野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

中国は恐れるに足りず⁉

2018年09月27日 | 研究活動
中国の急激な台頭は、米中の覇権交代をもたらし、その過程で大きな混乱やトラブルを引き起こすのではないかと懸念されています。中国はGDPで既に日本を追い抜き、アメリカに追いつくのも時間の問題と予測されています。国力にとって重要な高等教育や研究をつかさどる大学ランキングにおいても、中国の勢いはとまりません。最新のTimes Higher Education発表の世界大学ランキングにおいて、中国の精華大学はアジアトップに躍り出ました(世界22位)。さらに北京大学(31位)、香港大学(36位)、香港科技大学(46位)といったように、中国の大学はもはや世界トップの常連です。アメリカの大学も依然として強いですが、日本は…。東京大学が42位にポツンといる寂しい状況です。

多くの人たちが中国の総合的な国力の急上昇を懸念する中、「中国はたいしたことない」と大胆に主張する研究が発表されました。著者は、新進気鋭の政治学者、マイケル・ベックレイ氏(タフツ大学)です。彼は、『フォーリン・アフェアーズ』誌に発表した論文「中国に強迫観念を持つのはやめよう―中国がアメリカの覇権を脅かすことのない理由―」において、「アメリカは経済と軍事において中国を大きくリードしている。中国には、アメリカの世界的優位に挑戦できる余地などない」と結論づけています。どういうことでしょうか。

ベックレイ氏は、国力をGDPや軍事支出で測ることが、そもそも間違っていると言います。なぜなら、人口が多い国家は、それらの数値が大きくなり、その結果、パワーを過大評価するミスにつながりやすいからです。パワーというものは、国家が持つ資源のストックだけでなく、それをどう効率よく使えるかにもかかわります。つまり、経済・軍事資源の保有量だけで国力をみるのは誤りだということです。彼は経済力の計算には、「資源の純ストック」(生産資本・人的資本・自然資本)といった指標を使用すべきだと主張しています。こうした指標を使って米中の経済力を測ると、アメリカは中国の数倍の規模になり、そのリードは縮まるどころか、年々拡大しているそうです。軍事力も米国の対中優位は変わりません。火力、精度、射程距離において、中国の武器はアメリカの半分程度の能力しかありません。また、兵士の練度や軍事力の展開能力においても、アメリカは中国を圧倒しています。これれらの証拠は、中国が次の来るべき覇権国ではないことを示唆しているのです。

他方、日本の安全保障にとって気になるのは、海洋における日米中のパワーバランスです。このことについて、ベックレイ氏は別稿「東アジアにおける軍事バランス―どのように中国の周辺国は中国の海洋拡張行動を阻止できるのか― 」(『国際安全保障』42:2、2017年秋)において、「中国は戦力投射能力に余裕がなく、周辺国の拒否力を凌駕できないため、台湾を征服することはできないのみならず、東シナ海および南シナ海で自らの主張を各国に強要でいる見込みもほとんどない」と結論づけています。東シナ海における日中の軍事バランスについて、彼は日本に分があると見ています。第1に、西南諸島に展開する日本の移動式地対空ミサイルや対艦ミサイルは、中国の攻勢を拒否できるだけの能力を備えています。第2に、東シナ海域では、日米が張り巡らせた優れた監視システムにより、中国艦船の動向はつぶさに捉えられています。第3に、日本は高い対潜戦能力とりわけ機雷封鎖戦に強く、中国は掃海能力に欠けることです。最後に、日本は第5世代の航空機(F-35)を導入し始めていることもあり、今後も航空優勢を維持できるだろうということです。したがって、中国は総トン数において日本に優りますが、東シナ海において、日本は中国の航空優勢や制海権の確立を阻止できるだろうと、彼は分析しています。

ベックレイ氏によれば、アメリカ(そして日本も?)にとっての脅威は、中国そのものではなく、ありもしない中国の影におびえて中国に対抗する結果、敵意のスパイラルが上昇することです。このような政策提言には賛否両論あるでしょうが、中国の台頭の実態や外交政策上の含意を再検討することには、大きな意義があることでしょう。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦略研究は、大学のカリキュラムに取り入れるべきか

2018年09月11日 | 教育活動
これから紹介する文章は、ある大学のある授業のシラバス(授業概要)の内容を記したものです。さて、どの大学で教えられている、何という講座でしょうか。

「このコースは、学問としての戦略研究の主要な特徴を総合的に扱うものである。その狙いは、学生が主な戦略的問題の強力な分析枠組みを身につけるとともに、それら数多くの問題を詳しく調べること手助けをすることである。具体的な内容は、戦略の性質や戦略と安全保障の関係、戦争の原因、大戦略、航空・陸上・海上戦略、武力行使に関する法的・倫理的問題、国際システムにおける暴力の役割、大量破壊兵器、テロ、国際的な平和維持・安定化の活動(作戦)、変容する軍事技術の影響になる」。

これが開講されているのは、どこかの士官学校や軍人のための大学ではありません。オーストリア国立大学における「戦略研究(Strategic Studies)」が、その答えです。

ちなみに、欧米の大学では、こうした戦略研究や戦争研究のコースが数多く設けられているます。イギリスのロンドン大学キングスカレッジには、「戦争研究学部」が設置されています。アメリカのエール大学で開講されている「大戦略(Grand strategy)研究」コースも有名です。言うまでもないことですが、これらの大学は、全て世界でトップクラスです(オーストラリア国立大学48位、キングスカレッジ36位、エール大学12位 Times Higher Educationによる2018年度のランキング

もちろん、戦略研究を大学で教えることには、批判も寄せられています。以下は、世界で広く読まれている戦略論のテキストからの引用です。



「戦略研究に寄せられた大きな批判には、『大学という場所の存在理由である、リベラルで人道的な(humane)学問の価値に対して根源的な挑戦』を挑んでいるというものである。つまり、戦略研究は学術的テーマではなく、大学で教えられるべきものではない」(15-16ページ、訳文の一部は引用者が改訂)

こうした批判には一理あります。大学は、人間性(humanity)を涵養するところです。この人間性とは、とらえどころがない概念ですが、とりあえず、ここでは知的理性や道徳的命令(人の道)に従う姿勢といったことを含意しているものとします。他方、ここでいう「戦略」は、人道にそぐわない内容を含んでいると言わざるを得ません。上記の『戦略論』には、この道の大家であるコリン・グレイ氏の戦略の次の定義が引用されています。「政治目的のために、組織化された力の行使あるいはその行使の威嚇をする際の理論と実践」。この定義を読んだ方からは、こう叱られそうです。「学問を政治に従属させるのか!」、「物理的暴力である軍事力の利用方法を研究するなど、人の道にもとる!(=道徳的・倫理的にけしからん)」と。

では、大学で戦略研究を無視しても構わないのでしょうか。そんなことはないという論者もいます。西原正氏は、今から30年前に出版された『戦略研究の視角』人間の科学社、1988年において、戦略研究の意義をこう主張しています。

「(戦略研究は)大学教育に馴染まない科目であるという意見は多い。…しかし…大学教育が…どんな政策を採ることが必要かという問題意識の高揚にも貢献することが、将来の指導者を培うことになる。大学はすでに経済政策、科学技術政策、環境政策、医学など多くの分野で政府の政策立案に貢献してきている。安全保障や戦略の分野でも、そうした政策指向の教授陣がいなければならない」(ivページ)

私は、この意見にも一理あると思います。国家戦略や安全保障政策が、国民生活の根幹を支えるものである以上、その立案や変更を研究することも大切だからです。残念ながら、「あなたは戦争に関心がないかもしれないが、戦争はあなたに関心を持っている」(トロツキー)のが、おそらく現実でしょう。だから、われわれはいやおうなく、戦争や軍事を考えざるを得ないのです。ここで注意していただきたいのは、戦略研究者は「御用学者」ではないことです(そういう人もいるでしょうが)。たとえば、米国では、多くの戦略研究者が、ブッシュ大統領のイラク侵攻やトランプ大統領の政策を公に批判しています。戦略研究は、大学教育の1つの根幹である「批判的思考」の育成と両立するのです。
  
さらに、欧米で戦略研究が「学問」として、大学で教えられている一方、日本の大半の大学おいて事実上、否定されている状態が続けば、この分野の欧米と日本の学問的ギャップが、広がるばかりです。これは、はたして学術的に健全なのでしょうか。上記のテキスト『戦略論』によれば、「戦略は依然として学術研究のなかで単独の価値を有する領域であり続けてい」(21ページ)ます。学問分野の構成を示せば、政治学⊃国際関係論(国際政治学)⊃安全保障研究⊃戦略研究となります。その国際政治学の1つの分野を構成する「戦略研究」が、一部の例外を除き、日本の学界、そして「大学のカリキュラムにおいてはタブー視され、意図的に排除されてきた」(西原、前掲書、ivページ)のであれば、今からでも遅くありません、「輸入学問」たる日本の国際政治学に「戦略研究」を取り入れるべきでしょう。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我田引水のネタにされる!?、トーマス・シェリング

2018年09月07日 | 研究活動
知の巨人であるトーマス・シェリング氏は、2年ほど前に他界しましたが、彼の考えは生き続けています。さまざまな論者が、彼のアイディアを援用して、自己主張に利用してます。これについて、対照的な2つの論考を見つけましたので、皆さまに紹介したいと思います。

1つは、日本人のジャーナリストが書いたコラム「核のタブーを死守せよ 核心評論『トランプ』と核」です。もう1つは、イギリスのエコノミストが執筆した「核戦争の黙示録の阻止を手助けした、核戦略理論の大家への追悼」です。これら2つの記事は、トランプ大統領の「アメリカの核戦力の増強」発言に対して、T.シェリング氏に言及しながら、まったく異なる解釈をしているのです。

前者は、こういいます、。核のタブーを重視していたシェリング氏は、核戦力増強を訴えるトランプ氏の登場により、それが危うくなりつつあると考えたにちがいない。だから、日本は核抑止肯定論に与せず、核兵器禁止条約交渉に参加すべきだというものです。後者は、トランプ氏の「核戦力拡大」ツイートは、ロシアから協力を引き出すのが目的である。そして、トランプ氏は自分自身のシグナルに信憑性を持たせるために、核の脅しを使ったのだと言っています。これについては、そう分析することもできますが、トランプ発言の解釈の是非を判断する材料に乏しいため、現時点では何とも言えません。他方、「トランプと核」については、論理的に整合しないのみならず、生前のシェリング氏の発言と矛盾するようなところもあるので、詳しく見ていきたいと思います。

「トランプと核」を執筆したジャーナリストは、こう述べています。

「トランプ氏は…『(核を使わないとは)絶対に言わない』…ツイッターに『米国は核戦力を大幅に強化し、拡大しなければならない』と投稿した。…人類の生存に切実な意味合いを持つ核に対して慎慮ある言動とは思えない。…『核のタブー』が破られる恐れ(が)…現実性と重大性を帯びてくる。(にもかかわらず)日本は…米政府の核抑止肯定論に従った…(それはやめて)日本は核兵器禁止条約交渉に参加すべきだ」。

この彼の主張は、2つの点で問題があります。1つは、核兵器禁止条約が核のタブーを強化するかどうか、ということです。確かに、核兵器禁止条約の存在は、核のタブーを「死守」するのに役立つかもしれません。核兵器は使ってはいけない特別な兵器であるとのフォーカルポイントを強化することが、もしかしたら見込めるかもしれないからです。包括的核実験禁止条約(CTBT)にも、同じような効果を見込めるでしょう。事実、シェリング氏自身もそれを認めています。以下は、彼のノーベル賞受賞スピーチの一部です。

「核実験を名目的に禁じただけのCTBTに200カ国近くが批准しているということには象徴的な意味がある。CTBTは核兵器は使用されるべきではないし核兵器を使用するいかなる国も広島が残した遺産の冒涜とみなされるという慣習に、大きな意味を負荷しているはずなのだ」(『軍備と影響力』勁草書房、2018年、293ページ)

この部分のシェリング氏の主張は、上記のジャーナリストの記事と整合するように読めます。ただし、シェリング氏は、こうも言っています。「CTBTについて、核兵器に対する世界的な嫌悪感を促進する潜在力があるという以上に説得力のある議論があるとは私には思えない」。つまり、彼はCTBTを核廃絶への第1歩ととらえているのではなく、核抑止の安定に不可欠な「核のタブー」すなわち「核兵器を実際に使用することへの嫌悪感や禁忌」を強化するものとして、肯定しているのです。

もう1つの問題は、「トランプと核」が、核兵器が禁止された世界と安定した相互抑止のトレードオフを見過ごしていることです。シェリング氏が、「核兵器禁止条約」に賛同するだろうかと問われれば、「核廃絶」を目指す取り組みとして判断したならば、「ノー」でしょう。なぜなら、彼は、核なき世界はかえって危険であると、晩年まで繰り返し主張していたからです。シェリング氏は、明らかに「核抑止肯定論者」なのです。

シェリング氏が晩年に執筆した論文「核なき世界?」では、核兵器が禁止された世界は、かえって核戦争の危険を高めるパラドックスを説いています。

「『核兵器なき世界』は、米国、ロシア、イスラエル、中国、そして他の6から12カ国が、核戦力の再配備とその運搬システムを戦時体制下におくための迅速な動員計画を持つ世界になるだろう。そして、それらの国々は、全て高度な厳戒態勢をとり、他国の核施設を先制攻撃するターゲットの選定を軍事演習を実施することにより、その準備を済ませ、緊急時(有事)におけるコミュニケーション手段を確保することだろう。(このような世界では)あらゆる危機が核危機になり、いかなる戦争も核戦争になりかねないのだ。…それは神経をすり減らす世界になるだろう」(Daedalus Fall 2009, p.127)

要するに、「核なき世界」は、「人類の生存に切実な意味合いを持つ核」兵器による戦争の恐怖に、今より怯える世界になりかねないのです。このような極度に不安定な世界を目指すことが想定される条約にシェリング氏が同意するとは、私には「到底思えない」。むしろ、日本が核兵器禁止条約に参加しない旨を説明した、岸田外務大臣の発言「こうした核兵器国が参加していない議論を,非核兵器国だけで進めることは,核兵器国と非核兵器国の亀裂,ますます決定的なものにしてしまうのではないか」に、共感するでしょう。

日本が核兵器禁止条約に参加すれば、東アジアは不安定化する恐れがあります。なぜなら、「安全保障のジレンマ」が深刻になるからです。日本が、一方で核兵器禁止条約に参加して、他方で米国の核の傘に頼るのは矛盾します。そして、そもそもこの条約に反対の米国は、日本への核抑止提供のコミットメントを弱めるか止めるでしょう。日米同盟が空洞化するのです。すると、どうなるでしょうか。かつて永井陽之助氏は、日本の非武装中立の危険をこう喝破しました。「日本が米ソ中三国の谷間にあって、その緊張が存続する状況のなかで、中立化することが、現在より安全性を増大せしめるとはとうてい考えられない…米国は…ソ連、中国による武力干渉および脅迫を受けない程度の強い防衛力を要求する」(『平和の代償』中央公論社、1967年、121ページ)。この一文にある中立を「拡大抑止の不在」、ソ連をロシアに読み替えてください。

シェリング氏は、「仮に軍縮が機能するとしたら…抑止が安定しなければならず、戦争を仕掛けることに利益があってはならない」(『軍備と影響力』250ページ)と主張しています。彼のロジックに従えば、破れかかった核の傘にいる日本は、自国に戦争を仕掛けられる利益があってはならないようにするべく、拒否的な軍事力を強化せざるを得なくなります。この日本の軍備増強は、中露を刺激して、対抗措置を招くでしょう。その結果、危機のスパイラルが上昇して、東アジアはより危険になることが予測されるのです。そもそも国際関係の安定が目的で軍縮(軍備管理)は手段です。ところが、このシナリオは、軍縮によって国際的な安定が損なわれることを示唆しています。それでは本末転倒と言わざるを得ません。

さらに…。「(核の)ゼロ・オプションが合意されたら、各国とも掟破りの誘因に駆られ…いくつかの国は自国存立が脅かされていると考えるようになるかもしれない。そうなれば再核武装に向けての狂ったような先陣争いが始まるだろう」(ケネス・ウォルツ「否定」、S.セーガン、K.ウォルツ『核兵器の拡散』勁草書房、2017年、212ページ)。現在、核兵器は国家だけの問題ではなく、テロリズムに使われかねません。ですから、核テロを避ける方策を模索しなければならないのは、もちろんのことです。同時に、ウォルツ氏が描く恐ろしい不安定な世界をつくりかねない行為は避けること。これも、国際社会の一員である日本に課せられた道徳的な義務ではないでしょうか。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の国際政治学は「輸入」学問といえるのか?

2018年09月06日 | 研究活動
日本の国際政治学は、とくに理論研究において、英米の国際関係論からの輸入により発展してきたとよく言われます。確かに、それは否定できないでしょう。日本国際政治学会の機関紙『国際政治』に掲載されている、理論系の論文には、英米、とりわけアメリカの理論研究の成果が、頻繁に引用されているからです。また、著名な海外の理論研究者に焦点を当てた研究も数多く発表されています。

その一方で、私が常々不思議に思うのは、輸入に大きな偏りがあることです。誰も思いつかなかったような直観に反する学説(≠俗説)を打ち出した研究や広く認められている先行研究や通説を覆す研究は、それがどのようなものであっても、学問の価値中立性を重んじるのであれば重要なはずです。なぜなら、社会科学としての国際政治学は、ロジックとエビデンスに基づいて、新しい知見を得るために研究されるべきだからです。そして、それが斬新で画期的かつ説得的であれば、たとえ政治的に不愉快な発見であっても、高く評価されなくてはなりません。ましてや理論研究は、そうでしょう。研究が正しいかどうかと政治的に正しいかどうかは、本来は、別物であるはずです。にもかかわらず、驚くことに、アメリカを中心とする海外の国際政治学界で広く認められた研究成果であっても、日本にほとんど受容されなかったものがいくつもあるのです。これで、「輸入学問」といってよいのでしょうか。

日本の国際政治学界で看過されてきた代表的な世界的研究成果の1つが、トーマス・シェリング(河野勝監訳)『紛争の戦略(The Strategy of Conflict)』勁草書房、2008年〔原著1960年〕でしょう。もう1つが、ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』勁草書房、2010年〔原著1979年〕です。ウォルツ氏の著書と研究については、以前に、このブログでも取り上げましたので、今回は、このシェリング氏の研究成果について、考えてみたいと思います。



Googleでシェリング氏の『紛争の戦略』(原書)の被引用回数を簡易検索で調べてみると、16732回でした。これはウォルツ氏の『国際政治の理論』(原書)の18695回、そしてリアリズムの巨人であるハンス・モーゲンソー氏による『国際政治』(原彬久監訳)岩波書店、2013年(原著1948年)の18696回に、ほぼ匹敵します(すべて2018年9月7日時点)。にもかかわらず、シェリング氏のこの研究は、日本にあまり「輸入」されなかったのです。モーゲンソー氏は、多くの日本人研究者の注目を集め、そして日本に受け入れられてきました。他方、シェリング氏は、そうではありませんでした。この違いに関心がある読者の方は、Googleで「ハンス・モーゲンソー」と入力して調べてみてください。日本人研究者による、いくつもの著書や論文がヒットします。ところが、「トーマス・シェリング」でググると、そうではないのです(シェリング氏がノーベル賞受賞者なのを考慮すると、このことは奇異にさえ感じます)。なぜ、こうも違うのか。これはパズルにほかなりません。なぜ、これほど重要な研究成果が、日本にほとんど「輸入」されなかったのでしょうか。

このパズルに対する私の仮説は、「シェリング著『紛争の戦略』は、日本において政治的に正しくないとみなされた」というものです。『紛争の戦略』は初めに出版されたのは、1960年でした。この当時の日本は安保闘争で政治的な混乱にありました。その後は、ベトナム反戦運動が、いわゆる「進歩的知識人」や学生を中心に、激しく展開されます。大学学園紛争もありました。そのような政治的状況こそが、日本の国際政治学界やアカデミズムにおいて、以下の主張を展開するシェリング氏の研究を事実上拒否することにつながったのでしょう。

「抑止などの戦略に関して頼れる既存の理論体系は存在していなかった…なぜこのように理論的な発展が遅れてしまったのか。思うに、それは学界で軍部のカウンターパートとなる存在が現れてこなかったからである。…果たして、プロの職業軍人に対応するアカデミックカウンターパートはいるのだろうか。…問題は、軍事問題や外交のなかでの軍事力の役割を探求する学部や研究が大学においてもなかった点にこそある」(同書、7-8ページ)。

大学で軍事戦略、すなわち暴力の使い方を研究すべきと主張するシェリング氏は、当時の日本では(そして、おそらく今も)「政治的に間違っていた」のでしょう。何しろ、日本学術会議が「軍事目的のための科学的研究をおこわない声明」をだしていたくらいです。だからこそ、日本の国際政治学界でも、ごく一部の学者を除き、シェリング氏の研究を避けたのではないでしょうか。他方、モーゲンソー氏が「リアリスト」であるにもかかわらず、日本で受け入れられたのは、彼の研究が国際政治学の金字塔であったことはもちろんですが、「外交における慎慮」を重視していたことに加え、「ベトナム反戦」の姿勢や言動や「核兵器に対する否定的見解」が、当時の日本の政治学界を覆っていた「価値としての平和」と親和性を持っていたからではないかと思います。

『軍備と影響力』同様、『紛争の戦略』も、原著刊行から約半世紀たって、ようやく日本語に翻訳されました。訳書が出版されることを「輸入」のゴールとするならば、生産地から日本にとどくまで、随分と時間がかかったものです。このことは、私にダーウィンの進化論の軌跡を思い出させます。ダーウィンの「自然選択」の理論は、キリスト教が信仰されているイギリスにおいて、「宗教的に正しくなかった」ために、発表までに時間がかかったのみならず、学説の確立まで長い時間を要しました。私には、この点において、シェリング氏がダーウィンに重なって見えます。進化論なくして、後の生物学の発展は考えられないでしょう。シェリング氏の「戦略的相互作用の(ゲーム)理論」なくして、現在のアメリカの国際政治学(国際関係論)の進展はなかったでしょう(ジェームズ・フィアロン氏の研究など)。シェリング氏をキチンと「輸入」しなかった日本の国際政治学は、大きなツケを払ったと思います。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出前授業、「文系」、そして数学

2018年09月04日 | 教育活動
ここ数年は、高校に出向いて行う「出前授業」が多いです。なぜかはよくわかりませんが。内容は、「国際関係」や「文系の学び」についてがほとんどです。

これまで、このような高校に行ってきました(群馬県内のみ)。
高崎女子高等学校 ・渋川女子高等学校 ・桐生女子高等学校 ・東京農業大学第二高等学校 ・常盤高等学校 ・高崎健康福祉大学附属高等学校…(今後も、その他の県内外の高校に行きます)

国際関係について、何回やっても難しいと思うことは、高校生にとってとても遠い想像しにくい世界なので、イメージしてもらいにくいことです。また、文系や社会科学全般に関する説明を行うこともあります。ここで、「文系≠数学ナシ」ではないことをお話しすると、たいてい高校生に驚かされます(数学とは無縁の分野もあるでしょうが)。社会科学で当たり前に使われる「因果関係」は、まさに関数ですよね。おなじみのy=f(x)です。yは結果(従属変数)、xは原因(独立変数)になります。すなわち、yの値は、xの値によって変化するということです。

さらにさらに…。大学は人生の通過点…。大半の人は、大学を卒業した後、仕事に就きます。そして、いわゆる文系大卒が行う仕事でも数学は重宝されるようです。あるビジネスパーソンは、全ての仕事はy=f(x)で表現できるとさえ言っています。

いわゆる社会科学の分野に進もうと考えている高校生の皆さんは、たとえ計算が苦手でも、数学のロジックは大切ですので、嫌いにならないでくださいね。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする