花の「主役」は桜から交代する

4月22日のこのブログで、「今の『主役』は桜だが、これはまもなく交代する」と記した。
今、私が読んでいる渡辺淳一のある小説で、次のような記述があった。さすが文豪だけあって、私の記したその趣旨を次のように「文学的に」表現している。これを紹介しよう。

 いつの年も、桜の花は生き急ぐ人のように儚(はかな)く哀惜をそそぐが、花が散り終わったあとは、散る花を見ていたときほどの淋しさはない。それは桜を入れ替わるように季節が初夏に向かい、日の永さとともに、無数の花々をたずさえてくるからである。
 たとえば、藤、チューリップ、雛罌粟(注。ひなげし。虞美人草ともいわれる)、牡丹、石楠花(しゃくなげ)と、咲き誇る花をあげればきりがなく、樹々が瑞々(みずみず)しい新緑に彩られる。この大地のすべてが光り輝き、躍動する姿を見たら、華やかだが、もの思わせぶりの桜のことなど、遠い昔のことのように忘れ去るのも無理はない。

 桜でいえば、札幌では、これからもう少しの期間「八重桜」を愛でることができるだろう、と言われている。
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