吟遊詩人マルカブリュの恋

「吟遊詩人マルカブリュの恋」(ジェイムズ・カウアン 草思社 1999)

訳は小笠原豊樹。
カバーイラストは北見隆。

マルカブリュは南仏プロヴァンスで活躍したトゥルバドゥール(吟遊詩人)で、実在の人物。
トゥルバドゥールによる詩は、12世紀から13世紀にかけて書かれており、マルカブリュはその最初のほうに活躍した。

「愛と歌の中世」(ジャンヌ・ブーラン イザベル・フェッサール 白水社 1989)に略伝が載っていたので引用してみよう。

マルカブリュ(12世紀中葉)
《「パンなし」と呼ばれていた捨て子で、ガスコーニュ生まれのジョングルール(歌い手)。気むずかしく、女嫌い、人間嫌いという人物像を残していて、恐るべき技巧を弄して辛辣な皮肉をとばした。45篇からなる彼の作品は、その活力と文体の精彩において驚くべきものがある》

また、「トルバドゥール恋愛詩選」(沓掛良彦/編訳 平凡社 1996)には、別の古伝が載っている。

《マルカブリュはさる金持ちの家の戸口に捨てられていて、素性も出身地もわからなかった。アルドリク・デル・ヴィラール殿が彼を養い育てた。その後セルカモンという名のトゥルバドゥールのもとでずっと暮らしていたため、自らも試作を始めるに至った。それまではパンペルデュ(パン無し)という名であったが、以後はマルカブリュと称するようになった。さてその当時は「カンソー」(恋愛を主題とした詩。トゥルバトゥールの詩文学の中核)という名称はなく、歌われるものはすべて「ヴェルス」と言われていた。マルカブリュは非常に聞こえが高く、その歌は世界中で聞かれ、その毒舌ぶりを恐れられた。人を謗ることはなはだしく、ために、彼にひどく悪口をたたかれたギュイエンヌの城主たちが彼を殺してしまった》

巻末の略伝によれば、じっさいはマルカブリュのほうが、セルカモンの師匠格だったそう。
(ところで、この「トルバドゥール恋愛詩選」は、主要なトゥルバドゥールの詩があり、略伝があり、さらにトゥルバトゥールがヨーロッパ文学に残した最大の遺産である「みやびの愛」についての解説ありで、たいへん面白い。いつだったか、古本屋でみかけたとき買っておけばよかったと、現在後悔中) 

前置きが長くなってしまった。
さて、本書は主人公の〈私〉が、マルカブリュの謎を追う歴史哲学ミステリ。
研究者である〈私〉は、友人からマルカブリュの知られざる作品が、博物館の古文書の山から発見されたと知らされる。
しかも、文書の形式は誄辞(るいじ)だという。

誄辞というのは、「重要人物の逝去に際して故人を讃える言葉を集めた一種の詞華集」。
「放浪の修道士に携えられて修道院から修道院へと旅し」、
「たくさんの敬虔な碑銘文や詩や随想や個人的感想が書き加えられ、こうして言葉による故人の肖像が完成する」。

ただちに現地に飛んだ〈私〉は、誄辞の巻物が川に投げ捨てられ、凍った状態で発見されたことを知らされる。
また、誄辞がささげられた人物は、アメデ・ド・ジョワという貴族出の尼僧だった。
なぜ、マルカブリュはアメデの誄辞を編んだのか?
そして、なぜそれを川に投げ捨ててしまったのか?
誄辞の巻物を手に入れた〈私〉は、マルカブリュの足跡をたどる旅に出発する。

というわけで、この小説は幻想的探索行小説。
探索小説は、〈私〉と〈私〉が追う謎とのあいだにできた隙間から、さまざまな推理や思索が展開されるところが魅力。
また、探索のさい出会う人物とのやりとりも楽しい。

この小説でも旅の途上、〈私〉は、盲目の画家、紙屋の主人、博物館の管理人、医者、教授、狂った砂金採りの男、修道院長などと衒学的な会話をかわす。
会話の内容は、詩と生と死と信仰と至高の愛について。

本書には現実的な困難がちっともでてこない。
たとえば、誄辞はラテン語で書かれているのだけれど、主人公が博物館を訪れると、ちょうどラテン語の専門家が訳しているところだと館長から教わり、その専門家を訪れると、専門家は、これはあなたの旅の始まりだといって、訳し終わった巻物の複製を渡してくれる。
これは、この本が困難をクリアしていく面白さではなくて、思索を深めていく面白さを採用したためだろう。
もちろん、主人公の巻物を狙う悪者なんてのもでてこない。
(このあたり、タブッキの「インド夜想曲」を思い出した。幻想的探索行小説を読むと、いつも「インド夜想曲」を思い出してしまう)

また、このたぐいの小説だと、〈私〉と謎(マルカブリュ)のあいだに個人的な因果関係があったりするものだけれど、この小説にはそれもない。
あっても薄い。
その点ずいぶんさっぱりしていて、おかげでうるさくなく読むことができる。

で、結局のところ、この小説は面白かったのか?
前半は面白かった。
衒学的な会話もよかったし、しだいに、アメデがキリスト教の異端であるカタリ派に入信していたという事実がわかってくる展開もよかった。

ただ、最後の謎解きが、正直よくわからない。
主人公とその友人たちは大いに納得しているのだけれど、なんだかきょとんとしてしまう。。
そんなわけで、この小説も、前半が素晴らしく魅力的な前半傑作小説のひとつだというのが、個人的な意見。

でも、それは、この本がつまらないというわけではない。
その魅力は、訳者あとがきでの小笠原豊樹さんの以下の文章に尽きていると思う。

「現実主義一辺倒の文芸か、さもなくば自ら小さく纏まろうとする幻想小説しか許容されていない窮屈な現状にあって、このような論述的・哲学的フィクションは、私たちの精神に不足しがちな栄養を補ってくれる有効な食物である」

最後に。
「トルバドゥール恋愛詩選」に載っていたマルカブリュの詩の一節を挙げておこう。

《ブリュナの息子たるマルカブリュは
愛神(アモル)がめちゃくちゃにした月に
この世に生まれた。
聴きたまえ
これまでに誰も愛したことなく
誰にも愛されたこともなき身なれば。》


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道化者の死

「道化者の死」(アラン・グリーン 早川書房 1955)

訳は衣更着信(きさらぎ・しん)。
装丁は勝呂忠。
ポケットブックスにしては、めずらしく具象画だ。

本をひっくり返すと、江戸川乱歩とアントニー・バウチャーの推薦文が載っている。
乱歩のはこう。

「古来、ユーモア探偵小説は数多いが、そういう作品に限って謎解きの論理性は極めて希薄である。ところが、本書『道化者の死』は滑稽文学の要素と、本格探偵小説の要素とが二つながら盛りこまれている点に特徴がある。…」

作者のアラン・グリーンは、なんとなく聞いたことがある。
グリーンつながりで、「見えないグリーン」(早川文庫 2008)の作者だっけかと思ったけれど、これを書いたのはスラデックだった。
だれだったかなあと読んでいたら、次の一節に当たって思い当たることがでてきた。

「マーリン・ブラツドストンがメキシコ湾にある自分の保養地で殺害された時、マーリンの義弟で、その財産の一部の相続者でもあったアーサー・ハッチがその他の経営をひきついだ」

さらに読み進めると、この事件のさい、フロリダ市で警部補を勤めるジョン・ヒューゴーが、ハッチの姪であるサンドラに求婚し、結婚したとある。
もう間違いない。
作者のアラン・グリーンは、「くたばれ健康法!」(創元推理文庫 1995)を書いたひとだ。
ハッチもヒューゴーもサンドラも、「くたばれ健康法!」にでてくる登場人物。
続編があったなんて、ちっとも知らなかった。

(個人的には、「くたばれ健康法!」は文庫ではなく、フレドリック・ブラウンとともに収められた「別冊宝石」で読んだ。そのときのタイトルは「健康法教祖の死」だった)

前置きが長くなったけれど、さて、ストーリー。
前述のように、マーリン・ブラツドストンから保養地の経営を受け継いだハッチ。
なかでも、ニューハンプシャー州セント・バーナードにある、セント・バーナード・ホテルの売り上げがもっとも良好。
いまは、ハッチの義理の甥となり、経営を手伝っているジョン・ヒューゴーの(ハッチにとってはじつに馬鹿げた)発案で、冬のシーズン開きに、〈ふた粒の阿片と一滴の魔液〉というコメディ劇団を呼んで、TVショーをすることに。

ところが、劇団がくるとホテルは大雪。
下界から隔絶され、あまつさえ劇団の座長であるジュニア・ワトキンスが密室状態の部屋で、死体で発見される。
大雪のため、警察もこられないなか、ハッチが探偵役をつとめて調査にのりだすと、第2の死体があらわれ――。

という、大雪のホテルで起こった密室殺人という典型的なシチュエーションをあつかった作品。
前半、ジュニア・ワトキンスとその相方のエルロイ・シュナイダー、そして二人の相手役である女性コメディアン、ベーブ・ブルーによる一座結成の顛末などがユーモラスに語られる。
後半は、探偵役であるハッチによる、各人への事情聴取。
ユーモラスな語り口はなりをひそめるのだけれど、もし後半も前半の調子で書かれていたら、うるさくて読めたものではなかったろう。
このあたりの呼吸はじつにうまいもの。
密室ができた動機にもひと工夫してあり、楽しめる一冊だった。

ところで、ユーモアと推理は両立しがたいといわれるけれど(最近はそうでもないか)それはいったいなぜだろう。
それはたぶん、情報のあつかいかたのためだろうと思う。
作者、登場人物、読者と、それぞれ情報のもちかたがちがうとして、作者と読者が知っていることを登場人物は知らないというのが、ユーモアの基本的なありかただろう。
でも、ミステリとかサスペンスは、作者は知っているけれど、登場人物や読者は知らないという状況が起こる。
そのため、ユーモアと推理は両立しがたいといわれるんじゃないだろうか。

ただ、ミステリでも、部分的には作者と読者が知っていて、登場人物は知らないという状況がでてくる。
ユーモア・ミステリというのは、この状況をうまくつくりだし、利用している作品ではないかと思う。

この本の後ろにある、アントニー・バウチャーの推薦文も引用しておこう。

「はじめから終わりまで、馬鹿騒ぎに終始するような滑稽小説でありながら、しかもこの馬鹿騒ぎのうちにちゃんと伏線があり、脈絡があって、トリック小説としても充分の面白味をもつ作品を、わたしはたった二つだけ知っていた。その一つはカーの「盲目の理髪師」であり、もう一つはアラン・グリーンの“What a Body”(「くたばれ健康法!」)である。…」

カーの「盲目の理髪師」はまだ読んだことがない。
いずれ読んでみなくては。

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ハマースミスのうじ虫

「ハマースミスのうじ虫」(ウィリアム・モール 創元推理社 2006)

訳は霜島義明。
充実した解説は川出正樹。

この本のことは瀬戸川猛資の「夜明けの睡魔」(東京創元社 1999)で知った。
読みたいなあと思っていたところ、新訳が文庫でたので即座に購入。
でも、すぐには読まず、いまになって読んでみた。
個人的には、前半傑作小説。
以下、その理由を説明をしよう。

まず、ストーリー。
主人公は、キャソン・デューカー。
もうすぐ38歳、独身でワイン商をいとなみ、豊かな暮らしをしている。
あるとき、デューカーはクラブで痛飲しているギャマンズ銀行の重役、ヘンリー・ロッキャーをみかける。
普段はそんなことをしない人物。
興味をもち、うまく話を聞きだしてみると、驚いたことに、ロッキャーは恐喝されたという。

ヨット好きのロッキャーは、ヨットを学ぶことで少年たちを更生させる施設、〈少年ヨットクラブ〉を設立しようとしていた。
その計画は最終段階に入り、あとは募金をあつめるばかりだった。
ところが、ある日、自宅に、恐喝者があらわれた。
恐喝者は、ロッキャーの日々の行動を不気味なほどよく知っており、あまつさえロッキャーのことを同性愛者だと強請ってきた。
ロッキャーは実際はそうではない。
が、そういう噂がたてば、〈少年ヨットクラブ〉の募金活動に支障が生じるのはまちがいない。
また、裁判にもちこみ、たとえ勝ったところで、噂は消えることがないだろう。
ロッキャーは、この狡猾な恐喝者に1千ポンドを払わざるを得なかった。

それを聴き、デューカーはその男を捕まえようと決意。
もともと、デューカーは人間の珍種を追いもとめるのが趣味。
恐喝者が、ロッキャーの玄関に置いてあったローマ時代の彫刻に興味をもったことを糸口に、古美術オークションから恐喝者と思われる男を尾行し、男の自宅をつきとめ、その近所の部屋を借りて、監視をしはじめる。
恐喝者を捕まえるには、恐喝を実行している最中に捕まえなくてはならない。
デューカーは、恐喝者に友人のそぶりで近づき、昼も夜も見張り続ける。

追う者と追われる者の対決小説。
デューカーが恐喝者を包囲していく過程は、ゆったりとしたタッチで、理路を通してえがかれ、じつにスリリング。
ところが、後半から視点が変わり、しばしば恐喝者の内面がえがかれるようになる。
恐喝者の動機はわかりやすく、俗っぽくて痛々しい。
読んでいると、恐喝者のほうに肩入れしてしまう。
すると、こんどはデューカーのほうが気になってくる。
裕福で、親譲りのワイン商を営みながら、経営は部下にまかせて、仕事でもないひとの監視にすべての時間を費やす男。
恐喝者を追いながら、おれはいったいなにをしているんだ、などという内省が一切ない男。
こいつはなんなのか。

解説で、川出正樹さんは、この作品のフェアプレイの精神を指摘しているけれど、それもどうだろう。
恐喝者は捕まれば絞首刑だけれど、デューカーは恐喝者を捕まえなくても失うものはなにもない。
不均衡は明らかだ。
(ただし、ラストのデューカーの振る舞いだけに着目すれば、フェアプレイに徹しているといえる。川出さんのいうフェアプレイ精神はこの部分を指すのだろう)

けっきょく、最後までデューカーの不思議な情熱には触れられない。
解説によれば、作者のウィリアム・モールは英国情報局保安部(MI5)の幹部職員だったそう。
つまり、捕まえる側のひとだった。
きっと、作者にとってはデューカーの情熱は自明のことだったのだろうと思う。
この小説は、こんな犯人がいたらいいなあという、捕まえる側による犯人願望小説といえるかもしれない。

最後まで、恐喝者の内面をえがかず、デューカーの視点でえがかれていたらどうだっただろう。
そうすれば、余計なことを考えずに恐喝者を追いかけるスリリングなストーリーを楽しめたかもしれない。
そう思うと、とても残念。
個人的に前半傑作小説だといったのは、以上のような理由。


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アニメーション美術

「アニメーション美術」(小林七郎 創芸社 1996)

初版は1986年。
手元にあるのは1996年に刊行された新装版。

よくできた入門書を読むと、たいへん興奮する。
以前、よくできたデザインの入門書である「ノンデザイナーズ・デザインブック」を読んだときも、大変興奮した(2008年に新版がでたよう)。
こんなにすごい本があるよと、周りに貸してまわった。
貸されたほうは迷惑だったろうなあと思う。

最近、興奮した入門書は「アニメーション美術」。
著者は、アニメーション美術界の巨匠。
代表作はありすぎて、どれを紹介すればいいのかわからない。
とりあえず、「ルパン3世 カリオストロの城」を挙げておこう。

アニメーションの美術というものは、考えてみると厄介だ。
まず、各作品によって、リアリティのレベルが変わってくる。
アンパンマンとジブリ作品の美術が同じというわけにはいかない。
そして、一度決めたリアリティのレベルは維持されなければならない。
また、アニメーションは集団作業だから、全体で一定の質を保たなければならない。
加えて、空想上の景色がでてくることも多い。

以上のような制約があるのだから、美術の入門書といっても、ただの絵画入門書というわけにはいかない。
では、本書はどういう方針によって書かれたか。

あるものよりないものを指摘してみよう。
まず、道具の説明がほとんどない。
この紙を、この筆で、この画材でなどといわない。
そして、この作品では、こういう意図をもって仕事をした、というような逸話や苦労話、ないしはエピソードが一切ない。
著者による製作過程の紹介といったものもない。

では、なにがあるのか。
あるのは、ものの見方だ。
この本は、終始それに徹している。
しかも、とても具体的。

はじめは、まず立方体と円柱の描きかたから。
光源を設定すると、「明暗2つの面が隣接する接点の付近は、特にその明暗が際立ちます」。
また、「周囲が暗闇でない限り、照り返しや乱反射により、反射光ができるはずです」。

それから、樹木と岩の描きかた。
「樹木を描くポイントは(枝分かれなどの)、前後関係、かみ合わせ、くい込み方を明確に意識して描き、明暗をつける」
「岩が岩らしく描けるようになるために、最も大切なことはその成り立ち、つまり岩の出来方を理解するのが描けるようになる早道なのです」

このあと、火成岩や水成岩の成り立ちが続く。
まったくもって具体的。
具体的な記述は、ほとんど詩的な表現に近づく。
これが入門書の魅力。
たとえば、大気について。

「昼間の青空は、私達の周囲にも大気として充満しています」

「幾重にも重なる青色の薄いベール、それを透して私達は物を見ているのだという考えで描けば、ベールの重なりの向こうにある遠くの物、強い太陽光にさえぎられた物かげのかすかな明るさなどは、ほのかな青味を使い分けることで表現できます」

わたしたちは青空のなかで暮らしているのだ――ということを、この文章は教えてくれる。
また、影について。

「影は、弱い光なのだと、考えるのが良いと思います」

この一文を知っていたら、影を同じ色で塗ることは避けられるだろう。
そして、はしばしに仕事への真摯な思いが記される。

「私は常々、アニメーションは作品が多くの人達に歓迎されるのだから、未熟な技術で、見る側に不快な経験を強制することだけは、なんとか避けたいと思っているのですが…」

「石ころ、岩、山、草木、建物などすべての姿に、描き手の感情を込めることで、生き物として受け止め、表現することが大切である」

読んでいて、思わず居住まいを正したくなる。
つまり、本書は技法書ではなくて、入門書。
これからも考え続けようとしているひとが、考え抜いたことだけを書いた、正真正銘の入門書だ。

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不幸な少年だったトーマスの書いた本

「不幸な少年だったトーマスの書いた本」(フース・コイヤー あすなろ書房 2008)

訳は野坂悦子。
装画、長崎訓子。
ブックデザイン、タカハシデザイン室。

本書は児童書、あるいはヤングアダルト小説。
舞台は1951年のオランダ。
主人公は9歳の少年トーマス。

ドイツ軍が去り、平和がおとずれたオランダは、同時に価値観が大きく変わり、かつての権威が揺らぎはじめるという危機に。
トーマスの父は教会や神の名のもと、家族に暴力をふるう。
そんななか、トーマスは、「あらゆることの本」と名づけたノートに、こう書きつける。
「大きくなったら、ぼくは幸せになる」
……

本書は、父親の圧制から家族と自分をとりもどす、トーマスの物語。
とにかく、語り口がこっている。
まず、舞台となる1951年オランダの状況がさっと説明される。
「教会が認めた教えを、かたくなに守ることで、心のバランスを保とうとする人もいたのです」

つぎに、「物語が始まる前に」というタイトルのまえがき。
ここのところは現代。
作者が、大人になったトーマスの訪問を受け、トーマスが9歳のころ書いていた「本」をみせてもらい、その「本」をもとにこの物語ができたという顛末が語られる。

で、いよいよ本編。
トーマスが書いた「本」がもとなのだから、トーマスの一人称だろうと思うと、そうではない。
3人称トーマス視点でえがかれる。
ときどき、「トーマスは『あらゆることの本』に書いている」という文章が挿入され、その内容が記される。
(この呼吸は、タブッキの「供述によるとペイレラは……」を思い出させた)

3人称トーマス視点の書き方もかなり自由。
トーマスが、憧れの女の子のエリザにキスしてもらった場面はこんな風。
「喜びのあまり跳びはねると、驚いたことに、ふわりと二メートルも宙に浮いてしまった。トーマスの体は、そのぐらい軽くなっていたらしい」

それに、トーマスはときどきカミさまと話をする。
「ぼくたち、あなたのことなんて、あまりたよりにしてないんです」
なんていったり。

それからまた、幻想的な描写が多々ある。
いちばんは、エジプトの災いよろしく、カエルが何万匹も通りを歩いていく場面。
でも、幻想的な描写はつねにトーマスがひとりのときに起こるところがミソだ。

それにしても、なんで作者はこんなにこった語り口をつかったのか。
それはたぶん、扱っている題材がデリケートなため、告発小説のようにしたくなかったためだろう。
トーマスが、イニシアティブをとって行動する場面をえがかず、つねに受身でいるような書きかたをするのも同様の理由からにちがいない。

(実際にはトーマスはいろいろ行動を起こすのだけれど、行動している最中が書かれることはない。つまり、作者とトーマスとのあいだに少し隙間ができるようにこの小説はつくられていて、それが軽みのある印象ももたらしている)

トーマスは、となりのファン・アーメルスフォールト夫人や、エリザや、母さんや、マルホツト姉さん、それに夫人に貸してもらった「エーミールと探偵たち」などのおかげで、父さんに対抗する力をたくわえていく。

こっているのに、語り口は安定している。
幻想的かつユーモラスな手つきで、シリアスな題材をあつかっている。
最後まであっというまに読めて、強い印象を残す。
薄いけれど、大変な本だ。


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