Japanレポート3.11

「Japanレポート3.11」(ユディット・ブランドナー/著 ブランドル・紀子/訳 未知谷 2012)

本書は、2011年3月11日に起こった、東日本大震災の被災地を題材としたルポルタージュ。
原書の刊行は2012年。
まず、カバー袖に載せられた、著者の履歴を。

《1963年オーストリー、ザルツブルグ生まれ。ウイーンで日本語を学ぶ。オーストリーのラジオを中心に活躍するフリージャーナリスト。1987年に初来日。2009年、2011年には名古屋市立大学客員教授として招かれている。》

著者の立場がどういうものかは、巻末の「日本語版へのあとがき」に端的に記されているので、引用したい。

《私の国オーストリーでは1978年11月5日、原子力発電反対者は国民投票で50.47パーセントの過半数を占め、下オーストリー州のツエンデンドルフに造られたただ一基の原子炉の運転を阻止した。そして1999年「核の放棄」が憲法で制定されて以来、反原子力政策が行使されている。ツエンデンドルフは現在、太陽光発電フォトボルテックの巨大な施設と、研究開発センターとなっている。》

《私は日本の人々が心配だ。原子力は危険であり、コントロールが不可能である。人類はいまだ原子力の安全性を確保していない。津波の心配も大きい日本のような地震国にとって、原子力発電は考慮の余地すらない廃棄すべきものと私は思う。》

本編では、著者は自分の主張を語ることはない。
被災地におもむき、現地のひとの声を拾い上げ、さまざまなひとたちにインタビューをこころみている。
記述は、ジャーナリストらしく具体的。
冒頭で、現場をえがき、その後に説明というスタイル。
最初に、予断を書くということはしない。
現在形を多用して、臨場感をだす。

全体の印象は散漫。
散漫なのは、著者の動機がみえないせいだろう。
一体なぜこのひとは被災地を取材しているんだろうということが、よくわからないのだ。
もう少し、自分を前にだしてもよかったのではないか。

しかし、そうではないかもしれない。
刊行当時は、動機など語る必要もないことだったのかもしれない。

1章ごとの分量の少なさも、散漫さに輪をかけている。
全体に、広くて薄い本といえるだろう。
では、著者がどこでどんなひとから、どんな話を聞いたかについて、簡単に追っていこう。
取材は、震災から半年後の、2011年9月から11月ごろにおこなわれたようだ。

東京、青山のレストランで、市川勝弘さんの作品をみて、話を聞く。
市川さんは、静岡県出身の写真家。
奥さんが、福島第一原発から16キロの地点にある楢葉町の出身で、市川さんは楢葉町の日々の生活を写真におさめていた。
この日、著者がみせてもらったのは、市川さんの写真をつかった、8分間の映画、「日常」。
市川さんはその後、写真集「FUKUSHIMA 福島県双葉郡楢葉町1998-2006」(市川勝弘/著 カワイイファクトリー/編集 トゥルーリング 2011)を出版し、また各地で展覧会を開いたと、これは追記から。

2011年10月、名古屋でおこなわれた陸前高田市の「太鼓フェスティバル」。
このフェスティバルは25年の歴史をもち、この年はじめて他の市でおこなわれたという。
この章の冒頭はこうだ。

《一番手の太鼓の響きと同時に、隣りの若い女性は泣き始めた。》

霞が関でハンガーストライキをしているひとたちを取材。
2011年9月11日、被災からちょうど半年後、座りこみをはじめたひとたち。

原子力工学者小出裕章氏にインタビュー。
小出さんの勤める実験所がある、大阪府熊取町の描写はこう。

《熊取に着いたとき、私達はまるで流刑地に来てしまったような気がした。ここにあるのは、駅の他には、マクドナルド、よくあるコンビニエンスストア、銀行、バスの停留所とタクシー乗り場だけである。実験所は駅から数キロ離れているので、私達はタクシーで、町と村を混ぜあわせたようなところを走り続ける。日本にはよくある、大きな町をばらばらにして、田舎の真ん中にポンと移したようなちぐはぐな風景。》

原発事故に対するヨーロッパの反応についても書いている。

《この小出裕章氏へのインタビューは、2011年10月半ばに行われた。福島の原発事故から早7ヶ月以上の月日が流れていた。ドイツとイタリアとスイスは、すでに脱原発の国家指針を示し、殺気立つ国民の感情をやわらげた。これによって、2011年3月の大震災特ダネで、俄然ふくれあがったヨーロッパメディアの日本への関心は再び薄れ、新しい中近東の混乱へとその対象は移行した。》

著者が小出さんにする話題には、こんなのも。

《よりによって日本は、過去二度にわたって原子爆弾を投下された過酷な経験をもつ唯一の国でありながら、原子力に依存している。「広島」と「長崎」があったのに、この国には54基もの原子炉がある。それについての釈明もあるが、それはなんとも理解しがたい。》

「私にも解りません」と、小出さん。
小出さんの説明のあと、著者は続ける。

《日本ではこのように、原子力を「悪の原子爆弾」と「正しい原子力発電」との二通りに区別した。戦後数十年間、世界中の核兵器の全廃をめざして運動をしてきた広島と長崎の被害者たちでさえも、ずっとこの「原子力の平和利用を認める」という立場をとってきた。しかしこの福島の事故以来、彼らの中にも考えを変える人々が出てきている。》

南相馬市を取材。
駅前通りの魚屋の奥さんに話を聞く。

《この魚はどこで仕入れたかを、繰り返し繰り返しお客に説明しなくてはいけない、と彼女はため息をつく。》

《国や東電に対しての憤りは? 憤り? 魚屋の奥さんは頭を振る。いいえ、憤りはありません。彼女はすっかりあきらめているようだ。そして、私たちの周りには彼女の夫以外は誰もいないのに、声を低くして言う。強制避難させられて、ホテル住まいをしている人たちは、凄くいい待遇を受けている! ここに留まったり、自主避難した人たちは、何一つ援助をもらえない。》

南相馬市長、桜井勝延さんにインタビュー。
桜井さんは、2011年3月14日、You Tubeを通して救援を訴えたことで名高い。
南相馬市は、子どもたちにとって安全な場所ですか? という著者の質問に、市長は即答できない。

《「私達はまだ、3月11日以前と同じ状況に達しておりません。残念ながらそういうしかありません」》

福島市にあるシュタイナー幼稚園を取材。

《2011年8月、ここ(渡利)では、毎時5・4ミリシーベルトの放射線量が計測された。年間の最高放射能許容量は、1000マイクロシーベルトか、1ミリシーベルトと定められている。》

《現在この幼稚園には、9人の子供が通園している。以前は23人いた。残りの子供たちは、福島県外の安全な土地か、少なくとも福島市外へ、家族と一緒に避難している。この福島市民の県外移住者数は膨大だ。2011年11月までに、約6万人の人々が県外に避難した。》

幼稚園の責任者、門間さんは、吾妻小富士のふもとへ幼稚園を移転しようと決心。
あそこは放射線量が毎時0・12マイクロシーベルトで、こことはくらべものにならない。
しかし、門間さんは経済的なリスクを負うことになる。

《彼女は自分の意思でこの土地を離れるのだから、経済的な負担はすべて自分で負わなければならない。》

2011年10月末。
再び、霞が関へ。
以前きたときより、ずっと活気がある。
編み棒ではなく、指をつかって編みものをしている女性グループがいる。
ここで、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の佐藤幸子さんと待ちあわせをして、国会議事堂の会議室でインタビュー。

岩手県山田町へ。
県営病院は津波の被害を受け、1階は水浸しに。
医師と看護婦は病人を屋上に誘導し、全員無事救助された。

数か月後、病院は閉鎖。
臨時病院が、町の小高い場所に開設されたが、新しい病院には入院施設がない。
そのため、平泉宣先生は、毎日長時間かけて訪問診療を続けている。

山田町にある龍昌寺は、最初の避難場所となった。
3月11日から、約80人が寝泊まりし、そのうち20人ほどは、9月なかばまでここで暮らした。
龍昌寺の清水誠勝禅師はいう。

《「我々は、山田町の何処にでも見られる、掲示板や旗に書かれた『励ましの言葉』にはもう飽き飽きしているのだ。何時までも続く『負けるな! ガンバレ! あきらめるな!』という言葉ばかり、もう聞きたくない」》

山田町の沼崎喜一町長に取材。

《「私どもは自宅を失い、土地も危険区域に指定されて、そこに再建することは許されないわけで、国に対して、私達の土地を買い上げてくれるように要請しました。しかし国は、それは市町村の問題だとして、要請を却下しました。町は最終的にその要請を受け入れましたが、もうひとつ問題があります。それは土地の価格評価です。津波以前の価格か、それともそれ以後の価格か? 津波の後、土地の価格は当然下がりました。私どもは、津波以前の価格で買い取って欲しいと要請しましたが、政府はそれをあっさりと却下し、津波以後の価格で買い取るように我々に指示しました!》

埼玉県加須市で、双葉町の井戸川克隆町長にインタビュー。

《「2013年3月12日、5時44分、双葉町全員を緊急避難させるように、政府から勧告を受けました。即刻私は、このことを住民に通告しました。》

役場と住民は、埼玉県加須市の廃校に移った。
当初は1300人、現在は560人がここで共同生活をしている。
緊急避難でバスを十分調達できなかったため、自分の車で逃げた町民が多い。
それがかえって幸いして、今は車があるためにうごきやすくて助かっているという。

以前、政府や東電に疑義をしめすと、「あなたは怖がりですね」と逆にいわれたと井戸川町長。

《「今は限りなく残念です。もっと以前から私の心配をはっきり提示すべきであったし、事故に備えて、住民の緊急避難と、急場をしのぐ生活が出来る場所を用意しておくべきだった」》

多くのひとたちが、いつの日かまた双葉町に帰れることを願っていると町長が話すのを聞き、著者はショックを受ける。

《「私はこの町の最高責任者として、彼らに、もう二度とあそこへは帰れないことを、率直に言うことが出来ません」》

いまは避難所となった校舎のなかを見学。
著者は、双葉町で理髪業をいとなんでいた、60歳半ばの男性に、「一日中、何をして過ごしていますか?」とたずねる。

《彼は困ったように笑いながら「朝飯、昼飯、夕飯」と言って涙ぐむ。》

つい、たくさん引用してしまった。
このあとも、精神科医を取材したり、名古屋市立大学の生徒と「3・11」についてのゼミをおこない、その模様を記したり。

この本には、不思議なページがある。
著者は、小説家の村上春樹さんにインタビューしたらしいのだが、そのページにはこう書いてあるのだ。

《村上春樹氏の意向により、日本語の訳文は掲載できません。》

なぜ、村上さんは訳文の掲載に同意しなかったのだろう。
原書には、インタビューが掲載されているはずだから、熱心なファンは訳して読んでいるかもしれない。

それから。
本書の続編、「フクシマ2013」がことし出版された。
タイトルからみて、震災の2年後に取材をしたものだろうか。
この本はまだ読んでいない。
いずれ、読んでみたいと思っている。



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「ニッポン百名山よじ登り」「西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中」

続きです。
クレイグ・マクラクランさんの本、残り2冊。

「ニッポン百名山よじ登り」1999(1998)
「西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中」2003
カッコ内は原書の刊行年。

まず、「ニッポン百名山よじ登り」から。
――百名山を100日で登りきる。
という目標を掲げ、みごとそれを成し遂げた冒険の記録。

山登りをするのだから、いままでのように単独行は禁物。
一緒にいってくれるパートナーをみつけなければいけない。

《「どうせ一緒に行ってくれる人が見つからないわよ。そんなアホ、他にいないわ」》

と、奥さんに嘲笑されるが、相棒は無事みつかる。
滞日経験があり、日本語も堪能な、ニュージーランド人のトラヴ。
トラヴの上司は著者なので、休暇をとるのになんの不都合もない。

それから、奥さんを説得。
息子たちの日本語習得のいい機会だ、きみのご両親だって孫に会えると大喜びするはずだ、それに留守中に台所をリフォームできるぞ……。

今回の冒険には、さまざまなスポンサーもついた。
日本航空が航空運賃を、ミズノが必需品を、ダイハツが車を、コスモ石油がガソリンを、それぞれ負担してくれた。

出発は5月。
まず、体力づくりをかねて、西日本の低めの山を制覇。
つぎに、雪が溶けたであろう、そしてまだ梅雨に入っていないであろう、東北と北海道の山を制覇。
最後に、本州中部に引き返し、北・中央・南アルプスを踏破し、最後は富士山でしめくくる。
――というのが、だいたいの計画。

スタートは、屋久島の宮之浦岳から。
と思っていたら、早くもつまずく。
屋久島いきのジェットホイルが満員で乗れない。
5月19日に屋久島から出発すると、マスコミにも発表してしまったのに。

そこで、計画を変更。
まず、5月18日に、宮崎で霧島と開聞岳に登る。
で、5月19日の朝、ジェットホイルに乗り屋久島にいき、その日のうちに宮之浦岳に登る。
これなら、マスコミにもいいわけが立つだろう。

というわけで、百名山踏破の旅は、まず霧島からスタート。
霧島を制覇すると、ダイハツの車に乗り、開聞岳をめざす。
高速道路をつかえば早いが、節約のため一般道で。
すると、4時間もかかってしまう。
開聞岳を登りはじめたのは、午後5時20分。
なんとか頂上までいき、降りてくる。

食事、風呂、寝床の予定は立てていない。
指宿で食事し、温泉に入ると9時すぎ。
屋久島いきのジェットホイルは、翌朝7時半にでる。
ならばと、フェリーターミナルの近くの空き地にいき、午前0時ごろ野宿する。

とまあ、初日から大変な強行軍。
こんな調子で、西日本にある9つの山を7日間で制覇。

相棒のトラヴは、空軍に入隊した経験がある。
そこで、悪口をいいあえる軍隊は士気が高いということを学んだ。
逆に、口数の少ない軍隊はいい状態とはいえない。
この論理を応用し、2人は軽口をいいあいながら旅を続ける。

著者はニックネームをつけるのが好きだ。
ダイハツの車には、ピートと名づけた。
「ニッポン縦断歩き旅」のときは、カサに水玉模様を意味するスポットという名前をつけた(茶色い水玉模様のカサだったので)。
ピートには、カーナビがついていて、これには「マム」(お母ちゃん)と名づけた。
ああしろこうしろと、うるさく指図するからというのがその理由。

1998年当時はカーナビがまだ普及していなかったよう。
こんな説明がされている。

《全地球位置把握システム。一般にはカーナビゲーションとよばれるテクノロジーで、ダイハツが親切にも車に搭載してくれた。…マムはいつでも現在地を把握し、行き先のデータを入力すれば道先案内人になる。ダッシュボードに取りつけられた小型テレビのようなもので、スクリーンに地図が表示され、先にある曲がり角を矢印で示し、音声による指示も飛ぶ。》

また、今回の旅では、著者は携帯電話をもっていた。
しかし、これがつながらない。

《1997年6月の時点ではほとんどといっていいほど、大都市を一歩離れたら、携帯電話は通話不能に陥った。》

「ボブ」というあだ名をつけた連中もいる。
これは、著者たちのゆく手をはばむ連中すべてにつけたあだ名。
ちなみに、女性の場合は「マリーン」という。
どういう連中が、著者たちの邪魔をするのか。

《道路工事現場で、旗やオレンジ色のライトを手に、しみ一つない制服姿で十分おきに、車の流れを中断する警備員。白いミニバンで前後を確認せずに割り込み、時速二十キロでのろのろと五キロも走り続ける農夫。客の車を出すために、目の前に飛び出してくるガソリンスタンドの店員。見事なまでに整備されたスカイラインを、ゲートやチェーンで通行止めにする輩。》

特に最後の、「スカイラインで邪魔をするボブ」は、本書で何度もお目にかかる。
100日で百名山踏破をめざす著者たちにとって、夜討ち朝駆けは当たりまえ。
だが、スカイラインの入り口は、しばしばチェーンで封鎖されている。
そこで、実力行使。

《トラヴが目を凝らして、柵用の太い針金で繋がれただけの個所を見つけた。となれば、奸知にたけたニュージーランド人にとっては、子どもだましの策にすぎない。ひょいっと何度かねじったら、チェーンはあっけなく外れた。幸いにも、目撃者はいない。わたしはゆっくりと、アクセルを踏んだ。あとですばやく逃走できるよう、トラヴがゆるくチェーンをつなげる。こうしてピートは、めでたくスカイラインに侵入した。》

また、雨だから登山道は閉鎖だというボブを、「みにいくだけだから」といいくるめる。

《百日で百名山を踏破するには、嘘も方便を地でいくしかない。係員はうまく言いくるめられて、四百円といういかにも法外な通行料を徴収し忘れた。》

このほかにも、日本語が読めないふりをして進入禁止の場所を突破したり、道を通過したりと、著者たちは外国人であるメリットを最大限に利用する。
友人たちが開催してくれるパーティーに参加するために、高速道路をつかったものの渋滞に巻きこまれたときは、緊急用レーンを通った。

《ピートはまわりじゅうから『てめえ、この野郎』という目で見られたが、われわれは声を張り上げてオーストラリアの国民歌『旅にはスワッグをもって』を歌い、騒々しく東京入りし、待ちに待った祝賀パーティーに出席した。》

なぜ、オーストラリアの歌をうたうのかというと、ニュージーランドの名誉を傷つけないため。
よく隣国の歌を知っているものだ。
しかし、こういった記述を読んで、スポンサーたちはどう思っただろう。
それが、いささか心配。

目標を達成するためには、天候にもかまっていられない。
登った山の3分の1は、天候不順で山をみずに終わったというのだから、なにをしているんだかわからない。
吾妻山など、台風のさなかに登っている。

《草も木もない吹きさらしの山頂で、われわれも吹き飛ばされる。雹(ひょう)と強風のせいで、行く手が見えない。
 風雨から逃れ、岩陰に隠れた。
「台風が接近中なんだな、きっと」
 トラヴがビデオカメラに話しかける。思わず言い返した。
「接近中じゃない。来たんだよ! 台風の真っただ中に決まってるだろ!」》

このあと、著者たちはその日のうちに、なんと磐梯山まで踏破する。

著者たちの山登りのスタイルは、まず車でいけるところまでいく。
その後、徒歩で山頂をめざす。
ロープウェイがあっても、それには乗らないというスタイル。

百名山のなかには、頂上までスカイラインが通っている山がある。
たとえば、大台ケ原山。
伊吹山。
美ヶ原。
その味気なさに、著者は落胆を隠さない。
さらに、美ヶ原の頂上はテレビ塔やアンテナが林立し、さながらSF映画のようになっている。
また、乗鞍岳はどこの山よりゴミが目立ったそう。

《ゴミの量で乗鞍岳に匹敵するのは、富士山だけである。》

北アルプスでは、尾根伝いに7つの高峰を踏破した。
さすがに野宿はできないので、山小屋に泊まる。
7月も終わりごろで、山小屋は満員。
洗濯物の干し場所で、たたかいが演じられる。

《日本人は礼節を重んじることで有名だが、中年女性は礼儀などかなぐり捨てて、ところ構わず肘でかきわけ、わたしを乱暴にはねつけて、唯一空いた場所を確保した。しかしわたしは、日本人よりはるかに背が高い。おかげでたるきに、下着を干すことができた。》

《だが、腕を伸ばしたときに、肋骨を肘で突かれて反射的に腕を下ろし、ある女性の脳天を直撃するという失態を犯した。女性は顔をしかめ、何度か頭をゆすったが、いいわよと手を振ってわたしの謝罪を受け入れてくれた。》

本書は、著者のシリーズ4冊のなかでは、一番にぎやかだ。
マスコミにとりあげられたために、著者たちはどこにいっても声をかけられ、にわか人気者になる。
著者の友人たちも、ゲスト登山者として、あらわれては去っていく。
それに、車で移動しては山を登る毎日は、じつに忙しい。

このあとも、日々ボブとたたかいながら、あんまり車内が汚くなったので、ホームセンターに衣装ケースを買いにいったり、そうしたら、うっかりカメを2匹買ってきてしまったり、ビデオカメラを置き忘れてあわててとりにもどったり、ピートが車上荒らしにあったりと、さまざまな出来事が巻き起こる。
読み終わると、だれにともなくお疲れ様といいたくなる。


「西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中」
本書が、いまのところクレイグ・マクラクランさんの、日本の旅シリーズの最終巻。
原書の刊行年がどこにも書いていない。
日本オリジナルの出版なのかもしれない。

以前、著者は四国八十八か所巡りをした。
でも、それはもともと著者のアイデアではなかったという。
最初にそれをいいだしたのは、友人のポールだった。
ポールは、ハワイ大学の先生。
普段は、ワゴン車に寝泊まりしているという人物。

2000年、著者はポールの力添えもあり、ハワイ大学に留学。
MBA修得のコースを受講するため――著者はこんな冒険もするのだ――妻子とともに1年間ハワイで暮らした。
ハワイに到着した著者は、さっそくポールにこういわれる。

《「よお、クレイグ。いつか巡礼をやろうって言ったよな。どの巡礼だよ?」》

四国巡礼にいけなかったポールに、著者は、「いつか別の巡礼にいこう」と返事をしていたのだった。
四国以外の巡礼といえば、西国巡礼しか思いつかない。
生返事をする著者に、「よーし、おれにまかせとけ」と、ポールは胸をたたく。
2人は大学で、西国巡礼について情報収集。
さらに、アジア研究科が奨学資金もみつけてくれ、軍資金のめども立つ。
そのほかにも、さまざまな障害が立ちはだかるのだけれど、それを克服して――。

2000年7月19日。
著者とポールは、和歌山県にある西国巡礼第一番の札所、青岸渡寺(せいがんとじ)に立った。
出発がまたしても夏なのは、2人ともからだが空いているのが夏しかなかったため。
あとで、日本の夏がこんなに暑いだなんて思わなかったと、文句をいうポールに、著者は弁解。

《「日本で夏に旅するたびに、もう夏にはぜったいどこも行かないぞって誓うんだけど、旅を終えるとついつらいいやなことはきれいさっぱり忘れてしまって、いいことしか心に残らない。で、また新たに計画を立てて、ワクワクするんだ。まあ、言ってみれば、酒飲みといっしょだよ。」》

四国巡礼が、弘法大師の足跡をたどるのに対し、西国巡礼は観音さまの奇跡をまつった寺をたどる。
伝説によれば、西国巡礼の創始者は花山天皇とのこと。

この日は、青岸渡寺の宿坊に宿泊。
翌朝、小さすぎる白衣を着こみ、友人がつくってくれた「南無大師遍照金剛」と書かれたバックパックを背負って、菅笠をかぶり、さあ出発。

初日の目的地は40キロ先の熊野本宮大社。
山中を歩いていくのだから大変。
途中、寄った売店で、おばさんがニュージーランドのことを知っていたことに、著者は驚く。
7年前、日本縦断したときは、ニュージーランドの説明をしなければならなかった。

《もしだれか、日本人の国際意識を高めようと努力した人がいたとしたら、よくやりましたとほめてあげたい。》

この日は、学校の軒先で野宿。
めざす2番目の札所は、紀三井寺(きみいでら)。
えっちらおっちら歩いていき、2泊目は、ある村のひとたちの親切で、公民館に泊まることができた。
さらに、「生ける観音さま」キヌエさんのお家でお風呂に入ることもできた。
このとき、ポールは自分がでたあとの湯船の湯を抜いてしまう。
著者とちがい、ポールは日本語が話せないし、日本には不案内だ。

キヌエさんは、日々の不満を著者たちにもらす。
木をみんな切り倒して、杉を植え、森に住んでいた生きものたちの棲み家を奪ってしまった。
子どものころは、冬になるとひざまで雪が降ったものだけれど、いまじゃ雪なんてめったに降らない。
いまは、日本は世界一の長寿国だって自慢するけど、また50歳にもどるんじゃないかって思う。
うんぬん。

そんなキヌエさんの不満を聞くことで、歩き巡礼のわれわれも、すこしはお返しができたのではないかと著者は思う。

また、えっちらおっちらと歩いて、とある町の川岸に到着。
ここで寝ようとしたところ、地元のひとたちに、うさんくさい目つきでみられる。
はたして、お巡りさんがあらわれ、交番で弁明するはめに。
その後、野球グラウンドのダッグアウトを寝床に。
すると翌朝、様子をみにきた2人組のために起こされる。

《「嘘だろ! 信じられん! この国じゃあガイジンは、どこに行ってもじゃま者扱いされるのかよ。痛くもない腹を探られるのか、えっ?」
「おおっ、ポールくん、やっとわかってくれたようだねえ」》

ようやく紀三井寺に到着。
そのころには、ポールは足を痛めてよろよろ。
手押し車を押して歩く、90歳のおばあさんにも抜かれてしまう。
自転車に乗った高校生にもからかわれる。

《「何言ってんだかわかんないけど、松尾芭蕉って言葉だけはわかったよ。おれのこと、松尾芭蕉って呼んでからかったんだぜ、きっと」》

そこで、著者は今後、ポールのことを「芭蕉」と呼ぶことに。
足を痛めた「芭蕉」の気をそらすために、著者はビートル・ゲームをはじめる。
これは、だれがたくさんワーゲン・ビートルをみつけるかを競うゲーム。
ビートルなら、新しくても古くてもかまわない。
2人は道中、このゲームをずっと続ける。

途中、出会ったおじさんに道を訊く。
おじさんは、安全な迂回路を教えてくれる。
でも、100年前の巡礼者が、こんな遠回りをしたはずがない。
おじさんだって、自分で山道を歩いたわけではない。
著者たちは、山道をゆき、ぶじ踏破。
こんなことは、以前にもたびたびあった。

《「安心ばかり優先させてたら、新しいことに出合えない。やっぱり冒険に挑戦して、新しいことを見つけないと。日本人に一言注意するとしたら、これだな」》

巡礼姿のせいもあるのか、2人はよく食べものをもらう。
「なんだかおれたち、日本の女の人たちに見はられているみたいだな」と、ポールがいうくらい。

《「日本は女性がいなけりゃ、世界で孤立してるよ」
 「ホント、そのとおり!」》

巡礼を続け、大阪で著者は妻子と再会。
奥さんの実家でひと休み。
ポールは、医者に足を診てもらう。
すると、ポールの足は包帯でぐるぐる巻きに。

《「おい、どうだった?」
 「美人だが、意地悪だ!」
 「だれが看護婦のことを聞いた? 足のぐあいはどうだって聞いてるんだよ」》

ポールは医者に、「歩行禁止」をいいわたされてしまう。
思案のすえ、自転車屋にいき、一番安いママチャリを購入。
最初のうち、自転車に乗ったのはポールだけ。
著者は頑固に歩き続けていたが、片方が自転車で片方が徒歩というのは、やはり具合が悪い。
これまた思案のすえ、著者も中古の自転車を購入。
このあとは、自転車巡礼珍道中となる――。

自転車は威力絶大。
だが、下りはいいが、上りはつらい。
だいたい、寺というのは山にある。
下り坂を快走することを想像しながら、自転車を押して山を上る。

それに、自転車はどうしてもパンクする。
著者の自転車も、ポールのも、一度パンクした。
自転車屋さんでパンクを修理してもらっていると、この店のおじさんは英語ができて、「ところで、おたくたち、どうして巡礼を?」と、直接ポールに訊いてくる。
面と向かってそう訊かれたポールは、ことばにつまりながらこうこたえる。

《「えっ、ええっと、それは……日本を知るいい方法だと思ったもんで」》

ポールの返事に、著者は同感。

《日本を知る方法。じつに的を射た答えだ。いい方法どころか、巡礼ほど日本を深く知る方法はないのではないか。並みのガイジンがまず見ることのない日本を、じっくりと見られる。日本人ですら見ることのない日本、と言ってもいい。》

さて。
2000年の日本はどうだったか。
京都タワーで、「通行人の観察タイム」としゃれこんだ著者は、こう報告。

《西暦2000年の日本は、オレンジ色やブロンドの髪の毛と、真っ黒な肌と、意味もなく高い靴がはやっていた。シルバーのアイシャドーをぬりたくった、ガングロと呼ばれるミニスカート姿の女の子たちが、ヒールが十五センチもある靴をはいて四苦八苦しながら、よろよろと通りすぎる。どこを見ても、携帯電話だらけだ。》

しかし、清水寺ではテレホンカードが売られているところが面白い。
これが西暦2000年ということだろう。
しかも、売店で売っているのではない。
本堂にNTTのブースがあり、清水寺の写真が印刷されたテレホンカードを2人の女性が、「テレホンカードいかがですかぁ?」といいながら売っているのだ。
この光景をみたポールは、「NTTの寺かよ、ここは!」と、あきれる。

こういう記述があるからだろう。
この章の終わりには、編集部による、清水寺擁護のための註がついている。
でも、2人が文句をいったのは、清水寺ばかりではない。
たとえば、竹生島の記述はこうだ。

《宝厳寺(ほうごんじ)の拝観料徴収係は高校野球のテレビにくぎづけで、ほとんど画面から目を離さずに、わたしと芭蕉が差しだした八百円の拝観料をもぎとった。納経所の料金係も、納経料の六百円をひったくるようにして受けとり、ぞんざいに寺号を書く。竹生島は、「効率優先」というスローガンを絵に描いたような島だ。》

サービスエリアで一夜を明かしたときは、著者は同じく一夜を明かすドライバーたちに注目する。

《すこし前の日本には、駐車場にとめた車の中で夜を明かすドライバーなどいなかった。しかし西暦2000年のいま、駐車場で一晩明かすドライバーは、驚くほどふえた。》

《日本の田舎には客不足を嘆く旅館がごまんとあるが、それは現代の旅行者の要望を満たしていないからだろう。新ミレニアムのいま、日本では旅行といえば「安上がり」があたりまえになった。それなのに旅館は相変わらず、国民の金回りがよかった十年前の高い値段をいっこうに下げようとしない。》

このあとも、銭湯の番台に10代の女の子がいてうろたえたり、あやうく芭蕉とはなればなれになりそうになったり、ゴルフウッドをもつ観音さまに祈りをささげたり、「おれたちのように巡礼をしようと思いたったガイジンはいねえよなあ」といったりしながら、2人の旅は続く。

最後に。
まとめとして。
外国人による日本探訪記は、たいていの場合、批評性とユーモアのバランスがいい。
批評性は――そしてユーモアも――、著者が外国人であるという、そのことから生じる。
つまり、体験がこめられている。

だから、記述は具体的。
げんなりするような紋切型にはならない。
なっても、そううるさいものにならない。
具体的な記述が、結果として批評性を生んでいる。
つまり、外国人による日本探訪記には予期せぬ批評性があり、それが読んでいてもっとも楽しいところだ。



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