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ジョージ・オーウェル『1984』の今日的意義

2011年08月27日 | 日記
ジョージ・オーウェルの名著『1984』高橋和久訳(早川書房、2009年)は、「ビッグ・ブラザー」なる独裁者率いる「党」が個々の人間の内面まで支配する全体主義世界を描いた小説です。同書は「新訳版」が数年前に出版され、それ以来気になっていたのですが、ようやく新訳で『1984』を読み返すことができました。

『1984』は、大学生の時、永井陽之助先生が授業で言及されたのをきっかけに興味を持ち、旧訳で読みました。同書の映画も見ました。偶然ですが、私が大学に入学した年は、同書のタイトルの1984年です。当時は「バブル」にわく世の中だったこともあり、本書が批判の対象としたソ連も脱社会主義と崩壊の過程にあり、したがってオーウェルの主張にあまりリアリティを感じることがありませんでした。したがって、彼の主張や価値もよく理解できませんでした。

『1984』は論争的な小説であり、今でも、その理解が不十分なのは言うまでもありませんが、今回、改めて読み直したところ、本書の重みに圧倒されました。人間の内面の深い描写、社会構造の闇を深層をえぐりだす洞察、どれをとっても圧巻というほかありません。



本書については、たくさんの書評や論評があります。それらを概観することさえ私の能力を越えていますが、その中には、イデオロギーとしての社会主義・共産主義が崩壊した「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)を迎えた現在、本書は一定の役割を終えたとの評価もあるようです。確かに、現在と本書が書かれた1949年は違います。しかしながら、人間本性や文明がたった数十年で見違えるように「進歩」するものでしょうか?

『1984』は、究極の全体主義国家の恐ろしさを描いたフィクションです。しかし、本書が単に時代遅れの全体主義への警告だとか、架空の物語と簡単に片付けられないのは、そこに人間の変わらぬ真実の1面が不気味にえぐりだされているからではないでしょうか?本書を貫くキーワードの1つが「二重思考」です。「戦争」と「平和」は、その端的な例です。自由民主主義のための「戦争」や千年王国を樹立させるための「暴力革命」は、まさに「二重思考」の産物でしょう。そして、これらを過去の遺物と片付けるわけにはいきません。なぜならば、それは古今東西、普遍的に存在するからです。こうした欺瞞や矛盾から人間は逃げられない、オーウェルはそう警鐘を鳴らしているように思います(マックス・ウェーバーもそうでしょう)。

『1984』において、私が印象に残ったのは以下の1節です。

「人類は自由と幸福という二つの選択肢を持っているが、その大多数にとっては幸福の方が望ましい」(406ページ)。

全体主義国家の支配者はもちろん、「独裁者」はこうした人間の「性向」に付け込んできます。確かに、楽しく豊かに生活できることを望まない人はいないでしょう。しかしながら、こうした「幸福」の陰には、全体主義の萌芽が潜んでいるのです。ヒトラーは公共事業拡大による失業者の救済をファシズム構築に利用しました。「開発独裁」や現在の「北京コンセンサス」なるものなど、決してオーウェルの上記の指摘と無関係ではありません。

オーウェルのメッセージは普遍的であり、今も、われわれに重い課題を突き付けているように思います。

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