昭和な街角

「昭和な町角」(火浦功/著 毎日新聞出版 2016)

本書は、火浦功の単行本未収録作品をあつめた、短編集。
まだ、こんなに未収録作品があったのかと驚く。
収録作は以下。

「ただのバカ一代」
「聞いた話」
「終わる日」
「アモルフの棲む街」
「花の遠山署シリーズ キャロル・ザ・ウェポン」
「明るい世紀末のすごし方 ブロークン・ハーティッド・シティ」
「STUDIO」
「発見された妻の日記 閉じこめられて」

「ただのバカ一代」は、たしか「奥様はマジ」(角川書店 1999)に収録されていたように記憶している。
そのときのタイトルは、「父カエル」ではなかったか。
いま手元に本がなくて確認できないけれど。

以降の7編は、単行本未収録作品。
「聞いた話」は、本書で3ページ。
ショートショートというより、小噺といった風。
七面鳥のバカさかげんについて語られている。

「終わる日」
この作品も短い。
本書で7ページ。
タイトル通り、学生の〈ぼく〉の視点から、世界が終わる前日を抒情的に書いたもの。
なにかヤングアダルト向きのアンソロジーにでも収録されたらいいと思う。

「アモルフの棲む街」
アメリカを舞台にした伝奇小説といったらいいか。
未完。

「花の遠山署シリーズ キャロル・ザ・ウェポン」
警察ものの一篇。
特徴のあるキャラクターが多数登場し、これからというところで中絶。
惜しい。

「明るい世紀末のすごし方 ブロークン・ハーティッド・シティ」
本書でもっとも分量が多く、ちゃんと完結している、まとまった作品。
三十代なかばの3人の男。
かれらがまだ若かったころ、一緒に遊んでいた直子という女性がいた。
が、直子は突然3人の前から姿を消す。

久しぶりに再会した3人は、直子のことを語りあう。
その後、3人のうちのひとり、映画の小道具係をしている香坂は、仕事ででかけた尾道で直子をみたと知らせてくる。
そこで、3人のうちのもうひとり、本編の主人公であるイラストレーターの克也は、仕事をほっぽりだして尾道に向かうのだが――。

ジャック・フィニィ風の作品といったらいいだろうか。
懐古趣味と、憧れの女性さがしというストーリーがうまく溶けあっている。
なにか手がかりがみつかったと思ったら、はぐらかされる、火浦作品にしてはめずらしく粘りのある感じも良かった。

「STUDIO」
作家が作品を書く様子を、映像作品の撮影風に書いた作品。
これは紹介が不可能だ。
実物をみてもらうしかない。
しかし、よくまあこんなことをするなあ。

「発見された妻の日記 閉じこめられて」
タイトル通り、妻の日記風の一篇。
カナダへスキー・ツアーにでかけた作家夫婦。
が、吹雪のなかでホテルに閉じこめられてしまい――。
見事にいいかげんなショートショートだ。

さて。
火浦功は、ものすごく変な語り口をもつ作家だ。
それについて、前にも書いたことがあるような気がするけれど、また書いておきたい。

まず、前提として。
火浦作品は、笑いの要素が多い。
本書では、「終わる日」と「アモルフの棲む街」以外がそう。
笑いの要素が多いというと、ユーモア小説を思い浮かべるかもしれないが、火浦作品はそれとはちがう。
語り口がちがうのだ。

一般的に小説は、語り手が、視点人物を通して物語を語るものだ。
視点人物が、ほかの登場人物やものごとにたいし、批評的なことばづかいをすることで笑いを得る。
たいていのユーモア小説は、このパターンだろう。

また、笑いをもとめる小説は、しばしば語り手と視点人物が分離する。
語り手が、登場人物にたいし批評的になり――つまりはツッコミを入れて――笑いをとる。
これも、よくあるパターン。

このパターンの場合、登場人物の行動なり言動なりを、語り手が指摘することで、はじめて笑いが起こる。
登場人物が、わざわざ笑いを狙って、なにかをいったりやったりすることはまずない。
ところが、火浦作品はそれをするのだ。

「発見された妻の日記」には、こういう一節がある。
(この作品の場合は、1人称なので、語り手と視点人物は一緒)
作家の奥さんが、ミミズがのたくったような字で書かれた作家の原稿をみて、こういう。

《「つまり、これは『シャイニング』のパロディだったのね」》

「これ」というのは、この作品をさしている。
登場人物が、自分が登場している作品について言及しているのだ。
誰に向かって言及しているかといえば、読者に向かってだ。
そして、そう言及しながらも、ストーリーは平然と進行していく。

作中で、叙述のレベルが変わる。
これが、火浦作品の不思議な語り口だ。
この芸は、できそうでできない。
やっても、たいていは失敗する。

ここで、漫画のことを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。
漫画には、よく作中に作者が登場して、自作に言及して笑いをとるといった技法がある。
(余談だが、漫画と劇画のちがいは、作者が作中に登場するか否かで、おおざっぱに分けられる。これはたしか「漫画原論」(四方田犬彦/著 筑摩書房 1999)に書いてあったと思うけれど)

漫画は、こんな風に語り手が登場人物として登場しやすい。
が、同じことを小説でやるのは至難の業だ。

「明るい世紀末のすごし方」のなかで、3人組のうちの2人、克也と山岸が、おかしな店名について話す場面がある。
そこで、克也のセリフの末尾にこんな注釈がつけられる。

《「去年、長野のスキー場へ行った時に見たんだけど、旅館で『電気屋』ってのがあった」(筆者註=実話である)》

これも、漫画ではやりやすいだろう。
でも、小説ではどうだろうか。
さらに、この作品には作者と思しきSF作家も登場する。
こういうことをして、作品世界がこわれないというのは、じつに不思議なことだ。

「叙述のレベルを変える」という技法だけで書かれたような作品が、「STUDIO」。
作者は、「犬だった男」という小説を、さまざまなバリエーションで語り続ける。
映像作品の撮影風に書かれているこの作品のいいかたでは、「テイクを重ねていく」。
毎回、語るたびに、ページの外から――カメラの外からではなく――ストップがかかり、そのたびに作者は文句をいいながら、別の話をつくっていく。
そのうち、作者がいなくなる。
すると、字幕があらわれる。
字幕は、登場人物のように、読者に向かって語りはじめる。
くり返すけれど、よくまあこんな作品を書いたなあ。

作品の途中で、叙述のレベルを変えるのはむつかしい。
それをすると、語り手の信用が落ちる。
リアリティを失い、作品の底が抜ける。
いいかげんに書くというのは、むつかしいのだ。

作品世界を維持しながら、叙述のレベルを変えるにはどうしたらいいか。
そこで、語り手が登場人物化し、キャラクターは類型的で、場面場面はありきたり、随所に登場人物にたいしてツッコミを入れながら、それを非常にゆるい文章で記す――という作風が生きてくる。
ギャグにして抒情という、不思議な作品があらわれる。

しかし、こういった作品は、そうそう書き続けることはできないだろう。
だいたい、自作にたいしてあまり批評的になりすぎると、話が進まなくなってしまう。
進まないどころか、書きだす前からくたびれてしまうのではないだろうか。

最後に、火浦作品でもっとも読みやすいものはなにかと考えてみた。
ナンセンスな短編として、もっとも完成度が高いのは「奥様はマジ」だろうか。
また、「俺に撃たせろ」(火浦功/著 徳間書店 2001)も捨てがたい。
両書とも、シリーズものではないので、それだけで楽しめる。
それに、見事なまでにバカバカしい。
もちろん、これは褒め言葉だ。



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