野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

「サボる」ことは、いいことだ!?

2018年07月31日 | 教育活動
われわれ教育者は、学生に「サボる」ことを推奨するべきでしょうか。答えは、「ノー」でしょう。「とんでもない、サボるのは悪いことだ。学生には、一所懸命、勉学をはじめ、さまざまな物事にわき目もふらず取り組むのを促すべきだ」と答えるのが通例でしょう。

ところが、もしかしたら、それは間違いかもしれません。「サボる時間」や「退屈な時間」を過ごすことは、その後の創造的な思考を高めるという研究結果があるのです。もしこの直観に反する知見が正しければ、われわれ大学の教員は、学生に「サボり」を勧めるべきかもしれません。



このことをカリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理学者は、実験により論証しています。「退屈きわまりない作業をしたグループは、多少の注意力が求められる作業のグループより、創造的な用途をはるかに多く思いついた」(209ページ)とのこと。論文を我々は本や論文を執筆しているとき、とりわけ迷ったり悩んだりする場合、よく「ねかせる」時間をつくれと助言されます。すなわち、研究から離れる時間(=サボる時間)をとるのです。そうすることにより、研究成果の質が高まるといいます。「難しい問題に悩んだら、一度考えを中断すると答えが見つけやすくなる」(209ページ)は、どうやら正しいようです。

われわれ大学教員は、授業中、学生がノートに落書きしているのを目にすることがあります。その際、われわれはどうすべきなのでしょうか。「落書きなどしないで、キチンとノートをとりなさい」と諭すべきなのでしょうか。答えは、「ノー」かもしれません。理由は以下の通りです。

「いたずら書きは集中力を保ち、退屈だけど必要な作業を効率よくこなす手助けをしている…会議や授業でのいたずら書きは、話に集中しようという誠実さの表れなのだ。上司や教師はその努力を賞賛すべきだろう」(220ページ)

一体どういうことなのでしょうか。プリマス大学の女性心理学者の実験の例が、この本の第7章で紹介されています。どうでもよさそうな内容の留守番電話を「いたずら書きをしながら聞くグループ」と「そうしないグループ」に聞かせます。その結果、なんと前者の方が、留守電のメッセージをキチンと聞くことができたそうです。さらに、そのあと抜き打ちの記憶力テストをしたところ、やはり「いたずら書きグループ」の方が、よい結果だったとのことです。

なぜそうなるか、理由が知りたくなりますよね。著者の説明はこうです。「メッセージはわざと退屈になるようにつくってあるから、被験者はともすると注意がよそに流れがちになる。いたずら書きは、それを防いだり、引きもどしたりする役目を果たしているのだ。つまりいたずら書きは集中力を保ち、退屈だけど必要な作業を効率よくこなす手助けをしているということになる」(220ページ)のです。

大学教師にとって悲しいことに、もっとも退屈な状況の1つは、「講義や授業!」だそうです。そんな中、学生に講義の内容を理解させ知識を定着させるためには、われわれは、たとえ学生がノートに落書きしているのを見つけたとしても、注意しない方がよいのかもしれません。むしろ、こうした学生は、ぼっとして漫然と授業を聞いている学生より、わたしたちの話をよく聞いている可能性が大いにあります。そうだとしたら、「その努力」は、むしろ褒められるべきかもしれませんね。

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政治学者の役割は何か

2018年07月30日 | 研究活動
日本社会において、「政治学者」は、どのような役割を果たすべきなのでしょうか。このような問いに対して、故永井陽之助氏は、自らが編集したテキスト『現代政治学入門(第2版)』(有斐閣、1984年)で、次の3点を挙げているので、ここで紹介したいと思います。

①「権力の師傅(助言者)としての政治学(者)」 ②「ドクトリンとして政治学(者)」 ③「自己認識の学としての政治学(者)」

これらを私なりに解釈すれば、①は政策決定に役立ことを意識しながら研究する政治学者、②は、特定のイデオロギーをベースにして研究を進める政治学者、③は、やや曲解気味になりますが、「権力から距離を保ち」(同書、22ページ)、権力に疑いを持ち続ける政治学者、ということになるでしょうか。

ここまで読んで、アレっと思った方も少なくないでしょう。そうです、「政治の実証研究を行う政治学者」のカテゴリーがないのです。もちろん、永井氏は、まったく科学的な政治学を無視していたわけではありません。①について、以下のような解説を書いています。

「権力の側に立つ政治学である。政治権力の効率と合理性の要請から、一定の政策目標にとって必要な情報の獲得とその迅速な処理、予測、有効な選択肢の提示など、専門的な社会科学の手法や成果に期待する傾向が強くなってきた」(同書、21ページ)

確かに、実証政治学の論文は、最後に、研究成果の政策的含意を述べることがよくあります。その意味では、権力すなわち政治家や官僚との関連性は、否定できないでしょう。しかしながら、研究を政策に活かすことと国家の政策目標の達成に寄与するための研究(ましてや国家の政策に「科学的な」お飾りをつける疑似科学的な権力べったりの研究)は、まったく異なります。上記の解説は、これらの違いを看過しているように思います。たとえば、アメリカの実証政治学の論文は、最後のインプリケーションで現政権の政策を批判することがしばしばです(それも権力へのアドバイスと言われれば、それまでかもしれませんが)。

②については、現在は、実証政治学の進展も影響して、こうした研究志向の政治学者は、いたとしてもごく少数ではないでしょうか。とりわけ、マルクス主義政治学者は、ほぼ壊滅しているか、鞍替えして活動しているようです。田口富久治氏は自著『戦後日本政治学史』(東京大学出版会、2001年)で、こう言っています。「1970年代の半ば以降になると、『マルクス主義政治学(者)』を自称する学会員は少なくなり、80年代には皆無に近くな(った)」(450ページ)と。

さて、③については、どう考えればよいのでしょうか。再度、永井陽之助氏(と篠原一氏)編集による『現代政治学入門』に戻ってみると、同書の「むすび」に、このような興味深い記述があります。

「市民は…プロフェッショナルとしての政治家…によってつくられたメニューの良し悪しを判断することができる。もし政党によって出された政治のメニューが悪ければ、市民は自らの選択によって他の政党を選べばよいのである」(273-274ページ)。

その通りだと私は思います。そうだとすれば、反権力を標榜する政治学者には、どのような役割があるのでしょうか。料理の比喩で言えば、料理(人)に絶え間なく疑問を呈する「料理批評家」のような存在なのでしょうか(もちろん、料理をほめる「料理評論家」もいますよね)。そうだとすれば、反権力を自らの存在意義と認める「ジャーナリスト」の仕事や営為と何が違うのでしょうか。浅学非才の私には、よくわかりません。

やはり学者には、その職域に固有の役割があるのではないか。そこで私が、もう一度かみしめるのは、M.ウェーバーの以下の言葉です。

「人々は学者には、知的な誠実さを求めることしかできない…。知的な誠実さをそなえているということは、事実を確定すること…数学的な関係や論理学的な関係について確認することは…個別の価値についての問いの答えること(とは)、まったく別の異質な問題であることを洞察しているということです。…学者がみずから価値判断をあらわにする場合には、事実を完全に理解するという義務を放棄してしまうこと(です)」(中山元訳『職業としての政治/職業としての学問』日経BP、2009年、213-215ページ)。

こう単純化すると政治哲学者や政治思想家に怒られそうですが、私には、この部分に限っては、ウェーバーが「およそ政治学者を名乗るのであれば、まずは実証主義者たれ」と叫んでいるように聞こえるのですが、どうなのでしょうか。断っておきますが、私は、実証政治学のみが政治学だと言いたいわけではありません。念のために申し添えます。

最後に、それでも政治学者って何者なんだ、実証政治学って何だ、と思う人は、ぜひ、河野勝氏の近著『政治を科学することは可能か』(中央公論新社、2018年)を読んでください。一般読者にはやや難解なところがあるかもしれませんが、全体的には読みやすいです。とくに、第1-3章は、政治に関する実証研究の中身を知るのに、うってつけの内容です。同時に、科学としての政治学ならびに政策との距離感も考えさせる構成となっています。









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