島国根性につける薬はない」です。

日本の知識人産業に対して、こうした激しい怒りをぶつけるホール氏とは、何者でしょうか。実は、『森有礼』研究で知られる学者です。プリンストン大学を卒業後、外交研究で知られるフレッチャー・スクールで修士号(国際関係論)をおさめ、ハーバード大学で博士号(東洋学日本史)を取得しています。日本では、学習院大学などで教鞭をとっていました。

ホール氏の主張は、以下の通りです。

「日本の知的産業における『排外的な障壁』が、解消される糸口さえ見いだせない状況では、日本が国際的にリーダーシップをとることなど、到底無理だろう」(前掲『諸君』142ページ)。そして、当時の日本の大学の状況をこう皮肉っています。「(日本の大学を例えると)アメリカの大学が中国人の天才を雇って物理学を教えさせず、サンタヤナのようなスペイン人に哲学の講義をさせたりもせず…(し)ているかのようだ」(『知の鎖国』136ページ)。

『知の鎖国』が世に問われてから20年が過ぎました。今では、日本の大学も外国人の研究者に門戸を開くようになりました。ただし、日本の大学が十分に知のグローバル・スタンダードに適合しているかと問われれば、そうだとは言えないでしょう。制度面での象徴的なことは、海外の多くの大学が採用している9月の学年開始制度に日本のほとんどの大学が移行できていないことです。これが大学の国際化にとって、1つの大きな障壁になっているのは、大学関係者の誰もが知ることです。

そして、日本の大学の「鎖国」は、大きなツケを払わされているようです。『日本経済新聞』記事「日本の大学 痩せる『知』」(2018年6月4日)によれば、「欧米の有力大学との差も開いたままだ。先端研究で海外との人的ネットワークが細り、イノベーションの土壌が痩せてきて…国際的な知のネットワークから取り残されつつあ」ります。端的に言えば、この20年間で日本のアカデミズムは、「知の鎖国」から「知の孤立」になったのです(他方、世界のトップクラスの英語ジャーナルに論文をどんどん発表している、立派な学者がいることも十分承知しています)。何という皮肉でしょうか。

いうまでもなく、日本の大学が9月学年開始に制度改革しても、こうした問題の根本解決にはならないでしょう。問題の深層にあるのは、ホール氏に言わせれば、「日本人の他者に対する知的、感情的、文化的な態度の中にみられる偏狭さ」(前掲『諸君』)だということです。私は、この仮説が正しいかどうかを判断するエビデンスをもっていませんが、もしホール氏の主張が正しければ、「つける薬」を開発するのは、かなり困難だと思われます。

私は、当時、『知の鎖国』の原著 Cartels of the Mind を日本に来ていた米国の博士候補の留学生たちと読み、意見を交わしました。彼らとは、幸いになことに、今でも知的交流は続いています。残念なことは、誰一人、日本には残らなかったことです。










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