兼業農家が生まれる形態の第3番目です。これもありがちであることですが、元々専業農家であったものの、家族の一部が農業専従者とならずに外に働きに出ているような場合です。親は専業で子供が会社員や公務員などといったケースが該当します。実質的には専業農家と言える訳ですが、世帯収入といった側面では兼業農家に分類されるのではないでしょうか。第1、第2の形態と比較すると経営的に恵まれた兼業農家と言えるのではないでしょうか。しかしながら、この第3の形態は、第2の形態の前駆的、過渡的形態であって、早晩第2の形態で指摘した事態を迎えることとなります。
その他にも、新規就農をしてはみたものの経営難で兼業化したり、現在は別の職業に従事しているが、将来就農予定で試験的に営農しているといったことなど色々な理由で兼業化した農家が存在すると思います。このように兼業農家と一口で言うものの、種々の形態、多くの理由があるものです。しかし、識者は「兼業農家は・・・。」と一括りで議論の槍玉に挙げてきます。その論拠の多くは、誤解・曲解、知識不足、思い込みに起因するもので、その結論において兼業農家を非難し、悪者扱いしております。何故にそこまで言われなければならないのか理解に苦しみます。そんなに旨味があると仰るならば、そのあなたがやればよろしいではありませんか。
これまで、兼業農家がどのようにして生まれるのかをざっと眺めてきました。いよいよこれからが本論である、なぜ兼業農家を続けるのかといった議論に移りたいと思います。これにも色々な理由がありそうに思います。ですから、ここからは私自身の考えを中心に述べていきたいと思います。
私が兼業農家となったのは、先述した第3の形態から第2の形態に移行したことにあります。義父母が農家であり、私と連れ合いは外で働いているといったものでした。義父母が他界したことにより、残された農地、みかん畑、山林をどのようにするかと課題に直面しました。
先ず、みかん畑の方は、十数年前から耕作放棄状態でした。ですから、これ以上どうこうするもありません。山林の方は、これも十数年手入れをしていない状況です。私が佐賀に来た時分には、間伐、枝打ち、下草刈りなどが行われており、私も手伝ったことがあります。これも、とりあえず考えないことにします。問題は自宅周辺にある3枚の水田と畑、そして2km程離れたところにある水田3枚です。離れたところの水田は、親戚である大規模農家さんに貸すことができ、何とか落着しました。後は周辺の田畑です。これは、自宅敷地と地続きになっており、今まで義母が庭先野菜を栽培するなどしていた土地ですので、おいそれと貸すわけにも参りません。
元々、老後は「豊かさって何だろう」で書いているような自給自足的な生活をしたいと考えておりましたので、「一丁やってみっか!」ということになった次第です。新米百姓の悪戦苦闘・奮戦ぶり、その後の変遷などは「農業ことはじめ」やこのブログの農業カテゴリに書いている通りです。
本論に入るといいつつも、再び脇道に逸れてしまいました。私が兼業農家になった経緯は、先程から縷々述べてきました。そして、百姓を始めてから稲作を3回経験(1回は減反)しました。大規模・集約農業の対極を行くような、超零細兼業農家として今後も頑張って行きたいと考えております。自然農と出会い、ますますその意を強くしております。では、なぜそう考えるかに至ったかということは、次回以降ということで・・・。
以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(4)」に続く。
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