冷戦時代によく議論された1つのテーマが、「赤か死か」といった二分法の安全保障論争でした。その「赤か死か」の難問に明快な答えを提示したのが、高名な経済学者の森嶋通夫氏(LSE)でした。今から約40年程前の1979年、彼は『北海道新聞』において以下の主張を展開しました。
「不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を出迎えるより他ない。…ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりずっとよいに決まっている」(稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』文春文庫、1997年、145-146ページに引用)。
もちろん、森嶋氏の意見は、関嘉彦氏らから猛烈な反論にさらされました。この「森嶋・関論争」の内容については、ここでは触れませんので、興味のある方は、上記の稲垣氏の著作をお読みください。私が問題視したいのは、二律背反で安全保障を語ることです。実は、「赤か死か」について、この論争に先立ち10年以上前に卓越した見解を述べた経済学者がいます。このブログでも取り上げたトーマス・シェリング氏です。彼はこう言います。
「赤化するより死んだほうがましであるかどうかはとうてい議論に値することではない。そんなことは、核時代において、われわれの前に浮上した…選択肢ではないのだ。リスクの程度、つまり、いかなるリスクがとるに値するリスクなのか、行動方針に伴うリスクをどのように評価するのか、ということがわれわれの前に浮上する問題なのである」(T.シェリング『軍備と影響力』勁草書房、2018年〔原書1966年〕97ページ)。
核戦争の前には、必ず「危機」が生じます。森嶋氏の議論からすっぽり抜け落ちているのは、リスクと不確実性を伴う危機をどう管理すればよいのか、という発想です、日本は国家の目標をどう設定して、それを実現するのに、どの程度のリスクを払うことになるのか、ソ連は北海道侵攻どの程度のリスクを冒す覚悟があるのか、といった一連の問いに対する、戦略的な思考です。
あれから約40年…。今でも安全保障の議論は、こうした二分法になる傾向が見えます。現在の日本の安全保障の最大の問題の1つは、「グレーゾン」事態への対応です。そして、この文脈で議論されることは、いくつもあります。「そもそも日中関係を劇的に悪化させる危険があるにもかかわらず、無人島の尖閣諸島は守る価値があるのか」、「はたして米国は尖閣諸島を守るために、あるいは不幸にして された場合、奪還するために来援してくれるのか」、「グレーゾン事態が発生した場合、軍事力の行使や示威により、中国は引き下がるのか」(これについては、Kai Quek and Alastair Iain Johnston, "Can China Back Down?" International Security, 42:3, 2018 参照のこと)などです。
これらの問いにすべて答えると、記事が長くなりすぎますので、最初の問いに対してのみ、私の考えを書きたいと思います。尖閣諸島をめぐる日中の対立は、単なる無人島の取り合いではなく、両国間の戦略的な駆け引きの1つのコマであると位置づけなければ、トンチンカンな答えを導くことになるでしょう。「不幸にして最悪の事態が起これば、平静に尖閣諸島を中国に明け渡すより他ない…尖閣諸島が中国領になった新生活も、また中国と戦争をするよりずっとよいに決まっている」といった回答です。このような論法を避けるヒントは、シェリング氏の分析に見ることができます。
「もし一方の側が決定的に重要でない一連の問題において相手に屈したとしたら、死活的問題に及んだ場合に死活的問題に及んだことを相手に分からせるのはおそらく難しいだろう…わが方の究極の決意に対する相手の確信を損なうような振る舞いは、相手のためにならないのだ」(同書、124ページ)。
日本は、その国家目標を東シナ海を南シナ海化させないことに設定するのあれば、尖閣諸島の主権は譲らない決意を中国に誤解の余地を残さないよう伝えなければなりません。ですから、たとえば、日本が尖閣諸島「棚上げ論」を自ら持ち出すことは、中国に日本の決意を疑わせることになりかねず、また、中国のためにもならないでしょう。ここで日本にとって教訓になるのが、オバマ政権の「失敗」です。オバマ大統領は、中国を刺激しないよう「戦略的忍耐」というあいまいな対中戦略をとりました。これは中国に誤ったメッセージを送った結果になったのかもしれません。すなわち、中国はオバマの「メッセージ」をアメリカが「海洋の秩序」維持の決意を持っていないと受け取って、南シナ海の軍事拠点化を加速したということです(詳しくは、拙稿「中国の安全保障政策におけるパワーと覇権追求」『アジア太平洋討究』第30号、2018年をお読みください)。その後の米軍による航行の自由作戦(FON)の再開は、遅きに失した感があります。抑止のコミットメントに信憑性を持たせるために、そして「サラミ戦術」は効かないことを相手に分からせるために、その技法をフル活用しなければなりません。その際、どうしてもリスクと不確実性は避けられませんが、蓄積されてきた安全保障研究の知見は、強要より抑止の方が容易であることを示しています。尖閣諸島の問題は、日本にとって「抑止」の段階なのは幸いというべきでしょう。
「不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を出迎えるより他ない。…ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりずっとよいに決まっている」(稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』文春文庫、1997年、145-146ページに引用)。
もちろん、森嶋氏の意見は、関嘉彦氏らから猛烈な反論にさらされました。この「森嶋・関論争」の内容については、ここでは触れませんので、興味のある方は、上記の稲垣氏の著作をお読みください。私が問題視したいのは、二律背反で安全保障を語ることです。実は、「赤か死か」について、この論争に先立ち10年以上前に卓越した見解を述べた経済学者がいます。このブログでも取り上げたトーマス・シェリング氏です。彼はこう言います。
「赤化するより死んだほうがましであるかどうかはとうてい議論に値することではない。そんなことは、核時代において、われわれの前に浮上した…選択肢ではないのだ。リスクの程度、つまり、いかなるリスクがとるに値するリスクなのか、行動方針に伴うリスクをどのように評価するのか、ということがわれわれの前に浮上する問題なのである」(T.シェリング『軍備と影響力』勁草書房、2018年〔原書1966年〕97ページ)。
核戦争の前には、必ず「危機」が生じます。森嶋氏の議論からすっぽり抜け落ちているのは、リスクと不確実性を伴う危機をどう管理すればよいのか、という発想です、日本は国家の目標をどう設定して、それを実現するのに、どの程度のリスクを払うことになるのか、ソ連は北海道侵攻どの程度のリスクを冒す覚悟があるのか、といった一連の問いに対する、戦略的な思考です。
あれから約40年…。今でも安全保障の議論は、こうした二分法になる傾向が見えます。現在の日本の安全保障の最大の問題の1つは、「グレーゾン」事態への対応です。そして、この文脈で議論されることは、いくつもあります。「そもそも日中関係を劇的に悪化させる危険があるにもかかわらず、無人島の尖閣諸島は守る価値があるのか」、「はたして米国は尖閣諸島を守るために、あるいは不幸にして された場合、奪還するために来援してくれるのか」、「グレーゾン事態が発生した場合、軍事力の行使や示威により、中国は引き下がるのか」(これについては、Kai Quek and Alastair Iain Johnston, "Can China Back Down?" International Security, 42:3, 2018 参照のこと)などです。
これらの問いにすべて答えると、記事が長くなりすぎますので、最初の問いに対してのみ、私の考えを書きたいと思います。尖閣諸島をめぐる日中の対立は、単なる無人島の取り合いではなく、両国間の戦略的な駆け引きの1つのコマであると位置づけなければ、トンチンカンな答えを導くことになるでしょう。「不幸にして最悪の事態が起これば、平静に尖閣諸島を中国に明け渡すより他ない…尖閣諸島が中国領になった新生活も、また中国と戦争をするよりずっとよいに決まっている」といった回答です。このような論法を避けるヒントは、シェリング氏の分析に見ることができます。
「もし一方の側が決定的に重要でない一連の問題において相手に屈したとしたら、死活的問題に及んだ場合に死活的問題に及んだことを相手に分からせるのはおそらく難しいだろう…わが方の究極の決意に対する相手の確信を損なうような振る舞いは、相手のためにならないのだ」(同書、124ページ)。
日本は、その国家目標を東シナ海を南シナ海化させないことに設定するのあれば、尖閣諸島の主権は譲らない決意を中国に誤解の余地を残さないよう伝えなければなりません。ですから、たとえば、日本が尖閣諸島「棚上げ論」を自ら持ち出すことは、中国に日本の決意を疑わせることになりかねず、また、中国のためにもならないでしょう。ここで日本にとって教訓になるのが、オバマ政権の「失敗」です。オバマ大統領は、中国を刺激しないよう「戦略的忍耐」というあいまいな対中戦略をとりました。これは中国に誤ったメッセージを送った結果になったのかもしれません。すなわち、中国はオバマの「メッセージ」をアメリカが「海洋の秩序」維持の決意を持っていないと受け取って、南シナ海の軍事拠点化を加速したということです(詳しくは、拙稿「中国の安全保障政策におけるパワーと覇権追求」『アジア太平洋討究』第30号、2018年をお読みください)。その後の米軍による航行の自由作戦(FON)の再開は、遅きに失した感があります。抑止のコミットメントに信憑性を持たせるために、そして「サラミ戦術」は効かないことを相手に分からせるために、その技法をフル活用しなければなりません。その際、どうしてもリスクと不確実性は避けられませんが、蓄積されてきた安全保障研究の知見は、強要より抑止の方が容易であることを示しています。尖閣諸島の問題は、日本にとって「抑止」の段階なのは幸いというべきでしょう。