臓器移植問題  短絡的な日本 2

臓器移植問題  短絡的な日本 2      2009.6.27.  金森正臣

 日本社会の価値判断には、全体を見ない短絡的な問題が多い。最近国会で議論されている問題に、臓器移植問題がある。断片的ではあるが、議論を聞いていると、人生の本質から外れている。そもそも、医者を中心に延命装置の開発や臓器移植の議論が行われ始めたように記憶しているが、議論している本人は、人生をどのように考えているのであろうか。以前に医学部に勤めていたから、ある程度の流れは理解できる。

 医学は、病気を治すのを事実上の仕事としている。その中で、延命措置や臓器移植の問題が出てくることは当然であろう。患者や家族の要望から、当然生かすことへの努力がなされる。その時、その人の人生にとって、どの様な意義があるのかを考えることが必要であろう。30年も前であったが、世話をして下さっていた教授が、医学部で医学概論を教えられる先生が居なくなってしまったと嘆いていた。医学概論とは、全てのことを学んだ最終段階で、熟達した教授陣が、医学の全体像、歴史や哲学などについてする授業である。この様な哲学が医学部から無くなって、医者は単に病気の部分だけを見ていて、患者としての人間を見られなくなってしまった。あまりにも専門分野が分かれた上に、各分野は深い知識が多くなり、全体を見通せなくなったと言える。私の研究分野の生物学でも、70年ぐらい前に、同じような問題が起こった。その結果、生理学などで分析して行くと、カエルも人間も同じではないかという結論に入り込み、その反省から総合的にものを見る生態学の分野が分かれた。私は、この生態学を専攻したために、1分野だけの理論に納得が行かないのかもしれない。

 そもそも医者は、歴史的にはシャーマンや僧侶から発展したものであろう。患者の人生の終わりに、引導を渡して安心して旅立てるように取り計らうところに大きな意味がある。患者よりも数段に優れた人生観が無いと、納得させることは難しい。現在は教育レベルが高くなり、皆さんそれぞれ立派なご意見が有って、なかなか難しい時代になった、教育の世界でも、先生より父母の学歴が高かったりすると、なかなか難しい問題が起こる。また明治以来西洋の法則科学を導入し普及したため、二つの点で問題が起こっている。一つは法則性に絶対的な信頼を置くようになったことである。世界の全体は、法則性で理解できるほど単純では無い。他の一つは、肉眼で見えることは信頼するが、肉眼で見えないことに対する認識が低くなったことである。皆さんの心は、肉眼では見えないが、存在しないと考える人は少ないであろう。しかし多くの人と話していると、この単純なことを見逃し、忘れ始めている。

 人生はこの見えない心が持つ、幸福感のために働いているようなものである。少し視点を変えると、人生はまるで異なった感じになる。西洋科学の影響は、自我にも影響している。自我を最も重要だとする放牧民の社会で発達した価値観は、隣人を大切にして、他者との協調性を重視する、農耕民の価値観とはかなり異なる。臓器移植の問題も、この様な価値観の異なる社会によるところが大きい。現在日本に多い医療は、西洋科学で発達した医療である。中国で発達した医療は、法則科学で発達した医療とは異なる。体の全体性を重視した医療で、法則性があいまいであるから、理解しにくいところがある。
 自分の人生のためには、自分自身で責任を持たなければならない。多くの人の意見やマスコミなどの意見は、自分の人生に責任を持ってくれるものでは無い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )