野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

スキーのオフトレ

2013年08月30日 | スポーツ
先日、八ヶ岳でグレステンサマースキーをやってきました。
http://www.lcv.ne.jp/~bunkaen/glestain/glestain.htm
グレステンスキーとは、車輪をつけた短い「板」で、プラスチック製でしょうか、「グランド材」の上を滑るものです。私は、今回が初めてでした。以下は、感想です。



①ポジションの確認には最適だと思いました。足場が短いので、重心が常に板の真ん中に乗っていないと、不安定になり、転倒しがちです(転倒すると、下が堅いので痛いです)。
②板がスケボーのような構造なので、ターン中にほとんどずれません。したがって、谷回りの始動を早くしないと、うまくターンができません。ですから、谷回りに入るタイミングを早める練習になります。
③両脚が同調しないと、ターンがまとまりません。正確な脚(とくに膝下)動作が求められます。
④とりわけ、内足をうまくたためないと、ターンをまとめられません。私の場合、左ターンが上手くできませんでした(雪上でもそうです)。その主因は左の内足をたためないことであるのが、改めて、よくわかりました。

要するに、基本技術の差がもろにでます。雪上と違い、ずらしや板の長さで重心の不安定さをカバーできないからです。自分の滑りの欠点を知り修正するためのオフトレには、とても良いですね。

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国際政治学において、「主義(イズム)」は悪なのか?

2013年08月12日 | 研究活動
国際政治学の標準的な授業や教科書では、「主義(イズム)」という「理論」がいくつも紹介されています。代表的なものは、「現実主義(リアリズム)」、「自由主義(リベラリズム)」、「構成主義(コンストラクティヴィズム)」でしょう。学生たちは、国際政治学/国際関係論の授業において、多かれ少なかれ、これらの「理論」を学び、世界で起こっている出来事や重要な国際事象への理解を深めていきます。つまり、「主義(イズム)」は、一般的には、国際政治教育のツールであると認められているわけです。

ところが、国際政治学の世界的な学術組織ISA(International Studies Association)の会長が、同学会の著名な学術誌上で、「主義(イズム)」は悪であると断罪しました。著者は、デーヴィッド・レイク氏(カリフォルニア大学サンディエゴ校)です。レイク氏は2010年から2011年にかけて、ISAの会長を務め、その演説をまとめた論文「なぜ『主義(イズム)』は悪なのか?―認識論ならびに理解と進歩を阻害する学問的派閥―」で、こう主張しています。リアリズムなどの「パラダイム」の研究は、客観的な社会科学から神学になりつつあり、「イズム」間のパラダイム論争は、神学論争に過ぎず、世界政治への理解を阻害するのみならず、国際政治学を発展させることにもならないと。

レイク氏の主張で最も重要なことの1つは、以下の指摘でしょう。

「理論の説明能力の論証は可能であるが、(リアリズムのような)伝承的な研究では、ほとんど可能ではない。…それぞれの伝統的研究は不完全であり、論理的な演繹的予測を生み出さないので、いかなる経験的証拠をもってしても、その説明能力を明らかにすることができず…多くの幅広い行動を仮説と一致させることができてしまう。…研究の実践は理論をますます反証しようとしなくなり、理論を支持するようになってしまうのだ」(470ページ)

では、どうすればよいのでしょうか?

レイク氏は、大理論(grand theory)を志向する「主義(イズム)」の研究伝統から離れ、トピックや個別の問題に立脚した中範囲の理論構築を目指すことが望ましく、それが世界政治へのより深い理解につながるだろうと主張しています。また、ピーター・カッツエンスタイン氏(コーネル大学)らの「分析的折衷主義」を擁護し、スティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)が強調する理論・方法の多様性の重要性を指摘しています。さらに、国際政治のキー概念である、「利益(interests)」「相互作用(interactions)」「制度(institutions)」に基づき、学問体系を再編成できる可能性を示唆しています。

現在、国際政治学が転換期にあることは、確かなことでしょう。国際関係論の主要学術雑誌からは、かつて盛んに行われたような「リアリズム・ネオリベラル制度論争」のようなパラダイムをめぐる議論が影をひそめ、「主義(イズム)」を扱った論文も減り、明確な仮説を計量的手法で緻密に検証する論文が増えました。これは、国際政治学が「科学化」したということなのでしょうか。

レイク論文を読んで、かなり前に、ある後輩が「リアリズムは理論ではなく、政治的英知に過ぎない」と喝破したのを思い出しました。ある地域を専門とする研究仲間からは、「理論家は専門誌上でケンカばかりしているという印象でしたが、最近は、そうではなくなりましたね」と言われました。多くの国際政治の研究者が、リアリズムやリベラリズム、コンストラクティヴィズムなどの「主義(イズム)」にかかわる研究に漠然と感じていたことを、レイク氏は明確に論文で指摘したと言えるでしょう。

ただ、レイク氏の国際政治学の「病理」に対する処方を実行すれば、実りある成果を期待できるのか、と問われれば、私は必ずしもそうだとは思えません。近年の国際政治学は、ミアシャイマー氏(シカゴ大学)やウォルト氏が論文「理論を置き去りにするということ」で問題視しているように、理論構築から、単純な仮説を難解な専門用語と数学を用いた統計的手法で検証することに傾斜しているようです。その結果、「国際関係論が重要な現実世界の問題を理解して解決することと関連性を失う危険がある」と彼らは警告しています。

国際政治学の教育から考えた場合、リアリズムやリベラリズムを排除することも、はたして妥当なことなのでしょうか?世界政治の全体的な見取り図を描いたり、国際政治を大局的に見ることは、依然として大切なことであり、それに適しているのは、「主義(イズム)」と呼ばれるパラダイムでしょう。「大理論」の助けなしには、世界で起こっていることを意味づけて理解するのは、不可能とは言わないまでも、極めて困難です。さらに、「主義(イズム)」の障壁を取り払って、トピックや問題ごとに研究を進めることが、国際政治学を前進させることになるのでしょうか?むしろ、無数にあるトピック毎に、ありとあらゆる仮説が乱立して、それが国際政治の学問体系に混乱と混沌を招くことにならないでしょうか。

さらに、レイク氏が主張するように、世界が直面しているトピックや問題から研究を進めるべきであるならば、国際政治学/国際関係論という学問体系そのものが独立して存在する意義が薄れるでしょう。たとえば、地球環境問題というトピックに特化した研究を進めるべきなのであれば、社会科学の1部に過ぎない国際政治学など解体して、それに関連するあらゆる学際的知識を集結した「地球環境学」を創設した方が、よいということにならないでしょうか(もちろん、そうした動きがあることは、私も承知しています)。

レイク氏の問題提起は重く、その解決方法もそれなりに納得できるのですが、同時に、国際政治学の大混乱による「後退」という、「意図せざる結果」を招く危険性を孕んでいると思います。







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