泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

今年も咲きました「飛鳥川沿いに咲く河津桜・2021」

2021年02月27日 13時05分57秒 | 散歩

少しずつですが、奈良県の飛鳥地域にも春の訪れが感じられるこの頃です。

2年前に初めて見た飛鳥川沿いの「河津桜」が、今年も見事に咲いていました。

今回は、今年も咲きました「飛鳥川沿いに咲く河津桜・2021」を紹介したいと思います。

今年も、飛鳥川沿いにこのような素敵な「河津桜」を見ることができました。この場所は、明日香村のお隣の橿原市の飛鳥川沿いです。丁度、満開でした。

       

明日香村にも、「河津桜」が咲いている所がないか探してみたところ、朝風峠という所の近くの山の斜面に咲いていました。村に住んでいながら、まったく気づきませんでした。

今年は、飛鳥川沿いと村内の「河津桜」を見ることができました!

       

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私が住む飛鳥に「春の訪れが・2021」

2021年02月22日 21時01分42秒 | 散歩

私が住む奈良県明日香村にも少しずつですが、春の訪れが感じられるようになってきました。

今回は、私が住む飛鳥に「春の訪れが・2021」を紹介したいと思います。

毎日、大好きな飛鳥を散策していると、冬枯れの景色から少しずつですが春の花々が見られ、春の訪れを感じられるようになりました。歩いていると、あちらこちらから梅の花の香りが漂ってきます。

ところが、2月17日に何と突然に雪景色となりました。今年で、雪景色を見るのは2回目となりました。

梅の花に雪が積もったりして、いっきに冬に戻ったようでした。めったにない雪景色を、早速撮りに行ってきました。

翌日は、少し雪が残り田畑には霜柱や氷が凍っていました。朝子ども達は、霜柱を踏みしめたり凍った氷を割りながら楽しそうに登校していました。そう言えば、昔同じことをしてたことを思い出しました。とても、懐かしい風景でした。 

明日香村は、古代を中心とした歴史的な景観と共に自然が豊かな村です。

四季の変化が、肌で感じられる「飛鳥」が大好きです!

                

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飛鳥の「古い道と遺跡を考える」(1)

2021年02月16日 15時35分23秒 | 歴史

奈良県明日香村にある明日香村文化協会主催で、飛鳥の「古い道と遺跡を考える」というテーマで3回の講座が行われます。

第1回目「今は、水田になっている古い道を巡る」が、1月下旬に行われましたので参加してきました。

(明日香村文化協会とは、明日香村の文化の顕彰、継続、発展を目的とし発足した文化団体のことです。)

今回は、飛鳥の「古い道と遺跡を考える」(1)の様子を紹介したいと思います。

以前、ブライズミ「飛鳥京への道」探訪とテーマで、「飛鳥京」へ入る道を何の根拠もありませんが、「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」を紹介しました。(2015年8月20日に紹介させていただきました。)

このことが、本当かどうか確かめたくて今回、明日香村の文化財課の専門家による「飛鳥京」へ入る古代の道の痕跡をたどる現地講座が行われると聞き、参加してきました。

明日香村には現在、通称「飛鳥の横大路」と呼ばれている道があります。古代の道(飛鳥時代)と言われており、その痕跡をたどる講座です。

明日香村中央公民館で古代の道路や道標等の基本的な事柄の学習後、「飛鳥の横大路」と呼ばれている道を歩きながら、古代の道の痕跡がある所で講師の先生による説明をうけました。

   

痕跡その1「川原下の茶屋遺跡」

「川原下の茶屋遺跡」は、飛鳥時代の交差点が検出されていて、数少ない道路跡の遺跡です。東西道は、道幅約12m・南北道は道幅約3mで側溝もみつかっています。東西道路は、直線道路と考えられ、西は下ツ道に交わり、東は「飛鳥京」(エビノコ郭の西門)に続くと思われます。この道路は、「川原寺」の南門と「橘寺」の北門の間を通っているようです。

  

痕跡その2「橘寺の北門跡の東西にある道標」

「橘寺」旧西門の北にある道標は、1776年に建立されたもので明日香村では4番目に古い道標です。水田(古代の道)を挟んで東にある道標と一直線に立っています。古代から、古い道沿いに建っていた道標?が中世・近世へと受け継がれたかもしれませんね。

   

痕跡その3「東西道路の北側溝跡」

「川原寺」の南西100mの所で、通称「飛鳥の横大路」と呼ばれている東西道路の北側溝(幅1、2m・深さ55cm)が見つかりました。現在、その場所は民家が建っています。

  

痕跡その4「橘寺北門周辺の水田の畔」

「北側溝跡」から幅約12mの東西道路跡が、「川原寺」と「橘寺」の間(橘寺の北門跡)の水田や畔に痕跡がありました。

 

痕跡その5「エビノコ郭の西門跡」

「川原下の茶屋遺跡」・「北側溝跡」・「エビノコ郭の西門跡」等から、「川原寺」と「橘寺」の間の東西道路が座標などから一直線に復元できることがわかりました。東西道路が、「エビノコ郭」の西門から下ツ道(古代の幹線道路)へ向かって谷間を利用して造られた道路遺構であることがわかりました。

     

通称「飛鳥の横大路」は、現在「飛鳥遊歩道」として整備されており、途中には「亀石」を見ることができます。細い道をまっすぐに歩いて行くと、「橘寺」前の田んぼにつきあたります。少し回り道しながら行くと小さな橋がかかっておりまっすぐに行き、銀行の横の道を歩くと「飛鳥宮」(飛鳥浄御原宮)の大極殿びあたるエビノコ郭の西門に突き当ります。現在、エビノコ郭跡は村役場の駐車場になっており西門跡は、民家が立っています。

今回の講座では、以前紹介したブライズミ「飛鳥京への道」の探訪の確認でした。「橘寺」の北門跡周辺の畔や水田が古代からそのまま残っていることに、今更ながらとても感心しました!

第2回目は、明日香村内の「江戸期のお伊勢参りで通った道を巡る」というテーマで、2月中旬に行われる予定で、楽しみにしています。

 

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明日香村にある中世の城郭4「八釣城・岡城・祝戸城」(改訂版)

2021年02月11日 17時40分58秒 | 歴史

明日香村にある中世の城郭のなかで、「八釣城」だけが位置等がわかりませんでした。この城は、残念ながら資料等もなく実際に行かれた方の情報もありませんでしたので、以前教えていただいた奈良県遺跡地図をたよりに「八釣城」を探してみました。ようやく、場所だけは見つけることができましたので、改訂版として「岡城・祝戸城」(この2つの城は、実際に行かれた方の資料を参考にさせていただきました。)と共に、紹介したいと思います。

今回は、明日香村にある中世の城郭4「八釣城・岡城・祝戸城」(改訂版)を紹介したいと思います。

「八釣城」は、明日香村八釣の里を通り過ぎ、桜井市高家(たいえ)方面に向かって南に位置する山手にありました。立地条件的には、南東には多武峰の連なる山々があり、北西方面から敵を想定しているようなような場所でした。ここからの眺めは素晴らしく、眼下には八釣の里・小原の里や中世の飛鳥城・雷城等が見えるような所にある城でした。縄張り等を見たかったのですが柵がしてあり、容易に入ることができず人工的な物や縄張り等についてはわかりませんでした。

      

〇「岡城」は、岡寺の参道の途中にある常谷寺の南側の山稜先端部に築かれています。岡寺に連なる丘陵に先端部にあり、石舞台から北正面に見える竹藪の丘に築かれた城のようです。丘陵の先端部を堀切で独立させ、三方を空堀で囲む様式と同様な縄張りとなっているようです。東側の大土塁は、本来は東の丘陵に連なる尾根であった部分が、県道の建設により大部分が削り取られた名残でしょうか、堀切の外側の城塁を削るようにして道路が付けられているようです。西側に入り込んでいくとすぐに大堀切が見えてきます。県道沿いから入り、堀を通りすぎて主郭によじ登って行ったのですが、急斜面なのでなかなか大変でした。郭内部は、30mほどの単郭のようです。東側の一部に土塁が見られ、郭の周囲には腰曲輪が巡らされており、一部は横堀構造になっているようです。とても、わかりやすい縄張りとなっていました。

いつも、石舞台に行くときに通る道ですが、まさかこの場所が中世の城跡とは思いもしませんでした。

         

〇「祝戸城」は、今は国営飛鳥歴史公園祝戸地区にあるミハ山頂部に築かれた城です。飛鳥宮跡の南に位置するミハ山(ミワ山、フグリ山とも言われています。)は、飛鳥の神奈備の有力な候補のひとつです。神奈備とは、神霊の鎮まる領域のことです。 

ミハ山は、尾根筋に遊歩道が整備され東展望台と西展望台が設けられていて城跡は、東展望台から西展望台へと進む間にあるピークに築かれています。城の縄張りは、ピークを三段に削平した曲輪を設け、北側の遊歩道に沿って畝状竪堀、西側の南斜面に竪堀が設けられているようです。人口的な物が見てわかる構造となっています。

他の城跡と違うところは、国営飛鳥歴史公園内にある城跡なので草木が切られていました。

この城はあきらかに、吉野から峠越えで飛鳥へ入る街道を押さえる重要な城であったと思われます。残念ながら説明板もなく、遊歩道の道沿いにあるため誰も気付かないと思われます。ただ、ここからは北から西に広がる飛鳥の里や南側の稲渕の棚田を一望できる景色の良い場所です。

明日香村にある中世の城跡を歴史散策していて感じたことは、その立地条件です。この地域は、中世から戦国時代にかけて寺社や豪族の争いが多かった所です。そのため、当然のことながらどこから敵が来るかを想定した場所を考えて、自然の地形を利用し人工的に堀等をつくっていることです。縄張りも、そのようになっているようです。残念ながら、どこの城跡も整備されておらず木々に覆われていて、縄張り等についてはよほど中世の城郭に精通した方でないとなかなかわからないのが現状です。唯一、説明板があったのは「小山城」のみでした。

飛鳥は古代の遺跡が多く残っていますが、中世の城探しの歴史散策もとても楽しいですよ!

             

        

 

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飛鳥の「名もない古墳」探訪

2021年02月06日 19時54分03秒 | 歴史

以前、私が好きな「飛鳥での散策コース(高松塚周辺地区)」の中で、高松塚周辺地区の「名もない古墳」のことを紹介しました。(2020年6月4日)

その後、再びその時の2か所の古墳を詳しく探訪してきました。

今回は、飛鳥の「名もない古墳」探訪の様子を紹介したいと思います。

〇「高松塚古墳」の南にある古墳(約10mの円墳?)

「高松塚古墳」のすぐ南にあり、高い木がそびえて周りは畑に囲まれています。何とか近づいてみると、形は少し崩れていましたが、小さな円墳を見ることができました。こちらの古墳も未調査のため、何もわかっていませんが、古墳に間違いないようです。この檜前(ひのくま)地域は、古代より渡来人が多く住んだ地域ですので、被葬者はその首長の墓かもしれませんね?「高松塚古墳」に来られたら、参考にされてくださいね。

     

〇「文武天皇」陵の東にある古墳

宮内庁が治定している「文武天皇」陵(中尾山古墳が、真の「文武天皇陵」であると言われているようです。)のすぐ西にある古墳です。こちらも畑の中にある古墳で、陵から見ると円墳のように見えます。周囲を巡ると、南西の方から上り口がありました。入り口には説明板があり、この丘陵は、「アントクの丘」と呼ばれていて、近くに流れている檜前(ひのくま)川を詠んだ万葉集のうたが書いてありました。上ってみると、すぐ北には「高松塚古墳」・東には「文武天皇」陵があります。遺跡地図では、古墳となっていますが、未調査のため何も分かっていない古墳です。思ったより、大きな古墳でした。この場所は、壁画古墳の「高松塚古墳」と「キトラ古墳」の間にある古墳です。ひょとして、第3の壁画古墳がここに眠ってたりり・・・

色々と想いを巡らせながらの、飛鳥の「名もない古墳」探訪でした。

明日香村には、「石舞台古墳」の東側にある細川谷という所に未調査の約200基位の古墳があります。

また、飛鳥の「名もない古墳」探訪をしてみたいと思います!

            

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