レクイエム

「レクイエム」(アントニオ・タブッキ/著 鈴木昭裕/訳 白水社 1998)

副題は、「ある幻覚」
作者アントニオ・タブッキはイタリアの作家。
タブッキは好きな作家で、だいぶ読んだ。
でも、読むはしから忘れてしまう。
どんな話か、まるでおぼえていられない。
だから、ひとにすすめにくい。

おぼえていられないのは、こちらの記憶力の悪さもあるだろうけれど、そればかりとはいえない、と思う。
タブッキ作品の特徴は、細部は鮮明だが全体はあいまいといった、夢の雰囲気に似たところだ。
おかげで、夢をおぼえていられないように、読んでもおぼえていられない。

タブッキ作品のなかには、「インド夜想曲」(須賀敦子/訳 白水社 1993)や、「遠い水平線」(須賀敦子/訳 白水社 1996)のように、主人公がなにかをさがして、あちこちでかけていくパターンの作品がある。
本書も、そのパターンの一冊。
(このパターンにあてはまらない作品もある。傑作、「供述によるとペレイラは……」(須賀敦子/訳 白水社 2000)はそうではない)

でも、このパターンで書かれた作品に共通することとして、まず主人公がなにをさがしているのかが、いまひとつわからない。
それから、主人公がどんな素性のもち主なのかもわからない。
さらに、あちこちにでかけて、さまざまなひとと出会うのだけれど、その出会いに脈絡があるのかないのかわからない。
加えて、ラストは夢オチのようだ。

では、つまらないのかといえば、そんなことはない。
素晴らしく面白い。
涼しげな文章で書かれた、夢のような雰囲気がいい。
一冊が薄いのもいい。
思うに、タブッキ作品が好きなひとは、この雰囲気が好きなのではないだろうか。

本書、「レクイエム」を読むのは、これで3度目くらいだと思う。
でも、なにしろ忘れているものだから、今回も面白く読むことができた。
またすぐ忘れてしまうだろうけれど、おぼえているうちに、少しメモをとっておきたい。

まず、本書の冒頭に、「はじめに」という、作者の断り書きがある。

《七月のとある日曜日、舞台は人けの絶えた猛暑のリスボン。この物語は、「わたし」を名乗る人物がこの本に託して奏でずにはいられなかった、一曲の「鎮魂歌(レクイエム)」である。》

このあと、本書は作者の母語であるイタリア語ではなく、ポルトガル語で書かれたと続く。
次に、あわられるのは、「この本で出会うことになるひとびと」というページ。
登場人物が、登場した順番に書かれていて、忘れっぽい読者にとっては大変ありがたいページだ。
(同様の趣向はウェストレイクの「踊る黄金像」(木村仁良/訳 早川書房 1994)でみたことがある。作風は全然ちがうけれど)

数えてみると、登場人物はぜんぶで23名。
さらに、ここに書かれていない人物が最後に登場する。
訳者あとがきでも明かされているし、わかったところでどうということもないから名を明かしてしまうと、最後の登場人物はポルトガルの名高い詩人、フェルナンド・ペソアだ。

さて、いよいよ作品へ。
冒頭の1段落目で、以下のことが語られる。
〈わたし〉は、20世紀の偉大な詩人と待ちあわせをしていること。
その詩人は、約束の12時にこなかったこと。
詩人は、もう死んでいること。
だから、約束した12時というのは、幽霊があらわれる夜の12時だったかもしれないこと。

あらためて読み直すと、作品の前提にあたる要素が、1段落目に無駄なく語られていることがわかる。
この手際には、驚嘆せずにはいられない。
これで、本書は夜の12時までの物語だということがわかる。
最後に偉大な詩人があらわれることがわかる。
そして、〈わたし〉と死者たちをめぐる物語だということがわかる。

本書は、〈わたし〉がさまざまなひとたちと出会う物語だ。
桟橋から、公園にきた〈わたし〉は、その最初の人物である麻薬中毒の青年と出会う。
〈わたし〉は青年とことばをかわすが、その会話にカギカッコはつかわれない。
そのため、静かな雰囲気がする。

青年は、〈わたし〉にほどこしをもとめる。
《100エクスード札っていかしてるでしょ。ほら、このペソアの顔がのっているやつ。》
と、青年のことばで、ペソアについて言及される。
本書でペソアについて言及されるのは、ここだけのような気がする。

次にあらわれたのは、「足の悪い宝くじ売り」。
ペソアの「不穏の書」(作中では「不安の書」)に登場する人物だと、〈わたし〉は教えてくれる。
(この本は邦訳がある。「〈新編〉不穏の書、断章」(フェルナンド・ペソア/著 澤田直/訳 平凡社 2013)
この作品には、死者だけでなく、架空の人物もあらわれるのだ。
足の悪い宝くじ売りとの会話のなかで、〈わたし〉は、この作品の仕掛けについて大事なことをいう。

アゼイダンにある友だちの農園で休暇をすごしていて、大きな樹の下でデッキチェアに寝そべりながら「不安の書」を読んでいたら、いつのまにかここにきていた――。
さらに、〈わたし〉はこうもいう。

《今日はぼくにとって、とても不思議な日なんです。夢を見ている最中なのに、それが現実のように思えてくる。ぼくは記憶のなかにしか存在しない人間にこれから会わなければなりません。》

〈わたし〉はタクシーに乗り、途中でお酒を買い、汗をかいたのでジプシーの老婆からシャツを買う。
このジプシーの老婆は、〈わたし〉に運命を教えてくれる。

《いいかい、お若いの。このままじゃいけないよ、現実の側と、夢の側、二つの側で生きることなどできっこない。》

それから、この門の向こうにも〈わたし〉がさがしているひとがいる、と老婆はいう。
門の向こうは霊園。
そこで〈わたし〉は亡くなった友人のタデウシュに出会う。
ダデウシュと〈わたし〉は、やはりもう亡くなっているイザベルという女性をめぐって因縁があった。
〈わたし〉は、今夜9時にアレンテージョ会館で待っていることをイザベルに伝えてくれるように、タデウシュにいう――。

タブッキの作品は、こんな風にストーリーを要約しても仕方がない。
とはいうものの、こうしてみると、この作品がどれほどたくみにつくられているかがよくわかる。
ペソアに会うというストーリーを主軸として、〈わたし〉の人生の断片をからませた本作は、なかなかに複雑だ。
ただ、〈わたし〉が次つぎとだれかに出会うという、表面上は単純な形式をとっているから、読んでいるあいだは、そんなことはみじんも感じることはない。

このあとも、〈わたし〉は若い姿であらわれた亡き父親に会ったりと、郷愁に満ちた彷徨を続けていく。
後半、アレンテージョ会館でイザベルを待ちながら、ボーイ長とビリヤードをする場面は、そこだけでひとつの短編になりそうだ。

タブッキはなぜ、この作品をポルトガル語で書いたのだろう。
外国語は、母語にくらべると格段に抽象度が高い。
実感に欠け、浮いた感じがする。
この実感に欠けた感じがほしかったのではないかと、一応想像してみる。
しかし、そうではないかもしれない。
ただ単に、ペソアをめぐる物語を、ペソアがつかったポルトガル語で書いてみたかっただけかもしれない。

敬愛する文学者についての作品を書いたひとはたくさんいるだろう。
伝記とか、そのひとの作品を下敷きにするとか、勝手に続編を書くとかいう風に。
でも、これほど優雅な手つきで、作品化したひとが、ほかにいるだろうかと思う。

本作の登場人物、タデウシュとイザベルは、作者の死後刊行された「イザベルに」(和田忠彦/訳 河出書房新社 2015)に再び登場する。
こちらは、まだ読んでいない。
いや、読んだけれど、忘れてしまったのかも。


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