遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『謙信の軍配者』 富樫倫太郎 中央公論新社

2012-05-20 17:29:42 | レビュー
 本書は、軍配者3部作の第3作目である。足利学校で机を並べた3人-青渓・鷗宿・養玉-が、何時の日か、戦場で相見える日を期して別れた。第1作は最初に信玄に見出され北条氏康の軍配者になった青渓即ち、風摩小太郎の物語だった。その青渓に助けられた鷗宿(四郎左・山本勘助)が信玄の軍配者となって活躍するのが第2作だった。軍配者としての役割を認められず、信玄との戦いに加わり捕虜になった養玉(冬之助)が、信玄の軍配者としてその位置を確立してきていた鷗宿に助けられる。その養玉が足利学校で共に学んだ景岳(直江実綱)の伝手を頼って越後に行き、実質的な軍配者として登場してくるのがこの第3作である。養玉は謙信から宇佐見の姓を与えられ、宇佐見冬之助として、謙信の軍配者となる。

 謙信の戦は信玄を抜きには語れない。したがってこの第3作は、謙信と信玄の両陣営を併行させながら描き出していく構成になっている。そういう点で、前2作とは少し趣が異なる。逆に言えば、謙信・宇佐見冬之助と信玄・山本勘助が諸に戦う状況を著者は切出して見せたといえる。本書は4部構成になっている。
 第1部:越後の虎、第2部:三国同盟、第3部信玄、第4部:川中島、という構成だ。そして、これが川中島の各回の戦模様の叙述にも対応していく。

 第1部の冒頭は晴信(信玄)の武田軍と村上軍の桔梗原の戦いの描写、躑躅ヶ崎館の雪姫に関わる状況など、武田側の状況から始まり、北信濃の三角地帯「川中島」の戦略的重要性が押さえられる。そして、一転して越後・春日山城での景虎(謙信)と重臣との会議場面となる。この冒頭から、著者は景虎の強み・弱みを描き込んでいく。このあたりでまず景虎像の輪郭に引き込まれる。藩運営という政治の側面には優柔不断で、戦には滅法強く、戦における発想と決断に秀でた姿が徐々に描き込まれていく。これが著者の謙信観なのだろう。また、本書を通じて、越後の重臣、直江実綱、本庄実乃、大熊朝秀が登場するが、この三者三様の思考と行動も景虎側の脇役の動きとして面白い。特に景岳(直江実綱)が越後という国の実質的な運営において基軸となっているのは副次的な読みどころである。
 直江実綱は、北信濃での武田・村上の戦の停戦に関わる調停の使者として、越後に亡命中の上杉憲政の名ばかりの管領職親書を携えて、長窪城に出向く。実綱が武田晴信と会った後、勘助は四郎左(鷗宿)として景岳(実綱)と友の語らい次元で面談する。史実があるのかどうかは知らないが、こういう話の展開は楽しい。この対談で、四郎左は宇佐見冬之助が養玉であることを知る。ここで何れ軍配者として両者の対決が迫って来る期待感が読み手に醸成されるのだ。本書の先の展開が楽しみになる。
 そして、天文22年9月の第1回川中島の戦いが第1部で描かれる。読みどころは長尾景虎と武田晴信の戦法について、その発想の違いをクリアにするところだろう。景虎を軸に、冬之助、晴信、勘助の立場で戦のとらえ方が描かれていく側面がおもしろい。景虎と晴信の戦の発想の違いが今後どう展開していくかに期待を持たせる。

 第2部「三国同盟」は、当時の戦国・関東の状況をマクロ的、戦略的に捕らえていく。その結果、なぜ武田、今川、北条の間で三国同盟が結ばれ、それが当時の戦況にどう影響を与えたのか。互いに領土争いをする中で、強国の動きが他国に連鎖的相互的にどのように影響を及ぼすかがよくわかる。
 第2部の冒頭で著者は、第1回「川中島の戦い」は武田軍の完敗だった。晴信に幸運だったのは、越後の国内における事情と上洛を控えていた景虎が1月足らずで撤兵したことにあったと記す。そして、晴信の敗因は、若い景虎の力量、つまり、戦にかけては天才的な武将であることを見誤ったことだと記す。「四郎左は景虎の恐ろしさを肌身で感じた。自分とは異質の天才がこの世に存在することを本能的に感じ取ったのである。晴信も同じことを感じた」。
 この三国同盟締結の利を説くために、まず軍配者の四郎左(勘助)が青渓(小太郎)を小田原に訪ねて行くという設定になっている。ある意味軍配者3人の関わりが現実に生まれてきておもしろいところだ。天文23年(1554)5月、駿河・善徳寺において三国の攻守同盟が締結される。その同盟は、相互の婚姻関係をむすぶことで合意となる。これが当時の同盟のやりかただったようだ。血縁関係が複雑になるはずだ。
 武田側では、伊那郡の完全制覇をめざす動きをとる。そして、諏訪御寮人の病状が悪化、一方、太郎丸を亡くして落胆していた四郎左には妻の千草が身籠もるというエピソードも綴られていく。
 長尾側では、越後国内の北条高広の謀叛が起こる。そして、天文24年(1555)4月からの第2回川中島の戦いが始まる。武田軍と長尾軍の戦い方が興味深い。天才的な戦略眼と戦法で先頭に立って自軍を引っ張っていく景虎に対し、景虎に煮え湯を飲まされた晴信は、景虎の出方を考えながら四郎左とともに着実な戦法を立てようとする。この駆け引きと戦闘の展開が描写される。そこに軍配者の思いが重ねられていく。「わしの手にかかって死ぬことになっても恨むなよ。これが戦国の世の習いというものだからな」と四郎左は思う。
 この第2回戦は、武田軍の優位で展開するが、武田側が今川に斡旋を頼み和睦で終わる。なぜ晴信がこんな行動に出たのか。それがこの第2部のストーリーの一つの要でもある。一方、この和睦の後に、景虎の越後国内での土地争いの訴訟問題を語り、越後国内の事情と景虎の行動を著者は描く。景虎が高野山へ出奔するのだ。領主が国を捨てて出て行く。まさに奇想天外な行動をとる人物。よくこれで越後の国が維持されていたのだと思う。

 第3部「信玄」は、出家を思いとどまり帰国した景虎の下で、重臣大熊朝秀が謀叛を起こしたという驚天動地の一大事から始まっている。大熊の敗退で越後が本当の意味で統一されることになる。この第3部は甲斐の晴信の側から描いていく。まずは、大熊調略の失敗。大熊は甲府に逃れてくる。その年、弘治2年(1556)に晴信は軍事行動を行わない。諏訪御寮人・雪姫が亡くなった年であった。翌年2月、晴信が信濃に出陣する。晴信側から筆を進めながら、第3回の川中島の戦いを描きだしていく。ここで面白いのは、1)冬之助の軍配者としての戦略が表に出てくること、2)四郎左が冬之助の戦略を読み取ろうとするところ、3)鉄砲を前面にだした戦での攻防が展開される場面だと思う。この第3回戦は、晴信が景虎との決戦を徹底的に避けたことで、景虎と晴信が直接戦うことはなかったようだ。
 この戦を描いた後で、著者はこのように言う。「この第3回の川中島の戦いで、晴信は川中島の支配権を固めた。つまり、名を捨てて実利を得たといっていい。一方の景虎は、実利を得ることはできなかったが、名声を得た。目には見えない、この名声という財産が、この後、長尾景虎の運命を大きく変えていくことになる」。
 第3回戦後の両者の和睦にあたり、晴信は将軍義輝から信濃守護職に任命という権威付けを引き出す。これが、千曲川沿いに海津城を築く上での大義名分に利用できるようになるのだ。
 この第3回戦の後、二人を取り巻く政治情勢の変化が戦場で相見えることをしばらく遠ざける。この状況を著者は描く。永禄2年(1559)2月、晴信の出家(以降、法号の「信玄」で呼ばれる)し、同年4月に景虎は上洛のうえ正式に関東管領職となる。永禄3年、今川善元が桶狭間の戦いで信長に敗れる。つまり、三国同盟は事実上破綻し、一方景虎は関東管領職として行動しなければならないことになる。この状況変化が、第4部への伏線にもなっていくのだ。

 第4部「川中島」は、永禄4年(1561)、景虎の関東管領職としての関東での戦行動から書き出される。景虎と北条氏康の戦いという局面である。ここでも、景虎の独特の発想と行動が描かれていて興味深い。
 そして、遂に、第4回の川中島の戦に転じていく。景虎は永禄4年8月14日、川中島に現れ、妻女山に布陣する。普通、「川中島の戦い」と言うとこの第4回戦が想起されるようだ。第4部はこの第4回の戦いを克明に描いている。そこには景虎と晴信の発想と戦法の違いが全面的に露出してくる。そしてそれは二人の軍配者の対決を描くことにもなる。足利学校で机を並べ、戦場で相見えようと語りあった夢が最高潮に達して実現する機会でもある。第3回戦後に武田側が築いた堅城・海津城が、晴信にとって過去の戦いとは異なり、戦略発想に対するアキレス腱のようなものになっていく気がする。この点を含めて、第4部は読み応えのあるものになっている。
 この戦を最後に軍配者から隠居しようと内心考えていた四郎左が討ち死にしてしまう。嗚呼!無念。
 第4回戦は、双方が甚大な被害を受けながら、最終的には引き分けの状態で終結する。景虎の軍配者、宇佐見冬之助つまり養玉は生き残る。このあと、冬之助はどういう行動をとったか? それは、本書で確かめていただきたい。

 本書を通じて興味深く、面白いと思う点をまとめておこう。
1)養玉(冬之助)、鷗宿(四郎左、山本勘助)の軍配者の対決が描かれていること。 
 足利学校での夢、誓いが実現したことになる。両者の思考法と構想が形をなすのだ。
2)景虎という戦の天才の人間像が鮮やかに描かれていること。
3)景虎の晴信観と晴信の景虎観が異質、対極的である。それが様々に影響していくこと。4)養玉、鴎宿、青渓、景岳が敵国同士の関係にありながら、、足利学校という縁の下に、自由に話し合う場を機会をもつ。それがその後の展開の要になっていくこと。
5)「鉄砲」が戦をどのように変えて行くかという萌芽が的確に描かれていること。

 また、本書を読み進めながら心温まる局面は、四郎左と千草の二人の愛の在り方が戦の合間に書き込まれていくことである。そこに四郎左という軍配者の人間像が表出してくる。

 本書では直接触れられていない事柄で、気になる関心事項が二つ残った。
1)景虎が越後国内を一応統一した後は、晴信との断続的な長期戦の継続と関東管領職という立場で関東に進出して戦をした。信濃への進出にはあくまで「義の戦い」を標榜している。領土を確保する戦いではない。景虎の下の武将は景虎の下知で戦に参加するがすべてその費用は自己負担が原則だろう。そうすると、たとえ戦に勝った局面があっても、領土獲得がなければ、報償の分配に預かることもできないはずである。出費ばかりが継続することになる。なぜ、その状態を越後では継続できたのだろうかという点である。
 関東への進出のケースは、武将の出費を抑える理屈を著者は景虎の発想という形で書き込んでいる。だが、やはり出費はあったはずだ。
 景虎の下の武将にとって、「戦う」ことへのモチベーションは何だったのか。
2)景虎は本書では2回上洛し、1回は出家願望で高野山まで行っている。前者の上洛ということの為には、京都まで数多くの武将の領国を通過して行かねばならないはずである。戦国時代に、他国を通過して上洛するということが、容易にできたのだろうか。どういう風にそれが可能になったのだろうか。街道を往来するということができるためのコンセンサスとしてどういう条件があったのだろうか。

 最後にこの第3作で印象深い章句をいくつか引用しておきたい。
*三十を過ぎてからの晴信は、・・・実際に戦場に赴く前に、あらゆる手練手管を尽くして敵軍に調略を施し、その上で、常に敵軍を上回る兵力を戦場に展開することを心懸けた。勝敗の行方を天に任せる真似をせず、どう転んでも自分が勝てる環境を整えてからでなくては出陣しなくなった。それは、晴信が出陣すれば、必ずや武田軍が勝つということであった。 p73

*どれほど多くの土地や財産を子孫に残したところで、何が起こるかわからない戦国の世では大して頼りにならないことが四郎左にはわかっているから、いざというときに身ひとつで生き延びられる術を伝えておきたいと思うのである。  p354

*見栄を張ることばかり考えて、本当に大切なものが何なのか、それを忘れていた。北条の領地に暮らす者たちが平穏に幸せに暮らすことだけが大切なのだ。その暮らしを守るためには北条が滅びることはできぬ。たとえ家名が恥辱にまみれようと、そんなことはどうでもいいことだ。おまえが思い出させてくれた。  p371

*軍配者は理屈で戦を考えます。何よりも兵書を重んじ、古例に学ぼうとします。足利学校で、そういう訓練をされているからです。それ故、軍配者の考え方は、どうしても似たものになりがちで、そこに軍配者の癖を加えて考えれば、相手がどんな策を立てるか、おおよその見当が付くのです。   p424

*兵書を読むのは嫌いではない。しかし、兵書に頼ろうとは思わぬ。何よりも大切なのは神仏の加護を受けることだ。正しき戦をする限り、いつも神仏が守ってくださる。それ故、兵書に頼る必要はない。心に迷いが生じたときは、じっと目を瞑って心静かにすれば、必ずや、神仏が導いて下さるのだ。  p425


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 本書を読みながら、キーワードをネット検索してみた。一覧にまとめてみる。

上杉謙信 :ウィキペディア

善徳寺の会盟 ← 甲相駿三国同盟 :ウィキペディア
善徳寺の会盟 :「朧月庵」 浅川一三氏
善徳寺址 :「武田調略隊がゆく」まめのすけ&足軽A氏

直江実綱 ← 直江景綱 :ウィキペディア
本庄実乃 :ウィキペディア
大熊朝秀 :ウィキペディア
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赤備え  :ウィキペディア

川中島の戦い :ウィキペディア
川中島の戦い :長野市「信州・風林火山」特設サイト
 第1次~第5次の各戦いの図が掲載されています。第1次から順次アクセス可。
 このサイトなかなかの優れもの。戦のプロセスがわかるように組み込まれています。
 特に第4次・上野原の戦いの進展状況をよく概観できます。
妻女山 :長野市「信州・風林火山」特設サイト
 ここには、次の山城等も掲載されています。
 葛山城跡
 長沼城跡
 海津城跡
 荒砥城跡(=山田城跡)
春日山城 :ウィキペディア
春日山城 :「埋もれた古城」
 このサイトに、次の山城等も掲載されています。
 飯山城 
 旭山城 
 箕輪城
 前橋城(=厩橋城)
横山城  その1(ウィキペディア)、 その2(長野市)
高梨城 :「日本の城探訪日誌」aganohito氏
深志城 ← 松本城 :「Kみむさんのホームページ」
計見城 ← 日向城(計見城・毛見城) :「古城の風景」 馬念氏

小菅山元隆寺 :「がらくた置場」 s_minaga氏

宇佐美定満 :ウィキペディア
 「上杉謙信の軍師「宇佐美定行」の名で知られる」と記されています。
 しかし、本書で宇佐見姓を与えられたと明記された冬之助は作者の創作人物でしょう。このフィクションでは生彩をはなっています。

山本勘助の墓 :長野市「信州・風林火山」特設サイト
 このページの下から2つめの項目です。
こんなサイト記事もあります。

山本勘助は実在したか? :戦と古戦場 「猛将列伝」
「山本勘助」の実在を示す文書、群馬で発見!? :「物語を物語る」 消えた二十二巻氏
市川家文書についての調査報告

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