遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集  講談社

2015-02-23 10:40:02 | レビュー
 本書の冒頭には、関ヶ原における決戦の東軍と西軍の各軍に焦点をあて、裏表に対陣/武将相関図を挿入し、戦場でのマクロの動きを記入している。全体図をイメージするのに便利である。
 本書のおもしろい点は、7人の作家が史実を踏まえたうえで、それぞれの思いと史料に残らない闇の空白に想像力と構想力を飛翔させ、課題となった武将の立場からその武将と関ヶ原合戦を描き出している点である。「関ヶ原合戦」という事実を各武将の視点からそれぞれの作家が描き出す視点の違いが実に興味深い。
 天下分け目の関ヶ原の戦場で、各武将が真に何を思い・何を考えていたのか、だれにもわからない。たとえ後に記された文書があったとしても、そこには何がしかの作為、粉飾、合理化が潜む可能性がある。また謀略のために記されたものだったかも知れない。しかし、それを踏まえても、あっけなく1日の合戦で勝敗が決した関ヶ原合戦の展開という史実が作家の創作心をかき立ててやまないのだろう。実に多くの作家が関ヶ原を舞台に作品を書いているのだから。

 本書は7人の作家が課題となった武将の立場から、関ヶ原合戦に参陣しているといえる。それぞれの武将の立場、視点、考えを作家自身の創作力で描きだしたのだから。参陣した武将のどの側面、どのプロセスに着目しているかも、それぞれの作家によって違うので実に楽しい読み物になっている。描き出された武将の考え方や行動を対比してみるのも、この競作から得られる興味深い点だ。本書は多面的に一武将をとらえられる機会となる。それ故に、それぞれの武将の真実の戦略・考えと行動の本音がどこにあったのかを、引き続き考察しつづけたくなるという動機づけができることだろう。

7人の作家の武将分担は次のとおりである。目次の順番に記し、それぞれに多少の説明・感想を付記したい。
  
<人を致して  伊東 潤>
 このタイトルは、孫子の教え「人を致して人に致されず」、つまり「人を思うように動かし、人の思惑通りには動かない」(p21)という意味の章句の前半から取られている。調べて見ると、『孫子』の第六・虚実編の冒頭の孫子曰わくの文中に出てくる章句である。この章句を関ヶ原で実行した武将として、川家康が描かれている。
 この作品が面白いのは、関ヶ原合戦は、豊臣家を護るために、石田三成が豊臣家の武断派と総称される豊臣家大名-加藤清正、浅野幸長、福島正則、細川忠興、黒田長政-を百害あって一利なしとみなし、殲滅する手立てを考えたとするところである。そして、家康に謀略を持ちかけ、家康と三成の合戦に見せかけようとしたことから始まるという構想にある。三成の計略に乗ったように見せかけて、その一段上の謀略を展開し、武断派をうまく「致し」つつ、小早川秀秋を如何に切り札にしたかが描かれる。綱渡り的な局面も充分描き込みながら、家康のしぶとさと思考が書き込まれていくところが面白い。
 本書で初めてこの作家の作品を読むことになった。

<笹を噛ませよ 吉川永青>
 可児才藏という一武将を主人公にしているところがまずおもしろい。可児才藏は豊臣家大名・武断派の福島正則の家臣である。この作品は可児才藏を介して福島正則の思いと行動を描いているとも言える。可児才藏は不運にも、敗者側となる武将を主家として、転々と主を変えざるを得なかった武将である。その可児を見出したのが福島正則であり、不遇を託ってきた可児才藏が豪勇としての真価を見せる最後の好機とこの合戦をとらえている。そして主の福島正則に貢献したいというその心情と行動を描き出す。
 この作品は、福島正則が家康から先陣を命じられて、意気軒昂である状況の最中に、井伊直政が抜け駆けをするのを可児が押しとどめようとしたが、直政が初陣の松平忠吉に同行の体裁をとっていたために、引き下がらざるを得なかった。そして、抜け駆けを許してしまったことへの怒りに端を発した状況展開を描き出す。おもしろい構想である。
 戦場で井伊直政に怒りをぶつけるが、可児は直政の一言とその行動に目が覚める思いを感じるのだった。その肝胆相照らすシーンとその後の展開が読ませどころである。
 笹は可児才藏の指物のシンボルであり、戦場で可児が首を取った相手の口には笹を噛ませておき、己の実績を残すという手段にしていた。作品タイトルはここに由来する。この「笹を噛ませる」という行為に事の顛末の意外性を持たせたところが実に良い。
 この作家もまた初めてその作品を読む機会となった。

<有楽斎の城  天野純希>
 織田長益。織田信秀の11番目の男子として生を受け、兄・信長を主として仕えた武将。武将としてより茶道の世界で名を成した織田有楽斎が主人公の作品。信長には味噌糞に言われ、武勲を上げることもできず、本能寺の変では逃げ出した織田長益である。武人としては無能の烙印を押され、武将としての生き様が性に合わない長益は、千利休との出会いにより、茶の湯に魅了されていく。そこに己の住む世界を発見し、己の生に意義を見い出していく。「武人としての栄達は捨て、茶の湯の道に生きよう。自分の生は、戦での政でもなく、理想の茶を追い求めるためにあるのだ。そしていつか、利休を超える茶人になってみせる。」(p115)
 己の茶の道を極めるために、かりそめの武人として生きた男、本能寺の変、秀吉の治世、関ヶ原の合戦を茶の道のための処世に徹した男の生き様が興味深い。一人の武将をどの視点から見るかのおもしろい事例と言える。

<無為秀家  上田秀人>
 備前の太守宇喜多宰相秀家は、関ヶ原の合戦において、西軍の要の武将の一人として最前線の一角に陣を敷く。しかし、西軍の采配を振る石田三成との間には確執があり、三成の指揮の下に於ける有力な武将たちの動き・思惑を考え、西軍の敗退を予見しながらも戦の場に臨む。三成を筆頭に西軍の諸部将の有様と己の意が通じない西軍の現状に対し憤懣を抱き、懊悩する秀家。
 秀家の父・宇喜多直家は宇喜多家再興の為には手段を選ばず、悪辣なまねも平気で行い、梟雄として恐れられた武将である。その父の生き様のもとで成長し、直家の病死に伴い初陣を経験すること無く戦国大名となった秀家は、秀吉に息子の如くに扱われる。秀頼が生まれると、秀吉から弟の如くに思い、守っていくことを託される。秀吉に恩義を感じ、破格の扱いを受けてきた秀家は、豊臣秀頼を如何に守り抜くかの視点で、発想し行動する。それは必然的に三成との対立ともなっていく。関ヶ原前夜の秀家の考え・行動を描きながら、関ヶ原での秀家の生き様を描く。宇喜多秀家という武将に興味が湧いてきた。
 その後の生き方の追記を通し、関ヶ原での勝者・敗者と、長い歴史の経過の中での勝者とは?を著者は問いかけている。

<丸に十文字  矢野隆>
 関ヶ原の合戦において、西軍にこんなおもしろい武将がいたとは驚きである。その名は島津維新義弘。手勢1,500人を率いて参戦したようだ。まず、この合戦を「他所人(ひと)の戦」と捉えている点からしておもしろい。島津家の当主は義弘の兄・義久である。そのため、義弘が薩摩一国の兵を動かす力はない。島津義久はこの豊臣と川の争いに兵を出すことを拒んだという。藩主の兄の方針に従うなら、義弘が参戦すること自体がおかしいことになる。
 なぜ義弘が参戦したのか? 西軍に加わりながら、なぜ「他所人の戦」と考えたのか?さらに、小早川秀秋の裏切りで、関ヶ原の戦いの方向が決し、西軍が崩れ敗退している段階で、それまで動くこと無く戦場の経緯を見ていた義弘がなぜ東軍に自ら戦いをしかけるという挙にでたのか? 実におもしろい状況を現出した武将を巧みに描いている。
 「儂(おい)らの行く鯖ひとつもせんままに薩摩に帰る訳には行かんど」
 「大きか丸ん中の十文字。そのど真ん中ば貫くしか、儂らの生くる道はなか」
この義弘の発言に集約させていく生き様がおもしろい。後半は島津義弘以下1,500の戦いを描く。
 薩摩に戻る船上は義弘以下わずか80人余りだったと著者は記す。「兄、義久の下に川家への恭順を決めた島津家は、義弘を大隅へと隠居させる」という形をとったという。
 武将にとって戦とは何か。ここに一つの生き様の極端な例が描かれている。だがそれは薩摩における島津家というリアルな存在にリンクしているのだ。

<真紅の米  冲方丁>
 小早川秀秋が関ヶ原の合戦で松尾山に布陣し、合戦の状況を睨み東軍に寝返るという日和見の行動に出たことにより、西軍の敗退を決定づけたということは知っていた。しかし、彼がこのとき19歳だったということは、この小説を読み初めて知った。何となく狡猾な年配の武将というイメージというか、先入観のままで深く考えることも、調べて見る興味も抱かなかった。だがこの小説で小早川秀秋という武将を改めて捉え直してみることがおもしろいと感じるようになった。
 史実を踏まえ、そこに著者の視点での想像と構想が織り込まれた小説の創作なのだろう。だが、秀秋に関する基本情報はたぶん史実によるものと思う。つまり、秀秋のプロフィールはこうなる。秀吉の正室・北の政所の兄・木下家定の五男に生まれ、最初は木下辰之助という名であった。4歳で義理の叔父である羽柴秀吉の養子となり北の政所に育てられた。元服して秀俊と名乗る。8歳で丹波亀山城10万石、10歳で豊臣姓を賜り、11歳で”丹波中納言”となる。12歳の時に秀頼が生まれたことで、運命が激変する。毛利家の重臣・小早川隆景の養子として放り出される。結果として、筑前30万石を継承する立場になる。そのことで、豊臣家を継承するはずだった義兄・秀次の切腹事件のごとき経緯とは距離を置く立場になった。それは秀秋14歳の時である。そして、慶長2年2月、慶長の役において、16歳かつ初陣でありながら、総大将としての渡海命令を受け、朝鮮半島に出征しているのである。異国の地で仕掛けた戦の末期において、戦の辛苦を経験しているのだ。この関ヶ原の時点では”金吾中納言”と人々には呼ばれていた。
 著者は、秀次切腹事件から衝撃を受ける一方、14歳で初陣の経験もないままに筑前30万石の大名になった秀秋を、己を隠すことを習性とするようになった武将として、本来聡明であるのに、その利発さを秘し、己の興味や好奇心、知ろうとする気持ちをおもてに出さない姿勢を貫くという生き様を選んだ武将として描いている。
 義父だった秀吉の表裏を冷静に判断し、豊臣家の内情を熟知し、秀吉が行った検地の意味、米の意味を熟考する武将として描き上げる。「家康の世でなら、自分も新しい国が作れる」と時代を読み切った秀秋の主体的な選択が東軍への加担だとする。
 慶長7年冬、秀秋の唐突な死を著者は劇的に描き出す。
 興味深い小早川秀秋像である。そこには家康の見た秀秋、三成の見た秀秋とは異なる秀秋のアイデンティティがある。興味深い作品。

<弧狼なり 葉室麟>
 家康から始まる7人の作家の競作は、東軍の家康に対して、西軍の石田三成の登場でバランスがとれる。
 この作品は、石田三成が豊臣家の存続、豊臣秀頼を生かすための起死回生策として、関ヶ原の合戦という大勝負を仕掛けたという視点で、創作されている。文禄・慶長の役で朝鮮半島に出兵し、その失敗が戦国諸大名に疲弊をもたらし、憤懣が渦巻き、秀吉亡き後の混迷した時代となる。東国に川氏、西国に毛利氏が厳然として存在する中で、求心力を無くした豊臣家。豊臣秀頼の存続を如何にはかれるか。官僚大名として頂点にたつ石田三成が何を考え、何を実行したのか。その秘策は・・・・。
 著者は、三成と安国寺恵瓊(えけい)の関わりという視点で、その秘策実行を描き出す。安国寺恵瓊は安芸国の守護家・銀山(かなやま)城主武田信重の子として生まれる。幼名・竹若丸。しかし安芸武田氏が毛利元就に滅ぼされることで、臨済宗東福寺の末寺の僧侶となったという。毛利氏と尼子氏や大友氏との交渉に使僧として奔走する禅僧・竺運恵心に見込まれ、恵瓊は恵心の法弟となったという。それが縁で恵瓊は屈折した内心の思いを秘めつつも毛利氏の使僧となる。秀吉の<中国大返し>の後、山崎城を訪れた恵瓊を三成が接待役として対応するところから関わりが始まる。恵瓊45歳。三成23歳。この時以来、三成は恵瓊を妖僧と見て毛嫌いする。
 慶長5年6月、家康は会津の上杉討伐のために、豊臣家の武断派諸大名を率いて、会津討伐の挙に出る。川を討つならこの機会だと、恵瓊は三成に持ちかける。毛利輝元が後ろ盾になるという。三成が川打倒に立てば、毛利が動くという。秀頼の名の下に三成が立ち、家康と戦えば、得をするのは毛利氏ではないか。会津討伐が成功すれば、家康はいずれ、豊臣家と毛利氏に牙を向ける。毛利攻めは当然のシナリオである。
 恵瓊と応対する中で、三成が案じたのが、「駆虎呑狼の策」だった。
 それが、豊臣家に忠節を誓い、豊臣家の存続を賭けて実行されたとして、ストーリーが展開する。ここでも小早川秀秋がキーパーソンとなっていく。勿論、三成の視点からとらえた関ヶ原の合戦での大手となる駒である。
 本書の競作の中で3人の著者がそれぞれの作品に小早川秀秋を登場させる。家康視点からの秀秋、秀秋自身の主体的視点、三成視点からの秀秋。秀秋を巡る三者三様の解釈の違いも、副次的に本書のおもしろいところである。
 三成と恵瓊は小西行長とともに、洛中引き廻しのうえで、六条河原の刑場で斬首されたという。
 三成が恵瓊に「わたしは恵瓊殿の策に操られる一匹狼だったが、弧狼には、弧狼の戦い方があったということだ」と最後に述べたと著者は記す。この語りをこの作品で読み進めていただくとよい。三成の深慮遠謀。毀誉褒貶の多い策士・石田三成の人物像が三成主体に描かれていて、これもまた興味深い作品である。

 関ヶ原を舞台にした7人の作家の作品を読んだ第一印象は、なぜ世の小説家の多くが関ヶ原合戦を描こうとするのかの魅力がわかったような気がすることである。様々な戦国武将の意地と欲望と戦略構想、自家のサバイバルが錯綜し混沌と渦巻く。関ヶ原の合戦は多重構造の多面体なのだ。史実の空隙、文書の行間に多重な解釈が可能であり、客観的史料では解明できない謎に満ちているからなのだろう。作家が想像の翼を飛翔させたくなるモチーフに満ちた時空間が関ヶ原なのだ。
 関ヶ原の合戦のとらえ方を楽しむにはもってこいの競作集である。
 関ヶ原ものを別の作家はどう描いているのだろう・・・・本書はそのステップへのトリガーになる。

ご一読ありがとうございます。

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インターネットでどんな情報が入手できるか。ちょっと調べて見た範囲から覚書にしてみた一覧である。

関ヶ原の戦い :ウィキペディア
関ヶ原合戦-軍勢配置図① :「つわものどもの館」
関ヶ原の合戦  :「事件の日本史」
わかりやすい 関ヶ原の戦い :「信長の野望 Online 戦国案内所」
関ヶ原町歴史民俗資料館 ホームページ
戦国合戦図屏風 岐阜市歴史博物館  pdfファイル
  33ページから「関ヶ原の戦い」の屏風絵が掲載されている。
関ヶ原合戦図屏風 :「渡辺美術館」
徳川家康 :ウィキペディア
徳川家康公 顕彰四百年記念事業 ホームページ
可児吉長  :ウィキペディア
第23戦「井伊直政の抜け駆け」 :「歴史人」
第24戦「”笹の”可児才藏」  :「歴史人」
福島正則 :ウィキペディア
老骨臣散る 福島正則の死  長野県の文化財(特集号)
島津義弘 :ウィキペディア
島津義弘 :「島津義弘.com」
  島津義弘の死 それから
小早川秀秋  :ウィキペディア
小早川秀秋  :「岡山市」
大谷吉継   :ウィキペディア
大谷吉継   :「城と古戦場」
大谷吉継の肖像のまとめ NAVERまとめ
石田三成  :ウィキペディア
あの人の人生を知ろう~石田三成  :「文芸ジャンキー・パラダイス」
石田三成・失敗の研究~関ケ原での計算違い  瀧澤 中氏 :「衆知」
「三成タクシー」3月21日運行開始 石田三成の関連史跡案内
   2015.2.11  :「中日新聞」


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