泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

不弥国(ふみこく)国を歩く(嘉穂)3「国内にある装飾古墳・王塚古墳」

2019年10月29日 17時30分15秒 | 歴史

福岡県嘉穂郡桂川町にある「王塚古墳」は、壁画保存のため春(4月)と秋(10月)の年に2回のみ、特別公開を行っています。今回、10月の特別公開日に国特別史跡の装飾古墳の石室をガラス越しに見学することができました。以前、王塚古墳」と「王塚装飾古墳館は」見学したことがあったのですが、石室内の装飾壁画を見るのは初めてでした。

今回は、不弥国(ふみこく)国を歩く(嘉穂)3「国内にある装飾古墳・王塚古墳」を紹介したいと思います。

「王塚古墳」の見学は、2019年10月19日 ~ 10月20日の特別公開日に、国特別史跡の装飾古墳の石室をガラス越しに見学できます。早速、見学に行ってきました。嘉穂郡桂川町は、福岡市内から車で約1時間野と所にあります。すぐお隣は、飯塚市です。

「王塚古墳」の最大の特徴は、石室の壁面全体に色彩豊かな文様が描かれていることと、石室内部に石屋形・灯明台・石枕などが造られていることです。
豪華絢爛な装飾壁画と精巧な内部施設を有することから、昭和27年に遺跡としては国宝級の国の特別史跡に指定されています。

古墳は、6世紀に造られた前方後円墳で、復元全長約86メートル、そのまわりには濠と周堤が巡ります。残念ながら、現在前方部はほぼ失っており住宅地になっています。石室は、2室に分かれており、腰石や石棚には巨石を使用するほか、阿蘇泥溶岩で造られた石屋形や燈明台石・石枕が配置されています。
最大の特徴は、石室全面に赤・黄・白・黒・緑の5色で描かれた文様で、騎馬像をはじめとする絵画的な文様や円文・三角文などの抽象的なものなど多くの文様が所狭しと描かれていることです。そのようすは、まさに鮮やかで豪華絢爛であり装飾古墳の王者たるにふさわしい風格を備えています。また、馬具をはじめとする副葬品は、重要文化財に指定されています。昭和9年に福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命で、採土工事中、偶然発見され多数の馬具・武器・銅鏡・装飾品・土器類を出土しています。

 また、古墳のすぐ隣にある「王塚装飾古墳館」は、古代と現代を結ぶタイムカプセル・王塚古墳。その王塚古墳をテーマにした資料館です。

 発見当時の色鮮やかな壁画を再現した展示室では、王塚古墳の石室を中心に、古墳が造られた時代の様子や歴史・出土品などについて展示しています。

CGによる古代くん・未来ちゃんの映像が楽しめます。また、国内外の代表的な装飾古墳9基を5分の1の模型で展示しています。特に、王塚装飾古墳」の石室は、原寸大の石室に発見当時の鮮かな壁画を再現しており、中に入って見学することができます。なかなか、見ごたえのある古墳館ですよ。

この日は、同時開催「王塚古墳まつりin桂川2019」ということで、「王塚装飾古墳館お祭り広場」では出店が出ており、地元の野菜等が販売されており多くの方が来られて
いました。

装飾古墳の石室見学では、幸運にも一番目に見学が出来ました。見学証をいただき10名位づつ入室しました。中では、ボランティアガイドさんによる解説を聞きながら、前室の入り口のガラス越しから前室の装飾壁画がうっすらながら確認できました。1500年前の装飾壁画を見れて大変感激しました!残念ながら、前室の入り口からは玄室の壁画は見えませんでした。こちらも、多くの古墳好きな方が見学に来られていました。この日は、遠賀川の沿いの装飾古墳が見れる古墳が開放されていました。

次回は、飯塚市にある唯一の装飾古墳の「川島古墳」を紹介したいと思います。

                                                                   

 


 

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不弥国(ふみこく)国を歩く(嘉穂)2「立岩(たていわ)堀田遺跡」

2019年10月24日 17時22分55秒 | 歴史

邪馬台国時代の国の 「不弥国(ふみこく)」比定地として、九州説では宇美(福岡県粕屋郡宇美町)や嘉穂(福岡県飯塚市)とする説があるようです。前回は、宇美(福岡県粕屋郡宇美町)にある、不弥国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれている古墳(光正寺古墳)」を、紹介させていただきました。

『三国志』の通称「魏志倭人伝」によれば、「不弥国(不彌國)」は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあると記されています。「 不弥国」は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。「不弥国」については、「フミ」という音と奴国の東へ百里と記されていることから、その位置を福岡県宇美(うみ)町に比定する説が有力ですが、今回もう一つの比定地とされる嘉穂(福岡県飯塚市)の歴史散策をしてきました。数回に分けて、紹介させていただきたいと思います。

今回は、邪馬台国時代の「不弥国(ふみこく)」を歩く(嘉穂)2「立岩(たていわ)堀田遺跡」を、紹介させていただきます。

飯塚市(いいづかし)は、福岡県の中部に位置する市で筑豊三都の一つに数えます。筑豊で最大の人口を擁し、筑豊の政治・経済の中心機能を持つ都市でもあります。その中心地にある「立岩堀田遺跡」は、飯塚市中心の小高い丘陵地にあります。1963~64年に調査が行われ、弥生時代の甕棺墓43基、貯造穴26基などが発見された。甕棺からは、前漢鏡をはじめとする当時の貴重な品々が副葬品として出土しました。特に10号甕棺には、前漢式銅鏡6面、細形銅矛1本、鉄剣1本が副葬されていました。この地域を支配していた王墓と考えられているようです。琉球の海でしか採れないゴウホラ貝の腕輪を着けた男性の遺体も見つかっており、この時代に立岩と琉球が交易で繋がっていたことが分かります。この地が、魏志倭人伝の「不弥国」とする学説もあるようです。 

「立岩堀田遺跡」は、今は丘陵部に小さな公園に立てられた石碑と案内板のみが遺跡である事を示しています。
甕棺からは、前漢鏡をはじめとする当時の貴重な品々が副葬品として出土しました。発掘品は飯塚市歴史資料館に展示されています。昭和52年(1977)国の重要文化財の指定を受けました。飯塚市には紀元前後の遺跡が多く見つかっています。これらの遺跡を総称して「立岩遺跡(群)」と呼んでいます。
立岩は、上質の石包丁産生地でした。遺跡周囲から笠置山の輝緑凝灰岩を材料にした未完成の石包丁が多数出土しています。立岩の石包丁は、福岡県内をはじめ佐賀県や大分県まで広く分布しています。これがこの国の財源の基盤となったのでしょう。発掘品である、甕棺、銅鏡、銅矛、石剣、石戈など「立岩遺跡」の出土遺物はすべて飯塚市歴史資料館に保存、展示されています。
塚市歴史資料館は、jR新飯塚駅から徒歩5分程度の距離にあります。飯塚地方の古代から現代までを約1500点もの資料が展示しています。「立岩遺跡」の出土品は、なかなか見ごたえがありました。嘉穂盆地は、福岡県のほぼ中央に位置し、東西南の三方を山に囲まれ、遠賀川が北に流れており、川の上流地域にあたります。「立岩堀田遺跡」(弥生時代中期)において、王墓級の墳墓が発見されていることなどから「不弥国」の有力な候補地の一つとされています。

「立岩堀田遺跡」からの発掘品を見学した後、「立岩遺跡」に立ってみると、ひょうとしてこの場所が、邪馬台国時代の「不弥国(ふみこく)」の中心地ではないかと思われました!

次回は、「不弥国」内にある、装飾古墳を紹介したいと思います。

                                                         

 


 

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邪馬台国時代の「不彌国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれている古墳(光正寺古墳)」

2019年10月17日 11時13分20秒 | 歴史

事情があり、しばらくは博多の方で過ごすことになりました。来年の2月頃には飛鳥に戻る予定です。その間、九州等の風景等を紹介させていただきたいと思います。

飛鳥での滞在は短時間でしたが、彼岸花の咲いている秋景色や秋の祭りである「彼岸版祭り・光回廊」、高取町の「案山子祭り」等を見ることが出来ました。

「やっぱり、飛鳥はいいな~!」

ところで前回は、邪馬台国時代の「奴国」を数回に分けて紹介させていただきました。今回も、邪馬台国時代の跡を追って歴史散策してきました。

今回は、邪馬台国時代の「不彌国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれている古墳(光正寺古墳)」を、紹介させていただきます。

『三国志』の通称「魏志倭人伝」によれば、不弥国(不彌國)は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあると記されています。「 不弥国(ふみこく)」は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。3世紀中頃は中国の「魏志倭人伝」に当時の日本のことを「倭国」として紹介されています。その倭国には色々な国があったことが記されています。不弥国については、「フミ」という音と奴国の東へ百里と記されていることから、その位置を福岡県宇美(うみ)町に比定する説が有力ですが、伊都国や奴国ほどに定説として定まっていないようです。

不弥国の比定地として、九州説では宇美(福岡県粕屋郡宇美町)や嘉穂(福岡県飯塚市)とする説があるようです。今回は、宇美(福岡県粕屋郡宇美町)の歴史散策をしてきました。

〇「光正寺古墳」は、福岡市のお隣の糟屋町の北西部に位置し、3世紀後半に築かれた郡内最古で最大の前方後円墳(全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成)で、邪馬台国時代の「不彌国(ふみこく)の王墓?」ではないかともいわれています。築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。また、「光正寺古墳」は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。
不彌国の所在地は、「嘉穂説」と「宇美説(粕屋)」に分かれていますが、「光正寺古墳」の調査で「宇美説=粕屋平野説」が有力な地域として考えられるようになりました。この古墳は、標高46m前後の東西方向に延びる、丘陵上に築かれています。古墳の築造は、地山整形により1段目と2段目のテラスが作り出されています。2段目のテラスより上位は盛り土を行っています。墳丘周囲には2段目以上で葺石が施されています。現在は、国指定史跡であり公園として綺麗に整備されています。高台に築かれており眼下には、「不彌国(ふみこく)」?(宇美町)が一望できます。また、北側200~300m位の所には「七夕池古墳」を見ることが出来ます。当然のことですが、立地の良い所に古墳が築かれていました。

           

〇「七夕池古墳」は、糟屋地区最大の円墳で(直径29メートル)、古墳時代前期末の竪穴式石室からは、九州で8遺跡しか出土例がない琴柱形石製品や、刀、鏡、3,300もの玉が出土しました。七夕池古墳は、南側に近接する宇美町の前方後円墳「光正寺古墳」とともに、1975(昭和50)年6月26日に国指定史跡となりました。3段に築成された円墳には、幅3.5メートルの周溝が巡り、高さは3.7メートルとなります。埋葬施設は竪穴式石室が主体部で、木棺内に壮年女性の遺体を安置し、豪華な副葬品を埋葬していました。これらは、銅鏡(内行花文鏡)・琴柱形石製品・刀・玉類等で、志免町歴史資料室に展示しています。以上のことから築造年代は4世紀末で、畿内との関係が深かったと考えらているようです。邪馬台国時代の跡、探せば色々ありますね~。また、歴史散策して紹介できればと思っています!

        

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奈良県高取町第11回 「高取かかし祭り・2019」

2019年10月09日 09時54分05秒 | 散歩

奈良県高取町土佐町なみ一帯および市尾墓山古墳において、2019年10月1日(火) ~2019年10月31日(木) の期間に、「高取かかし祭り」が行われています。

今回は、第11回 「高取かかし祭り・2019」の様子を紹介したいと思います。

日本一の山城「高取城」の城下町として栄えた高取町は、昔からの町家が多く現存し、その当時の佇まいを残しています。明日香村のお隣の町で、古代では高取町の一部も飛鳥地域の範囲でした。この町並の佇まいをひとつのテーマパークに見立てて、開催されるイベントが「町家の案山子(かかし)めぐり」です。

城下町の風情が残る土佐街なみ一帯と、市尾墓山古墳周辺に、ユニークな案山子たちが並び、いたるところで案山子がお出迎えしてくれます。暮らしの一場面を切り取った自然な姿や、チコちゃんや渡辺直美、そして古代人をかたどったものなどさまざまです。いつも感心している案山子は、おばあちゃん二人が草取りをしている案山子です。つい本物と間違えそうなくらいリアルな案山子です。どこかユーモラスで、心温まる佇まいの案山子を巡りながら、秋の散策が楽しめますよ。

また昨年度から、「市尾墓山古墳」に古代人の案山子などが飾られていることです。今年は、残念ながらを「市尾墓山古墳」に飾られている案山子を見に行くことができませんでした。今回の写真は、祭り前に撮った物を紹介させていただきました。

「市尾墓山古墳」は、国指定史跡で長さが約70m、高さが10mの前方後円墳です墳丘は二段に築かれ、周濠と外提をあわせると全長100mの規模になります。

築造された時期は、出土遺物などから6世紀初めごろと考えられえます。古墳時代後期を代表する貴重な古墳で、当時この地域に権力をもった豪族が葬られていたと考えられます。とても綺麗に整備されていました。残念ながら、以前の自然災害のため墳丘部に支障があり、当分の間石室内部を窓越しから見学できなくなりました。

「高取かかし祭り」は、明日香村の稲渕で行われた「案山子祭り」とは、趣の違った町家の「案山子祭り」です。

秋の一日のんびりと、明日香村(稲渕)や高取町の「案山子」巡りをされてはいかがですか!

                                         

 

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爽やかなスミレ色の「本薬師跡のホテイアオイ・2019」

2019年10月02日 12時48分41秒 | 散歩

年も、奈良県橿原市城殿町にある特別史跡に指定されている「本薬師寺」跡周辺の休耕田に、約14,000株のホテイアオイの花が咲きました。

今回は、爽やかなスミレ色の「本薬師跡のホテイアオイ・2019」を紹介したいと思います。

「本薬師寺」は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のために建立に着手しましたが、完成前に天武天皇が崩御したため、持統天皇が遺志を継いで完成させました。

現在は、金堂の礎石と東西の塔跡の礎石や小堂が残るのみですが、休耕田から住宅地を挟んで西側に畝傍(うねび)山を眺めることができます。

 これまでの調査で金堂や東西塔、中門などの跡が確認されていましたが、正門に当たる南門は未発見でした。

ところが9月25日に、奈良県橿原市の本薬師寺跡(7世紀末)で南門跡(東西幅約15メートル)が見つかったと、市教育委員会が発表しました。本薬師寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願い建立を始めた国家寺院で、藤原京を代表する大寺院にふさわしい規模だといいます。この発見は、謎の多い古代寺院の研究に一石を投じる成果といえそうですね。南門跡で出土した飛鳥時代の瓦の一部は、29日から「歴史に憩う橿原市博物館」の特別展で展示されています。丁度、「本薬師寺」跡のホテイアオイの写真撮影後に、南門跡の発見のニュースを聞いて大変驚きました。

 この休耕田に毎年、地元の小学校の生徒さんによってホテイアオイの株が植えられています。株を増やしながら8月末から9月頃に見頃を迎え、現在スミレ色の淡い紫色の花が見事に水田一面に広がっています。ややピークは過ぎていましたが、スミレ色の淡い紫色の花がとても綺麗でした。

 「本薬師跡のホテイアオイ」は、西方には大和三山の一つである畝傍山がそびえ立っており、スミレ色の淡い紫色の花ととてもマッチしていますよ!

                                

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