砂浜に坐り込んだ船

「砂浜に坐り込んだ船」(池澤夏樹/著 新潮社 2015)

短篇集。
カバー写真が美しい。
浮世ばなれした感じの幻想的なところが、この作品集によくあっている。
池澤さんの作品は、写真と相性がいいようだ。
収録作は以下。

「砂浜に坐り込んだ船」
「苦麻の村」
「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」
「大聖堂」
「夢の中の夢の中の、」
「イスファハーンの魔神」
「監獄のバラード」
「マウント・ボラダイルへの飛翔」

「砂浜に坐り込んだ船」
1人称。
といっても、〈私〉ということばはつかわれない。
せいぜい〈自分〉がつかわれているにすぎない。
極力、1人称を排した1人称で書かれている。
この作品集に収められた人称のスタイルは、どれもこんな風。

〈私〉を排したのは、なんのためか。
想像するに、〈私〉のうるささが気になったためだろうと思う。
読み手に、すぐに作品世界に入ってほしいためだろう。

さて、ストーリー。
朝の新聞で、5千トンの船が砂浜に坐礁したという記事をみた主人公の男は、近くだということもあり、その船をみにいく。
座礁した船は美しい。

《場違いであることを少しも恥じず、自分がいるところが世界の真ん中と言わんばかりに堂々と、周囲をうろつく人間たちを完全に無視して、優雅にそこに坐っていた。》

家に帰り、夜、大きな液晶テレビに朝撮った船の写真を映してながめていると、亡くなった友人の幽霊があらわれる。

この友人は老母と2人暮らしで、あるとき家が火事になり、このとき母を失ったのだった。
その後、前と同じ間取りの家を建て直し、婚約者と住もうとするが、ひとりになり、病を得て、治そうとせず、亡くなった。

友人が幽霊としてあらわれたのは、主人公が、坐礁した船の姿と友人の人生を、知らず知らずにだぶらせていたから――。

坐礁した船というイメージが、優雅に全編を支配している。
このイメージに基づき、物語が組み立てられている。
また、友人を亡くした主人公の気持ちは切なるものがある。

《「きみはもう歳を取らないだろうが、あれからぼくは六歳も老けた。そしてね、この歳になると人生に関わる真剣な話ができる相手は極めて稀にして誠に貴重なんだ。しかしきみはもういない」》

最後、主人公は、友人の人生は坐礁したが、難破ではなかったと思いいたる。


「苦麻の村」
東日本大震災ものといったらいいか。
まず、〈ぼく〉の1人称で物語がはじまる。
区の社会福祉協議会に勤めている〈ぼく〉は、同僚と、被災者の菊間さんをたずねる。
最近、被災者の孤独死が起こったのだ。
菊間さんは、住民の96パーセントが帰還困難者になっている大熊町の出身。
元中学校の先生で、66歳。

地元の新聞が読みたいという菊間さんのために、2人は図書館にかけあい、新聞をそろえてもらうことに。
2週間ほどのち、図書館に寄った〈ぼく〉は、菊間さんが新聞を切りとろうとして、司書に怒られる場面にでくわす。

さらに2週間ほどして、菊間さん宅をおとずれると、菊間さんは新聞を郵送で購読し、スクラップしていた。
図書館でのことを、菊間さんは恐縮する。
が、このあと菊間さんは姿を消してしまう。

以後、視点は、ひそかに故郷にもどった菊間さんに移り、その心情が語られる。


「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」
これは、完全にあの世の話。
川を渡った主人公は――この話も人称のない1人称で語られている――先に向う岸に渡っていた姪と再会し、話しあう。

あの世では、夜空に四角をえがき、両手をぱんと叩くと、その四角に映像が映る。
たいへん視覚的な天国。


「大聖堂」
これも東日本大震災ものの一篇。
めずらしく3人称。
その語り口は軽快。

主人公は、翔太、幸村、カシャンという3人の少年。
かれらが、お金持ちが島につくった窯で、ひたすらピザを焼いて食べるという話。

なぜ島にピザを焼く窯があるのか。
お金持ちが一時期、ピザを焼いて食べるのに凝ったから。
ではなぜ、少年たちがその島でピザを焼くことになったのか。
昔、翔太の祖母とお金持ちはいい仲だった。
その縁で、翔太はお金持ちが島で開いたピザ・パーティーに参加したことがあり、その話をカシャンにしたところ、その窯をみせろ、ピザを食べさせろと、うるさくせがまれたからだ。

作者の池澤さんは、ものごとの手順や手続きを書くのがすこぶるうまい。
ここでも、ピザのつくりかたが美味しそうに書かれている。

《窯は外側からも触れないほど熱くなっている。中の薪を奥の方に押しやって、手前のフラットなところに具を乗せたピザの生地を入れる。みるみる様子が変わるのを輻射熱を顔いっぱいに浴びながら三人でみていた。》

輻射熱、ということばづかいが面白い。
この作品は、最後に突然ファンタジーになる。
こうする必要はなかったと思うけれど。


「夢のなかの夢の中の、」
ほとんどが引用からなった一篇。
「今昔物語」の巻27第41話と、巻22第7話と、巻28第28話を、夢の話としてつなげて、ひとつの作品としたもの。
思えば、夢というのは引用に似ているといえるかもしれない。


「イスファハーンの魔神」
〈私〉の1人称。
病室に入った87歳の父がわがままをいう。
そのわがままを、娘の〈私〉と、父の再婚相手、つまり〈私〉からみて義理の母がかなえてやる。
食べものを差し入れたり、画集をもっていったり。

父は、ついに正倉院におさめられた白瑠璃瓶(はくるりのへい)がほしいといいだす。
そんなもの、手に入るはずがない。
そこで、〈私〉はつてを頼って複製をつくってもらうことに――。

この作品も、最後ファンタジーになる。
コントというか、童話というか、そんな趣きの一篇だ。


「監獄のバラード」
〈彼〉の3人称。
だが、語り手が〈彼〉に憑依しているような、ほとんど1人称のような3人称だ。

主人公は、雪のなか車を走らせ墓地に向かう。
その墓地に、別れた彼女の父親が眠っている。
墓地に到着すると、〈彼〉の1人称に。
主人公は、元彼女の父親に向かって、彼女のことが自分のなかから消えるように頼む。

タイトルは、オスカー・ワイルドの詩「レッティング監獄のバラード」から。
《男はみな愛する者を殺す》
の一句が重い。
作品は、えっここで終わりと思うようなところで、ぷっつりと終わる。


「マウント・ボラダイルへの飛翔」
この作品も、やはり人称のない1人称。

オーストラリア南部の港町、エスペランスから5キロのところにあるピンク・レイクは、湖ではなく白い塩が広がった土地だった。
地名につられて、町から1時間歩いてやってきた主人公は、仕方なくそこで昼食。
すると、60代半ばの白人男性がやってくる。

この男は、旅行作家として著名なブルース・チャトウィン。
チャトウィンは20年前、48歳で亡くなったが、ちゃんと20年ぶん歳をとっている。
主人公はチャトウィンと親しくことばをかわす――。

敬意を表する歌をリスペクト・ソングというなら、この小説はリスペクト・ノベルということになるだろうか。
この作品には、注釈がたくさんついていて、それを読むのが楽しい。
主人公とチャトウィンがはじめて会ったとき、「何をしている、こんなところで?」とチャトウィンはいうのだが、それにはこんな注釈がついている。

《ブルース・チャトウィンの著書 What Am I Doing Hereに由来する》


さて。
全体として。
どの作品も死の影が濃い。
それに軽い。
以前から――「カイマナヒラの家」(芝田満之/写真 ホーム社 2001)のころから――池澤さんの書く短編は、軽く、スケッチのようになっていった。
そのため、若干ものたりない。
この、涼しげなものたりなさがいいのだと、いえないこともない。

スケッチ風の作品は、完成度よりも、ともかく書くことを優先した結果だといえるかもしれない。
宮沢賢治の心象スケッチのような。
「きみのためのバラ」(新潮社 2007)もまさにそんな作品集だったし、あるときこの書きかたでいこうと決めたのかもしれない。

また、構成だけみるなら、幽霊と出会って話をする「砂浜に坐り込んだ船」と、「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」と、「マウント・ボラダイルへの飛翔」は同じだ。
幽霊との会話がひとりごと同様とすれば、最後に1人称で心情を述べる「苦麻の村」と「監獄のバラード」も一緒。
ものごとの過程を手際よくえがき、会話があり、語りがあり、最後に心情を述べることで作品化するという仕組みが透けてみえる。
ほとんど定型化しているといっていい。
作者の体験や想像が、ある一定の型にそって自動的に出力されているという感じ。
じつにさっぱりしたものだ。

小説は、ストーリーを進行させる段取りが整っているほうがいいとはかぎらない。
屈託があるほうが、読み手を強くとらえることがある。
この点、本書の作品は手際が良いために損をしているのではないか。

本書で気に入った作品は3作。
完成度の高い「砂浜に坐り込んだ船」と、最後はともかく元気のいい「大聖堂」と、引用ばかりで構成された「夢の中の夢の中の、」だ。


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