米国人一家、おいしい東京を食べ尽くす

「米国人一家、おいしい東京を食べ尽くす」(マシュー・アムスター=バートン/著 関根光宏/訳  エクスナレッジ 2014)

外国人による日本見聞録が好きでよく読む。
どの作品も、自分たちがよく知っていると思っていることに、別の見方をあたえてくれる。
その文章は、たいてい簡潔で明快、そしてユーモアに富んでいる。

最近、この分野では、「英国一家、日本を食べる」(マイケル・ブース/著 寺西のぶ子/訳 亜紀書房 2013)が評判になった。
評判になったおかげだろう、続編も出版された。
読んでみたら、評判になるだけあって面白い。

面白かったと知人に話すと、二番煎じみたいなタイトルだけど、「米国人一家…」のほうが面白かったよ」という。
という訳で読んでみた。
なるほど、面白い。

カバー袖に書かれた紹介文によれば、著者は米国人のフードライター。
タイトル通り、本書は著者一家が東京で暮らしたときの、食生活を中心とした見聞録。
家族は、奥さんのローリーさんと、8歳になる娘のアイリスちゃん。
滞在期間は、ひと月。
7~8月の、夏の盛りのことだったよう。
著者とアイリスちゃんは、この滞在の前に、一度日本に旅行したことがあるようだ。

著者の日本語能力は、本人いわく「2歳児くらい」。
ひと月暮らしたのは、東京は中野にあるアパート。
1DKで家族3人暮らしていたというからすごい。
「毎日、夜になると僕たちはソファベッドを引き伸ばし、アイリスの布団を敷いて、コーヒーテーブルをキッチンに運んだ」

「英国一家」とちがうところは、著者が積極的に取材をしていないこと。
あくまで、生活の範囲内での見聞にとどまるところだ。
参考文献もちがう。
「英国一家」の和食レファレンスブックは、辻静雄の「japanese cooking:A Simple Art」
それにひきかえ、こちらはマンガ「美味しんぼ」(雁屋哲/作 花咲アキラ/画 小学館)だ。
横道にそれるけれど、著者による「美味しんぼ」についての魅力的な評言のひとつを引用しておこう。

「(「美味しんぼ」の主人公である)山岡が料理の世界に惹かれている理由のひとつは、人間関係を理解するより、食べ物の味や食感を理解するほうが、彼にとってはずっと簡単なことだからだ」

つまり、本書は「英国一家」にくらべると、高尚さについていささか劣る。
そのぶん、より親しみをおぼえやすい。
「英国一家」より面白いよと、本書を教えてくれたひとの気持がよくわかる。

もちろん、両書には共通点もある。
一番の共通点は、2つの家族とも、10歳くらいのお子さんを連れて日本にきていることだろう。
この年頃の、外国人の子どもがあらわれたら、日本人たるものつい親切にしてしまうことうけあいだ。

それにしても、欧米のひとたちは旅行に子どもを連れていくのが好きな気がする。
子連れの旅行はずいぶん苦労も多いと思うけれど。

全体的に、著者の東京での暮らしは申しぶんなかったようだ。
その好意的な書きぶりは、現実の東京ではなく、どこか別の惑星にある東京にいったのではないかといいたくなるほど。
以下、著者たちが出会った食べものや、訪れた場所を列挙して、本書の紹介としたい。
店名もたくさんでてくるけれど、わずらわしいのでほぼ略す。
有志は実物に当たってください。

お茶
「僕の母は、(お茶)はホウレン草のようなにおいがするといっていた」

著者は日本茶が好きだが、奥さんやアイリスちゃんは駄目のよう。
以前、日本を旅行したさい、著者とアイリスちゃんは京都の宇治にあるお茶の老舗を訪れた。
「あれから2年がたった今でも、僕が「宇治」という言葉を口にするたびに、アイリスはひどく怯えたような顔でこちらを見る」

ラーメン
「なぜラーメン店に(券売機が)多いのか。それは謎である」
ラーメン屋に券売機が置かれはじめたのは、ここ最近のような気がする。
それまでは、立ち食いそば屋にしかなかったように思うけれど、どうだろう。

「食券を買う列に並んでいて、どうしていいかわからないときは、値段と位置で判断すればいい。上のほうにある700円から1000円ぐらいのボタンを押せば、ほぼ間違いなくスタンダードなラーメンを食べることができる」

スーパー
外国のスーパーをのぞくのは楽しい。
著者の住んだアパートの近くには、「ライフ」というスーパーがあり、著者はよくそこに通ったもののよう。
「僕は暇さえあればライフに通った。ここで買い物するのが楽しくてしょうがないのだ」

「日本の野菜は嘘みたいに完全な形をしていて、見た目と同様に味もよい(ただし有機野菜は珍しいようだ)」

「でも、果物は輸入物が多く、値段が高くて味もいまいちだ」

また、著者は「冷凍コーナーでいちばんよく買ったのは氷だ」と書いている。
「東京の氷はすばらしい」
そうか、東京の氷はすばらしかったのか。

コンビニのおにぎり
「わずか1ドル50セントのコンビニのおにぎりのなかには、日本の食べ物と包装技術のすばらしさが詰まっている」

デパ地下
「そこはボルヘスの「バベルの図書館」を食品で再現したような空間だ」

朝ご飯
「和食は繊細で薄味だとよくいわれるが、丁寧につくられたシジミ汁は「旨味の爆弾」である」

納豆
「朝食のなかでも、味噌汁は西洋人にとっても取っつきやすく、なじみがあり、ほっとする食べ物だ。その対極にあるのは間違いなく納豆だろう」

「日本の主要な食品のなかでも、納豆の存在は西洋では特に知られていない。それは今後、何百年も変わらないだろうと思う。納豆はひどい臭いがするのはご存知だろうか。僕は納豆を特においしいともまずいとも思わない珍しいタイプの人間かもしれない。少しコーヒーのような味がすると思えるのだ」

洋食
「洋食は西洋の料理を日本風にアレンジしたもので、その多くは明治時代に考え出された。明治時代は、何世紀にもわたって鎖国を続けていた日本が海外から物や知識の輸入をはじめた時期であり、食べ物も例外ではなかった」

「ハンバーグ(ソールズベリー・ステーキにブラウンソースをかけたもの)、カレーライス、コロッケ、スパゲッティ・ナポリタンなどは、子供から大人まで広く人気がある。ただし、発想の元となった料理からはかけはなれていることが多く、西洋人にはそのよさが理解しにくい」

西洋人は洋食にたいして冷たいなあ。

パン
「日本の白パンは「食パン」と呼ばれ、ところどころに小さな気泡が入っている。ブリオッシュに似ていて、トーストにして食べるとおいしい」

湯葉
「ほんの少し醤油をつけて食べるのが最高だ。すりおろしたショウガや薄切りにしたネギを添えてもいい」

ジュンサイ
だれでも苦手なものはあるもので、納豆は平気な著者もジュンサイには閉口する。
「池でとってきた鼻水を食べているとしか思えない」

焼き鳥
「これほどまでにおいしい鶏肉は食べたことがない」
これは、ぼんじりのこと。

「アイリスと僕は、日本食のレストランを開くとしたら焼き鳥にしようと約束した。アイリスは「焼き鳥ディンドン」という店名まで決めている」

うどん
「アイリスと僕は、3つのめん類(うどん・ラーメン・そば)のなかでは、うどんがいちばん好きだ」

著者は勇気をだして立ち食いそばに挑戦する。

「僕は数日かけて店の様子を探り、前を通り過ぎるふりをして、メニューをちらちら読もうとした。うまく注文できなくて列を滞らせる外国人になりたくなかったし、ましてや、ほかの客はこれから出勤しようとしているのに、メニューについてあれこれ語る食通気取りも嫌だったからだ」

さらに、本書には著者が考案したうどんのレシピが記されている。

天ぷら
「つゆを吸っているが、まだわずかに衣の感触が残っているというタイミングで食べるのがいい。氷山にぶつかった船が、まだこの瞬間にはぎりぎり浮いているというのと似ている」

「かき揚げには滑稽さと崇高さが同居している」

たこ焼き
「たこ焼きは球形の食べ物で、なかにはゆでたタコが入っている。半球型のくぼみのある特別な鉄板焼きで焼いて作られる。デンマークに「エーブレスキーバ」というお菓子があるけれど、たこ焼きは見た目がエーブレスキーバそっくりだ。焼くための鉄板も似ている」

アイリスちゃんは、七夕の短冊に、「アイリスはたこ焼きが食べたい」と書いていたそう。
「その願いは幾度となくかなえられることになった」

和菓子
「和菓子は芸術性が高く、日本人がいかに、見た目やパッケージ、ことば遊び、贈答の習慣に重きを置いているかがよくわかる。そして、外国人があんこに耐えられるかどうかを試す究極のテストでもある」

「僕は、あんこに対する正当な評価を下した欧米人を大勢知っているし、その仲間入りができない自分のことを狭量な人間だと思っている。けれども、赤みがかったなめらかで甘いこしあんは、ビーンブリート(小麦粉で作ったトルティーヤに豆などの具材を乗せて巻いたメキシコ料理)の中身ではないけれども、とにかく量が多すぎる(僕の友人のレイチェルは日本で生活したことが何度もあるが、あんこをおいしいと思えるようになるまでに6年かかったそうだ)」

著者は、あんこは苦手だが、「ずんだ」は好きだという。
味覚とは不思議なものだ。

それから、築地でスシ、吉祥寺でステーキ、両国でちゃんこ鍋、宇都宮でギョーザ。
アイスを食べ、ケーキを食べ、キットカットを食べ、ハイチュウを食べ、「美味しんぼ」にでてきたうなぎ屋にいき、居酒屋にいき、お好み焼きをつくり……。
まだまだ紹介していない食べ物があるが、きりがない。

食べ物以外の、日本での生活についてもさまざまなことが書かれている。
日本といえば、まずトイレだ。
「アメリカでは個人の快適な暮らしのために多額のGDPを注ぎこんでいるのに、つまらないトイレしかないのはどういうわけだろう」

ラッシュアワー
「蒸して空気の悪くなった車内で幸運にも席に座れた人々は、その喜びを居眠りという形で表現する」

「しかし、降りる駅に着くときにはちゃんと起きているのはどうしてだろう」

キッザニア、ジブリ美術館、そして東京の公園
「僕がみたところ、東京の公園が汚くて見向きもされないのは、必要がないからのようだ」

東京の住所システム
「東京の住所のシステムは奇妙だ。あまりにも難解なので、江戸時代に外国からの侵入者をかく乱する目的でつくられたものだといわれても納得してしまうだろう」

カサ
「シアトルでは傘をさす習慣があまりない。傘をさしている人がいれば、観光客とすぐにわかる」

「一方、東京では、雨が降ったか降らないかもわからないような段階で、傘がキノコのようにいっせいに広げられる。最もよくみかけるのは、コンビニで500円で売られている透明なビニール傘だ」

似たようなことは、2人のフランス人女性(だったかな?)による日本見聞記、「トーキョー・シスターズ」(ラファエル・ショエル/著 ジュリー・ロヴェロ・カレズ/著 松本百合子/訳 小学館 2011)にも書かれていた。
――雨が降ってカサをさすのがそんなにめずらしいのかあ。
と、読んで思ったものだ。

意欲的、だが、単に大きいだけの建造物である東京スカイツリー
「漫画に出てくる悪の親玉が殺人光線を発射しそうな塔だ」

日本語
「カタカナの習得は、日本に行く旅行者の「やるべきことリスト」にのせておくべきだと思う。1週間かけてカタカナを習得すれば、商品名や、看板やメニューに書いてあることを読めるようになるからだ」

「以前、日本語教室に通っていたとき、となりの席に「Carl」という名前の男性がいた。このCarlという名前を日本語風に発音しようと思うと実に難しい。日本語では「r」と「l」の区別がないし、ふつうは子音をつなげて発音することもないからだ。――Carlという名前は、どんなにがんばっても日本語では「KAARU(カール)」と発音するしかない」

どうしてもたまってしまう小銭
外国に旅行すると瞬時に小銭の区別ができないため、どうしても大きなお金で買い物をしてしまい、小銭がたまっていく。
著者はためこんだ小銭を猫カフェでつかったとのこと。

温泉
外国人による日本見聞記では、温泉に入る記述が欠かせない。
日本にきて温泉に入らなかった外国人なんて、ひとりもいないかのようだ。
著者一家も、もちろん温泉に入っている。

本書の最初のほうに、「バカンス頭(ヘッド)」ということばがでてくる。
「仕事に飽きてバカンスに出かけることばかり考えて浮かれている人の心の状態」。
また、「目的地のよい面ばかりに目を向けて、悪い面には目をつぶる傾向」のことをいうそう。
著者は自分がバカンス頭であることをよく認めている。

でも、世の中にはバカンス頭で書かれたような、幸福感に満ちた本はなかなかない。
その点、本書は世にもまれな、幸福な一冊だといえるかもしれない。

作中、著者とアイリスちゃんはパンを食べるとき、トーストしてバターを塗り、海塩をかけて食べてるという記述があった。
真似してみたら、美味しかった。


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消せない炎

「消せない炎」(ジャック・ヒギンズ/作 ジャスティン・リチャーズ/作 田口俊樹/訳 理論社 2008)

去年の暮れ、手元にある未読のジャック・ヒギンズ作品を読破しようと志を立てた。
どれもまず面白いから、どんどん読める。
が、こんどは手元にない本が気になり、古本屋でみつけては買ってくる始末。
おかげで、ちっとも部屋が片づかない。

話はそれるけれど、ジャック。ヒギンズの本なんて、古本屋にいけばいくらでもみつかると思っていた。
ところが、そうではなかった。
さすがに代表作、「鷲は舞い降りた」(菊池光/訳 早川書房 1997)はよくみかけるけれど、それ以外はほとんどみかけない。
あんなに人気があったのにと思うと、なんともさびしいかぎりだ。

それはともかく。
――自分はどのヒギンズ作品を読んでいないのだろう?
そう思って、調べていたら、
「消せない炎」
という作品をみつけた。

なんと、児童書だ。
いったいヒギンズは、どんな児童書を書いたのか。
知りたくなり、すべてのヒギンズ作品の読書予定をとばして、図書館でこの本を借りて読んでみた。

児童書といっても、本書はヤングアダルト向け。
内容は、15歳の双子の姉弟が国際的陰謀に巻きこまれるという冒険小説。
主人公が10代というだけで、やっていることはいつものヒギンズ作品とそう変わらない。
ただ、児童書らしく活字が大きいのがなんだか妙だ。

共著者のジャスティン・リチャーズは、TVドラマ「ドクター・フー」などの脚本を書いたひとだそう。
では、ストーリーをみていこう。

まず、プロローグ。
とある石油貯蔵施設に2人の男が侵入。
2人はある液体サンプルを入手し、脱出。
警備員に気づかれた2人は、脱出時石油貯蔵庫を爆破する。

本編に入り、15歳の双子の主人公、姉のジェイドと弟のリッチが登場。
ジェイドはからだをきたえるのが好きで、リッチは読書家。
かれらの母親であるサンドラ・チャンスが亡くなってしまい、ちょうど葬儀の最中。

アメリカで長くはたらいていたサンドラは、右側通行にすっかりなじんでしまっていた。
そのため、反対側をみず、交通事故にあってしまった。
サンドラは2人の子どもを連れて、地元であるマンチェスター郊外に引っ越してきたばかりだった。

その母親の葬儀のさなか、ひとりの男があらわれる。
40歳くらいの、大きな、もの静かな男。
男は、リッチとジェイドに、自分はきみたちの父親だと名乗る。
2人は仰天。
自分たちに父親がいるとは知らなかった。
父親と名乗る男――ジョン・チャンスも、自分に子どもがいるとは知らなかったという。

ともかく、ジョンは2人を引きとると宣言。
ただ、現在かなり面倒な仕事をかかえている。
それに、アパートはとても狭い。
だから、今学期が終わるまで、寄宿学校に入ってもらいたい。

ジョンの提案に、2人は猛反発。
でも、きょうのところはジョンのアパートに。

それからのジョンの行動は、いかにも怪しい。
夜中、電話がかかってきて外へでかける。
電話機には変な箱がついている(のちに盗聴防止用のスクランブラ―とわかる)。
ゴミ箱に突っこまれた封筒の宛名は、ヘンリー・レシターという別人の名前だ。
自分たちの父親は、本当にジョン・チャンスなのか。
リッチとジェイドは怪しむ。

次の晩も電話がかかってきて、ジョンはでかける。
リッチとジェイドは、ジョンのあとを尾ける。

ところで、この作品は3人称多視点だ。
だから、悪者たちの行動もえがかれる。
リッチとジェイドは、このとき敵方の女性マグダに尾行されていた。
2人は結果的に、父親の居場所を敵方につたえる役割を果たしてしまう。

ジョンがやってきたのは、くず鉄置場。
そこに大型の青いヴァンがあらわれる。
銃をもった男たちが降り立ち、父親を拉致して去っていく。

ジェイドとリッチは警察へ。
父親が誘拐されたと訴える。
が、ジョン・チャンスなどという人物はいないと巡査部長にいわれてしまう。

アパートにもどり、どうしたらいいか2人が話しあっていると、血まみれの男があらわれる。
父の友人で、フィリップと名乗る血まみれの男は、「サンプルをどこかに隠して、きみたちは逃げるんだ」と、息も絶えだえにいう。
ジェイドもリッチも、サンプルなんて知らない。
当惑していると、男たちが襲撃してきて、銃撃戦。
サブマシンガンまで撃ってくる。
2人はなんとかアパートを脱出して――。

さて。
これだけ紹介しておいてなんだけれど、この作品が面白いかと問われたら、うーんと唸らざるを得ない。
大変なスピードで、次つぎと出来事が起こるのは、後期ヒギンズの作風。
でも、出来事が次から次へと起こるだけでは作品にはならない。
そこには、出来事を貫くなにかがなければならないのだけれど、そのなにかがとぼしいと感じられる。

たとえば、突然あらわれたリッチとジェイドの父親、ジョン・チャンスは、いつ2人の母親であるサンドラと出会って別れたのか。
2人のなれそめが作中で語られるのかと思ったら、語られない。

また、サンドラはなぜ2人の子どものことをチャンスにいわなかったのか。
いわなかったことが今回の事件に関係があるのだろうかと思ったらない。
今回の事件について、ジョンもサンドラも個人的なかかわりをもっていない。
これが、「出来事が次つぎと起こるだけ」と感じさせる大きな理由だろう。

ただ、訳者あとがきによると、本作はシリーズ化されているらしい。
だから、こういったことは、これから語られるのかもしれない。
少しずつ、シリーズが進むごとに、登場人物に厚みが加えられていくのかもしれない。

本作品の、事件の背景も簡単に記しておこう。
リッチとジェイドの父親は、政府の特殊な部署ではたらいていた。
今回の任務は、クレジキスタン石油会社(KOS社)の内偵。

KOS社のあるクレジキスタンは、元はソ連の一部だった。
産油国ではないが、KOS社はパイプラインのリース契約から収益を得ている。
経営者の名前は、ヴィクター・ヴィシンスキー。

チャンスは仲間とともに、ロンドン郊外にあるKOS社の極秘研究所に侵入し、サンプルを入手したのち、施設を爆破。
これが、プロローグ。
爆破のため、もはやサンプルはチャンスが入手したものしか残っていない。
そこで、悪だくみに必要なサンプルをもとめて、KOS社はチャンスを拉致し、リッチとジェイドを追いかけることになった。
一方、チャンスが所属する部署も、血まなこになってサンプルをさがすことに。

このあと、リッチとジェイドはクレジキスタンにおもむき――敵側につかまり連れていかれるのだが――そこで大暴れする。

一般小説の書き手が児童書を書くと、たいていうまくいかない。
本書もそうだし、エルモア・レナードの、「ママ、大変、うちにコヨーテがいるよ!」(高見浩/訳 角川書店 2005)もいまひとつだった。
成功例としては、カール・ハイアセンの「フラッシュ」(千葉茂樹/訳 理論社 2006)が思い浮かぶ。
成功した作品は、ほかにはなにかあるだろうか。
一体どうしてうまくいかないのだろうか。

それから。
日本の児童文学にはうといのだけれど、冒険小説は書かれているのだろうか。
登場人物が擬人化された動物ではなく、ファンタジー色もそう強くはなく、主人公の少年少女が現実世界のなかで適度に能力を発揮し、適度に活躍する――。
マンガではなく児童文学で、そんな作品は書かれているのだろうか。


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