野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

オール・オア・ナッシングの安全保障論議を超えて

2018年08月23日 | 研究活動
冷戦時代によく議論された1つのテーマが、「赤か死か」といった二分法の安全保障論争でした。その「赤か死か」の難問に明快な答えを提示したのが、高名な経済学者の森嶋通夫氏(LSE)でした。今から約40年程前の1979年、彼は『北海道新聞』において以下の主張を展開しました。

「不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を出迎えるより他ない。…ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりずっとよいに決まっている」(稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』文春文庫、1997年、145-146ページに引用)。

もちろん、森嶋氏の意見は、関嘉彦氏らから猛烈な反論にさらされました。この「森嶋・関論争」の内容については、ここでは触れませんので、興味のある方は、上記の稲垣氏の著作をお読みください。私が問題視したいのは、二律背反で安全保障を語ることです。実は、「赤か死か」について、この論争に先立ち10年以上前に卓越した見解を述べた経済学者がいます。このブログでも取り上げたトーマス・シェリング氏です。彼はこう言います。

「赤化するより死んだほうがましであるかどうかはとうてい議論に値することではない。そんなことは、核時代において、われわれの前に浮上した…選択肢ではないのだ。リスクの程度、つまり、いかなるリスクがとるに値するリスクなのか、行動方針に伴うリスクをどのように評価するのか、ということがわれわれの前に浮上する問題なのである」(T.シェリング『軍備と影響力』勁草書房、2018年〔原書1966年〕97ページ)。

核戦争の前には、必ず「危機」が生じます。森嶋氏の議論からすっぽり抜け落ちているのは、リスクと不確実性を伴う危機をどう管理すればよいのか、という発想です、日本は国家の目標をどう設定して、それを実現するのに、どの程度のリスクを払うことになるのか、ソ連は北海道侵攻どの程度のリスクを冒す覚悟があるのか、といった一連の問いに対する、戦略的な思考です。

あれから約40年…。今でも安全保障の議論は、こうした二分法になる傾向が見えます。現在の日本の安全保障の最大の問題の1つは、「グレーゾン」事態への対応です。そして、この文脈で議論されることは、いくつもあります。「そもそも日中関係を劇的に悪化させる危険があるにもかかわらず、無人島の尖閣諸島は守る価値があるのか」、「はたして米国は尖閣諸島を守るために、あるいは不幸にして された場合、奪還するために来援してくれるのか」、「グレーゾン事態が発生した場合、軍事力の行使や示威により、中国は引き下がるのか」(これについては、Kai Quek and Alastair Iain Johnston, "Can China Back Down?" International Security, 42:3, 2018 参照のこと)などです。

これらの問いにすべて答えると、記事が長くなりすぎますので、最初の問いに対してのみ、私の考えを書きたいと思います。尖閣諸島をめぐる日中の対立は、単なる無人島の取り合いではなく、両国間の戦略的な駆け引きの1つのコマであると位置づけなければ、トンチンカンな答えを導くことになるでしょう。「不幸にして最悪の事態が起これば、平静に尖閣諸島を中国に明け渡すより他ない…尖閣諸島が中国領になった新生活も、また中国と戦争をするよりずっとよいに決まっている」といった回答です。このような論法を避けるヒントは、シェリング氏の分析に見ることができます。

「もし一方の側が決定的に重要でない一連の問題において相手に屈したとしたら、死活的問題に及んだ場合に死活的問題に及んだことを相手に分からせるのはおそらく難しいだろう…わが方の究極の決意に対する相手の確信を損なうような振る舞いは、相手のためにならないのだ」(同書、124ページ)。

日本は、その国家目標を東シナ海を南シナ海化させないことに設定するのあれば、尖閣諸島の主権は譲らない決意を中国に誤解の余地を残さないよう伝えなければなりません。ですから、たとえば、日本が尖閣諸島「棚上げ論」を自ら持ち出すことは、中国に日本の決意を疑わせることになりかねず、また、中国のためにもならないでしょう。ここで日本にとって教訓になるのが、オバマ政権の「失敗」です。オバマ大統領は、中国を刺激しないよう「戦略的忍耐」というあいまいな対中戦略をとりました。これは中国に誤ったメッセージを送った結果になったのかもしれません。すなわち、中国はオバマの「メッセージ」をアメリカが「海洋の秩序」維持の決意を持っていないと受け取って、南シナ海の軍事拠点化を加速したということです(詳しくは、拙稿「中国の安全保障政策におけるパワーと覇権追求」『アジア太平洋討究』第30号、2018年をお読みください)。その後の米軍による航行の自由作戦(FON)の再開は、遅きに失した感があります。抑止のコミットメントに信憑性を持たせるために、そして「サラミ戦術」は効かないことを相手に分からせるために、その技法をフル活用しなければなりません。その際、どうしてもリスクと不確実性は避けられませんが、蓄積されてきた安全保障研究の知見は、強要より抑止の方が容易であることを示しています。尖閣諸島の問題は、日本にとって「抑止」の段階なのは幸いというべきでしょう。

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リベラルな国際秩序とリアリスト

2018年08月21日 | 研究活動
2018年7月27日付 New York Times 紙に、国際関係研究者有志による「なぜわれわれは国際制度と秩序を維持すべきなのか」と題する声明が発表され、世界中にも研究者に署名するよう、呼びかけられました。声明の主旨は、これまで世界の平和や安定、繁栄を支えてきた国際制度(NATO、国連、世界貿易機関など)は、トランプ大統領の「攻撃」にさらされている。リベラルな国際秩序を守るため、彼の行為に国際関係研究者は警鐘をならそうではないか、というものです。そして、世界中から多くの署名が集まっています。日本人研究者の名前もあります。

「リベラルな国際秩序の維持」は、魅力的なキャッチフレーズです。しかしながら、この声明の根底にあるロジック、すなわち国際ルールがあったからこそ秩序が保たれたというのは、その通りなのでしょうか。国際ルールと秩序が因果関係にあるならば、われわれは引き続き現在の諸制度を支える努力をすべきでしょう。他方、国際ルールと秩序が疑似相関関係であるならば、無理に既存の制度を守ろうとしても、早晩、崩れるであろうのみならず、無駄な労力を浪費することになりかねません。くわえて、リベラルな国際秩序が危うくなっているのは、トランプ大統領という個人のせいなのでしょうか。それとも、トランプ氏の行動は、国際システムの変化に影響された結果なのでしょうか。これら2つの問いは、国際秩序の安定させるための処方箋を考えるうえで、避けて通ることは出来ないでしょう。

ハーバード大学ケネディ行政大学院の2人の政治学者が、この声明に異を唱えました。1人は、リアリストを自称するスティーブン・ウォルト氏であり、もう1人は、「トゥキディデスの罠」プロジェクトを主導した重鎮、グレアム・アリソン氏です。彼らは、この声明になぜ「反対する」のでしょうか。

ウォルト氏は Foreign Policy誌(ウェブ版) のブログ「なぜ私は国際秩序を守るためという声明に署名しなかったのか」で、こう反対理由を述べています。第1に、戦後の平和は制度の産物というより、米ソ二極構造と核兵器の存在こそが大戦争を防いだ結果だということです。アリソン氏も、Foreign Affairs誌に寄稿した「多様性を受け入れる秩序へ―リベラルな国際秩序という幻」(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2018年8月号所収)において、同じような指摘を行っています。第2に、リベラルというけれども、これまで米国は自らルールを破ったこともよくあったではないかという自戒です。第3に、NATOの東方拡大などがロシアを刺激したように、制度がもたらす負の結果について、何も示していないことへの不満です。

そして、これら二人の政治学者が強調するのが、過去の秩序に郷愁を抱いて、それを守り抜こうとするのではなく、国際システムの変化を見据えたうえで、新しい秩序構想を考えようではないかという、前向きな姿勢です。ウォルト氏はこう述べています。「われわれは過去を振り返り、問題だらけの現状維持へこだわることに費やす時間を少なくして、現状をどのように改善するかを考えるのにもっと時間を使おうではないか」。アリソン氏の主張は、より直截です。「他国には統治についてアメリカと異なる考え方があり、彼ら自身のルールに基づく国際秩序を構築しようとしている現実に合わせて、アメリカの国内外の取り組みを変えていけばよい」ということです。

トランプ大統領への見方についても、彼らの言い分は、アメリカ研究者やジャーナリストたちからよく聞く批判とは一味違います。ウォルト氏は、「トランプが2016年の大統領選挙で勝ったのは、部分的であれ、何百万人ものアメリカ人が現存する秩序がアメリカ人にために機能しておらず、トランプが言うように、アメリカの外交政策は『完璧で完全な災厄』だったと確信したからなのだ」。アリソン氏の見立ては、もっと分かりやすい。

「トランプ…がもっとも深刻な脅威ではない…中国の台頭、ロシアの復活、そして世界におけるアメリカのパワーの衰退は、それぞれ、トランプよりもはるかに大きな問題をはらんでいる」(35ページ)。

卓見です。私も、この二人にほぼ同意なので、上記の声明には署名しないと決めました。

リベラルな秩序の擁護者たちは、国際政治における個人の影響力を過大評価しすぎであり、ある現象の原因を個人の属性のせいにし過ぎるバイアスにかかっていると私は思います。結果を原因と取り違える「内生性」の問題にも、もっと注意すべきでしょう。リベラルな秩序を脅かすきっかけは、イラク戦争やリビアへの介入、金融危機への不十分な対応などであり、これらはトランプ政権誕生より前に起こっています。それらの事象の後に、トランプ政権が誕生したのです。声明への署名者には、社会科学の厳格な方法論を擁護している研究者も少なくありません。トランプ「憎し」のあまり、彼らは判断を誤ったのではないか、と言ったら言い過ぎでしょうか。

日本にとっては、現状のリベラルな秩序を構成する日米同盟の維持が国益になることでしょう。ですが、国際構造すなわち米中のパワーバランスの変化にともない、秩序を支える制度が影響を受けるのは必至です。日米同盟も例外ではないでしょう。アリソン氏の言葉を借りれば、日本も「現在の社会通念をはるかに超える戦略的想像力」(35ページ)を持たなければなりません。「昔は良かった(を)唯一の心の支え(綾小路きみまろ)」にすることに、決別すべき時かもしれません。トランプ批判の日本版ともいえる「アベノセイダーズ」は、戦略的想像力とは無縁の後ろ向きな発想です(「悪者」を見つけて批判することで留飲を下げるのは日米共通のようです)。われわれも、もっと前を向かなければなりませんね。




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「抑止の安定性」と「平和共存」(改訂)

2018年08月16日 | 研究活動
これから紹介する文章は、誰がいつ頃に書いたものなのか、考えてみてください。

・「暴力の脅しはつねに国際政治を取り巻いている。これらは力と善意のいずれによっても免れることができない」
・「問題は脅しに説得力を持たせることであり、はったりだとみられないことである」
・「強要の脅しにおいては、たいてい、相手側がもし行動したら懲罰を与えるのではなく、相手方が行動を起こすまでに懲罰を与える必要がある」
・「国家は、戦争を招くと信憑性をもって脅しをかけることはできずとも、へたをすれば戦争に陥ってしまうと脅すことはできる」
・「核は目標を破壊するだけでなく、何かを伝える…近い将来における核使用の軍事的な必要が生じる可能性が高いことを…示唆しているときには…意図的に核を持ちだすのは賢明であり、外交と適切に連携した無差別でない慎重な核の持ち出しの機会が残っている」
・「戦争を憎む者であっても、重い責任を伴う指令の必要性に対して目を閉ざすことで、戦争の醜さを消し去ることはできない」
・「もし軍縮が抑止といったことについて忘れ去ることができるほど十分に『全面的』なものであればよいのにと思うのはまったく妥当ではない」

皆さんは、どんな人物を想像しましたか。保守的な軍事主義者でしょうか。戦争を賛美する国家主義者でしょうか。いずれもハズレです。答えは、ノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリング氏です。この文章が書かれたのは、なんと半世紀以上前の1966年です。Thomas Shelling, Arms and Influence (New Haven: Yale University Press, 1966)に収められています。そして、この学術書は、その後の国際政治学(国際関係論)や安全保障研究を飛躍的に発展させる基礎となる、現代の古典ともいえるものなのです。

ありがたいことに、この名著が日本語で読めるようになりました。それがトーマス・シェリング(斎藤剛訳)『軍備と影響力』勁草書房、2018年です(上記の文章は、全て同書からの引用)。



訳本が出版されたの良い機会に、私は同書を読み直してみました。原書で読んだ大学院時代とは違う、さまざまな想いが頭に浮かびました。

第1に、「核兵器による脅しに信憑性を持たせるにはどうしたらよいか」、「自らの意図を相手に受け入れさせるために、外交や駆け引きにおいて、軍事力をどのようにつかうのが効果的か」といった、本書が取り組んだような研究は、1960年代半ばの日本において可能だっただろうか、という疑問です。おそらく不可能に近かったでしょう。この時代に大学で政策に関連づけた軍事研究をするなど、一種のタブーでした。同時代における日本の国際政治学の1つの中心的な論争軸は、「現実主義」対「平和主義」でした。高坂正堯氏の「現実主義者の平和論」(『中央公論』所収。なお、タイトルが現実主義者の国際政治論でないことに注目して下さい)が書かれたのは1963年1月、平和研究の代表の1人だった坂本義和氏の「『力の均衡』の虚構」(『世界』所収)が書かれたのは1965年3月です。『軍備と影響力』は、太平洋を挟んだ海の向こうの米国で、このような時期に執筆されたのです。

第2に、突拍子もない反実仮想ですが、もしシェリング氏が日本に研究拠点を置き、『軍備と影響力』を日本語で世に問うたならば、はたして大学でポジションを維持できただろうか、という問いです。かれがハーバード大学で経済学の教授職を得たように、もしかしたら、経済学者として、どこかの経済学部に職を得られたかもしれません。しかし、その後、かれが活躍したハーバード大学の国際問題研究所や公共政策大学院に相当する日本の学術機関で、軍事の研究をどんどん進めることなど、まったく想像できません。

シェリング氏の核兵器と駆け引きをめぐる研究は、その後、後継の研究者により、飛躍的な発展を遂げました。核兵器による強制外交は効果がないことを実証した研究(Todd S. Sechser and Matthew Furhrmann, Nuclear Weapons and Coercive Diplomacy, Cambridge University Press, 2017) 、攻撃防御バランスの理論構築、戦争原因の研究(代表的なものは、Stephen Van Evera, Causes of War, Cornell University Press, 1999)、核のタブーに関する研究(Nina Tannenwald, The Nuclear Taboo, Cambridge University Press, 2007)など、挙げればきりがありません。米国における国際政治学の発展は、その多くをシェリング氏のこの研究に追っているのです。別の言い方をすれば、シェリング氏の『軍備と影響力』こそが、「世界の」国際政治研究の方向性を定めたのです。

他方、日本の「国際政治学」は、同じ時期に行われた坂本氏らによる「平和研究」に、かなり影響を受けたようです。シェリング氏の上記の研究が発表された同年に、坂本氏たちをメンバーとする「日本平和研究懇談会」が生まれ、翌年の1967年に、日本国際政治学会に「平和研究部会」が設けられたのは象徴的です。ここから日本の国際政治学は、政治的価値としての「平和」にしばらく呪縛されることになります。

坂本氏は「抑止の安定」を理論的に突き詰めて解明することよりも、むしろ「平和共存」や「平和を究極に維持する条件」に関心を向けていました(坂本義和『新版 核時代の国際政治』岩波書店、1982年参照)。そして、かれがだした1つの答えが、核兵器を拒否することでした。「核兵器は戦略理論の手にも余る兵器である。抑止であれ使用であれ、これの使い方をコントロールするという発想では到底これを制御しきれない…核兵器の削減と廃絶は、民衆の権利なのである」(同書、202、208ページ)。こうした信条は、核兵器を駆け引きや抑止の安定に利用する方法を模索したシェリング氏の発想とあまりに対照的です。興味のある方は、坂本氏の著作とシェリング氏が晩年に執筆した論文「核兵器のない世界?」を読み比べてください。

日本の国際政治学は、「輸入学問」と揶揄されることがあります。これはある意味、仕方なかったのかもしれません。実証主義に基づくタブーなしの国際政治学は、米国が日本よりはるかに先んじていたからです。戦後数十年間の日本の国際政治学界は、少なくとも理論研究において、北米や英国における国際政治研究を取り入れる以外の方法を、ほとんどもたなかった。それでもなお、シェリングのこの業績は、残念なのことに、日本の学界で、ほとんど取り入れられませんでした。日本の国際政治学を総括するプロジェクトの成果である、日本国際政治学会編『学としての国際政治』(有斐閣、2009年)でも、彼のこの成果は言及されていないだけでなく、「引用・参考文献一覧」にもありません。「輸入」さえ不十分だったようです。そのような当時の学術的状況において、永井陽之助氏などが、シェリングの『軍備と影響力』を高く評価して、自身の研究に取り入れたのには救われる思いがします。

この数十年では、北米で政治学の博士号を取得した日本人研究者の尽力もあり、規範的要因や価値判断をなるべく含めないような、科学的方法論に依拠した国際政治研究が、我が国でも主流になりつつあります。それでもなお、これまでの日本の国際政治学を変遷を振り返ると、『軍備と影響力』の訳本がもっと早く上梓されたらと惜しまれます。半世紀という時間は、日本の国際政治学にとって、あまりに高い代償だったと思えてなりません。この名著を日本語で読めるようにしてくださった、訳者の斎藤剛氏と勁草書房に、心より敬意を表します。




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甲子園という病

2018年08月14日 | スポーツ
日本中が注目する全国高校野球「甲子園」大会開催中に、刺激的なタイトルの新書が発売されました。氏原英明『甲子園という病』新潮社、2018年です。



氏原氏は、以下の問題意識から本書を執筆したそうです。

「これまで日本人の心を打っていたはずの『甲子園』は、正気をうしなっている…『甲子園中毒』によって何が生じているかに気付いてくれるよう願って、この本を記す」(7-8ページ)。 

多くの日本人そして高校球児の「正気」を失わせる「甲子園」とは、いったい何なのでしょうか。ある高校球児の回想によれば、「甲子園が魅力的すぎる」(23ページ)のだそうです。どうも、この「魅力」に病理の根源があるようです。では、何が高校野球「甲子園」大会を多くの人の「正気」を失わせるほど「魅力的」にしているのか。残念ながら、私は本書に「答え」を見つけることができませんでした。ただし、異常なほどメディアが取り上げることと関係しているのは、誰もが疑わないでしょうiRONNA

1つのアマチュアスポーツに過ぎない高校野球「甲子園」大会は、なぜ国民から受信料を領収して運営されている公共放送局であるNHKにより、毎年欠かさず全試合、実況中継されるのか、私は常々不思議に思っています。NHKウェブサイトによれば、NHKは「公共の福祉と文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体」です。そうだとするならば、甲子園大会をNHKが全国に配信することは、「公共の福祉」と「文化の向上」に寄与するのですよね。

日本国憲法にも規定されている「公共の福祉」は、さまざまな事典にいろいろな定義が紹介されていますが、つきつめると「社会全体の利益」という意味のようです。「文化の向上」は、これも捉えどころがない概念ですが、文部科学省によれば、どうやら芸術や歴史などの保護や振興といったようなイメージのようです。他方、高校野球は芸術ではなく、スポーツです。ですから、高校野球「甲子園」大会を全試合、受信料の一部を使って放映することは、素直に考えれば、「文化」を向上させるとは言えないでしょう。

残るのは、「公共の福祉」です。NHKが多大なコストを支払ってまで高校野球「甲子園」大会を番組として全国に流す目的は、それが「公共の福祉」に合致するからだということになります。果たして、そうなのでしょうか。本書では、甲子園大会に出場した投手が「常軌を逸した事態」に追い込まれて、「虐待シーン」とまで表現される事件がいくつも紹介されています(31-32ページ)。こうした次々と起こる「常軌を逸した事態」を無批判に放映することが、なぜ「公共の福祉」になるのか、私にはまったく理解できません。

本書に戻りましょう。大学で教鞭をとる教育者の端くれとして気になるのは、「甲子園」を「聖地」とする高校野球は「教育の一環としての学生野球」(高野連ウェブサイトより)なのかということです。この点について、氏原氏は吐き捨てるように批判します。

「長時間練習が甲子園出場につながったことや深夜までの練習が『感動ストーリー』としてメディアに描かれるのは高校野球ぐらいだろう。教育的観点がどこにもない異常な環境は考え直すべきだろう」(134ページ、下線は引用者)「私学の強豪校などは寮を完備して専用の野球場で練習に打ち込んでいる。すべての練習が終わるのが夜になることもある。そんな状態で翌日の授業を受けて、集中できるはずがない」(148ページ)

同ページで引用されている元阪神のマートン選手の指摘も傾聴に値しますので、ここに紹介します。

「日本人は、野球の練習を八時間することもある。半面、人生において大切な教育がおろそかになっていませんか。スポーツだけ続け二十代後半から三十代でやめたら、どうやって生きていくのでしょうか。僕も野球を終えた後の人生でやりたいことがたくさんある。少し残っている単位をとるために大学に戻って勉強をしたい。残りの人生を豊かにしたいのです」(134ページ)

まったくその通りでしょう。こうした教育上の問題もさることながら、私がもっとも衝撃を受けたのは「食トレという拷問」(124ページ)が、高校の現場で行なわれていることでした。「(選手の身体が貧弱なので)『ごはん三杯』を必須として、選手たちに食べさせていた。しかし、上手くいかなかった。選手たちは我慢して食べようとはしたが、席を立ちあがると吐き出した」(128ページ)。これのどこが「教育の一環」なのでしょうか。流行りの言葉を使って表現すれば、「食ハラ」と言われても仕方ないでしょう。にもかかわらず、氏原氏によれば、このような「食トレーニング」が、高校野球界では大流行している(125ページ)。ここまで来ると、もはや言葉もありません…。

私は中学では「野球小僧」でした(下手でしたが)。母校は、甲子園出場約30回、春の甲子園準優勝2回の古豪です。野球大好きな大学院の恩師とは、何度も野球をプレーしました。MLBもよく観ます。ですが、高校野球「甲子園」大会は、地方予選を含め、一切、観なくなりました。正確に言うと、「正気」を失った甲子園は観たくないのです。「責任を取らない大人が…子どもの夢を勝手に大きくして、慢心させる環境は良くない」(79ページ)。ある高校球児の述懐です(ご参考までにPRESIDENT Online の記事もご覧ください)。私は、そんな大人でいたくありませんね。




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転換期における日本の安全保障戦略

2018年08月09日 | 研究活動
日本の安全保障政策は、今、大きな岐路に立たされています。米中のパワー・バランスの再配分による東アジアの国際システムの激変が、日本に自身の安全保障政策を見直すよう強いているのです。

ジャーナリストのM.ロバートソン氏が、「『9条教』日本の袋小路」『ニューズウィーク日本版』2018年夏季合併号において、このような状況をうまく解説しているので、ここに紹介したいと思います。まず、日本を取り巻くパワー・バランスの変化がもたらす日本の「苦境」について、このように分析しています。

「日本国民にとって年々、アメリカは手放しで信頼できない相手へと変貌しています…といって中国もそう簡単に信頼できないので、最悪、四方八方を敵対的か、必ずしも友好的ではない国家に囲まれるというシナリオも考えられます」(29ページ)

国家がグランドストラテジーを定めるには、自国のポジション、すなわち「現状維持」「現状打破」「中立」の中から、どれかを選択しなければなりません。これまでの日本は、「現状維持」勢力の覇権国アメリカとの同盟を選択してきました。そして、その選択は深刻なジレンマを伴いませんでした(全面講和と片面講話の対立はありましたが)。しかし、現在そして近い将来、日本のグランドストラテジーそのものの再考を促す国際情勢の変化が進行しているということです。

ところが、日本人は自国の戦略を再考するどころか、ロバートソン氏に言わせれば、こうした現実に背を向けて「思考停止」しているのです。

「いわば『9条教』ともいえる宗教を信じてきた日本人は…現実を突き付けられることがあまりに苦痛を伴うため、自分の思考回路がよって立つところを失ってパニックになって…る」「合理的に考えると独自の攻撃能力を持たない国が、戦争や軍事力でしか話をつけられない北朝鮮や中国を相手にハト派外交や経済外交だけで話をつけようと考えるのは無理な話。それを肩代わりにするのが集団的自衛権であり、アメリカとの同盟関係」(30ページ)

この部分の言い回しは、やや強引で単純化しすぎのきらいはありますが、的を射ているでしょう。ここでロバートソン氏が主張したいことを言い換えれば、「憲法9条の堅持」と「集団的自衛権なしの日米同盟」が、今やトレード・オフであるということです。これまではアメリカが強力な拡大抑止(日本への敵対行為はアメリカに対するものとみなし、当該国に耐えがたい攻撃を与えることで、日本を守ること)を日本に提供していたため、日本は専守防衛に徹することができました。だからこそ、憲法9条と日米同盟は両立できた。しかし、今は違う。日米同盟が揺らいでいるため、日本はこれまでアメリが代行してきた、攻撃面での軍事的役割を多かれ少なかれ自分が担わなければなりません。ところが、そうすることを憲法9条が法的に阻んでいる。記事のタイトル通り、日本は「袋小路」に追い詰められつつあるのです。

では、ここから脱出できる方法はないのでしょうか。少なくとも短期的には、「部分的にはアメリカに依存するけれど、依存できなくなった分…を独自の防衛力に補充する」(30ページ)ことが、1つの方策でしょう。このことについて、ロバートソン氏は多くを語っていないので、他の記事にあたってみましょう。

日本の安全保障に詳しいE.ヘジンボサム氏とR.サミュエルズ氏(共にMIT)は、学術誌『国際安全保障』に掲載された最新論文において、日本は「積極拒否戦略(Active Denial Strategy)」に転換すべきだと主張しています("Active Denial: Redesigning Japan's Response to China's Military Challenge," International Security, 42:4, Spring 2018)。かれらは、「グレーゾン」事態では抑止は効かないと前提したうえで、アメリカが来援するまでの「空白」を日本が埋めるようにして、日本有事の際に敵対国が支払うコストを高める措置を提案しています。具体的には、自衛隊の兵力の抗堪性を高め、敵勢力を孤立させ攻撃できる軍事力を備え、反撃力をつけるということです。そして、そのためにすべきこととして、防衛費の増額、陸自偏重から海空重視の予算再配分、常設合同司令部の設置などを提言しています。

長くなりました。こうした意見については賛成・反対それぞれあるでしょうが、パワー配分が急速に変化している国際システムに合理的に適応しないと、標準的な構造的リアリズムのロジックが正しければ、日本は手痛いしっぺ返しを食らうことになるでしょう。少なくとも「思考停止」は、何の解決にもならないと思います。

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