電脳巡警 その3

2巻目は、シリーズ中最長編である「ガースン・リターンズ」を収録。
2巻だけでは終わらず、3巻に少しこぼれている。

内容は、隠したカネを奪い返そうとする脱獄囚及びその一味と、カンたちの攻防をえがいたもの。
では、ストーリーを詳しくみていこう。

まず、海上に建設された刑務所で、645年の刑期をもつバリー・ガースンが房の移動を命じられるところから、物語はスタート。
この刑務所は完全民営化されている(らしい)。
財政は予断を許さぬ状況だが、囚人(プリズナー)・リーグなどの興業収益により好転しつつある。
しかし、なんといっても効果的なのは、仮出所を増やしたこと。
だが、個人情報管理のチェック項目増大のため、職員は昼食抜きで仮出所作業に追われるはめに。

「省力化というのは残った人間が忙しくなることをいうらしいな」

と、ぼやく職員たち。
仮出所する囚人たちには、足首にリングがはめられる。
このリングにより、囚人たちの現在地はたちどころにわかる仕掛けになっている。
また、重要施設の出入りおよび、市から出るさいは、チェック機能がはたらく。
リングは生体結合しており、無理に外そうとすると、免疫系が損傷し、生命にかかわることになる。

──という訳で。
仮出所というかたちで、バリー・ガースンはぶじ出所。
とはいえ、645年の刑期をもつガースンが、仮出所などできるはずがない。
内実は、ガースンの仲間が、仮出所する予定の別の囚人とガースンの個人データを丸ごと入れ替えたのだ。
出所したガースンは、仲間たちと合流。

この場面、どうやって刑務所のデータバンクをいじったのかは書かれない。
このあたり、マンガや映画といった、ヴィジュアル中心のメディアの特権だろう。
小説だったら、なかなか省略しづらいところだ。

場面は変わって、射撃訓練中のカンとバルへ。
カンの射撃の腕はいまひとつ。
というのも、カンは、亡くなった先輩であるブラッドが教育課程をすっとばして強引に署に入れたからだ。
と、さりげなくキャラクターに触れられる。

その後、駐車場でバルが、通りがかった車から多数の銃弾を受ける。
たまたまバルだからぶじだった。
銃弾を解析すると、3年前の銃撃戦のさい、同じ銃から発射された弾丸があることがわかる。
銃のもち主は不明。
そのギャング団との銃撃戦では、ボスのバリー・ガースンが逮捕されている。
現在、セントポーゴ島の刑務所で服役中。
カンは、ガースンをよく知っている。

「ぶちこんだのは俺とブラッドだ」

しかし、なぜいまごろ仕返しにきたのか。
カンとバルは、ギャング団の残党の資料を収集。
刑務所にいるはずのガースンに面会を申しこむ。

一方、カンを始末したと思っているガースン一味は、廃屋のような部屋で今後の打ち合わせ。
ガースンの足首にはめられたリングには、シールドを巻いた。
これで、よほどセンサーに近づかなければ大丈夫。

さて、一味が3年前にあつめたカネは、現在、計1ダースの電波使用圏のかたちでバンキングされている。
プルトニウムの先物取引などは、すでに第3世界でももて余し気味だが、その点チャンネル使用権はまだ上がる。
特に、グローバルネット3チャンネルの使用権は大きい。
どこかの街くらいは買える金額だ。

しかし、使用権を換金するためには、行政府がバンクに入れた3人の監査官の目をごまかさなければならない。
具体的には、監査官の指紋が必要──。

場面は、刑務所と通信するカンへ。
モニターには、ガースンと似ても似つかない男が映っている。
しかし、名義上はまちがいなくガースン。

刑務所の責任者も現状は理解している。
全力を挙げて囚人のデータを洗い直しているが、どの程度の規模で改竄がおこなわれたのか、全貌がつかめていない。
もし、システムにトラブルが生じたとなれば、全囚人の服役が疑われてしまう。
各企業警察との信用問題は、刑務所の財政に深刻な影響をおよぼす。

「個人的にはすまないと思っている。だから、極秘事項を明かしたのだ。ぜひ犯人を捕まえてほしい」
と、刑務所責任者。

「おれたちだけでってことね」
と、カン。

「仮出所者と入れ替わって出所したのなら、足首にリングがつけられているはずでは」
という、バルの質問に刑務所責任者はこたえる。
リングはこちらの呼び出しにも応じない。
無理にはずそうとすれば、緊急信号が発せられるし、免疫系が損傷される。
おそらくなにか効果的なシールドを使用しているのではないか。

カンは、3年前にガースンと一緒に捕まえた一味の下っ端、ウィリーに目をつける。
もし、いまも一味とかかわってたら、こいつの尻尾がつかみやすいはずだ。

それから、カンはバルをつれて、とある高級酒場へ。
マダムのサラに面会をもとめる。
サラは、ガースンの女だった。
ガースン一味からなにか連絡はないかというカンの質問に、サラは名前も聞きたくありませんとこたえる。

さて、ウィリーは実刑をのがれて、ダウンタウンで調理師見習いをしていたものの、長くは続かなかった。
その後の勤務先である酒屋にカンとバルがいってみると、とっくに姿をみせなくなっている。
で、2人はいつもの盗聴おじさんのところに。

「俺は警察のボランティアじゃないし、ガースン一味にはかかわりたくない」

とゴネるおじさんを、カンとバルは実力行使によって協力させる。
このストーリーの要約ではトバしているけれど、この作品はユーモラスな場面が多々ある。
この場面もそうだ。

それから、ストーリーのはしょりっぷりがじつに見事。
酒屋を訪ねたカンとバルの場面は、たった2ページだ。

一方、ガースン一味。
サラの酒場のVIPルームでは、監査官の一人、ワルター・ロスマンが接待を受けているところ。
その様子をモニターでみながら、「しかし、ずいぶんと開けづらいサイフになったもんだ」と、一味はぼやく。
自動投機システムのなかにつくった隠しループは、監査官の連中にはまだみつかっていない。
隠しコマンドを送れば、いつでも作動してブツを市場にだし、カネに換えることができる。
しかし、それをするには3人の監査官の指紋がいる。

サラがロスマンを薬で眠らせ、そのあいだに指紋を採取。
ぶん殴ってさらってしまえば簡単だが、気づかれてカギが変えられてしまえば元も子もない。

「こういうのこれっきりよ。あなただって仮出所中じゃない」

と、去りぎわ、ガースンにサラが告げる。


――以下、続きます。


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絵本が目をさますとき(承前)

「絵本が目をさますとき」(長谷川摂子 福音館書店 2010)

さて、この本の内容について──。

24章から成っていて、全編、K子ちゃんという新米のお母さんからのお便りに著者がこたえるという仕掛けになっている。
そのためか、文章は語りかけるように柔らかい。
加えて、著者の子育てや、保育園での勤務、家庭文庫での経験をふくよかに披露してくれる。
本書に評論集ということばがふさわしくないと思うのは、この文章のため。
じつに得難い文章だ。
前半は特にそう。

でも、後半、著者がいう「長新太・スズキコージ問題」にとり組むあたりから、文章が理屈っぽくなってくる。
みずみずしさを失い、固くなり、こわばり、とっ散らかってくる。

この本がどんな内容をもっているかは、K子ちゃんの質問を引いてくるのがいいかもしれない。
K子ちゃんが訊いてくるのは、たとえばこんなことだ。

「1歳の男の子にどんな絵本を読んであげたらいいでしょう」
「絵を手でつまんで遊んでいたら、近所の家庭文庫を長く続けている人に、「絵本でままごとなんかしちゃいけません」といわれました」
「歌や詩の絵本ってどう読んだらいいのでしょうか」
「物語のある絵本にどう橋渡ししたらいいのでしょう」
「ユーモアやナンセンスがわかるってどういうことですか」
…………

などなど。
どの質問にも、著者は自身の経験を土台にしながらよくこたえる。

後半、本からふくよかさが消えるのは、著者が「長新太・スズキコージ問題」や「童画問題」、「アンパンマン・ノンタン問題」について、壁に頭を打ちつけるようにして考えはじめるからだ。

それにしても、「アンパンマンやノンタンを絵本としてどう評価するか」という問題に手をつけたのは、本当に素晴らしい。
おかげで、アンパンマンやノンタンの評価のむつかしさがよくみえてきた。
これらの絵本の評価がむつかしいのは、絵本についての体験と美意識とのあいだにへだたりがあるためだと、よくわかった。

著者は、自分の子どもたちにノンタンを読み聞かせて、子どもともども、とても楽しんだそう。

「「ノンタンぶらんこのせて」は構成、文章ともに、子どもらしい心理をよくつかんだ傑作だと思います」

けれど、いまは手放しではほめられない。

「ノンタンの絵は、ばらばらのイメージの寄せ集めではありませんが、絵から立ちのぼる上質の音楽や香りが感じられません」

ところが、講演会で著者がノンタンの絵を批判したところ、あとで初老の婦人がやってきて、「孫の誕生日に「ノンタン」を買ってやろうと思っていたんですが、やめます」というと、著者は反対する。

「私は即座に「やめないでください。絵のよさよりもおばあちゃんとお孫さんが楽しい時間をもてるかどうかの方がずっと大切ですから。絵についての私の意見ぐらいで「ノンタン」の楽しみを簡単にひっこめないで」といいました」

いっていることとやっていることがちがう。
このあたりが、ノンタンやアンパンマンを評価するときのむつかしさだろう。

さて、ところで、子どもはノンタンやアンパンマンのどのへんが好きなのか。
「自動車や電車が好きなのと同じように、アンパンマンが好きなのではないか」
と、著者は考える。

「子どもにとって大切なのは、絵に描かれている主人公に感情移入できるかどうかであって、絵全体は、物語の進行にともなう状況が読み解ければ充分なのです」

というわけで、大人と子どもの好みにはギャップがある。
では、大人が子どもに、「上質な音楽や香りが感じられる」絵本を読み聞かせる、その根拠はなんなのか。
物語の進行を読み解ける絵が描いてある絵本を読んでやれば、それで充分なのではないか。
この疑問にたいし、著者はこうこたえる。

「私が好きな絵本を選ばなければ、読むのに気合いが入らず、態度がいいかげんになってしまう」

「私を酔わせる絵の力が子どもに無力であるはずがない」

──これは居直りというものだろう。
しかし、これがなければどうしようもないし、なにもはじまらなというたぐいの居直りだ。
大げさにいうと、絵本を読む現場から生まれた戦訓であり、真理。

それから、絵本の登場人物のキャラクター化について。
風景がおざなりに描かれていて、絵としての統一感にとぼいしいアンパンマンは、キャラクターになりやすい。
しかし、ノンタンはキャラクターになれないのではないかと著者は指摘する。

「物語の吸引力が強い分、ノンタンを絵本から単独に引き剥がしにくいのではないでしょうか」

「それに、物語にそって表情が変化しすぎるのも、キャラクターになりにくい一因ではないかと思います」

では、ミッフィーちゃんとなった、ブルーナの「うさこちゃん」はどうか。
ブルーナの絵本には、「幼い子の心をときめかすストーリーのダイナミズム」がいまひとつ。

「そうなると、物語世界の背景を色濃く背負わない「うさこちゃん」が、かわいさとセンスのよさで、絵本から剥がれ落ちてキャラクターになるのもむべなるかな、です」

ところが、著者の娘さんは、うさこちゃんがミッフィーちゃんというキャラクターになっているのをはじめてみたとき、「うさこちゃんが遠いところに行ってしまったような気がしてショックだった」と述べたそう。
ひょっとしたら、ブルーナの絵本にある「上質な」なにごとかが、娘さんに届いていたのかもしれない。
そして、こう思ったひとは案外ほかにもいるのではないか。

というわけで。
先にもいったけれど、本書の後半はまとまりが悪くて読みにくい。
でも、絵本を──特にノンタンやアンパンマンといった絵本を──どう評価するかといった問題をとりあげている、大変誠実な本だ。
個人的に大いに興味がある問題がだったので、これがとりあげられていたのは嬉しかった。
絵本を評価する視点というかモノサシについて、考えさせてくれたのもありがたい。

読みにくさも、今後何度も同じことを語っていけば、自然に論点が整理され、読みやすくなるだろうと思っていた。
でも、著者にその時間は残されていなかった。
そのことだけが、本当に惜しい。


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