HP更新

ひさしぶりにHPのメモを更新。
今回は、スティーヴンスンの「新アラビア夜話」(南條竹則・坂本あおい訳 光文社 2007)と、「自殺クラブ」(河田智雄訳 福武書房 1989)の訳を並べてみました。

今年の更新はこれが最後。
皆様、よいお年を。
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トリスタンとイズー

「トリスタンとイズー」(ローズマリー・サトクリフ 沖積舎 1989)

訳は井辻朱美。
表紙の挿画は山田章博。

「トリスタンとイゾルデ」の再話。
ただ、この伝説につきものの愛の薬ははぶかれている。
それについて、作者はまえがきでこう弁明している。

「トリスタン」はそもそもケルトの伝説。
おなじ形の恋物語として、「ディアルミッドとグラーニャ」や、「ディアドレとウスナの息子たち」があるが、どちらも愛の薬はでてこない。

「わたしが思うには、中世の物語作者は、イズーが人妻であるにもかかわらず、トリスタンと愛し合うことへの言い訳として愛の薬をつけ加えたのではないでしょうか」

「でもこうすると、わたしには、彼らの中に存在していた真実でなまなましいもの、彼らの一部であるものを、魔法薬の一種を飲んだ結果という人工的なものに変えてしまう気がするのです」

さて、内容はトリスタンの一代記といえるもの。
出生のいきさつから、コーンウォールに渡り、叔父のマルク王のもとへ。
アイルランドの勇者モロルトと一騎打ち。
傷を負うが、偶然がかさなり、たがいに名も知らぬままイズーの薬で治癒。
アイルランドで竜退治をし、手柄を横取りしようとした王の家令を裁判でやっつける。
ほうびに、マルク王のためにイズーをもとめ、コーンウォールに連れて帰り、そこであやまちが…。

訳文は固く、武骨な感じで、それがこの物語によくあっている。

「多くのトリスタン異本の中にあって,サトクリフの物語はどこかしら不機嫌で重苦しく、一本気」

と、訳者の井辻さんは、あとがきで述べているけれど、これは愛の薬をとりのぞいた代償かもしれない。
何度も何度も、はなれては引きあう二人は、自分たちの運命にうんざりしているようにも見える。

簡潔な文章なのだけれど、たたかいの場面は迫力があり、逢引の場面は官能的。
それから、古い物語を思わせる比喩が面白い。
若き日のマルク王について、「王冠の重みもまだ額に新しいころ」。
イズーの髪は、「熱した銅のように赤く輝く髪」。
その唇は、「ジギタリスの花ように赤い」。

また冒頭、マルク王の名はコーンウォールの古い言葉で馬をさすと語られる。
つづけて、「かれの耳が馬の耳であったという風説もあるが、それは真実ではない」。
これは、マルク王についての伝説の目配せだろう。
こういう箇所がいたるところにある。
もとの話を詳しく知っていれば、それだけ楽しめそうだ。

伝説をたくみに寄りあわせて、一本のストーリーに仕立てあげる作者の手腕には感服。


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宇宙をかきみだす

「宇宙をかきみだす」(R・S・トライツ 人文書院 2007)

吉田純子監訳。
副題は「思春期文学を読みとく」。
思春期文学の批評という、いまのところほとんど類書のない本。

「思春期文学」とは、広い意味でのヤングアダルト文学のこと。
こうすると、「若草物語」も範疇に入ってくる。

タイトルは、T・S・エリオットの詩「アルフレッド・プルーフロックの恋歌」から。
コーミアの「チョコレート・ウォー」でつかわれたこの語句を、タイトルに用いたよう。

ぜんたいに、「思春期文学」についての文学批評というつくり。
「思春期文学は権力についての物語だ」という定義から、「思春期文学」にあらわれる権力関係を、いくつもの文学理論を援用して批評的に読みといていく。

以下、気になった文章のメモを。

「思春期文学のおもな目的は、成長の描写にあるようにみえるかもしれないが、このジャンルでの成長は、若者が力について得る認識と必ず結びつけて描写される。若者は権力(力)と無力さとのあいだで、段階的に変化を経験してはじめて成長できるのである」

「思春期文学と児童文学を峻別するおもな特徴は、物語の進展するなかで社会的な力がいかに使われているかという点である」

「YA小説の関心は成長をうやうやしく描くよりも、社会での個人のありようを吟味することにある」

「おおかたの思春期文学には、ある種の教訓性への衝動がみられる。成長というテーマに比重をおく文学のなかで、人間の成長を道徳的に語りたい衝動にさからえる作家はほとんどいない」

「だから思春期文学は、たとえどんなに婉曲的に表現されていたとしても、教訓的で明白なイデオロギーに満ちている」

「思春期文学の究極の目的は、若者に若者であることをやめるように教えることである。それがほんとうなら、このジャンルはじつに暗鬱たるものである」

「YA小説がセクシュアリティを快楽と描くか否かに関係なく、若者にとって、セクシュアリティの描写そのものが権力の磁場である」

「成熟をセクシュアリティと結びつけるこの傾向には、若者を教え導きたいとの衝動がみられる」

「思春期文学では「シャーロットのおくりもの」や「時をさまようタック」のような作品でめだつ円環のイメージはほとんど使われない。というのも、教養小説の形式では成長を直線的にとらえるプロット、つまり死が直線の終始点にあるようなプロットがどうしても必要とされるからである」

「思春期文学では、主人公が死の絶対性を受け入れ、みずからが死に向かう存在だと認めるときに、死が成熟という観点から描かれる」

「(フランチェスカ・リア・ブロックの)「ウィーツィ・バット」は明白なイデオロギーとして、社会があらゆる恋愛関係を受け入れること、「いつも愛の流れにプラグを差しこむこと」を熱心にすすめている」

「しかし、暗黙のイデオロギーとしては、現状を肯定している。というのも、ブロックは、たとえジェンダーや性指向がちぐはぐであったとしても、最後に登場人物全員を2人ずつカップルにおさめるまで気がやすまらないからである」

……

不思議に思うのだけれど、なぜこのジャンルの小説を読む歓びについて語られていないのだろう。
批評的であると同時に、歓びについても語ったほうがよかったのではないかと思った。


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「たら本」感想戦とバカバカしい本大量追加

「たら本」第40回を主催した感想を。

まず、閲覧数。
普段、当ブログは多くて1日100PVくらいなのですが、「たら本」をアップしたら、瞬間風速的に400台に。
これには、びっくりというか、正直びびりました。
「たら本」恐るべしです。

テーマの「バカバカしい本」は、いま思うとぜんぜん一般的じゃないですね。
いくらでも思いつくひともいれば、苦戦するひともいたようで、これには恐縮です。
でも、依頼を受けたときすぐ思いついたのがこれでした。
で、こんな機会は2度とあるまい、やってしまおうと。

第23回のテーマとかぶっているので、そのとき書いた記事をトラックバックしてもいいですよとの提案には、いまのところ新しい記事だけ。
考えてみたら、本好きでブログをやっているようなひとは、つねに新しい本を紹介したいんですよね。
前はこの本を紹介したけど、今回はこの本だと。
いや、うかつでした。
でも、新しい記事に以前の記事をリンクしてくれたかたもいて、その記事を読めたのは個人的にとても嬉しかった。

「たら本」主催者のOverQさんが、コメントでジャンル論を書いてくれたのも興味深いことでした。
それで気づいたのは、どうも自分の頭のなかは、「バカバカしい本」と「そうじゃない本」くらいの区別しかないらしいぞ、ということ。
ミステリとかSFとか文学とかは、「バカバカしい本」のサブジャンルくらいにしか思っていなかった。
われながらびっくりです。
どうりで、いままでひとと話があわないと思った。

あるテーマに答えやすいかどうかは、普段どんなキーワードで本を読んでいるかにかかわってきそうです。
いままでの「たら本」のテーマには、思いもかけなかったものもあるので、ちょっと考えてみようかなと思案中。
自分になにが足りないのかわかるかも。

コメントやトラックバックの参加は、まだまだ受けつけています。
当ブログの過去の記事でもオッケーですよ。
今回は、貴重な経験をさせていただきありがとうございました。

さて。
お話変わって、バカバカしい本の追加。
きりがないので、このくらいに。
ひとことコメントをつけましたので、参考にしていただければ幸いです。


「火星人ゴーホーム」(フレドリック・ブラウン 早川文庫 1979)
 もしフレドリック・ブラウンのSF短篇を気に入ったかたがいらしたら、ぜひこの長篇も読んでほしい。
 その傑作たるゆえんは、たしか小林信彦さんが「小説世界のロビンソン」で書かれていたはず。

「ドジリーヌ姫の優雅な冒険」(小林信彦 文春文庫 1980)
 その小林信彦さんもバカバカしい作品を書いていて、なかでもこれが好き。

「予期せぬ方程式」(横田順彌 双葉社 1984)
 ヨコジュンさんの作品も取り上げたい。
 表題作は、宇宙船のトイレで寝ていた博士が、出航後めざめ、自分から船外にでるというもの。
 〈冷たい方程式〉を完璧にクリアした作品として記憶に残っている。

「蕎麦ときしめん」(清水義範 講談社文庫 1989)
 清水義範さんも取り上げたいので、とりあえずこれを。

「木村家の人びと」(谷俊彦 新潮社 1995)
 非常に密度の高い短篇が3本収録。
 そのうち2本が映画化されているのに文庫化されていないよう。

「新しい天体」(開高健 光文社文庫 2006)
 あまった予算を使い切るため「景気調査官」に任命された主人公が、ひたすら食べ歩くという小説。
 饒舌体が圧巻。

「つみつみニャー」(長新太 あかね書房 1978)
 長先生は童話も書いている。
 長新太の最高傑作はこれだというひともいるナンセンス童話。

「夢酔独言」(勝小吉 平凡社 1969)
 東洋文庫の一冊。OverQさんが「金谷上人行状記」を取り上げられていて思い出した。
 著者は勝海舟のお父さん。坂口安吾がこんな男らしい男はいないと激賞した人物。
 じつは未読なのだけれど、なんだかバカバカしいニオイがする。
 手ごろなダイジェストなら「古人往来」(森洗三 中公文庫 2007)で読むことができる。

「エッフェル塔の潜水夫」(カミ ちくま文庫 1990)
 ずいぶん前に読んだのでストーリーを忘れてしまったけれど、楽しかった感じをおぼえている。
 たしか、大阪弁に訳されたフランス人がでてきたと思った。

「キャナリー・ロウ 缶詰横丁」(スタインベック 福武文庫 1989)
 3人称多視点で、視点がよく変わり、ぐっとくるバカバカしさ。
 ヴォネガットをはじめて読んだとき、この小説を思い出した。

「テーブルはテーブル」(ペーター・ビクセル 未知谷 2003)
 スイスの作家の短編集。奇妙な前提を維持したまま、奇妙な物語が展開していく。
 バカバカしくも、もの悲しい名品。

「マルクス・ラジオ」(いとうせいこう監訳 角川書店 1995)
 マルクス兄弟のラジオ・コント集。
 手元にほしいと思っているのだけれど、まるでみかけない。

「俺はその夜多くのことを学んだ」(三谷幸喜 幻冬舎文庫 1999)
 ワン・シチュエーションから面白さを存分に引き出している。
 編集がまた絶妙。  

「真面目が大切」(「ワイルド喜劇全集」所収 新樹社 1976)
 名高い作品だけれど、最近読んでその面白さにびっくり。
 新潮社文庫よりこの全集の訳のほうが気に入った。

「牛への道」(宮沢章夫 新潮文庫 1997)
 エッセイ集。体験の面白さではなく、考察の面白さ。
 たしか「おんなじ缶しかでてこない自販機」の話はこの本の前書きだったと思う。

「怪奇版画男」(唐沢なをき 小学館 1998)
 マンガ。全編版画による前代未聞の書。そのバカバカしい労力。

「極楽町一丁目 嫁姑地獄篇」(二階堂正宏 ソノラマコミックス 2007)
 嫁と姑の本格ナンセンス格闘マンガ。
 これを読んで笑わなかったひとを見たことがない。

「宇宙探査機 迷惑一番」(神林長平 光文社文庫 1986)の火浦功の解説
 最後に、火浦功のファンとしてこれを取り上げたい。
 早川文庫で復刊されたさい、この解説を収録しなかったのは大変な手落ち。


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たらいまわし本のTB企画第40回 こたつで読みたいバカバカしい本(再掲)

たらいまわし 本のTB企画、第40回目は、「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんからご指名をいただき、タナカが主催させていただきます。

「たら本」総元締めのOverQさんには、素敵なバナーをつくっていただきました。
やっぱり、こたつには猫とみかんですよね。

たらいまわし本のTB企画、略して「たら本」とは」とは、毎回交代で主催者がテーマを決め、それにそったオススメ本を自分のブログで紹介し、主催者や参加者の記事にトラックバックしていく、というもの。

今回のテーマは、「こたつで読みたい、バカバカしい本」

このお正月に、こたつに入ってごろごろしながら読むのにふさわしいような、のんきで、バカバカしい本を挙げていただければと思います。

テーマ的には、第23回の「笑う門には福来たる! “笑”の文学」とかぶっているのですが、この回は残念なことにリンク切れ。
なので、第23回のときに書いたブログを、こちらにまたトラックバックしていただいてもいいと思います。
よい本は何度となく紹介しなくては。 

さて、今回えらんだ本は10冊。

 

「ニワトリはいつもハダシ 両A面」(火浦功 朝日新聞社 2007)
ソノラマノベルスの一冊。

「好きな作家は誰ですか?」
と、いう質問をうけたときの答えは、相手や、そのときの気分で、いろいろと変わる。
山本周五郎も好きだし、ガルシア・マルケスも好き。
ウェストレイクも好きだし、吉田健一も好き。
でも、じつは一番好きな作家は決まっている。
火浦功だ。

火浦功は、火浦小説としかいえないような、じつに不思議な小説を書く。
その小説は、どれもたいていバカバカしい。

バカバカしい話は、度がすぎると殺伐としてくる。
また、作者が登場人物を過度にバカにしたり、登場人物が作者に言及したりすると、小説がうるさくなってくる。
しかし、火浦功の書く小説は、そうはならない。
これは途方もないことのように思う。

火浦功の小説の、なにを紹介してもいいのだけれど、今回は最近復刊された「ニワトリはいつもハダシ 両A面」にした。
両A面というのは、雑誌掲載時の作品と、その後出版され、今回新たに加筆修正がほどこされた補完版が同時収録されているため。
じつにマニアックなつくりで、ファンとしてはとてもうれしい。

火浦功の小説は、だいたいなにかのジャンルを下敷きにしているから、そのジャンルについて知っていないと親しみにくいかもしれない。
その点、ハードボイルド物のコメディ作である、「俺に撃たせろ!」(徳間書店 2001)などは、敷居が低いほうかも。
忘れんぼう探偵、アルツ・ハマーが活躍する快作だ。

短篇では、「奥さまはマジ」(角川書店 1999)もオススメ。
外国で新婚生活をおくっている娘が、ゲリラ軍を引き連れ突如帰国。
実家を舞台に正規軍と交戦するというストーリーが、比類ないテンポで語られる。

私見では、最高傑作は「丸太の鷹」(角川書店 1992)だと思っている。
これもそのうち復刊されるかもしれない。

火浦功には根強いファンがいるらしく、近所の書店ではいつも平台に置かれている。
売れて冊数が少なくなると書架に入れられるのだけれど、発注をするようで、また平台にもどっている。
「ニワトリはいつもハダシ」の復刊も20年ぶりだ。
いま世にでている本で、いったいどれが20年後に復刊されるだろう。
そう思うと、やはり火浦小説にはなにかあるのだと思わざるをえない。

こんどのお正月には、「ニワトリはいつもハダシ 両A面」を読んで楽しむつもりだ。

 

「沢蟹まけると意志の力」(佐藤哲也 新潮社 1996)

この本は図書館のリサイクルブックでみつけた。
きっと、だれも借りなかったんだろうと思う。
いまネット書店で検索してみたら、絶版になっていた。
売れもしなかったにちがいない。

でも、バカバカしい小説が好きな身にとっては、取り上げておきたい一冊だ。

ストーリーは奇想天外。
沢蟹から生まれた人間の子、沢蟹まけるは沢蟹たちの期待を一心に背負い成長。
なんの因果か、世界征服を企む株式会社マングローブの手により改造手術をほどこされ、正義の味方カニジンジャーとなる。

といっても、この主人公は驚異的に無気力なので、ほとんどなにもしない。
この本筋と平行して、「意志の力」に関するさまざまなエピソードが、駆動力のある文章で、くり返し語られる。

つまりこれは、小説に人間関係なんかいらない、くり返しさえあればいいのだ、といったタイプの小説。
喜劇ではなく、笑劇的作品といえるだろうか。
一般的にこういった小説は読まれにくいけれど、ラファティが読めるひとならいけるのではないかと思う。

 

「大日本帝国スーパーマン」(北杜夫 新潮社 1987)

いま調べてみたら、これも絶版だった。
妙な本ばかり紹介してすいません。

これはタイトルどおりの内容。
日本にもスーパーマンがいた。
カーキ色のマントで空を飛ぶ、宮本武兵衛老人がそのひと。
折りしも時代は、太平洋戦争末期。
軍にスカウトされた宮本老人は、大日本帝国スーパーマンとなり、アメリカのスーパーマンと激闘をくりひろげる。

宮本老人は、忠君愛国の士にして男尊女卑のひととしてえがかれる。
いっぽう、アメリカのスーパーマンは、酒を飲み、麻薬をやり、女と遊ぶ始末。
宮本老人がなかなか手ごわいと知ったアメリカ・スーパーマンは、火炎放射器やバズーカ砲、ついにはクリプトン星人の弱点であるクリプトナイトまでもちだしてくる。
ひょっとすると、ここになにかの寓意があるのかもしれないけれど、面倒だから考えない。

この本には、あと2篇、「銭形平次ロンドン捕物帖」と、「新大陸発見」が収録。
「銭形平次ロンドン捕物帖」は、銭形平次がシャーロック・ホームズと共演する話だ。

 

「オペレッタ狸御殿」(浦沢義雄 河出書房新社 2005)

河出文庫の一冊。

鈴木清順監督による映画のノベライズ。
映画は未見。
脚本を書いた浦沢義雄さんが、この小説も書いている。
浦沢さんについては、「ルパン3世 パート2」で、「ネコとカツオブシの話を書いたひと」といえば、あのひとかあと、わかるひともいるかも。

舞台は戦国時代。
がらさ城の城主、安土桃山は、息子である雨千代の美しさをねたみ、快羅須山への追放を部下に命ずる。
が、命令遂行の途中、快羅須山のふもと狸ヶ森で、雨千代は唐国からきた狸姫と出会い恋に落ちる。
ところが、恋のために美しくなった狸姫もまた、安土桃山から命を狙われることに…。

脚本のト書きのような、短い、即物的な文章がやけに可笑しい。
おなじ作者の「たまご和尚」(リトル・モア 2003)も最近読んでみた。
「平妖伝」を翻案したもので、やはりかなりのバカバカしさだった。

 

「天使と宇宙船」(フレドリック・ブラウン 東京創元社 1965)

訳は小西宏。
創元推理文庫の一冊。

前回のkazuouさんのたら本のテーマは、「夢見る機械」だった。
この本には、ちょうどそんな機械がでてきて、なおかつバカバカしい短篇が収録されている。
「諸行無常の物語」という作品がそれ。

この作品にでてくる機械は、ライノタイプ。
「タイプライター型をして、植字と鋳造をかねている機械」、だそうだけれど、正直うまく想像できない。
印刷機の親戚みたいなものだろうか。

このライノタイプ、妙な男がつかってから、かってなことをはじめるようになる。
最初は、誤字を直すくらいだったのが、どんどんエスカレート。
ついには人格をもち、権利を要求しはじめる。
オチがじつにバカバカしい。

この本には、名高い「ミミズ天使」も収録されている。
フレドリック・ブラウン以外、だれがこんな話を書くだろうという、最高にバカバカしい一篇だ。

「ミステリーの書き方」(アメリカ探偵作家クラブ 講談社 1998)に、フレドリック・ブラウンの変わったプロットのつくりかたが載っていたのでメモを。

まず、基本的なアイデアが固まると、近くのバス・ターミナルにいき最初に出発する大陸横断バスに乗る。
何日も何時間もバスにゆられているうちに、ストーリーがふくらんでいく。
これでよしとなったら、家に電話して、いまから帰るよと告げる。

 

「銀行は死体だらけ」(ウィリアム・マーシャル 早川書房 1998)

訳は仙波有理。
ミステリアス文庫の一冊。

香港を舞台にした警察小説。
とある銀行で、行員全員が死体で発見された。
死因は毒入りシャンペンを飲んだため。
乾杯しながら、集団自殺でもしたのだろうか?
他殺なら、いったいだれが、なんのために?

ミステリとしてよくできている。
ただし、記述はいちじるしくユーモラスで、展開はキテレツ。
にもかかわらず、事件の背景は社会派。
ひとことでいうと、抜群に面白い。

ユーモラスな記述の例をあげよう。
オーデン警部補は、飛び降り自殺志願者を押し戻すため、ビルの18階の外側に立たされることになる。
そのさい、鳥よけのため金属バットを渡されるのだけれど、それを魚と勘違いしたカモメ4万羽の強襲をうけるはめに。
そのカモメたちの描写はこう。

「このカモメ、ぜんぶで4万羽のこのカモメたちは、カモメ界のヘルズ・エンジェルス、脇の下が毛むくじゃらなタフなカモメ、魚市場の岸壁に寄ってきた2万トンの日本のトロール船を沈めて、船員を生で食べたあと、鉄塔のうえにすわって葉巻をふかし、ディーゼル燃料をストレートで飲むワルなカモメだった」

脇の下が毛むくじゃらなカモメって一体…。

オーデンは、自殺志願者たちを金属バットで殴り倒しながら、このカモメ界のアッティラと死闘をくりひろげたのち、友情を育むようになる。

巻末の直井明さんの解説によれば、この作品は、〈黄線街〉シリーズというシリーズ物の一冊だそう。
ほかの本も訳されないかとずーっと待っているのだけれど、そんな気配はいっこうにない。

 

「パルプ」(チャールズ・ブコウスキー 学研 1995)

訳は柴田元幸。
新潮社文庫からもでているけれど、ハードカバーの装丁のほうが好きなので、絵はこちらにした。

主人公は、史上最低の私立探偵、ニック・ビレーン。
一見、ハードボイルド物なのだけれど、中身はムチャクチャ。
冒頭から、死んだはずのセリーヌをみつけてくれと、女の死神が依頼してきたりする。
1時間6ドルで仕事を引き受けたビレーンは、捜査と称して競馬をしたり、酒場にいったり。

ビレーンのいくところ、つぎつぎイカレた事態が起こるのだけれど、にもかかわらず統一感がそこなわれていないのは、いつも人生の虚しさを語るビレーンの語り口のためだろうか。
愁いのきいたバカバカしさ、とでもいいたいものがここにある。

 

「沢野字の謎」(沢野ひとし、椎名誠、木村晋介、目黒孝二 本の雑誌社 2000)

「ストーブとコタツどちらがエライか」などといったテーマを熱く語りあう、「発作的座談会」シリーズは、どれもくつろいで楽しめる好著だ。
紹介するのは、シリーズのどれでもいいのだけれど、今回はこの「沢野字の謎」にしてみた。

雑誌「本の雑誌」の表紙には、沢野ひとしさんによる意味不明のコピーが書かれている。
これには、ボツになったたくさんのコピーがあるそう。
それらのコピーを一堂にあつめ、各ブロックに分け、リーグ戦から決勝トーナメントへと、徹底討論のすえ最強コピーを決定したのが本書。

たたかいは意外な展開をみせ、最後にいたってはなぜか感動までおぼえる。

ある年の正月、この本を読んですごし、とても楽しかった。

 

「みみずのおっさん」(長新太 童心社 2003)

これは絵本。
長先生、最晩年の一冊。

「ミミズが主人公の絵本を書いてください」と、ある子どもにいわれて、描いたのがこれだと、なにかで読んだようなおぼえがある。
その子も、まさか口ひげを生やしたミミズがあらわれるとは思わなかっただろう。

その話の展開にはアゼンとさせられる。
最初読んだときは、見開きであらわれた地平線に呆然とした。

長先生の絵本は外国では売れないと、ある絵本編集者が講演会で話しているのを聞いたことがある。
そのときは、日本人でよかったなあと心底思ったものだった。

 

「おへそがえるごん」全3巻(赤羽末吉 福音館書店 1986)

赤羽末吉さんは、日本絵本界の巨匠。
とくに、昔話絵本が有名。

赤羽さんがどれほどすごいかは、たとえば「つるにょうぼう」(矢川澄子再話 福音館書店 1979)一作をみてもわかる。
この絵本は、昔話の「つるの恩返し」を絵本にしたもの。
主人公の男は、部屋にこもって機織りをしている鶴をのぞくのだけれど、どんなふうにのぞいているか、自分でちょっと想像してからこの絵本をひらいてみるといい。
こうきたかと、だれしもが思うはず。

「おへそがえるごん」は赤羽さんのオリジナル。
おへそを押すと口から雲をだす、かえるのごんが、父親をさがしている男の子けんと旅をするというストーリー。

この絵本を読んで、赤羽さんへのイメージが一新した。
こんなにチャーミングな絵本を描くひとだったとは。
ごんのすっとぼけぶりが、たいへん楽しい。

次回の「たら本」主催は、「ソラノアオ。」の天藍さんに引き受けていただきました。
よろしくお願いします。

 

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たらいまわし本のTB企画第40回 こたつで読みたいバカバカしい本

記事が消失しました。
再掲記事はこちら
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第40回たら本の予告

だいたい準備ができました。
うまくいけば、あしたにはアップできそう。

第40回のテーマは、「こたつで読みたい、バカバカしい本」
バカバカしい本が大好きなもので…。

興味のあるかたはご参加くださいませ。

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たらいまわし本の勉強

第40回目の、「たらいまわし本」(略して「たら本」)の主催者をやることになったので、少し「たら本」の勉強を。

「たら本」とは、毎回交代で主催者がテーマを決め、それにそったオススメ本を自分のブログで紹介し、主催者や参加者の記事にトラックバックしていく、というもの。

総元締めは、AZBlogのoverQさん。

記念すべき第1回は、2004年8月、「ダバダ~、愛の文学」。

ということは、たらいが回りはじめて、もう3年にもなる。
その間の開催回数は、39回。
すごい。

いままでどんなテーマが挙げられたかは、overQさんのブログをみれば一目瞭然だけれど、お勉強のため、ここにメモしておきたい。

「ダバダ~、愛の文学」
「納涼♪霊の文学」
「全作品を読みたいor読んだ作家は誰ですか?」
「秋の夜長は長編小説!」
「あなたが感銘を受けた本は?」
「今現在のあなたの棺桶本を教えてください。」
「20代に読みたい本は?」
「あなたが贈られたい(贈りたい)本はなんですか?」
「歴史もの・オススメ本!」
「映画になったら見てみたい」
「旅の文学!」
「爽やかな春に読みたい青春小説」
「美しく妖しく… 夜の文学」
「時の文学!」
「私の夏の1冊!!」
「自分が食べてみたいor美味しそう!と思った食べ物が出てくる本は?」
「子どもと本」
「心やすらぐ本」
「実は……こんな本を持ってるんです」
「これがないと生きていけない」
「教えてください!あなたのフランス本」
「サヨナラだけが人生か? グッドバイの文学」
「笑う門には福来たる! “笑”の文学」
「五感で感じる文学」
「『ドイツ』の文学」
「本に登場する魅惑の人々」
「ウォーターワールドを描く本」
「あなたの街が舞台となった本」
「酒と本」
「フシギとあやし」
「積読の山も誇りと本の虫」
「ねこ・ネコ・猫の本」
「悪いやつ」
「行ってみたいあの場所へ~魅惑の舞台」
「おすすめ! 子どもの本」
「少女の物語」
「犬にかまけて」
「「何か面白い本ない?」という無謀な問いかけに答える」
「夢見る機械」

ブログ名と運営者さんの名前は省略させていただきました。

こうしてみると壮観。
リンク切れもあるけれど、それよりまだつながっているものがこんなにあることに驚く。

テーマも、推理小説とかSFとかではなくて、ジャンル横断的なものが多い。
こんなところに、本好きの心意気を感じる。

第40回目のたらいは、いま手元にあって、現在準備中。
もう少々お待ちください。


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中をそうぞうしてみよ

福音館書店からでている雑誌「かがくのとも」の最新号(2008年1月号)は、佐藤雅彦とユーフラテスによる、「中をそうぞうしてみよ」。

雑誌といっても、福音館の児童雑誌は、つくりが雑誌っぽいだけで、ほとんど絵本と変わらない。
「中をそうぞうしてみよ」は、文字通りの内容。

ある物の写真があり、「中をそうぞうしてみよ」。
次のページには、ある物のレントゲン写真が載せられている、という趣向。

木でつくられた椅子があり、「中をそうぞうしてみよ」。
レントゲン写真には、無数のクギが写っている。
また、貯金箱。
なかには、硬貨のかたまりが。

驚いたのは、両端がそれぞれ赤と青になっている鉛筆。
その真ん中、赤と青が接している部分はどうなっているのか。
「中をそうぞうしてみよ」。

じつは、赤と青の芯は接していないのだ。

このとき思い出したのが、チェスタトンの「ポンド氏の逆説」(東京創元社 1977)。
この本のなかの一篇、「道化師ポンド」という作品で、ポンド氏はこんな逆説を披露している。

「この鉛筆を青い芯のほとんどなくなるところまで書きへらしますと、青味がかってはいるでしょうが割合に赤い鉛筆になるじゃありませんか」

青い芯と赤い芯ははなれているのだから、じっさいは「青味がかった赤」にはならないだろう。
チェスタトンは鉛筆をこわしてみたりしてみなかったにちがいない。

もちろん、事実とちがうからといって、この作品の価値が減じるものではない。
むしろ、チェスタトンが鉛筆の「中をそうぞう」した結果が、この作品だったのだ、と想像してみたい。
もしかしたら、チェスタトンも似たようなことをつぶやいていたかも。
「中をそうぞうしてみよ」。


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ビーストン傑作集

「ビーストン傑作集」(ビーストン 創土社 1970)

中島河太郎編著。

本自体は、多少でこぼこのある真っ黒な装丁。
それじゃ描いてもつまらないので、絵は箱を描いた。
緑のところは箱に巻かれた帯。
そこの惹句がなかなかすごい。

「わが国創作界の起爆剤であった!!」

と、大書され、つづけて、

「ビーストンの作品は、生まれたままの人間の憎悪、怨根、復讐、恐怖、闘争、罪悪が、何はばかるところなく描かれている。またそのゆるみない叙述は、初めの一行から最後の一行まで張りつめた鋼鉄の糸のようであり、彼のつくった人物は、鋭い火花がちるような会話を交わしながら、読者に息もつかせず頁から頁へと急がせる」

さらに、帯の背。

「恐怖・戦慄・結末の意外性!!」

中島河太郎さんの解説によれば、ビーストン作品はまず大正10年、「新青年」に訳出され、その作品は日本で大いに歓迎されたそう。

「創作探偵小説の勃興期に引き続いて翻訳された彼の作品が、その後の日本の探偵小説の性格や、斯界の動向にどれほどの刺激を与えたか、測り知れないものがある」
と、中島さん。

ところが、ビーストンの素性は、イギリスの作家だということくらいで、ほかはまるでわかっていないという。
ひょっとすると、最近の事典類には、なにか書いてあるかもしれない。
収録作は以下。

「マイナスの夜光珠」西田正治訳(大正10年3月「新青年」)
「悪漢ヴォルシャム」妹尾アキ訳(大正12年9月「新青年」)
「過去の影」妹尾アキ訳(大正13年1月「新青年」)
「人間豹」妹尾アキ訳(大正13年8月「新青年」)
「五千ポンドの告白」妹尾アキ訳(大正13年9月「独立」)
「約束の刻限」妹尾アキ訳(大正13年11月「新青年」)
「頓馬な悪漢」妹尾アキ訳(大正13年11月「独立」)
「パイプ」妹尾アキ訳(大正14年2月「新青年」)
「緑色の部屋」妹尾アキ訳(大正14年8月「新青年」)
「決闘家クラブ」横溝正史訳(大正14年10月「新青年」)
「廃屋の一夜」横溝正史訳(大正14年10月「新青年」)
「クレッシングトン夫人の青玉」西田正治訳(大正14年10月「新青年」)
「地球はガラス」妹尾アキ訳(昭和3年2月「新青年」)
「マーレイ卿の客」訳者不詳(昭和4年11月「新青年」)
「地獄の深淵」訳者不詳(昭和5年春「新青年」)
「幽霊階段」横溝正史訳(昭和8年5月「新青年」)
「霧雨の夜の唄」西田正治訳(昭和14年5月「新青年」)
「犯罪の氷の道」妹尾アキ訳(昭和4年「ビーストン集」所載)

ビーストンの作風は、とにかくサスペンスがあるということにつきる。
また、むやみにどんでん返しをする。
また、舞台的。

雰囲気は暗く、なんとなく城昌幸の短篇などを思い出させる。
訳が古いせいもあるだろう。

暗いというのは、夜の話が多いせいと、過去の悪事が露見するという話が多いせい。
これでサスペンスをつくりだしている。
また、不穏な雰囲気をだすのがとてもうまい。

これは中島さんも書いているけれど、ビーストンの書く話は同工異曲のものが多い。
道具立ては、犯罪といえば宝石泥棒だし、登場人物はしょっちゅう恐喝されている。
クラブとか、なにかの会合で登場人物が体験を披露するというたぐいの話も多い。
宝石の隠し場所まで一緒の話があるのだから、いいかげんだ。

上記の18編も、煎じ詰めれば4編くらいになると思う。
でも、どの作品も最後まで読ませる力があるのだから、そのサスペンス性とどんでん返しの力は侮れない。

以下、ビーストンの特長がよくでていると思われるものを。

「五千ポンドの告白」
クラブにやってきた、劇作家のウェストラム。
ビーアレジ劇場で「赤い凝視」という芝居をみていたが、面白くなく途中ででてきたという。
ところが、玉突場にいっていたバーバスカがもどってくると、じつは東インドドック街の貧民窟で親友と会っていた、と前言をひるがえす。
その親友、従男爵に育てられたものの、ずぼらのあまり追い出され、家に忍びこんでいろんなものを盗んでいたところ召使いにみつかり、殴って逃げ出したという経歴のもち主。
しかし、それは濡れ衣だとウェストラム。
金持ちの伯母が亡くなり、遺産を相続するために、ほんとうの犯人に告白させなければならない。

ここで、ウェストラムがいう。
「かりにバーバスカ君を犯人として、5千ポンドだすから告白してくれといったらどうするか…」
「じゃ、まず金をみせたまえというね」
と、バーバスカ。

ふたりの問答がつづき、よもやバーバスカがほんとうに犯人なのではと思わせたところで、どんでん返し。
この、どんでん返しも小技を効かせて二転三転する。
物語がクラブのなかだけで進行する、舞台劇風の作品。
本書中、一篇をえらべといわれたら、これをえらびたい。

「約束の刻限」
これは恐喝もの。
チェインズ刑務所からでてきたディパー。
当時、一緒に刑務所にいて、いまは羽振りのいいジャドソンに、刑務所にいたことを奥さんにばらすぞと脅す。
水曜の晩までに金を用意しようとジャドソン。

ディパーが去ると、入れ違いにローランズという客がくる。
ジャドソンは、秘密探偵(という訳だった)ローランズに、やはりおなじ刑務所にいたブランナの居所をさがさせていた。
ブランナはウェスト・ハムステッドで、妻や子と幸福に暮らしているという。
ジャドソンは、刑務所で乱暴者だったブランナに、差出人不明で一通の手紙をだす。

これを読むと、やっぱりビーストンは緊張感や不穏さをえがくことに長けているなあと思う。
緊張感は、恐喝というシチュエーションだけでなく、描写と、さりげなさから生まれている。
この話の落ちを書こうかどうか迷ったのだけれど、誘惑に勝てない。
えい、書いてしまおう。

水曜の晩は嵐。
待ち合わせの時刻に、ジャドソンは奥さんと一緒に自宅のバルコニーにいる。
そこに、大きな音が聞こえてくる。
ピストルの音じゃないかしら。
風がはげしいから、大きな木が根元から折れたんだろう。

「幽霊階段」
株の仲買人をしている〈私〉は、たまたまオリヴァーという客と知りあう。
オリヴァーの家には、大理石と真鍮でできた、周囲と不調和なほど壮麗な階段があった。
由来を近所で聞くと、オリヴァーは5年前、外国で階段をもとめたという。

ある日、私はオリヴァーに招待され家へ。
夜、物音がしたかと思うと、オリヴァーが階段を降りてゆき、私のことをじっと見たあと、その場にしゃがみこむ。
私は不気味に感じながらも滞在。
その後、3日間雨が降り続いた夜、階下から舞踏会の音楽が聞こえてくる。
階段に大勢の踊り手の幻影をみた私は、階段の途中で倒れている女の姿に名状しがたい恐怖をおぼえる。…

過去の悪事がばれるというシチュエーションの変奏として、記憶喪失ものがある。
この作品はそんな一篇。
さらに、ラストで変わったラヴストーリーへと物語はねじれ、不穏さを増している。

「霧雨の夜の唄
ある霧雨の夜、正体なく眠っているホームレスのゴッドマン。
目覚めると、なぜか立派な部屋にいる。
ご馳走をたいらげ、名刺から、自分はウォルター・ヘイマンという男になっているらしいと合点。
フェアリイ嬢さまがお待ちかねですと召使いにいわれ、会ってみるとフェアリイは目がみえない。
3年前にあなたに捨てられたけれど、財産も半年ほどしてわたしのものになったなどとフェアリイはゴッドマンをかきくどく。

そのあと、夜会服を着た男に会い事情が判明。
フェアリイはウォルター・ヘイマンという男とつきあっていたのだが、ヘイマンは大変な浪費家だった。
ウォルターはフェアリイのもとを去り、フェアリイは目が不自由になり、また遺産を相続した。
そのさい、ウォルターと結婚した場合は遺産を相続させないという条件がついていた。

そこでゴッドマンの出番。
夜会服の男は、ゴッドマンがもとは立派な紳士だったこと、声がウォルターそっくりなことなどをすでに調べあげていた。
男は、ゴッドマンがフェアリイと結婚し、田舎にひっこんでいてくれれば年500ポンドを渡そうと提案する。

上記の3作は、よく似た話がこの本のなかに収められているのだけれど、この話はそれがなかった。
その点で、ビーストンの異色作といえるかもしれない。

それにしても、中島さんの解説を読むと、ビーストン作品のどこが戦前の探偵小説に影響をあたえたのだろうと考えてしまう。
こういう道具立てと雰囲気を用いれば、予想外の結末にたどり着けると考えたのだろうか。

「別冊宝石」の世界探偵小説全集の広告をみていたら、第4集が「ビーストン・チェスタトン篇」だった。
いまでは考えられないカップリングだ。

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