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研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

大学教育には、意味があるのだろうか。

2020年05月02日 | 教育活動
刺激的なタイトルの本を読みました。ブライアン・カプラン(月谷真紀訳)『大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』みすず書房、2019年です。



カプラン氏が本書で主張したいことは、明確です。すなわち、大学はその学習内容というより卒業証書(学位記)が、社会にシグナリング効果を持っているのであり、大卒の個々人がどれだけ「仕事で役立つ知的能力」を大学で身に付かたどうかとは、ほぼ関係ないということです(医学部などの専門課程は別)。シグナリング効果とは、「労働者としての質の高さ」を表わすものなのです。極論すれば、社会でほとんど使わないこと(=「生産性を上げるわけでも人生を豊かにするわけでもない教科の勉強に何千時間も費や」(2ページ)して、大学や学校で辛抱強く成し遂げ、教授や同級生と学んで、所要の単位を収めて卒業することは、その人が社会で通用する可能性が高いことを示すシグナルになるのです。「知力(≠社会で役立つ知識)」、「真面目さ」、「協調性」こそが、このシグナルの正体です。そして、それと引き換えに、社会は大卒者に相応の報酬を与える。

こうした主張や議論には、とうぜん、反論があるでしょう。最も強力なものの一つは、「大学では何を学ぶかではなく、思考法や考え方が身に付く」というものです。もちろん、如歳のない著者のカプラン氏は、そのような反論が寄せられることは、織り込み済みです。彼は、主に2点から、こうした反論を退けています。1点目は、「割に合わない」ということです。確かに、大学で学んだ思考方法は、いつか、どこかで使われるかもしれません。しかし、「いつ役に立つか否かを誰も知り得ない」ということで、思考や考えをため込んでおくのは、ナンセンスだということです。(学費も含め)保管費用が高すぎるのです。

二つ目は、「忘却」です。カプラン氏は、こうバッサリと切り捨てています。

「卒業後のフェードアウトは(教育研究者から)無視されがちだ…読解、数学、歴史、公民、科学、外国語に関する成人の学力調査結果はすでにある。結果は惨憺たるものだ。大半のアメリカ人の成人が保有している学校で学んだ知識は、基本的な読み書きと計算しかないに等しい」(56-57ページ)。

そして肝心な「思考力」についても、カプラン氏は、こう再反論しています。「学習は思考力を身につけると信じている人は、教師の自負を裏づけるたしかなエビデンスを持っているのかだろうか。エビデンスは、ほぼゼロだ」(70ページ)。たとえば、先に学んだことを後に活かす「学習転移」について、彼は、これまでなされた多くの研究成果を引きながら、転移の効果がほとんどないことを示唆しています。

ここまでエビデンスに基づいて大学教育の「神話」を徹頭徹尾否定されると、「象牙の塔」に所属して、学問を生業とする筆者は、自分のアイデンティティを否応なく問い直させられます。結局、カプラン氏の言う通り、「大学…授業では、おおむね、シラバスに記載されているトピックについて考える内容を教えるのだ。世の中について教える方法でなく」。この皮肉に満ちた言葉に対して、今の私には正面から反論する言葉を持ち合わせていません。

かつて、大学における教養教育の大切さをうたった図書に、「古典教養教育とは、漢方薬のようなもので、じわじわ効いてくるものだ」といった一節が(私の記憶が正しければ)あり、その時は妙に納得したことを覚えています。しかし、社会科学を志す端くれからすれば、これは自分の職業の「うしろめたさ」に対する気休めにすぎない。やはりエビデンスやデータで大学教育の仮説、すなわち、大学で学ぶ思考法や考えは役に立つ大切なものであることを裏づけないと、カプラン氏のいう通り、大学教育の最大の価値は、シグナル効果になってしまいそうです。結局、私にできること、私がすべきことは、自分の担当教科を通して、学生に「教科に辛抱強く取り組む訓練」や「真面目に学問に取り組む重要性」を伝えることなのかもしれません。


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