泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

「令和の由来、梅花の宴が催された大伴旅人の邸宅があった場所は?」

2019年06月29日 15時30分20秒 | 歴史

「大宰府」は、外国との交流の窓口でもあったので、国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。「梅花の宴」が催された大伴旅人の邸宅があった場所は、現在、大宰府政庁跡の西北に鎮座する「坂本八幡神社」一帯をはじめ、その近辺に諸説あり、はっきりとは分かっていません。

今回は、「令和の由来、梅花の宴が催された、大伴旅人の邸宅があった場所は?」ということで、紹介したいと思います。

「大宰府」には、7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所が置かれ、西海道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割を担っていました。「大宰府」の長官は大宰帥(だざいのそち)と呼ばれ、「大伴旅人(おおとものたびと)」は727年ごろ大宰府へ赴任しました。「大伴旅人」は政治家としてだけでなく、歌人としても才を発揮した人物で、赴任した大宰府においても文人たちと交わり、「山上憶良(やまのうえのおくら)」らと共に優れた歌を残しました。後に「筑紫万葉歌壇」と呼ばれる華やかな万葉文化が、「大宰府」の地に花開いたのです。
730年正月13日に、「大伴旅人」は自身の邸宅に大宰府や九州諸国の役人らを招いて宴を開催しました。当時、中国から渡来した大変高貴な花であった梅をテーマに歌を詠んだことから「梅花の宴」と呼ばれています。今回、元号「令和」の典拠となった文言は、この「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の序文になります。

(序文) 「初春のにして(しょしゅんのれいげつにして)、気淑く風ぎ(きよく かぜやわらぎ)、梅は鏡前の粉を披き(うめは きょうぜんのこをひらき)、蘭は珮後の香を薫ず(らんは はいごのこうをくんず)」

 「大伴旅人」が大宰府で詠んだ歌に「わが岡に」の言葉が数多く登場することから、旅人の邸宅近くには岡(丘陵)があったようです。

・わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿   巻八(一五四一)
・我が岡の 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも 巻八(一五四二)
・我が岡に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも  巻八(一六四〇)

          

「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅については、現在まではっきりとした事は分かっておらず、幾つかの説があるようです。

邸宅があったと伝えられる場所は、大宰府政庁跡の入り口にある大宰府展示館東側の「月山東地区官衙」・大宰府政庁跡の西北に鎮座する「坂本八幡神社周辺」・大宰府条坊の中の「榎社」あたりの場所がその候補になっています。今回、この3か所を歴史散策してきましたので紹介したいと思います。
〇月山東地区官衙跡
 大宰府展示館の東側にはコンクリートの柱が立てられていますが、これらの柱は発掘調査で確認された建物や柵の柱を再現したものです。月山東地区の発掘調査では、複数の建物跡やそれら建物を囲むような東西の約110m・南北約70mの規模の柵が確認されており、大宰府政庁に隣接する場所に大規模な区画で建物が建てられていたことがうかがえます。また、大宰府展示館で公開されている玉石敷の溝は、通常の溝と違い、石が綺麗に敷き詰められた構造のため、太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのでは?とも考えられています。これらのことから、大宰府の長官であった帥の邸宅だったのでは?といわれている場所の1つとなっているようです。

大宰府展示館の東側の、この場所は正門すぐ東横に位置しています。近くには丘陵があり、 「大伴旅人」が詠んだ歌の「わが岡に」に適合している場所です。

         

〇坂本八幡神社周辺
 坂本八幡神社は、坂本地区の土地神、産土神として祀られている神社で、祭神は応神天皇です。現在、坂本地区の方々、氏子会の方々によって神戻しや宮座など様々な神事が行われています。この坂本八幡神社周辺一帯が、地元では古くから大伴旅人の邸宅があったと伝えられてきました。
付近には「大裏(だいり)」という地名がありますが、古代には天皇がいた空間を内裏(だいり)と呼んでいました。太宰府には、落ち延びる平氏とともに安徳天皇が来られた記録もありますが、大宰府の内裏として身分の高い人が住んでいたとでは?というところから、大宰帥・大伴旅人と結びついていたったようです。周辺地域は昭和47年、61年・62年に発掘調査が行われ、掘立柱建物跡や鍛冶工房の跡を示すような出土物が出ましたが、長官クラスの大規模な建物跡などはまだ確認されていません。

この場所は、大宰府政庁の北西に位置しています。近くには丘陵はありませんが、全国的にも紹介されたせいか毎日多くの方が参拝に来られています。

          

〇大宰府条坊「榎社・客館周辺」
「榎社」はかつて、府の南館と呼ばれた「菅原道真公」の配所の跡です。平安時代には、「菅原道真公」が大宰権帥に左遷され、901年2月下旬に太宰府に到着してから903年2月25日に亡くなるまで約2年間滞在しました。古代には、大宰府政庁から南へと朱雀大路と呼ばれる大きな道が伸びていましたが、その道沿いに「榎社」は位置しており、官人が呼んだ和歌などから「大宰府」に勤めた高官の屋敷が周辺にあった様子がうかがわれます。また、周辺からは「大宰府」では長官である大宰帥しか身につけられなかった革帯を飾る白玉帯も見つかっており、この一帯に帥=大伴旅人の邸宅があったのではないかと考える物証ともなっているようです。

この場所は、大宰府政庁から南に数百mの所に位置しています。大伴旅人」が詠んだ歌の「わが岡に」の丘陵は、200~300m先にあり、「菅原道真公」の息子「隈麿」の墓と呼ばれている場所です。

果たして、「梅花の宴」が催された「大伴旅人」の邸宅があった場所は、どこなのでしょうか?

 

紹介した3ヶ所はそれぞれにロマンがあり、「梅花の宴」が開かれたであろう情景が思い浮かぶ場所でもありますよ!

 

        

 



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早乙女姿で豊作願う「太宰府天満宮斎田で御田植祭」神事

2019年06月19日 09時41分00秒 | 歴史

太宰府天満宮は6月16日、太宰府市観世音寺で「斎田御田植祭」を斎行しました。毎年恒例の神事で、稲穂が荒天や害虫などの被害に遭わず、無事に収穫できるよう祈願する神事です。

今回は、早乙女姿で豊作願う「太宰府天満宮斎田で御田植祭」神事の様子を紹介したいと思います。

 本来は、6月15日に行われる予定でしたが、降雨のため今年は6月16日(10時~)に、「学校院」跡付近の斎田で行われました。

青空の下、斎田前には、かかしやてるてる坊主・大型のうちわが置かれ、斎田横に設けた斎場で西高辻信宏宮司が祝詞をあげた後、色鮮やかな衣装を身にまとった天満宮の巫女さん達が「早乙女の舞」を奉納しました。

その後、水を張った田で、赤ふんどしの若者と着ぐるみの牛がユーモラスに「代かき」を熱演した後に、宮司による初植えに続いて、菅笠(すげがさ)にもんぺ姿の巫女(みこ)たちや氏子たちが斎田に入り、5 月の「斎田播種(はしゅ)祭」で種もみをまいて育てた苗を、丁寧に手植えしました。10月中旬には、稲穂を収穫する「斎田抜穂祭」があります。収穫した米は、11月の「新嘗(にいなめ)祭」 で最初にお供えし、天神(菅原道真公)さまへの朝夕のお供えや、太宰府天満宮の全ての祭典や神事で使われるそうです。

「大宰府」の地においても、飛鳥地域と同じように色々な神事が行われています!

                                    


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私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸(いこいの森)」(散策編)

2019年06月13日 09時36分15秒 | 散歩

NHKのBSプレミアムで放送されている『こころ旅』、ご存知ですか?

「人生を変えた忘れられない風景」「大切な人との出会いの場所」「こころに刻まれた音や香りの情景」「ずっと残したいふるさとの景色」など、お手紙に書かれたエピソードをもとに、ひとりひとりの心に大切にしまってある「こころの風景」を訪ねる番組です。

前回、テレビで放送されているわけではありませんが、私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(自然編)・(歴史編)を紹介させていただきました。(2019年4月)

今回は、私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸(いこいの森)」(散策編)を紹介したいと思います。

「牛頸」と書いて、「うしくび」と呼びます。福岡県福岡市の南に隣接する都市である大野城市の南西に位置する地域に、「牛頸」地区と呼ばれる場所があります。

「牛頸」地区は豊富な自然に恵まれ、大野城市では唯一里山の景色が残っていて、夏季に入ると蛍(ゲンジボタル)が飛び交うことから、見物の人々の涼む姿で賑わう場ともなっています。なんとなく、飛鳥の「里山の風景」に似たような所で、とても癒される場所です。私にとって、飛鳥と共に「心の故郷」です。

珍しい地名である「牛頸(うしくび)」の地名は、「筑前国続風土記」によれば、平野神社(牛頸神社)から見える西の山の形(牛が横たわっている姿)に由来すると記されています。また、6~8世紀にかけてこの地にやってきた渡来人の村の名に由来するという説もあるようです。

「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸(いこいの森)」(散策編)は、「紫陽花」が綺麗な「いこいの森」公園の散策コースを紹介したいと思います。

今、牛頸地区では田植えの真っ盛りで、中央に流れている牛頸川では、ホタルが見られ多くの方が見学に来られています。

牛頸地区の南に位置する「いこいの森」公園は、福岡県大野城市牛頸にある牛頸ダムのダム湖を中心に配置された、水と緑の溢れる施設です。硬式野球もできるスポーツ公園、芝生や小川が美しい水辺公園、遊具の充実した眺望抜群の中央公園、森の中のせせらぎの流れるキャンプ場などがあります。

今回紹介するのは、牛頸ダムのダム湖を一周するコースです。山沿いの約4キロのコースですが、何と道沿いには色々な種類の「紫陽花」が植えてあります。今丁度見頃です。

「紫陽花」を見ながら緑のトンネルを通る散策は、とても気持ちが良く散策していると癒される場所ですよ~

春は「桜」、夏は「紫陽花」・秋は「紅葉」がとても綺麗で、ずっと残しておきたい素敵な場所ですよ!

                                     


 

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崇峻(すしゅん)天皇陵の可能性が指摘されている「赤坂天王山古墳」

2019年06月06日 14時38分58秒 | 歴史

奈良県桜井市倉橋にある「赤坂天王山古墳(あかさかてんのうざんこふん、赤坂天王山1号墳)」は、国の史跡に指定されています。

大和で初めて石室に入ったのが、「赤坂天王山古墳」でした。神秘的な暗闇の世界が、とても印象的でした!

今回は、第32代崇峻(すしゅん)天皇陵の可能性が指摘されている「赤坂天王山古墳」について、紹介したいと思います。

古墳ファンに最も人気のある「赤坂天王山古墳」は、東南方から北西方に延びる尾根上に営まれた一辺45メートルの方墳で、古墳時代後期(6世紀末)の築造とみられています。南に向かって横穴式石室が開口しており、奈良県内でも屈指の大きさをもちます。玄室内には、家形石棺があります。

入口の羨門から羨道へと土砂が流入しているため、羨道には傾斜があって足から潜り込むような形になります。手を地面についたり、頭が石室内の石に触れたりしながら中へ入って行くと、神秘的な暗闇の世界が広がります。(石室の中は、ほんの僅かしか光が入ってこないので懐中電灯は必携です)

 

長さ15mの横穴式石室は古くから盗掘され開口しています。真っ暗な羨道の緩やかな斜面を約8mほど入ると、徐々に広くなり玄室に到着します。長さ6.4m、幅3m、高さ4.2mの巨大な玄室の中央部には、大きな家型石棺が横たわっています。まさに6世紀末の世界がここにあります。

出土遺物等は不明ですが、石室の特徴から6世紀末~7世紀初めにつくられたと考えられています。築造時期及び倉橋地区で天皇陵に相応しい規模の古墳は、この「赤坂天王山古墳」をおいて他になく、研究者の間では真の崇峻天皇陵ではないかという考えが有力です。

「赤坂天王山古墳」は別名で、赤坂天王山1号墳とも呼ばれるように他にも2号墳~5号墳ほか数基があります。そのうち3号墳の横穴式石室は、見学可能ですのでおすすめです。

日本書紀の記述には、崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたとあります。はたして「赤坂天王山古墳」は、どなたが眠っておられるのでしょうか・・・

                                     


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